オーストリア「ワルツ王」生誕200周年 ヨハン・シュトラウス2世の軌跡

「ワルツ王」として今日でもオーストリアの国境を越えて広く親しまれている作曲家、ヨハン・シュトラウス2世。ダンス音楽を根本的に改革し、洗練されたコンサート音楽へと発展させた。ワルツだけではなく、オペレッタやオペラも手がけ、時代の寵児に。そんなシュトラウスの生誕200年を記念して、波乱に満ちた生涯をはじめ、才能溢れる親族やその成功を支えた人物など、ヨハン・シュトラウス 2世の軌跡をたどる。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
ヨハン・シュトラウス2世
(1825-1899)
Johann Strauss II
「ワルツ王」として名高いオーストリアの作曲家。父も音楽家だったが、それを超える成功を収めた。代表作に「美しき青きドナウ」やオペレッタ「こうもり」など。軽快なワルツや華やかな音楽でウィーン文化を象徴する存在であり、今も世界で愛されている。
シュトラウスが生きた19世紀のウィーン
ヨハン・シュトラウス2世が活躍した19世紀は、ウィンナ・ワルツが社会に浸透し、音楽文化として世界にも認められた時代だった。ウィンナ・ワルツの起源は、18世紀末のオーストリアやバイエルンの農村で踊られていた民族舞踊にある。当初は速いテンポと力強いステップが特徴であったが、次第に優雅で流れるような形式へと進化。従来の貴族のダンスが距離を保つスタイルであったのに対し、ウィンナ・ワルツはパートナー同士が抱き合う画期的な形式で注目され、自由な生活の象徴として受け入れられた。
ウィーンのホーフブルク宮殿で行われた宮廷舞踏会にて、ウィンナ・ワルツを踊る人々
ウィンナ・ワルツ発展の契機となったのが、1814~15年に開催されたウィーン会議だ。この会議では、オーストリア皇帝のフランツ1世やメッテルニヒ外相が連日豪華な舞踏会や宴会を開催。ウィーン会議で人気を博した後、ワルツは上流階級や宮廷にも浸透し、音楽としての発展を遂げることとなる。社交場では階級を超えた人々が一晩中踊り明かし、メディアを通じてワルツ熱は欧州全土からロシア、米国にまで拡大した。
しかし、この楽観的な時代は長く続かなかった。ウィーンはその後、不況やメッテルニヒ政権による厳格な統制政策により抑圧され、大衆は監視や検閲の中で苦しい生活を強いられた。このような時代背景のなか、パブや郊外のステージ、ダンスホールでは厳格な風習に反抗する文化的逃避が広がり、ワルツは人々に束の間の自由を与える存在となった。特にヨハン・シュトラウス2世は、ワルツの形式をさらに拡大し洗練させることで、舞曲をクラシック音楽として完成させた。現在、ウィンナ・ワルツはユネスコ無形文化遺産に登録され、大切に受け継がれている。
ヨハン・シュトラウス2世の人生
「ワルツ王」として知られるヨハン・シュトラウス2世は、まさに旋律に満ちた生涯だった。6歳で作曲を始めた早熟な才能、父との確執と競争、そしてウィーンの音楽を国際的な舞台へと押し上げた功績。その背景には、家族の複雑な関係や、時代の波に翻弄されながらも音楽への情熱を貫いた彼の姿がある。
01 6歳で作曲する才児
1825年10月25日、作曲家であり「ワルツの父」として知られるヨハン・シュトラウス1世とその妻アンナの第一子としてウィーンで生まれたヨハン・シュトラウス2世(以下、ヨハン)。父も同名なので、家族からは「Schani」(シャニ)の愛称で呼ばれていた。ヨハンは6歳で作曲を始め、オーケストラとのリハーサルや指揮の振り方など、音楽家としての多くの重要な側面を父から学ぶ。しかし父は、音楽家の苦労を知っていたため、ヨハンやほかの息子たちが音楽家になることには厳しく反対した。
1837~41年まで、ヨハンはウィーンのギムナジウムに通い、成績も優秀だったという。しかし家庭環境が複雑で、父には実は愛人がおり、彼女との間に子どもまでもうけていたのだ。ヨハンの母は、夫の不貞への復ふくしゅう讐のためか、ヨハンの才能を早くから認めていたためか、夫の怒りを買いかねないことを承知で、ヨハンにこっそりと音楽のレッスンを受けさせていた。しかしヨハンはギムナジウムを卒業後、父に勧められるがまま、工科大学で公務員になるための道を歩むことになる。
父 ウィンナ・ワルツの 礎を築いた革新者ヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)
「ワルツの父」と呼ばれるヨハン・シュトラウス1世は、過酷な少年時代を送った。7歳で母を亡くし、その5年後には借金に苦しむ父がドナウ川で溺死体となって発見される。孤児になった彼は、後見人の勧めにより製本職人の職業訓練を受けたが、この職業に就くことはなかった。彼がいつどこで音楽を習ったのかについてはあまり知られていないが、21歳の時に最初のオーケストラを結成。1825年に宿屋の娘アンナと結婚し、同年にヨハン・シュトラウス2世が生まれた。1833年以降、自身のオーケストラを率いて、欧州各国を演奏旅行で周遊。1835年にはウィーンの宮廷舞踏会音楽監督に任命された。1848年、今日まで知られる代表作「ラデツキー行進曲」を創作した。1849年9月、猩紅熱にかかり45歳で亡くなった。
02 19歳で音楽家の道へ
1843年、父親が若い女性と同棲するために家を去ると、ヨハンは家族のためにお金を稼がなければならないと感じた。その年に父のライバルであり、ウィンナ・ワルツの様式を確立したヨーゼフ・ランナー(1801-1843)が死去。ヨハンはランナーの後を継ぐことを目標に、大学の勉強を自主的に中断し、作曲家としてのキャリアを計画的に準備し始めた。母に支えられながら、半年の間に必要な技術を身に付け、1844年10月15日、ヒーツィング地区のカフェ・ドンマイヤーで、オーケストラを率いて初めて聴衆の前に姿を現した。父は息子の公演を阻止するため、公式の嘆願書を提出したが無駄だった。このデビューは大成功を収めた。
こうしてウィーン音楽界のトップの座を巡り、父と息子の激しい闘いが始まった。父が宮廷や高貴な聴衆にアピールしたのに対し、ヨハンは若者を狙って聴衆を獲得。ただ全体としては父親が優勢だった。その後、二人は和解したが、1849年に父が急死。ヨハンは父のオーケストラを引き継いだ。父の肩書きだった「宮廷舞踏会音楽監督」も引き継ぎたいという思いがあったが、その願いは拒否されてしまう。実はヨハンには、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命の思想に共感していたことを公言していた過去があり、当然ながら宮廷はヨハンに対して不信感を持っていたのだ。それからは、ヨハンも宮廷のための曲を献上するなど努力を惜しまず、1851年からウィーンのホーフブルク宮殿で頻繁に演奏することになった。そして1854年バイエルン王女エリザベートとのフランツ・ヨーゼフ1世の結婚式の際に、宮廷舞踏会を指揮するまでに至った。
母 シュトラウス帝国の凄腕マネージャーマリア・アンナ・シュトレイム (1801-1870)
宿屋の娘だったアンナは1825年にヨハン・シュトラウス1世と結婚し、その3カ月後にヨハン・シュトラウス2世が誕生した。しかし夫の不倫が発覚し、アンナは夫から経済的に自立することを望むようになる。ヨハンの音楽家デビューが成功し、さらに2年掛かりで夫婦の離婚が成立すると、アンナは息子たちのキャリアを巧みに管理した。離婚した夫の死後は、子どもたちを売り込むために、当時非常に有名だったヨハン・シュトラウス1世の正統な子孫であるという立場を強調。アンナの厳格な家長的リーダーシップのおかげでシュトラウス家は成長し、繁栄したといっても過言ではない。1870年に亡くなるまで、ヨハンの人生の中心的存在で在り続けた。
03 ウィーンのワルツを世界へ
1856年の夏、ヨハンはロシアに招かれた。パヴロフスクのヴォクソール・パビリオン館でコンサートや舞踏会を指揮。ヨハンの人気は絶大で、その後1865年までの10年間、毎年夏パヴロフスクに招かれるようになった。父の影からようやく抜け出したのである。さらにコンサートツアーを行い、欧州と北米を巡った。ヨハンのコンサートは常に観客で埋め尽くされ、ウィーンの音楽を世界中に広めるのに役立ったのだ。ヨハンがウィーン不在の間は、弟のヨーゼフとエドゥアルトが、父から引き継いだシュトラウス管弦楽団を守っていたことも後のシュトラウス家の財産となった。
ウィーン宮廷舞踏会でのヨハン・シュトラウス2世(中央)と、シュトラウス管弦楽団の面々
1862年、ヨハンは7歳年上の歌手ヘンリエッテ・シャルぺツキーと結婚。同年に初めて、ヨハンは念願であった「宮廷舞踏会音楽監督」の称号を与えられた。その後も順調にキャリアを積んできたが、1870年に最愛の母が亡くなる。さらに音楽活動を支えてくれていた弟ヨーゼフが急死すると、ヨハンは作曲意欲を失ってしまった。
弟(次男) 技術者から音楽家の道へヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)
もともとは製図技師として働いていたが、兄のように密かに音楽を習っていたヨーゼフ。1853年に兄のヨハンが過労で倒れたため、シュトラウス管弦楽団の指揮者の仕事を引き継ぐことになった。それから1カ月も経たないうちに、初めて作曲したワルツを披露し、ウィーン市民はヨーゼフの音楽の才能に感激。兄と母からの願いに応じて、音楽の道へと進んだ。ヨーゼフの才能は、兄ヨハンの影に隠れて過小評価されることも多かったが、「天体の音楽」(Sphärenklänge) や「 わが人生は愛と喜び」(Mein Lebenslauf ist Lieb' und Lust )などの有名なワルツを数多く作曲している。1870年、彼はワルシャワでのコンサート中に突然ステージで倒れ、数日後に42歳で帰らぬ人となった。
弟(三男) シュトラウス家の作品を残すことに尽力エドゥアルト・シュトラウス(1835-1916)
外交官を目指していたエドゥアルトだったが、ヨーゼフと同様に兄のヨハンに説得され、音楽の道へ進むことに。1855年にハープ奏者として、1861年にはシュトラウス管弦楽団の指揮者としてデビューした。二人の兄と比較されてばかりのエドゥアルトだったが、それでも彼は音楽を続けた。1870年にヨーゼフが亡くなると、エドゥアルトは30年以上にわたってシュトラウス管弦楽団を取り仕切った。1872年に「宮廷舞踏会音楽監督」の称号を授与され、1878年からはシュトラウス管弦楽団を率いてドイツや米国、カナダと海外を訪れ大成功を収めた。1901年、エドゥアルトは楽団を解散し、引退。 1907年、彼はシュトラウス管弦楽団の膨大な音楽資料を焼却。この狂気の行為の理由は、いまだに解明されていない。
04 第2のキャリアを開始
しばらく意気消沈していたヨハンだったが、妻ヘンリエッテの勧めもあり、オペレッタ作曲家としての第2のキャリアを考えるように。そして1871年に宮廷舞踏会音楽監督の地位を末弟エドゥアルトに譲り、作品作りに集中した。この試みは予想以上に困難なものとなったが、同年「インディゴと40人の盗賊」(Indigo und die 40 Räuber)が完成。ヨハンは新天地を切り開いたのだ。ヨハンのデビューから30周年に当たる1874年に発表した「こうもり」(Die Fledermaus)は、オペレッタの最高傑作の一つといわれている。こうしてオペレッタの分野でも頭角を現した。ほかにもよく知られているものとして、「ヴェネツィアの一夜」(Eine Nacht in Venedig)や、ヨハンの60歳の誕生日の前夜に初演された「ジプシー男爵」(Der Zigeunerbaron)などがある。また唯一手掛けたオペラ「騎士パズマン」(Ritter Pasman)は、今日ではオペラとして上演されることはほとんどないが、その楽曲はさまざまなコンサートで演奏されている。
1番目の妻 ヘンリエッテ・シャルぺツキー(1818-1878)
オペラ歌手「イエッティ・トレフツ」として成功を収めていたヘンリエッテは、ヨハンより7歳年上の姉さん女房。1862年にヨハンと結婚するまでの約20年間、彼女は実業家のモーリッツ・フォン・トデスコと暮らしており、7人の子どもがいた。そのためヨハンが彼女と結婚したことは、ウィーン社交界にとってそれなりのスキャンダルだったという。華やかなキャリアを持つヘンリエッテだったが、写譜を行っていたほか、秘書として夫を支えた。ヨハンがヘンリエッテと過ごした数年間は生涯で最も創造的な時期であり、「美しき青きドナウ」もこの時期に生まれた。ヨハンにとって欠かせないパートナーであったが、1878年、脳卒中が原因と思われる突然の死を遂げた。
2番目の妻 アンゲリカ・ディットリヒ(1850-1919)
2番目の花嫁は、「リリ」として知られる、ヨハンより25歳年下の女優アンゲリカ・ディットリヒ。結婚の数週間前に前妻を亡くしていたヨハンは、前妻ヘンリエッテのようにアンゲリカに自分を支えてほしいと願っていたが、二人の結婚は最初からかみ合っていなかったようだ。ヨハンは、アンゲリカの希望でウィーンのイゲルガッセにある優雅な宮殿でぜいたくな生活することを許したが、妻が演劇のキャリアを追求するという野心は支援しなかった。アンゲリカは次第にいらだち、彼女の父が経営していた「アン・デア・ウィーン劇場」の後継者である30歳のフランツ・シュタイナーの恋人となった。 1882年12月9日、ウィーン地方裁判所でヨハンとアンゲリカは離婚に至った。
3番目の妻 アデーレ・ドイッチュ(1856-1930)
ヨハンの30歳下だったアデーレは、1番目の妻と同様、献身的かつビジネス・センスに溢れており、ヨハンの名声を高めるのに貢献した。だが当時、結婚時に誓った「死が二人を分かつまで」という言葉は、カトリック教国オーストリアでは絶対的な効力を持つ法律と考えられていた。前妻との民法上の離婚は成立しても、前妻が生きている限り再婚はできないのだ。唯一の選択肢は、宗教と国籍を変更することだった。ヨハンとアデーレは1885年にオーストリアの市民権を放棄し、プロテスタントに改宗してザクセン=コーブルク・ゴータ公国の市民となる。翌年に晴れて夫婦となった二人だったが、1899年にヨハンが死去。アデーレは、ヨハン・シュトラウス2世の遺産管理人となった。
05 愛と葛藤が彩るヨハンの晩年
1878年に妻のヘンリエッテが急死したが、ヨハンは数週間後に25歳年下の女優アンゲリカ・ディットリヒと結婚した。しかし夫婦間の価値観が異なり、わずか4年で結婚生活に終止符を打つ。その後ヨハンは、30歳年下で未亡人のアデーレ・ドイッチュと急速に関係を深め、結婚した。
晩年、ヨハンは徐々に公の場から遠ざかっていく。心臓や循環器系の疾患、慢性肺炎など、健康上の問題を抱えるようになったのだ。 これらの病気により、定期的に指揮をしたりコンサートを開いたりすることが難しくなった。しかし、健康上の制約があったにもかかわらず、彼は高齢になってもオペレッタや舞曲の作曲を続けていた。そして1899年6月3日、ヨハンは肺炎のため73歳でこの世を去った。彼の死は、ウィーンの音楽史における一時代の終わりを意味した。ウィーンの中央墓地に埋葬されたヨハンの眠る場所は、その天才的な音楽家を偲ぶ記念碑として今日でも多くの人が訪れる。
ウィーン中央墓地にあるヨハン・シュトラウス2世のお墓。ウィーン市民たちは偉大な音楽家の死を悲しみ、葬儀はウィーン全市をあげて行われた
毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホールで行われている、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート。今日でも、主にヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が演奏される
ヨハン・シュトラウス2世の代表曲
「美しき青きドナウ」の誕生秘話
ヨハン・シュトラウス2世の3大ワルツとされる「美しき青きドナウ」(1867年)、「ウィーンの森の物語」(1868年)、「皇帝円舞曲」(1889年)。「美しき青きドナウ」は、その中でも特に人気の高い楽曲だが、もともとはカーニバルで歌う合唱曲で風刺を意図したものだった。作曲されたのは、1866年の普墺戦争でプロイセン軍がオーストリアを打ち破ったケーニヒグレッツの戦いの直後。ウィーンは軍事的にも道徳的にも地に堕ち、ドナウ川は濁っていた。ヨハンは同ワルツを合唱のために作曲し、 詩人ヨーゼフ・ヴァイルはパロディ的に「カーニバルがやってきた! そうだ、時間に逆らおう。悔やんで何になる、嘆いて何になる、だから楽しく陽気になれ!」と書いたのだ。1867年に初演され、すぐに世界で最も有名で最も人気のあるメロディーの一つとなった。20年後、作曲・作詞家フランツ・フォン・ゲルネルスは歌詞を書き換えた。「ドナウはとても青く、とても美しい。谷と草原を穏やかに流れ、私たちのウィーンがあなたを迎える」。今日、この歌は非公式のオーストリア国歌とみなされている。
オペレッタの最高傑作「こうもり」
「こうもり」(1874年)は、ウィーンを舞台にした喜劇的オペレッタで、ウィーン・オペレッタの最高傑作といわれる。役人を侮辱した罪で投獄されることになった主人公のアイゼンシュタイン。その前夜、友人のファルケに誘われて舞踏会へ行くと、妻ロザリンデや友人の策略に引っかかることに……。華やかな音楽と笑いに満ちたドタバタ劇だ。この作品が作られた時期は、コレラの流行やウィーン証券取引所の株価大暴落など、街はよどんだ雰囲気に包まれていた。作品にはそうした時世も反映されており、作品中の「もはや変えることのできないものを忘れる者は幸せである」(Glücklich ist, wer vergisst, was nicht zu ändern ist)という台詞は、今日ではことわざのように使われている。
1961年にオーストリアで映画化された「こうもり」のワンシーン
生誕200周年を祝おう! ヨハン・シュトラウス2世の特別イベント
オーストリア
Johann Strauss 2025

ヨハン・シュトラウス2世の生誕200年を記念して、ウィーン市は市内の69の会場で約250日間、65作品を上演する。クラシックのコンサートはもちろん、オペレッタや演劇、展覧会まで多彩なプログラムで構成されている。詳細は公式サイトで確認しよう。
2025年12月31日まで
www.johannstrauss2025.at
オーストリア
Johann Strauss - Die Ausstellung

ウィーンの演劇博物館では、ヨハン・シュトラウス2世の生誕200周年を記念する展覧会を開催。この展覧会では、オペレッタ「こうもり」のオリジナル楽譜を含むヨハンのさまざまな遺品が公開される。
2025年6月23日まで
Theatre Museum
Lobkowitzplatz 2 1010 Wien
www.theatermuseum.at
ドイツ
200 Jahre Johann Strauß - Die große Jubiläums-Gala

ガラシンフォニー・オーケストラ・プラハによる公演。国際的に有名なソリストたち、2人のソプラノ、1 人のテノール、そしてヨハン・シュトラウス・バレエと共に、シュトラウス一家のメロディーの高揚感がよみがえる。
2025年10月12日まで
ターレ、エルスニッツ、イルメナウ、ポツダム、ライヒェンバッハ、ハレ、ノイブランデンブルクの8都市で開催
www.strauss-gala.de
参考文献:Wiener Institut für Strauss-Forschung、Die Welt der Habsburger「Die Strauß-Dynastie – ein Familienunternehmen」、Bayerischer Rundfunk「Vom Wiener Walzerkönig zum Oberfranken」、stadt-WIEN.at「Walzer Tanzkurse in Wien」、Wiener Hofburg-Orchester「Johann Strauss」、profi「„Nervendämon“ & Walzermafia: Die Strauss-Dynastie als Seifenoper」、Deutschlandfunk「Donauwalzer – Österreichs heimliche Nationalhymne」、Salzburger Nachrichten「Der Donauwalzer als erster Schlager der Musikgeschichte」



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アールベルクのゲレンデを豪快に下る中川さん
ヴェルビエの壮大な景色
チェルヴィニアのリフトからの眺め















