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Wed, 17 December 2025

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ハリー王子&メーガン・マークルさんロイヤル・ウェディング - 結婚にまつわるエトセトラ

Prince Harry and Meghan Markle's Royal Wedding 2018 祝!ヘンリー王子とメーガン・マークルさん
ロイヤル・ウェディング
結婚にまつわる
基本のエトセトラ

伊藤悠貴

2018年5月19日、チャールズ皇太子の次男ヘンリー王子(33)と、婚約者メーガン・マークルさん(36)の結婚式がロンドン郊外のウィンザー城で執り行われる。かつてはそのワルガキ振りでタブロイド紙を賑わせた、「ハリー」ことヘンリー王子と、米俳優でバツイチ、そしてアフリカ系の血をひくメーガン・マークルさんの結婚は、様々な点において英国王室に新風をもたらすことになるだろう。ここでは、そんな2人の結婚にまつわる素朴な疑問を紹介しよう。

結婚したらどこに住む?

当初は、ハリー王子が2012年から住んでいるケンジントン宮殿内のノッティンガム・コテージに引き続き暮らすのではないかと言われていた。ノッティンガム・コテージは宮殿内に数ある邸宅の中でも特にコンパクトな住まいで、地上階に寝室が2部屋、リビング、キッチン、バスルーム、そしてプライベートな小さな庭がある。しかし、ハリー王子とメーガンさんはテレビ・インタビューの際に「早くたくさんの子供が欲しい」と大家族計画を発表。やがて、現在大急ぎで改装が進む、寝室だけで21室もある大きな邸宅、「アパートメント1」へ移ることが分かった。隣人は「アパートメント1A」に暮らすウィリアム王子一家だ。

ケンジントン宮殿ケンジントン宮殿

結婚すると名前が変わる?

王室メンバーの男性には結婚式当日に称号を与えられる伝統があり、その称号は妻にも使われる。例えば、ウィリアム王子は結婚したことでケンブリッジ公爵殿下(His Royal Highness The Duke of Cambridge)、そしてケイト・ミドルトンさん(キャサリン妃)はケンブリッジ公爵妃殿下(Her Royal Highness The Duchess of Cambridge)となった。ハリー王子の称号は今号の発行時点ではまだ分かっていないものの、「サセックス公」となる可能性が高いと多くのメディアが伝えている。ただし、その理由というのは、現在サセックス公の称号に「空きがある」からという単純なもの。その予想が正しければ、ハリー王子はサセックス公爵殿下(His Royal Highness The Duke of Sussex)、そしてメーガンさんはサセックス公爵妃殿下(Her Royal Highness The Duchess of Sussex)となる。

公爵妃殿下にもビザがいる?

米国人のメーガンさんは欧州経済領域(EEA)圏内の国籍を持たないため、英国に住むには滞在許可が必要。たとえこれから王室メンバーの一員になるとしても、一般人と同様、ホームオフィスに書類を提出し審査を受ける。ただし、ホームオフィスのある英南西部クロイドンへ行かず、バイオメトリックス認証のための係員が出向する「スーパープレミアム・サービス」を利用するのは間違いない。現在メーガンさんが所持するのは6カ月有効のフィアンセ・ビザ。結婚後はすぐに配偶者ビザを申請することになる。このビザは2年6カ月有効で、それを経て晴れて永住権申請となる。その際にはメーガンさんも、英国の歴史や暮らしに関する知識が問われる「ライフ・イン・ザ・UK・テスト」を受ける必要がある。

宗教は結婚の障害にならない?

3月6日にセント・ジェームズ宮殿内の王室礼拝堂で洗礼を受け、イングランド国教会に改宗したというメーガンさん。2013年に法律が改正され、王室メンバーとカトリック信者との結婚が認められるようになったため、本来は、カトリックの高校を卒業し、家はプロテスタントという宗教背景を持つメーガンさんが改宗する必要はない。だが改宗したことにより、今後は王室メンバーとともに教会の儀式に参加することができるようになった。ちなみに、2002年以前のイングランド国教会において、離婚経験のある者が教会で式を挙げるには様々な制約があり、司祭の許可も必要だった。2005年に結婚したチャールズ皇太子とカミラ夫人は、ともに離婚経験者であることから、自らの意志で民事婚を選んでいる。

ヘンリー王子とメーガン・マークルさんの結婚式

結婚式

2018年5月19日(土) 12:00~ ウィンザー城の敷地内にある聖ジョージ礼拝堂にて

聖ジョージ礼拝堂

パレード

13:00ごろから馬車でウィンザー市街へ

ベストマン(新郎の付き人)

ウィリアム王子

ブライズメイド(花嫁の付き人)

シャーロット王女を始めとした6人の子供
メイド・オブ・オナー(花嫁の付添人)はなし

ページボーイ

ジョージ王子を始めとした3人

ウェディング・ドレス

ジバンシィ(GIVENCHY)のクリエイティブ・ディレクター、クレア・ワイト・ケラーがデザインを担当

ウェディング・ケーキ

バイオレット・ベーカリーのクレア・プタックさんによるレモンとエルダーフラワーのケーキ

 

伊藤悠貴インタビュー - 新世代の天才チェリスト

ラフマニノフを心に宿す新世代の天才チェリスト 伊藤悠貴
YUKI ITO INTERVIEW

伊藤悠貴

ブラームス国際コンクールに続き、ウィンザー祝祭国際弦楽コンクールにおいて日本人初の優勝という快挙を達成した、日本を代表する若きチェロ奏者、伊藤悠貴氏。今年6月、音楽の殿堂ロンドンのウィグモア・ホールにて、同ホール史上チェリスト初となるオール・ラフマニノフ・リサイタルを行うことになった彼に、音楽家としてデビューするまでの経緯、その後の活動、そして英国と日本の生活や聴衆に関して話を聞いた。

伊藤悠貴 Yuki Ito

1989年生まれ。15歳で渡英。2015年王立音楽大学を全課程首席で卒業。2010年ブラームス国際コンクール、2011年英国の最高峰と言われるウィンザー祝祭国際弦楽コンクールで日本人として初優勝。同年フィルハーモニア管弦楽団定期公演にてデビュー以来、ウラディーミル・アシュケナージ、小澤征爾、ダヴィド・.ゲリンガスらと共演を重ね、2016年には宮沢賢治生誕120年記念NHK世界放映リサイタルを開催し、100年記念の際にヨーヨー・マが行った大役を担った。ライフワークとするラフマニノフ作品の演奏・解釈は国際的な評価を受け、今年2018年には音楽界の殿堂、ロンドンのウィグモア・ホールにて、ホール史上チェリスト初となるオール・ラフマニノフ・リサイタルを行う。OTTAVAラジオ「伊藤悠貴 The Romantic」毎週日曜夜(金曜夜再放送)放送中。

ロンドンの空気を感じ
10代半ばで音楽家になることを決意

5歳からバイオリン、その後6歳からチェロを始めたそうですね。きっかけは何だったのでしょうか。

バイオリンを習い始めたころ「どうして僕が立って弾いているのに先生は座っているんだろう」と思ったんです。それで、両親に相談したところ、「そんなに座って弾きたいならチェロという楽器があるから」とチェロを渡されました。実はこれがチェロを弾き始めたきっかけです(笑)。

当時は楽器のほかにも習いごとをしていましたか。

楽器を始めた時期に、ある有名な児童劇団のオーディションも受け、最優秀の成績で合格しました。それもやってみたかったのですが、当時通っていた音楽教室の時間とかぶってしまうことになり、やむを得ず諦めました。

将来音楽家になろうと決めたのはいつごろなのでしょうか。

父の転勤で15歳のときロンドンに住み始めたことが、大きく影響していると思います。もともと表現することが好きだったこともあり、10代半ばから本場のクラシック音楽の空気を感じて、ロンドンの地で「音楽家になろう」と決めました。

渡英後、アレクサンダー・ボヤルスキー氏や名チェリスト、ダヴィド・ゲリンガス氏に師事することになった経緯は。

10歳になって間もなく、当時聴いていたCDを通してダヴィド・ゲリンガス氏の芸術に出あい、いつかこの音楽家に学びたい、と思うようになりました。ロンドンに移住した当時、ゲリンガス氏はベルリンで教鞭を執っていたため、ロンドンでゲリンガス氏と繋がりのある人が誰かいないか探したところ、出会ったのがボヤルスキー氏でした。

2010年のブラームス国際コンクールに続き、翌年にはイギリスの最高峰であるウィンザー祝祭国際弦楽コンクールでも、日本人初優勝という快挙を成し遂げられました。おめでとうございます。優勝したときはどのようなお気持ちでしたか。

ありがとうございます! 21歳で、2つの有名な国際コンクールで優勝でき、この先ソリストとしてやっていけるのかな、と自信を持てるようになりました。

ブラームス国際コンクールでは、噂で名前を聞いていた世界の強豪がたくさんいたこと、そしてウィンザーは若手弦楽器奏者の登竜門であるので、チェリストだけではなくバイオリニストたちとも同じ土俵で勝負せねばならなかったことが、最大のプレッシャーであり、また挑戦でした。

2015年には、王立音楽大学で最優秀弦楽器奏者賞を得て、全課程を首席で卒業。最も努力されたことは何ですか。

大学在学中はとにかくできる限り色々なことに挑戦したいと思い、チェロ以外のこと(指揮や編曲、楽譜の研究を始め、音楽哲学、心理学、音楽史など)にも多くの時間を費やしました。イギリスの教育は、一つのことだけではなく、多方面からのアプローチを大事にしていることもあり、「チェロを極めるにあたり、色々な角度から勉強を進めていく」という僕の姿勢が、認めてもらえたのかもしれません。

芸術監督を務めるナイツブリッジ・フィルの指揮ロンドンにて、自身が芸術監督を務めるナイツブリッジ・フィルの指揮(世界的チェリスト J.ロイド=ウェバーをソリストに招いて)

ウィグモア・ホールでの初リサイタルは
オール・ラフマニノフで

過去には「生まれ変わったらラフマニノフのチェロ・ソナタになる」と発言されるほど、セルゲイ・ラフマニノフの演奏に魅かれているそうですが。

ラフマニノフの音楽とは、出あったときから自分自身が作品を書いたかのような、自分と重なる不思議な感覚があります。今では「ライフワーク」と表現していますが、ラフマニノフ作品を研究し始めたときは、そのような感覚を常に抱いていました。

22歳で録音したデビュー・アルバムは「ラフマニノフ: チェロ作品全集」ですが、全世界でもラフマニノフのチェロ作品全集を録音している人は5人もいないのではないでしょうか。もちろん、それがデビュー盤だった音楽家は、世界で僕一人だと思います。

そして6月には音楽家にとって憧れの「殿堂」であるウィグモア・ホールで、史上初となる「オール・ラフマニノフ」チェロ・リサイタルを演奏されますね。デビュー時から、現在に至るまでの経緯をお聞かせください。

21歳のときに、エリザベス女王の公邸の一つであるウィンザー城で、名門フィルハーモニア管弦楽団との共演でデビューしました。その後のロイヤル・フェスティバル・ホールで、指揮者故ロリン・マゼール氏のコンサートの前座として行ったリサイタルや、ロイヤル・アルバート・ホールのエルガー・ルームでのリサイタルなど、良い思い出がたくさんあります。

今回いよいよウィグモア・ホールでリサイタル・デビューすることになり、自分の音楽家人生の中でも思い出に残る公演となるのであれば、やはり自分が一番自信を持って臨めるプログラムにしたいと思いました。そして最終的に「オール・ラフマニノフ」という思い切った案に到達しました。

この演奏によって歴史に名を刻むことができるのは、僕にとって最大級に光栄なことです。それに加えて、ラフマニノフが28歳のときに書いたメインの「チェロ・ソナタ」を、僕もまた28歳で、この記念すべき公演で演奏することになりました。これは間違いなく「チェリストになって良かった」と思えることです。

演奏家として多忙な日々を過ごされているとは思いますが、体調や精神状態の管理で、普段から心掛けていることはありますか。

ステージ前はもちろん緊張しますし、逆に緊張しないと良い演奏はできません。普段から「周りを気にしない」「ネガティブなことは、長く心の中にとどめない」といったようなことを心掛けるようにしています。

今まで多くの音楽家と共演されていますが、自身の演奏に影響を受けた音楽家は。

僕にとって昔から憧れの芸術家は、ダヴィド・ゲリンガス氏、ウラディーミル・アシュケナージ氏、そして小澤征爾氏の3人です。僕は幸い20代半ばまでに彼らと共演させていただく貴重な機会を得ましたが、その共演がやはり僕にとって、最も感動的で刺激的な時間だったことは間違いありません。

伊藤悠貴小澤征爾氏(写真後方)の下、「鳥の歌」を演奏

共演されたときのエピソードをお聞かせください。

それぞれとても思い出深いのですが、アシュケナージ氏とラフマニノフのチェロ・ソナタを共演した際、彼が「この曲は何年も弾いていないからなあ」と言いながら全部弾いてしまったんです。それを聴いて「本当の天才」の次元が、異次元であることを体感しました。

チェロを演奏するにあたり、最も大切なことは何だと思いますか。

「人の心に届く音楽を作ること」です。チェロは僕にとって「芸術を音楽という形で作り出す」ための「相棒」だと思っています。

ステージから感じる
日本とイギリスの違い

日本とイギリスで活動されていますが、両国において伊藤さんが感じた最も大きな違い、または共通点などがあれば教えてください。

日本とイギリスは実は多くの共通点があると思います。英語にはいわゆる日本語でいう「敬語」はありませんが、相手を敬う表現、遠回しの表現など、言葉に関していくつもの共通点があります。また車の運転は右ハンドルで左側通行など、プラクティカルな面での共通点も多数ある。そのため、生活している上では日本にいるときとイギリスにいるときと、それほど大きな違いを感じることはありません。

しかし、コンサートになると、ステージから感じる雰囲気はかなり違いがあります。日本のお客様は終止真剣に静かに聴いてくださるイメージが強いですが、イギリスの観客は真剣に静かに聴く、というよりは、演奏者側と一体になろうとしている雰囲気があります。そのため演奏者側と聴衆の「距離」という意味では、イギリスの方が近く感じます。

イギリスの作曲家の作品についてはどう思われますか。

日本で知られているイギリスの作曲家や作品と言えばエルガー、ブリテン、そしてホルストの「惑星」くらいですが、15歳でイギリスに来て、ブリッジ、ディーリアス、アイアランドといった名作曲家たちについて知りました。今では日本での公演でたびたび、イギリスのまだ日本であまり知られていない作曲家の作品を演奏していますが、皆さんとても喜んでくださいます。

ロンドンでの生活で好きなところ、困ったところはありますか。また、ロンドンで一番好きな場所は。

ロンドンでの生活はとても好きです。最近はおいしいレストランもたくさん増えて、もはや「イギリスはごはんがおいしくない」というレッテルは何も意味がありません(笑)。ロンドンの中心部に行くときは必ず立ち寄るカフェがある、ハイド・パークが一番好きな場所です。

映画や本、アートなど、音楽以外で好きなアーティストや影響を受けた作品はありますか。

文学作品ではシェイクスピアの「十二夜」がお気に入りです。特にロマンティックな喜劇設定が気に入っています。またその舞台である、架空のユートピアである「イリリア」という場所のチョイスも好きですね。あとはコナン・ドイル。どちらもイギリスの作家ですね。コナン・ドイルに関しては、とにかくその英語使いの妙に魅せられました。シャーロック・ホームズ・シリーズは、「こんなかっこいい英語を話せるようになりたい!」と、英語勉強のスピードを更に加速させてくれました。

将来の予定、抱負などをお聞かせください。

今後は、チェリストとしてだけでなく、指揮の公演など、自分ができることをいろいろ挑戦していきたいと思っています。今年1月から日本のラジオ番組でパーソナリティーを務めさせていただいていますが、ラフマニノフ作品だけでなく、イギリス音楽全般を紹介するように心掛けています。

ファンや今音楽を勉強している人たちにメッセージをお願いします。

音楽はほかのものにない「パワー」を持っています。それは人に「忘れてはいけない何か」を思い出させてくれるパワーだと僕は思っています。音楽家を志すすべての人には「音楽を通じて誰かを幸せにする音楽家になってください」と伝えたいです。

伊藤悠貴 - お気に入りのハイド・バークにてお気に入りのハイド・バークにて

Avex Recital Series 2018
伊藤悠貴(チェロ)
ソフィア・グルャク(ピアノ)

2018年6月2日(土)13:00開演
チケット: £20

会場: Wigmore Hall
36 Wigmore Street W1U 2BP
最寄駅: Bond Street

● チケットお問い合わせ先
Tel: 020 7935 2141
http://wigmore-hall.org.uk

● コンサートに関する問い合わせ先
エイベックス・クラシックス・インターナショナル
www.avexrecitalseries.com

オール・ラフマニノフ・プログラム

チェロのための2つの作品(前奏曲 / 東洋の踊り)作品2
エレジー 作品3-1*
メロディー 作品3-3
セレナーデ 作品3-5
前奏曲 作品23-10
ロマンス
朝 作品4-2*
夜のしじま 作品4-3*
リラの花 作品21-5*
ここはすばらしい 作品21-7*
春の水 作品14-11*
チェロ・ソナタ ト短調 作品19
*伊藤悠貴編

 

野田秀樹 インタビュー ロンドンで「One Green Bottle」を上演

ロンドンのソーホー・シアターで、
自作の英語版「One Green Bottle」を上演

野田秀樹劇作家 / 演出家 / 役者

1992年に文化庁芸術家在外研修員制度で来英。以来、ロンドンで知己を得て、英演劇界に根を張り広げ続ける野田秀樹が、4回目となるロンドンでの英語劇を上演する。「表に出ろいっ!」のタイトルで2010年に日本で初演された作品を英語翻案した「One Green Bottle」。日本のとある家族の崩壊を狂騒的に描いた作品がどう生まれ変わったのか。作・演出に加え、母役で出演する野田に話を聞いた。(インタビュー・文: 村上祥子)

野田秀樹 Hideki Noda 1955年生まれ、長崎県出身。東京芸術劇場芸術監督、多摩美術大学教授。 公演情報東京大学在学時に劇団「夢の遊眠社」を結成。92年、劇団解散後に文化庁の芸術家在外研修制度(現・新進芸術家海外研修制度)で1年間、ロンドンに留学。翌年に帰国後、演劇企画制作会社「NODA・MAP」を設立。歌舞伎の脚本・演出、英語劇の創作などを含む幅広い活動を展開。2009年に名誉大英勲章OBEを受勲。11年、紫綬褒章受章。今回は「RED DEMON」「THE BEE」「THE Hideki Noda DIVER」に続く4回目のロンドンにおける英語劇上演となる。

過去にロンドンで上演された「THE BEE」「THE DIVER」は英語で制作するプロセスを経ていましたが、今回は日本で上演された作品を英語翻案されています。なぜこの作品を選ばれたのですか。

「THE BEE」と「THE DIVER」でキャサリン(・ハンター)とグリン(・プリチャード)に出演してもらいましたが、3人でまた芝居をしたいねという話があって。少人数でできる自分の作品はと考えた結果、「表に出ろいっ!」を英語にしたら面白いのではということになりました。

キャサリンさんとグリンさんの役者としての強みは何でしょう。

キャサリンは、(名門演劇学校の)RADAを出ている、いわば典型的な演劇エリート。言葉に対する接し方、言葉から自分の役を作っていく手法はなかなか日本にはないので、一緒に仕事していて学ぶべきものが多いです。

グリンは身体能力が優れているところと、器用という言い方をすると嫌な役者に聞こえてしまうかもしれませんが(笑)、とにかく何でもできてしまう。そこがすごいですね。

キャサリンは舞台上ではものすごく器用で、何でもできる女優さんに見えますが、稽古場では意外に愛すべき人で、すぐにはばっとやれないタイプなんですよ(笑)。非常によく考える人なのかな。最終的には誰もできないようなことをやってしまうのですが。

One Green Bottle
崩壊していく家族を描いた3人芝居。メガネをかけているのが母役の野田(写真後方)

「One Green Bottle」は3人家族の芝居ですが、キャサリンさんが父、野田さんが母、グリンさんが娘を演じられるとか。「THE BEE」でもキャサリンさんが男性の役を、野田さんが女性の役を演じられましたが、ジェンダーを交換する理由は?

「THE BEE」のときになぜジェンダーを変えたかというと、筒井(康隆)さんの原作の中にレイプ・シーンがあったんですね。ワークショップの際に、これをそのままやると抵抗があるという意見がイギリスの女優さんたちの中から出まして。それならばジェンダーを交換すれば女性が男性をレイプするということで膜が1つ掛かるので、直接的に見えなくなるだろうと考えました。

今回は、家庭における父や母、子の役割という話がよく出てきます。例えば父親がえばっているのも、男性が生々しくえばるよりも女性が演じる方が、言葉が皮肉に聞こえてくる。グリンが娘を演じますが、実際には男性です。男性でありながら「なんなの。(父親の)あのえばりっぷりは」などと話すと、その言葉が話している本人に返ってくる。そこがジェンダーを交換する面白さかなと再認識しつつ稽古しました。

英語翻案を務められたのは日系英国人のウィル・シャープさん。どのような経緯でシャープさんが担当されることになったのでしょう。

ウィルはイギリスで人気のテレビ・ドラマ「フラワーズ」の脚本を担当しつつ役者さんとしても出演しています。それを観たフランス人プロデューサーが、「ヒデキにとても合いそうな人を見つけたので会ってみたらどうか」と連絡してきてくれたんです。僕はそのとき東京にいたので、キャサリンに連絡して会ってもらったら、彼女からも「ヒデキとすごく合うと思う」という返事がきて。それで決めました。

野田さんと合う、というのは?

自分で言うのも嫌なんだけど(笑)、知的で、非常に古い言い回しを少し換えて使うような、いわゆる言葉遊び的な部分――シェイクスピアの言葉を少し崩しながら引用したり、ことわざを下品な言い回しに使ってみたりとか――そういうところが合うのかな、と。お互いチープなジョークも好きですね。構造や構成をよく考えて、過度な説明はいらないという点も近いかな。

日本語版とタイトルが全く異なりますが、その意図は?

最初は「表に出ろいっ!」をそのまま訳そうとしたのですが、日本人が感じる感覚がイギリスではどうも伝わっていないなと思い、あきらめました。元々、「表に出ろいっ!」は(歌舞伎役者の)18代目中村勘三郎とつくった芝居で、54、5歳で(自分が)どれだけまだドタバタができるかというところに賭けた、喜劇性が極めて強かった作品。「One Green Bottle」は、ウィルとの作業の中で、エンディングの解釈を変えようという話になって。喜劇性が少し薄れて、不条理ではあるけれどもよく考えると悲劇的な結末とも言える形になったことから、別のタイトルにした方がいいのではないかと感じました。

そして色々考えているとき、ウィルがイギリス人ならば誰もが知っている「Ten Green Bottles」という数え歌を持ってきたのです。10本の緑の瓶が減っていく様子は、希望なのか何なのかよく分からない人間の何かが、意識しないうちにどんどん減っていくというこの芝居の状況と合うな、と。歌の最後はゼロになるのですが、1本手前の「One」とするのがすてきかな、と思いました。

そのほかに変えた点は?

ワークショップの段階では直訳の台本を使っていましたが、その時点で、イギリスの文化的なコードと照らし合わせてどのような点が分かりづらいかを聞き、色々な部分が変わっていきました。そしてウィルとホン(台本)を作り始めてからは、娘役の部分が膨らんだと思います。ウィルの実年齢と近い役なので、その視点を持ち込んだのでしょう。彼は若い人たちの言葉も使えますし。

また、日本語版では娘がはまるカルト宗教は、オウム真理教を意識したつくりになっていますが、カルト宗教はイギリスではなかなかストレートには理解されないのではないかという話も出ました。そこで存在しないカルトをつくってみることになったのです。人が携帯やパソコンに没頭してしまう世界規模の社会的な状況下で、コンピューターの中に新たなカルトが現れたらどうだろうというところから、娘の部分が変わっていきました。

今後もロンドンで、こちらで親交を深めた人たちと小規模なプロダクションをつくっていきたいとお考えですか。

少数精鋭型ではない少し大きな作品もつくってみたいのですが、そこはお金の問題が大きいんじゃないかな(笑)。2015年に「エッグ」を上演したパリのシャイヨー劇場で、今秋には日本の大きなプロダクションを上演します。いつかロンドンの大きな舞台に日本のプロダクションを持って行きたいという気持ちはありますね。

公演情報

「One Green Bottle」

とある夜。父と母、そして娘は、それぞれ外出しなければならない事情を抱えていた。しかし家には出産を間近に控えた飼い犬がいる。誰が家に残らねばならないのか。かくして仁義なき戦いの幕が切って落とされた。作・演出を務める野田秀樹のほか、オリビエ賞受賞女優のキャサリン・ハンター、グリン・プリチャードが出演。

2018年4月27日(金)~ 5月19日(土)
スケジュールの詳細はサイトを参照
£10~22

Soho Theatre
21 Dean Street, London W1D 3NE
Tel: 020 7478 0100
Oxford Circus/Tottenham Court Road駅
https://sohotheatre.com

 

「ふくしまフード・プライド」福島産農産物の安全性を世界に発信!

福島産農産物の
安全性を世界に発信! 在英日本大使館でレセプションが開催

さる3月22日、ロンドンの在英日本大使館において、「ふくしまフード・プライド」と銘打った、福島県と同大使館主催のレセプションが開催された。同イベントは、東日本大震災から7年が経過した現在も大きな問題となっている原発事故の風評を払拭し、福島の農産物の安全性や質の高さを、英国の人々にアピールするというもの。レセプションの様子をレポートする。

在英日本大使館でレセプションステージで握手をかわす鶴岡公二駐英大使(写真左)と内堀雅雄福島県知事(同中央)、在英福島県人会「ロンドンしゃくなげ会」の満山喜郎会長(同右)。

FUKUSHIMA FOOD PRIDE
ふくしまフード・プライド

ロンドンの在英日本大使館で3月22日、福島県の内堀雅雄知事を迎えて、立食スタイルのレセプション「ふくしまフード・プライド・ア・ナイト・イン・ロンドン」が華やかに開催された。同レセプションには、英国会議員や英食業界の関係者を始め、ロンドン在住の日本人を含めた200人以上が出席。粒が大きくしっかりした食感が特徴の福島産米「天のつぶ」を使った寿司や、福島和牛のたたき、キノコ料理など福島の食材を使った料理を堪能した。

大使館内ボールルーム大使館内ボールルームにて、福島の食材を使った料理を楽しむ出席者たち。
福島の日本酒福島県が誇る日本酒の数々が振る舞われた。

今回の内堀知事の訪英は、昨年12月に欧州連合(EU)が、2011年の原発事故以来日本産食品に課されている輸入規制対象から、福島県産の米などの食品を除外したことを受けてのこと。福島の農産物の安全性を日本国外に向けてPRすることが目的だ。

レセプションの冒頭のスピーチにおいて知事は、英国に住む人々に向けて、福島の復興に対する支援への深い感謝の気持ちを伝えるとともに、「いまだに福島県民の約5万人が、避難生活を強いられている。また食の安全を裏付ける放射性物質モニタリングの結果を、オンラインや新聞で公表するシステムなども構築されているが、福島県の農産物の価格は依然として回復していない」と述べた。

その一方で知事は、復興事業は確実に進んでいると強調。「福島県はここ数年、廃炉ロボットなどの研究開発を促進し、新たな産業の創出としてロボット関連産業の振興に取り組んでいる」と流暢な英語で語り、クリエイティブな視点で復興が行われている福島県の現状を力強くアピールした。同県は、災害対策、物流、農業、福祉など各分野で活躍するロボット産業の地とする「イノベーション・コースト構想」を掲げ、2020年、「ワールド・ロボット・サミット」の会場の一つとして、一部のロボット競技を同地で開催することが決定している。

レセプションに出席した、日本食のスペシャリストであり英国で「英国日本酒協会」を主宰するシャーリー・ブース氏は「大災害を乗り越えて、現在も変わらず質の高い日本酒を醸している福島県の多くの酒蔵には、敬意の念を禁じ得ない」と語り、英国内外でワイン評論家として活躍するアンソニー・ローズ氏は、「寿司や牛のたたきなど、今晩供された福島の食品はどれも素晴らしかった。多くの英国人は、福島の農産物が安全であると理解していると思う」と話した。

天のつぶ好評だった、福島県産米「天のつぶ」を使用した握り寿司。
福島牛をたたき良質な霜降りで定評がある福島牛をたたきにした一品。

こうした福島県をPR する海外での精力的なイベントが、日本国内での風評を回復させる一つの大きな機動力となると語るのは、在英福島県人会「ロンドンしゃくなげ会」の満山喜郎会長だ。氏は、震災の翌年2012年に、世界各国に点在する福島県人会が一致団結し、世界22カ国の35の県人会からなる「ワールド県人会」の会長でもある。「福島が復興に向けて何かやっている、安全であるということを常に海外で発信していくことが、風評の払拭につながる。海外発のこうしたイベントのニュースが日本でも報道され、話題になることによって、日本人の福島に対する懸念が軽減されることを期待している」と語る。

またローズ氏は、「7年前の大惨事は誰も忘れることはできないし、忘れてもいけない。でも、福島産の日本酒や食品の質の高さはもう認知されている。震災が生み出すネガティブなイメージを前面に出すのではなく、今後ポジティブなコミュニケーションができることを望む」と付け加えた。内堀福島県知事がレセプションでのスピーチでその一部を引用した、福島県出身の世界的な医師、細菌学者、野口英世の名言、「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ」。この言葉は、この日大使館に訪れた人々の心を、しっかりと捉えたようだ。

千葉清藍氏のパフォーマンス福島県にアトリエを構える書道家、千葉清藍氏のパフォーマンスも行われた。
福島県産米のパネル会場内には、福島県産米や福島名産のあんぽ柿などを紹介したパネルを設置。

 

声に出して詠みたい英国の詩 - 春を歌う編 - 英国の風景とともに味わう

英国各地の風景とともに味わう 声に出して詠みたい英国の詩

「詩を詠む」というと、とても高尚な行為のように聞こえるかもしれない。しかし本来、詩は音楽と同様に、特別な知識がなくても気軽に楽しめるもの。今回は、長い冬を越えて、やっと迎えた英国の春を謳った詩の数々をご紹介する。美しい詩の一篇を暗誦して、英国人を驚かせよう。

*英詩の名作というと、日本では古語や独特の韻文調を使って訳されることが多くありますが、本特集では出来るだけ多くの方に英詩の魅力を知ってもらおうと、原典を一部省略した上で、現代語に近付けた編集部オリジナルの口語訳を掲載しています。ここで紹介した詩の多くは、既に第一人者が手掛けた名訳が多数そろっていますので、ご興味のある方はぜひそちらもご参照ください。

春を謳う編

London

キュー・ガーデン春になり多くの花が満開のときを迎えたロンドンのキュー・ガーデン
Kew Royal Botanic Gardens Kew Richmond, Surrey TW9 3AB
TEL: 020 8332 5655 www.kew.org

Pipa's Song

The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven-
All's right with the world!

ピパの歌

ある春の朝、午前7時。
ここから見える丘の斜面は
露でいっぱい。
空にはヒバリが飛んでいて
カタツムリは木の枝の上を這っている。
雲の上には、神様が隠れているのかな。
やっぱり私は、この世界が大好きなんだ。

ロバート・ブラウニングRobert Browning
ロバート・ブラウニング
1812-1889

ロンドン生まれの桂冠詩人。様々な主観を客観的に語るための「劇的独白」という手法を生んだ。この詩は、「ピパが過ぎゆく」という劇詩の中の一篇。「ピパ」は、同作品に登場する少女の名前。日本では「春の朝」という訳題で知られる。

London

セント・ジェームズ・パークバッキンガム宮殿近くのセント・ジェームズ・パークは、春には一斉にその景色を変える
St James's Park St James's Park London SW1A 2BJ
TEL: 0300 061 2350 www.royalparks.org.uk/parks/st-jamess-park

Spring

Sound the flute!
Now it's mute.
Bird's delight
Day and night;
Nightingale
In the dale,
Lark in sky,
Merrily,
Merrily, merrily, to welcome
in the year.

さあ、フルートを鳴らそう!
まだまだ聞こえないよ
鳥たちは昼も夜もにぎやかな様子だ。
ナイチンゲールは谷間の中で
ツグミは大空の下で
元気に歌っている。
そう、元気が大事。
このまま元気に今年の春を
迎えようじゃないか。

ウィリアム・ブレイクWilliam Blake
ウィリアム・ブレイク
1757-1827

ロンドンのソーホー地区に靴下商人の息子として生まれる。詩作だけでなく、銅版画家、挿絵画家としても活躍。幻想的な詩を多く残して、英国ロマン派詩人の先駆けとなった。本作「春」では、文末が2行ごとに韻を踏んでいるのが分かる。

Margate

MargateT.S エリオットが妻と過ごしたマーゲイトのノースダウン・パークには、紫色の花が咲く
Northdown Park Margate, Kent CT9 3TP

The Waste Land

April is the cruelest month,
breeding
Lilacs out of the dead land,
mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.

荒地

4月はもっとも残酷な季節である。
なぜってライラックの花をわざわざ死ん
だ土から引きずり出して
記憶と欲望をごちゃまぜにした挙げ句に
春の雨でお休み中の草の根を叩き起こそ
うとするのだから。
冬は良かった。私たちを守ってくれた。
地面なんか雪で蔽ってしまい、
干からびた球根で、なけなしの命を
養おうとしてくれていたんだ。

トーマス・スターンズ・エリオットT.S Eliot
トーマス・スターンズ・エリオット
1888-1965

米国ミズーリ州に生まれる。1927年に英国人として帰化。神経衰弱に陥った妻の世話で心労を重ねたと言われている。本作は「荒地」の第一部「死者の埋葬」からの抜粋で、妻を連れてイングランド南東部ケントの保養地マーゲイトに赴いたときに書かれたもの。

Lake District

Lake District湖水地方の玄関口にあたる、カンブリア州のウィンダミア湖を望む
Windermere, Lake District www.visitcumbria.com

Daffodils

I wander'd lonely as a cloud
That floats on high o'er vales
and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees
Fluttering and dancing
in the breeze.

水仙

まるで谷や丘の上を浮かぶ雲のように
僕は彷徨っていた。
そうしたら突然、金色に輝く
水仙の花を見つけたんだ。
それは湖の側で、木々の下で、
そよ風に吹かれながら揺れたり、
踊ったりしていた。

ウィリアム・ワーズワースWilliam Wordsworth
ウィリアム・ワーズワース
1770-1850

イングランド北部の湖水地方に生まれる。同地域の自然を自身の思いと重ねて描いた作品を数多く残したため、「湖水詩人」と呼ばれた。本作は英国の春の訪れを告げる花、水仙を謳ったもので、英国人であれば誰もが知るほど有名な詩の一つ。ワーズワースの代表作となった。

Stratford-upon-Avon

Stratford-upon-Avon春の日が差すストラトフォード・アポン・エイボンにあるシェイクスピアの生家
Shakespeare's Birthplace Henley Street, Stratford-upon-Avon CV37 6QW
TEL: 01789 204 016 www.shakespeare.org.uk

Spring

When daisies pied, and violets blue
And lady-smocks all silver-white,
And cuckoo-buds of yellow hue
Do paint the meadows with delight,
The cuckoo then, on every tree,
Mocks married men,
for thus sings he:
'Cuckoo!
Cuckoo, cuckoo!'

ヒナギクの花がまだら色になってきて、
スミレは青く
タネツケバナは白銀色になり
ラナンキュラスの花が
牧草地を黄色に染め上げるとき、
木々の上にいるカッコーたちが
「カッコー、カッコー、カッコー」と
鳴いて、妻帯者たちを冷やかすんだ。

ウィリアム・シェイクスピアWilliam Shakespeare
ウィリアム・シェイクスピア
1564-1616

イングランド中部ストラトフォード・アポン・エイボンに生まれる。エリザベス朝時代の屈指の劇作家として四大悲劇などの名作を執筆。シェイクスピアが手掛けた戯曲の多くは、詩の定型を用いて書かれた。ここで紹介したのは、喜劇「恋の骨折り損」からの一篇。

Ayrshire


Loudon Hill, East Ayrshire, Scotlandエアシャー東部にあるルードン・ヒル
Loudon Hill Loudon Hill, East Ayrshire, Scotland

Composed in Spring

Again rejoicing Nature sees
Her robe assume its vernal hues,
Her leafy locks wave
in the breeze,
All freshly steep'd in morning dews.

春の曲

喜びに満ちた大自然が
いよいよ春の色を帯びてきた。
葉っぱたちはそよ風に揺れて、
そしてさわやかに朝露を浴びた。

ロバート・バーンズRobert Burns
ロバート・バーンズ
1759-1796

スコットランド南西部エアシャー生まれ。詩の中にスコットランド語を多く用いたことに加えて、古くから伝わる同地の民謡の普及などにも努めたことからスコットランドでは絶大な支持を誇った。バーンズが改作を手掛けた民謡の中には、日本でも有名な「蛍の光」の原曲がある。

詩を楽しむヒント英詩のリズムを意識しよう

詩の美しさは、文字を目で追っているだけでは分かりにくい。ここでは英詩のリズムに関する基本的な法則を基に、音で英詩を考えてみよう。英国の詩のリズムやその音楽性を知ることは、正しい英語の発音や抑揚を身に着けることにもつながる。

(参考:「イギリスの詩を読んでみよう」 小林章夫著 NHK出版)

英語にも七五調がある?

俳句や短歌で使われる5・7・5や5・7・5・7・7の七五調のリズムが日本人にとって心地良く感じられるように、英国人の耳にも心地の良い英語のリズムというものがある。英詩ではそのリズムは「弱強五歩格」と呼ばれ、日本語でいう5・7・5の17音のような存在。弱強五歩格は、英国の定型詩の最も基本の形で、ウィリアム・シェイクスピアが好んで使った。シェイクスピアは詩だけではなく、戯曲でもこのリズムをよく使っており、弱強五歩格になっているセリフが多い。

If Music be the food of Love,
play on

(シェイクスピア「十二夜」)

弱・強・弱・強の順で音節を読む。色で網かけされた部分を強く発音。
この弱強のかたまりが1行に5つあるものを弱強五歩格と呼ぶ。

音節の弱強が重要!

英詩で最も重要なのはリズムと言われる。そしてそのリズムを形成するのが音節の弱強。英詩は弱強または強弱の組み合わせで出来ており、スタイルとしては、弱強五歩格のほかにも、弱強のかたまりが4つの場合(弱強四歩格)や、3つの場合(弱強三歩格)などがある。しかし、定型のスタイルばかりが続くと単調になることから、基本のリズムを壊した「破格」と呼ばれる形もあり、これは俳句や短歌で言えば「字余り」のような存在だ。

Because I could not stop for Death,
He kindly stopped for me

(エミリー・ディキンソン「poem #712」)

最初の行には4つの弱強があり、次の行は3つ。
四連詩(4行で作られている詩節)で弱強四歩格と弱強三歩格が
交互に出てくるスタイルは、普通律、またはバラッド律と呼ばれている。

英語のリズムに慣れる

日本語の5・7・5のリズムは俳句だけではなく、「飛び出すな/車は急に/とまれない」のような標語としても、日常的に身近で使われている。同様に、詩の定型は英国人の英語の基本リズムにもなっているので、上で述べたような弱強を頭に入れておくことで、英詩を楽しむだけではなく、英文を読むとき、または聞くときなどに、英語がスムーズに頭に入ってきやすい。また、自分で話すときにもどこにアクセントを置けば良いかが分かるはずだ。

I am the son and the heir
Of nothing in particular

(ザ・スミス 「How soon is Now?」 )

1980年代の英バンドの歌詞を定型詩のように区切って読んでみた。
強調されている単語、音のつながりなどが見えてくる。
ちなみにこの詞は英詩人ジョージ・エリオットの
小説「ミドルマーチ」の一節に手を加えたものだそう。

 

ロンドン・グリニッジはなぜ経度0なのか? - グリニッジと天文台にまつわる10の謎

夏時間スタート前に浮かんだ素朴な疑問
グリニッジはなぜ経度ゼロなのか?

グリニッジ天文台

今年は3月25日(日)の午前1時に冬時間が終了し、グリニッジ標準時間(GMT)から時計の針を1時間進め、夏時間に移行する。さて、ここで問題。英国の標準時は、なぜロンドン郊外のグリニッジを起点としているのか。「そこにかつて天文台があったから」と答えることができたら、ひとまず正解。では、どうしてグリニッジに天文台が設置されたのだろう。そしてこの場所があたかも世界の中心であるかのように、経度0度に設定されている理由とは何か。そんな知っていそうで知らない、グリニッジにまつわる10の謎を探ってみた。

正式名称は「Royal Observatory, Greenwich」であるが、本特集では、一般的に使われている「グリニッジ王立天文台」という呼称を使用している。
写真提供 = National Maritime Museum/ Visit Greenwich

ニュースダイジェストの代行執筆・取材

Q1 経度とはそもそも何か?

日常の暮らしの中ではなかなか意識することのない、経度の存在。現在のようにスマートフォンもGPSも存在しなかった17世紀の後半は、経度の測定法をめぐって、各国の識者たちが熱い議論を交わしていた時代であった。後に飛行機が発明され、そして実用化されるまで、主な長距離の交通手段として利用されていた船による移動に際しては、緯度と経度の把握が必要とされていたからである。

だが海面に対する太陽や北極星の角度から計測できる緯度に対して、経度の測定は困難を極めた。地球は北極と南極を結ぶ線を軸として自転を繰り返しているために、経度を測るための定点となる目標物を見つけることができなかったからだ。その概念こそ広く知れ渡っていたものの実態がつかめない、という謎じみた経度の存在に、世界全体が悩まされていたのである。

経度赤道を0度と設定し、北極または南極を頂点とした上で地球上における南北の位置を示すのが緯度。一方でグリニッジ天文台を経度0度と定め、そこからの東西の距離を測る尺度となるのが経度である。

Q2 経度が分からないままでどのように航海したのか?

経度が発見されるまで、船乗りたちは目的地と同緯度線上となる地区を出発地として選んで、そのまま赤道と平行に進むようにして航海の旅に出ていたという。そうしなければ、船はたちまち海上の位置を見失い、遭難事故などの海上トラブルに発展したからである。このため、英国やスペインといった大国に乗り入れるための海路には貿易船、捕鯨船、そして軍艦などが殺到し、海上で混雑を起こしていた。またいつも予期された航路を利用する船は、海賊船の恰好の標的にもなったという。

こうした状況を克服しようと、独自の海路を開拓したのが「大航海時代」と呼ばれる15世紀以後を生きた冒険家たちであった。ただ、彼らも経度を正確に把握できていたわけではない。例えば、アメリカ大陸を発見した初めての欧州人として有名なクリストファー・コロンブスは、海水の水温や塩分の含有量に加えて、海底の地質そして周囲の景色などから、船の大体の位置を推測していたに過ぎなかった。

Q3 なぜグリニッジに天文台ができたのか?

チャールズ2世
グリニッジの地に天文台を
設置することを命じた
チャールズ2世

清教徒革命後に王政復古を遂げた英国の王、チャールズ2世もまた経度の測定法を重要な課題として認識していた1人であった。船による貿易が全盛期を迎えた17世紀後半を生きた彼は、英国の繁栄のために海上技術を発展させる必要性を痛感していたのである。

ちょうどそのころ、チャールズ2世は愛人であったフランス人女性ルイーズ・ケルアイユを通じて、経度の測定法に関するアイデアを持つというフランス人男性の話を耳にする。彼の話を聞いてみると、月とそのほかの星の位置関係から、経度を割り出すことができるという。この話に興味を持ったチャールズ2世はさっそく諮問会議を開いて意見を募ったところ、「理論的には可能であっても、天体の動きを把握できていない現状では実現不可能」と の解答が識者たちから戻ってきた。そこでチャールズ2世は天文台を設置し、天体の研究を直ちに開始するよう命じたのである。

王立天文台を設置する場所として選ばれたのは、当時、貿易港として繁栄を極めていた、ロンドン南東部のグリニッジ。またこの地は、当時チャールズ2世の宮殿が置かれていた場所でもあった。こうして1675年、チャールズ2世のお膝元にある一番見晴らしの良い丘の上に、初代責任者を務めるジョン・フラムスティードの名前が付けられた「フラムスティード・ハウス」が完成したのである。

フラムスティード・ハウスグリニッジ・パークの丘の上に位置するフラムスティード・ハウス。設計は、セント・ポール大聖堂を現在の姿に再建した建築家として名高い、クリストファー・レンによる。
フラムスティード・ハウス内オクタゴン・ルーム フラムスティード・ハウス内にある天体観測室「オクタゴン・ルーム」。望遠鏡をあらゆる角度に向けることができるように、窓が縦に長く設計されている。

Q4 グリニッジ天文台の設置によって経度は測定できたのか?

グリニッジ王立天文台の設置から数十年が過ぎても、経度の研究には目新しい進展は見られなかった。天体観測の技術に乏しい当時を生きた天文学者たちが365日にわたる星の動きを記録するためには、更に途方もないくらいに膨大な時間を費やす必要があった

そうした中、英国艦隊がイングランド南西部の沖合に位置するシリー沖諸島で座礁し、2000人以上の命が奪われるという事件が発生する。この知らせを聞いた英国政府はついにしびれを切らし、経度法(the Longitude Act)なる法律を制定。そして経度の測定法を考案した者には、2万ポンド(現代の約200万ポンドに相当)の賞金を贈呈する考えを発表した。

ニュースダイジェストの代行執筆・取材

Q5 経度は結局どう見つけたのか?

経度の測定法をめぐっては数多くの提案がなされたが、なかでも有力視されていたのが、「月とそのほかの星の位置関係を見る」ものと、「出発地と現在地の時間を比較する」という方法論であった。そして後者の可能性に賭けたのが、18世紀後半の英国で時計職人として働いていたヨークシャー出身のジョン・ハリソンである。

経度を測定するには、その時代の時計はあまりにも不正確であるという問題を抱えていた。特に海上においては、気温の変化によって金属部分が膨張または収縮するため、通常時よりも大きな狂いが生じる。更に当時の時計の多くが振り子の技術を使用していたのだが、この振り子の動くことのできるスペースを確保するため、狂いの少ない時計ほど、縦に長くなる傾向があった。しかしあまりに縦長の時計では船上に置くことさえ一苦労な上に、海上独特の揺れが振り子の仕組みそのものに悪影響を与える。そこでハリソンは振り子の技術を見限り、懐中時計の開発に尽力するようになる。

ハリソンが製作したH4
ハリソンが製作したH4。
現在でもグリニッジ王立天文台で
保存されている

いくつかの試作を経て、やがてハリソンは4作目であることから「H4」と名付けた懐中時計の開発に成功する。1763年に行われた実験では、6週間の航海で誤差はわずか5秒という結果が得られ、この時計の正確性が証明された。ハワイ諸島を発見した英国の海軍士官、キャプテン・クックもこのH4の性能には満足を示したという。またときを同じくして星座表やコンパスの製造技術も向上していき、これらの技術と合わせて経度はついに測定可能なものとなった。以後、英国の海洋技術は飛躍的に発展し、7つの海を支配する国となっていくのである。

冷遇されていたハリソン

H4の開発で後世に名を残したジョン・ハリソンだが、その功績に反して、当時は冷遇されていたという。特に天文学者ネビル・マスケリンらの嫌がらせともいえる行為には業を煮やしていたようだ。グリニッジ王立天文台の5代目責任者でもあったマスケリンは、月が運行する軌跡などを示した天体位置表を完成させており、自身の研究こそ経度の測定に利用されるべきであるとの信念を持っていた。経度法に基づく同測定法についての公募の審査員も兼任していた彼は、ハリソンからの申請案を却下。一方で審査委員会に提出されたH4本体の返却を拒否するなどの行為にまで及んでいる。

やがてハリソンのこうした不遇な状況が当時のイングランド王であるジョージ3世の耳に入り、これに同情を示した王の後押しなどによって、1773年になってようやく賞金の全額が受け渡されることになった。しかしハリソンは最後まで、グリニッジ王立天文台の関係者からの理解を得ることはなかったのである。

ジョン・ハリソン(左)と彼を敵視していたと伝えられるネビル・マスケリン(右)

17世紀前後に提案された経度測定法とその問題点

1. 出発地と現在地の時間を比較する 地球は1年間を通して、24時間で360度周るという自転を繰り返している。この法則を利用して、出発地の時刻と、太陽が最も高い位置にあるときを正午とすることで分かる海上の時刻とを比べる。両者の時差に、15(=360÷24)をかけた数字が、現在地が出発地からどれだけ離れているかを示す経度として算出できる。

[問題点]当時は正確な時計や船上での通信手段がまだ開発されていなかったために、長い航海において船内で出発地の時刻を把握することは不可能であった。

2. 月とその他の星の位置関係を見る チャールズ2世が採用した方法。まずは刻一刻と変化する、月と他の星々の位置関係を時間とともに出発地にて記録する。海上の夜空とこの記録を見比べれば、船の上でも出発地の時間を把握することができることになる。あとは太陽が最も高い位置にあるときを正午とすることで測定できる海上の時間と比較して、経度を算出する。

[問題点]当時はまだ正確な星座表がなかった。また悪天候など星が見えにくい状況になると、経度の測定そのものが不可能になる。

3. 北極星と磁石が示す方角のズレを見る 海上の船は通常、北極星の位置かまたは磁石が指し示す方向からどちらが北であるかを判断する。ところがこの両者が示す方角には実は微妙な差違があり、異なる経度によってこの違いの度合いもまた異なることが知られていた。この仕組みを利用して、逆に北極星と磁石が示す方角の偏差から経度を測定する。

[問題点]当時はまだ正確な方角を示す磁石がなかった。また偏差の計算法があまりに複雑であるため、実用的ではなかった。

4. 日食、月食が発生する時差を測る 日食や月食の発生時刻は、当時から予測することができた。このことを利用して、出発地における日食(または月食)の予定時刻との時間差から経度を測ることができる。

[問題点]日食、月食が発生する頻度があまりに少ない。

5. 魔法の粉をナイフにまぶす 犬に傷を与えたナイフにまぶすと、過去にそのナイフによって傷を負った犬がもう一度痛みを感じるという魔法の粉。この粉を使用し、船に同乗した犬に特定の時刻にうめき声を上げさせることで出発地の時間を把握し、海上との時差から経度を測る。

[問題点]誰もその「魔法の粉」の実物の存在を確かめた者はいなかった。

6. 海上で次々と花火を打ち上げる 18世紀にケンブリッジ大学で数学教授を務めていたウィリアム・ウィストンが「ガーディアン」紙などに発表した案。海上に一定区間を空けて停泊した船が、各地で午前0時きっかりに花火を打ち上げる。それぞれの時差から経度を測る。

[問題点]ほとんどの海域では海底がいかりを下ろせないほど深いために、一定区間ごとに船を停泊させることができない。

7. 木星の衛星の動きを見る イタリア人学者のガリレオ・ガリレイが考案した方法。経度測定法の発見者にはスペインのフェリペ3世より終身年金が贈呈されると聞いた彼は、木星の衛星の公転周期を観測することで経度を把握することができると主張した。

[問題点]昼間でも観察できる月と違い、夜の一定時間のみしか姿を現さない木星の観察は困難を伴うなどの理由により、却下された。

Q6 グリニッジはなぜ経度0なのか? 本初子午線はなぜロンドンにある?

ハリソンが開発したH4の登場などによって英国の航海技術は飛躍的に上がったが、ときをほぼ同じくして、フランス、スペイン、米国といったほかの主要国の研究者たちも同様の経度測定法を発見していた。経度と時差に関する知識が深まり、海上を盛んに移動するようになった各国が次に直面した問題とは、経度と時間を他国といかにして共有するかについて総意を取り付けることであった。そしてこの統一基準を作るために、1884年に米国ワシントンにて英国や日本を含む25カ国が参加する「国際子午線会議」が開催されたのである。

この会議では、既に世界における大多数の船が使用していた英国製の海図に基づいて、グリニッジを基準点とする提案が出された。同案に対して日本を含む22カ国が賛意を示したことで、グリニッジはついに世界から経度0度の地として認められ、国際的な本初子午線(経度0度0分0秒の基準子午線)を擁する基準地点と定められた。

しかし現在は、昨今のテクノロジーの進歩とともに本初子午線が修正・変更され、グリニッジ子午線の東方向に約100メートル移動している。とは言え通称として、「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられていることがある。

グリニッジ子午線のライン天文台の敷地内に施されたグリニッジ子午線のラインにまたがると、西半球と東半球の境に立つことができる。観光客に人気の写真スポットだ。

ウィリアム・ハーシェルが設計した反射望遠鏡天文学者として有名なウィリアム・ハーシェルが設計した反射望遠鏡の一部。

24時間表記の時計天文台の入り口の壁に設えられた、24時間表記の時計。0.5秒単位で秒針が動いている。

標準時の設定、謎のレーザー光線の意味……
グリニッジ王立天文台をめぐる謎

経度を発見することを目的として建設された、グリニッジ王立天文台。宇宙、時間、そして船の旅と壮大なテーマが詰まったこの場所には、まだまだ多くの謎が残されている。ここでは、グリニッジ王立天文台に関する小さな疑問を集めてみた。

Q7 天文台の上に置いてある赤い球は何か?

天文台の赤い球
壮麗なフラムスティード・ハウスの屋根に
設置されたユニークな赤い球

グリニッジ王立天文台の中央に位置するフラムスティード・ハウスを見上げてみると、建物の上部に大きな赤い球が串刺しのようになって置いてあることに気づくはず。実はこの球は毎日1回、時刻を近隣地域に知らせるために利用されてきた装置なのである。

まず、12時55分に球が「串」部分の中ほどまで上がる。そして12時58分に頂点に達し、午後1時ちょうどにストンと下がることで時間を告げる仕組みとなっている。

この装置は1833年に設置され、テムズ川を渡る船が船内の時計を合わせる際に利用されていた。設定時刻が午後1時と中途半端なのは、かつてこの装置を重宝していた船員たちが、経度を測るために正午は太陽の観察にかかりきりになってしまっていたためだという。

Q8 天文台が見えない人は時計をどうやって合わせたのか?

まだ正確な時計が流通していない時代、時計の針を調整するという作業は当然、船員だけでなく、一般人にとっても日課となっていた。しかし電話もテレビも、そしてインターネットもない時代においては、正しい時間を知る方法は限られている。グリニッジ天文台は時刻を知らせる役割をも担っていたのだが、ロンドン市内のすべての場所から天文台の様子を確認できるわけでもなく、またその機会も午後1時の1回のみとあっては不便極まりない。天文台までわざわざ出掛けて時刻を尋ねる市民も多くいたと伝えられており、その度に研究が中断される天文学者たちは、こうした問い合わせに辟易としていたという。

こうした時代に「時間を売る」という商売を思いついたのが、19世紀前半を生きたジョン・ヘンリー・ベルビルであった。彼は毎週月曜日にグリニッジ王立天文台で時計の針を合わせた後にロンドン市内に出掛け、道行く人々に正確な時間を教えることを商売にしていた。主な顧客は鉄道関係者、時計職人や資産家などだったという。彼の死後は妻マリア、そして娘のルースが商売を引き継ぎ、「グリニッジ・タイム・レディ」としてロンドン市民たちの間で知られるようになったという。

Q9 夜になると見える緑の光線の正体は何か?

海上の位置を確認する便宜上の理由から人間が人工的に設定したため、通常であれば目にすることはできない経度も、グリニッジ王立天文台に行けばその存在を確認することができる。昼間の同天文台では、地面に引かれた子午線をまたいで記念写真を撮影している観光客の姿も多い。そしてこの子午線の存在は、実は夜も確認することができるのだ。夜間には、緑色のレーザー光線が北緯40度に向かって放たれて、遠方から見ると王立天文台の周辺には幻想的な雰囲気が漂う。

グリニッジ子午線中央の隙間に配された穴から放たれる緑色のレーザー光線。その線の延長線上がグリニッジ子午線だ。

Q10 グリニッジの天文台は現在でも機能しているのか?

フラムスティード・ハウスは、1957年を最後に天文台としての機能を停止した。空気の汚染や鉄道からの磁気の発生により観測が困難になったことが理由であった。その後イングランド南東部サセックス、そして同中東部ケンブリッジへと移転を繰り返したが、これらの地域も都市化の影響は避けられず、1998年までに国内の機関は完全に閉鎖。現在はスペイン領カナリー諸島にて観測データを収集しているという。グリニッジに残された施設は博物館として生まれ変わり、本特集で紹介した経度を発見するまでの歴史や、天体観測、時計の開発に関する展示が集められている。

フラムスティード・ハウス

Royal Observatory
Blackheath Avenue, London SE10 8XJ
開館時間: 10:00-17:00
入場料: 大人£10、子供£6.50
https://www.rmg.co.uk/royal-observatory

 

250年前に英国で誕生
フィリップ・アストリーが築いた近代サーカス The Legacy of Philip Astley

フィリップ・アストリー
近代サーカスの父、
フィリップ・アストリー

空中ブランコや道化師によるパフォーマンス、曲芸など、現在でも観ることができるサーカスの原型は、今から250年前の1768年に英国で誕生したとされている。その基礎を築いたのは、英国人のフィリップ・アストリー。今回は、近代サーカスの父と呼ばれるフィリップ・アストリーと近代サーカスの歴史を中心に、英国で活躍する奇術師のアンドリュー・ヴァン・ビューレンさんのインタビューなどを交え、今年で250年を迎えたサーカスの歴史を紐解く。

サーカス250年の
移り変わり

サーカスの歴史は古く、古代ローマ時代には既にいくつかの曲芸や、闘犬などの動物を闘わせる見世物が行われていた。では、250年前に英国で誕生したという「近代サーカス」とは何だろうか。劇場の歴史に詳しい英歴史家ジョージ・スペイトはこれを、「人間の身体技能や訓練された動物によるエンターテインメント。直径42フィート(約13メートル)のリング内で行われ、観衆は周りを取り囲むようにして鑑賞する」と定義している。

アストリー・アンフィシアター円形リングのあるアストリー・アンフィシアター(1800年代初頭)

サーカスの語源となった円形ステージ

退役軍人のフィリップ・アストリー(1742年~1814年)は1768年の復活祭に、ロンドン中心部のウォータールーで初めて曲馬ショーを開催する。このときアストリーは、会場となったオープン・スペースを円形に使った。これまで通常の曲馬は直線上で行われていたため、観客はショーのすべてを間近で見ることができずにいたが、円形にしたことで、最初から最後までを視野に収めることが可能になったのだ。また、円に沿って馬を走らせることで馬の背に微妙な角度が付き、パフォーマーが馬上でアクロバットをする際に有利に働くことも分かった。現在でも、世界のサーカス・リングの標準はアストリーの定めた直径42フィート。そして、「サーカス」という言葉は、円形=サークルが語源となっていると言われている。

曲馬ショーを成功させたアストリーは、すぐにほかのパフォーマーを雇い入れる。バンドが音楽を奏で、道化師が曲馬ショーの合間に芸をし、曲芸師や綱渡り、芸をする犬なども加わった。1768年、近代サーカスの誕生である。アストリーのサーカスは大好評を博し、彼は大きな1つのチームとなった団員たちと共に、英国内だけではなく欧州や米国でツアーを行い成功を収める。こうしたアストリーのサーカスに影響を受け、世界各地にサーカス団が増えていった。

王室から庶民までが楽しめる娯楽

新たな娯楽となったサーカスにいち早く飛びついたのは、流行に敏感で、かつ入場料を払うことができる中流階級の人々。すぐに貴族や上流階級の人々も興味を持ち始め、やがてアストリーの死後、サーカスは王室の後援を受けるようになっていく。特にビクトリア女王は様々なサーカス団を宮殿に招待し、1840年代にはウィンザー城やスコットランドのバルモラル城でも公演させている。そして19世紀末までには、サーカスは庶民のための娯楽として普及し、 ビクトリア時代の最も人気の高い楽しみの一つとして、その地位を不動のものにした。この時代のサーカスの多くは木造建築の中で行われ、英国全土の都市には「ヒッポドローム」「サーカス」「アンフィシアター」と呼ばれるような、サーカスのための建造物が次々に建設されていった。

やがて、このころから欧州と米国のサーカスに構造の違い見られるようになる。英国と欧州のサーカスは、アストリーの考案した単一のリングを舞台に見立てるスタイルを踏襲し、コンセプトは変わらないものの、リング上で行われる芸はより複雑に、かつ洗練されていく。一方、英国と違い広大な土地がある米国では、天井の高い大きなキャンバス地のテントを複数使い、より大きな動物を登場させるなど、大規模な仕掛けの芸が人気となっていった。

時代の流れと足並みをそろえて

19世紀以降、長らく庶民の娯楽として親しまれていたサーカス。しかし20世紀に入ってからは映画、更にはテレビの登場によって、人々の興味は次第にサーカスから離れていった。そんなサーカスを救うため、1970年代のフランスで政府や演劇界を巻き込んでの、大掛かりなサーカス学校設立の動きが起きた。その結果、サーカスを総合芸術の一つととらえ、演劇やバレエの専門家を教師に招いた学校が、フランスに200校あまりも誕生。ここから育ったパフォーマーたちが、現在「ヌーボー・シルク」(新しいサーカス)と呼ばれる、新ジャンルのサーカスの中核を担っている。ヌーボー・シルクは、カナダのサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」の公演のような、芸術性の高い芸が特徴だ。この新しいサーカスは現在、世界に伝播しつつある。今年、英国各地でサーカスに関する様々なイベントが開催されるが、アストリーが行った昔ながらのサーカスと並び、ヌーボー・シルク系サーカスも見ることができる。近代サーカス250年の歴史を、自分の目で確かめてみてはいかがだろうか。

ロスト・イン・トランスレーションサーカス誕生250周年を記念し、ロンドンのウォータルーでパフォーマンスを行う
パフォーミング集団、ロスト・イン・トランスレーション。
写真提供 http://circus250.com

Philip Astley - Father of Modern Circus
近代サーカスの父、
フィリップ・アストリーはどんな人だった?

1742年、英中部スタッフォードシャーのニューカッスル=アンダー=ライムにキャビネット職人の息子として生まれる。軍隊を経て、曲馬の学校や円形のリングを持つサーカス劇場を作り、近代サーカスの基礎を築いた。1814年、パリで死去し、パリ東部ペール・ラシェーズ墓地に眠る。

若くして乗馬スキルに秀でた軍人

17歳で英国陸軍の軽竜騎兵隊(Light Dragoons)に入隊、騎乗兵として活躍したアストリーは、貴族の邸宅で馬の調教をしていたというドミニク・アンジェロに乗馬の才能を見込まれ、馬術を習う。アストリーはその後、七年戦争で実践を積んだ結果、退役時には馬上で行う曲芸、曲馬のプロになっていた。

馬術の学校がサーカスの始まり

陸軍を退役した後、アストリーが考えていたのはロンドンに馬術の学校を作ること。1768年、ロンドンの中心部ウォータールー、現在セント・ジョンズ教会のある辺りに、アストリー馬術学校を建設。午前中は乗馬や曲馬のクラス、午後は一般人に向け、自らの曲馬を披露し、この芸が予想以上の大人気に。

皇帝ナポレオンに劇場使用料を請求

曲馬芸の大成功が転じてサーカスの興行主となったアストリーは、英国内外に19のサーカス用劇場「アストリー・アンフィシアター」を建設する。1つはパリにあったが、フランス革命が勃発し、アストリーは帰国を余儀なくされる。後にパリを訪れ、自分の円形劇場をナポレオンが兵舎として利用していると知ると、使用料を請求したそう。

オースティンやディケンズも言及

アストリーのサーカスはビクトリア時代に人気を博し、文豪チャールズ・ディケンズやジェーン・オースティンの作品でも言及されている。オースティンの著作「エマ」の54章には、「彼らは2人の息子をアストリーズに連れて行くつもりだった」とあり、アストリーズという言葉がそのままサーカスを意味していたことが伺える。

アストリー・アンフィシアターアストリー・アンフィシアターの内部(上)と外観(下)

フィリップ・アストリーの
レガシーを伝えたい

アンドリュー・ヴァン・ビューレンフィリップ・アストリー・プロジェクト主宰
アンドリュー・ヴァン・ビューレンさん

近代サーカス誕生250周年に向けて、近代サーカスの父と呼ばれるフィリップ・アストリーの名を広めようと、2010年からプロジェクトを立ち上げ、様々な活動しているアンドリュー・ヴァン・ビューレンさん。自らも奇術師としてサーカスのステージに立つアンドリューさんに、プロのパフォーマーの目から見たサーカスの魅力、フィリップ・アストリーに対する思いについて語っていただいた。

アンドリューさんがサーカスに興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか

両親がショービジネスの世界にいたので、生後6週間目からステージに出ていました。といっても舞台のそでに寝かされていたのですが。ロンドンのパーク・レーンにある、グロブナー・ハウス・ホテルの宴会場が最初だったと聞いています。子供時代は、サーカスだけでなく、キャバレーや劇場など、両親の興行でありとあらゆるところを回りました。しかし、最も思い入れのあるのはやはりサーカスでしょうか。これは私の父親の影響です。

父はショービジネスとは縁遠い、普通の家庭に生まれました。父がまだ幼いころ、近所の肉屋の店先に牛や豚のイラストと並んで、象の絵のポスターが張ってあるのを見つけたそうです。象の肉を売っているのではないかと思った父は、走って家に帰り母親に尋ねたところ、母親はそれは町にサーカスがやって来るという知らせだと教えました。実際それは「チャップマンズ・サーカス」の広告で、父は母親と一緒に生まれて初めてサーカスを観に行ったそうです。そしてすっかり魅せられた私の父は、サーカスについて勉強を始め、近代サーカスを築いたというフィリップ・アストリーに夢中になります。親に「サーカスばかりではなく、きちんとした仕事もしろ」と言われ、アストリーが若いころ生業にしていたというキャビネット作りを、自分の仕事に選んだほどです。しかも成人してショービジネスの世界に入ってからは、アストリーの出身地である英中部のニューキャッスル=アンダー=ライムへ引っ越しました。私もその地で生まれ、今も変わらず住んでいます。サーカスやアストリーへの興味はそんな父親を通して生まれました。

1992年のアストリー生誕250年には、父と私で地元にアストリーの銅像を設置しようと奔走しましたが、このときはうまくいきませんでした。ですから今回、近代サーカス誕生250年を記念して立ち上げたアストリーにまつわるプロジェクトを、彼の出身地で開催できることを本当に喜ばしく思っています。皆さんが、アストリーについて興味を持っていただけるなら、こんなにうれしいことはありません。

人々にアストリーの名をどのように覚えておいてもらいたいですか

フィリップ・アストリーの銅像
1991年にフィリップ・アストリーの
誕生250年を記念して作られた、
アストリーの等身大の銅像。
現在はニューキャッスル=アンダー
=ライムにあるパフォーミング・
アーツ・センターに設置されている。
www.philipastley.org.uk

近代サーカスを生み出したアストリーは、様々な顔を持っています。軍隊に入隊する以前はキャビネットを作る職人でした。大変優秀な乗馬の騎手で、また起業家でショーマンでもありました。彼はサーカスという芸術形態を生み出し、新しい娯楽をもたらしたのです。これは当時の人々の暮らしに大きな影響を与えました。更に、マジックをやり、本も書き、学校や劇場も建てています。見た目のことを言えば、身長は6フィート(約182センチ)を優に超えていて、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスのよう、声はステントール(ギリシャ神話の登場人物で、50人分の声量があると言われる)のようだったそうですよ。歴史的パイオニアというだけでなく、偉大な人物、神話的人物です。そしてもちろん、夫であり父でもありました。以上のようなことを覚えておいてほしいです(笑)。しかし、最も大事なことを一つ挙げるとしたら、フィリップ・アストリーは人々の創造力を刺激し、それを鼓舞する存在であるということでしょうか。同業者から見たら、シェイクスピアのような存在です。

最近の映画に、ヒュー・ジャックマン主演の「グレイテスト・ショーマン」というのがありますね。19世紀の実在の米興行師、P・T・バーナムの半生を描いたものです。しかしこれはタイトルが違うように思います。私だったら「2番目に偉大なショーマン」としたいところです。言うなればバーナムは、アストリーが築いた基礎の上に、自分のサーカスを作り上げたようなものですから。

いくつかのサーカス芸は250年前から変わりませんね。その理由は何なのでしょう

フィリップ・アストリーがサーカスを始めたとき、それは彼と数頭の馬による曲馬術でしかありませんでした。アストリーはここにジャグリングや綱渡り、曲芸、マジックなどの芸を徐々に組み込んでいったのです。ただ、こうした芸自体は元々あり、250年どころかローマ時代から存在していました。アストリーが行ったのは、様々な芸を統合し、円形ステージに1つのサーカスとしてまとめてみせたことです。では、その同じような芸が時代を超えても人々を魅了するのはなぜしょう。多くの人々は、「不可能なことが可能になる」のを見ることを好みますが、サーカスはまさにそういった事柄の集合体ですね。綱から落ちてしまわないか、果たしてチャレンジは成功するのか、手に汗握るスリルやワクワクするような楽しさが人を魅きつけるのです。そして不可能と思われたことが首尾よく成功したときに、観客は心を動かされます。これがサーカスの芸がずっと変わらない理由でしょうし、マジシャンや奇術師といった職業が今でも存在する理由でもあるのではないでしょうか。

では、これからサーカスはどのような形に発展していくと思いますか

例えば、走る馬の上で行われていた曲芸をオートバイの上でやるようになったり、ボールを使ったジャグリングが、斧や電動ノコギリを使うようになったりなど、小道具の変化はあります。しかしパフォーマーが、重力をものともしない軽業や、不可能と思えることに挑む点は昔と全く同じです。基本的な形はそのままに、その技術、プレゼンテーションの方法がどんどん高度に、洗練され、それに対する観客からの期待も高まっていますね。そのため、現在はこれまでにないほど色々な形態のショーが存在しています。劇場、テント、客船の上、そして路上でなど、様々な場所で開催されていますし、伝統的なものから始まって、動物を使ったもの、ミュージカル型やダンス型、物語形式のサーカスもあります。

250年前にアストリーが作り出したサーカスは、今後も様々な発展を遂げていくでしょう。人間がロボットと共にパフォーマンスをするのも、そんなに遠い未来ではないかもしれません。ただどんな形にしろ、サーカスはエンターテインメントであり、人々を感動させるものであり続けると思いますし、またそうであってほしいです。これからのパフォーマーも、これまでサーカスに引き継がれてきたレガシーを理解したうえで、その上に新たなものを築いてくれたら良いですね。

アンドリュー氏アンドリュー氏はTVのゲーム・ショーにも出演。皿回しの芸は中国のパフォーマーに習ったという

最後に、サーカスを観るうえで、知っていると役立つヒントや、プロならではの舞台裏の話を教えてください

1番のアドバイスは、サーカスに来たら、現実世界のことはすべて忘れてくださいということでしょうか。携帯電話のスイッチを切って、後はサーカスの世界に浸ってください。自分もショーに参加して、その一部になっているような気分で。良いショーを観ていると、引き込まれて自然にそうなると思います。ほかにも、サーカスには色々なレベルの楽しみ方があるのでお教えしましょう。まず、何度も観ると仮定してですが、最初は、ただ楽しむこと。2回目は、プレゼンテーションや芸術性に注目してみましょう。3回目は、目の前で行われているショーの後ろで、小道具や仕掛け装置がどのように動いているか、そのトリックを探してみるのです。

そして、もしあなたがショーを大いに楽しんだなら、それをパフォーマーたちに知らせてあげてください。私たちがステージやリングに立つのは、お金のためではありません。もちろん仕事ですからお金も頂いていますが、何のためにやるのかと言えば、観客の皆さんから受ける温かい拍手や励まし、それに尽きます。良いパフォーマンスをしたときに観客に評価、賞賛してもらうことほど素晴らしいことはなく、これはほかに例えようがありません。拍手喝采はパフォーマーにとって燃料のようなもの。私たちは皆、数分のパフォーマンスのために人生を賭けているのです。ですから、多くの賞賛を受けることで、もっと頑張れます。もし仮に、実生活で心配ごとや不幸なことがあっても、私たちは決してそれを観客には見せません。パフォーマンスを続けます。―― The Show must go on……何があっても、ショーは続いて行くということですね。

協力:
Philip Astley Project www.philipastley.org.uk
Circus250 http://circus250.com

 

英国の歴史や時勢を反映する
2018年記念コインに注目

1100年以上の歴史を誇る、英王立造幣局。同局は毎年、その年にまつわるトピックスや、王室関係の祭事にちなんだ意匠を刻印した記念コインを鋳造し、「アニュアル・セット」として発行している。コイン・コレクターが毎年熱い視線を送る記念コイン・コレクションの、2018年版を紹介する。

アニュアル・セット2018年
Annual Coin Set: The 2018 United Kingdom

アニュアル・セット2018年

5種類の記念コインに、現在英国で流通している
8種類のコインが付いて、55ポンド。
そのほか、特別な加工を施したプルーフ貨幣のセットなどもある。

英王立造幣局 The Royal Mint

創設は886年。英国内で流通する全種類の貨幣、
また英軍のメダルやコレクター向けのコインなどを
鋳造、発行するだけでなく、他国の造幣も担う世界屈指の造幣局。
1967年、工場をロンドンから南ウェールズに移転し、現在に至る。
www.royalmint.com

£2
coin

「フランケンシュタイン」生誕200周年
Mary Shelley’s Frankenstein

Mary Shelley’s Frankenstein

19世紀に活躍した英国の小説家、メアリー・シェリーが1818年1月1日に発表したゴシック・ホラー小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」。同小説は、1816年、18歳であったメアリーが、後に夫となる詩人のパーシー・ビッシュ・シェリーやバイロンたちと滞在していたスイスの別荘で語られた、怪奇譚から発想を得て書かれたという。ティーンエイジャーの女の子の悪夢が生み出した、同書に登場する名前のないモンスターは、200年を経た現在でも世界中で広く愛されている。記念コインの中央には、デザイン化された「フランケンシュタイン」の文字が刻印されている。

£2
coin

第一次大戦、休戦100周年
First World War Armistice

First World War Armistice

1918年11月11日、パリの北部に位置するコンピエーニュの森でドイツと連合国の間で休戦協定が結ばれ、1914年以来、戦禍に見舞われていた世界各地に和平がもたらされた。同日11時に、この休戦協定調印のニュースが英国に届けられ、ビッグ・ベンや教会の鐘がロンドンの街に響いたという。休戦を迎えたとはいえ、米国や日本も含む多くの国々を巻き込んだ大戦。記念コインには「THE TRUTH UNTOLD THE PITY OF WAR」と刻印され、第一次大戦が世界の人々に与えた傷痕の深さを物語る。

£2
coin

王立空軍設立100周年
Royal Air Force

Royal Air Force

「英空軍の父」と称されるヒュー・トレンチャード(後の初代トレンチャード子爵)を参謀長として、第一次大戦中の1918年4月1日に設立された王立空軍。世界で最も長い歴史を持つ空軍であり、設立当時から現在に至るまで、最新のテクノロジーを駆使した戦闘機を擁することで広く知られている。コインに刻印されているラテン語「PER ARDUA AD ASTRA(Through struggles to the stars)」は王立空軍のモットーで、「困難を克服して星のように輝く」といった意味を持つ。

50p
coin

女性が投票権を獲得した
国民代表法制定100周年
Representation of the People Act 1918

Representation of the People Act 1918

女性参政権獲得を標榜する女性団体のメンバーで、戦闘的な活動も躊躇しなかった「サフラジェット」など、20世紀初頭から女性の政治参加を求める人々の活動が各地で展開されていた英国。そしてとうとう1918年に「国民代表法(Representation of the People Act 2018)」が制定され、21歳以上のすべての男性と、30歳以上の一部の女性に投票権が与えられた。近代の民主主義の根幹をなす大きな節目として認知されている同法制定100年を記念し、コインには女性参政権獲得のために立ち向かう人々の意匠が刻印されている。

£5
coin

ジョージ王子、今年で5歳に
Prince George of Cambridge

Prince George of Cambridge

今年の7月22日で5歳を迎える、ウィリアム王子と同夫人キャサリン夫妻の長男、ジョージ王子。王子のすこやかな成長を祝して鋳造された、直径約39ミリの5ポンド記念コイン。昨年の9月、ロンドンの私立小学校に入学したジョージ王子のキュートな制服姿が世界中のメディアを賑わしたことは記憶に新しい。記念コインは、王子の名前にちなんで、イングランドの守護聖人の聖ジョージとドラゴンが刻印されている。

Photos: With kind permission of The Royal Mint

 

Vote 100
1918-2018

女性が参政権を得て100年
英国初の女性議員
ナンシー・アスター

ナンシー・アスター1919年、女性初の下院議員となったナンシー・アスター(写真中央)

近年、SNSを使いセクシャル・ハラスメントの被害を訴える #MeToo や、男女の賃金格差解消を求める動きが世界各地で次々に起きている。女性の権利を訴える運動は現在、過渡期の様相を示していると言えるだろう。折しも今年は英国で女性の政治参加に関する重要な法律が制定されちょうど100年。「Vote100」と題して関連イベントも各地で計画されている。ここでは、英国で初めて下院議員となった女性ナンシー・アスターについて紹介しよう。

「Vote100」とは?

1918年、1928年、1958年に起きた、女性の政治参加にまつわる5つの大きな出来事に着目し、一年を通してその関連事項を紹介する英国議会主催のイベント。ロンドンだけではなく英国各地でエキシビションやトークが開催される。

ナンシー・アスターとはどんな人物だった?

1919年に英国で女性初の下院議員になり、1921年まで唯一の女性議員だったナンシー・アスター。男性議員の中で一人奮闘したナンシーの生涯、仕事、人柄にまつわるエピソードを見ていく。

生涯英国にやって来たバツイチの美しい米国人

1879年に米東部バージニア州で誕生したナンシー・ウィッチャー・ラングホーン(Nancy Witcher Langhorne)は、鉄道建設業で成功した裕福な一族の出身。1897年に資産家のロバート・グールド・ショー2世と結婚し息子が生まれるが、1903年に離婚。父親の勧めで26歳のときに英国行きを決意し、その船上でアスター財閥の跡取りである米国生まれのウォルドーフ・アスター(Waldorf Astor)と出会い、1906年に結婚する。ウォルドーフとともに英南東部の瀟洒なマナー・ハウス、クリブデンに移り住んだナンシーは、米国出身ならではの飾らない人柄と才色兼備の魅力を発揮し、英国内外の貴族や政治家などと交流。社交界の花形として活躍する。

1910年に夫のウォルドーフが、英南部プリマス選挙区から自由統一党候補として下院議員に立候補し当選。後に1919年に子爵位を持つウォルドーフの父が死去したため、その爵位を継承し上院議員になる。ナンシーは、ウォルドーフが上院議員になったことで空いた議席に立候補し、同年、下院議員に。未成年者へのアルコール販売を禁止する法案を提出するなどし、1945年まで議員として務めた。1964年に英東部リンカンシャーのグリムズソープ城で死去。84歳だった。

ナンシーの肖像画
画家のサージェントが描いたナンシーの肖像画。ナショナル・トラスト所蔵

クリブデン・ハウスアスター夫妻の邸宅の一つだったクリブデン・ハウス

業績未成年者へのアルコール販売禁止法案を提出

英国の議会において、米国人でしかもたった一人の女性という立場は、当時、相当に風当たりが強かったことが想像できる。議員の中にはナンシーと話すことを拒む者もいたという。1928年にナンシーは、「最初の女性議員になったことは名誉でしたが、時々、本当にこれが名誉なのだろうか、と疑問を感じることがありました」「女性や子供に関する問題や、社会や道徳の問題について私が質問すると、周囲からヤジが上がり、5分も10分も止まらないのが常でした」と振り返っている。

1920年2月24日、あまり協力的とは言えない男性議員を中心とした500人以上を前に、ナンシーが議員として最初に行ったスピーチは、「アルコール販売に規制を設けよ」というものだった。飲酒は女性や子供の健康を害すばかりでなく、英国経済にも損失を与えるとして、規制の重要性を説いた。1923年にこの法案は議会を通過。初めて女性議員の提出法案が成立した。そればかりか、18歳未満へのアルコール販売禁止というこの原則は、現在も引き続き英国で守られている。

人柄チャーチルとの口論もいとわない毒舌家

後に首相となる政治家ウィンストン・チャーチルは、才気煥発なナンシーとたびたび毒舌の応酬をしたと言われている。議会に現れたナンシーに向かって、「女性が議会に来るなんて、なんだか浴室をのぞかれたみたいだ」とチャーチルが言ったところ、それに対しナンシーは、「そんなことを心配をするほど、あなたはハンサムではないでしょう」とぴしゃりとやり返している。またあるときはナンシーが、「もし私があなたの妻だったら、その飲み物に毒を入れているでしょう」と言い、チャーチルは「私があなたの夫だったら、それを飲み干すね」と答えるといった具合。更に、ナンシーに、「あなた、酔っていますね!」と指摘されたチャーチルは、「マダム、あなたは醜い。酔ったところで明日になればその酔いは覚めるが、あなたの醜さは変わらない」と答えたという。

しかしながら、米画家のジョン・シンガー・サージェントによる肖像画(上写真)でも分かる通り、実際のナンシーは美しい女性だった。また、アスター家の夫人付きメイドであるロジーナ・ハリソンの回想記「おだまり、ローズ: 子爵夫人付きメイドの回想」には、ナンシーの勝ち気で強引な面が愛情を持って描かれている。

ウィンストン・チャーチル
ナンシーと毒舌の応酬をした政治家、ウィンストン・チャーチル

Vote 100
女性の政治参加をめぐる5つの記念日

今から
100年前

1918年2月6日
一部の女性に投票権

1918年国民代表法(Representation of the People Act 1918)が制定。21歳以上のすべての男性、30歳以上の一部の女性(世帯主、世帯主の妻、5ポンド以上の不動産所有者、大卒者、のいずれかに限る)に投票権が与えられた。女性が投票権を持つのは初めてで、該当者は480万人に上った。

1918年11月21日
21歳以上のすべての女性に被選挙権

1918年議会(女性資格)法(Parliament(Qualification of Women)Act 1918)が制定。21歳以上のすべての女性に、被選挙権が与えられた。同年の総選挙では17人の女性が立候補し、その中にはサフラジェットとして女性参政権運動に大きな影響を与えたエメリン・パンクハーストの長女、クリスタベル・パンクハーストもいた。

1918年12月14日
女性が参加する初の総選挙が実施

第一次大戦直後に実施された総選挙で、有権者数は1910年の前回に比べ4倍増となった。女性として初めて当選したのはアイルランドのシン・フェイン党から出馬したコンスタンス・マーキェビッツ伯爵夫人。ただし、シン・フェイン党は英国議会に登院することを拒んでいたため、マーキェビッツ伯爵夫人も登院していない。

今から
90年前

1928年7月2日
21歳以上の国民すべてに選挙権

1928年国民代表(普通選挙)法(Representation of the People (Equal Franchise) Act 1928)が制定。男女を問わず21歳以上の国民すべてに選挙権が与えられた。これにより500万人近い女性有権者が新たに加わり、翌1929年に実施された初の「普通選挙」では投票者の52.7%が女性だった。

今から
60年前

1958年4月30日
一代貴族の創設で女性も上院議員に

1958年一代貴族法(Life Peerages Act 1958)が制定。一代貴族の創設が認められた。上院は男性の世襲貴族によって占められていたが、一代貴族の創設により女性も上院議員になる道が開かれた。ナンシー・アスターの子であるアスター子爵は、一代貴族法の熱心な提唱者として知られる。1958年7月24日に、14人の女性上院議員が誕生した。

年表:政界の重職に就いた女性たち

1918年2月 30歳以上の一部の女性が投票権を得る
11月 すべての女性が被選挙権を得る
12月 総選挙にシン・フェイン党から出馬したコンスタンス・マーキェビッツ伯爵夫人が、女性として下院議員に初当選(登院はせず)
1919年 ナンシー・アスターが女性初の下院議員に
1928年 21歳以上のすべての国民が選挙権を得る
1929年 マーガレット・ボンドフィールドが初の女性閣僚(労働相)に
1958年 一代貴族制が創設され、女性の上院議員が誕生
1963年 女性の世襲貴族が上院への登院を認められる
1979年 マーガレット・サッチャーが女性初の首相に
1987年 ダイアン・アボットが黒人女性として初の下院議員に
1992年 ベティ・ブースロイドが初の女性下院議長(The Speaker of the House of Commons)に
1997年 アン・テイラーが初の女性枢密院議長(Lord President of the Council)・下院院内総務(Leader of the House of Commons)に
2006年 ヘレン・バレリー・ヘイマンが新設された上院議長(The Speaker of the House of Lords)に
2016年7月 テリーザ・メイが2人目の女性首相に
  エリザベス・トラスが初の女性司法相(Secretary of State for Justice)・大法官(Lord Chancellor)に

サフラジェット 参政権を求めてデモをする女性たち参政権を求めてデモをする女性たち

Vote 100 イベント紹介

女性の政治参加をテーマにした様々なイベントが、一年を通して英国各地で開催されるVote100。ここでは、ロンドンで行われる4つのイベントをピックアップしてご紹介。Vote100のサイトには、ほかにも興味深いイベントが更新されているので要チェック。www.vote100.uk

当時の写真や貴重なアーカイブがそろう
Voice & Vote: Women's Place in Parliament

女性参政権論者や女性議員たちが、かつてどのような立場にあり、どのような扱いを受けていたか、そして、いかにして現在の権利を勝ち取ったかなどを、ほかでは見ることのできない、議会ならではの歴史的なコレクションを通して紹介。当時の写真や貴重なアーカイブの数々に加え、女性議員たちが利用していた部屋の再現などもある。女性が下院公聴席への入室を禁止されていた時代に、屋根裏部屋をあてがわれていた事実や、女性議員の部屋が「墓地」と呼ばれていたことなど、驚きのエピソードをインタラクティブな方法で見せる。

2018年6月27日(水)~10月6日(土)
無料
Westminster Hall
3 St. Margaret Street, London SW1P 3JX
Tel: 020 7219 3000
www.parliament.uk

映画「未来を花束にして」も上映
Women and the Hall

ロイヤル・アルバート・ホールで「ウィメン・アンド・ザ・ホール」と題して3カ月にわたり開催されるフェスティバル。コンサートからトーク、パフォーマンスまで様々なイベントがあるが、3月26日には、女性参政権をテーマにした映画「未来を花束にして」を上映。終了後、パネル・ディスカッションも行われる。同映画の監督サラ・ガブロン、プロデューサーのサラ・オーウェンとフェイ・ウォード、そして女性社会政治連合(WSPU)の創設者エメリン・パンクハーストの曾孫で、自身も社会運動家のヘレン・パンクハーストなどが参加する。

フェスティバルは2018年4月26日(木)まで
ほかのイベントの詳細はサイトを参照
Royal Albert Hall
Kensington Gore, London SW7 2AP
Tel: 020 7589 8212
www.royalalberthall.com

ロンドン東部の草の根運動が分かる
Making Her Mark:
100 years of women's activism in Hackney

ロンドン東部ハックニーに暮らす女性たちが、地元コミュニティーのために起こした草の根運動の100年の歴史を紹介するエキシビション。移り変わる時代の中で、女性たちは教育、労働者の権利、福祉、家庭内暴力など、常に暮らしに密接にかかわる問題に取り組んできた。このイベントは、ロンドン東部における女性の歴史を研究する、イーストエンド・ウィメンズ・ミュージアムと共同で開催される。

2018年2月6日(火)~5月19日(土)
無料
Hackney Museum
1 Reading Lane, London E8 1GQ
Tel: 020 8356 3500
https://hackney.gov.uk/museum

参政権運動について学ぶなら
At Last! Votes for Women

サフラジェットと呼ばれた戦闘的な女性社会政治連合(WSPU)、穏健派の女性参政権協会全国連合(NUWSS)、そして女性自由連盟(WFL)など、参政権を求めて活動した女性団体が、どのような戦い方をしていたか、各団体の特色を知ることができるエキシビション。会場であるLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス) のウィメンズ・ライブラリーは、女性に関する歴史や社会学についての多くのアーカイブやコレクションがそろうことで知られる。

2018年4月23日(月)~8月31日(金)
無料
LSE Library
10 Portugal Street, London WC2A 2HD
Tel: 020 7955 7229
www.lse.ac.uk/library

 

現代音楽の新たな境地を切り開く
気鋭の作曲家
藤倉 大
Dai Fujikura

ロンドンの名門ウィグモア・ホールで2月17日、国際的に活躍する作曲家、藤倉大の作品を集めた「音楽の個展」が開かれる。作曲家を目指し高校生のときに来英、以後ロンドンを拠点に活発な創作活動を展開してきた。今では世界的なオーケストラや演奏家から作品の委嘱を受けている。その独創的なサウンド・ワールドは現代音楽の世界にとどまらず、坂本龍一や、英国を代表する世界的に有名なミュージシャン、デヴィッド・シルヴィアンとも交流が深い。藤倉大の作曲家への道のりから最近の活動、そして今回の「音楽の個展」について話を聞いた。
(インタビュー・文: 後藤菜穂子)

藤倉 大 Dai Fujikura

1977年大阪生まれ。15歳で来英、トリニティ音楽院にて、エドウィン・ロックスバラ、ダリル・ランズウィック、ジョージ・ベンジャミンに師事し作曲を学んだ。1998年、ポーランドのセロツキ国際作曲コンクールにて当時最年少で優勝。それ以来、ロイヤル・フィルハーモニック作曲賞、オーストリアの国際ウィーン作曲賞、ドイツのパウル・ヒンデミット賞を受賞。2009年の第57回尾高賞及び第19回芥川作曲賞、2010年の中島健蔵音楽賞やエクソンモービル賞を始め、数々の著名な作曲賞を受賞している。最近では「ヴェネツィア・ビエンナーレ」銀獅子賞、及び「ワイアード・アウディ・イノベーション・アワード」を受賞。現在、英国在住。

東北での作曲教室

── 2017年12月の「ワイアード」誌日本版のイノべーション・アワード受賞、おめでとうございます。受賞パーティーで坂本龍一さんとピアノで共演されたそうですね。

ありがとうございます。これは「ワイアード」誌が様々な分野のイノべーター30人に賞を贈るというもので、坂本龍一さんも受賞者のお一人だったのです。坂本さんには以前から親しくしていただいていて、ニューヨークに行くときはご自宅に伺ったりしています。今回せっかく2人いるのなら共演してくれませんか、ということで、即興で10分ほど一緒に弾きました。僕が鍵盤を弾いて、坂本さんは内部奏法でピアノの弦を叩いたり。やはり普通の演奏家とは違うオーラを持った方だと感じます。

坂本さんが主宰している「東北ユース・オーケストラ」で作曲のワークショップもされたそうですね。また、藤倉さんは数年前より福島県の相馬市で、子供たちに音楽教育を提供する世界的な機関の日本支部「エル・システマジャパン」の一環で、作曲教室を開催されていますが、どんな授業をしているのでしょうか?

ワークショップは、僕が相馬市でやっている「作曲教室」のいわば延長です。相馬での「作曲教室」は既に4年目になりました。これはルイ・ヴィトンがスポンサーをしている事業で、相馬市にある文化施設「LVMH子どもアートメゾン」で行なわれています。子供たちは無料で参加でき、対象は4、5歳から高校生まで、条件はオーケストラで弾いた経験があって、音楽に関心があることだけ。何のルールもなく、自由に作曲してもらうのですが、僕が行くときには必ず現代音楽の得意な演奏家を連れていきます。2月にロンドンのウィグモア・ホールで行われるコンサートに出演してくれる三味線の本條秀慈郎さんや、サクソフォーンの大石将紀さんも相馬の作曲教室に来てくれました。

初めに楽器の紹介をした後、その楽器でできる特殊奏法(楽器の通常の操作法によらない演奏法のこと)を一通り説明して、実演してもらいます。もちろんそうした奏法を使わなくてもいいですし、普通のメロディーのある曲、または特殊奏法をバリバリに使った曲を書いてもかまいません。その曲を演奏家がその場ですぐに弾いてくれるので、テンポとか強弱とか、自分のイメージした通りかどうか確認できます。最後の30分はミニ・コンサートをします。クリエイティブな点では5、6歳の子供たちが素晴らしいですね。

坂本龍一氏と即興で共演「ワイアード ・アウディ・イノベーション・アワード2017」の授賞式にて坂本龍一氏と即興で共演する藤倉大

話は少しさかのぼりますが、藤倉さんは子供のころから作曲家になりたいと思っていたのですか ?

小学生のころから思っていましたね。作曲家になりたかったのはピアノの練習が嫌いだったからです(笑)。ピアノの先生は厳しかったのですが、それでも僕は曲を変えて弾いたりして、いつも先生に怒られていました。モーツァルトやバッハの曲も、勝手に小節をカットしたり音を変えたりして弾いていました。結局のところ、僕はピアノがやりたいというよりも、音楽がやりたかったんでしょうね。

実際に作曲することを覚え楽譜を書くようになってからは、こんなに楽しいことがあるのかと思って作曲ばかりしていましたね。中学生のときにはカラオケ録音機能付きのラジカセを使って、自分で曲を作って録音したりしていました。そのころには作曲の先生に付いていて、毎回たくさん曲を持っていって驚かれました。

作曲家を目指し英国留学

藤倉さんは高校から英国に留学されたそうですが、作曲家になりたくて英国にいらしたのですか。

本当はドイツに行こうと思っていました。子供のころに作曲家の伝記を読んだら、バッハもベートーべンもドイツ人じゃないですか。だからドイツに行けば作曲家になれると確信したんです(笑)。ところが母に、ドイツ語より先に英語を学んだ方が良い、そして行くのなら早い方が……、と言われ高校での留学を目指しました。

ちょうどマンションの下の階に英語の先生が住んでいたので英語を習うことにして、その方が何と現代音楽の大ファンで、僕に武満徹という作曲家の存在を教えてくれたのです。このとき武満の音楽と初めて出合い、非常に魅了されました。

英国では全寮制の高校に行かれたのですよね。

はい、中学の卒業式の2週間後に来英し、私立のドーバー・カレッジに編入して、4年の課程を3年ちょっとで卒業しました。ピアノの奨学生だったので、学校で行なわれるあらゆる音楽関係のイベントを一手に引き受けて、女子寮のミュージカルのプロダクションや地理クラスの音楽祭の伴奏、またロック・バンドのキーボード奏者まで、何でもかんでもやりました!

卒業後、念願の音大で作曲を専攻。以後どのように作曲家への道を切り開いていったのですか。

僕が学んだロンドンのトリニティ音楽院は、当時はウィグモア・ホールのすぐ近くにあって、とてもこぢんまりした学校でした。今回のコンサートで演奏される「フローズン・ヒート」というピアノ曲は、学校のすぐ近くの教会で20〜30人の聴衆の前で初演された曲。今では僕の楽譜の中で一番売れている曲です。

僕が作曲を始めた当時はまだインターネットもSNSもユーチューブもなかったので、出版社に所属していない場合、自分の作品をどうやって宣伝するかが問題で色々と工夫しましたね。そういう中で、ピアノやバイオリンよりも、フルートとかサクソフォーン、打楽器など、通常はソロのレパートリーがあまり多くない楽器のためにソロ曲を作曲して、学生たちに弾いてもらっていました。学内では僕の曲は再演がとても多いことで有名でした(笑)。

その後、ポーランドのセロツキ国際作曲コンクール(1998年)やハダースフィールド国際コンクール(1998年)で賞をいただいたり、「ロンドン・シンフォニエッタ」というロンドンの有名な現代音楽アンサンブルの若手作曲家向けプログラムに選ばれたり、徐々にプロの団体に演奏されるようになりました。

またこのころ、ハンガリーの作曲家で指揮者のペーテル・エトべシュが僕のメンターになってくださったことで、ヨーロッパの現代音楽の音楽祭やアカデミーなどを紹介してもらいました。加えて、スイスのルツェルンのアカデミーでピエール・ブーレーズに曲を指揮してもらったり、新作の委嘱もいただいたりと、活動の場が広がりました。

最近の活動とウィグモア・ホールでの個展

ここ数年はオペラの作曲に力を入れていらっしゃるそうですが、2015年にパリで初演されたオペラ「ソラリス」に続いて、まもなく2作目が世界初演だそうですね。

30代前半のころから、40代になったらオペラのような一つの作品に数カ月どっぷり浸かれるような生活をしたいと思っていたので、希望がかないました。実は2作目のオペラ「黄金虫 The Gold-Bug」は、40歳になる1日前に書き上げました!

「黄金虫」は子供向けのオペラで、3月にスイスのバーゼルで世界初演されます。宝探しのお話ですが、制作チームから男の子も興味を持つような作品を書いてほしいと依頼されて、この題材を選びました。原作はエドガー・アラン・ポーの短編で、それをドイツ人の台本作家のハンナ・デュブゲンにオペラの台本にしてもらったのですが、実は彼女とはびっくりする縁があるのです。僕が13歳のときに英国で参加した、音楽と無関係の語学サマー・コースで彼女と出会っているんです!その後しばらく文通していましたが、そのうち連絡も途絶え……。すっかり忘れていたのですが、今回台本を誰に頼もうか考えているときに彼女が台本作家になっていることを知り、再会を果たしました。

バーゼルではドイツ語で上演されますが、オリジナルは英語。今後、色々な言語で上演されると良いなと思っています。また、僕の最初のオペラ「ソラリス」は、5月にドイツのアウグスブルクで新しい演出で上演されます。

最近、微生物をテーマにしたオーケストラ曲を書かれたそうですが、どんな作品ですか。

「グロリアス・クラウズ Glorious Clouds」という曲です。「ワイアード」誌に微生物についての特集があってとても興味を持ち、ツイッターで研究者と話したり、臨床報告を読んだり、さらにはノーベル生理学・医学賞受賞者の大村智先生とお話しすることができたり、とても勉強になりました。

大村先生もおっしゃっていましたが、今の時代、テーマは「共生」。昔のようにバクテリアは悪い菌だから殺すのではなく、腸内細菌ともうまく共生していかなければならないのです。これはオーケストラ作品にぴったりの題材だと思って書いてみました。微生物がわーっと舞う感じって、言葉では簡単だけど、それを音で全部書くのは結構大変で時間が掛かりましたね(笑)。この曲は11月にドイツのケルンで初演されます。

制作中の藤倉大IRCAMにて、オペラ「ソラリス」を制作中の藤倉大

さて、2月17日にはロンドンの名門ウィグモア・ホールで初の「音楽の個展」を開催されますね。出演者の皆さんなどをご紹介ください。

ピアノのメイ・イー・フーさん、サクソフォーンの大石将紀さん、それから僕のコントラバス協奏曲を初演してくれたエンノ・センフトさんとは付き合いが長く、昔から僕の作品を演奏してくれています。日本からは大石さんのほか、三味線の本條秀慈郎さん、クラリネット奏者の吉田誠さんが来てくれます。

本條さんは三味線で現代音楽をやっているという珍しい演奏家で、三味線界に新風を吹き込んでいます。彼からの委嘱で作曲した「音緒」という作品はスカイプで何度もやりとりを重ね、作曲しては弾いてもらって……、というプロセスを経て出来上がった作品です。三味線のために作曲するのは僕にとっても初めてでした。奏者とこういったコラボレーションをしながら作曲するのが僕のやり方です。

今回演奏される曲で一番新しい曲が、ピアノと管楽の五重奏のための「ゴー」。これはピアノの小菅優さんの委嘱で作曲しました。さらに彼女のために新しいピアノ協奏曲を作曲し終わったところです。

「ゴー」は昨秋に日本で初演され、小菅さんのツアーでも取り上げてもらったのですが、5つの楽章で構成されていて、どの順番で弾いても良いのが特色です。実際、ツアーでは毎回違う組み合わせで弾いたそうです。静かに始まるか、激しく始まるかによって曲の印象も変わりますよね。そうしたおもしろさを出したいと思いました。今回はどの順番で弾かれるでしょうか?当日サプライズで世界初演曲もあるかもしれませんので、どうかお楽しみに!

「音楽の個展」開催
ウィグモア・ホールに集結する音楽家たち

藤倉大に魅了された10人のアーティスト

世界中から集まってくれる素晴らしい音楽家たちの演奏により、「音楽の個展」をウィグモア・ホールで開催できることをうれしく思います。自分の過去20年間の作品が一つのコンサートで演奏されるということに今から興味津々です。40歳を祝う節目として最高の機会をいただきましたー (藤倉談)

Mei Yi Fooメイ・イー・フー
Mei Yi Foo

ピアノ。2013年の「BBC ミュージック・マガジン」でベスト・ニューカマー賞受賞。現代曲の普及に熱心で、ウンスク・チンや藤倉大らの現代作曲家とのプロジェクトも多く、フィルハーモニア管の「ミュージック・オブ・トゥデイ」でフィーチャー・アーティストとして取り上げられた。

Comment

藤倉さんは、鳥の群れ、バクテリアの習性、料理のレシピなど、一見日常的なことに思えるものから発想を得て、かつユーモアとエネルギーに満ちた傑作を生み出す才能の持ち主。今回の公演も、独特で遊び心あふれるものになることでしょう。

本條 秀慈郎 本條 秀慈郎
HONJOH Hidejiro

三味線。本條秀太郎に師事し、秀慈郎の名を許される。桐朋学園芸術短期大学卒。文化庁芸術祭新人賞、出光音楽賞を受賞。坂本龍一や藤倉大のCDの制作に参加。現代邦楽研究所修了。現在、桐朋学園芸術短期大学で非常勤講師を務める。

Comment

2014年に書いてもらった「音緒」はもう何回演奏したでしょうか。TV番組で共演したとき、トークでも周囲をドキドキさせた大さん。音楽に留まらずどんな世界にも敵なし ! 博学で、細胞の話をしてもらいました。現代人の五感を刺激する稀有な人です。

Yu Kosuge小菅 優
Yu Kosuge

ピアノ。高度なテクニックと美しい音色、深い楽曲理解と若き感性で、ヨーロッパで最も注目を浴びている若手ピアニストの一人である。ベートーべンのピアノ・ソナタ全集を含む15枚のCDをソニーよりリリース。2017年、第48回サントリー音楽賞を受賞した。

Comment

藤倉大さんの作品は聴く人を異次元の世界に連れて行ってくれます。弾いていても常に楽しく、想像力がかき立てられる。音の世界を超越して動物が飛び出てきたり、美しい自然の中に引きこまれたり。その奥深くに、宇宙や輪廻を感じさせます。

小山 莉絵小山 莉絵
Rie Koyama

ファゴット。2013年、第62回ミュンヘン国際音楽コンクール、ファゴット部門で最高位の2位(1位該当者なし)。これまでに参加した24のソロ・コンクールすべてで最高位受賞。パーヴォ・ヤルヴィ率いるドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・ファゴット奏者を務める。

Comment

欧州で活躍するファゴット奏者が藤倉さんの作品を取り上げていて、録音などで聴いていました。そして2017年6月のツアーでピアノと管楽の五重奏のための「ゴー」を初演し、楽器の新しい可能性やハーモニーの美しさを実感したことを覚えています。

大石 将紀大石 将紀
Masanori Oishi

サクソフォーン。東京藝術大学卒。同大学院修了後に渡仏し、パリ国立高等音楽院にて学ぶ。クラシックや現代音楽の演奏を始め、作曲家、ダンサーとのコラボレーション、即興演奏、CM録音、TV、ラジオ出演など幅広く活動中。東京藝術大学で後進の指導にも当たる。

Comment

東京での初めてのリサイタルのために藤倉さんに「サカナ」を書いていただき、初演したのが2008年。今では、世界中のサクソフォーン奏者に演奏される作品になりました。その10年の節目に、藤倉さんの住むロンドンで演奏できるなんて運命を感じます。

Enno Senftエンノ・センフト
Enno Senft

コントラバス。ヨーロッパ室内管弦楽団の首席奏者、及び同楽団の創立メンバーの一員。ロンドン・シンフォニエッタの首席奏者も兼任。ベルリン・フィルを始め、世界のトップ・オーケストラと多数共演している。現在、英国王立音楽院教授を務める。

Comment

「ES」はアコースティックやエレクトリック・ギター、日本の伝統的な弦楽器など、コントラバス以外の要素が聴こえ、相反する文化を思い起こさせる。感情を揺さぶる作品であり、藤倉さんの曲には「技術的な挑戦」の先に導いてくれる何かがあります。

 Philippe Tondreフィリップ・トンドル
Philippe Tondre

オーボエ。2011年、ミュンヘン国際音楽コンクールで優勝。ボン・ベートーべン音楽祭でベートーベン・リング賞を受賞。南西ドイツ放送交響楽団の首席奏者。ソリストや室内楽奏者としても活躍。現在、ザール音楽大学教授を務める。

Comment

藤倉さんの五重奏曲「ゴー」は、それぞれの楽器の音域、音質、技術的な極限を探検する旅。想像力を使って曲を解釈することを、演奏家と聴き手に許してくれる。緩徐楽章の美しくもの悲しい旋律、リズムの力強さ、エネルギーあふれる魅惑的な曲です。

Teunis van der Zwartテウニス・ファン・デル・ズバルト
Teunis van der Zwart

ホルン。1989年に、バート・ハルツブルクのナチュラルホルン・コンクールで入賞。フライブルク・バロック管弦楽団、及び18世紀オーケストラの首席奏者。アムステルダム音楽院やハーグ王立音楽院教授を務める。

Comment

藤倉大の音楽的言語は、私的かつ普遍的なものです。楽器の特質を深く理解しながら、これまでに聴いたことがないような形で、その可能性を広げていく才能を彼は持っています。ウィグモア・ホールで彼の作品を演奏するのを楽しみにしています。

Bartosz Worochバルトシュ・ボロック
Bartosz Woroch

バイオリン。パブロ・サラサーテ、及びマイケル・ヒル国際バイオリン・コンクールなどで数々の賞を受賞。ルトスワフスキ・カルテットやシンフォニア・カムリのリーダーで、指揮者、ソリストとしても活動中。現在、英国の名門ギルドホール音楽演劇学校で教授を務める。

Comment

藤倉さんの「サマラサ」は、ユーモアとむき出しのエネルギーにあふれた、バイオリン独奏のための曲。意地悪で骨の折れる曲ですが、心拍数が上がり、眠れなくなり、たとえ指がこんがらがったとしても(笑)、演奏するのは素晴らしく楽しい !

吉田 誠吉田 誠
Makoto Yoshida

クラリネット。パリ国立高等音楽院、ジュネーブ国立高等音楽院で学ぶ。第5回東京音楽コンクール木管部門第1位、及び聴衆賞を受賞。国内外のオーケストラ、音楽祭にソリストとして招かれ、アジア、ヨーロッパなどで公演を重ねている。

Comment

2015年にオーケストラ作品「レア・グラビティー」を聴き、その新鮮な音、世界感に圧倒されました。昨年は、今回も演奏する五重奏「ゴー」を世界初演させていただきました。この幸運な縁に感謝し、大さんの作品と生涯にわたって対峙していきたい。

Dai Fujikura Portrait

2018年2月17日(土)19:30開演
会場: Wigmore Hall
36 Wigmore Street London W1U 2BP
最寄駅: Bond Street 駅
チケット: £15~37

● チケットに関するお問い合わせ先
Tel: 020 7935 2141
http://wigmore-hall.org.uk

● コンサートに関するお問い合わせ先
エイベックス・リサイタル・シリーズ
www.avexrecitalseries.com

プログラム

ルビコン - クラリネットのための(2016)
ミリアンペア - 独奏トイピアノのための(2010)
エス - 独奏コントラバスのための(2008)
サカナ - 独奏サクソフォーンのための(2007)
ディープンド・アーク - 独奏ピアノのための(1998)
フローズン・ヒート - 独奏ピアノのための(1998)
音緒 - 独奏三味線のための(2014)*英国初演
セクセク - 独奏ピアノのための(2011)
アヤトリ - 独奏ピアノのための(2011)
ブレスレス - トイピアノとバイオリンのための(2004)
サマラサ - 独奏バイオリンのための(2010)
ゴー- ピアノと管楽の五重奏のための(2016)*英国初演

※止むを得ない事情により曲目・曲順等が変更になる場合がございます。

 
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