84. 指揮者カルロス・クライバーさんのこと①
バイエルン国立歌劇場近くのプラッツル広場
カルロス・クライバーさんは、1930年にベルリンで生まれました。当時ベルリン国立歌劇場の音楽監督で大指揮者の父エーリッヒがナチスに反発し、彼が5歳だった時にアルゼンチンへと亡命。名前もカールからスペイン風の「カルロス」に改名されましたが、彼もこの名が気に入っていたようで、生涯カルロスで通しています。
第二次世界大戦後、カルロスはチューリッヒやデュッセルドルフの歌劇場で指揮者としての活動を始めました。その才能が開花したのは、バイエルン国立歌劇場に所属してから。初来日した際には、同歌劇場の引っ越し公演で「バラの騎士」を指揮しましたが、当時の私はまだ彼の存在を認識していませんでした。
クライバーの名が世界に知られるようになったのは、初のレコード録音であるベートーヴェンの交響曲第5番。その後に発売されたベートーヴェンの交響曲7番やシュトラウスのオペレッタ「こうもり」も話題になりました。颯さっそう爽としたテンポで変幻自在に操られた音楽には緊張感が漂います。今まで聴いたことがないワクワクする演奏で、音楽ファンの間で噂になったほどです。
2度目の来日は、1981年のミラノ・スカラ座による初の引っ越し公演。それだけでも話題になったのですが、2演目をクライバーが振るということで大騒ぎに。私も清水の舞台から飛び降りる覚悟で、全公演のチケットを押さえました。ところが来日が迫ったところで大きな仕事を抱え、とうとう一つも公演を観に行けませんでした。
来日公演が始まってから、たまたま時間が空いたある日、「そうだ、今日はクライバーの指揮でオテロがある!」と思い出し、会場のNHKホールへと急ぎました。開演間近だったので人影もまばら。係の人に「外から冒頭だけでも聴かせてもらいたいのですが」と尋ねると、「ちょっとだけなら」と優しい返事が返ってきました。係の人に付き添われ、外側の扉に耳を押し付けました。
クライバーが舞台に登場したのでしょう、割れんばかりの拍手が起りました。冒頭は、嵐の中、オテロが帰還してくるシーンです。シンバルのジャーンという音を合図に、ものすごい迫力で鳴り始めました。こりゃホールの中ではどえらいことが起こっているな……。嵐のシーンも収まったころで、「あの、そろそろ~」と係の人に促され、渋々会場を後にしました。