ジャパンダイジェスト

最低賃金と不法就労

6月18日、連立与党は夜を徹した話合いの末、最低賃金の一般的な導入を行わないことを決定した。最低賃金は、資本主義の牙城である米国ほか、欧州連合(EU)加盟国の大多数および日本にもある。なぜ今となってドイツで話題になるのだろうか。背景を探ってみた。

増える低賃金労働

ドイツといえば、強い労組に質の高い労働力と効率性で、高賃金を維持してきた国だ。しかし経済のグローバル化が進む現在、極端な低賃金で働く人が増えている。時給5ユーロ前後で働く人の数は全国で200万人を超えるといわれる。そのせいか過酷な条件で働く人々についての特集ルポを最近よく目にする。先日も、時給数ユーロで、さらに無給残業まで求められる高級ホテルの清掃係を扱ったドキュメンタリー番組が話題となった。ルポで取材の対象となっているのは主にドイツ人労働者。もう他人事ではない。

賃金低下の原因の一つは、モノ、人、情報の移動の活発化だ。例えばポーランドの美容院はドイツと比べ料金が格段に安い。質もそれほど悪くないことから、わざわざベルリンから出向くドイツ人もいるという。そうなると国境近くの美容院は即座に、長期的にはドイツ全土の美容院がポーランドと競争できる価格まで下げざるを得ないことになる。

東欧を中心とした低賃金国からの外国人労働者の影響も大きい。ドイツでは低賃金でも、これらの人には本国での仕事より実入りが多い。EU市民であれば出稼ぎは原則自由。ドイツ企業にとっても、外国人であれば労組との公定賃金協約(Tarifvertrag)で決められた賃金より低い額で雇えるので好都合だ。結果ドイツ人も、同じ仕事が欲しければ外国人と同じ条件で働かざるを得ない。

これら安いEU域内外国人労働者への牽制機能を持つのが従業員派遣法(Arbeitnehmer-Entsendegesetz)だ。建設業を中心に適用される同法は、ドイツで活動する企業に対し、外国人もドイツ人と同じ条件で雇用することを義務化する。同法が適用される業界では、外国人もドイツ人同様の待遇にて、すなわち最低賃金を払わなければならないことから、外国人を雇う意味が薄まる。

最低賃金

マスコミの影響もあり、国内世論はこのところ最低賃金の法制化へ傾いていた。従業員派遣法が適用される建設労働者らには業界内で最低賃金が決められている。連立与党の社民党(SPD)はこれを業種を限らず一般化させ、具体額も決定したいとしていた。今回の与党間の話し合いでは、キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)の反対もあり、法制化はせずに今後も業界ごとの取決めに任せることに収まった。

最低賃金導入に踏み切れなかったのは、経済界からの圧力ほか政治的要因も大きいが、雇用が減少することへの不安もあった。最低賃金それ自体は雇用の削減に繋がらないものの、各地域の経済環境にあった額に調整する必要はある、と経済学ではいわれている。ドイツの著名経済学者たちは、これを4.5ユーロとする。半面最低賃金を4.5ユーロに設定した所で貧困問題の解決にはならない。労組の希望はちなみに7.5ユーロだった。

例えば時給5ユーロでは、週5日フルタイムで働いても月の収入は800ユーロ。家賃等も考えれば、場合によっては社会扶助(Soziale Hilfe、日本の生活保護に当たる)や失業手当II(長期失業者および僅少所得者への扶助)の給付内容より少なくなってしまう。これでは貧困を防げない上、働くより生活保護を受けた方が豊か、という逆転現象も生じてしまう。左派はこれを公序良俗に反する(sittenwidrig)と批判する。

外国人による不法就労の背景

業界内でたとえ最低賃金が決められていても、それ以下でも働きたい外国人は後を絶たず、企業ももちろん雇えるなら雇いたい。そういったことから雇用主が被用者を登録しない不法就労(やみ労働=Schwarzarbeit)が、建設、飲食店、タクシー、運送業を中心に遍く広まっている。

例えばドイツの季節の風物詩、白アスパラガス。取り扱いが難しく、収穫は今でも人間の手で行われている。収穫期には多量の人手が必要となるわけだが、価格を上げずに利益を確保したい生産者は、毎年東欧などから安い季節労働者を団体で雇うことになる。不法就労も少なくなく、アスパラガス農家の摘発は毎春の話題だ。

一般家庭の家事援助サービスも不法就労の身近な例だ。家族以外の人に料理や清掃を有料で委託する場合も、労働当局への登録が雇用主に義務付けられている。企業でなく個人であっても雇用主として、小額の社会保険料や税を納めなければならないわけだが、この義務を怠る人は多く、そうなると不法就労となる。筆者の近所にも、外国人清掃婦を雇う人がいる。「ドイツ人だと社会保障費を請求される。外国人だと黙っていてくれるし、一生懸命仕事してくれる」とのこと。数年前の推計ではあるが、家事援助サービスの提供者は約300万人で、うち多くは外国人だ。労働当局への申し出は2%にすぎない。

アスパラも掃除も、消費者からすれば労働者の国籍などどうでもよい。同じなら安い方がよい。ドイツ人の雇用を脅かす外国人労働者にも、個人としては日常恩恵を受けているのである。


用語解説
Arbeitnehmer-Entsendegesetz (英訳:Posting of workers)
ドイツで事業を行う企業が、従業員が外国人であっても、 原則現行の公定賃金協約で定められている条件で雇用することを義務化する。現在、建設業、塗装業、屋根葺業、 建物清掃業のみに適用。

取締り

ドイツでは不法就労の取締りは、警察、労働局と並び、連邦財務省に属する税関(Zoll)が中心となって行っている。空港や国境検問所でZOLLというロゴのついた緑の制服を着ているのが税関職員である。数年前、税関職員が労働局職員と共に「不法就労・財務コントロール」という特別対策チームを作り、監督を強化した。財務省が外国人の不法就労に関っているのは世界でも珍しく、例えば日本では警察、法務省、厚労省が連携し取り締まっている。ドイツには、イタリア人やトルコ人のほか様々な外国人労働者を雇用する長い歴史があるせいか、治安よりも税収や雇用保護という経済的実害に焦点を絞っているようにも見える。

EU域外外国人の場合は、労働許可がなければ就労そのものが違法。見つかれば労使ともに処罰される。域内外国人であれば就労自体は合法。最低賃金がある業種ではそれ以下の賃金での就労、一般には社会保険料や税金の不払いなどが、取締りの対象となる。

昨年は前年比19%増の42万3000人が不法就労をめぐり調査を受けた。うち犯罪捜査に発展したのは28%増の10万4000件強。罰金の対象となる規則違反も6万3000件に増えた。うち多くが外国人関連だ。

商品・サービスともに労働力の自由な移動を標榜するEU。一方、賃金水準の加盟国間格差はまだまだ大きい。雇用主や消費者としてはこの格差の恩恵を受けたくもあり、労働力としては安い労働者を脅威にも感じる。最低賃金は、低賃金労働者の社会保障策であるとともに、一時的に外国人労働者の流入を抑え国内の雇用を守る。最低賃金をめぐる論議は、自由経済の恩恵を享受したい反面、社会連帯的な良き伝統も守りたいという、ドイツが抱える矛盾を表している。

● 参考文献
ドイツ税関ホームページ(www.zoll.de)から各種プレスリリース、発行物および統計資料 Die Zeit. 2006/16, 2007/25, 2007/26

よしだけいこ 東京外国語大学ドイツ語学科卒業。社会科学修士。通訳、ライター。調査記事ほか日本の新聞雑誌にも記事を寄稿。
 
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