1970年12月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相(社会民主党=SPD)はワルシャワを訪れ、ポーランドとの国交正常化基本条約に調印。その足でゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた。
東との断絶―ハルシュタイン原則
ホロコーストへの深い謝罪として世界に報道されたこの姿に対して、西ドイツ人がどのように反応したかを語る前に、ブラント政権の政策に触れておきたい。
1969年10月に発足したSPDとFDP(自由民主党)の連立政権が、「新東方外交」を進めたことはご存知だろう。それは、原案者の名前を冠して「ハルシュタイン原則」と呼ばれた外交方針を“正式に”破棄することだった。
この原則を採用していたのは、63年まで西ドイツを率いたアデナウアー首相(キリスト教民主同盟=CDU)である。東ドイツを絶対に国家とは認めず、「ソ連地区(Zone)」や「中部ドイツ*」と呼んでいた彼は、55年にソ連と国交を樹立して最後の残留ドイツ人戦争捕虜1万人の釈放に成功すると、ただちに「ソ連以外で東ドイツを承認した国とは国交を断絶する」とするこの原則を採用し、東欧やアラブ、アフリカを舞台に、東ドイツが通商代表部を設ければこちらは手を引くなどの外交競争を続けてきたのだった。
ブラント東方外交による東の承認
しかし1960年代中頃、キューバ危機を経て東西陣営間の緊張がゆるみ、新興独立国が次々に東ドイツを承認しはじめると、アデナウアーの後継者であるエアハルト首相とキージンガー首相は行き詰まりを認識。原則に従って57年から断絶していたユーゴとの外交を再開したり、イスラエルと国交を――アラブが反発から東を承認することが予測されても――樹立するなど、原則を破棄しないまま新しい外交関係を試すようになった。
この接近政策をさらに進め、原則を正式に破棄したのがブラント政権だったのだ。発足に際して「2つのドイツの存在を認める」と発言したブラントは、早速70年3月に東西ドイツの首脳会談をスタートさせ、8月にはソ連と武力不行使・現状承認に関する条約、12月7日にはワルシャワを訪れてポーランドと国交正常化基本条約に調印。互いにいかなる領土的な要求も持たないことを確認した。
つまり西ドイツは、ポーランドが東ドイツと河川の国境を形成するオーデル=ナイセ線を事実上の独ポ国境であると認めたのである。これは、戦後同線の東側に位置する旧東部ドイツ領から追放され、その回復を望む東方出身者たちの気持ちを逆なでする決定だった。
ゲットー英雄記念碑前での跪座
ゲットー記念広場はワルシャワの旧市街からほど近い。かつてこの地区には、ナチス・ドイツが同市のユダヤ人を強制移住させた居住区(Ghetto)があった。1940年11月の時点で囲い込まれたユダヤ人住民は約40万人。その多くが劣悪な食糧事情と衛生状態のために病死し、42年以降は強制収容所へと送られた。それが死を意味することに気付いた住民が43年4月に武装蜂起し、1カ月間血まみれになって戦い惨敗。ゲットーはほぼ空になった。
その蜂起の様子が刻まれている英雄記念碑の前に、西ドイツの代表団は並んでいた。花輪がモニュメントの手前に捧げられ、ブラント首相が進み出て花輪から下がる2本のリボンの位置を調整する。西洋の献花式で代表者が行う行為である。そして数歩後ろに下がり、頭を垂れて数秒。突然ひざまずき、両手を組んで黙祷を始めた。カメラのフラッシュが炸裂する。西ドイツ代表団は呆然と首相の姿を見つめていた。
この「跪座(きざ)」は計画的だったのだろうか。当夜ブラントは、首相府長官エゴン・バール(SPD)からの質問に「立っているだけでは十分ではないとふっと感じたんだ」と説明したという。
国外からの賛同、国内の反発
ドイツ人に迫害されたユダヤ人への哀悼を跪座のポーズで、しかも自らナチスに追われた経験を持つドイツ人が示したことは、特別な重みを持っていた。国際的にはナチスの犯罪をドイツ国民が認めた徴として注目され、日本ではドイツ人の良心とする解釈が先行した。
しかし西ドイツでの反発は大きかった。シュピーゲル誌のアンケート調査に対し、「大げさだ」と答えた人は48%。野党CDUとCSU(キリスト教社会同盟)、保守大衆紙、1000万人を擁する追放関係者団体は「身売り外交」と批難した。ブラントの東方外交は、「ドイツ固有の領土」を「ひざまずいて」差し出したように映ったのである。
そのためブラントは帰国後、「東部ドイツ領からのドイツ人追放はいかなる理由があろうとも正当化できない」と演説するが、「平和を確保するためには、領土の請求を放棄する以外に我々が取る道はない」とする姿勢を貫いた。
しかし、これら2つの条約が連邦議会で批准されたのは2年後の1972年5月17日。紆余曲折とも言える、法と意識の調整期間が必要だったのである。
*戦前のドイツ国土を基準にした地理的表現。
18 September 2009 Nr. 783