最終回. モネと睡蓮
モネのアトリエ
モネが30代に入ったころ、パリにいたほかの画家たちの多くは家族ができたこともあり、パリを離れて郊外へと引っ越していきました。彼らは絵の題材を求めていたのに加え、大きな家に住むには家賃の高いパリを離れるしかありませんでした。それに、鉄道の発展も彼らを後押ししたようです。
モネもまた、パリの北10キロほどにあるセーヌ川沿いの街アルジャントゥイユへ引っ越しますが、絵の売り上げは思わしくなく、苦しい生活を余儀なくされていました。そんな折、彼の絵を買ってくれていた百貨店の経営者オシュデが破産。仕方なく彼の大家族を引き取ったモネは、オシュデが持っていたヴェトゥイユの家に引っ越し、オシュデ夫妻と6人の子どもと共に奇妙な共同生活を始めました。
その頃からやっと絵も売れ始め、モネは1883年、いよいよジヴェルニーへと引っ越しました。ここは、今では説明の必要がないほど有名な観光地となっています。淡いピンク色の母屋、中央にバラのトンネルがある広大な庭。モネは、この庭の花の種類や植える場所まで事細かに指示をしていたそうです。そして庭の端っこのトンネルを抜けると、道路を挟んだ奥には睡蓮が咲く池があり、広大な庭園へと拡張されていきます。絵描きにとってモチーフを見つけるのは大変な作業ですが、彼は自宅内に毎日描いても飽きないモチーフを自ら作ったのでした。
浮世絵にも深い関心があったモネ。彼の母屋にはたくさんの浮世絵が飾られています。この睡蓮の池にも、念願だった太鼓橋を作りました。この頃には世界中から絵の購入者たちがモネの所にやってくるように。日本からも、現在西洋美術館に展示されている絵画を買うため松方幸次郎や、大原美術館にある睡蓮を購入するため児島虎次郎も訪れています。
そしていよいよフランス政府の要請により、モネはオランジェリー美術館の壁画「睡蓮」の制作に臨みます。もう85歳になっていたモネは完成させる自信がなく、初めは断っていたそうですが、時の文化相だったクレマンソーの説得でなんとか取り掛かりました。楕円形をした大きな展示室二部屋分の壁画は見事なもので、手が届くような距離感で描かれた情景は、まるでジヴェルニーの庭に迷い込んだように観る者を包み込みます。
この作品は、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの大作「天地創造」にちなんで、「パリのシスティーナ礼拝堂」といわれています。85歳にして、こんな大作を最後の力を振り絞って描きあげたモネには、敬服の念しか沸いてきません。
筆者よりごあいさつ
連載「水彩画からのぞく芸術の世界 Nebenweg 寄り道」は、今回をもって最終回とさせていただきます。パウル・クレーの作品に「Hauptweg und Nebenweg」という小さな絵があります。この絵では、人が歩むべき中心となる道もあれば、その周りの脇道も絶妙に絡み合っています。このコラムではそんな「寄り道」の面白さについてお伝えしてきました。2014年の連載開始時から長い間お付き合いいただいた読者の皆様に、感謝と御礼を申し上げます。