ジャパンダイジェスト

水彩画からのぞく芸術の世界 寄り道 小貫恒夫

41. マーラーの作曲小屋2 マイヤーニッヒ

41. マーラーの作曲小屋2-マイヤーニッヒ

アルタウス湖の船小屋
マーラーの作曲小屋(マイヤーニッヒ)

8年間とマーラーが最も長く滞在した二つ目の作曲小屋はオーストリアの最南部、スロベニアにほど近いヴェルター湖畔(Wörthersee)のマイヤーニッヒ(Maiernigg)に建てられました。湖は横に長く、濃いエメラルド・グリーンの水を湛えて透明度も高く綺麗な湖です。

湖北岸の中央辺りに位置するペルトシャッハ(Pörtschach)という小さな町はちょっとしたリゾート地となっていて湖沿いにはお洒落な店やホテルが立ち並ぶ遊歩道になっています。ここには2年に渡る夏のシーズンにブラームスが滞在し、「交響曲2番」をはじめ「ヴァイオリン協奏曲」や「子守唄」などの名曲を作曲しています。マイヤーニッヒは対岸の南東部に位置しますが、ブラームスがこの湖を訪れていたことも、マーラーがこの地を選んだ理由の一つかもしれません。

この当時のマーラーは指揮者としてはウィーン宮廷歌劇場の芸術監督、ウィーン・フィルの常任指揮者としても活躍し押しも押されもせぬ地位を獲得していました。そして、作曲家としても揺るぎない名声を博し、絶頂期を迎えていました。

このマイヤーニッヒには1899年に湖畔に建つ館と裏山の土地を購入したほどで、この地でじっくりと腰を据えて作曲に取り組む覚悟だったようです。1902年には41歳で23歳のアルマと結婚、そして長女マリア・アンナの誕生と私生活でも幸せの頂点でした。

ここで作曲された曲では何と言っても「交響曲6番」が最も名作として知られるところですが、この4楽章で叩かれる大きな木槌を巡ってさまざまな解釈がなされています(現在は2回叩くのが大方の解釈ですが、バーンスタインなどは3回叩かせました)。

こんな絶頂期にも関わらず神経質な彼は三つの不安を感じていました。一つ目は「家庭の崩壊」、二つ目は「社会的ダメージ」、そして三つ目は「自分の死」を恐れていました(マーラー自身の指揮では初演以外、三つ目は叩けなかったそうです)。

これらの予感は後々すべて当たってしまいますが、それよりも何を思ったのかリュッケルトの詩に啓発されて作曲した「亡き子をしのぶ歌」を発表しました。そしてすぐ後に、長女が忽然と亡くなってしまいます。その後、この土地をすべて売り払い二度と来る事はありませんでした。

 
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小貫 恒夫

小貫 恒夫 Tsuneo Onuki

1950年大阪生まれ、武蔵野美術大学舞台美術専攻。在学中より舞台美術および舞台監督としてオペラやバレエの公演に多数参加。85年より博報堂ドイツにクリエイティブ・ディレクターとして勤務。各種大規模イベント、展示会のデザインおよび総合プロデュースを手掛ける傍ら、欧州各地で風景画を制作。その他、講演、執筆などの活動も行っている。
www.atelier-onuki.com
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