43. マーラーのお墓(ウィーン、グリンツィング墓地)
グリンツィングの眺望
ウィーンを追われるように辞職させられたマーラーは新しい活路を求め、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の招きで1907年の暮れに渡米しました。2年後にはニューヨーク・フィルの常任指揮者も兼任することになり、ヨーロッパとは行ったり来たりの生活でした。当時は船旅ですから体力的にも相当厳しいことだったでしょう。トブラッハで9番目の交響曲を作曲していた頃の彼は、体力的にも精神的にも弱っていたはずです。
そんな折、元来疾患があった心臓病が悪化し、ニューヨークからウィーンへ戻って来ますが、3ヵ月後に亡くなります。息を引き取る直前に「モーツァルト」と二度いったそうです。お墓はウィーンの北西グリンツィング墓地に5歳で亡くなった長女マリア・アンナと一緒にウィーンの街を一望できる高台に眠っています。ユダヤ教の神殿門を連想させるような形の墓石はシンプルながら堅固な印象です。墓石上部に「GUSTAV MAHLER」としか刻まれていませんが、生前「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何物だったか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」と明言していたそうで、いかにもマーラーらしい発言です。墓石には沢山の石が乗っていますが、これは、かつて大戦中に多くのユダヤ人を救ったシンドラーの墓に誰かが置き始めたのが最初だそうで、ユダヤ教では永遠性や不滅の意味が込められているそうです。
さて、妻だったアルマもこの墓地に眠っているのですが、このお墓は、まず三角形の石版が目立っていてそこには「MANON GROPIUS」と刻まれています。それはグロピウスとの間に生れた娘マノンで、19歳で急死しています。若い頃、子供と引き離された過去があるアルバン・ベルクは、友人であったアルマの子を我が子と重ねるように可愛がっていたそうで、すぐさま作曲したヴァイオリン協奏曲を「ある天使の追想に」と題し、思いを込めています。唯、この曲は彼自らへのレクイエムともなってしまいました。アルマの名前は背景のように建てられた青銅版に示されていますが、そこには「ALMA MAHLER WERFEL」と刻まれています。Werfelは最後の夫でマーラーとは死別なのでダブル・ネームなのでしょうか……。マーラーのお墓から通路を挟んで4つほどずれた裏側に面していて、二人の微妙な関係を象徴しているようです。