90. 指揮者アンドレ・クリュイタンスさんのこと
セーヌの水門跡(ブージバル辺り)
アンドレ・クリュイタンスさん、一度は生で聴いてみたかった指揮者でした。しかし彼が存命中に来日したのは1回だけ。1964年のことでしたから、私はまだ中学生で知る由もありませんでした。この演奏会を聴いた大学時代の音楽の先生によると、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の夜明けのシーン、フルートのソロが入ってくるところで、東京文化会館の天井が裂けて光が差し込んだように見えたそうです。
私が初めてクリュイタンスの存在を知ったのは、高校生の時でした。ベートーヴェンの交響曲全集が欲しくなって、どれを買おうかあれこれと迷ったのですが、彼の全集がお手ごろな価格で、アルバムジャケットの良さも手伝って購入したのです。初めて聴いた印象は、今までのドイツ系の指揮者による演奏とは違って、何とも明るく伸びやかでエレガントな演奏でした。後で知ったのですが、この録音は彼がベルリン・フィルに客演した後で、オーケストラ側から要望されて実現したものだそうですが、これはベルリン・フィルにとっても初の全曲録音でした。その後に発売されたラヴェルの「管弦楽全集」やビゼーの「アルルの女」など、何とも香り豊かな演奏で、すっかりクリュイタンスの虜になってしまいました。
私の知る限り、これらの曲は未だにこれ以上の演奏が出現していないかもしれません。例えば「ボレロ」では、途中でチェレスタにピッコロが絡んでくるシーンがあって、ここはあえて不協和音で作曲されています。大抵の演奏では不協和音として聞こえるのですが、彼の演奏では、ハッとさせられるほど絶妙に美しくハモっています。「アルルの女」に至っては、これを聴くたびにアルル周辺の情景が浮かび上がり、あの生暖かいミストラルに包まれるようです。
フランス音楽は優雅でほわっとしたイメージがありますが、金管などが時折揺れ動いて拳を利かせるシーンもありますし、ぞくっとするような怪しげな寂も隠れています。ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」や「古風なメヌエット」の中間辺りで聴こえてくる、まるで金属をバシャッと潰したような金管楽器の寂の入れようは、背筋がゾクッとして興奮すら覚えます。そんなクリュイタンスの演奏を生で聴いてみたいという思いは積もりましたが、1967年に62歳という若さで急逝してしまいました。