日本とドイツをめぐる歯型の話
皆さんは歯科医院で歯型を取ったことがありますか? そうです。ほとんどの人が「あの気持ち悪いやつ!」と苦手な、ミント味でピンク色のスライム状の物体。歯型を取るための素材(印象材)には様々な種類がありますが、現在最も多く使用されているのが、この「アルジネート印象材」と呼ばれているものです。歯科医療では、印象材で歯型を取ったものに石膏を流し込んで歯型模型を作り、それをもとに歯科技工物を作製したり、咬合診断や治療経過の記録などに利用されます。
アルジネート印象材で取った歯型
歯科医療の歴史を振り返ると、昔の治療は現在のものとは程遠く、対処法の多くが抜歯でした。そのため、ものを食べるために義歯が必要な人も多かったのです。しかし、大昔の義歯といえば、手先の器用な職人が手作業で素材を削り、口の中に入れてみて目分量で調整を繰り返すという効率の悪さ。この方法は非常に手間と時間がかかる上、確実性に劣るだけでなく、価格も高くて誰にでも受けることのできる治療ではありませんでした。
そこで、性能が良い義歯を簡単に作製するための歯型模型作り、すなわち「歯型取り(印象採得)」が重要課題だったのです。印象採得の歴史は意外と古く、250年以上前にプロセイン王国時代のドイツ人歯科医師が「お湯の中で柔らかくしたワックス素材」を用いた方法が記録に残っています。1800年代には欧米で様々な性質のワックスが開発され、特に歯科医療が急速に普及してきた米国では学術的、商業的にもワックスによる印象採得の競争が活発になりました。
しかし、いくら改良が進んだといってもしょせんはワックス。型が固まるには熱が冷めるまで待たなければいけないことや、歯のアンダーカット部分(歯頚部の凹形状部)は型取りできず、変形も大きいという欠点は変わりません。その後も開発は進んでいたものの、材料の性質自体にそれほど大きな進化はありませんでした。
100年以上主流だったワックス印象採得ですが、とうとう1930年代、新たに画期的な方法が開発されました。それは「寒天印象」と呼ばれるもので、その名の通り材料は海藻から作られる寒天。そうです、私たち日本人がよく食べる「ところてん」! 従来のワックス材料よりも弾力があり、ゼリー状でキメが細かく、細部まで正確に型取りができるため急速に普及しました。
日本では海藻は日常生活に欠かせない食品ですが、特に日本海側では寒天の材料となる良質なテングサ採取が盛んでした。その当時、ノーベル賞を受賞した細菌学者のドイツ人医師ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法の確立に成功、さらに歯科用印象材の需要も併せて日本にとって寒天は重要な輸出品目に大躍進。
しかし、順調かと思えた寒天輸出産業ですが、第二次世界大戦が勃発したことにより、日本政府は戦略的意味合いから寒天の輸出禁止を決定。印象材の材料となる寒天が手に入らなくなったことにより、日本からの輸入に依存していた欧米の歯科医療界は大打撃を受けました。そこで寒天印象材の代用品となる製品開発が急務となったのですが、そのときに生み出されたのが、昆布科に属する海藻から抽出したアルギン酸で作られた「アルジネート印象材」。
アルジネート印象材は細部の再現性において寒天印象材に劣るものの、操作が簡単で弾力性に優れているため、複雑な形状でも簡単に型取りができるようなりました。また、成長が早い海藻類を利用することによって原材料費が安く抑えられるため、コストパフォーマンスが高く、現在最も世界中の歯科医院で利用される印象材になったのです。
歯型をもとに、模型上でセラミッククラウン作製