ジャパンダイジェスト
独断時評


忍び寄る過激イスラムの影

3月末にフランスのトゥールーズで、23歳のアルジェリア系フランス人が、ユダヤ人学校の前で子ども3人と教師1人を殺害した。犯人は数日前にフランス軍の兵士3人も射殺していた。ドイツ社会にも強い衝撃を与えたこの事件は当初、ユダヤ人が犠牲になったため、極右勢力による犯行という見方も出た。

犯人は犯行の際、落ち着き払っており、冷血そのものだった。彼は至近距離から子どもたちの頭を狙って次々にピストルを発射し、首に付けた小型カメラでその様子を撮影していた。彼は3月22日にアパートに立て篭もった後、警官隊と銃撃戦を展開し、射殺された。

青年は過激組織には属していなかったと見られるが、イスラム過激派の思想に染まっていた。射殺される前に警官隊に対し、「ユダヤ人の子どもを殺したのは、パレスチナ人の子どもたちの報復のため。フランス兵を殺したのは、アフガニスタンでフランス軍が戦っているため」と犯行の動機を説明していた。

犯人は、アルジェリアからの移民の息子だった。フランスの大都市近郊には、banlieu(ボンリュー)と呼ばれる、高層団地の多い地域がある。北アフリカからの移民の血を引く市民が多く暮らし、警察も足を踏み入れるのをためらうほど治安状態が悪い場所もある。犯人はボンリューで生まれ、父親のいない家庭で育った。母親は育児のための時間がなかったので、姉の手で育てられた。彼は幼い頃から盗みや暴力などの犯罪を18回も繰り返し、2007年には銀行で客のハンドバッグを奪った罪で、刑務所に1年半収監された。この時に、イスラム過激派の思想に感化された。職も金もない青年は、社会を呪うようになった。

欧州では、パキスタンや北アフリカからの移民の子どもたちが、社会に失望してイスラム過激派の思想に染まり、テロリストになる例が増えている。2005年にロンドンの地下鉄とバスを狙った自爆テロは、典型的な例だ。52人の市民が死亡し、700人以上が重軽傷を負ったこの無差別テロの犯人は、英国生まれのパキスタン系の若者たちだった。

フランスのテロも、英国の事件同様「ホーム・メード・テロリスト」による犯行なのである。イスラム過激派は、インターネットを通じて欧米社会への憎悪を煽る情報を流している。「自分は社会の落ちこぼれ」と感じた若者が、過激派に誘惑されて、今後もテロリストへの道を走る可能性は強い。捜査当局にとって、これらの「国産」テロリストをキャッチするのは極めて難しい。パリの駅では、自動小銃を持ち迷彩服に身を固めた兵士が常にパトロールしているが、こうした措置ではトゥールーズのような惨劇を防ぐことはできない。サルコジ政権は、欧米社会への憎悪を煽り立てるビデオやブログを公開する者だけでなく、そうしたウェブサイトを見ただけでも刑事罰の対象となるように、法律の改正を検討している。

アフガニスタンに軍を派遣しているドイツにとっても、今回の事件は対岸の火事ではない。この国でもイスラム過激派に感化されたドイツ人の若者が、無差別殺人を狙って爆弾を製造していたケースが何度かあったが、幸い犯行に及ぶ前に捜査当局に検挙されるか、爆弾が不発で惨事には至らなかった。イスラム教は本来、平和を愛する宗教であり、イスラム過激派と同列視してはならない。しかし一部のモスクで、社会に対する憎悪を煽るような説教が行なわれてきたのは事実。過激派が宗教施設を悪用しているのだ。

2014年以降、米軍など西欧諸国の部隊がアフガニスタンから撤退した後、同国が再び内戦状態に陥り、国際テロの温床となる危険もある。ドイツをはじめ多数の移民を抱える西欧諸国は、今後もイスラム過激派に対する警戒を怠ってはならない。

6 April 2012 Nr. 913

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:52
 

ガウク大統領に望む

「Was für ein schöner Sonntag(なんと素晴らしい日曜日だろう)」。第11代大統領に選ばれたヨアヒム・ガウク氏は、最初の演説をこの言葉で始めた。

彼が大統領に選ばれた3月18日は、くしくも22年前に社会主義国、東ドイツで、最初にして最後の民主選挙が行なわれた日である。したがって、彼にとってこの日付は二重の意味で忘れられない日なのだ。彼は演説の中で、初めて東ドイツ人が「市民」として自分の政府を選ぶ作業に加わることができた日の感動を、見事に表現している。彼の言葉には、我々がふだん当然のように思っている「自由」の尊さ、そして民主社会での自由は、政府を選ぶという「責任」でもあるのだという主張が込められている。

ガウク氏は東ドイツの市民運動に身を投じ、統一後は秘密警察シュタージの文書を分析し、市民に公開する管理局の初代局長となった。歴代の大統領と異なり、波乱の人生を歩んできた人物である。これまでの大統領よりも、「市民の代表」という印象を与える。

牧師になる前はジャーナリストを目指していたガウク氏は、以前から演説が巧みであることで知られていた。連邦議会での演説も、聴く者の心に訴えかけるものだった。それは彼が自分自身の言葉で語ったからであろう。

ガウク氏の鼎(かなえ)の軽重が問われるのは、これからだ。多数の演説をこなさなければならない大統領の演説の大半は、連邦大統領庁の官僚が書く(私の知人の若い外交官は、ローマン・ヘルツォーク大統領の演説を書くチームの1人として働いていた)。

役人が書く演説に、ガウク氏は自分の持ち味を付け加えていかなければならない。大統領としての最初の演説で東独時代の経験を語ったことは理解できる。しかし、旧西独も代表する連邦大統領の任務は、東独の経験だけを生かして行なえば良いというものではない。

彼がドイツ統一後に行なった発言は、ネオリベラル的な市場経済主義の信奉者という印象を与える。脱原子力政策についても、「これほど重要な問題を、市民の感情だけで決めるべきではない」と、多くのドイツの市民の考え方とは逆の発言を行なっている。

欧州が陥っている深刻な債務危機、リーマンショックに代表されるグローバル資本主義経済の危うさと市民の不満、所得格差の拡大、不安定さを深める中東とアフリカ。これらの難題に、ガウク大統領はどのようなメッセージを送っていくのだろうか。その意味で、彼が連邦大統領庁の長官にシュタージ文書管理局の広報課長だったダヴィッド・ギル氏という古くからの知人を任命し、「旧東独閥」で固めたことには、いささか首をひねった。グローバルに活動しなくてはならない連邦大統領には、もう少し広い視野が必要なのではないか。

私がガウク氏に最も強く望むことは、ケーラー氏、ヴルフ氏の任期満了前の辞任によって深く傷付けられた市民の信頼を回復して欲しいということだ。少なくとも現在のところ汚職事件の捜査対象であるヴルフ氏は、19カ月しか大統領の職を務めなかったにもかかわらず、約50年前に作られた法律に基づき、今後死ぬまで毎年20万ユーロ(約2000万円)の年金と、公用車、ボディーガード、オフィスを国費で与えられる。このことについて、大半の市民が怒っている。「財政赤字と公的債務を減らさなければいけない今日、これだけ多額のコストを掛けて連邦大統領というポストを維持する必要があるのか」という疑問を抱く人もいるだろう。

ガウク氏には、途中でポストを投げ出さずに任期を全うし、国民の「大統領不信」を少しでも緩和して欲しいものだ。

30 März 2012 Nr. 912

最終更新 Mittwoch, 28 März 2012 20:09
 

大丈夫か? エネルギー革命

1年前に起きた福島第1原発の炉心溶融事故をきっかけに、ドイツのメルケル政権は、エネルギー政策を大きく転換した。物理学の博士号を持ち、原発推進派だったメルケル氏は、態度を一変させて原発批判派になった。

彼女は2010年秋に、大手電力や産業界の意向を受けて原子炉の稼動年数を平均12年間延長したが、福島事故後は延長措置を取り消し、老朽化した7基の原子炉を即時停止。残りの9基も2020年12月31日までにすべてストップさせることを決めた。脱原発路線のレールを2000年に最初に敷いたのは、社会民主党(SPD)と緑の党からなるシュレーダー政権だったが、終着駅を確定したのはメルケル首相だった。

だが原発停止は、政府が進めている「エネルギー革命(Energiewende)」のほんの一部でしかない。地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスの削減も、ドイツ人にとっては極めて重要な課題だ。

メルケル政権はすでに2010年秋に「長期エネルギー戦略(Energiekonzept)」を発表し、2050年までに温室効果ガスの排出量を1990年に比べて80%減らすことや、再生可能エネルギーによる発電量の比率を80%に増やすという目標を打ち出している。ドイツでは昨年、再生可能エネルギーの比率が20%に達し、初めて原子力を上回った。昨年決まった脱原子力政策の加速によって、再生可能エネルギー拡大の重要性が増したことは、言うまでもない。

だが福島事故から1年経った今、ドイツでは「エネルギー革命は本当に成功するだろうか」という疑問の声も出始めている。最大の問題は、高圧送電網の建設が大幅に遅れていることだ。現在、再生可能エネルギーによる電力の約40%は風力によって作られている。ドイツ政府は、今後10年間でバルト海や北海に設置される洋上風力発電基地の設置容量(キャパシティー)が130倍に増えるというシナリオを描いている。だが、ドイツで最も多く電力を消費するのは、メーカーが多く産業立地として重要なバイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州である。このため送電事業者は、今後10年間で約3600キロメートルの高圧送電線を建設しなくてはならない。だが2006年から5年間に新しく建設された送電線は、わずか90キロメートルにすぎない。

工事が遅れている最大の理由は、住民の反対運動が強まっていることだ。彼らは、家の近くに高圧送電線が建設されたことによる地価の下落、自然環境や景観の破壊、電磁波の健康への影響などを懸念しているのだ。

原発を廃止した後のつなぎとして、石炭火力発電所の新設や改修が必要だが、こうした工事も住民の反対で難航している。石炭火力発電所から出るCO2を分離して貯蔵し、温室効果ガスの排出を防ぐCCS発電所についても、CO2貯蔵施設の周辺で農家が反対運動を起こしている。

ある大手電力の元取締役は、私の取材に対し「多くの市民は脱原子力、再生可能エネルギー拡大という総論には賛成しても、自分の家の裏に送電線の鉄塔や風力発電装置が建設されるとなると反対する。エネルギー革命が個人の生活に悪影響を及ぼすのは、嫌なのだ。人々のメンタリティーが変わらなければ、エネルギー革命は成功しないだろう」と語った。

メルケル政権は、こうした批判にどう答えるだろうか

23 März 2012 Nr. 911

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:52
 

「3. 11 」と祖国日本

東日本を巨大地震と津波、そして先進工業国では最大級の原発事故が襲ってから、1年が過ぎた。約1万9000人という死者・行方不明者の数を前に、我々は言葉を失い、立ちすくむしかない。まさに日本が第2次世界大戦以来、最大の危機に襲われた年だった。心から、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする。さらに、被災地の復興が進むことによって、故郷から離れて暮らしている何十万人もの人々が、一刻も早く住み慣れた土地に戻れるよう望む。

野田首相は、昨年12月16日に福島第1原発について、「原子炉内の温度が恒常的に100度以下になり、放出される放射性物質の量も大幅に減ったために、原子炉事故は収束したと考える」と宣言した。しかし私は、福島事故が終わったとは考えていない。福島県から避難している11万5000人の人々が、いつ故郷に戻ることができるか、目途は立っていない。放射性物質で汚染された土地の除染がいつ完了するかも不明だ。環境省の試算によると、1年間の放射線量を5ミリシーベルト未満に引き下げるには、最大2800万立方メートル、東京ドーム23杯分に相当する汚染土を除去しなくてはならない。汚染地域の面積は1777万平方キロメートル、福島県の13%にあたる。また、家屋や土地を使えなくなった市民、農業や漁業を営めなくなった人々への賠償も進んでいない。

東電によると、昨年4月と5月に太平洋に流れ込んだ高放射性廃液の量は、少なくとも770トン。故意に流された低放射性汚染水の量は、1万トンに達する。海洋汚染が長期的に魚介類にどのような影響を与えるのかについても、十分にはわかっていない。

最も心配されるのは、子どもたちの健康への影響である。放射性物質の影響は、直ちには顕在化しない。国連の放射線の影響に関する科学委員会(UNSCEAR)が昨年4月に発表した「チェルノブイリ事故の健康への影響に関する報告書」によると、チェルノブイリ原発からの放射性物質で汚染されたウクライナ、ベラルーシなどの地域では1991年から2005年までに、事故当時の年齢が18歳以下だった青少年6848人が、甲状腺ガンを発症したことが確認された。

報告書は「これらの地域では、事故後4年もしくは5年経ってから青少年の間で甲状腺ガンが急増した。子どもが甲状腺ガンにかかる頻度は通常極めて少ない。チェルノブイリ原発からの放射性ヨウ素が、甲状腺ガンの急増の原因であることは間違いない」と結論付けている。確かにチェルノブイリと福島では、放出された放射性物質の量に大きな違いがある。しかし、長期的な健康調査が必要であることは間違いない。

多くのドイツ人たちは、日本政府が深刻な原発事故に即応できる体制どころか、首相官邸に事故対応マニュアルさえ整えていなかったことに衝撃を受けている。「原子炉が制御不能となる最悪の事態には、原発から175キロ圏内で強制避難、250キロ圏内で任意避難が必要」と原子力安全委員長が首相に文書で指摘していたことも、最近になって明らかになった。米国の原子力規制委員会が、福島事故直後の部内の議論を3000ページもの議事録に残していたのに対し、日本政府の原子力災害対策本部は、議事録を全く残していなかった。なぜ政府は、肉牛に与える飼料や住宅建設に使う砂利の放射能汚染度を直ちに調べ、汚染の拡大を防げなかったのか。人々はそれぞれの持ち場では真面目に対処しているのだが、システム全体としては的確に機能せず、指揮中枢である首相官邸も泥縄的な対応しか取れなかった。政府とマスメディアに対する国民の信頼は、この1年間で大きく揺らいだ。

「ハイテク先進国ニッポン」の神話に大きなクエスチョン・マークが投げ掛けられた今、日本政府がドイツなど他国の信頼を回復するには、かなりの時間が掛かるだろう。

16 März 2012 Nr. 910

最終更新 Mittwoch, 14 März 2012 16:43
 

メルケル首相の謝罪

ドイツ連邦政府は、2月23日にベルリンで極右テロの犠牲者のために追悼式典を催した。舞台の上には、ネオナチに射殺された10人の犠牲者を表わす蝋燭の火が灯されていた。

この事件は、旧東ドイツのネオナチ・グループ「NSU(国家社会主義地下組織)」が、2000年からの11年間に、ミュンヘンやハンブルクなど10都市でトルコ人など外国人を中心に10人を射殺したもの。

テューリンゲン州出身の3人の犯人は、銀行強盗やトルコ人らを狙った爆弾テロも繰り返した。警察は昨年11月に犯人の内2人が自殺するまで、一連の犯行が同じ極右グループによるものであることを突き止められなかった。

メルケル首相の演説は、怒りと絶望に満ちていた。「なぜ我々は、一連の犯行がネオナチによるものだと、もっと早く気が付かなかったのでしょうか?」

「私たちの憲法は、ナチスがドイツを支配した12年間に対する反省から、“人間の尊厳は侵してはならない。人間の尊厳を守ることは国家権力の義務だ”という言葉で始まっています。この言葉はドイツ社会社会の基本的な理念を傷付けることです。したがって、今回の一連のテロはドイツ社会に対する攻撃であり、我が国の恥です」。

捜査当局は、当初これらの事件を、トルコの犯罪組織内の抗争や、家族の内輪もめと考えていた。メルケル首相は、警察が一部の被害者の家族を容疑者と見ていたことを、特に強く批判した。

「被害者の家族の中には、何年もの間、警察から容疑者扱いされた人もいます。彼らは家族が殺されたことで悲しみのどん底にいただけではなく、警察から誤った嫌疑をかけられたのです。この10年間は、彼らにとって悪夢だったに違いありません。警察が誤った嫌疑をかけたことについて、私は謝罪いたします」。

式典では、ネオナチに家族を殺されたトルコ人たちも、聴衆に心情を吐露した。「父親が殺されてから、私たちの生活は一変してしまいました。私たちは長年の間、“被害者”として見てもらうことすらできなかったのです」。

今回のテロ事件の捜査は、完全な「不合格」であり、戦後ドイツの警察の歴史に最大の汚点を残した。そして、この国の一部の外国人が、警察と社会によっていかに強い偏見と先入観にさらされているかが浮き彫りになった。3人のネオナチが10年間も潜伏生活を続けられたのは、支援者がいたからである。メルケル首相は、演説の中でドイツ社会の極右テロに対する無関心に警鐘を鳴らした。

「我々は日常の忙しさや、“どうせ何もできない”という無力感のために、極右による暴力をすぐに忘れがちです。しかしある思想家が言ったように、善人たちが何も行動を起こさなければ、それだけで悪は勝つのです」。

今回の事件では、1990年代の初めに起きた極右によるテロに比べて、ドイツ社会とメディアの反応が鈍かった。事件に対する反応は地域によっても異なる。式典が行なわれた2月23日の正午に、ベルリンとハンブルクの市民は1分間黙とうし、公共交通機関も止まった。だが私が住んでいるミュンヘンでは、人々は普段と変わりなく暮らしていた。

ドイツ社会の一部には、外国人に対する偏見が残っている。ごく少数だが、外国人を憎む者もいる。政府がそうした勢力と戦おうとしていることは、高く評価したい。

9 März 2012 Nr. 909

最終更新 Donnerstag, 08 März 2012 10:09
 

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