ジャパンダイジェスト

水彩画からのぞく芸術の世界 寄り道 小貫恒夫

73. ベートーヴェン・イヤー②:ウィーンへ

街名「ハイリゲンシュタット」の由来となった教会
街名「ハイリゲンシュタット」の由来となった教会

ベートーヴェンは1770年12月にボンで生まれていますが、そのファミリーネームから、彼の家系はベルギーのフランドル地方に由来することが伺えます。というのも、「ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)」の「ファン(van)」は、典型的なフランドル地方出身者に付く名前。同じ地方出身者には、例えば画家のファン・エイクやファン・ゴッホがいます。

これはドイツにおける貴族であることを示す「フォン(von)」とは違い、「〜に来歴がある」くらいの意味しかありません。それに「Beethoven」の語尾の「Hoven(畑の意)」も、この地方出身者の苗字に付いているケースが多いようです。事実、彼の祖父の時代に、宮廷歌手としてこの地方からボンへと移り住んでいます。

ベートーヴェンの父もボンで宮廷歌手を引き継ぎ、ルートヴィヒ少年には厳しい音楽教育をしたそう。しかし父と祖母のアルコール依存症により、家計は困窮していました。

それでもベートーヴェンは16歳の時、モーツァルトに弟子入りするためウィーンに向かいます。しかし性格の全く違うこの二人は合うはずもなく、会ったのは結局たったの一度きりに。そんな折、母親が急逝したためベートーヴェンはボンへと引き返し、演奏家として家計を支えることになりました。

チャンスが訪れたのは22歳の時。ヴァルトシュタイン伯爵からベートーヴェンの噂を聞きつけたハイドンが、ボンまでやって来たのです。すぐに彼の才能を見抜いたハイドンは、ウィーンへ来て弟子入りするように勧めます。ベートーヴェンはピアノ演奏でも一目を置かれていましたが、ハイドンの下で学び、20代後半には作曲家として順調に成長していきました。

彼が耳に異変を感じ出したのはそんな時でした。医者の勧めもあって、温泉治療のためウィーン郊外のハイリゲンシュタットへ移ることに。この辺りからカーレンベルクの丘にかけて広がるブドウ畑の風景が、故郷ボン郊外のアールタールに似ていたこともあり、この地を気に入ります。

しかし音楽家にとっては致命傷ともいえる難聴は、ひどくなるばかり。とうとう自殺を考えるまで思い詰められ、2人の弟に宛てて遺書を書きました。これは彼の死後に発見され、「ハイリゲンシュタットの遺書」として知られています。

 
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小貫 恒夫

小貫 恒夫 Tsuneo Onuki

1950年大阪生まれ、武蔵野美術大学舞台美術専攻。在学中より舞台美術および舞台監督としてオペラやバレエの公演に多数参加。85年より博報堂ドイツにクリエイティブ・ディレクターとして勤務。各種大規模イベント、展示会のデザインおよび総合プロデュースを手掛ける傍ら、欧州各地で風景画を制作。その他、講演、執筆などの活動も行っている。
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