51. 晩年のブラームス(ウィーン)
「赤いハリネズミ」へのオマージュ
地下鉄を降り、ムジークフェライン(楽友協会)へ向かう途中、道路を挟んだカールス・プラッツの木陰には、椅子に座って物思いにふけっているかのようなブラームス像が見え隠れしています。演奏会がある日はいつも、この像を眺めながら、向こうのカールス教会の方から歩いて来たであろうブラームスの姿に思いをはせています。指揮者としても活躍していた彼は、ムジークフェラインまで、近くにあった自分のアパートからきっと歩いて来たに違いありません。
今日、演奏会のプログラムは色々な作曲家を取り上げますが、この形を最初に取り入れたのがブラームスだと言われています。その頃はコンサート専門の指揮者は未だ少なく、一般的には作曲家が自らの作品だけを発表するのが恒例でした。ブラームスを擁護していたハンスリュックと言う音楽評論家が、同時期に活躍していた作風の異なるブルックナーを攻撃していたので、二人は不仲だったというのが定説でしたが、同じウィーンに居る作曲家同士がそれではいけないと、一度連れ立ってブラームス行きつけのレストラン「赤いハリネズミ」へ行ったそうです。ここでは2人とも「クヌーデル」が好物であることが判明し大いに意気投合したそうで、その後はある時は一緒に、またある時は偶然この店で出会ったそうです。こんな大作曲家のおじいさん2人が寄り添って歩いていたなんて、想像するだけで微笑ましく楽しくなってきます。ちなみに「赤いハリネズミ」も現存しませんし、アパートも工科大学拡張のため取り壊されてしまいました。私にとっては大学よりも大事だったのですが……。
大作曲家となった晩年のブラームスには多額の印税が入ってきましたが、彼は質素な暮らしを変えることはありませんでした。このムジークフェラインが新しく建てられる際も多額の寄付をし、その小ホールはブラームス・ザールと冠されました。また、没後に分かったそうですが、匿名で孤児院へ寄付を続けていたそうです。
そんな彼の晩年の作品で「間奏曲」がありますが、これは思い立った時にスケッチをするように書き溜めたピアノの小品集です。ここでは過ぎ去ったいにしえへの思いや心情の細やかな動きを穏やかななかにもシミジミと味わい深く醸し出されています。さて、今夜はグレン・グールドの演奏でも聴こうかな……。