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ロンドンのゲストハウス
Do. 21. Nov. 2019

そのとき時代が変わった1945年敗戦から1989年ベルリンの壁崩壊まで

高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。

ベルリンの壁崩壊 Der Fall der Berliner Mauer

1989年11月9日出国規制緩和に関する政令を作成したゲルハルト・ラウター内務省旅券局長、記者会見で決議されたばかりの政令を読み上げたギュンター・シャボウスキー政治局広報官、東西ベルリン間に設けられた国境通過地点の1つ、ボルンホルマー通りで自ら遮断機を上げたハラルト・イェーガー国家保安省中佐。この日、互いに面識のない彼ら3人のうち、1人でも別の行動に出ていたら、ベルリンの壁は開かなかっただろう。

西ベルリンに足を踏み出して泣き出す市民、壁をよじ登る若者たち。これらのシーンは皆さんもよくご存知のはずなので、本稿では、東西統一へとつながるこの歴史的な出来事の主役を、それと知らずに演じた彼ら3人を中心に、経過を追ってみようと思う。

この年の夏、支配政党ドイツ社会主義統一党(SED)の腐敗に絶望した市民が東欧の西ドイツ大使館に駆け込み亡命を始め、一方で民主化を求める市民デモが何十万人の規模へと拡大していたことはすでにお話しした。しかし、市民の反乱は10月18日に古老ホーネッカーが失脚しても治まらず、11月7日、東ドイツ人の流入に頭を痛めるチェコスロバキアから、国境での武器使用もありうるとの警告が出る。8日、エゴン・クレンツ新国家評議会議長・SED書記長は出国規制の緩和による対策を考え、内務省に政令案の作成を指示した。

11月9日

9時 内務省旅券局長ラウターのオフィス
ラウターとほかの内務官僚、国家保安省員2人の計4人で政令案の作成を開始。ラウター、国家の威信が失墜した今、必要なのは明瞭なシグナルだと考え、「個人旅行は理由と親戚関係の条件を付けずに申請でき、許可はすぐに出される」と書いた。

10時 党中央委員会(ZK)総会
デモ対策などで2日目の協議スタート。

12時 内務省ラウターのオフィス
政令案完成。翌日10日発効、4時発表として、コピーを党中央委員会と閣僚評議会に送る。

14時40分 閣僚評議会会館
クレンツと西ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州ラウ首相が会談。クレンツ、「関係改善により、壁を不要のものに」と提案。本音は財政破たんを回避するため、西ドイツマルクと引き換えに壁開放を計算。

16時 党中央委員会総会
クレンツ、旅行許可の新政令を提出。委員約200人はチェコとの国境問題にからめて理解。ディッケル内相がZKの政治局(実質政府)広報室から発表することを求め、クレンツはこれを了解。

17時45分 党中央委員会政治局広報室
まだ総会中で閣僚全員が政令決議に署名を終えていないにもかかわらず、クレンツがシャボウスキーのもとへ出向いてきて決議書を手渡し、発表を指示。翌日発効であることは2頁目の最後に書かれていたが、その説明はなし。そして前日広報官に選ばれたばかりのシャボウスキーは、総会にも政治局にも顔を出していないために詳細を知らなかったが、確認を怠った。

「東ドイツ、西へ国境開放」 11月9日夜、「東ドイツ、西へ国境開放」の報道が流れた後、
チェックポイント・チャーリーに詰め掛けた大勢の西ドイツ市民
© Lutz Schmidt/AP/Press Association Images

18時53分 記者センター
8分掛かった発表後、「発効はいつから?」と問われたシャボウスキーは、混乱した表情で決議書をぱらぱらとめくり、「私の認識では即刻です」と返答。さらに「西ベルリンへも?」と問われて「はい」。これで東西ベルリン間の壁を越えることも可能に。

19時30分
東ドイツのニュース、「個人の外国旅行は特別な理由なく申請できる」と報道。

20時
西ドイツ第一公共放送ARD、「東ドイツ、西への国境開放。壁も」と報道。

20時30分 東西ベルリン間国境通過地点ボルンホルマー通り
イェーガー警備隊長、遠巻きに集まってきた100人ほどの市民に、「まずビザを取る」と説明。すると市民、「シャボウスキーは即刻と言った」と反論。

21時 ボルンホルマー通り
車と人々の列が何キロも伸び、「あちらへ行きたい!」と叫ぶ声。

21時50分 同
イェーガー、上官と相談して特に性急な市民を西へ出す“通気法”に変える。その際、パスポートに「不法出国につき再入国不可」のスタンプを押す。

22時30分
観劇から自宅に帰ったラウター、息子から壁開放を知らされ、驚いて内務省へ。

23時10分 ボルンホルマー通り
西側散歩から戻ってきた女性市民、再入国不可のスタンプが押されていたため、子どもがアパートで寝ていると言って泣き出す。イェーガー、全員を再入国させるよう部下に指示。

23時30分 同
遮断機の前に2万人が詰め掛け、「開けろ!」と合唱。開けるか軍隊を呼ぶか。誰も答えられない。イェーガー、自分の判断で遮断機を上げる。

23時40分 内務省
ボルンホルマー通りの事態を知らされたラウター、ほかの通過地点6カ所も開放するよう、国家保安省担当官に指示。こうしてベルリンの壁は開いた。この夜、国に中央司令塔は存在していなかったことがお分かり頂けただろう。壁を無血で開かせたのは当局のミスと個人の決断だった。翌日の朝9時、政治局で壁の話題を持ち出した者はいない。そして、前夜は呆然と眺めるしかなかったコール西ドイツ首相、ブッシュ米大統領、ゴルバチョフ・ソ連書記長が現実の政治の舞台に再登場する。この日から東西ドイツは統一に向かって疾走を始めるのである。

ベルリンの壁崩壊 11日10日、ベルリンの壁崩壊を祝うためにブランデンブルク門周辺に集まった人々
© AP/Press Association Images

21 Oktober 2011 Nr. 890

 
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高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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