ジャパンダイジェスト
独断時評


混乱!NSU裁判と記者席

「Blamage(大失態)!」4月中旬、こんな言葉がミュンヘンのローカル紙の一面に掲載された。

延期された初公判

バイエルン州上級地方裁判所は、4月17日からミュンヘンで開くはずだった極右テロリスト・グループ(NSU=国家社会主義地下活動)に対する初公判を、3週間にわたり延期したのだ。この公判は、犯行グループの唯一の生き残りであるベアーテ・チェーペや、NSUの活動を支えた支援者に対して初めて刑事責任が問われる重要な裁判である。

NSUに射殺されたトルコ人やギリシャ人ら10人の遺族たちは、法廷で事件の解明が少しでも進むこと、そして被告たちに厳しい判決が下ることを期待していた。それだけに、公判をめぐる紆余曲折が遺族たちに与えた失望は大きい。なぜこのような事態が起きたのだろうか。

締め出されたトルコのメディア

事の起こりは、バイエルン州上級地方裁判所が裁判を傍聴する記者席の配分を行った際に、被害者の大半がトルコ人であることに配慮せず、事務的に処理しようとしたことだ。トルコでは、この事件に対する関心が非常に高い。しかし、トルコのメディアが気付いた時には、50人分の記者席は申し込んだ順番に割り当てられ、1席も残っていなかった。あるトルコの新聞は、記者席の配分の開始を伝える裁判所のメールを、ほかの記者よりも20分遅れて受け取ったと主張している。さらに一部のドイツ人記者が、裁判所の広報課から、ほかの記者よりも早く「まもなく傍聴希望者の募集が始まる」という「予告」を受けていたこともわかった。

トルコでは「外国のメディアを差別する措置だ」として、怒りの声が強まった。同国の新聞社だけでなく政府も、トルコのメディアに裁判を傍聴させるよう求めた。

犠牲者の大半がトルコ人だったことを考えれば、彼らが怒ったのは、もっともである。さらにNSU事件は、通常の刑事事件とは異なる。捜査当局は、一連の殺人事件を極右による計画的なテロとは考えず、外国人の犯罪組織の抗争という見込み捜査を行った。このため、11年間にわたって犯人グループが野放しにされ、被害者が続出した。連邦刑事局、憲法擁護庁などの捜査機関にとって、戦後最大の不祥事の1つである。世界中が注目しているこの事件の裁判で、トルコのメディアが締め出されたのだ。

連邦憲法裁に提訴

ドイツ連邦政府もトルコとの外交関係の悪化を懸念して、同国のメディアが傍聴できるよう配慮することを希望した。だが同裁判所のマンフレート・ゲッツル裁判長は、規則の変更を拒否。その理由は、ドイツが法治国家であり、司法の独立を重視していることである。裁判所が外国政府やメディアの圧力に負けて、傍聴に関する規則を変更した場合、「法の独立が侵された」と批判される恐れがあったためである。

このため、トルコの新聞社は「記者席の割り当て方法は、外国のメディアを差別するもので、憲法違反」と主張し、カールスルーエの連邦憲法裁判所に提訴。憲法裁は4月12日に原告の主張を認め、バイエルン州上級地方裁判所に対し、トルコのメディアに最低3席を与えるか、記者席の配分をやり直すように命じた。

しかし、憲法裁の決定が下ったのは金曜日。日本ならば週末返上で働くところだが、ドイツの裁判所職員は週末に仕事はしない。4月15日の月曜日から初公判の期日までは、2日しかない。バイエルン州上級地方裁判所は、準備のための時間が足りないと判断してか、初公判を5月6日に延期した。4月17日の初公判へ向けて心の準備をしていた遺族たちは、傍聴席をめぐる事務的なトラブルのために裁判が延期されたことで失望しているに違いない。

遺族たちの苦悩は続く

遺族たちの中には、公判によって家族が殺された日の記憶がよみがえると考えて、心の重荷に苦しんでいる人々もいるだろう。遺族たちは、「殺されたトルコ人は犯罪組織の一員ではないか」と考えた警察によって、執拗に尋問された。被害者が犯人扱いされたのである。今なお怒りに震える遺族たちにとっては、初公判が3週間延長されたことは、「精神的な拷問」がさらに続くことを意味する。

トルコのメディアが公判を傍聴できるようになったことは喜ばしい。しかし、今回の混乱によって、バイエルン州だけでなく、ドイツの国際的なイメージに傷が付いたことは間違いない。バイエルン州上級地方裁判所は、多くのトルコ人がNSU事件の犠牲になったことに配慮して、初めからトルコのメディアのための席を確保しておくべきだった。連邦憲法裁判所から命令されて、初めてトルコのメディアに傍聴させるというのでは、あまりにも情けない。

もちろん司法の独立は尊重されるべきだが、裁判官と言えども社会の構成員であることには変わりない。市民感情や、国際関係を完全に無視して良いというものではない。

ドイツ人の悪い点の1つは、法律や規則を重視するあまり、感情への配慮が欠ける場合があることだ。記者席をめぐる今回の茶番劇は、そのことを露呈したと言えるのではないか。裁判所には猛省を促したい。

3 Mai 2013 Nr.953

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 11:06
 

メルケルとサッチャー

ヴェルト紙一面を飾ったサッチャー氏の訃報
ヴェルト紙一面を飾ったサッチャー氏の訃報

1979年から90年まで、英国で女性として初めて首相を務めたマーガレット・サッチャーが、4月8日に87歳で死去した。サッチャーは、労働組合や野党だけでなく、自身が率いる保守党内の反対派とも真っ向から対決することを辞さなかった。このため彼女は、「鉄の女(Iron Lady)」と呼ばれていた。  

ドイツのアンゲラ・メルケル首相も南欧諸国の市民やメディアから「鉄の女」と呼ばれることがあるが、2 人の女性首相の間には、かなり大きな違いがある。

サッチャーは、自由主義を重視する経済学者フリードリヒ・ハイエクとミルトン・フリードマンに傾倒していた。具体的には「小さな政府」を実現するために、政府支出と社会保障の削減、補助金の廃止、減税、民営化と規制緩和を徹底的に推し進めた。  

サッチャーは、「政府が経済活動に介入せず、需要と供給に基づく市場原理に任せることが成功の鍵だ」と考えた。彼女にとって、社会的平等を目指し、富者が貧者に手を差し伸べることを重視する社会主義は、悪の思想だった。例えば1970年代の英国では、小学校が児童に無料で牛乳を飲ませていたが、サッチャーは教育相だった時にこの制度を一時的に廃止した。このため、彼女は英国のメディアから「Milk snatcher(牛乳泥棒)」と呼ばれ、批判された。サッチャーにとっては、政府の補助金や社会保障サービスは、国民が政府に依存する心を育て、自助努力を弱める「悪弊」だった。彼女は「社会などというものはない。あるのは個人と家族だけだ」と言ったことがある。  

サッチャーは上層階級ではなく、食料品や雑貨を売る店の経営者の娘として生まれ、人一倍努力することによって、初の女性党首、女性首相の地位にまで上り詰めた。彼女の一生は、「戦い」の連続だったと言える。首相になってからは、毎日4時間しか睡眠を取らなかった。このため、英国の特権階級やブルジョアジーにとっては「異端児」だった。  

サッチャーは1987年にある雑誌とのインタビューの中で、「市民は自分の心配事や問題を解決するために、自分で責任を持って対処しようとせず、政府と社会におねだりしてばかりいる」と不満をぶちまけたことがある。  

その意味でサッチャーは、現在ネオリベラリズム(新自由主義)と呼ばれ、米国と英国で主流となっている経済システムの生みの親の1人であった。1986年に導入した「金融ビッグバン」によって、金融業界の規制を大幅に緩和したことは、英国で銀行・保険などの金融サービスが主要産業となり、製造業の比率が相対的に低下する原因の1つとなった。  

英国では、サッチャー政権下で社会の所得格差が急激に広がった。その状態は今も続いており、「富裕層がどんどん富を蓄え、貧困階級がますます貧しくなる格差社会の基礎を築いた」として、この女性宰相を批判する声は後を絶たない。  

これに対し、ドイツの「鉄の女」メルケルは、サッチャーほど戦闘的ではない。正面衝突よりも対話と合意を重視する。サッチャーのように自由市場経済に心酔する政治家ではない。英国の鉄の女とは異なり、歯に衣を着せない挑発的な発言は避けようとする。  

第2次世界大戦後の西ドイツの経済システムは、企業間の自由競争を重視しながらも政府が一定の枠を設け、社会保障制度によって困窮した市民を救済するためのセーフティーネットを準備する。ドイツ人は、「社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)」と呼ばれるこの経済システムを重視しており、メルケルもこの点を変えようとはしていない。サッチャーが社会保障制度を目の敵にしたのとは、大きな違いだ。  

またドイツの経営システムは、英国と違って勤労者の代表との合意を重視する。例えばドイツの法律は、規模の大きな企業に対し、事業所評議会(Betriebsrat=労働組合と同じ機能を果たす組織で、企業ごとに設置されている)、つまり従業員の代表を取締役会のお目付け役である監査役会(Aufsichtsrat)に参加させることを義務付けている。この制度のために、ドイツでは労働争議のために失われる時間が、世界で最も短い国の1つとなっている。英国では考えられない制度だ。メルケルは、ドイツ国民がこうした枠組みを守りたいと考えていることを知っている。  

もちろん、ドイツでも統一前に比べると所得格差が拡大していることは確かだ。ドイツで、サッチャー流の改革を目指したのは、「アジェンダ2010」によって労働市場と社会保障改革を断行したシュレーダーである。シュレーダーは、企業の社会保障コストや税金の負担を減らすことにより企業競争力を高め、今日のドイツ経済の繁栄の基礎を作った。しかし、一方では社会保障サービスの削減によって、旧東ドイツを中心に所得格差が広がったことは間違いない。このため、シュレーダーは左派勢力から批判されて、2005年に政界を去った。メルケルはシュレーダーが敷いた線路の上を走っているのだが、改革を始めた本人ではないので、彼ほど社会の批判の矢面には立っていない。  

社会主義を敵視していたサッチャーは、社会民主党員シュレーダーがサッチャリズムに似た改革を実行し、ドイツの競争力を英国に比べて大幅に高めたことについて、草葉の陰で目を丸くしているに違いない。

19 April 2013 Nr.952

最終更新 Sonntag, 21 Juli 2013 01:04
 

福島事故後の日本とドイツ(2)

前回、このコラムで福島第1原発の炉心溶融事故について「このような重大事故が祖国で起きたことの『重さ』を、事故から時が経つにつれてますます強く感じる。除染は遅々として進まず、多くの市民が故郷を奪われたままだ。フクシマは終わっていない」と書いたところ、日独にお住まいの何人かの読者の方々から「同感だ」というご意見を頂いた。多くの日本人が、今なおこの事故に衝撃を受け、沈痛な思いを抱いていることを感じた。

2022年末までに原発を全廃へ

atomkraft? nein danke
ATOMKRAFT? NEIN DANKE(原子力? いいえ結構です)

私は2000年からドイツの原子力やエネルギーに関する問題について取材、執筆してきたが、福島事故後にドイツ人たちが行った決断には驚かされた。日本から約1万キロメートルも離れている経済大国が、事故からわずか4カ月で「2022年末までにすべての原発を廃止する」という法律を連邦議会と連邦参議院で可決したのだ。一方、当事者である我が国では、事故から2年以上経った今もエネルギー政策の進路が確定していない。日独のエネルギー戦略の違いは、事故から時間が経つほど、際立っていく。

ドイツは、物作りと貿易に依存する工業先進国の中で、福島事故をきっかけとしてエネルギー政策を急激に転換し、脱原子力の「締切日」を確定した唯一の国である。この国は、福島事故を「対岸の火事」ではなく、自分たちにも関わる出来事と考えたのだ。

福島事故の約2週間後に、保守王国バーデン=ヴュルテンベルク州で行われた州議会選挙では、緑の党と社会民主党(SPD)が圧勝し、60年間にわたって単独支配を続けたキリスト教民主同盟(CDU)が惨敗した。その原因は、シュトゥットガルト駅改築工事をめぐる論争だけではなく、福島事故をきっかけに市民が原子力に「ノー」という明確な意思表示をしたからである。産業立地として重要なバーデン=ヴェルテンベルク州は、電力の約50%を原子力に依存していた。そのような州で、緑の党の議員が首相の座に就いたのは、「革命」である。

メルケル政権への批判

もちろんドイツにも、「メルケル政権の決定は拙速だった」という意見はある。原発を運転している大手電力会社4社の内3社は、「メルケル政権と州政府が原子炉を停止させたのは違法だった」と主張し、損害賠償請求訴訟や違憲訴訟を起こしている。

例えば今年2月に、ヘッセン州行政裁判所は、「ヘッセン州政府がビブリス原子力発電所のA・B号機を停止させたのは違法」と主張していた電力会社RWEの主張を認める判決を言い渡した。

この行政裁判の争点は、メルケル政権の脱原子力政策そのものの適法性ではなかった。裁判官が判断したのは、ヘッセン州政府の手続きが法律にかなっていたかどうかである。

法曹界では、「日本で起きた事故を理由に、ドイツの国民にも危険が迫っていると考えて原子炉を止めさせたメルケル政権の決定には法的な弱点がある」という指摘があった。

全政党が脱原発を支持

だが、現在のところドイツの政党には、脱原子力政策の変更を考えている政党は1つもない。その理由は、脱原子力政策を見直すことを公約に掲げた場合、次の選挙で得票率が下がることが目に見えているからだ。再生可能エネルギーに対する助成金の高騰に歯止めを掛けようと必死のペーター・アルトマイヤー環境相(CDU)ですら、「脱原子力を見直すつもりは全くない」と強調している。

かつてCDU、キリスト教民主同盟(CSU)、自由民主党(FDP)は原子力推進の立場を取っていた。これらの政党が、福島事故以降、緑の党と同じ原子力反対派に「転向」したのは、原子力推進に固執していたら有権者に見放されるという危機感を抱いたからである。ドイツの政治家は、日本とは違って経済団体や大企業よりも、世論調査の結果を重視する。

私は、ある大手企業の管理職として働くドイツ人を知っている。彼は、福島事故が起きるまでは、原発は必要だと考えていた。「しかし私は福島事故の映像を見て考え方を変え、やはり原発は使わないほうが良いと思うようになりました」。原発支持派から反対派に鞍替えしたのは、メルケル首相だけではなかったのだ。

40年間にわたる原子力論争

だが脱原子力路線を最初に踏み出したのは、メルケル氏ではない。シュレーダー氏の率いるSPD・緑の党の連立政権が2002年に施行した「脱原子力法」が最初である。

この国では、40年前から原発の是非を問う論争が行われてきた。その背景にはリスク意識が高く、巨大技術に対して批判的・悲観的な見方をするドイツ人の国民性がある。さらに、経済的な繁栄もさることながら、市民の健康と安全を重視するドイツ人の基本的な性格も影響している。

電力を外国から輸入することが日常茶飯事である欧州と、電力を外国から全く輸入していない日本を単純に比較することはできない。それでも、我々日本人はドイツ人が原子力と化石燃料ではなく、再生可能エネルギーを中心とする経済を実現すべく努力していることを、完全に無視して良いものだろうか?

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 11:10
 

福島第1原発事故後の日本とドイツ(1)

先進工業国で最悪の原子力災害となった福島第1原発の炉心溶融事故から2年が過ぎた。私は事故調査報告書やメディアの調査報道に基づくルポを多く読んできたが、このような事故が祖国で起きたことの「重さ」を、時が経つにつれてますます強く感じる。除染は遅々として進まず、多くの市民が故郷を奪われたまま。「フクシマ」は終わっていない。我々はこの問題に今後何十年も取り組んでいかなければならない。

減った福島事故の報道

Die Welt紙面
3月11日、12日発行のDie Welt紙面上の日本関連記事

ドイツでは、今年も3月11日前後に福島原発事故に関する特集記事や特別番組がパラパラと見られた。しかし、2011年に比べて大幅に少なくなっていることは否めない。このためドイツ人たちから、「福島は今どうなっているのか」という質問をよく受ける。

特に彼らの目に奇異に映っているのが、わが国のエネルギー政策の将来だ。「日本は広島と長崎で核攻撃を受け、福島の原発事故を体験したにもかかわらず、なぜ原子力を使い続けようとしているのか」と聞かれることも多い。福島原発事故をきっかけに、2022年までに原発を全廃することを決めたドイツ人ならではの疑問である。

エネルギー政策は霧の中

昨年9月14日、ドイツ人たちは東京からの特派員電を見て目を丸くした。「日本政府、2030年までに脱原子力へ」という見出しが飛び込んできたからだ。エネルギー・環境会議が「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」と明記した「革新的エネルギー・環境戦略」を発表したという報道である。ドイツ人特派員の中には、「日本はドイツと同じ道を進むことを決めた」とか、「脱原子力はすでに決まった」と書いている者もいた。この記事を読んだ人は、日本政府がメルケル首相のような政策の大転換を行ったかのような印象を持ったはずだ。

だがドイツ・メディアの「日本も脱原子力」フィーバーは、6日間しか続かなかった。野田政権(当時)は、「革新的エネルギー・環境戦略」の閣議決定を見送り、参考文書の扱いにとどめたからだ。閣議決定は、政権交代後も次の政権に対して拘束力を持つが、参考文書にはそれがない。政治的な「重み」は、はるかに低いのだ。ドイツでは9月20日に「野田政権は脱原子力の決定から後退した」と報じられたが、6日前の「日本も脱原子力」の記事に比べてはるかに小さかった。

この右往左往ぶりは、福島原発事故の後も日本政府の政策決定能力、コミュニケーション能力が相変わらず不足していることを物語っている。日本の将来にとって重要な、フクシマ後の長期的なエネルギー戦略を打ち立てようという真剣さが感じられない。

再稼動へ進む安倍政権

昨年末に誕生した安倍政権は、早々に脱原子力政策の見直しを宣言。首相は、原子力規制委員会が安全と認定した原子炉については、再稼動させる方針だ。多くのドイツ人が不思議に思っているのは、現在日本にある54基の原子炉は福井県の大飯原発の2基を除いてすべて停止しているのに、3・11直後のような深刻な電力不足が起きていないことだ。彼らは、日本の電力会社が天然ガスや石油などの輸入量を増やし、火力発電所からの電力で原発の穴埋めをしていることを知らない。日本の再生可能エネルギーの発電比率は、ドイツに比べるとはるかに低く、まだ安定した電力の供給源とはなっていないのだ。

経済界の影響力の違い

あるドイツ人は、「国民の間では脱原子力を希望する声が強いのに、なぜ安倍政権は原子炉の再稼動を計画しているのか」という疑問をぶつけてきた。日本の産業界や財界にとって、電力の安定供給と電力価格の抑制は極めて重要な課題である。このため、経済団体は原子力の使用継続を求めている。昨年4月から9月までの連結決算では、日本の電力会社10社の内、8社が原子炉停止と燃料費の高騰のために赤字を計上した。電力料金の値上げは、日本の製造業界の国際競争力の低下につながりかねない。

福島原発事故後に誕生した原子力規制委員会は現在、原発の下に活断層があるかどうかを調査している。活断層が見付かった場合は原子炉の廃炉を命じる可能性もあり、それを受けて電力会社が経営難に陥ることもあり得る。

電力の輸出入が日常茶飯事であるドイツとは異なり、日本は現在のところ電力を外国から輸入することができない。経済界は、福島原発事故後の電力供給の状況に強い危機感を抱いているのだ。

また、日本ではドイツに比べて、日本経団連や経済同友会など、経済団体の発言力、政治的な影響力が大きい。このことが、安倍政権が原子炉再稼動を目指す理由の1つであろう。これに対しドイツの政治家は、ドイツ産業連盟(BDI)のような経営者団体の意見よりも、市民の投票動向を重視する。福島原発事故直後にバーデン=ヴュルテンベルク州で行なわれた州議会選挙で、半世紀ぶりにキリスト教民主同盟(CDU)の単独支配に終止符が打たれ、緑の党の首相が誕生したことは記憶に新しい。

この違いが、日独のエネルギー政策の違いにもつながっているのだ。(次回に続く)

最終更新 Montag, 15 April 2013 15:10
 

貧困移民とドイツ

今ドイツの地方自治体が、強く神経を尖らせている問題がある。それが、「Armutseinwanderer(貧困移民)」だ。読者の皆さんは「我々日本人には関係ない話」と思われるかもしれない。ところが、この問題は日本人を含むすべての外国人に飛び火しかねない危険な要素を含んでいる。私の21年前の経験を踏まえて、解説しよう。

急増する貧困移民

2007年には、ブルガリア、ルーマニア、セルビアなどの東欧諸国からドイツに移住した市民の数は6万4000人だった。しかしこの数は、2011年に14万7000人と、2倍以上に増加している。昨年上半期には、移民数が前年同期比で24%も増えている。今年1月には、7332人がドイツへの移住を申請。前年の同時期に比べて50%の増加だ。

貧困移民の大半は定住地を持たない「ロマ」(俗にジプシーと呼ばれることもあるが、正確な名称ではない)だが、政治的な迫害を逃れた亡命ではなく、経済的な理由でドイツへやって来たものと推定されている。ルーマニアやブルガリアでは、犯罪組織がロマたちから金を集めて、バスなどで西欧に移動させる例も報告されている。

問題は、欧州連合(EU)の指令により来年1月から、ブルガリアやルーマニアからドイツなど西欧諸国への労働者の移動の自由(Arbeitnehmerfreizügigkeit)が認められること。労働人口が域内で自由に移動することを奨励するEUの政策により、ロマたちもまるで国内を移動するかのように、欧州の中を移住することが可能になる。このためドイツ内務省は、この国を目指す移民の数が来年以降さらに増えると予測している。

社会保障支出も増加

現在、貧困移民が増えているのがベルリン、フランクフルト、マンハイム、ドルトムントなどの大都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州では、デュイスブルクでロマの増加が目立ち、その数は約6000人に達している。同市では、炭坑や鉄鋼業の衰退によって空き家になったアパートが多く残っている。地方自治体が貧困移民をそうしたアパートに住まわせるので、この町で貧困移民の数が急増しているのだ。このためデュイスブルク市では昨年、社会保障関連の歳出が1800万ユーロ(21億6000万円・1ユーロ=120円換算)も増えた。

ベルリンのノイケルン地区では、ルーマニアとブルガリアからのロマ2400人が自営業者として登録し、子ども養育手当などを市役所から支給されている。地方自治体は、「EUの政策のツケを我々が払わされるのは不当だ」として、連邦政府に対応を求めている。これを受けてハンス=ペーター・フリードリヒ内務相は、「貧困移民をなくすには、ルーマニアやブルガリアの貧困を根絶することが最良の道」として、両国に働きかけることを約束した。

21年前にも同じ経験

ドイツは、1990年代に東欧からのシンティ・ロマの移民数が増えたことによって、すでに苦い経験を持っている。1992年夏に旧東ドイツ・ロストック市の団地街で、シンティ・ロマの数が急増。施設に入りきらなくなった移民たちは、団地の前の芝生で寝起きしていた。衛生状態が悪化し、住民たちは苦情の声を上げた。その後、ネオナチが亡命申請者の登録施設があった建物に放火し、付近の住民も拍手喝采を浴びせたのだ。

ベルリンの壁の崩壊以降、出入国規制が緩和されたために、東欧と西欧の間の人の行き来は比較的容易になった。この隙をついて、犯罪組織が東欧のシンティ・ロマたちを西欧に送り込む例が急増したのだ。しかし各国政府やEUが迅速に対応しなかったため、財政難に苦しむ地方自治体が責任を負わされる形となった。

1992年には、極右勢力による暴力が全国で増加。この年にネオナチに殺された外国人・ドイツ人の数は前年に比べて5倍以上も増えて、17人に上った。旧西ドイツのメルンやゾーリンゲンでは、ネオナチがトルコ人の住宅に放火して、多数の死傷者が出た。この年の極右による暴力事件の総数は、約2290件に達した。

極右勢力に追い風

シンティ・ロマの急増が引き金となって、社会全体で外国人に対する反感が高まったのだ。ビデオカメラの前で団地に火炎瓶を投げ込むネオナチの映像は世界中を駆け巡り、ドイツの対外的なイメージに深い傷が付けられた。ドイツはそれまで寛容だった政治亡命者の受け入れに関する規定を、厳しくせざるを得なかった。

現在、「貧困移民」の急増に地方自治体が手を焼く姿は、21年前にこの国が経験した悪夢を彷彿(ほうふつ)させる。この状況は、外国人の排斥を求めるネオナチ勢力にとって追い風となる。「貧困移民は税金や社会保険料も払っていないのに、高福祉社会ドイツを食い物にしている」という極右の主張にうなずく市民が増えるからだ。極右政党NPDは、すべての外国人を社会保険制度から締め出すことを綱領の中で提案している。

「この道はいつか来た道」とならないように、ドイツ政府とEUは早急に対策を取るべきだ。また、ネオナチの外国人排斥論への同調者が増えないように、ドイツのマスメディアも報道の仕方には細心の注意を払ってほしい。

最終更新 Donnerstag, 28 Februar 2013 10:19
 

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