ニュースダイジェストの制作業務
Wed, 17 December 2025

LISTING イベント情報

ディケンズの「クリスマス・キャロル」がかけた魔法

世界中のスクルージたちを改心させた
チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」がかけた魔法

文豪チャールズ・ディケンズが著した名作「クリスマス・キャロル」。170年以上にわたって世界中の読者を魅了し続けてきたこの作品が持つ意義は、単に英国の国民的作家が出したベストセラー書籍であるという点に留まらない。ディケンズはこの作品を通じて当時の社会を変えようとし、また何人もの人々がその呼び掛けに応じた。「クリスマス・キャロル」が残した社会的影響を振り返る。

Sources: Charles Dickens Museum,「Christmas Carol」 by Charles Dieckens,「Dickens」by Peter Ackroyd, The Daily Telegraph, The Guardian ほか

チャールズ・ディケンズと「クリスマス・キャロル」の初版左)チャールズ・ディケンズ 
右)1843年に刊行された「クリスマス・キャロル」の初版

「クリスマス・キャロル」
Chirstmas Carol - Charles Dickens

1843年12月19日に発表された、英作家チャールズ・ディケンズによる初の書き下ろし小説。物語の舞台はロンドン。主人公は強欲で意地が悪く、周囲から忌み嫌われている初老の男性スクルージ。彼がクリスマス・イブに3人の幽霊との出会いを通じて改心し、慈悲にあふれた人間へと生まれ変わるまでを描く。同作品は発売直後から大ベストセラーとなり、現在に至るまで何度も映画化または舞台化されている。

かつてクリスマスはクリスマスではなかった

今年も英国のクリスマス・シーズンが始まった。テレビをつければクリスマス・プレゼント用の商品を宣伝するCMが盛んに流れ、各地の大通りではクリスマス・ツリーと芸術的な装飾を施した冬仕様のウインドー・ディスプレーが買い物客を出迎える。英国人たちは帰省する計画を立て始 め、レストランはクリスマス・ディナーの予約受付を開始するころ。今年一年お世話になった人々に贈るクリスマス・カードもそろそろ用意しなければならない。

本来であれば最も忙しなく、そして気が滅入りそうになるほどに日照時間が短い季節だ。それでも英国人たちは、クリスマスに向けて、多少の無理をしてでも家族や友人との絆を確かめ合い、他者に対して温かくそして優しくあろうと努める。恋人同士が高級レストランで食事をする日と化した日本とは事情が異なり、英国のクリスマスにはどこか博愛的な雰囲気が漂う。

だが、私たちが知っているこうしたクリスマスの風景が形作られたのは、チャールズ・ディケンズが生きた19世紀初頭のヴィクトリア時代以降のことだという。それまで労働者階級の人々は家族そろってクリスマス・プディングを食べるといった習慣を古くから続けていた一方で、都市部の中産階級においてはそうした風習が廃れ始めていた。当時、街中でツリーを見かけることはない。カードを贈り合う習慣さえない。詰まるところ、そのころのクリスマスは、現代の私たちが知るクリスマスではなかったのだ。そして、一度は廃れかけたクリスマスを英国に蘇らせた一人が、英国の国民的作家であるチャールズ・ディケンズだった。

ゲッド・スクール ヴィクトリア時代に運営されていた「ラゲッド・スクール(ボロボロの学校の意)」。
ディケンズが訪問したフィールド・レーン貧民学校もその一つだった

社会問題が噴出していた19世紀のロンドン

ディケンズが生きた19世紀の英国は、まだ産業革命を経たばかり。急速な工業化や都市化の影響を受けて、失業者の増加、疫病の流行、スラム街の発生、長時間労働に児童労働といった都市問題が噴出していた時代でもあった。

ディケンズは、そうした一連の社会問題をつぶさに観察していた。父親の借金問題に悩まされた彼自身、12歳で靴墨工場へと働きに出ている。新聞記者時代には、機械打ち 壊し運動や農民による食料暴動といった階級対立に端を発する事件の数々に毎日のように触れていた。専業作家となってからも、イングランド北部マンチェスターや同中部バーミンガムといった工業地帯を訪問。実体験や取材を通じて知った社会の暗部を小説の中に描き込むことで、その実態を広く世に知らしめようとした社会派作家だった。

1843年10月、ディケンズはロンドン北部のカムデン地区にあるフィールド・レーン貧民学校を訪問する。福音主義者による慈善事業として運営されていた同校は、当時の児童たちを取り巻く劣悪な環境の縮図だった。生徒たちは、不潔で、非常識で、読み書きができない子供たちばかり。自ら窃盗や売春に手を染めて生計を立てている者さえいるという有様だった。

その様子を見て衝撃を受けたディケンズは、直ちに新作の執筆作業に取り掛かる。その作品こそが「クリスマス・キャロル」だった。強欲なスクルージは言わば「持つ者」。スクルージの書記として薄給で働くボブ・クラチットや、その息子である障害を持つ少年ティムは「持たざる者」。クリスマスのロンドンを舞台としたこの物語には、持つ者は持たざる者へ助けの手を差し伸べるべきという明確なメッセージが込められていた。

「クリスマス・キャロル」が世の中を変えた

「クリスマス・キャロル」は、発売後約1週間で6000部を売り上げる大ベストセラーとなった。年が明けてからも本の売れ行きは止まらなかったという。単に多くの人々がこの本を手にしたというだけではない。改心したスクルージの姿に感銘を受けて、自らも心を改めようと決心する者が続出した。

「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者として知られるスコットランド作家のロバート・ルイス・スティーヴンソンは、同作を読了後にこれまでよりも多くの寄付を行うと宣言。歴史家のトーマス・カーライルは、人付き合いが悪いことで有名であったにも関わらず、クリスマス・ ディナーを一度ならず二度も開催するに至る。巷では「メリー・クリスマス」という挨拶が流行し、国内の寄付金額は急増。ブームは米国にまで飛び火し、クリスマス期間に全社員に対して特別休暇と七面鳥をプレゼントする経営者まで現れ始めた。ディケンズの「クリスマス・キャロル」を読んだ現実世界のスクルージたちが、小説の登場人物のように生まれ変わろうとしていたのだ。

ときを同じくして、英国のクリスマスの風景に変化を起こす様々な出来事が起きていた。「クリスマス・キャロル」が刊行された同年には、後にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の初代会長を務める発明家のヘンリー・コールが世界初の商業用クリスマス・カードを制作。その4年後となる1847年には、ロンドンの菓子職人がクリスマス・クラッカーを発明した。また1840年にヴィクトリア女王と結婚したドイツ生まれのアルバート公は、同国の伝統であったクリスマス・ツリーを飾る習慣を英国へと導入。1848年のクリスマスには、ヴィクトリア女王を始めとする王室メンバー一同が、ウィンザー城内に設置されたクリスマス・ツリーの前に集まる様子を描いた版画が大手新聞に掲載された。またアルバート公は、ウィンザー城近郊にある学校施設や軍の兵舎にもツリーを寄付。やがてクリスマスになると英国中にツリーがあふれるようになる。  

こうして、クリスマス・キャロルの刊行からわずか5年間で英国のクリスマス事情は激変。階級や住む地域を問わず、誰もが幻想的な雰囲気に包まれながら他者に対して温かな眼差しを向ける季節へと変わっていった。

ヘンリー・コール、アルバート公 左)世界で初めて商業用クリスマス・カードを制作したヘンリー・コール
右)ドイツから英国にクリスマス・ツリーを導入したアルバート公

クリスマス・キャロルに始まりそして終わる

クリスマスの物語を通じたディケンズの啓蒙活動は、「クリスマス・キャロル」の執筆後も続いた。まず彼は第二の「クリスマス・キャロル」を求める読者の要望に応じ続けるという宿命を負うことになる。彼が友人に書いた手紙には、読者たちが期待していることを知っておきながら、クリスマスをテーマとした新作を執筆しないことに罪悪感を覚えるといった内容が記されていたという。自身が編集長を務め る週刊文芸誌ではクリスマス特別号の発行を定例化。その生涯で5冊に及ぶクリスマスの物語を刊行、クリスマスの風景を描いた中短編は総計20作を超える。

またディケンズは、当時まだ極めて異例であった著者本人による朗読会を再三にわたり開いていた。最初の朗読会で選んだ著書は、やはり「クリスマス・キャロル」。かつて俳優になることを志していたこともあるというディケンズの朗読ぶりは、身振り手振りを交えながら登場人物によっ て声色を変えるといった具合に本格的なものだったという。

1870年にロンドンで開催された朗読会で「クリスマス・キャロル」を披露した際には、既に58歳になり、体調を悪 化させていたディケンズが最後に観客に向けて「これから 永遠に姿を消します」と挨拶。足踏みと大歓声が響く会場で、彼は涙を流しながら感謝の投げキスを観客席に向けて 送ったという。その3カ月後に死去。ディケンズの朗読会は「クリスマス・キャロル」で始まり、そして終わった。

彼の死から150年近くが経過した今も「クリスマス・キャロル」は増刷を続けている。そして、何よりもディケンズ が伝えようとした慈愛の精神は英国社会にしっかりと根付いている。この冬も、ツリーやウインドー・ディスプレーに彩られた街並みの中心には、きっと寄付やボランティアの手を募る各慈善団体の人々の姿を見ることができるはずだ。ディケンズがかけたクリスマスの魔法は、21世紀となった今でも、まだ解けていない。

チャールズ・ディケンズ博物館チャールズ・ディケンズ博物館にある応接間。
ディケンズはここでも頻繁に朗読会を開いていたという

「クリスマス・キャロル」で言及されているロンドンの場所

  • カムデン・タウン
    カムデン・タウン
    スクルージの書記として働くボブ・クラチットとその家族が住んでいる地域。ディケンズ自身が幼少期にこの街で家族とともに暮らしていた
  • コーンヒル
    コーンヒル
    金融街シティ内にある大通 りで、スクルージの事務所がこの近くにあるという設定。クラチットが凍結したこの道を滑り降りたと描かれている
  • マンション・ハウス
    マンション・ハウス
    金融街シティの市長の住居。物語では、この「壮大な邸宅」に住む市長が「50人の料理人と執事にクリスマスに向けての準備をさせる」と伝えている
  • ホワイトチャペル
    ホワイトチャペル
    スクルージの勘の良さについて、物語の語り手が「ホワイトチャペルの針よりも鋭い」と表現。かつて同地域では上質の針が生産されていた
  • 王立取引所
    王立取引所
    3人目の幽霊に連れられて、物語の舞台は王立取引所前へ。ここで噂話をしていた人たちの会話から、最近になって評判の悪い男が死んだことが明らかになる

チャールズ・ディケンズ博物館のキュレーター
ルイーザ・プライスさんが語る「クリスマス・キャロル」

ディケンズが生きたヴィクトリア時代の英国では、いわゆる超常現象をテーマとした物語が流行していました。ディケンズは超常現象そのものには非常に懐疑的だったようですが、物語としては関心を持っていたのでしょう。「クリスマス・キャロル」に幽霊が登場するのはそうした当時の流行を反映したものだと考えられます。

またディケンズは、クリスマスの季節に様々な家族がそれぞ れの家の暖炉のそばに集い、朗読して楽しむことができるようにと願いながらこの物語を執筆しました。あらかじめ音読されることを想定して書かれているからこそ、舞台やラジオ・ドラマの題材としても相応しい作品であると言えるでしょう。

Charles Dickens Museum
チャールズ・ディケンズ博物館

チャールズ・ディケンズ・ミュージアム

ディケンズが1837年より家族とともに住み始めた自宅。「クリスマス・キャロル」を始めとする代表作の多くがこの家で生まれた。またディケンズはこの場所で著書の朗読会も頻繁に開催したという。現在は博物館となっており、1月7日までは同作品にちなんだ数々の特別イベントを実施(要予約)。1時間のパフォーマンスや、19世紀におけるクリスマスの風景を再現したクリスマス・イブのひととき、朗読会などを開催する。

Charles Dickens Museum
10:00-17:00(12月24日までは18:00 25、26日は休館)
£12.50
48 Doughty Street, London WC1N 2LX
Tel: 020 7405 2127
Russell Square駅
https://dickensmuseum.com

チャールズ・ディケンズ・ミュージアム

「ホワイト・クリスマス」もディケンズが広めた?

「クリスマス・キャロル」は「ホワイト・クリスマス」という概念さえ私たちの脳裏に焼き付けたという。そう言われても、クリスマスと言えば雪景色という視覚イメージが既に自明のものとなった現代人にはあまりピンとこないかもしれない。だが、そもそも英国では12月末は雪が降る季節ではない。とりわけロンドンにおけるクリスマスの降雪は非常に稀な現象で、気象庁の統計によるとその確率はわずか6%。それではなぜ英国の人々は毎年ホワイト・クリスマスの到来 を願うのか。その理由の一つとして、ディケンズが 「クリスマス・キャロル」の中でホワイト・クリスマスとなったロンドンの風景を印象的に描いていたということが挙げられる。著名な伝記作家であるピーター・アクロイド氏によると、実際にディケンズの幼少期には例外的に極端に寒い冬が続き、クリスマスに雪が降ることがしばしばだったという。

 

ミレイのオフィーリアの隠された秘密。モデル、シダルの悲運とは

ヴィクトリア朝の英国を席巻した、悲恋のモデルの正体とは? ミレイの傑作絵画「オフィーリア」を解説

英国の美術史における最高傑作の一つとされる、ミレイの絵画「オフィーリア」。シェイクスピアの悲劇「ハムレット」に登場するオフィーリアの死は、様々な絵画や映画の題材となった人気の場面だ。なかでもミレイのオフィーリアは、イギリスらしい自然風景がロマンティックとも言える唯美主義的世界観を演出し、意味ありげなミステリアスさも相まって、高い人気を博している。ロンドンの美術館テート・ブリテンで展示されているこの名作には、実は、様々なドラマが隠されていた。オフィーリアのモデルを務めた悲劇のモデル、エリザベス・シダルの人生に迫る。

ミレイ作「オフィーリア」

「オフィーリア」ジョン・エヴァレット・ミレイ作

英作家ウィリアム・シェイクスピアによる「ハムレット」の一場面を主題とした作品。恋人のハムレットに自身の父親を殺されたショックで発狂した末に溺死したオフィーリアの姿を描いている。作者はジョン・エヴァレット・ミレイ。19世紀の英国で結成された芸術グループ「ラファエル前派」に属していた、英国人画家だ。英国留学経験のある夏目漱石の「草枕」にも、本作品について言及した箇所があることからも、人気の高さがうかがえる。ロンドンにある国立美術館、テート・ブリテンの常設展で見ることができる。

Tate Britain(Room: 1840)
10:00-18:00
無料
Millbank, London SW1P 4RG
Tel: 020 7887 8888
Pimlico駅
www.tate.org.uk/visit/tate-britain

ジョン・エヴァレット・ミレイ(左)テート・ブリテン

テート・ブリテンのキュレーター、
アリソン・スミスさんが語る「オフィーリア」

「オフィーリア」は、テート・ブリテンに展示されている数々の絵画の中でも一、二を争う人気作品です。死という概念を美しく表現したこの絵画が観る者を魅了するからでしょう。ミレイは、胸を打つような束の間の光景を、細部に気を配りつつ、鮮やかに描いています。

長年を経ても色褪せることのない透明感のある緑色も特徴的です。また実際に美術館を訪れ、原画を目にする多くの人々が、オフィーリアの身体の水上に浮かんだ部分と水面下のそれとのコントラスト、画面前景の水草や川岸に生える群葉の綿密な描写に驚きの声を上げます。

ミレイを始めとするラファエル前派の画家たちは、詳細を描き込み、鮮やかな色を用いた上で、背景を含む全体に均等に焦点を当てる傾向があります。「オフィーリア」においても、ミレイは主題となるオフィーリアの姿と周囲にある水草、そして川岸を飾る植物のすべてを同等に描き出しました。この均等な構図が、この作品に強烈な印象を与えていると思います。

帽子屋の看板娘から絵画モデルへの転身

ロンドン中心部のレスター・スクエア駅前。映画館、劇場、カジノ、バーといった娯楽施設が密集するこの一帯は、ときに真っ直ぐ歩くことさえままならないほどに、いつも大勢の人々で賑わっている。

今から百数十年前となる19世紀半ば、この辺りには婦人服の仕立屋が軒を連ねていた。各店は、店の前を行き交う通行人に対して激しい売り込み攻勢を展開していたという。売り込みをかけるのは、店の看板娘たち。彼女らは、店番や服作りの作業に加えて、試着モデルとしても働きながら、通りすがりの紳士や淑女たちを半ば強引に店内へと呼びこんでいた。

そんな売り子たちの一人に、赤毛が特徴的な20歳の女性、エリザベス・シダルが紛れていた。「ジンジャー・ヘア」と呼ばれる赤毛への偏見がまだ強かった時代のこと。長身で細見のプロポーションを持ちながらも、シダルは決して万人受けするタイプの美貌の持ち主ではなかったという。しかし、そのころにちょうど赤毛のモデルを探していたウォルター・デヴェレルという米国生まれの英国人画家がいた。知人の紹介を得てシダルの存在を知ったデヴェレルはこの帽子屋を訪問し、即座に見惚れてしまう。そして自身が描く絵のモデルを務めてもらうよう依頼した。つまりはスカウトだ。

ただし、その場ですぐに声をかけることができたわけではない。ヴィクトリア朝の英国においては、絵のモデルは売春婦と同じような存在として見なされていたからだ。ましてやシダルは信心深い家庭の出身。デヴェレルはシダルとその家族に対し、彼女を言わば水商売の世界に引き入れるための承諾を得なければならなかったのだ。まずは自分の母親を同伴した上で帽子屋の主人を説得する。続いて、まだ貧しく不衛生な地域と見なされていたロンドン東部サザークにあるシダルの実家へ。デヴェレルはまたしても母親を同伴した上で説明を行い、シダルの母親から許可をもらうことに成功する。これが、シダルが後に世界中に知られる絵画モデルに転身するきっかけとなった。

クランボーン・ストリート

シダルが働く帽子屋がかつてあったクランボーン・ストリート。レスター・スクエア駅のすぐ目の前にある。彼女はロンドン東部サザークの自宅からこの通りまでの道のりを毎日徒歩で通った。勤務時間は早朝から夜8時までに及び、繁忙期には徹夜作業を行うことも珍しくなかったという

ラファエル前派の間で引っ張りだこに

このころ、英国では「ラファエル前派」なる芸術グループが形成されていた。「ラファエル」とは、ルネサンス期のイタリアを代表する画家ラファエロ・サンティの英語名。それでは「前派」の「前」は何を意味するのか。

ラファエロと言えば、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶルネサンスの3大巨匠の一人だ。英国の美術界でも長らく、ラファエロとその作品が古典的権威として崇められてきた。17世紀前半にはチャールズ皇太子(後のチャールズ1世)が、「ラファエロのカルトン」と呼ばれる大作を購入。バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂で特別な儀典が行われる際に使うタペストリーの下絵を意味するこの「カルトン」は以来、現在に至るまで英国の王室コレクションとして保存されている。また18世紀に王立芸術院の初代会長を務めたジョシュア・レイノルズが「画家の最高峰」であると述べるなど、ラファエロは英国の美術界における教科書的な存在だった。

一方で、こうした美術界の潮流に反発を示す芸術家たちがいた。当時高く評価されていた絵画作品の多くは主題が聖書の場面などごく狭い範囲に限定され、さらには薄暗い色を多用するため、ときに退屈な印象を与えるという側面があったからだ。彼らは、この潮流の源泉がラファエロの作品にあるとし、彼が登場する以前のイタリア絵画に描かれた豊かな色彩と生き生きとした描写を取り戻すと宣言。「ラファエル前派」を結成し、聖書に加えて、アーサー王物語、シェイクスピア作品といった中世の物語を主題とした絵画を描いた。このグループに属していたのが後にシダルの夫となる画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティや「オフィーリア」を描いたジョン・エヴァレット・ミレイであり、また彼らと深い交友を築いていたのがシダルを発掘したデヴェレルだった。

シダルの存在は、ラファエル前派の画家たちの間でたちまち評判を集めるようになり、彼女の元にモデルの仕事の話が次々と舞い込むようになる。とりわけロセッティは、シダルがデヴェレルのモデルを務め始めたその翌日に早くも彼女に接近。間もなくしてロセッティとシダルは周囲から恋人同士と認識されるようになる。

ヴィクトリア&アルバート博物館

ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で展示されている「ラファエロのカルトン」。後に清教徒革命を受けて処刑されるチャールズ1世が皇太子時代に購入したことからもうかがい知れるように、不動の地位を築いていたラファエロの絵画は英国でも高く評価されていた

慰謝料請求にまで発展したリアリズム

ところ変わって、ロンドン郊外南西部のオールド・モルデン。韓国人街として知られるニュー・モルデンの南方にあるこの街には、テムズ川の支流となるホグスミル川が流れ、緑豊かな住宅地の風景に彩りを添えている。

百数十年前のある日、ミレイはこのホグスミル川の川岸に画架を置き、ひたすら筆を動かし続けていた。不法侵入によって周囲の自然を破壊しているとの当局からの警告を受けながら、巨大な蚊が辺りを飛び交い、強風が吹きすさぶ川岸で1日11時間、週6日にわたり絵を描く生活を5カ月間続けたという。「オフィーリア」の背景となる水草や木などをつぶさに観察した上でキャンバスに描き込むための準備だった。

ミレイが描く「オフィーリア」のモデルはシダルが務めることになっていた。ただし、川岸で背景を描くだけでも困難を伴う状況下において、シダルの身体ごとホグスミル川に浮かべることはさすがにできない。そこで考え出したのが、ロンドン中心部にある自身のアトリエに備え付けられた湯船に水を張り、そこに浸かるシダルを描いた上で背景と重ね合わせるという案だった。ミレイが購入した古着のウェディング・ドレスを着用して、浴槽に浮かぶシダル。浴槽の下には石油ランプを設置し、水温を一定に保つ仕組みにはなっていた。しかし、絵の制作に没頭していたミレイはランプの灯が消えてもこれに気付かず、ひたすら冷たい水の中で我慢を強いられたシダルは肺炎症状を引き起こしてしまったという。この出来事を知って怒りを覚えたシダルの父親が、後にミレイに対して慰謝料を請求する事態にまで発展している。

ともかく、こうして紆余曲折を経て完成した「オフィーリア」は、すぐに売り手が見つかった。翌年には倍額以上の値で転売され、ロンドンの王立芸術院でも一般公開。パリの展覧会で展示された際には、既に交際関係に発展していたシダルとロセッティがそろって渡仏し、「オフィーリア」を鑑賞している。

ラファエル前派が結成された場所

ミレイのアトリエがかつてあった建物。大英博物館の近くに位置する。現在は「ラファエル前派が結成された場所」と記された銘板が掲げられている

現実のオフィーリアが生きた悲劇

「オフィーリア」は、シダルが生きていた時代に既に広い注目を集めていた。シダルに とって、この事実は同時に、売春婦扱いを受けていたモデルとしての姿を世間にさらけ出すことを意味した。絵画モデルとして働き始めた直後から交際を始めたロセッティからも十分な愛を受けないままに、シダルは残りの人生を送ることになる。  

ロセッティはシダルに対し、自分以外の画家たちのモデルを務めないよう求めていた。一方で、彼はほかの女性との交際を重ね続けてもいた。相手は、別の絵画モデルや、同じラファエル前派のメンバーの愛人など。シダルはミレイが描いたオフィーリアを彷彿させるかのように、実生活においても悲恋の運命を生きたのだった。交際期間が10年を経過してもロセッティは結婚しようとしない。彼の一方的な婚約破棄は複数回に及んだ。公然の仲であるにも関わらず、友人や家族に恋人として紹介されることもない。彼の周りには常に自分以外の女性の存在が付きまとう。

やがて健康を害し始めたシダルは、家庭薬として当時使われていた麻薬の一種であるアヘンチンキを多用するようになる。その副作用から摂食障害や鬱症状などを引き起こし、症状を収めるためにまたアヘンチンキを服用。ロセッティとの悲恋を憂うがあまりに心身のバランスを崩し、彼の関心を買うために食事を拒むという悪循環に陥っていた。

ロセッティがようやく結婚に踏み切ったのは1860年。既にシダルの体調が深刻な状態に陥ってからのことだった。結婚直後に妊娠するも死産。2人目を妊娠中だった1862年2月、シダルは一人で自宅にいる際にアヘンチンキを過剰摂取したことが直接的な原因となり、32歳で短い生涯を閉じた。

画家だけでなく、詩人としても活動していたロセッティは、シダルへの想いを綴った詩を彼女の棺桶の中に入れて埋葬した。しかし大切な作品を地中に埋めてしまったことを悔やんだロセッティは、後にロンドン北部ハイゲートにあるシダルの墓を掘り起こさせるという暴挙に出ている。悲しみと美しさを漂わせながら死んでいった悲恋の「オフィーリア」のモデルは、美しい死に姿を保つことさえ許されなかった。

ロンドン中心部ホルボーン駅近くに
今も残るロセッティの旧宅

Sources: Lizzie Siddal The Tragedy of a Pre-Raphaelite Supermodel by Lucinda Hawksley, The Times, The Daily Telegraph, Tate Britain, the Pre-Raphaelite Society Review ほか

 

フィリップ殿下、エリザベス女王の伴侶となるまでの人生

亡命、家庭崩壊、日本の降伏を目撃フィリップ殿下、エリザベス女王の
伴侶となるまでの人生

エリザベス女王とフィリップ殿下

この記事は、2019年に書かれたものです。

2019年の6月に98歳を迎えたフィリップ殿下。公務は引退しているものの、高年齢での運転で衝突事故を起こしやっと運転免許を返上するなど、若い時からのマイペース振りは健在だ。英史上最長の在位期間を誇るエリザベス女王の伴侶として、チャールズ皇太子が激しく反発した厳格な父親として、そしてときに過激なユーモアを発する好々爺として英国民から愛されてきた彼は、壮絶な人生を歩んでいた。彼の人格形成に大きく寄与したと言われる波乱万丈の生い立ちや、エリザベス女王との出会いを振り返る。

1フィリップ殿下とエリザベス女王の
ひいひいおばあさんは同じ
華麗なる家系図

フィリップは1921年6月10日、当時のギリシャ国王の弟の長男として生まれた。フィリップ殿下の父方のひいおじいさんはデンマーク王。このデンマーク王がエリザベス女王のひいおばあさんの父親、つまりはひいひいおじいさんに当たる。2人は遠い親戚関係にあったのだ。

さらに2人は、フィリップの母方の家系を通じても親戚関係にある。フィリップの母親アリスは、エリザベス女王から4代さかのぼった英国の君主であるヴィクトリア女王の血を受け継ぐ王女とドイツ系英貴族の間の子。なんとアリスは現在エリザベス女王とフィリップ殿下が休日を過ごすウィンザー城で生まれている。19世紀後半の大英帝国を率いたヴィクトリア女王は、双方にとってのひいひいおばあさんというわけだ。つまり、父方と母方のいずれの家系においても、4、5代さかのぼれば2人は同じ祖先にたどり着くということになる。

フィリップ殿下とエリザベス女王の親戚関係(家系図)

2生まれてすぐに亡命生活に突入

王位継承順位第6位のギリシャ王族として生まれたフィリップだったが、間もなくして同国でクーデターが発生し、両親と4人の姉とともに亡命生活を余儀なくされる。このとき、フィリップは生後わずか1歳6カ月。親戚関係にあった、エリザベス女王の祖父であるジョージ5世の手助けを受けながらギリシャを抜け出した一家は、フィリップの両親がロンドンでジョージ5世に謁見するなどした後で、パリ市内中心部に程近い、モンマルトルの丘とエッフェル塔が見渡せる場所に居を移した。このころフィリップの家族は、英語、フランス語、ドイツ語が飛び交う家庭環境で暮らしたという。

エリザベス女王とフィリップ殿下エリザベス女王即位60周年を祝うダイヤモンド・ジュビリーにおける水上パレードでのエリザベス女王とフィリップ殿下

3母親は躁うつ病、
父親は愛人と酒で家庭崩壊

亡命生活が始まって以後、フィリップの母親は躁うつ病のような症状に悩むようになる。またオカルトにものめり込み、グラスの上に置いた指が勝手に動いて精神世界が発するメッセージを書き表すという日本の「こっくりさん」に似たような現象に凝ったり、イエス・キリストと結婚した唯一の人間であると信じたりするようになった。日常生活を送るのが困難になったため、フィリップの母親はやがてスイスにある療養所に収容された。

一方の父親は、愛人と暮らすためにモナコへと姿を消してしまう。その不倫相手というのが、ナポレオン3世や印象派画家のマネなどの愛人だった女性のひ孫という言わば愛人のサラブレッド。また父親は、モナコで酒や賭け事にも溺れていたと伝えられている。そして4人いた姉たちは次々と結婚していった。残されたフィリップは、幼くして孤児も同然となってしまったのである。

4イングランドの寄宿制学校に転校

家庭崩壊の憂き目にあったフィリップは、母方の家族の勧めを受けて、8歳のときにパリのアメリカン・スクールから、イングランド南部バークシャーにある寄宿制の私立小学校チームに転校する。寄宿制の学校の生徒となったことで、フィリップの面倒を誰がみるかという問題は部分的に解決。学期休みの期間は、祖母が暮らすケンジントン宮殿で過ごすなどしていた。

同校への入学時には英語よりもフランス語を流暢に操ることができたといい、数学やスポーツでは優秀な成績を残した。運動神経は良かったようで、校内大会では、高跳び、水泳、飛び込みなどの種目で入賞。サッカーではゴール・キーパーのポジションを獲得、クリケットでも活躍したという。

エリザベス女王の公式誕生日2015年6月、バッキンガム宮殿から馬車でパレード

5ナチスの敬礼で笑い転げる

フィリップが13歳になったとき、ドイツ系貴族の血を受け継ぐ母方の親戚は、フィリップをドイツ南部ボーデン湖の近くにある学校ザーレムに入学させた。当時のドイツと言えば、ナチスが影響力を次第に高めていった時代。校内にはかぎ十字が描かれた旗がはためいていた。フィリップは、ナチス特有の敬礼が、同校の生徒がトイレに行きたいときの決め事となっている手の挙げ方と似ていたことから、その敬礼を見る度に笑い転げていたという。

結局、ドイツでの通学は一年で終了。ユダヤ系であったザーレムの校長がナチスから逃れてスコットランドに新設した、ゴードンストウン校に転校した。強靭な人格を形成することを主眼とする規律の厳しい男子校で、同校では航海技術の訓練が必修となっていた。ここで航海技術を習得したフィリップは、卒業後、イングランド南東部端にあるダートマス海軍兵学校に入学。ここが、エリザベス女王との出会いの場所になる。

6テニス・コートで高跳びを披露して
エリザベスを魅了

同じ祖先の血を分けた王家の親戚付き合いの一環として、フィリップとエリザベスまたその家族は、2人の結婚前から数度にわたり同じ場に居合わせたことがある。例えば幼少時のフィリップは、両親とともにエリザベスの祖母であるメアリー王太后とバッキンガム宮殿でお茶をともにしたことがあり、またウェストミンスター寺院で執り行われた親戚の結婚式にはフィリップとエリザベスがともに出席している。

しかし、2人が本当の意味で出会ったのは、フィリップが18歳、エリザベスが13歳のとき。当時の英国王ジョージ6世がダートマス海軍兵学校を訪問した際に、長女のエリザベスのお世話役を、同校に通っていたフィリップが務めることになった。容姿端麗かつ子供の扱いも上手だったフィリップは、しばらく電車のおもちゃで遊んだ後で、テニス・コートへエリザベスを誘い、そのコートに張られていたネットの高跳びを披露したと伝えられている。その間、エリザベスはフィリップから目を離すことがなく、その場でお付きの人々にフィリップの素晴らしさを語り続けたり、翌日になっても自ら積極的にフィリップに話し掛けにいったという。以後、フィリップが親戚付き合いなどを兼ねて王室関連行事に出席する度に、エリザベスは彼への関心を高めていった。やがて周囲では2人の結婚についての可能性がちらほらとささやかれるようになる。

エリザベス女王の公式誕生日エリザベス女王の公式誕生日祝賀パレードでバッキンガム宮殿前に集まった人々に手を振る

7日本の降伏文書調印を目撃

ダートマス海軍兵学校を卒業したフィリップは、士官候補生として英海軍に入隊。第二次世界大戦に従軍した。戦争中は着実に昇進を重ね、その間、既に恋仲となっていたフィリップとエリザベスは遠距離恋愛を続ける。フィリップはエリザベスの写真を航海中の船室内に掲げ、またエリザベスは宮殿内の一室にフィリップの写真を置いていた。変な噂を立てられてはいけないからとお付きの人間に自重を求められると、エリザベスは顔中に髭をたくわえたフィリップの写真に差し替えて「これでも誰の写真か分かるという人がいたら無視する」と言い放ったという。

当時の日本と英国は敵国同士。フィリップが乗艦していた駆逐艦は日本との戦闘に関わる作戦にも参加し、1945年に日本が降伏文書を調印する場となった米国の戦艦ミズーリ号の警護も担当した。また日本が香港総督府で英軍への降伏文書に調印する際には、フィリップもその場に居合わせたという。

8何もかも捨てて様々な障害を乗り越える

終戦後間もない1946年の夏、フィリップはエリザベスの母親に誘われて、バルモラル城で3週間の休暇をともに過ごした。このときにエリザベスに求婚したとされている。

2人が結婚に向けて本格的に動き出したときに周囲から問題視されたのが、彼の粗野な振る舞いと、ギリシャ生まれでドイツ系の家系という出自だった。とりわけ後者に関しては、戦時中のナチス・ドイツの行いについての印象が英国内でまだ根強く残っており、また王室関係者の間では妬みややっかみからフィリップの悪評を広めようとする者たちがいたという。当時行われた世論調査でも、2人の結婚に対する賛否がほぼ真っ二つに分かれ、反対意見の中には外国の王家との結婚に異を唱える声が含まれていた。

こうした声に応えるかのように、フィリップはこの年の冬、戦時中に英軍に従軍した外国人枠を利用して英国に帰化を申請。翌年の春にはこの申請が認められたと発表された。またギリシャ及びデンマーク王子の称号を捨て、ギリシャ正教から英国国教会に改宗、ナチス関係者と結婚した者も含まれていたという4人の姉妹は、エリザベスとの結婚式に招待さえされなかった。こうした困難を経て、フィリップが26歳、エリザベスが21歳のときに、2人は晴れて結婚。1952年にエリザベスが女王となってからは、フィリップも女王を支える良き伴侶として、現在に至るまでの人生を歩み続けているのである。

新婚旅行1947年、新婚旅行において、エリザベス女王と散歩を楽しむフィリップ殿下

2019年、図らずも
変わらぬ健在ぶりを披露した
フィリップ殿下

フィリップ殿下

2017年の夏に正式に公務を引退したフィリップ殿下だが、その後もヘンリー王子やユージーン王女の結婚式で、そのかくしゃくとした姿を見せている。一方で2019年1月には、自ら運転するランド・ローバーで追突事故を起こし、自分の車を派手に横転させるという事件も起こし、国民を驚かせた。

衝突事故を起こすも無傷だった

事故は1月17日、英東部サンドリンガムのエリザベス女王の私邸近くのT字交差点で発生。相手の車に同乗していた2人の女性が重軽傷を負った。フィリップの車は横転したが、怪我はなかった。フィリップは「あの交差点は何度も使っているが、日差しが強く、近づいてくる車が見えなかったとしか思えない」と釈明している。その後、各種タブロイド紙は、この事故で被害に遭った女性がフィリップ本人から何の謝罪の言葉もないことに不満を感じていると相次いで報道。やがて、1月27日付の日曜紙「サンデー・ミラー」は、フィリップが「大変申し訳ない」と謝罪の手紙を送ったことが分かったと報じ、ミラー紙も「彼は説明を尽くそうと努めており、そのことに感謝する」と女性の言葉を伝えた。

97歳、しぶしぶ運転免許返上

王室は2月9日、フィリップが運転免許証を返上したと発表。フィリップは交通事故を起こした3日後に、新しいランド・ローバーをシートベルトも締めずに運転する姿が写真に撮られるなどして、批判を浴びていた。王室は声明で「慎重な検討の結果、殿下は免許証を自主的に返上することにした」と説明。事故の後、フィリップはエリザベス女王やチャールズ皇太子からひどく怒られたようだと、タブロイド紙が報じた。ちなみに天皇陛下は85歳の誕生日に運転免許の更新を行わず、そのまま失効させている。

訴追は見送りに

自動車を運転中に衝突事故を起こしたフィリップについて、検察当局は2月14日、訴追しない方針を明らかにした。声明によれば、検察は警察の捜査情報に基づき、事故の状況を精査したが、殿下の年齢などを考慮し、訴追が「公益にならない」と結論付けるに至ったそう。

車の破片がeBayに出品される

1月17日の事故の数日後、フィリップの車の一部が、ネットオークション・サイトのeBay に出品されていたとBBC が伝えた。

eBay の出品情報欄には、「フィリップ殿下のものと思われる血液が付着しているので、殿下のクローンを生むこともできる」、というジョークのほか、「売上げはチャリティー団体のキャンサー・リサーチUK へ寄付する」と書き込まれていたという。この破片の価値はともかく、その入札件数は139件を超え、入札価格は破格の6万5900ポンド(約929万円)に達した。しかし現在は同サイトのポリシーにのっとり出品は取り下げられており、フィリップの事故車の破片は幻のアイテムと化した。

事故現場2019年1月18日、事故現場で車の破片を撮影するメディア関係者たち

Sources: Young Prince Philip: His Turbulent Early Life by Philip Eade、The Independent「A strange life: profile of Prince Philip」、Daily Mail「Extraordinary picture which captures the moment Prince Philip met the Queen for first time when she was just 13」、BBC「Prince Philip: The Iron Duke」、英王室公式ウェブサイト、戦艦ミズーリ記念館、BBC「Prince Philip unhurt in crash while driving」、The Sunday Mirror「Prince Philip's apology letter to car crash victim in full」、BBC「 Prince Philip crash: Debris for sale on eBay」、時事通信ほか

 

今井美樹インタビュー - ロンドンの「色」が加わった旅の軌跡

今井 美樹 ロンドンの「色」が加わった旅の軌跡

今年1月に満を持して行われた、ロンドン初となるコンサートは、大成功のうちに幕を閉じた。5月には、英国で制作したオリジナル・アルバムを発売。こちらでの生活も丸3年が経過した。今年、デビュー30周年を迎える歌手・今井美樹。英国で地に足をつけ、着実に積み重ねてきた日々の結晶が、彼女の歌手人生に 新たな輝きを添えつつある。ロンドンで日常を過ごす自宅で、この地での音楽活動、そして30年という歌手人生の軌跡を振り返ってもらった。
(本誌編集部: 村上 祥子)

MIKI IMAI 1963年4月14日生まれ。宮崎県出身。モデル、女優としての活動をスタートさせた後、86年に「黄昏のモノローグ」で歌手デビュー。数々の連続ドラマに主演する一方で、「瞳がほほえむから」(89年)、「PIECE OF MY WISH」(91年)、「PRI DE 」(96年)などの大ヒット曲を生み出した。2012年8月、家族とともに来英。2013年にユーミン(松任谷由実)のカバー・アルバム「Dialogue」をリリース。今年1月にはロンドンのカドガン・ホールでコンサートを行い、大好評を博した。5月にオリジナル・アルバム「Colour」を発表。10月にはデビュー30 周年の集大成となるベスト・アルバム「Premium Ivory-The Best Songs Of All Time-」がリリースされた。

ロンドンの中心地から少し離れた住宅地。
外はあいにくの雨模様ながら、大きな天窓のある室内は明るい。
真っ白な壁とテーブルの向こうに広がるガーデンには、
小さな実がたわわに実ったリンゴの木々。
見慣れぬ人々の姿に落ち着かないのか、ドーベルマンのルーリーがせわしなく足元を歩き回る。
たくさんのクッションが連なるソファには
前日、ルーリーそっくりの犬の模様が施されたものが仲間入りした。
キッチンに置かれたCDプレイヤーは、途切れることなく音楽を奏で続ける。
歌手・今井美樹がロンドンでの日々を過ごす日常の風景がここにある。

指が折れそうになるくらい
握り締めた手のひら

家族そろってロンドンに移住したのが2012年夏のこと。それから約2年半のときを経て、今年1月、今井美樹はロンドンで初めてのコンサートを行った。開催場所となったロンドン西部の瀟洒(しょうしゃ)なコンサート・ホール、カドガン・ホールには、スーツ姿のビジネスマンを含む日本人がずらり。筋金入りの今井美樹ファンはもちろんのこと、ファンでなくともこれまでの人生に何らかの形で彼女の歌に触れてきた人たちが集まった会場には、熱狂とも違う、ようやくここロンドンで今井美樹の歌声を聴くことができるのだという期待が満ちていた。舞台上では、ロンドンに生活の拠点を移してから制作した2枚のアルバムにサウンド・プロデューサーとして関わってきたミュージシャン、サイモン・ヘイルが一曲目の前奏を弾いている。やがて、舞台袖から今井美樹がその姿を現した。

「正直、不安安だらけでドアを開けたんです。サイモンがピアノを静かに奏で始めてくれている中で私が出て行ったときにね、本当に温かい拍手をいただいて。誤解を恐れずに言うと、こんなにお客さんの拍手が温かいって感じたのは初めてだったんですよ。待っていたよっていう気持ちというか、エネルギーが拍手の中に込められていた気がして。もちろん日本でライブをするときも皆さん待っていてくださるし、いつも喜びは感じています。ただ、自分自身がこちらで暮らしていて、アンテナが 少し違う何かをキャッチするようになっていただけかもしれないけれども、同胞感というか、皆が自分の生まれ育ったところではない新しい場所で、それぞれの暮らしの中、一生懸命に日々を過ごしているというつながりをすごく感じたんですね」。

一曲目は1989年にリリースされた「瞳がほほえむから」。ただでさえ歌い始めが緊張感を伴う曲なのに、その温かさに一瞬にして包まれて「親指が折れそうになるくらい、ぎゅっと手のひらを握り締めて痛みを感じていないと気持ちが溢れ出しそうになってしまった」。そんな極限の状態で今井美樹の口から流れ出た歌声はしかし、どこまでも伸びやかで、あっという間に観客を自分の世界に引き込んだ。

今回のコンサートに足を運んでくれた大多数は「初めて会うでしょうという方たち」。本来ならば曲目選びには慎重になるべきなのかもしれないが、「私の曲たちは初めて聴いてもいい曲だねって心に残るものが多いと信じている」から、あえて人気の高い曲だけをそろえるということはしなかった。ときにはピアノの伴奏のみでしっとりと、ときにはカルテットとともに華やかに、過去の代表曲から新曲までを歌い上げ、「歌よりも緊張した(笑)」という英語のMCも取り入れたひととき。「丁寧に歌うことで日本語の言葉の響きを皆さんに伝えることができれば」と言う今井美樹の歌は、異国の地であるロンドンで、確かに観客の耳ではなく、心に届いていた。

今井美樹 © IM Official Fan Club
今年1月、ロンドンで行われたコンサートで歌う今井美樹

ロンドンの「色」に抱かれて

コンサートの中で一曲、異色とも言える曲があった。夜のしじまに大切な人に優しく語り掛けるような歌詞には今井美樹らしさが溢れている一方で、その「ミュージカルのような」旋律が新鮮な驚きをもたらす「Lullaby Song ~一日の終わりに~」。コンサートでピアノの伴奏を務めたサイモン・ヘイルが作曲し、今年5月に発売された6年ぶりのオリジナル・アルバム 「Colour」に収録されている作品だ。

「サイモンは日本の作曲家のつくってくれた曲も『これ本当にいい曲だね』と言ってピアノで奏でてくれたり……『ああ、音楽に国って関係ないんだな』って思ったんですけれど、同時にあの曲は日本人がつくったものではないなという気はしますよね。それがイギリス的であるのかどうかは、私にはまだ分かりません。ただサイモン的ということは分かる。そうした曲が一曲入るだけで、ほか は今までと同じような選曲でも、違う色が差し込まれた。『ザ・ロンドン』という風にこれ見よがしなことはしたくないし、できないけれど、これからこうやって少しずつ差し色が入ることによって、ロンドンで生活しながら表現者として何かが変わっていくのが自然に伝わるんじゃないかと思います」。

インタビューを続けるうち、外では雨足が強くなってきたが、ビタミン・カラーの花が飾られた真っ白な室内は相変わらず清潔な明るさに満ちている。キッチンに置かれたプレイヤーからは、「Colour」のメロディーが流れ出す。丸3年が経ったロンドンでの生活。ちょうど今から一年前のインタビューで、「(来英)当初も今もアップアップ」と語った今井さん。この間はガーデンで見つけたカエルの卵の処理に四苦八苦して……と苦笑しつつも楽しそうに語るその姿からは、この街に根付きつつある様子がうかがえるが、やはり今でも「アップアップ」なのだとか。そんな彼女を来英当初から変わらず支えてくれているのがこの街を彩る様々な「色」だ。

「オリジナル・アルバムを作りましょうとなったときに、最初はロンドンで特別なことは何もしていないから、何も言うことがないって思ったんです。でも日常って3年近くの時間が繰り返されていくと、少しずつだけれど変化があるんですよね。自分では分からなかったけれど、作詞をお願いした方と話していると、『前の美樹ちゃんとは違う』って敏感に感じ取ってくれて。私自身も曲をつくる段階で、毎日はこんな風にさりげないけれど、気付いたら見える景色の色がこんなにも変わっているって凄いと感じたり。このアルバムに関しては、できるだけロンドンで感じたさりげなさを大事にしたかったので、日本とロンドン、何が一番違うかと考えたんです。そうしたら、ロンドンに来たときに『何て美しい色!』って感動したカラフルな色みだなって。だから音楽としてのカラフルさというより、カラフルなロンドンの日常にある様々なものが私たちをさりげなく刺激してくれている、その『色』を自分の記憶に留めておきたくて、タイトルも『Col our』としたんです」。

日本と英国、どちらにも偏らず
半々にしたかった

アルバム「Colour」の制作が決まった段階で、レコーディングをすべてロンドンで行うことは現実的に見ても「自然な流れ」だった。次に考えるのは、誰に曲を発注するか。今やロンドンに拠点を置き、英国に音楽仲間も出来た。だから当然、ロンドンのミュージシャンにすべてを委ねることも考えられたが、今井さんはそうはしたくなかったのだと語る。

「ミュージシャンやプロデューサー陣はイギリスの人たちで全く問題なかったのだけれど、作曲に関してはイギリスと日本、半々にしたかったの。私の今までの曲たちを担ってくれた素晴らしいクリエーターが日本にいる。イギリスのチームにも日本チームの素晴らしさを感じてほしいと思ったんです。だからどちらかに偏るのではなくて、作曲は半々。日本の作曲家がつくってくれた作品をこちらのプロデューサーがアレンジしてくれているのですが、素材が同じでもシェフが変われば料理も違ってくるじゃないですか。だからこそ素材のおいしさにはこだわりたくて、今井美樹の一時代を築いてくれたといっても過言ではない上田知華さんと作詞の岩里祐穂さんにもお願いして、奇跡的に当時のトライアングルも再現できました。日本でレコーディングしていたら、この出会いはなかった気がします」。

日本からディレクターが来英するたびに集中的に作業を進め、すべての行程が終了するまでにかかった時間は延べ5カ月。途中で歌い直したこともあれば、全体のバランスを見て追加した曲もあった。「もう少しスパイスを足すとしたら何がいいだろう。もうちょっと寝かせたら育っていくかしら」――こうした形しか取れなかったということもあるが、そうやって、瞬発力に頼るだけでなく、自分のアルバムを見つめ直しな がら完成までもっていくことは大きな挑戦だったし、 制作する上での理想形だとも感じた。ロンドンで表現者としてやっていくのに、まだ自信があるわけじゃない。だからこそ、手の届く周りの大切なものを拾い集めるしかなかった。

「一つひとつは小さな粒々かもしれないけれど、そうしたものが自分を支えて、背中を押してくれているという事実に気付けただけでも幸せだし、それを形に残せたというのはラッキーだったと思います」。

たくさんの「あのころ」

「えっ、どうして今!?」――今年の春、ロンドンにやって来たディレクターから、10月にベスト・アルバムを出したいという打診を受けたとき、まず口を突いて出たのはそんな言葉だった。5月にオリジナル・アルバムをリリースしてまだ間もない。今年はデビュー30周年という、歌手・今井美樹にとっては記念すべき年。ベスト・アルバムを出すには最適のタイミングとも思えるが、何と30周年であることを忘れていたという今井さんにとってこの提案は、青天の霹靂(へきれき)以外の何物でもなかった。それでも最終的にゴー・サインを出した背景にあったのは、「Colour」の存在だ。

「『Colour』のレコーディングをしているときに、懐かしい気持ちになることが多々あったんです。それは懐かしい音楽をつくっているという意味ではなくて、若かったころの『あの曲が好き、この曲が好き』という音楽ファンとしての思いや、こんなことにトライしたいって一生懸命音楽に向き合っていた気持ちを何度も思い出したんです。『ああ、あのころはこんなことがやりたいって思っていたんだ』ってレコーディングをしながら感じたの。それまでは一生懸命ただ前に向かって進んでいたから、後ろ向きな気がしてあまり振り返りたくなかった『あのころ』。でも決してネガティブなことじゃなくて、色々な『あのころ』が全部積み重なって今につながっているわけだから、『あのころ』を否定すること自体が無理をしているんじゃないかって思えたんです」。

「Colour」のプロモーション活動で東京にいたとき、ラジオ番組のナビゲーターたちがこのアルバムについて話を聞きたいと心から思っていることがひしひしと感じられた。彼らの多くは、いわゆるバブル時代と言われた80~90年代、洋楽からJポップまで様々な音楽が街中に溢れていたときに、それぞれ好きなジャンルを浴びるように聴いて過ごしてきた人たち。音楽を聴く暇がなくなった今でも、わくわくしたいと思う種火だけは残っていて、その種火に火が灯ったようだっ たと今井さんは目を輝かせる。それまでは「若いころに聴いていた今井美樹の音楽なんて恥ずかしいから聴かないで」と思っていたが、そんな今井美樹の「あのころ」を大切に感じながら見つめていてくれた人たちに、彼らが聴きたい音楽を、彼らがふっと笑顔になる ような瞬間を詰めて届けたい、そんな風に感じられるようになった。それが今井美樹のデビュー30周年の 節目を飾るベスト・アルバム「Premium Ivory」がつくられる序章となる。

「『今井美樹』を感じてほしい」

「すごく気持ち良く聴いてもらえるベスト・アルバム」。10月にリリースされる「Premium Ivory」は、ベスト・ソングをセレクトしたというよりも、「『今井美樹』を感じてほしい」という思いでつくられたもの。今井さんいわく、稚拙な部分はあるものの、真っ直ぐ伸びやかに歌っていたころの煌めく瞬間が記録として残されているものを丁寧にリマスタリングして仕上げた「贅沢なベスト」だ。

30年分の膨大な曲の中から、まずは今井さんがセレクトし、その後さらに「断腸の思い」で厳選した曲をディレクターが最終的な形にまとめ上げた。ディレクターは同世代で、2013年リリースのカバー・アルバム「Dialogue」のころからの付き合い。長年、仕事仲間として関わってきたのではなく、学生時代に歌手・今井美樹の歌に接してきた人物の視点が新鮮だったし、「客観的な人の目や耳って大事なんだな」と感じたという。「良い曲だとか、思い入れのある曲だという 理由で選んでいくと、だいたい似てきてしまうんです。今回は『えっ、何でこの曲を選んだの?』と驚くこともあったのですが、アルバムとして通して聴くと気持ち良く聴けるの。好きです、自分でも。気付いたら何度も何度も聴いてる」。

リマスタリングを担当したのは、数々の大物ミュージシャンのレコーディングやマスタリングを手掛ける オノセイゲン氏。「本当に丁寧にレコーディングされているから、できるだけ当時の良さを生かして、ほんの少し手を加えるだけ」というスタンスで行われたリマスタリング作業は、一曲目の「PIECE OF MY WISH」から始まった。

「すごく大きなスピーカーから時代の匂いがプンプンするその曲が流れてきてきたときに、一つひとつの音が何て芳醇で、丁寧につくられているんだろうって。新しい何かと出合いたくて歩き続けていたから、あまり好きじゃないと思っていた当時の自分の声も含めて、あの時代の中で勢いがあったときに生まれた音楽というのはやっぱりあって、本当に良い曲を素晴らしいスタッフがレコーディングしてくれていたんだということを改めて目の当たりにして、何だか、ごめんなさいっていう気持ちになって号泣してしまいました」。

若気の至りで様々な人を傷つけてしまったこともあっただろう。まい進することしか考えていなかったあのころの自分に真剣に向き合ってくれた人たちに申し訳ない。そんな思いで涙が止まらなくなった今井さんだが、過去と対峙し、打ちひしがれ、その感情を素直に受け止められたことで気持ちがすっと楽になった。「それぞれの時代が色濃く残っていて、30年を駆け足で振り返るときに気持ち良く感じられる軽やかなベスト・アルバム」。このアルバムを聴くとき、私たちは「卒業式で同級生と一緒に歌った」「大切な人と出会ったそのときに流れていた」「もうだめだとボロボロに傷ついたときに支えてくれた」と、自分自身のいくつもの「あのころ」を思い出すのかもしれない。

今井美樹コンサート
今年1月、今井美樹のロンドン初となるコンサートが行われたカドガン・ホール

旅の途中

30年という長い長い年月を、歌手・今井美樹として音楽とともに歩んできた。「迷いながら、回り道をしながら、色々と旅をしてきて、ようやく『Colour』にたどり着いた気がします。でも反省する点は山のようにあって。こう考えているということは、またトライしたいって思っているんですよね。これからも旅は続くけれど、30年という結構な旅を続けてこられたということにまず感謝。迷ったときに、大切だったキラキラしたものを意識的に捨ててしまったことがあるかもしれないけれど、この世代だからこそ見えてきたものもある。今回のベスト・アルバムで今までの曲たちを振り返り新鮮な気持ちで見つめ直せたことで、それらがまた新しいものになるんじゃないかという気がしています。同じ曲をセレクトしてライブをしても、自分自身での鮮度が違う。この気持ちがこれからどう影響してくるかが楽しみです」。

10月からは日本各地8カ所を回るツアーが行われ、来年1月には前回と同じ、ロンドンのカドガン・ホールでのコンサートも予定されている。去年はビギナーズ・ラックだったけれど、来年はもう一度同じ方たちが来てくださる可能性もあるからプレッシャーはある、そう語る今井さんだが、常に微笑みを絶やさずに音楽への思いを語るその表情からは、また歌うことができるという喜びだけが真摯に伝わってくる。次回はほかのミュージシャンや英語の曲を入れるのかという質問に、「そういう余裕があるなら、一曲でも多く自分の歌を届けたい」と即答する彼女にとって、これまでの30年をともに生きてきた自分の曲はまさに人生の宝物。コンサートで私たちは、その宝物を笑顔でそっと優しく手渡されることになるのだろう。

今はまだ旅の途中。歌手・今井美樹の旅、そしてロンドンで生活する一人の女性、今井美樹の旅はこれからも続いていく。ロンドンでの生活が始まってからの3年は「もう」とも言えるし、「まだ」とも言える。年月を重ねていくうちに、ロンドンの街の「色」もまた変わって見えてくるようになるかもしれない。これから彼女の目の前に伸びていくことになる旅の軌跡がどのような色に染まるのかは誰にも分からないけれど、きっと音楽がその道程を支えてくれるに違いない。

MIKI IMAI New Year Concert
30th Anniversary Special

2016年1月30日(土)19:30
2016年1月31日(日)18:30
£35~42
Cadogan Hall 5 Sloane Terrace, London SW1X 9DQ
Tel: 020 7730 4500(Box Office)
Sloane Square 駅
www.cadoganhall.com


 

オープン・ハウス・ロンドン 2015 - 建築物を無料で公開

オープンハウス 9月19日&20日 OPEN HOUSE LONDON 2015

www.openhouselondon.org.uk

初秋を飾るイベントとして、毎年人気のオープン・ハウス・ロンドン。心地良い生活環境づくりに貢献する建築は、使って快適、見て美的でなければならない。土地の個性をうまく取り込み、人々のニーズを深く考察し、効率的に体現。それはときに古いものを生かす知恵や工夫であり、日々刷新する技術の実行でもある。都市生活を支える「ロンドンの骨組み」を体感できる週末、建築を巡る一日はいかが? (文: 山内ミキ)

※今回取り上げた場所はすべて先着順で入場、混雑状況により屋外で並ぶ場合あり

行ってビックリ!アートなハウス編

アート・インスタレーションや芸術活動が娯楽、はては観光資源として幅広く認知されるロンドン。既存の設備をうまく利用した、想像力豊かな試みが花開く。建築物という大掛かりな題材に果敢に挑戦するアーティストたち。それらを具現化する都市の懐も広くて驚かされる。

デザイナーの頭の中を拝見
House of Antoni & Alison

House of Antoni & Alison

エッジーで茶目っ気のあるデザインが長年人気のファッション・ブランド、アントニ&アリソンの本拠地は4階建てのジョージア朝スタイル。建物にぞっこん惚れ込んだという2人組が、10年かけて内部を改造した。オフィス&スタジオでありながら、家にいるような居心地の良さを目指したそうだ。廃屋同然だった建物だが、インテリアには再利用品を活用。デパートの改装時にゴミとして出た50年代の照明や、ビートルズのメンバーが楽屋で座った椅子なんていうものもある。彼らのユーモア・センスが見え隠れするアートのディスプレーも魅力的で、クリエイティブな彼らの頭の中身をのぞく絶好のチャンス。当日はチャリティー目的のティー・ルームもオープンする。

9月19日(土)10:00-17:00
定時開催のツアー形式で入場
80 Southwark Bridge Road SE1 0AS
最寄駅: Borough

おらが芸術村はポップでエコ
Village Underground

Village Underground

Village Undergroundジュビリー線の4つの車両と貨物コンテナが、アーティストのスタジオに。石炭が収納されていたビクトリア時代の倉庫は、コンサートや展示が行われるカルチャー・センターに再利用。1848年建設の鉄道高架橋の上下に設けられたアート・ビレッジだ。ロンドン中心部でアーティストが手ごろな値段で利用できる活動拠点として、2007年にオープン。スタジオの電力はすべて風力発電でまかない、階段や床などにもリサイクル品が使われている。ポップで完成度の高い車両のグラフィティだけでも、一見の価値あり。ライブ・イベントが頻繁に行われる煉瓦の倉庫は天井が高く、音響システムも良好。ブランド・プロモーションや結婚式など、一般にもレンタルされている。

9月19日(土)10:00-17:00
54 Holywell Lane EC2A 3PQ
最寄駅: Old Street / Shoreditch High Street

船が彫刻である現実
River Sculpture / Studio (Slice of Reality)

River Sculpture船底の空洞部分までCTスキャンのようにスッパリと切り取られ、船首と船尾がなく真ん中だけが残された船舶。ミレニアム祝祭時に彫刻家リチャード・ウィルソンが作った「住める」アート作品だ。イベントが終わった後に主催者側から撤去申し渡しがあったそうだが、テムズ河上はその管轄外としたアーティストの意思を酌んで残されたのだとか。内部には居住スペースだけでなく、スヌーカー・テーブルもあるというから、何だか住み心地は良さそう。この日は特別に桁 けたばし橋が架かり、船内を見学することが可能。「一片の現実」という名が付けられているこの作品は、ロンドンの繁栄を支えてきた商業船を讃えるためにつくられたとか。スライスされた断面はグリニッジ子午線のほぼ延長線上にあるそうだ。

9月19日(土)10:00-17:00
Thames Path, Meridian Gardens,
nr Drawdock Road,
Blackwall Point, Greenwich SE10 0PH
最寄駅: North Greenwich

住んでみたいなこんな家編

どれだけ足して、どれだけ引くか。再利用や環境保護、そして個人的な嗜好に合わせて建築家が提案する、様々な住居の形。持ち主や用途が変わりながら長い年月を経た家は、トレンドを取り入れてどんどん変化している。 今どきのライフスタイルがしっくりとハマる家づくりだ。

厩(うまや)がディスコに大変身?
Hidden House

Hidden House

元々は厩(うまや)であった家が、グラマラスな4階建てに大変身。地下には広大なリビング・ルームに、ナイトクラブ仕様のダンス・フロア、中庭には池や滝まである。テレビ番組「グランド・デザインズ」でも紹介された。今どきの洒脱な都市生活は、もちろん環境にも留意。太陽光発電や水再利用装置、高気密・高断熱性の壁と床、とすべてにおいてカンペキだ。

9月20日(日)10:00-18:00
解説付きツアーを定時に実施(最終入場は17:45)、入場時は靴を脱ぐこと
39 Russell Garden Mews W14 8EU
最寄駅: Kensington Olympia

楽しいスタイルは大家族式
Style Council

Style Council

英国の公営住宅カウンシル・ハウスの中でも特に歴史の古いこちらは、第一次大戦後に建設されたもの。昨年改築され、竹製のスライド・スクリーンや中吊りの階段、スタイリッシュな出窓などを用いた楽しい家に仕上がった。エアリーな印象が素敵な南向きの大きなリビング、そして「グラニー・リフト」(おばあちゃん用エレベーター)を持つ三世帯住宅になっている。

9月19日(土)10:00-17:00
10:00より30分ごとに解説ツアーを実施(最終入場は16:30)
46 Barnes Avenue SW13 9AB
最寄駅: Hammersmith

限りなく透明に近い家
Skinner-Trevino House

River Sculpture昔ながらのビクトリア様式の家を徹底的に改装、ガラスを多用することで最大限の光を室内にもたらしている。奥に長い建物の中央部に大きな天窓を設け、その真下にはガラスの階段が。暗くなりがちな部分にも自然光が溢れ、階段のプリズム効果が美しい。最上階は高所が苦手な人と小さな子供には不向き、というくらい透明感に溢れた場所だ。

9月19日(土)
10:00-13:00、14:00-16:30
(最終入場は16:00)
67 Santos Road SW18 1NT
最寄駅: East Putney


川と生きる、ロンドン編

豊かな水で都市を潤すテムズ河。人々はその勢いを利用したり制したりしながら、川とともに生きてきた。水路や水流をコントロールするために発生した構造物は時代を反映し、ときには驚異の活躍で産業を支えている。それぞれが語る、水にまつわる物語をたどってみよう。

水上に広がる舞扇
Merchant Square Footbridge

Merchant Square Footbridge縦に細く、割り箸のように分割された床面が一枚ずつゆっくりと持ち上がり、川面のボートに水路を開ける。中心点から水圧駆動で広がりながら上がる橋の動きは、日本の扇子を連想させる。キレの良いデザインと優雅なムーブメントは、動く彫刻と言っていいほど。去年の夏にオープンしたこのパディントン運河の可動橋、当日は開閉を3回予定している。

9月19日(土)13:00-17:00
(橋の開閉予定時間は
14:00、15:30、17:00)
Harbet Road W2 1JS
最寄駅: Edgware Road/Paddington


意気盛んな産業遺産
Kempton Great Engines Trust

Kempton Great Engines Trust

最新技術の建築のみならず、歴史ある構造物の価値を重んじ、維持していくのも英国流。1927年以来、テムズ河の水を汲み上げて市内に供給してきた蒸気式エンジン・ポンプは、高さ19メートル、重さ1000トンのエンジンが2体。そのうち1体が復元されている。一定のリズムでシャフトが上下する様は圧巻。現役のモデルとしては世界最大だ。

9月19日(土)・20日(日)
10:30-16:00(最終入場は15:30)
Kempton Park Water Treatment Works,
Snakey Lane, Hanworth TW13 7ND
最寄駅: Kempton Park

流れを司るテムズの水神
Thames Barrier
& Information Centre

Thames Barrier

黄色い足に銀の殻が、まるで巨大なヤドカリのようなテムズ・バリア。520メートルにわたり、10基の可動式バリアが設けられている。1984年の建設以来、洪水対策の水門閉鎖が行われたのは去年までで175回を数えるという。ロンドンを水害から守り続ける水の下の力持ちだ。その歴史と現在、そして未来を、動くモデル展示や映像で観ることができる。

9月19日(土)・20日(日)10:30-16:30
インフォメーション・センターから入場
1 Unity Way SE18 5NJ
最寄駅: North Greenwich/Charlton

 

ラグビーW杯観戦術 - Rugby World Cup 2015

今からでもチケット入手可!
英国在住にわかファンのための
ラグビーW杯観戦術

Rugby World Cup 2015
2015年9月18日(金)〜10月31日(土)
イングランド代表サム・バージェス
8月15日に行われたフランス代表との親善試合で奮闘する
イングランド代表のサム・バージェス選手

ラグビーのワールド・カップ(W杯)が、9月18日に開幕する。今大会はラグビーの発祥地であるイングランドで開催されるため、英国内の注目度は一際高い。

また2019年には日本で初めてラグビーW杯が行われることから、一足先に本場のイングランドでラグビー観戦を経験しておきたいという在英邦人は決して少なくないだろう。これまで一度もラグビーの試合を観たことがない、そもそもルールがよく分からない、だけど英国人に交じってラグビーW杯を楽しみたいというにわかファンに向けて、チケット入手法を始めとする本大会関連の現地情報をお伝えする。

これだけ知っていれば試合を楽しめる!
初心者のための付け焼刃のルール解説

1チームの人数:15人
試合時間:前後半40分ずつ
楕円形のボールを奪い合う
イングランド発祥のスポーツ

世界的な人気スポーツであるにもかかわらず、ラグビーのルールを知らないという人は意外と多い。ラグビーのルールについての最も大きな特徴は、「ボールを前に投げてはいけない」ということ。だから、攻撃する側は相手の陣地に攻め込もうとする際に、ボールを持ちながら走ったり、もしくはキックすることで前進する。一方、守備をする方は、ボールを持って前に進もうとする選手の動きを身体をぶつけて止めようとする。またボールを奪い合うために、両チームが押し合いへし合いをするなど、いわゆる接触プレーが多いのも特徴の一つだ。

ラグビーの基本ルール 1
「ボールを前に投げたり落としたりしてはいけない」

  • ボールを手で味方にパスする際に前方に投げたら反則(スロー・フォワード)
  • ボールを受け取ろうとするもうまく受け取れず、ボールを身体の前に落としてしまった場合は反則(ノックオン)
  • ボールを保持している間に相手からタックルを受け、その勢いでボールを身体の前に落とした場合は反則(ノックオン)

ラグビーの基本ルール 2
「トライするか、ボールが相手のゴール・ポストを
通過すれば得点」

  • 相手陣のゴール後方のエリアにボールを置く(トライ)ことができたら5点
  • トライの後に、相手のゴールに向けてキックをする機会が与えられる(ゴール・キック)。このゴール・キックがゴール・ポストの間を通過したら2点(コンバージョン・ゴール)
  • 相手チームの反則によって与えられたペナルティー・キックがゴール・ポストの間を通過したら3点(ペナルティー・ゴール)
  • 通常のプレー中に、ボールを一旦地面に落とした上で蹴ったボールがゴール・ポストの間を通過したら3点(ドロップ・ゴール)
ラグビーのルール

ラグビーの基本ルール 3
「ボールを奪い合うために身体を
密着させたり、ぶつけ合ったりする
プレーがたくさんある」

  • ボールを持った相手選手の動きを止めたり倒したりする(タックル)
  • ボールを持った選手を中心に両チームの選手3人以上が組み合う(モール)
  • 地面上のボールを両チームの選手3人以上が身体を密着させて奪い合う(ラック)
  • 両チームの選手8名が組み合った状態になり、押し合いながらその中央に投じられたボールを足で後方に運び、最後方にいる選手へと渡す(スクラム)。軽度の反則などで一度中断されたプレーを再開する方法として用いられる
  • コートの両脇に引かれた線(タッチライン)の外側から投げ込まれたボールを奪い合う(ラインアウト)。その際に味方の選手を担いだりする

ラグビー・ワールドカップ
日本代表戦のチケット購入方法

ラグビー・ワールドカップ公式サイト世界中の注目が集まるラグビーW杯のチケットは早々と売り切れ……と思いきや、実はまだ入手可。母国イングランドが出場する試合や準々決勝以降の試合のチケットを手ごろな価格で入手するのは既に困難な状況となっているが、1次リーグの日本代表戦は現在でも販売中。下記の手順に従い、日本代表戦のチケットを押さえてしまおう。

1下記の公式ウェブサイトへ行き、必要事項を記入してアカウントを開設する https://tickets.rugbyworldcup.com

2画面左端の「Find Matches」のカテゴリー内にある 「Browse by Team」をクリックし、「JAPAN」を選ぶ

31次リーグで日本代表が出場する試合の一覧が出てくるので、その中から 観戦したい試合を選ぶ。支払いを行えば、手続き完了。その後は登録した E-mail アドレスを通じてチケットの郵送状況などを確認することができる

4上記の一覧上に「CURRENTLY UNAVAILABLE(現時点でチケットは入手不可能)」とのメッセージが出ていても、あきらめるのはまだ早い! 試合開始の24時間前まで再販売券が売りに出る可能性があるので、こまめに同サイトを確認することをお勧めする

イングランド対フィジー戦のチケット再販売券の仕組み

本大会では、公式サイトを通じて観戦チケットの転売ができるようになっている。既にチケットを購入したが都合が悪くなった場合は、自身のアカウントにログイン後、画面右上にある「MY ACCOUNT」を選んだ後で「MANAGE MY TICKETS」をクリックすれば、手持ちのチケットを購入価格で売りに出すことが可能。試合開始の24時間前までにそのチケットを購入する人が現れた場合は、代金は購入者に払い戻しとなる。ただし、既に郵送で送付されたチケットを受け取り済みの場合はそのチケットを返却する必要があるので、詳細については公式サイトを要確認。

9月5日(土)日本 vs ジョージア
日本代表の強化試合が観たい!

グロスター・ラグビーラグビーW杯の開幕に先立って、日本代表がジョージア(グルジア)代表とのテスト・マッチを開催する。会場はイングランド南西部グロスターのキングスホルム・スタジアム。W杯1次リーグで、日本代表がスコットランド及び米国と対戦する試合の舞台となる場所だ。チケットは現在でも入手可で、チケット料金もお手ごろ。W杯に向けて調整を行う日本代表にとってだけでなく、本大会が始まる前にラグビー観戦を一度体験したいという人が気軽に出掛けられるという意味でも良い機会となるはずだ。

1下記サイトの右上にある「Click here to register」をクリックし、必要事項を記入し てアカウントを開設。
https://tickets.gloucesterrugby.co.uk/fixture.aspx

2画面中央にある「Fixtures & Events」 をクリックし、「Japan vs Georgia」を選択。料金や座席の位置などによって分けられた複数の選択肢の中からチケットを選んで購入。立見席もあるので、詳細をよく確認すること。

日本 対 ジョージア(強化試合)
9月5日(土)16:45 
£15~30 

Kingsholm Stadium
Kingsholm Road, Kingsholm Gloucester GL1 3AX
www.gloucesterrugby.co.uk
ロンドン中心部からGloucester駅まで電車で約2時間、同駅から会場まで徒歩約10分。

英国人と一緒に巨大スクリーンで観戦したい
ファンゾーンでの鑑賞方法

今大会は英各地の計13カ所で試合が実施される。これに伴い、各試合会場の近くには「ファンゾーン」と呼ばれる区域が設置。基本的に入場無料となるこの区域では、大勢の人々と一緒に大スクリーンでW杯の試合を鑑賞することができる。ここではロンドン市内に設置されるファンゾーンを紹介する。

● トラファルガー広場
10月24日(土)から10月31日(土)にかけてファンゾーンを設置。決勝戦をライブ中継する。
Trafalgar Square
Westminster, London WC2N 5DN
Charing Cross駅

● ウェンブリー・パーク
優勝候補と目されるニュージーランド対アルゼンチン戦 (9月20日(日)16:45)とアイルランド対ルーマニア戦(9月27日(日)16:45)が行われるウェンブリー・スタジアムでの試合開催日に同スタジアム横にファンゾーンを設置。
Wembley Stadium
Wembley, London HA9 0WS
Wembley Park駅

● クイーン・エリザベス・オリンピック・パーク
大会期間中の週末にファン ゾーンを無料開放。ただし、同競技場でアイルランド対イタリアの試合が開催される10月4日はチケット保持者のみ入場可。
Queen Elizabeth Olympic Park
London E20 2ST
Stratford駅

● リッチモンド・パーク
トウィッケナム・スタジアムでの試合を中心にライブ中継を実施。また著名コメディアンによるショーなどの催しも用意している。
Richmond Park
Richmond, Greater London
Richmond駅

日本、イングランドは
どれだけ勝つ見込みがあるのか

日本代表
「番狂わせのようなことを起こす可能性はある」

日本代表は現在、ラグビーの世界ランキングで第14位(8月24日時点)に位置している。1987年の第1回大会より7回連続でラグビーW杯に出場してきたが、グループ・リーグを突破したことはまだない。2019年の日本大会に向けて競技レベルを向上させているとも伝えられているが、実際のところはどうなのか。英各メディアによる見解の一部を紹介する。

日本がこのグループを通過する現実的な見込みはほとんどない
ITV

(日本代表)のエディ・ジョーンズは抜け目のないヘッドコーチである。だから日本は決して楽勝できる相手ではない。しかし、同組の上位3チームには叩きのめされるはずだ
「デーリー・テレグラフ」紙

166センチ、75キロの田中史朗選手はW杯における最も小さな選手の一人だが、手ごわい。彼が試合に良いテンポをもたらすだろう
「タイムズ」紙

日本と米国のラグビーは目下、上昇傾向にある。この2チームが勝ち進むことはないだろうが、いずれかの局面で番狂わせのようなことを起こす可能性はある
「デーリー・ミラー」紙

イングランド代表
英国の賭け屋でのオッズ イングランドは2番人気

イングランド代表は現在、ラグビーの世界ランキングで第5位(8月24日時点)。過去に一度優勝を果たしている(2003年)。今大会の成績を占う上で、一つの指標となるのが賭け屋のオッズ(賭け率)。英国の大手賭け屋であるウィリアム・ヒルが発表しているデータによると、今大会の優勝チームとして最も確実視されている、つまり倍率が低いのは前大会覇者のニュージーランドで、倍率は2.25倍。イングランドの倍率は2番目に低い4.5倍だ。ちなみに日本の倍率は驚異の1001倍。

1次リーグ*
日本代表の試合日程

9月19日(土)16:45 南アフリカ 日本 ブライトン
9月23日(水)14:30 スコットランド 日本 グロスター
10月3日(土)14:30 サモア 日本 ミルトン・キーンズ
10月11日(日)20:00 米国 日本 グロスター

● ブライトン会場
The Brighton Community Stadium Village Way, Brighton BN1 9BL www.amexstadium.co.uk
ロンドン中心部からFalmer駅まで電車で約1時間、会場は同駅に隣接

● グロスター会場
Kingsholm Stadium Kingsholm Road, Kingsholm Gloucester GL1 3AX www.gloucesterrugby.co.uk
ロンドン中心部からGloucester駅まで電車で 約2時間、同駅から会場まで徒歩約10分。

● ミルトン・キーンズ会場
Stadium MK Stadium Way, Milton Keynes MK1 1ST
www.mkdons.com/club/visit-us
ロンドン中心部からMilton Keynes Central駅 まで電車で約40分~1時間、同駅からバスで会場まで約25分

1次リーグ*
イングランドの試合

9月18日(金)20:00 イングランド フィジー ロンドン、トウィッケナム
9月26日(土)20:00 イングランド ウェールズ ロンドン、トウィッケナム
10月3日(土)20:00 イングランド オーストラリア ロンドン、トウィッケナム
10月10日(土)20:00 イングランド ウルグアイ マンチェスター

ラグビーの聖地
トウィッケナム・スタジアム

トウィッケナム1次リーグにおけるイングランド代表の最 初の3試合に加えて、準々決勝の2試合や準決勝そして決勝の舞台となるのがトウィッケナム・スタジアム。8万2000人収容のラグビー専用競技場で、ロンドン 郊外に位置している。敷地内にはラグビー博物館が併設。「ラグビーの聖地」とされている。

Twickenham Stadium
Whitton Road,
Twickenham TW2 7BA
Twickenham駅
www.englandrugby.com/twickenham

*20の出場国がA~Dの4組(プール)に分かれて1次リーグを戦う。日本代表はB組。各組で総当たり戦を行い、それぞれの上位2チームが準々決勝へと進出する。英国ではW杯開催期間中のすべての試合をITVで放映

 

布袋寅泰インタビュー 10月21日ロンドン公演

布袋寅泰インタビュー 2015年10月21日ロンドン公演

STRANGERS TOUR 2015
2015年10月21日(水)20:00

£22.70~28.38
Islington Assembly Hall, Upper Street, London N1 2UD
Tel: 0844 338 0000
bookingsdirect.com

PROFILE


1962年2月1日生まれ。群馬県出身。81年にロック・バンド「BOØWY」のギタリストと してデビュー。88年の同バンド解散後はソロ活動を本格化。クエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」のメイン・テーマとなった「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」は、英国のiTunes Store の音楽部門で1位を獲得した。2012年8月より家族とともにロンドンに移住。10月16日に英国・欧州先行で新アルバム「STRANGERS」 をリリース、21日にはロンドン公演を行う。 www.hotei.com

この3年間、僕は結構打たれたね

長年の夢だった世界リリースが実現、10月に新作「STRANGERS」がユニバーサル・スパインファームより英国・欧州で先行発売されます。

やっと絶対的なスタート地点に立てた。日本での30余年という長いキャリアの中で培ったものと、ロンドンを拠点とした音楽制作や活動には大きな差があるだけに感慨深いね。日本ではマネージャーやレコード会社のスタッフが僕に代わって大概の準備や段取りをしてくれるけど、英国では何でも自分でこなすのが当たり前。例えばレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジにだっていわゆる「お付きの人」はいないでしょう。

プロデューサーとの打ち合わせがあれば、そのスタジオに赴くのは僕一人。愛車のミニ・クーパーにギターと機材を積んで、カーナビを頼りに自分で運転して行く。スタジオの扉を叩き、出迎えてくれた初対面のプロデューサーと挨拶を交わし、ウィキペディアやYouTubeからの過去の履歴や実績からではない、今の僕を感じとってもらうためにコミュニケーションを図る。もちろん、人間性を分かってもらうだけで十分ではなく、いざ「さて、音を出してみようか?」という瞬間からが本当の勝負。自分の音を受け入れてもらえないときもあるし、自分では気付かなかった自身の可能性を引き出してもらえるときもある。本作は初めて英国の音楽プロデューサーに自分を委ねた作品でもあり、同じ音楽業界とはいえ、日本の常識など通じない世界への挑戦だった。色々な意味で、この3年間に僕は結構打たれたね。大変ながらも貴重な経験を経て、英国のレーベルから英国・欧州先行のアルバムの発表というスタート地点に立てたことが素直にうれしいし、誇らしく思っている。

「STRANGERS」の制作には、「パンクのゴッドファーザー」とも呼ばれる米ロック歌手のイギー・ポップを始めとする様々な海外アーティストが参加しています。

今までの日本での活動では、母国語の日本語で喜びや悲しみ、夢や希望や絶望といった感情やメッセージを歌と音でストレートに表現して、ファンの皆さんと分かち合ってきた。しかしロンドンを拠点とし、世界で勝負するに当たり、歌や言葉から一度離れて、自分の原点であり持ち味であるギターに集中するべきであり、コラボレーターとしてのボーカリストの存在は必要不可欠だと考えたんだ。そんな中でイギー・ポップというロックのアイコンが「君の挑戦に力を貸そう」と参加してくれたのは最高にうれしかった。このアルバムには彼のほかにも個性豊かなアーティストたちが参加してくれている。彼らによって、ロック、ブルース、ファンク、エレクトロといった様々なジャンルと異なる時代のエッセンスが詰まった僕のカラフルなギター・スタイルや音楽性が強調されたような気がするよ。

心を躍らせるアーティストでありたい

布袋さんにとってのアイコンと言えば、昨年には日本武道館でのローリング・ストーンズとの共演がありました。

スタジオで作曲中に、知人の音楽関係者から急に電話がかかってきた。「ホテイ。明日、東京へミックに会いに行く気はない?」って。「ん? ミックってどのミック?」って聞いたら、ミック・ジャガーだった。ローリング・ストーンズからの誘いを断るミュージシャンはどこにもいないでしょう。「明日は娘の学校のペアレンツ・ミーティングだ……」と頭によぎり一瞬迷ったけどね (笑)。僕の人生は何年かに一度ビックリするようなことが起こるんだ。

今回のロンドン公演への意気込みをお聞かせいただけますか。

今は英国で文字通りStrangersの一人として暮らしている。この国はStrangersだらけだから、日本人であることは別に特別なことではない。当初は音楽で日本やアジアのエッセンスをもっと強調するべきかと考えたこともあったけど、今では自分の中に流れている音楽をもっと自然に表現したい、と気持ちが変わってきたかな。今回のロンドン公演では演出などに頼らず、ストレートにサウンドで勝負したいと思っている。

エレキ・ギターというと大音量でのハードなイメージがあるかもしれないけど、布袋寅泰が奏でる音はロックというスタイルを取りながらもエレガントかつ繊細でありたいと思う。きっと僕の音楽を聴いたことがない人や女性にも楽しんでもらえるはず。先入観を捨てて気楽に聴きにきて欲しいと思います。

フェスティバルやカーニバルで名前も知らないバンドやアーティストの素晴らしい演奏を聴いたら、それが誰であろうが自然と心は躍るでしょう。僕もまた誰かの心を躍らせるアーティストでありたい。そしてライブが終わって、会場を去った後にもまたその音楽が心で響き出すような演奏ができたらいいなと思う。

ロンドン公演が行われる10月下旬は、朝夕、空が暗く重くて、心に憂鬱な雲がかかり始めるころですよね (笑)。そんな心を晴らしに、在英邦人の皆さんには全員集合してほしいな。「僕も皆さんと同じこのロンドンの空の下で今日も頑張っていますよ!」と伝える場にしたい。皆さんと会えるのを楽しみにしています。

 

エリザベス女王とコーギーの物語 - 在位期間最長記録を更新

エリザベス女王とコーギーの物語 - 英史上最長となる在位期間を彩る

コーギー

9月10日、エリザベス女王の在位期間が
英王室の最長記録を更新する。
63年以上という、半世紀を優に超える長期間にわたり、
女王と行動をともにし、そして心の支えとなってきたのが
愛犬のコーギーたちだった。
数ある犬種の中で、女王はなぜコーギーを溺愛するのか。
彼らは宮殿内でどんな暮らしをしているのか。
女王とコーギーにまつわる物語をお伝えする。

Sources: The Sunday Times, Vanity Fair, The Daily Mail, The Kennel Clubほか

エリザベス女王にとってコーギーは「家族」

エリザベス女王の愛犬として広く知られているコーギー。英国の王室文化にはまだなじみがなく、女王とコーギーの関係についてあまり知らないという人でも、2012年に開催されたロンドン五輪の開会式の映像で、女王の周りを歩いていた愛らしい犬の姿を覚えている人は多いのではないだろうか。英俳優ダニエル・クレイグが演じる秘密情報部(MI6)工作員の007ことジェームズ・ボンドを伴いながら、ロンドン東部にあるオリンピック・スタジアムに女王がパラシュートで着陸するという設定になっていた、記憶に残る名シーン。あの場面において、バッキンガム宮殿からヘリに乗って飛び立つ女王とボンドを見送っていた犬がコーギーだった。

散歩を楽しむエリザベス女王1980年5月、3匹のコーギーとともに散歩を楽しむエリザベス女王(当時54歳)

女王自身はコーギーを「家族」と呼んでいる。幼きころから89歳となった現在に至るまで、その人生の大半をコーギーとともに過ごしてきた。女王に即位してから飼ったコーギーの数は、実に30匹以上。一時は13匹ものコーギーを同時に飼育していたという。エリザベス女王の周囲に群がる犬が一斉に移動していく様子を、故ダイアナ元妃は「動くじゅうたん」と揶揄したほどだ。

飼育だけではなく、繁殖も積極的に行ってきた。現在飼育している2匹のコーギーは、エリザベス女王が18歳のときに飼い始めた犬から数えて14代目の子孫となる。さらにはコーギーとダックスフントを交配させた「ドーギー」という品種も繁殖させている。エリザベス女王は、史上最長となる在位期間をコーギーとともに歩んできたといっても過言ではない。

コーギー宮殿内で暮らすコーギーにはVIP待遇

王室の言わば「お抱えペット」ともなれば、その待遇も半端なものではない。女王のコーギーたちは、王室メンバーの一員としてVIP待遇を受けている。ロンドンのバッキンガム宮殿内には「コーギー・ルーム」と呼ばれる専用の部屋を特設。最も多いときには、6名のスタッフがお世話をしていたという。王室関係者や招待客らが緊張感を持って宮殿内を移動している中で、コーギーは床に敷き詰められた高級じゅうたんや貴重な家具の周りを歩き回ってもお咎めなし。休息時には、風に当たらないようにとの理由で地面より数センチ高い場所に置かれた藤製のかごの中に入れられる。

食事の時間には、缶詰め料理は一切提供されず、すべてが手作り。元王室専属シェフの証言によると、茹でた肩肉にキャベツ、白米、ときにはウィリアム王子やヘンリー王子が仕留めた野ウサギを料理したものといった具合に、犬にしては栄養過多に思える豪華なメニューが振る舞われる(これらの日替わりメニューは毎日、バッキンガム宮殿の厨房に貼り出されていると伝えられている)。またクリスマスには、女王がコーギーたちに対して直々にケーキやクラッカーが詰まった靴下をプレゼントしているという。

ラグビーのニュージーランド代表と2002年11月、バッキンガム宮殿にて、多数のコーギーに囲まれながら、
ラグビーのニュージーランド代表と談笑するエリザベス女王(当時76歳)

不思議な運命に導かれたコーギーとの出会い

女王がコーギーを飼い出したのは、今から80年以上も前のこと。女王がまだ幼き少女だったころに彼女の父親に当たるヨーク公爵(後のジョージ6世。映画「英国王のスピーチ」の主人公としても知られている)がプレゼントしたのだが、この出来事の背景では不思議な巡り合わせが起きていた。

話は女王の少女時代からさらに時間をさかのぼる。ある日、テルマ・エバンズという名の9歳の女の子が飼っていた犬が車にひかれてしまう。この車の所有者 はなんとヨーク公爵だった。心を痛めたヨーク公爵は、この女の子に新しい犬を贈呈。その後テルマは大人になり、犬のブリーダーとして働き始める。彼女が飼育に力を入れ、その魅力を広く伝えようとした犬種がコーギーだった。やがて著名なブリーダーとしての地位を確立したテルマは、注文を受けて、とある英国の貴族に自身が育てたコーギーを提供。この貴族の家を訪れたエリザベス王女(当時)とその妹のマーガレット王女が、コーギーをいたく気に入った。親交のあったこの貴族の紹介を受けて、ヨーク公爵は後日、テルマに対し、コーギーを数匹連れて自身の家族の元まで訪れるよう依頼。その中から選んだ1匹が、女王が初めて飼うコーギーとなったのだ。このコーギーは、公爵(英語でデューク)から名を取り、「デューキー」と名付けられた。

後に国王となったヨーク公爵に対して、テルマは、自身が過去に犬をプレゼントしてもらった少女であることを告げぬままであったという。事実が公になったのは、ジョージ6世の死去後にこのエピソードを記した本が出版されてからのことだった。

大のお気に入りとなるスーザンとの出会い

年齢を重ねるに従い、女王のコーギー好きは加速していく。テルマから提供された「デューキー」そして2匹目となる「ジェーン」をエリザベスが可愛がる様子を見ていた父親のジョージ6世は、彼女の18歳の誕生日祝いとして「スーザン」という名の新たなコーギーをプレゼントした。このスーザンが、女王にとってはまさに唯一無二の親友となる。そのお気に入りぶりは、女王が21歳のときに結婚したフィリップ殿下との新婚旅行にも連れて行ったほど。その後、現在に至るまで女王が飼った30匹以上のコーギーは、すべてこのスーザンの子孫に当たる。  

1959年にスーザンが死去した際には、女王の離宮であるイングランド東部ノーフォークのサンドリンガム館の敷地にお墓を建てた。墓碑には今でも「女王の忠実な友人」との一文が刻まれている。ちなみにこの敷地に愛犬の墓を建てたのは、エリザベス女王が初めてではない。エリザベス女王の5代前の英国の君主であり、英王室におけるこれまでの最長在位記録を持っていたビクトリア女王は、スコットランド原産の牧羊犬であるコリーを溺愛。サンドリンガム館の持ち主でもあったビクトリア女王は、コリーの死去に際して、同館の敷地内に墓を建てたのだった。女王の犬好きは、英国の伝統の一部なのかもしれない。

ザ・マルにあるクイーン・マザーの銅像 バッキンガム宮殿から続く大通りザ・マルにある、
エリザベス女王の母親クイーン・マザーの銅像。コーギーを抱いている

王室関係者たちには嫌われていた?

「コーギー」の愛称で親しまれるこの犬種の正式名称は「ウェルシュ・コーギー・ペンブローク」。ウェールズ地方原産の品種で、もともとは牧場に放牧されている家畜を誘導したり、見張ったりするための牧羊犬として活動していた。牧羊犬を務めるだけあって、コーギーの動きは俊敏で運動量が豊富、小型犬であるにもかかわらず吠え声は大きい。毛深いので寒さに強く、山道や沼地を歩くのが大好き。また英国で生まれた世界最古の愛犬団体とされるケネル・クラブによると、先端の尖った立ち耳とはっきりとした顔立ちから、あらゆるものに対して興味を示しているように見えるのが特徴。スコットランド特有の厳しくそして広大な自然 が広がるハイランド地方のバルモラル城で山道を散歩することを趣味とする女王にお供するには、最適のペットである。

一方、あまりの元気の良さから、ペットとしては扱いにくいとする見方もある。故ダイアナ元妃の執事を務めたポール・バレル氏は、サンドリンガム館の階段で9匹のコーギーに追い立てられて転倒した末に気絶した経験があると告白。「(王室関係者の)皆がコーギーを嫌っていた」と述べている。エリザベス女王が飼育したコーギーたちはこれまでに、王室職員、郵便配達の職員、警察官、女王の母親であるクイーン・マザーの運転手などを噛んだ「前科」あり。さらに1991年には、十数匹のコーギーが喧嘩しているところを仲裁に入ったエリザベス女王の手さえも噛んでしまったことがある。ちなみに2003年には、女王の長女であるアン王女が飼育していたブル・テリアに噛みつかれた女王のコーギーが後ろ足を骨折するという事件が発生。回復の見込みがないため、このコーギーは安楽死させられたという一件もあった(アン王女のブル・テリアは男児に噛みつき、当局から罰金を科されたこともある)。

立ち耳とはっきりとした顔立ちが特徴のコーギー立ち耳とはっきりとした顔立ちが特徴のコーギー

女王の治世を象徴する動物

一時は「動くじゅうたん」と表現されるほどまでに増えた王室のコーギーだが、現時点で飼育されているのはウィローとホリーの2匹のみ。五輪開会式の映像にも登場したモンティーという名の犬は、その死去がパラリンピック終了直後となる2012年9月上旬に発表された。ウィローとホリーも既にかなりの老齢に達しており、人間の年齢に換算すると、女王と同じ80代になると言われている。愛犬を置きざりにして死を迎えたくはないとの思いから、女王は今後新たなコーギーを飼うことはないとの意志を関係者には伝えているという。

コーギーの減少は、王室内に限った話ではない。実はこの犬種は絶滅の危機にある。英国内でコーギーとして登録されている犬は現在わずか300匹未満。もともと牧羊犬として飼われていた歴史を持つコーギーの多くは、家畜の牛に尻尾を踏まれないようにとの配慮の下で、生後数週間で尻尾を切断されていた。ところが、この習慣が残酷であるとして、約10年前より尻尾の切断を禁じる法律が施行。コーギー独特の見かけが変わってしまったことなどを理由に人気が低下したと考えられている。

女王とともに英国の歴史を刻んできたコーギー。ウェールズで生まれ、スコットランドの山奥を駆け回り、女王とともにバッキンガム宮殿で暮らしてきたその犬たちは、いつしか英国の文化を象徴する動物となっていた。同時に英国人たちはいつからか、コーギーを通じて、普段はあまり個人的な見解や感情を示さないと言われている女王の胸の内を覗こうとしてきたのかもしれない。史上最長の在位期間を誇る女王の治世は、コーギーたちの物語とともにある。

 

VAMPS インタビュー

今年だけで計8回の英国公演を実施
VAMPS インタビュー

「ロック音楽への需要を日本国内だけで求めるには限界がある」との思いから、積極的に海外展開を行う音楽ユニット、VAMPS。今年だけで英各地で計8回の公演を予定している彼らが、英国での活動について語る。

VAMPS

ロック・バンド、L'Arc~en~Cielのヴォーカルを務めるHYDEと、Oblivion Dustのギター及び作曲を担当するK.A.Zが2008年に結成した音楽ユニット。結成当初より、日本国内外での公演活動を積極的に行っている。英国では2013年10月と14年3月にロンドン公演を行い、同年6月にはイングランド中部レスターシャーで開催された野外音楽フェスティバルであるダウンロード・フェスティバルに参加。去る7月10日、11日にはロンドンで開催されたJAPAN NIGHTに出演した。また11月にはフィンランドのヘヴィメタル・バンドであるアポカリプティカの英国ツアーにスペシャル・ゲストとして出演する。
www.vampsxxx.com

VAMPSインタビュー
Photo: Ayame Mizuno

まず、2014年に出演したダウンロード・フェスティバルでの出来事を振り返らせてください。最後の曲を演奏中に、制限時間オーバーという理由で強制終了となるハプニングがありました。

HYDE: もちろん最後の曲を終えることができなかったのは残念。ただライヴをやっている間に観客の身体が徐々に揺れていくのが分かったので、そうした手ごたえを得ることができたという収穫もありました。

K.A.Z: たとえ最後の曲が一部演奏できなかったとしても、その最後の曲に至るまでに十分伝えることができたのではないかと思うよ。1曲できなかったのは残念だけど、そうした制約の中でも伝えるべきものは伝えることができたな、と。

音響が急に止められたときには、お二人はどんな思いを抱いたのですか。

HYDE: そりゃあ、びっくりしましたよ。腹も立ったし。僕らはきちんと時間内に演奏を終えられるようにあの日のメニューを作ってたんです。時間は絶対に守っていたはず。それなのに途中で止められてしまったから、「なんでだろう、なんでだろう」という思いでしたね。

K.A.Z: ステージから降りた後は、バンドのメンバーもスタッフも、全員がぽかーんとしていたよ。何が起きたのか全く分からなかった。なんで音が止まったのかなって。

海外フェスにおけるほかのアーティストの演奏は気になるものなのでしょうか。

HYDE: 自分たちの出番を待っている間、その前に出演しているバンドの演奏をステージの後ろから観るということは、例えばそうしたバンドがどっかんどっかん盛り上がっているところを間近で目撃することになるわけで。自国出身のバンドには、既にそれぞれ固定ファンがいるわけですよね。一方で僕らは英国ではまだ全然ライヴをできていない、言わばまだ新人の状態。自分たちが出てもこれほど盛り上がらないのではとか、今は満員だけどこの観客は僕らがステージに出たときにはいなくなっちゃうんじゃないかといった不安は少しあるかな。

K.A.Z: 僕は前のバンドをあえて観ることでテンションを上げるようにしています。同じ空気感に合わせるというか。何も観ないでステージに立つと、自分のテンションをゼロから上げなきゃいけない。ほかのバンドを観ていると徐々にテンションが上がってきて、自分たちの出番となったときにちょうど良い状態になります。

VAMPSインタビュー
Photo: Ayame Mizuno

英国には特有の批評文化があります。お二人はそうした批評記事に目を通しますか。

HYDE: 見てないですね。

K.A.Z: 僕はダウンロード・フェスに出演した後に出たものは読みました。良く書いてくれていたものがあったので、それは純粋にうれしかった。

7月10日、11日には日本の音楽を海外へと紹介するイベントであるJAPAN NIGHTに出演しました。一方で11月から行われる英国ツアーでは、取り立てて日本のバンドであることを打ち出すことなく、フィンランドのヘヴィメタル・バンドであるアポカリプティカとともに英各地を周ります。

HYDE: むしろ、後者の方が自分たちのスタイルなのかもしれないね。普段から日本を背負って音楽をやっているつもりはないので。むしろ自分たちを全く知らないお客さんの前でアピールをする方が効果的。そういう観客の前で演奏するのはまさに「臨むところだ」という気分になりますね。

K.A.Z: (複数のバンドが出演する)JAPAN NIGHTでは、やはりVAMPSへの歓声を一番でかくしたい。また11月の英国ツアーも大事にしたい。とにかくたくさんの人に聴いてもらいたいというのが根底にあるので、ステージに立つという意味においてはJAPAN NIGHTも11月の英国ツアーもどちらも大切にしたいな。

HYDEさんはステージ上で、歌や演奏以外にも英語で色々と叫びながら観客を煽っていますね。そうした英語のセリフは事前に準備しているのですか。

HYDE: 事前にある程度は考えてます。何を言うべきなんやろかって。そうしたライヴで使える言葉って、国によって結構違うんです。何も知らないままに日本語のセリフをただそのまま訳すと、例えば「皆さん、ノってらっしゃいますか?」みたいなおかしな言葉になり得るので。だから事前に色々な人に聞いて調べておかないといけない。まだまだ分からないことがいっぱいあります。まあ簡単な言葉なら、準備もせずにその場で何か叫んじゃうこともありますけど。

VAMPSインタビュー
Photo: Ayame Mizuno

英国での公演を重ねてきて、バンドとしての変化を感じる部分はありますか。

HYDE: フェスや海外の公演を多く経験するとその分だけ成長するとは思いますね。前回のロンドン公演から随分とライヴに徹してきて、あらゆる面でだいぶ変わったと思います。加えて公演を続けていると色々なトラブルがあって、対処法も蓄積されていく。ライヴ中に観客に向けて話す内容も変わってきています。特にVAMPSは成長が速いバンドだと思うんです。ある程度の演奏力のあるメンバーが新人のような形で海外に行って、新人のように新しいものを吸収している。つまり、既に技術のある人が、技術を超えた部分で色々なものを吸収しているから、見た目にも変化が出やすいんじゃないかな。

K.A.Z: ロンドンに限らず、海外ではフェスにしてもツアーにしても、リハーサルやサウンド・チェックができないままにステージに立つということが多くある。そういうことをやっていくとやはりタフにはなりますね。制約ある環境の中でいかに良く見せるかということを考えなければいけないので。

VAMPSの英国公演には、毎回はるばる日本から参加するファンも多くいます。お二人はそうした日本から来たファンの顔を覚えているものなのでしょうか。

HYDE: それは分かりますよ。目立とうとしている子とかはやっぱり覚えやすいです。派手な人、いつも出待ちしてくれている人、いつもライヴ中に暴れている人……。そういう特徴があると分かりやすいですね。

最後に、11月に予定されている英国ツアーについての意気込みを教えてください。

HYDE: すごいスケジュールで行われることになるから、自分たちもどうなるか分からない。英各地をこれだけ周る機会は今までなかったから、楽しみです。

K.A.Z: 行ったことのないところへ行ってパフォーマンスをするということこそ、僕らが最もやりたいこと。そのやりたかったことが少しずつ具体的な形になってきているので、絶対に良いライヴにしたいですね。

VAMPS APOCALYPTICA -SHADOWMAKER UK TOUR

APOCALYPTICA -SHADOWMAKER
UK TOUR

11月24日(火)~29日(日)
ロンドンを含む6カ所で開催

www.vampsxxx.com/contents/lives

 

東京スカパラダイスオーケストラ ロンドン公演インタビュー

東京スカパラダイスオーケストラ
ロンドン公演インタビュー

7月13日にロンドン公演を行った東京スカパラダイスオーケストラ。超満員となった会場は、興奮した観客同士が身体をぶつけ合う「モッシュ」が発生するほどの大盛況となった。今回のロンドン公演について、ライブ終了直後に楽屋にてメンバーの谷中敦氏に話を聞いた。

東京スカパラダイスオーケストラ
TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA

1985年に結成されたスカバンド。日本国内だけでなく、英国を含む海外にも広くファン層を持つ。今年は7月11日から21日にかけて、ポーランド、英国、ベルギー、スペインを周る欧州ツアーを敢行。英国ではロンドンのカムデン地区にあるジャズ・カフェで公演を行い、会場は超満員となった。過去には世界最大規模の音楽イベントであるグラストンベリー・フェスティバルへの出演も果たしている。
www.tokyoska.net

東京スカパラダイスオーケストラ
ジャズ・カフェの入り口前に並ぶ人々

今回のロンドン公演に対してどんな印象を抱きましたか。

ロンドン公演は本当に久しぶりだったんです。ライブ会場となったジャズ・カフェが前に来たときのまま残っていたのがうれしかった。でも、もしかすると建物は前の方がもっとピカピカしていたかな。この会場がずっとこのまま残っていてほしいなと思います。

ライブ内容自体については、僕らは狭いステージの上で大勢で動き回らなければいけないので、お客さんの視点からはせせこましく見えないように気を付けました。すごく良いお客さんで、のるところでのって、聴くところは聴いてくれたのがうれしかった。皆さん、集中力が半端なくあったので、それに応じて僕らもエネルギーを出すことができたかなという気がしています。お客さんが持っているエネルギーを使って、さらにエネルギーを呼び込むみたいな感じで盛り上がるというのが僕たちの理想。いつもは持っているけど眠っているエネルギーをライブ会場で出してほしいので。僕らは観客とエネルギーを交換するために色々なライブ会場を周っているんです。各地の人々が、それまで気付いてもみなかった自分に気付く瞬間に出会いたい。そういう意味で、今日は「いつもよりはしゃいでしまった」というお客さんがたくさんいたような気がします。それが何よりもうれしいですね。

数日前には、同じくロンドンで、日本のロック・ミュージシャンたちによる「ジャパン・ナイト」というイベントが開催されました。

ジャパン・ナイトに出演したOKAMOTO’Sのハマ・オカモトからはツイッターで、[Alexandros]の川上洋平からはLineで連絡が来て、「頑張ってください」みたいなことを言ってもらいました。ともかく、こういう形で日本のバンドがまとまってつくる音楽って結構レベル高いのではないかと思います。工夫を凝らしたサウンドを持つ若いバンドが今はたくさんいますよね。昔は日本のバンドと言えば海外のバンドを聴いてそれをコピーしていることが多かった。今は日本のバンドしか聴かずに育って日本で新しいバンドを組んで、しかもものすごく面白い音楽をつくるという人たちが増えてきたような気がします。そういうところで特異性が出てくると面白いと思うし、またそういうバンドが海外に出ていくことはすごく夢がありますよね。

スカパラによる今回のロンドン公演では、観客がライブ中ずっと盛り上がっていましたね。とりわけ谷中さんが「Music is a game that anyone can win!」と叫んだときは、地鳴りかと思うぐらいの歓声が起きました。

あれは「Diamond in your heart」という曲の歌詞にある一節なのですが、僕らは「音楽は全員が勝つゲーム」ということをよく言ってるんですよ。バンドをやっていると、お客さんに向けて戦うというか、盛り上げるために戦うみたいな気持ちになりがちなのですが、実はお客さんが盛り上がって、お客さんが勝った気持ちになってもらうことが一番大事というか。その戦いには参加しないと勝てないけど、参加した人は全員勝てる。そういう風に盛り上げるべきというのが我々の信条なんです。

東京スカパラダイスオーケストラ
東京スカパラダイスオーケストラがロンドン公演を行った
ジャズ・カフェ。会場は超満員となった

スカパラのメンバーの皆さんはこれまで何度も公演やレコーディングのために英国を訪れています。ロンドンで観光に訪れた場所などありましたら教えてください。

実はいまだに大英博物館さえも行ってないぐらいなんです。ただロンドン五輪・パラリンピックの開催期間中にロンドンのスタジオでレコーディングをさせてもらったんですが、あのときは1日だけ休みを取れたので、コベントリーまで行ってサッカーの日本代表対ホンジュラス代表の試合を観に行きました。そう言えば、ロンドンという街はオリンピックのころと比べて随分と変わりましたね。街並みがとても奇麗になったし、あとはロンドン市民の外国人に対する受け入れの気持ちが変わったような気もします。東京も五輪そしてパラリンピック開催を通じて街が奇麗になり、人々の意識も高まって、誰もがどこかオープンな気持ちになっていくのかな。ロンドンを見習いたいなと思いました。

 
<< 最初 < 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 > 最後 >>

日系に強い会計事務所 Blick Rothenberg Ko Dental お引越しはコヤナギワールドワイド 24時間365日、安心のサービス ロンドン医療センター

JRpass totton-tote-bag