ジャパンダイジェスト

アディダス adidas

不可能なものはない

ドイツはいま、サッカー一色。4年に1度の祭典、欧州選手権が山場を迎えているからだ。主役はもちろん各国代表の選手たちだが、その主役たちが着ているユニフォームの胸元や、試合で使われているボールに刻まれているのは、おなじみの黒の「3本線」。いまやスポーツの世界大会の歴史は、この「3本線」なしでは語れない。

アディとルドルフ、因縁の兄弟

アディダスが、なぜ「アディダス」と呼ばれるのか。ある雑誌によれば、コカ・コーラ、マルボロとともに世界的に知られる3大ブランドの一つに数えられるというこの名前、その由来を知っている人も多いだろう。そう、同社の創業者アドルフ・ダスラー(Adolf Dassler)の名前と苗字それぞれの頭部分を合わせたものである。「アディ」はアドルフのニックネームだ。

アディ・ダスラーは1900年、ニュルンベルク近郊の町ヘルツォーゲンアウラッハ(Herzogenaurach)に生まれた。父親が靴職人だったこともあり、自身も同じ道を志した彼は20歳で家業を継ぎ、最初のトレーニングシューズを完成させる。第1次大戦後の原材料が圧倒的に不足していた当時、母親の家事部屋で仕上げたのは麻でできたランニングシューズ。2ライヒスマルクの値が付いたそのシューズは、スポーツ愛好家だったアディが「競技に適し、選手の身体を守り、愛され続けるモデルであること」を考えて作り出したものだった。

その4年後、1歳年上の兄ルドルフが業務に加わり「ダスラー兄弟靴製造工場」が設立される。しかし、アディとルドルフの共同経営は長くは続かなかった。ともにナチス党員だった二人は、第2次大戦の勃発とともに徴兵される。アディだけはわずか1年で郷里に戻ることを許されるが、ルドルフはその後、米軍の捕虜となり、やっとのことで解放される。しかし、その時にはすでに、兄と弟がこれまで共に歩んできた1本の道が2本に分かれてしまっていた。ルドルフを工場から追い払おうと、アディが米軍にルドルフのことをナチス信奉者だと密告したことが一因だといわれているが、本当のところは定かではない。

ルドルフが工場を去って「ダスラー兄弟」の名が消え、「アディダス」社が誕生したのは48年。誰もが覚えやすい「3本線」をアディがロゴに採用したその年を境に、2本の道は完全に違う方向を向き、今日まで一切交わってはいない。ちなみにルドルフはその後、アディダス社からわずか数百メートル離れた地に自身の会社を立ち上げる。アディダスの、まさに因縁の競合他社プーマだ。

「ベルンの奇跡」に貢献、そして世界へ

アディダスのシューズの発展の歴史は、そのままスポーツの世界大会の歴史と重なる。28年のアムステルダム・オリンピックでダスラー兄弟が作ったシューズは初めて採用され、36年のベルリン・オリンピックでは米国のスーパースター、ジェス・オーウェンス選手が彼らの手によるシューズでフィールドを駆け抜け、4つの金メダルを獲得した。

そして54年。アディダスの名を決定的に世界に知らしめることになったのが、「ベルンの奇跡」として今に伝わるスイス・ベルンで開催されたサッカー・ワールドカップ(W杯)だ。ドイツ代表は同社製のスパイクを履いて競技に臨んだが、アディは試合会場に自ら足を運び、選手らのスパイクがフィールドの状態に合うよう、ハーフタイム中も靴底を取り替えていたという。そして「奇跡」が起こり、このスパイクは後に「世界王者」と名が付いた。

この大会を機に、アディダスの世界ブランドとしての黄金時代が幕を開ける。60年のローマ・オリンピックでは陸上競技選手の75%が、62年のサッカーW杯チリ大会では全32試合で同社のシューズが使用された。また64年の東京オリンピックでは、片足135グラムと当時世界で最も軽量のランニングシューズ「Tokio64」が開発され、それを履いたヴィリ・ホルドルフ選手が、十種競技でドイツに初の金メダルをもたらしている。このほか、「世紀の対決」と呼ばれた71年のモハメド・アリ対ジョー・フレージャーのボクシングの試合では、両選手が同社製のシューズで熱闘を演じ、84年のロサンゼルス・オリンピックでは、「3本線」を履いた選手らが獲得したメダル総数は259個に達した。

アディの像と本社
左)本社敷地内にある「Adi-Dassler-Platz」とアディの像
右) ヘルツォーゲンアウラッハの本社屋「World of Sports」

不可能なものを可能にする

アディが48年にわずか47人の従業員とともに設立したアディダス社は、78年に息子のホルストが後を継ぎ、89年には株式会社に転向。その後、97年の仏サロモン・グループ買収(2005年、サロモン部門をフィンランドのアメアスポーツに売却)や06年の米リーボック社買収などを経て、名実ともに世界最大級のスポーツ用品メーカーに成長した。現在は世界中に計3万1000人の従業員、150の姉妹会社を抱える。昨年は、売上高103億ユーロ、5億5100万ユーロの黒字を計上し、最高記録を塗り替えた。

製品ラインアップは、トレーニングウエアやアクセサリーなどの衣料部門にも力を注ぐものの、主力はもちろんサッカーや陸上競技、トレーニング用を中心としたシューズ部門。過去には、サッカーのスパイク「Copa Mundial」「Predator」やオールラウンドシューズ「Superstar」、マドンナが90年代に再流行させたというクラシックな「Gazelle」など、数々の伝説的シューズを生み出している。また最近では04年に、3年の開発期間を要して完成させた「adidas1」を発表。シューズ内部に、処理速度500MHzのマイクロプロセッサ、磁気検知システム・センサー、ワイヤー・ケーブル・システムなどを搭載し、走るスピードや路面の固さに合わせてクッションの柔軟性を自動調節できるという、まさに革命的なランニング・シューズを世に送り出した。

一方、同社のサクセスストーリーを語るには、世界をあっと言わせる広告キャンペーンの数々もはずせない。各スポーツ界のトップスター選手を起用し、若い世代を意識したスタイリッシュなコマーシャルは、一度見たら映像が鮮やかに記憶に残る。「Impossible is Nothing(不可能なものはない)」をスローガンに、04年からスタートさせたブランドキャンペーンはその代表格。歴代のアディダス・アスリートから現代のスーパースターまでを続々と登場させ、「不可能なものを可能にし、記録を破り、新たな尺度を打ち立てる」という同社の理念を世界に発信している。

EUROPASSで栄冠を

1972年、ベルギーで開催された欧州選手権大会でドイツ代表がアディダス社のスパイクを履いてプレーし、初優勝してから36年。同社はずっとドイツ代表の輝ける歴史に寄り添ってきた。今、スイスとオーストリアで開催されている同大会でも、ドイツの選手は「3本線」の付いたユニフォームを着てフィールドに立っている。

いよいよ大会も大詰めを迎え、連日テレビに釘付けになっているファンも多いだろう。この原稿を書いている現段階では、どの2国が決勝に駒を進めるかわからないが、それでもひとつだけ、すでに決勝“出場”を決め、会場となるウィーンで出番を待っているものがある。アディダス社のボール「EUROPASS gloria」だ。シルバーに黒のアクセントが効いたこのボールをゴールに叩き込み、欧州の頂点に立つのはどの国か。決勝戦のキックオフは、もう間もなくである。

(写真提供:adidas AG)

www.adidas.com

 
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