経済復興を遂げ、サッカーのW杯ベルン大会で初優勝した1950年代の後半。西ドイツ人は失っていた自信を取り戻し、ナチス犯罪の過去を忘れようとしていた。
ナチ犯罪の重さ
敗戦から十余年。ナチスの主要指導者たちは敗戦直後のニュルンベルク国際軍事法廷ですでに裁かれ、ナチスを支持した知能犯たちも脱ナチ化法によって審判を受けていた。暴力的な実行犯に対する訴追は続いていたが、決め手となる証拠はなかなか集まらない。1950年に809件あった有罪認定は、58年にはわずか22件にまで減少する。
古傷には触るな̶̶。社会には暗黙の了解があっただろう。しかし追及の手をゆるめない人々がいた。バーデン=ヴュルテンベルク州のネルマン検事長とヘッセン州のバウアー検事長が中心となって、シュトゥットガルト近郊ルードヴィクスブルクにナチ犯罪追及センターが設立されたのは58年12月。最も重い謀殺罪の時効は7年後に迫っていた。
やがて60年、ユダヤ人根絶計画の実行責任者アドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサッドによって、潜伏地アルゼンチンから誘拐される。この件には、前述のフリッツ・バウアー検事長が先に居所を突き止め、訴追と身柄送検に必要な手続きを要請したが却下されたため、モサッドに情報を流すというプロローグがあった。
当時、司法内部にはナチ党員の活動歴を隠す裁判官や検事が数多く存在し、政治中枢も国内での裁判を望まなかったのである。こうして61年、アイヒマンがイェルサレムの法廷に立ったとき、西ドイツ国民は背負った過去の重さに圧倒されてしまった。
法廷の扉を開いた1通の手紙
アウシュヴィッツ強制収容所要員に対する裁判は63年12月、このような国民感情を背にフランクフルトで開廷する。世論調査では54%の国民が裁判に反対。新聞には、「もうたくさんだ」「異常な状況下での行為に罪を問うのか」などの投書が並んだ。
原告団を率いたのは前述のバウアー検事長。ドイツ=ユダヤ人夫婦の間に生まれ、ナチス政権下でデンマーク、スウェーデンへと亡命、49年にクルト・シューマッハーSPD党首の呼びかけに応えて西ドイツへ戻り、56年からフランクフルトの検事を務めていた。
起訴への発端は59年1月、彼のもとに届いた1通の封書だった。差出人はフランクフルター・ルンドシャウ紙の記者トーマス・グニールカ。中には偶然見つけたという、1人の生還者がブレスラウ(現ポーランド領ウロツワフ)裁判所から“お土産”に持ち帰ったとされる書類が入っていた。アウシュヴィッツ強制収容所の殺人記録だった。バウアーはこの証拠書類を連邦最高裁判所に提出し、裁判をヘッセン州で開く許可を得た。
証言が暴いた真実と歴史認識の転換
被告は収容所に勤務した副官ロベルト・ムルカのほか、看守、衛生兵、親衛隊医師、歯科医、薬剤師、衣服担当ら22人。彼らは互いに罪を否定しあい、あるいは転嫁しあって自分の容疑から逃れ、いくら19カ国から召喚された359人の証人(アウシュヴィッツ生還者220人を含む)が被告らの残虐行為を生々しく語っても、過去を悔いる様子は微塵たりとも見せなかった。ヴィルヘルム・ボーガー被告は、法廷から退席する時にナチス式の敬礼さえする。高い横棒にユダヤ囚の膝を折って逆さに吊るす拷問方法を考え出し、アウシュヴィッツの野獣と呼ばれた親衛隊(SS)上官だった。
収容ブロックの棟長だった当時19歳のSSハンス・シュターク被告に対しては、1人の生還者が「ガス室へ送られる前の女性たちを壁の前に並ばせ、1人また1人と撃っては、立て!と狂ったように叫んでいました」と証言。あまりにも惨い出来事を思い出さなければならないために、言葉を失ってうずくまる証言者もいた。
判決では、ボーガーを含む被告6人に終身刑、3人に無罪、シュタークを含む11人に最長14年の懲役刑が言い渡された。裁判後、バウアー検事長は「加害者の口からせめて一言でも人間的な悔いの言葉を聞きたかった」と語った。
西ドイツではこの後も、責任追及派と終止符を求める声が対立した。そのプロセスを経て時効は2度延長され、3度目に廃止された。そして現在、歴史家はこの裁判を社会のターニング・ポイントだったと評価している。匿名だった民族虐殺の実行犯に初めて名前と顔がつき、この時から過去の検証が始まった。ドイツ人の歴史認識を変えたのは、勇気ある検事、裁判官、そして証言者たちだった。
17 April 2009 Nr. 761