戦後に1200万人もの難民が流入していても、高度経済成長期には労働力が不足していた。解決策は、外国人労働者を募集することだった。
19世紀後半の労働力流入
実を言うとドイツが外部から労働力を受け入れたのは、この時が初めてではない。産業革命が波及して工業用石炭の需要が高まった19世紀の後半、ルール地方の採掘現場に不足する労働者を、はるか東の地から募ったのである。
ビスマルクが統一したドイツ帝国の国土を思い出してほしい。当時バルト海に沿って東方へと広がり、東南方面へはオーデル川の源流地にまで延びていたその一帯は、ゲルマン系とスラブ系が混住する土地だった。そのうちのシレジア地方やマズール地方(東プロイセン南部)から、「ポーランド語を話す人々」がルール地方にやって来たのだ。
こうして同地方の人口は倍増。しかし、元からいた住民とカミンスキーやティルコフスキーといった姓を持つ新住民との間に大きな対立は起きなかった。なぜなら、彼ら“帰る予定のない”流入者たちは熱心にドイツ語を学び、ドイツ社会に“同化”してしまったのだ。そして第1次大戦後、ポーランドが独立して国籍選択が可能になった時、彼らのほとんどはドイツ国籍を保持したのだった。
「長居はしない」客人労働者
さて、これから述べる高度経済成長期における外国人労働者の募集が前述の労働移民と根本的に違うのは、“帰る”ことを前提にした点だ。非公式にGastarbeiter(客人労働者)と呼んだことでもお分かりになるだろう。Wanderarbeiter(出稼ぎ労働者)やナチス時代の Zwangsarbeiter(強制労働者)などの表現が持つネガティブなイメージを避けるために作られたこの造語には、もちろん“長居しない客”を望む当局の思惑がからんでいた。
募集協定は、まず1955年にイタリアと結ばれた。西ドイツ政府は数年で労働者を交代させる方針を取り、中等教育レベルと健康を条件に、応募審査を現地当局に一任した。こうして簡単な読み書きと膝の屈伸ができれば合格になった最初のガストアルバイターが、主にイタリア南部からやって来た。そして60年にはスペイン、ギリシャとも協定を結び、外国人労働者の数が27万3000人に達した翌年の8月、ベルリンに壁が出現する。
長期的展望を欠いた受け入れ
東からの亡命者の労働力を当てにできなくなった西ドイツは、初めてヨーロッパ域外の国と募集協定を結ぶことにした。そこはかねてから労働者の供給をオファーしていたイスラム教の国。そう、閉鎖されて魅力を失った西ベルリンから多くの就労者が西ドイツへ流れてしまったその穴を、トルコからのガストアルバイターが埋めたのである。彼らの多くが実際は文盲であっても、トルコ国内で抑圧されたクルド人が混じっていても、ドイツ当局は将来起こりうる諸問題を想定するだけの長期的視野を持っていなかった。また、韓国とも63年に協定を結び、看護士たちがやって来て話題沸騰。そして64年、協定を結んだポルトガルから100万人目のガストアルバイターがケルン駅に到着した。
——「アルマンド・ロドリゲス!」通訳が叫んだ。ホームの端から男がおずおずと名乗りを上げた。「おめでとうございます。100万人目です!」そのポルトガル人はカメラのフラッシュに当惑しながら、賞品のモペットを受け取った。(ライニッシェ・ポスト紙)歓迎一色だった当時の様子が見て取れる。この後もチュネジア、モロッコ、ユーゴスラビアと協定を結び、オイルショックにより募集を停止した73年までに、外国人労働者の数は260万人に達していた。
残された課題——「統合」
現在ドイツに住む外国籍者は約730万人。ドイツ国籍のエスニックグループを含めると、“移民の背景を持つ”人口は1530万人に上る。当局が“帰る”と言い、本人たちも“いつかは帰る”と自答していたガストアルバイターたちは結局のところ帰らず、家族を呼び寄せて定住したのである。
そして最近の調査から、移民の背景を持つ住民の中でもトルコ系に際立って義務教育の中退率と失業率が高いことが明らかになった。統合を難しくしている要素は、出自によっても様々だろう。しかし最大の原因は、「帰る」という嘘を50年に渡ってつき続けたことだと指摘する人は多い。この嘘によって当局は移民政策を棚上げにし、外国人は「融合」への努力を怠ることができた。ドイツは、そのツケを今後払っていかなければならないのだ。
27 März 2009 Nr. 758