ジャパンダイジェスト

水彩画からのぞく芸術の世界 寄り道 小貫恒夫

46.シューマンとブラームス

46. シューマンとブラームス

小屋
ライン沿いの旧市街地(デュッセルドルフ)

シューマンとブラームスの最初の出会いは私の住んでいる街、デュッセルドルフでした。

それはシューマンが刊行していた「新音楽時報」の中で「バッハに始まりベートーヴェンを頂点とした正統ドイツ音楽の重要性と回帰」を読み感銘を受けたブラームスが、共通の知人だった名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの紹介状を持って、ハンブルクからこのビルカー通り15番のアパートを訪れたのでした。

早々に持参してきたピアノ・ソナタの1番を披露したところ、シューマンは一旦演奏を止めさせ、別室にいたクララを連れてきて「もう一度最初から弾いてくれないか」と頼むほどでした。この青年に輝かしい才能を見い出したシューマンはその後「新しい道」と題した論評でブラームスを紹介し、20歳にして音楽界に知られる存在となりました。すっかり気に入られたブラームスは1カ月間滞在していますが、その後クララとは生涯にわたり付き合うことになるとは、この時は想像もできなかった事でしょう。

この訪問はシューマンにとっては久しぶりの明るい出来事でした。というのも、彼はデュッセルドルフに来る前から、相当酷い精神病を患っていました。

クララとの結婚を巡り、彼女の父親から執拗に反対されたことが病の原因の一つだと指摘する人もいます。この時の精神的ダメージが大きな影となって、シューマンに圧し掛かっていたのでしょうか。

このデュッセルドルフではオーケストラと合唱団の音楽監督という立場でしたが、作曲された代表作は何といっても「ライン」と副題が付いた交響曲3番でしょうか。初めて見るライン川に感銘を受け、そこに尊厳すら感じ取り、とうとうと流れるライン川の力強さや憧れ、そしてウキウキとした気分までをも表現しています。この曲からは到底、彼の精神状態は想像できませんが、1854年2月のカーニバルの日にライン川に掛かる橋から身を投げてしまいます。(この橋は現在はありませんが、ブルク広場の大階段辺りに船を連ねた上に橋桁を架けただけの低い橋があったことが当時の挿絵からうかがえます)この時はたまたま通りかかった漁船に助けられますが、入院したボン近郊の療養所では十分な治療を受ける事もできず、2年後に亡くなってしまいます。

 
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小貫 恒夫

小貫 恒夫 Tsuneo Onuki

1950年大阪生まれ、武蔵野美術大学舞台美術専攻。在学中より舞台美術および舞台監督としてオペラやバレエの公演に多数参加。85年より博報堂ドイツにクリエイティブ・ディレクターとして勤務。各種大規模イベント、展示会のデザインおよび総合プロデュースを手掛ける傍ら、欧州各地で風景画を制作。その他、講演、執筆などの活動も行っている。
www.atelier-onuki.com
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