前回の本コラム(2014年8月15日発行、984号)では、第2次世界大戦後、国境が変更され、1000万人を超えるドイツ人が先祖代々住んでいた土地から追放されたことについて紹介した。その中で、東プロイセンという飛び地(地理的には分離しているが国の一部)があったことを指摘した。この地名とプロイセンという国家には、どのような関係があったのだろうか。今回は、その歴史を紐解いてみる。
プロイセンの由来
「プロイセン」とは、もともと同地域に住んでいた非キリスト教先住民の名称で、彼らとドイツ人の東方移民、スラブ人の入植者たちが徐々に混ざり合い、自らをプロイセン人と名乗っていた。
彼らは1226年から、ドイツ騎士修道会の強制的な宣教によってキリスト教化させられた。1525年、そのドイツ騎士団国のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク総長が、宗教改革を利用してプロイセン公国を創設。彼はホーエンツォレルン家の一員だったことから、同家のブランデンブルク辺境伯と関係があった。
このような状況下で、ホーエンツォレルン家の歴代君主が同君連合(地理的に分断されている自分たちの支配権を繋ぎ合わせること)を考えたのは想像に難くない。
プロイセン王国の誕生
カトリックとプロテスタントの宗教戦争であった三十年戦争と、その後のヴェストファーレン条約は、神聖ローマ帝国と皇帝の権力を失墜させた。ドイツの大諸侯たちは王の称号を名乗りたがっていた(神聖ローマ帝国体制での名目は選帝侯であった)が、帝国領内ではまだためらいを感じたため、彼らは外国の王冠を獲得しようと考えた。
1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王フリードリヒ1世となった。ブランデンブルクをはじめとする西方の住民は、自分たちが突然、遠く離れた東方の地名を持つことになろうとは思っていなかったに違いない。このようにして、「プロイセン」という東方の地名は1つの国家名となったのである。
飛び地から陸続きへ
ポーランドでは、ヤゲウォ朝が断絶した1572年から選挙王制が敷かれていたが、周辺の有力国の介入を受け、ポーランド王国政府は実質上の統治能力を失っていた。1772~95年に掛けて、ロシア、プロイセン、オーストリアによって3度にわたるポーランド分割が行われ、プロイセンは西プロイセンを獲得した。これにより、東プロイセンは西方の領土と繋がった。一方、ポーランドはその領土をすべて奪われ、滅亡した。
第1次世界大戦後の割譲
第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約において、西プロイセンおよびポメラニアがポーランドへ割譲された結果、東プロイセンは再び飛び地となった(ダンツィヒ周辺のみは自由都市ダンツィヒとなり、国際連盟の管轄下となる)。この周辺地域はポーランド回廊と呼ばれ、ポーランドのバルト海への出入り口となっている。スラブ系住民の割合が多いが、文化的にはドイツの影響を強く受けている地域である。なお、左右に分割され、再び飛び地となった東プロイセンの領土回復が目的で、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻したとされている。
第2次世界大戦後の国境の確定
1945年のポツダム会談で決定された内容は、東ポンメルン、東ブランデンブルク、シュレージェンの3地方を暫定統治地域とし、東プロイセンはソビエト連邦とポーランドで分割するというものだった。暫定的な国境線は、河川の名前から「オデール・ナイセ線」と呼ばれる。この国境線は、ソ連の衛星国であるドイツ民主共和国(東ドイツ)とポーランドには受け入れられたが、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)はこれを認めなかった。
この状況が変化したのは、当時の西ドイツ連邦首相ヴィリー・ブラントが共産主義諸国との関係改善を図った「東方外交」以降である。1970年には西ドイツとポーランドの国交が結ばれ、オデール・ナイセ線が事実上の国境であることが確認された。
ドイツの国境が変わる→隣国の国境が変わる
ドイツの国境と同様に、近隣諸国もその歴史の影響を受けている。ドイツがポーランド西部に侵攻し、第2次世界大戦が始まったのは今からちょうど75年前の9月。当時は東ポンメルン、東ブランデンブルク、シュレージェン、東プロイセンはドイツ領だったが、ポーランドは現在の国土とほぼ変わらない大きさで、もっと東に位置していた。
ポーランド侵攻の際、ソ連軍はドイツ軍と共にポーランド東部を占拠していたが、第2次世界大戦後、正式に占拠地を自国に併合した。代わりにポーランドに与えられた戦前のドイツ領は、現在のポーランドの国土の3分の1を占める。つまり、国がそっくり3分の1、西に移動したことになる。その際、ソ連に占拠された東部のポーランド人100万人以上が現在のポーランド領に移住したり、一部の地域はそのままソ連領に組み込まれたりした。ここでも大規模な住民の移動があったのだ。
シュレージェン
ほかの地域に対し、シュレージェンの場合は若干様相が異なる。この地をめぐっては、歴代のポーランド王国とボヘミア王国が帰属を争っていたが、16世紀にハプスブルク家がボヘミアの王位を継承すると、シュレージェンはオーストリアの領土となった。1740年にハプスブルク家の統治者カール6世が男子の後継者を残さず世を去ると、その娘マリア・テレジアの王位継承に対しプロイセンのフリードリヒ2世は異議を申し立て、王位継承を認める代わりにシュレージェンの領土を要求。しかし、マリア・テレジアがこれを却下したため、フリードリヒ2世は宣戦布告もせず当地に攻め入り、オーストリアの3度にわたる国土回復戦争によっても奪回は叶わず、シュレージェンはプロイセンの領土となった。
大ドイツ主義、小ドイツ主義
Großdeutsche Lösung, Kleindeutsche Lösung
1848年にフランクフルト国民議会で討議されたドイツ統一の方針。オーストリアを含めた大ドイツ主義、含めない小ドイツ主義である。19世紀は民族主義台頭の時代で、大ドイツ主義は圧倒的に支持されたが、ハンガリーをはじめとする多民族国家のオーストリアという概念が揺らぐということで、プロイセン主導の下、ドイツは小ドイツ主義によって統一された。
<参考文献とURL>
■ 「プロイセンの歴史―伝説からの解放」セバスチャン・ハフナー(15.09.2000, 東洋書林)
■ 「ユダヤ人とドイツ」 大澤武男(20.12.1991, 講談社現代新書)
■ 「現代ドイツ史入門」ヴェルナー・マーザー(20.03.1995, 講談社現代新書)
■ www.wikipedia.org "大ドイツ主義", "小ドイツ主義", "Teilungen Polens"
■ 「Die Deutschen: Vom Mittelalter bis zum 20. Jahrhundert」 Guido Knopp, Stefan Brauburger, Peter Arens (12.10.2009, Goldmann)
■ 「現代史ベルリン」永井清彦(20.01.1984, 朝日選書)
< 前 | 次 > |
---|