第1次世界大戦中に独仏両軍から70万人の戦死者を出したフランス北東部の激戦地、ヴェルダン。その地に設けられた無名兵士の納骨堂前で、1984年9月22日、フランソワ・ミッテラン仏大統領とヘルムート・コール西独首相は手をつなぎあった。
独仏の宿怨の地、ヴェルダン
列強間の様々な対立から起こった第1次世界大戦は、最初の近代戦であり、国家総力戦だった。鉄道、飛行機、戦車、機関銃が登場して、前世紀までの騎馬戦は無意味になり、歩兵が敵の射撃に生身の体をさらすことになったのだ。そのためスイスからドーバー海峡まで続く独仏間の西部戦線では、両軍が塹壕を築いて膠着状態に陥り、初めて毒ガスが使われる。ロマンチックな愛国心から志願した若者たちは、次々に帰らぬ人となった。
ドイツ軍がパリへと続く街道にあるヴェルダンを攻略すべく、フランス軍に攻撃を仕掛けたのは1916年2月21日。同年12月19日まで続いた激しい塹壕戦で、フランス軍36万2000人、ドイツ軍33万5000人が戦死する。
その記憶を今に伝えるヴェルダンは、独仏の宿怨を象徴する代名詞のような場所である。そこでの追悼式典に、ミッテラン仏大統領がコール西独首相を招いた。それは先立つ6月に開催した連合軍ノルマンディー上陸40周年式典に西ドイツを招待しなかったことへの、埋め合わせの意味があったらしい。
無言で手をつなぎあい、和解
1984年9月22日、追悼式典はヴェルダンから北に数キロ離れたコンサンヴォアにあるドイツ人戦没者墓地から始まった。フランスの国家代表がここを訪れるのは初めてである。次に2国の代表団はヘリコプターでデュオモン要塞跡へと移動し、そこに設けられている軍人墓地に降り立った。
相手国に敬意を表し、フランス軍楽隊が西ドイツ国歌「ドイツ人の歌」を、次に西ドイツ国防軍楽隊がフランス国家「ラ・マルセイエーズ」を演奏する。ミッテラン仏大統領とコール西独首相は納骨堂へと歩を進め、棺台の前に並んだ。納骨堂には、ヴェルダンの戦いで命を落とした、国籍さえ分からない無名兵士13万人の遺骨が納められている。
コールは回顧録にこう書いた。「そういう予定は全くなく、突然ミッテランが私の手を握り、私たちは数分間ずっと黙って手を握り合っていた」。
当時、公共放送ARDのフランス特派員だったウルリヒ・ヴィカートは、手が差し伸べられた瞬間を見逃したため、誰が先導したのかを知ろうと後日ミッテラン大統領に直接質問し、答えを得ている。「独りの孤独から抜け出してコールに今の気持ちを伝えるべきだと強く感じ、手を差し出したら、コールが握り返してくれたんだよ」と。
強き指導者たちの、兄弟の誓い
ライン左岸までの自然国境論を主張したルイ13・14世の時代から、ドイツ人とフランス人は様々な理由を付けては戦ってきた。17世紀の30年戦争で戦場となったドイツは人口を3分の1に減らし、18世紀の7年戦争ではフランスが最終的に北米植民地まで失う。19世紀にはナポレオンがライン諸邦とプロイセンを蹂躙(じゅうりん)し、普仏戦争ではビスマルクがパリを攻落。20世紀も第1次世界大戦、第2次世界大戦と殺し合いは続いた。
両国民には父祖伝来の敵のイメージが出来上がっていただろう。しかし第2次世界大戦後の東西冷戦下で、かつての宿敵は接近を始める。どちらの側にも心の底から不戦と復興を願う気持ちがあったに違いない。独仏間の緊張緩和を求めたロベール・シューマン仏外相、西側共同体への参入を目指したアデナウアー西独首相、和解を唱えたド・ゴール仏大統領。彼らはパートナーとなり、まず経済から統合が進められた。両国民が敵愾心(てきがいしん)を乗り越えてきたプロセスは、こうした強い政治指導者を抜きには語れない。
ミッテランとコールもパートナーだった。ヴェルダンの戦いから生還した父親を持つコール、第2次世界大戦中にこの地で負傷し捕虜になったミッテラン。ヴェルダンの追悼式典でミッテランの手を握り返したコールは、ほっとした表情で見返し、常に冷静なミッテランはそのまま前の方角を凝視し、たたずんでいたそうだ。
共同声明で2人の政治家はこう結んだ。「これは兄弟の誓いだった。我々は2つの大戦で命を落としたフランスとドイツの息子たちの前で和解をするためにここにいる。両国は歴史から、和解と相互理解と友情を学んだ。両国民は平和、理性、そして友好関係の道から後戻りしない」。独仏和解のシンボルとして、これ以上のものはない。
22 Oktober 2010 Nr. 839