ソ連邦ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所4号炉で大爆発が起きたのは、1986年4月26日。西ヨーロッパ諸国が放射性降下物による汚染に気付き、国民に厳重警戒を呼び掛けたのは3日後のことだった。。
事故の隠ぺい、対応の遅れと放射能拡散
対応がこれほど遅れたのは、ソ連当局が事故の発生を隠したからにほかならない。当時のソ連はゴルバチョフ書記長下でペレストロイカ(再建)が提唱され、グラスノスチ(情報公開)が始まってはいた。しかし、広島に投下された原子爆弾の500倍とも言われる爆発事故についての事実が公表されたのは、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、2日後に高濃度の放射能が検出されてからだった。
4月28日早朝、検出値の異常から安全装置が自動的に作動した発電所では、まず自所内の放射能漏れを疑い、最終的にソ連領域から漏出していることを突き止める。
こうしてソ連当局はチェルノブイリ原発の事故を否定できなくなり、以後は国際原子力機関(IAEA)へも協力的に報告するようになるが、その間に放出された膨大な量の放射性物質は、まずロシアからスカンジナヴィア、ブリテン島へ、次に風向きが変わってチェコやドイツなどの中欧へ拡散。やがて北半球全体へと広がってしまった。
西ドイツ内のパニック
西ドイツでチェルノブイリの名前が挙がったのは4月29日夜のことである。公共放送ARDのニュース番組Tagesschauがトップで取り上げ、大気汚染と土壌汚染について説明。窓と戸を常に閉めておくこと、幼児を砂場で遊ばせないこと、汚染が予想される猪や鹿などの野生肉、河川魚、戸外のキノコや果実、牛乳などについて残留放射能テストが行われること、安全値を越える食物の処理については関係当局が指示を出すことなどを通知した。
翌30日、スーパーマーケットは食料品を買いだめする客で大騒ぎになる。将来起こりうる不足の事態に備えようとするのは、いずこも同じ。この時点で流通している食品のほとんどは前年、あるいは屋内で生産されたものだが、汚染の不安から生鮮食品が売れ残り、どこをどう回ってか超安値で東ドイツに出回るという笑えない落ちまでついた。
この日、ミュンヘン上空で通常の10倍のガンマ線が計測される。バイエルンの森のキノコからは最高4万ベクレル/㎏の放射能が検出された。2年後の1988年に1万5000ベクレル/㎏の鹿、6万5000ベクレル/㎏の猪が捕獲されたこともある。餌を通して体内に放射性物質が蓄積されるためだ。EUの残留規定値は一般食品で600ベクレル以下、乳製品と離乳食で370ベクレル以下。これらの数値に比べ、驚くほど高い汚染度である。
汚染ミルクの中和処理
では、汚染された食物を流通からどのように除外するのか。放射能安全委員会は生産・捕獲者に破棄を要求し、補償金を支給することにした。例えば、基準値を越える猪を捕獲した人は近くの獣類管理局に破棄を依頼し、ケルンの連邦行政局に補償を請求するのである。
汚染ミルクについては特殊な方法が取られた。ミルクの成分は乳脂肪分と大量の乳清。脂肪分は固形物に加工して対処できるが、水溶性の乳清については中和の方法がこの時点では見付からない。関係者には保管が通達された。
汚染乳清5000トンが貨物列車150台に積み込まれ、ニーダーザクセン州エムスラント地方のメッペン連邦軍用地に搬送されたのは翌1987年の2月。イオン交換法によって汚染が中和され、最終解決を見たのは、さらに15カ月後の88年5月である。
事故の教訓ーー 脱原発へ
東西冷戦の最前線で米ソの核兵器競争に身をさらす東西のドイツ人にとって、チェルノブイリの原発事故は原子力への不安をさらに強め、忘れがたい具体的な恐怖体験として記憶に刻まれたことだろう。
それまで内務省の管轄だった連邦の環境行政が「環境省」として独立したのは、事故直後の1986年6月6日。以後、原子力発電所の安全管理の見直し、さらに原子力から再生可能エネルギーへの転換を進める動きが起こる。緑の党と連立したSPDシュレーダー政権下で、2023年までに段階的に原子力発電所を廃止することが決まったのは2002年である。
放射性元素セシウムの半減期は134で2年、137で30年。西ヨーロッパにも降り注いだ放射性物質は、人体にどれほどの影響を与えているのだろうか。事故からまもなく25年が経つ今でも、ドイツの森からは体内の放射能が600ベクレル/㎏を越える猪が多数捕獲されているという。
21 Januar 2011 Nr. 851