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特集


その目に映る世界とは 子どもたちのドイツ

公園を走り回る、果物や生野菜をポリポリ食べる、大人にもはっきり意見を言う、時にはデモに参加する。そうした子どもたちの姿が、ドイツの日常の中にある。 しかし、彼らが日々何を感じているのか、その内側を私たちはどれだけ知っているだろうか。本特集では、「子ども」の定義や歴史をはじめ、彼らへのインタビュー、そして子どもがつくる街「ミニ・ミュンヘン」などから、その存在をひも解く。それは翻って、私たち大人、そしてドイツという国を見つめ直すことにもなるかもしれない。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

女の子がホースでお花畑に水を撒いている

その権利・責任はいつから? 子どもから大人への道のり

ドイツでは、18歳が成年年齢。しかし突然「大人」になるのではなく、段階的に社会の一員としての権利と責任を手にしていく。飲酒、結婚、選挙権など、ドイツの法律が示す大人と子どもの境界線を眺めてみよう。

参考:Familieninfo「Was dürfen Kinder in welchem Alter?」、Kindersache「Taschengeldparagraph」、Trennung.de「Wer entscheidet über Religion des Kindes?」

7歳

お小遣いでの買い物

自分のお小遣いの範囲で買い物することが法的に認められる。親の許可なしにアイスやお菓子、少額のおもちゃなどを買えるが、高額なゲーム機やスマートフォンなどは購入できない。

10〜12歳

宗教への意見

10歳からは、親が子どもの宗教を変更しようとする際、必ず子どもの意見を聴かなければならない。さらに12歳からは本人の同意なしに、親の意思だけで宗教を変更させることはできなくなる。

13歳

軽作業が可能に

親の同意があれば、「軽作業」(新聞配達、庭仕事など)が可能に。ただし、1日2時間まで、かつ学校に支障がない時間帯に限られる。なお13歳未満でも、映画や演劇への出演は例外的に許可される。

14歳

精神的・法的に大きな節目

❶ 宗教の自己決定
親の同意なしに、自らの信仰を自由に決定できる権利を持つようになる。

❷ 少年法の適用
犯罪を犯せば少年法に基づき罰せられる可能性がある。

❸ 性交同意年齢、および法的な性別・名前の自己決定
性的行為に対して同意する能力があるとみなされる(日本は16歳)。また、親権者の同意があれば(診断書不要)、法的性別および名前の変更が可能に。

❹ 法的な呼称の変更
Jugendschutzgesetz( 青少年保護法)上、14〜17歳は「Kind」(子ども)ではなく「Jugendliche」(青少年)と呼ばれる。

❺ 飲酒の第1段階
保護者が同伴し承諾がある場合に限り、公共の場でビールやワインを飲むことができる。

15歳

本格的な就労が可能に

1日8時間、週40時間まで働ける(ただし夜勤や危険作業は禁止)。また、多くの若者がアウスビルドゥング(職業訓練)を開始する年齢でもある。

16歳

政治と自由の拡大

❶ 地方選挙権
多くの州で、市町村議会選挙や州議会選挙の選挙権が与えられる。一部の地方では、選挙への立候補も可能に。

飲酒の第2段階
保護者の同伴がなくても、自らビールやワインを購入・飲酒できるようになる。

❸ 身分証の所持義務
公的な身分証明書の所持が義務付けられる。国家が一人の市民として個別に管理・認識するという境界線だ。

❹ 深夜の娯楽
ダンスホールやクラブへの出入りが、保護者なしでも24時まで許可される。

17歳

本条件付きで車を運転

普通自動車の免許試験を受けることができ、合格すれば運転が可能に。ただし18歳になるまでは、経験豊富な成人の同乗が義務。

18歳

成人になり全ての制限が解除

❶ 法律行為の完全な自由
親の同意なしで、アパートの賃貸やクレジットカードの契約ができる。

❷ 国政選挙権・被選挙権
連邦議会選挙の投票、および選挙への出馬も可能に。

❸ 飲酒の第3段階
蒸留酒を含む、全てのアルコール類の購入・飲酒が解禁。

❹ 単独での運転
正式な運転免許証が付与され、同乗者なしでも車を運転できるようになる。

❺ 結婚
ドイツでは2017年の法改正により、例外なく18歳以上でなければ結婚できない。

〜20歳

少年法の保護が継続

18〜20歳は「Heranwachsende」(成長期にある者)として、法律上は成人だが、犯行時の精神的な成熟度が「青少年に近い」と判断された場合、成人刑法ではなく少年法が適用されることになっている。厳しい刑罰を与えることよりも、教育的な働きかけによって再犯を防ぐことが目的とされている。

〜25歳

自立を社会が支える

児童手当「Kindergeld」(2026年7月現在、月額259ユーロ)は、子どもが大学などの高等教育を受けている場合、最長で25歳になるまで親が受け取ることができる。この制度により、親が引き続き子どもをサポートし、若者は経済的な不安を抑えて自分の専門性を高めることに専念できる。

中世に「子ども」は存在しなかった!?ドイツと子どもを巡る歴史

子どもたちは、その時代その時代で違う姿を見せていた……というよりも、大人から時代ごとに異なるまなざしを向けられてきた、と言った方が正しいかもしれない。ドイツの歴史を軸に、この国における子ども観の変化を追う。

参考:フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』、元森絵里子『はじめての子ども論』、マルギッタ・ロックシュタイン『遊びが子どもを育てるフレーベルの〈幼稚園〉と〈教育遊具〉』、bpb.de「Verbot von Kinderarbeit」「Bevölkerung mit Migrationshintergrund」、川﨑 聡史「西ドイツにおける自主管理型保育施設「キンダーラーデン」―68年運動後の新しい幼児保育の思想と実践に関する考察―」、柏木恭典「ドイツにおける「アウシュヴィッツ以後の教育」の理論と実践」

中世の「小さな大人」から近代の「子ども」へ

今日、子どもは「保護すべき特別な存在」として当然視されているが、20世紀のフランスの歴史家フィリップ・アリエスは、1960年に出版した『〈子供〉の誕生』(みすず書房)で、中世ヨーロッパには子どもを特別視する感覚がなく、子どもは「小さな大人」として扱われていたと主張した。絵画では子どもが大人と同じプロポーションで描かれ、7歳を過ぎれば大人と同じ服を着ていたという。しかし13世紀以降、ドイツを含む西欧で天使や幼子イエスが子どもらしい姿で描かれ始め、17世紀には上流階級の子ども向けに専用の服装が登場した。

子どもへのまなざしが歴史的・近代的なものだというアリエスの主張は、近代的子ども観の誕生を示すものとして世界的に受け入れられていった。この説はその後、上流階級の絵画や日記という限られた史料に依存しすぎていたとして批判されているが、17世紀以降に子ども期を保護し、教育すべき特別な時期とする社会システムが誕生したこと、それこそがアリエスの発見だった。

ピーテル・ブリューゲルの「子供の遊戯」1560年に描かれた、ピーテル・ブリューゲルの「子供の遊戯」(部分、ウィーン美術史美術館蔵 / Google Art Projectより)。この絵の子どもたちは、今日の私たちが想像するような子どもらしい体つきではない

「キンダーガルテン」の誕生と義務教育の普及

産業革命により都市化が進んだ19世紀、ドイツで「子ども」を再定義する動きが生まれた。1840年、教育者のフリードリヒ・フレーベルがバート・ブランケンブルクに世界初の「キンダーガルテン」(幼稚園)を創設。この名称は「子どもの庭」を意味し、子どもが自然の中で自由に育つべきだという理念を表している。フレーベルは子どもを「植物」に例え、成長環境を整える教師や親を「庭師」とし、「遊び」を教育の中心に据えた。

一方、産業化は子どもを工場労働にさらした。プロイセンは1839年に児童労働保護法を制定し、9歳未満の児童は工場、鉱山、製錬所、または選鉱所で働くことが禁止された。さらに18世紀以降に各州で法制化されていた義務教育も、19世紀を通じて実効化が進み、子どもは「労働力」ではなく「社会が育てるべき存在」として位置づけられ始めた。

ヨハン・シュペル「Kindergarten」ドイツの画家・ヨハン・シュペルによる絵画
「Kindergarten」(1885)

ナチス期の「国家の道具」としての子ども

1933年、ナチス政権が誕生すると、子どもは「国家の未来」として徹底的に管理されるようになった。1936年にヒトラーユーゲント法が制定され、1939年には10〜18歳の全ての子どもに青少年組織「ヒトラーユーゲント」への加入が完全に義務化。子どもたちには、軍事訓練や人種思想の教育が徹底的に行われた。

さらにナチスは、「生命の泉」(Lebensborn)計画を通じて、青い目に金髪という身体的特徴を持つ「アーリア人種」の出生を奨励。未婚の母を支援し、SS(ナチス親衛隊)隊員との子どもを国家が育成する施設を設置した。また、占領地から「アーリア的」特徴を持つ子どもを誘拐し、ドイツ人家庭で養育するドイツ化を行った。

この時代には、親の権利は国家の利益の前に無力化され、子どもは完全に「国家のもの」とされたのだ。戦後、これらの子どもたちは「ヒトラーの子ども」と呼ばれ、アイデンティティや差別に苦しんだ。この暗黒の歴史が、戦後ドイツの子どもの権利議論の強力な反動となる。

古い白黒写真:複数のドイツ人看護師が赤ちゃんを乳母車に乗せて外を散歩している風景1945年、「生命の泉」計画のもと、赤ちゃんを外に連れ出して新鮮な空気を吸わせるドイツ人看護師たち

権威主義からの脱却と子どもの解放

第二次世界大戦後、西ドイツでは脱ナチス化教育が進められ、権威主義の否定が最優先課題となった。哲学者テオドーア・アドルノは1966年の講演「アウシュヴィッツ以後の教育」で、ファシズムを克服するには自ら反省し、自分で決定し、人に同調しない力が必要であり、そのためには幼年期初期の教育、そして教育による啓蒙が重要であると説いた。

さらに1968年の学生運動は、西ドイツ社会全体に権威主義への抵抗を呼び起こし、子ども観にも変化をもたらす。活動家たちは「キンダーラーデン」と呼ばれる自治的な保育施設を造り、子どもの自主性を最大限尊重した。また、1972年には教師による体罰が禁止され、1980年には民法上の「親権」(elterliche Gewalt)という用語が、「親の配慮」(elterliche Sorge)へと変更されるなど、子どもは「親の所有物」ではなく、「独立した人格」として扱われるべきだという思想が、社会に浸透していった。

古い白黒写真:子どもたちと学生がテーブルについて何かを食べている1971年、ボーフムにつくられた反権威主義を掲げる自治保育施設「キンダーラーデン」にて、同じテーブルを囲む学生と子どもたち

多文化社会と子どもの権利の行方

1990年のドイツ再統一後、子どもの権利は法的に整備されていった。1992年には国際連合の「子どもの権利条約」を批准(当初は留保付き、2010年に完全適用)。国内では2000年に家庭内を含め、子どもへの暴力的なしつけが明確に否定され、2011年には保育施設や児童遊園などから出る子どもの声や音が「騒音」から除外された。これは、子どもが子どもらしくいられる社会を保障しようとする姿勢でもある。

また2015年の難民受け入れ以降、多文化社会としての課題がいっそう可視化した。ドイツ語習得への壁、戦争や移動のトラウマ、経済的な困窮や社会的孤立など、移民・難民の子どもたちに対する支援は引き続き急務となっている。

さらに、「子どもの権利」を巡る新たな議論も続いている。現行の基本法第6条では、「子の養育および教育は、親の当然の権利であり、かつ親に第一に課せられた義務である」と定めており、子どもは親の権利の対象として描かれる側面が強い。それに対し、子どもを「独立した基本権を持つ主体」として明記すべきだという議論が繰り返されてきた。2021年には基本法改正案が議論されたが、保守派と革新派の間で合意に至らず実現しなかった。

「小さな大人」から「保護すべき存在」になり、戦時下には「国家の道具」として利用され、そして「独立した権利主体」へ。気候危機や戦争、人工知能(AI)の普及などによって激動の時代を迎える今、ドイツの子ども観は今なお変化の途上にある。

学校のクラスルーム、2人の女の子が本を見ている。うしろには男の子2024年には5歳未満の42.6%が移民背景を持つまでになり、「多様性」が子ども社会の日常となった

集団主義と手厚い支援の間で
東ドイツの子どもたち

東ドイツ(DDR)では、多くの子どもが社会主義少年団「ピオニール」に加入し、集団主義と労働者階級の価値観を学んだ。子どもは社会主義国家の未来の担い手とされ、個人の自由よりも集団への貢献が重視された。また、東ドイツは女性の就労率が高く、そのため保育所なども高度に発達していた。

さらに、社会主義体制下では親の所得格差が小さく、居住区も職域に基づいた配置が多かったため、近隣住民同士の結びつきが強く、地域全体で子どもを見守る互助的な雰囲気があったともいわれる。そのため孤立する子どもが少なかったともいわれるが、これは同時に国家による監視体制の一部でもあった。集団主義か、社会的支援かという評価は分かれるが、東ドイツもまた、そこにあるべき子ども像を持っていたのだ。

制服を着て整列している東ドイツの子どもたち1976年、ドイツ社会主義統一党傘下の青年組織「自由ドイツ青年団」の第10回大会の開会式に参加するピオニールの子どもたち

その姿が時代を映す 物語に登場する「ドイツの子ども」

厳しいしつけの対象から、戦争の犠牲者、大人を救ったり導いたりする存在まで、物語に登場する子どもたちはさまざまな形で描かれてきた。ドイツで有名な物語の中から、5人(組)の「子ども」をご紹介する。

大人にしつけられるべき「子ども」 マックスとモーリッツ

『Max und Moritz』
『Max und Moritz』
著者:ヴィルヘルム・ブッシュ
出版社:Schwager & Steinlein Verlag

画家・詩人のヴィルヘルム・ブッシュが1865年に発表した絵本『Max und Moritz』(未邦訳)に登場する、いたずら好きの少年、マックスとモーリッツ。二人は村中で悪さを働き、仕立て屋を川に落とし、叔父のベッドに袋いっぱいのコガネムシを入れる。しかし最後には粉挽き機で粉々にされ、アヒルのエサにされてしまうという衝撃的な結末を迎えるのだ。19世紀ドイツのしつけの厳格さがブラックユーモアと共に描かれている。

戦争の犠牲になった「子ども」 フリードリヒ

『あのころはフリードリヒがいた』
『あのころはフリードリヒがいた』
著者:ハンス・ペーター・リヒター
訳者:上田真而子
出版社:岩波書店

作家のハンス・ペーター・リヒターがヒトラー時代の経験をもとに執筆し、1961年に発表した『あのころはフリードリヒがいた』(岩波書店、原題『Damals war es Friedrich』)。ユダヤ人の少年フリードリヒとドイツ人の「僕」は、同じアパートに住む親友。しかしナチスが政権を握ると、フリードリヒの人生は破壊されていく。学校から追い出され、父は職を失い、母は殺され、家を奪われ、最後は空襲のさなか防空壕へ入れてもらえず命を落とす。

家族を救う「子ども」 ロッテとルイーゼ

ロッテとルイーゼ
1950年に西ドイツで発表された映画「Das doppelte Lottchen」(写真)で、ロッテとルイーゼを演じた二人。本作には、ケストナー本人も出演した

作家のエーリッヒ・ケストナーが、1949年に発表した『ふたりのロッテ』(岩波書店、原題『Das doppelteLottchen』)。サマーキャンプで偶然出会った、顔がそっくりな二人の少女、ロッテとルイーゼ。実は、両親の離婚によって離れ離れになった一卵性双生児の姉妹だった。二人はお互いに入れ替わり、別れた両親を再び結びつけようと計画。二人の少女が家族を救うために奮闘する。

大人を導く「子ども」 モモ

モモ
1986年に西ドイツ・イタリアで制作された映画「Momo」。映画の冒頭には、原作の「あとがき」に登場する謎めいた旅人の役で、エンデ本人も出演している

児童文学作家のミヒャエル・エンデが1973年に発表した『モモ』(岩波書店、原題『Momo』)。街外れの円形劇場に住み着いた不思議な少女モモには、人の話を心から聞く才能がある。モモは人々から時間を盗む「灰色の男たち」に立ち向かい、効率ばかりを追い求めるようになった大人たちを救い出す。子どもの方が物事の本質を見抜き、大人を導くという構図が描かれている。

多様な背景を持つ「子ども」 マイクとチック

マイクとチック
本作は2016年に映画化され、日本では『50年後のボクたちは』のタイトルで公開された。監督は、「ソウル・キッチン」などで知られる名匠ファティ・アキン

2013年に48歳で早世した作家ヴォルフガング・ヘルンドルフによる児童小説『14歳、ぼくらの疾走:マイクとチック』(小峰書店、原題『Tschick』)。マイクは学校では冴えない存在。そこに転校してきたのが、ロシア系移民の少年チックだった。二人は盗んだ車で夏のドイツを駆け抜ける。短い旅の間、彼らは学校や家庭という「社会のルール」から離れ、やがて国籍や出自を超えた友情が生まれる。


ドイツで暮らす子ども15人に聞いた子どもなんでもアンケート

子どもたちは、日々どんなことを考えながら生きているのだろうか?ドイツで暮らす6〜18歳の子どもたちに、将来の夢をはじめ、子どもが大人に求めること、社会問題への意見まで、幅広く質問を投げかけてみた。

※アンケートに協力してくれた子どもたち(Freddi、ボボ、さら、なな、羽惺、Akim、はると、Kenji、Hannah、A、Mo、Nina、B、K.B.、Oz)とその保護者の皆さまに、この場を借りてお礼申し上げます。 
※回答はあくまで個人の意見です。

何をしているときが一番幸せ?

  • おいしい料理が自分で作れたとき(Akim/10歳)
  • ベッドの上でスマホを見ているとき(K.B./17歳)
  • ソファーの上にいるときが幸せ!(さら/9歳)
  • 友だちと遊んでいるとき(はると/11歳)
  • 家族と休暇に行くとき(A/12歳;
  • バスケットボール(ボボ/9歳)
  • サッカー(Freddi/6歳)
  • 絵を描いているとき(Oz/18歳)
  • マインクラフト(なな/9歳)
  • 乗馬をしているとき(Mo/14歳)

最近の一番の悩みは?

  • どうすればテストの結果がもっとよくなるか(はると/11歳)
  • うまくやらなきゃというプレッシャー(Oz/18歳)
  • 自分で立てた目標を達成できないとき(Nina/14歳)
  • 留年すること(Hannah/12歳)
  • 友だちができない(Kenji/12歳)
  • 死ぬことが怖い(ボボ/9歳)
  • トランプ大統領(B/14歳)
  • 特にない。だけど、クラスでのもめ事がなくなればいいなと思っている(羽惺/9歳)
  • 太ってしまうこと(Mo/14歳)

ドイツの子どもが好きなもの、最近流行っているものといえば?

  • 誕生日パーティー(Akim/10歳)
  • Zocken(PCゲームやビデオゲームをすること)(B/14歳)
  • マインクラフトとポケモンカードは人気(Oz/18歳)
  • 木で何か作ること(なな/9歳)
  • 友だちとサッカーをするのが最高に楽しい!(Freddi/6歳)
  • LEGAMIという文具メーカーが出しているLöschbare Gelstifte(こすると消えるフリクションペン)(羽惺/9歳)
  • K-Pop(なな/9歳)
  • 676767676767*(Akim/10歳)
    *小中学生やZ世代の間で大流行しているネットミーム。言葉自体に明確な意味はないが、「シックス・セブン」と叫んで盛り上がったりする

ドイツの子どもが嫌いなものといえば?

  • 学校が8時に始まるから、早く起きなきゃいけないこと。日本は9時からでしょ?(Akim/10歳)
  • 宿題やテスト。1週間にテストが三つあって、さらに宿題がある時とか (はると/11歳)
  • 写真に写りたくないと言っても写らされること、髪を洗うこと(Freddi/6歳)
  • 早く寝なきゃいけないこと、一人で遊ぶこと(Oz/18歳)
  • ブロッコリーと、女の子はあんまり算数が好きじゃない子が多い気がするな。どっちも私は好きだけど(なな/9歳)
  • ローゼンコール(芽キャベツ)(羽惺/9歳)
  • 日本の料理はあまり人気がない気がする。僕のクラスでは、僕以外におにぎりが好きな子が一人だけしかいない(ボボ/9歳)

将来は何になりたい?

  • パイロット(はると/11歳)
  • 俳優(Kenji/12歳)
  • スタイリスト (Nina/14歳)
  • 具体的な希望はないけれど、安定していて働きやすい職場がいい(A/12歳)
  • いろいろある。マンガ家、AI研究者、科学者(さら/9歳)
  • サッカー選手か、何かの研究者になろうかな(Freddi/6歳)
  • ITの専門家(Oz/18歳)
  • アーティスト(なな/9歳)
  • 車のデザイナー(羽惺/9歳)
  • まだわからない(Mo/14歳)

大人と子どもの違いは何だと思う?

  • 大人は仕事など、やることがいっぱいある。ビールが飲める (はると/11歳)
  • 経験や知識の多さや、世界の見方。大人は、違う人の目線からものを見られる(K.B./17歳)
  • 大人はいつも厳しいけど、子どもは実際のところ何にもこだわっていない(Kenji/12歳)
  • 子どもはもっと楽しく生きられる。大人は冷静(ボボ/9歳) 
  • 大人の方が責任がある(Nina/14歳)
  • なぜか子どもの方がするどい!?(さら/9歳)
  • 大人になるということは、成人して、いろいろなことができるようになること。子どもは(いい意味で)まだ「管理」されている(Hannah/12歳)
  • 大人は子どものことを決めていい(Freddi/6歳)
  • 大人は大きい。大人はいろいろなことをやっていい。大人はときどきベイビーみたい(なな/9歳)

もし1日だけ大人になれたら何をしたい?

  • 飛行機を操縦したり、車や電車も運転してみたい。旅に行ってみたい(はると/11歳)
  • お酒を飲む(ボボ/9歳)
  • ホームパーティーに行きたい(Nina/14歳)
  • 子どものことについて(大人がやっているように)決める(Freddi/6歳)
  • 絶対バイクに乗りたい!(Kenji/12歳)
  • カウチポテトになる(一日中ソファでごろごろしてゲームをしたりテレビを見たりする)(なな/9歳)
  • 車の運転をしたい(運転免許取得のため貯金をしている)(羽惺/9歳)

大人にこうしてほしいと思うことは?

  • 宿題を減らしてほしい(なくしてほしいとは思わない) (はると/11歳)
  • 特にない。(ビールを)飲み過ぎなければだけど(Kenji/12歳)
  • 子どもには小さい頃から、大人が怒る理由を教えてあげてほしい。僕は小さい頃から親に「怒ることは愛している証拠だ」「心配してるから怒ってる」って言われてきて、思春期にそのことを思い出して救われた(K.B./17歳)
  • もっとドイツ国内や外国の政治に気を配ってほしい(B/14歳)
  • 大人は自分たちの未来だけでなく、子どもの未来にもっと目を向けるべき (Nina/14歳)
  • もっとかまってほしい☆(さら/9歳)
  • 大人はそれほど多くのことを変えたり、違うやり方をしたりする必要はないと思う。少なくとも私の両親に関しては(Hannah/12歳)
  • 性別による役割を押し付けないで、子ども一人ひとりに合わせた教育や接し方をしてほしい(Oz/18歳)
  • 子どもにあまり厳しくしないで。大人は子どもたちの生活について、全てを知っているわけではない。子どもたちにも、他人に話したくない悩みもある。だから、あまりプレッシャーをかけない方がいいと思う(Mo/14歳)

子どものイラスト

これどう思う? 社会に対する子どもたちの声

子どものSNS利用禁止

ドイツでもソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)利用による子どもの心理問題が深刻化している。今年6月、ドイツ政府が任命した専門家委員会は、13歳未満の子ども自身によるSNS アカウントの運用を禁止するとともに、プラットフォーム事業者に厳格な子ども保護策を義務付け、さらに「デジタル・ネグレクト」を防ぐため親の義務を導入することを検討すべきだと提言。与党キリスト教民主同盟(CDU)と社会民主党(SPD)はすでに利用制限への支持を表明しており、今後さらに議論が活発化されると思われる。オーストラリアでは昨年12月、世界で初めて16歳未満のSNS利用を禁止する法律を施行したが、年齢確認の抜け穴などの課題も指摘されている。

参考:Deutschlandfunk「Verbieten oder nicht verbieten – das ist hier die Frage」

賛成

  • 変なものを見ちゃったり、やばいボタンを押しちゃったりするから (はると/11歳)
  • 僕は昔はずっと本を読んでいたけど、スマホを持ってからは年に4回くらいしか読まなくなった。だから、ほかの子には同じ間違いをしてほしくない(K.B./17歳)
  • ソーシャルメディアは集中力を損なうだけでなく、過激で政治的な色合いが強いし、誤った情報も溢れている。子どもは、まだそれらを正しく判断することができないと思う(Oz/18歳)
  • 子どもたちには、まだ一定のコントロールが必要だと思う(A/12歳)

反対

  • 今からSNSを禁止にするにはもう遅いんじゃない?(B/14歳)
  • 別に子どもだって使ってもいいと思う。インスタとかHiveとか。TikTokは知らないな(なな/9歳)
  • 禁止することには反対だけど、画面を見ている時間を制限するとか、何かしらの対策は必要だと思う(Mo/14歳)
  • 毎日1時間だけとか制限を設ければ使ってもいい(ボボ/9歳)
  • 自分自身で使い方を決められるようにするべき。子どもに良くない面もあるけど、SNSとうまく付き合っている子もいる(Hannah/12歳)

戦争

Shell青少年調査(2024年)によると、ドイツの青少年における欧州での戦争への恐怖が急増している。81%が欧州での戦争を最大の懸念としており、2019年の46%から大幅に増加。ロシアのウクライナ侵攻について60%が非難しているほか、ドイツのウクライナへの軍事支援については約半数が支持、4分の1が反対している。

参考:tagesschau「Angst vor Krieg nimmt unter Jugendlichen zu」

みんなの声

  • 心配だし、戦争をやっている大人は本当にバカだ(A/12歳)
  • 一度始まったら後戻りはできないし、子どもは何もできない(B/14歳)
  • 戦争は、どんな形であっても間違ってると思う(Nina/14歳)
  • 気にしない、いつかスイスに引っ越すつもりだから(Akim/10歳)
  • 戦争は残酷だし、もちろんその可能性を恐れている。でも、だからといって全てを諦めて無力感に絶望するのではなく、それでも人生を生き抜くべきだと思う(Oz/18歳)
  • 戦争がなくなってほしい。どうして男は戦争に行かないといけないの?(羽惺/9歳)

ベジタリアン・ヴィーガンの食事

iconkids & youthが2022年に実施した調査によると、ドイツの子どもの63%が肉食で、「肉をおいしく食べ、今後も減らすつもりはない」と回答した。一方、ベジタリアン・ヴィーガンは5%、ペスカタリアン(魚は食べる)は3%、29%がフレキシタリアン(肉をあまり食べない、または減らしたい)だった。ベジタリアンを選択する理由は、動物福祉(55%)、同情心(54%)、環境への配慮(52%)など多様だ。

参考:tagesschau「Angst vor Krieg nimmt unter Jugendlichen zu」 und nur 5% Vegetarier」

みんなの声

  • ベジタリアンやヴィーガンの人が、肉や魚を食べることを批判したりしない限りは、問題ないと思う(Hannah/12歳)
  • 私はベジタリアンだけど、最近はヴィーガン食を取ることが増えてる。工場畜産には根本的に反対で、畜産方法の改善だけでなく、動物や消費に対する社会的な意識改革も必要だと思う(Oz/18歳)
  • お肉を食べない人がいてもいいと思うけど、全員が食べなくなったら地球上が動物だらけになるかな?(Freddi/6歳)
  • 幼稚園のときにちょっとだけベジタリアンをやってみたことがる(なな/9歳)
  • お肉が多すぎるのは好きじゃないから、時々はヴィーガン食にする(羽惺/9歳)
 

子どもがつくる「遊びの都市」 ミニ・ミュンヘンに魅せられて

2年に一度、3週間だけミュンヘンに現れる子どもの街「ミニ・ミュンヘン」。子どもたちは労働や納税をしながら、自由な発想と遊びでこの街を営む。基本的に大人は入れないが、実は舞台裏を支える大人スタッフの多くは、かつてのミニ・ミュンヘン市民だ。ミニ・ミュンヘンが子どもたち、そしてこの街を巣立った大人たちをも魅了し続ける理由とは。本イベントのプレス担当者であるイネス・バイヤーさんに聞いた。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

子どもたちが舞台裏で遊ぶ様子

「ミニ・ミュンヘン」とは?

7〜15歳までの子どもがつくる「遊びの都市」(Spielstadt)で、2年に一度、8月の夏休み期間に3週間だけ存在する。初開催は1979年。この取り組みは今ではドイツだけでなく世界各地に広がっており、日本でも横浜市の「ミニ・ヨコハマシティ」などがある。

第23回となる今年は、8月3日(月)〜21日(金)に開催予定で、ミュンヘン市北部の「ショーパラスト」とその周辺施設を含む約3ヘクタールが会場となる。期間中は毎週月曜〜金曜の10〜17時に開かれており、1日約1700人、期間を通して合計約2万5000人以上の子どもたちが訪れる。詳細は公式ウェブサイト(www.mini-muenchen.info)をチェック!

「次の停車駅は、ミニ・ミュンヘン!」

8月のミュンヘン、地下鉄U6線に乗っていると、いつもとは違うアナウンスが流れてくる。「次の停車駅は、ミニ・ミュンヘン!」。フリュットマニング駅で数百人の子どもたちが下車し、会場の「ショーパラスト」へと駆けていく。7〜15歳までの子どもたちが市民となり、独自通貨「ミミュ」(MiMü)を稼ぎ、選挙で市長を選び、時にはデモを起こす……。そんな小さな都市が、2年に一度、3週間だけこの場所に出現する。大人はシティーツアーに参加するか、16時30分以降の子どものお迎えでしか入ることができない。

「最終日、帰りの地下鉄の中で泣いている子どもたちを見かけたことがあります。『あぁ、ミニ・ミュンヘンが終わってしまった。あと2年待たなきゃいけないなんて』と。それを聞いて、私もうれしくて泣きそうになりましたよ」。そう語るのは、ミニ・ミュンヘンのプレス担当者、イネス・バイヤーさんだ。これほどまでに子どもたちを惹きつける都市は、いかにして生まれたのだろうか。

子どもたちの長蛇の列会場のショーパラスト前には、開場前から子どもたちの長蛇の列ができる

ミニ・ミュンヘンの歴史は1969年、ミュンヘンとニュルンベルクのアーティストと教育者からなるグループ「KEKS」が立ち上がったことにさかのぼる。一見するとドイツ語で「クッキー」を意味するこの名前には、Kは「Kunst」(芸術)、Eは「Erziehung」(教育)、Kは「Kybernetik」(サイバネティクス)、Sは「Soziologie」(社会学)という意味が込められている。「KEKSのメンバーは、子どもたちには自分の世界を自立的に探求する力があると信じていました。そして公共空間を子どもたちのための実験の場にすべきだと考え、公園や博物館などでプロジェクトを始めます」とイネスさんは説明する。その活動が広がり、「Kultur & Spielraum e.V.」(文化と遊び空間協会)が誕生し、1979年に初のミニ・ミュンヘンが開催された。以来45年以上、ミュンヘン市のバックアップを受けながら2年に一度の開催が続いている。

古い白黒写真、ミニ・ミュンヘンの様子。ドイツ語のバナー、たくさんの人で賑わっている1979年に行われた第1回目のミニ・ミュンヘンの様子

子どもを「専門家」として見る

45年以上の歴史を持ちながら、ミニ・ミュンヘンの基本的なコンセプトは初回からほとんど変わっていない。「まるで本物の都市であるかのように行動する」、それだけがシンプルな大前提だ。市民権を得るには一定の労働と大学で講義を受けることが必要で、働けば時給5ミミュが支払われ、そのうち1ミミュを税金として納める。60以上の仕事があり、新聞記者、建築家、花屋、タクシー運転手、料理人、アーティスト、公務員……果ては市長になることも、銀行強盗になることもできる。ただし銀行強盗は裁判にかけられることも。そして、こうしたルールは全て補足・変更することができるが、そのためには子どもたち自身が市民集会を開き、多数決で決める必要があるという。

いくつかのルールこそ存在するものの、それらは子どもたちの行動を制限するようなものではない。その背景には、ミニ・ミュンヘン独自の「子ども像」がある。イネスさんは、過去の出版物から一節を読み上げてくれた。「『私たちにとって、ミニ・ミュンヘンにおける子どもは、自分自身の事柄、自分の願望、自分の関心に関する専門家です。私たちは、彼らを会話や交渉のパートナーとして真剣に受け止めます。そして彼らは時に、最後の言葉を言う権利も持つべきです』。つまり、単に『子どもたちに少しやらせてみよう』というのではなく、彼らには本当に決断を下す権利があるのです。そしてそれが時にひどい結果を生んだとしても、私たちは彼らを守ります」。

そうした変わらない軸がある一方で、ミニ・ミュンヘンは現実社会や政治の動きに敏感に反応する。例えば、数年前には気候保護センターが設立され、そこで働く子どもたちは気候危機に関する研究を行いながら、ミニ・ミュンヘン内の気温や水質を計測し、ゴミの分別を管理することで、街をより持続可能な都市へと変えようとしている。2024年の前回開催では「材料倉庫」が新設され、それまで大人がやっていた資材の提供を、子どもたち自身が担うようになった。子どもたちはオンラインカタログの作成から注文の梱包・配達、クレーム対応まで手がけたほか、プライム料金やブラックフライデーの導入なども行ったという。今年はさらに大規模なリサイクルの循環が導入される予定で、廃棄物処理局が回収した資材を材料倉庫で再販・再利用するという。

本物の道具が本物の信頼を生む

ミニ・ミュンヘンの中では、子どもたちはノコギリや工具で木製の家具を作り、コンロと油を使って調理をする。そうした多少危険を伴う作業であっても、子どもたちは自分で行うことができる。「もし子どもたちにプラスチックのノコギリやゴムハンマーを渡したとしたら、何も良いことがありません。本物でないとき、つまり自分たちが真剣に受け止められていないとき、子どもたちはすぐに気づきます。だから大前提として、私たちは子どもたちを信頼しています。『大人から信頼されている』と感じられるとき、子どもたちは自分の創造性をより強く発揮して、多くの学びと喜び、自信を持てるようになると思います」。

とはいえ、リスクヘッジは徹底している。ミニ・ミュンヘンを支えるスタッフは、教育者、アーティスト、職人、および各分野の専門家など、その道のエキスパートたちだ。木工エリアには本物の大工職人、レストランには本物の料理人というように、各エリアに熟練のスタッフが配置され、道具の使い方や安全な扱い方を丁寧に教えながらも、子どもたちの自由を最大限に保つ。ここでの大人の役割は明確だ。「大人は、子どもたちの作り手や担当者ではなく、アシスタントです。物事がどのように機能するかを見せますが、やるのも決めるのも子どもたちなのです」。

この哲学の真価が、思わぬ形で証明されたことがある。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、数千人の子どもを一会場に集めることは不可能になった。そこでミニ・ミュンヘンは、市内を4地区に分けた40拠点でのサテライト開催に踏み切った。

「とはいえ実際に始まるまで、このサテライト開催がちゃんと機能するのかとても不安でした。でも、子どもたちは初日から、一部の大人よりもずっと早く、この仕組みがどのように機能するかを理解したのです。子どもたちの信じられない賢さ、柔軟性、勇気に、あらためて感動しました」と、イネスさんは振り返る。街中に散らばった拠点と拠点をつなぐため、子どもたちはコールセンターやフードデリバリーサービスを開設。さらに、サテライト開催による影響で中央からの物資の供給が遅れると、業を煮やした子どもたちが独立運動を起こすなど、コロナ禍ならではのドラマも生まれた(ちなみに独立宣言は翌週には覆された)。

コロナ禍のミニ・ミニミュンヘンの様子2020年のコロナ禍でのミニ・ミニミュンヘンは、マスク着用、ソーシャルディスタンスを守りながら行われた

自由の中で出会う仲間たち

イネスさんによれば、ミニ・ミュンヘンに初めて来る子どもたちの多くにとって、ここでの体験は全く新しいものだという。「ミニ・ミュンヘンの外では、子どもたちはよく『これしてもいい?』と尋ねます。彼らは、大人に許可を求めることに慣れているのです。『トイレに行ってもいい?』『いつそこに行ける?』『ここで遊んでもいい?』といった具合です。一方、ミニ・ミュンヘンでは、彼らは非常に自主的に行動しています」。

ミニ・ミュンヘンの入口で子どもたちが最初に知ることは、「自分はここに入ることができる。でも、お父さんもお母さんも入れない」ということだ。中に入ると、そこにいるのはほとんどが子どもで、大人はスタッフとしてそこにいるだけ。その体験を通して、自分の行動には結果が伴うこと、自分が発言していいこと、自分が要求していいことを、子どもたちは自然に学んでいく。全く知らない子ども同士が出会い、チームになり、その友情がときに何年も続くのだ。

そしてミニ・ミュンヘンは、全ての子どもたちに開かれた街であることを常に意識してきた。第2・第3言語を話す子どもたちは翻訳者や多言語観光案内人として活躍でき、日本やトルコ、スペインなど世界各地の姉妹プロジェクトからのゲストも毎年訪れる。聴覚障害者協会と連携した手話コースも提供されており、特別なサポートが必要な場合は同伴者の帯同も可能だ。

子どもだったあの日から大人になった今も

ここで一つの事実に目を向けると、ミニ・ミュンヘンという場所の本質が見えてくる。毎回200人程度のスタッフがこのプロジェクトに関わるが、その多くはかつて子どもとしてミニ・ミュンヘンを体験した元市民たちだ。さらに16歳になった元市民はボランティアとして参加できるようになる。彼らはミニ・ミュンヘンのことを身をもって理解しており、子どもたちがどのように自由であるべきか、どのように子どもたちを守るか、どんなコミュニケーションを取るべきかを知っている。そうした人の循環と経験の蓄積が、45年以上もの間ミニ・ミュンヘンを支えてきた。

そして驚くことに、一部のスタッフは普段は会社員をしており、年次有給休暇を3週間取ってこのイベントに参加するという。大人になった元ミニ・ミュンヘン市民たちは、何を求めてこの場所にまた戻ってくるのだろうか。「ミニ・ミュンヘンはある種のコミュニティーなんです。例えば、ある人が偶然レストランで出会った人と会話をする。『ミニ・ミュンヘンって知ってる?』『うん、昔参加していたよ』『私も! 』『本当に! ?』と、その会話だけで、彼らは即座にチームになれるのです。参加者同士の間には、信じられないほど強い絆があると思います」とイネスさんは語る。

たくさんの子どもたちが旗などを持ってパレード2024年の最終日のパレードの様子

子どもとして参加し、ボランティアになり、スタッフになる。あるいは今度は自分の子どもがミニ・ミュンヘン市民になる。ミニ・ミュンヘンの中では、実は子どもと大人はシームレスにつながっているのだ。そして大人たちは、子どもたちからたくさんの贈り物をもらう。イネスさん自身、前回のミニ・ミュンヘンでは本業のジャーナリストとして新聞編集局で子どもたちをサポートしたが、そのときのことをこう振り返る。

「例えば、私が子どもたちに『今日はこの記事を書きましょう』と言うことはありません。子どもたちはアイデアを持っていて、その発想はとにかく自由なんです。3週間が終わると、私たち大人の頭の中もまるで一新されたようになります。『ルールを守らなければ』『あれをしなければ』といったものが取り除かれて、子どものころに持っていたような創造性が戻ってくるような感覚がある。大人たちは再び遊びの喜びを見つけ、子どもたちを新たな目で見ることができます。信じられないほど面白く、力強く、熱狂的で、創造的な存在として。そしてこの情熱が私たちにも乗り移って、大人もまた自由になれるのです」。

ミニ・ミュンヘンの施設・職業を覗いてみよう!

ミニ・ミュンヘンの職業安定所

ミニ・ミュンヘンの職業安定所。1日の始まりには仕事の配分が各エリアで分散して行われるが、後で来た場合や仕事を変えたい場合はここに行く

ミニ・ミュンヘンの嗅覚研究室

嗅覚研究室は、銀行や新聞編集局の匂いなど、ミニ・ミュンヘンのさまざまな香りを研究する施設。独自の香水の開発も行っている

ミニ・ミュンヘンのすべてのエリアに停車するバス

ミニ・ミュンヘンには全てのエリアに停車するバス路線がある。運行間隔はそのときによる。最大8人まで同時乗車が可能

子どもたちで賑わうガーデニングセンター

ガーデニングセンターでは、各施設の緑化のための花やハーブなどを販売している

テレビ局「MüTiVi」

テレビ局「MüTiVi」は毎日、ミニ・ミュンヘンのその日の出来事を振り返るライブ番組を制作。ほかにも推理ドラマやホームドラマなども制作され、映画館で上映される

建設局は、新しく建てられる全ての建設プロジェクトを実行する

建設局は、新しく建てられる全ての建設プロジェクトを実行する。中央の看板には「KEINE ELTERN!!!」(親禁止!!!)と書かれている

 

その一口に歴史がある欧州で味わうB級グルメ

フィッシュ・アンド・チップス、カリーヴルスト、ファラフェル……。欧州の街角で食べるその味は、なぜその土地に生まれ、なぜ今も愛されるのか。本特集では、産業革命をはじめ、二度の世界大戦や東西分断、移民労働者など、「B級グルメ」の源流をたどる。さらに旅先で頬張りたい欧州の名物B級グルメを、その味が生まれた歴史や背景、発祥地をめぐる論争と合わせてご紹介。次の旅行がもっとおいしくなること間違いなし! (文:英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

欧州の「B級グルメ」はこうして生まれた

参考:Demographia / Old Bailey Online、BBC「Eating on the hoof: London's long history of street food」、Henry Mayhew, 「London Labour and the London Poor」、LeMO「Leben in Trümmern」、DW「Von der Currywurst zum Insektenburger」

産業革命と路上食文化の誕生

手軽で安くて、どこか懐かしい。世界中で愛される欧州の「B級グルメ」の原点をたどると、19世紀の産業革命に行き着く。工場労働者が都市に押し寄せたこの時代、労働者たちは昼食のために家へ戻る余裕などなかった。ヴィクトリア時代のロンドンでは、人口がわずか60年ほどで3倍に膨れ上がり、路上には数万人の行商人や露天商がひしめいた。エンドウ豆のスープ、温かいウナギ料理、ミートパイ。こうした腹にたまる一皿が、工場と寝床を往復する労働者たちの命綱となったのだ。産業革命は蒸気機関だけでなく、「路上で食べる文化」をも生み出したのである。

赤みを帯びた古いロンドン写真。貝売りのストールに集まる人たち1877年、ロンドンの貝売り。牡蠣やツブ貝などの貝類は、安くて栄養のある庶民の味として人気を集めた

20世紀に入ると、前世紀に芽生えた路上食文化は都市の風景に根を下ろしていく。英国ではフィッシュ・アンド・チップスの店が1930年代には3万5000軒に達した。ウィーンでは、オーストリア=ハンガリー帝国時代に復員兵士たちが移動式の調理台でソーセージを売り始めたのをきっかけに、ソーセージスタンドの文化が街角に広がっていった。しかし二度の世界大戦中は、各国で食料配給制が敷かれ、市民の食卓は厳しく統制された。

第二次世界大戦が終わると、欧州各地の軽食文化は新たな局面を迎える。とりわけ荒廃が激しかったドイツでは、がれきの合間に即席の食事処が立ち並んだ。設備投資がほとんどいらないこうした屋台や小店は、荒廃した街が再び動き出すための燃料のようなものだった。やがて各国で経済が上向き始めると食肉消費が伸び、ベルギーとフランスを発祥とするフライドポテトが肉料理の付け合わせとしても定着し、その文化が周辺諸国にも広がっていく。

戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々。荒廃した都市では、移動販売や簡易食堂が人々の空腹を満たす貴重な存在だった

鉄のカーテンの向こう側で愛されたグルメ

冷戦時代に突入すると、西側で軽食文化が花開く一方、東側では事情がまるで違った。共産主義体制のもと、ポーランドでは国家が食の生産から流通までを握り、民間の外食産業はほとんど芽吹く余地がなかった。人々は市場の片隅や個人的なつてを頼りに食をやりくりし、国営の軽食スタンドが暮らしを支える数少ないよりどころだった。

ハンガリーは「グヤーシュ共産主義」(ハンガリーの代表的な煮込み料理になぞらえた呼称)と呼ばれる比較的穏やかな体制のもと、小さな食の商いが部分的に許されたものの、日常の食卓を担ったのは国営のセルフサービス食堂や缶詰・冷凍食品であり、街角で自由に食を商う風景は限られていた。

チェコスロバキアでも選択肢は乏しく、ヴァーツラフ広場に並ぶソーセージスタンドのような軽食売り場や国営の大衆食堂が、庶民にとって数少ない外食の場だった。だからこそ、制約のなかで生まれた味には独特の強さがある。フランスから持ち込んだバゲット技術で即席のピザトーストを作り上げたポーランドのザピエカンカ、中世から続くパン窯の伝統を揚げ物に転じて夏の湖畔の名物にしたハンガリーのラーンゴシュ。乏しい食材と限られた自由のなかで磨かれたこれらの一品は、体制が変わった今もなお東欧の街角で愛され続けている。

ポーランドの伝統的なミルク・バーで行列する人々ポーランドに残る伝統的なミルクバー。共産主義時代、安価な大衆食堂は欠かせない食の場だった

移民の波と異国の味

一方、同じ時代の西側では、まったく別の力がB級グルメの地図を塗り替えようとしていた。戦後復興から高度成長へと向かう欧州に、決定的な彩りを加えたのが移民の波だった。1960年代以降、ドイツにはトルコ人労働者が渡り、1970年代にはベルリンの路上でドネルケバブのサンドイッチが売られ始めた。英国にはインドや西インド諸島からカレーやジャークチキンが、フランスには北アフリカからクスクスやメルゲーズが持ち込まれた。異国の味は各地の屋台の風景を変え、やがて街に根付いていった。

そして現在、健康志向やヴィーガン需要の高まりを受けて、ファラフェルやベジケバブが台頭し、欧州のB級グルメは変化し続けている。安さと手軽さの裏には、労働、統制、戦後復興、移民という歴史の地層が何重にも折り重なっている。街角の味とは、いつの時代もその社会の姿を映す鏡なのかもしれない。

旅先で味わいたい!欧州のB級グルメ図鑑

編集部が厳選した欧州9 カ国のB 級グルメを、その特徴や背景とともにご紹介。路上や市場のカウンターで手渡される一皿こそが、旅の記憶に深く刻まれることも。高級レストランでは出会えない、その土地ならではの味を楽しんで!

参考:National Federation of Fish Friers、BBC「Why are Cornish pasties still so popular?」、So Dutchie「Why do Dutch people eat raw herring… and love it?」、Belga News Agency「Belgian inventions: Frites」、berlin.de「Döner Kebab ist eine Berliner Erfindung」、OÖNachrichten「Wir sind die Erfinder der Original-Käsekrainer」、Culture. pl「Polish Food 101 – Zapiekanka」、Radio Prague International「Utopenec: a Czech pub classic」、HungaryToday「Lángos – The Most Ancient of Hungarian Foods」、Tasting Table「This Spanish Seafood Sandwich」

UK英国 Fish and Chips
フィッシュ&チップス

フィッシュ&チップス

サクサクの衣をまとった白身魚と太めのチップス(フライドポテト)に、塩とモルトビネガーをたっぷり振って食す英国の国民食。19世紀、鉄道網の発達で新鮮な魚が内陸にも届くようになり、産業都市の労働者の間で爆発的に広まった。第2次世界大戦中も配給制の対象外だったため、人々の空腹を満たし続けた。フィッシュ・アンド・チップスの店は今も全英に約1万500軒を数え、その数は英国最大のチェーン店であるグレッグスと比べても約4倍、マクドナルドの約7倍に上る。

UK英国 Cornish Pasty
コーニッシュ・パスティ

コーニッシュ・パスティ

肉とジャガイモ、タマネギ、スウィード(カブの近縁種)をパイ生地で半月形に包んで焼き上げるコーンウォール地方の名物。もとは14世紀に上流階級が食べていたが、18世紀頃から労働者の食卓にも広まり、とりわけ19世紀のスズ鉱山の隆盛とともに坑夫たちの弁当として定着した。素手で持てるよう縁を厚く編み込み、ヒ素で汚れた手が食材に触れないよう持ち手として使ってそのまま捨てたという伝承が残っている。2011年には欧州連合(EU)の地理的表示保護(PGI)を取得。

スペイン国旗スペイン Bocadillo de Calamares
ボカディージョ・デ・カラマレス

ボカディージョ・デ・カラマレス

カリッと揚げたイカのリングをバゲットに挟んだだけの、潔いほどシンプルなマドリード名物。内陸の都市マドリードでイカのフライが一般的になったのは、沿岸部から安価なイカが大量に流通するようになったことが背景にある。マヨール広場周辺のバルに入り、カウンターで注文すれば数分で出てくる気軽さも魅力。レモンをひと絞りするだけで、衣のサクサク感とイカの弾力がパンの柔らかさと絶妙に調和する。昼下がりの生ビールとの相性は抜群だ。

ハンガリー国旗ハンガリーLángos
ラーンゴシュ

ラーンゴシュ

イースト入りの生地を揚げたハンガリーの伝統的なストリートフード。名前はハンガリー語で「炎」を意味する「ラーング」に由来し、かつてはパン窯の火でフラットブレッドとして焼き上げていた。現代ではサワークリームとすりおろしチーズをたっぷり載せて、揚げたてを食べるスタイルが定番。ブダペストの中央市場や夏のバラトン湖畔の屋台で最も頻繁に出会える。表面はカリッと、中はもちっとした食感で、酸味の効いたクリームとチーズの塩気が絶妙に重なる一枚だ。

フランス国旗フランスFalafel
ファラフェル

ファラフェル

ひよこ豆をすりつぶしてスパイスを加え、カリッと揚げた中東生まれの一品。パリでは、マレ地区のユダヤ人街リュ・デ・ロジエがファラフェルの聖地として知られる。1979年創業の「ラス・デュ・ファラフェル」をはじめとする名店が軒を連ね、行列が絶えない。ピタパンに揚げたてのファラフェル、ナス、キャベツ、フムスを詰め込んだサンドイッチを、通りに立ったまま食べるのがパリ流だ。北アフリカや中東からの移民が育んだこの味は、今やパリを代表するストリートフードの一つ。

ドイツ国旗ドイツCurrywurst
カリーヴルスト

カリーヴルスト

ぶつ切りにした焼きソーセージに甘辛いトマトベースのソースをたっぷりかけ、カレー粉をまぶして紙皿で提供するカリーヴルスト。復興期の労働者たちの間で広まり、いまやドイツ全土で年間8億本以上が消費される国民食である。本場ベルリンでは皮なし(ohne Darm)タイプを小さな木のフォークで突き刺し、カレー粉の山を崩しながらいただく。考案者ヘルタ・ホイヴァーは1959年にソースを「Chillup」として商標登録しているが、発祥の地をめぐっては別の物語もある。

ドイツ国旗ドイツDöner Kebab
ドネルケバブ

ドネルケバブ

1972年、トルコからの労働者であるカディル・ヌルマンが、ベルリン動物園駅前の屋台で回転グリルの肉をパンに挟んで売り出したのが、ドイツ式ドネルケバブの原型とされる。故国の味を手軽に再現したいという移民労働者の思いから生まれ、今やドイツ最大級のファストフードに成長。たっぷりの野菜、ヨーグルトソース、そして薄切り肉がフラットブレッドからはみ出すボリューム感がたまらない。深夜の駅前やクラブ帰りにかぶりつくのが、ドイツのナイトライフの定番だ。

オーストリア国旗オーストリアKäsekrainer
ケーゼクライナー

ケーゼクライナー

豚肉のソーセージの中にエメンタールチーズの角切りを忍ばせ、グリルで焼き上げるウィーンの名物。1960年代後半にオーバーエスターライヒ州の料理人らが考案したとされる。かぶりつくと、中からとろりと溶けたチーズが溢れ出す。購入する場所はウィーン市内の路上に点在するソーセージスタンド。この屋台文化自体が2024年にオーストリア・ユネスコ委員会の国内無形文化遺産目録に登録された。溶けたチーズの熱さに顔をしかめながらも、かぶりつく手が止まらない。

オランダ国旗オランダHaring
ハーリング

ハーリング

塩漬けのニシンを街角の屋台でそのまま頬張る、オランダを代表するストリートフード。14世紀に内臓処理と塩蔵の技法が広まり、漁師のウィレム・ボイケルスゾーンが考案したといわれている。保存性を増したニシンは、黄金時代のオランダを支える交易品となった。尾をつまんで頭上に掲げ、上を向いてそのまま口に運ぶのが伝統的な食べ方だが、実際には刻みタマネギとピクルスを添えた一口大の切り身を爪楊枝で食べるのが一般的。白パンに挟んだ「ブローチェ・ハーリング」も人気だ。

ベルギー国旗ベルギーFrites
フリッツ

フリッツ

「フレンチフライ」の名で世界に知られるが、発祥を巡ってベルギーは強い自負を持つ。17世紀、ムーズ川流域で冬場に小魚が獲れず、代わりにジャガイモを揚げたのが始まりとされる。低温でじっくり火を通し、高温で二度目を揚げて外はカリッ、中はホクホクに仕上げるのがベルギー流。街角の「フリチュール」と呼ばれる専門屋台でコーン型の紙袋に盛られ、マヨネーズなどの多彩なディップとともに供される。2014年、このフリッツ屋台文化はベルギー国内の無形文化遺産に。

ポーランド国旗ポーランドZapiekanka
ザピエカンカ

ザピエカンカ

バゲットを縦半分に割り、マッシュルームとチーズを載せて焼き上げ、ケチャップをたっぷりかける「ポーランド式ピザトースト」。1970年代、ギェレク政権下でフランスからバゲット製造のライセンスが導入されたことで広まった。とろけたチーズとマッシュルームの旨み、甘酸っぱいケチャップがたまらない。限られた食材で満足感を生んだ社会主義時代の庶民の知恵が詰まった一品で、クラクフ・カジミエシュ地区ノヴィ広場の丸い建物に並ぶ屋台群はその聖地となっている。

B級グルメ「発祥地論争」は終わらない

B級グルメには、しばしば「うちが元祖だ」という発祥地論争がつきまとう。記録が乏しいからこそ土地の誇りと物語が絡み合い、真相はいっそう味わい深くなる。

英国のフィッシュ・アンド・チップスは、そもそも別々の文化から生まれた二つの食べ物だ。フライドフィッシュは16世紀にユダヤ系移民がロンドンに持ち込み、チップスは産業革命期の北イングランドで労働者の腹を満たしていた。この二つを一皿に合わせたのは誰かというと、1860年頃にロンドンのイーストエンドで店を開いたジョセフ・マリンと、1863年にランカシャーのモスリーで売り始めたジョン・リーズの二人が名乗りを上げているが、決定的な証拠はいまだない。

ドイツのカリーヴルストはさらに入り組んでいる。1949年にベルリンの屋台でヘルタ・ホイヴァーがカレー粉入りソースを考案したとされるが、ハンブルクの作家ウーヴェ・ティムは「1947年に子どもの頃、ハンブルクで食べた」と主張し、自身の小説にも登場させた。さらにルール地方も炭鉱労働者のソウルフードだと譲らない。ベルリンには記念プレートが、ハンブルクには架空の発明者を称える銘板が、ルール地方には地元愛を歌った一曲があり、この論争の決着は見えそうにない。とはいえ、こうした正解のない論争が続くのは、それだけ多くの街がこの味を愛している証拠にほかならないだろう。

 

企画展「Unter Tage fern der Heimat
- 故郷から遠く離れた炭鉱で」
ルール地方の炭鉱にいた日本人たち

2026年5月末から、ルール地方における日本人炭鉱労働者に焦点を当てた企画展がデュッセルドルフで開催されている。しかし第二次世界大戦後、ルール地方の炭鉱でおよそ400人の日本人が働いていたことはあまり知られていないかもしれない。なぜ彼らはドイツの炭鉱にいたのか、その歴史を少し覗いてみたい。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、協力:Keyworker Oberkasselplus、竹の会)

参考:『Japanische Bergleute im Ruhrgebiet』(Klartext Verlag)、デュッセルドルフ日本商工会議所「160年の経済パートナー 日独経済産業交流の変遷と展望」

ルール地方の炭鉱にいた日本人たち

なぜ日本からドイツの炭鉱へ?

ルール地方は、ドイツ北西部のライン川流域に広がる欧州最大の工業地帯。19世紀以降にルール炭田の開発が進み、工業の中心地となった。しかし第二次世界大戦後、西ドイツは労働力不足に悩まされ、ルール地方の炭鉱労働のような危険を伴う仕事は特にその傾向が強かった。その一つの解決策として、西ドイツはイタリアやトルコと政府間協定を締結し、ガストアルバイター(外国人労働者)を導入。その流れのなかで、1956年に日独政府間でも「ルール炭鉱鉱業における日本人炭鉱労働者の期限付き就労に関する計画」が締結されたのだった。

具体的には、日本の炭鉱で3年以上坑内労働を経験した21~30歳までの500人以内の炭鉱労働者を、3年間ルール地方の炭鉱に派遣することになった。その目的とは、炭鉱における最新技術を習得すること、日独の親交を深めること。そして、1957~1965年の期間に計436人の日本人労働者がドイツの三つの炭鉱に派遣された。

プログラムが開始された当初、ドイツ側はあくまで労働者不足を補うことを目的としていたため、日本人炭鉱労働者たちは期待していたような研修を受けることができなかったという。しかしその後の交渉によって、ドイツ語の授業期間の延長、技術習得のための定期的な異動、資格取得の機会などが認められるようになる。

一方で、当時の日本はエネルギー転換期にあり、石炭から石油や原子力への移行が進められ、石炭業界は衰退へ向かっていた。そのため、派遣目的も当初の「技術習得」から「炭鉱離職者のための雇用措置」へと変更される。引き続き1500人以上の炭鉱労働者が日本から派遣される計画だったが、1962年の第5陣の派遣を最後に予定よりも早くプログラムは終了することになった。

ドイツ人たちに交じって働く日本人炭鉱労働者ドイツ人たちに交じって働く日本人炭鉱労働者

ドイツに残った日本人

プログラム終了後、ほとんどの人は日本へ帰国し、日本では日本人の元炭鉱労働者による「グリュック・アウフ会」が創立された。一方、そのままドイツで就職や進学をして現地に残った日本人はおよそ30人。多くがドイツ人と結婚して家庭を築いた。そのなかの一人が、 執行 しぎょう 龍美さんだ。

20歳だった執行さんは日本の炭鉱で働いた際、ドイツ派遣の募集について知った。身長165㎝以上の健康な若者で、未婚であることも応募条件だった。厳しい選考を通過した執行さんは、1960年にプロペラ機でいくつもの経由地を経てデュッセルドルフに到着し、デュースブルクの炭鉱に配属された。

研修後、地下1500メートルの採掘に従事した執行さん。暗く気温28度という環境のなか、重い防護服を着ての作業は過酷なものだった。また、ドイツ人の同僚が事故死するという悲劇も経験。一方で寮生活は快適で、自由時間には居酒屋やダンスホールで過ごしたという。そこで執行さんは人生の伴侶となるドイツ人女性と出会う。契約終了後に結婚してドイツの炭鉱に残り、53歳まで働いた。

現在もクーレヴェで静かに老後を送る執行さん。「ほかの日本人炭鉱労働者たちと土曜夜に飲みながら、日本の軍歌を歌ったりしましたね」と当時を懐かしむ。3日間休むとクビになるという厳しい労働条件だったと話し、執行さんが見せてくれた当時の明細書にはたった1日だけ有休を取得した記録が。前日に飲み過ぎたため医者に行き、就労不能証明書を発行してもらったのだと執行さんは笑う。

現在も定期的に日本へ一時帰国しているが、長くドイツに住んでいるため、日本語よりもドイツ語で話す方が慣れてしまったという。80代後半になり、一緒にドイツへ来た元炭鉱労働者の仲間たちが一人ひとり旅立っていくなか、執行さんのような歴史の証人はますます貴重な存在になっている。

歴史を語り継ぐために

今回の企画展は、デュッセルドルフの市民団体「Keyworker Oberkasselplus」が主催する。リタイアしたドイツ人が主要メンバーで、これまでも地域に密着した芸術文化や社会問題に関するプロジェクトの数々を実施してきた。しかしなぜ日本人炭鉱労働者を取り上げることになったのだろうか。

きっかけは、中心メンバーの一人アネッテ・クロッツさんが日本人炭鉱労働者についてまとめられた書籍『Japanische Bergleute im Ruhrgebiet』を読んだことだった。その後、2024年にケルン日本文化会館で開催された企画展「ルール炭田の日本人」にも足を運んだ。「驚いたことに、周りの日本人のほとんどがこの歴史について知らなかったんです。私たちがデュッセルドルフの日本人グループ『竹の会』と交流を続けてきたこともあり、日独交流の一環として展示を企画することにしました」とクロッツさんは話す。

企画展は、竹の会が拠点とする福祉施設「ディアコニー」で開催されている。ルール地方の日本人炭鉱労働者の歴史や当事者の証言を日独両言語でパネル展示するほか、事前に開催された版画ワークショップで参加者が日本人炭鉱労働者をテーマに彫った作品も。

執行さんも企画展の協力者の一人だ。「孫に『おじいちゃん、石炭って何?』と聞かれて、驚いたことがありました。今回のように取り上げてもらえることはうれしいです」と執行さん。私たち在独邦人の先駆者でもある彼らの歴史を語り継いでいくため、そしてクロッツさんたちの思いに日本人として応えられるよう、ぜひ企画展へ足を運んでみてほしい。

INFO

企画展「Unter Tage fern der Heimat - 故郷から遠く離れた炭鉱で」

企画展「Unter Tage fern der Heimat
- 故郷から遠く離れた炭鉱で」

2026年5月30日(土)~7月11日(土)
Diakonie, Gemünderstraße 5, 40547 Düsseldorf
※平日12:00~14:30開館
※週末に見学希望の場合は担当者まで要連絡

TEL: 01741920737
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2026年1月に新しい兵役制度がスタートドイツの軍事力強化
なぜ今必要なのか?

今年1月から新たな兵役制度が施行され、18歳の男性は兵役に関するアンケートに答えなければならなくなった。また、4月に連立政権が新たに策定した軍事戦略文書では「欧州最強の通常軍」を目指すことが明記され、ドイツでは着々と軍事力の強化が進んでいる。そんな状況を受けて、このままドイツも戦争に向かってしまうのではないか?と不安に思う人も少なくないだろう。そもそも今なぜ軍事力が必要なのか、新しい兵役制度はうまくいくのか。本特集ではそれらの問いに答えるべく、ドイツの安全保障問題について解説する。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:ドイツ連邦軍ホームページ、連邦国防省ホームページ

ベルリンの連邦国防省で開かれた式典3月16日、ベルリンの連邦国防省で開かれた式典に参加する兵士たち

知っておきたいドイツ連邦軍の歴史

1. 主権回復のための再軍備

第二次世界大戦後、ドイツは連合軍に占領され、非武装化が進められた。その後、1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国されると、東西冷戦を背景に再軍備の議論がなされるように。当時のコンラート・アデナウアー首相(キリスト教民主同盟・CDU)は、西ドイツが西側同盟の一員となるため、欧州連合の前身となる欧州石炭鉄鋼共同体への加入し、北大西洋条約機構(NATO)への軍事参加を目指した。「防衛貢献」することで、西ドイツの主権を回復させようとしたのだ。1955年に西ドイツがNATOに加盟すると、同年11月12日に軍隊を創設。そして翌年3月、ナチス政権時の「国防軍」(Wehrmacht)と区別するため、「連邦軍」(Bundeswehr)という名が与えられた。

西ドイツの軍隊(のちの連邦軍)を視察するアデナウアー首相(中央左から3番目)1956年1月20日、まだ名前のついてなかった西ドイツの軍隊(のちの連邦軍)を視察するアデナウアー首相(中央左から3番目)

2. 過去の反省から「制服を着た市民」

過去の大戦では、兵士の盲目的な服従が国防軍の戦争犯罪の一因となったことから、連邦軍の兵士は「制服を着た市民」と表現され、基本法の価値に従って自ら行動することが求められた。当初の目標だった現役兵50万人の軍備を達成するには、志願兵だけでは不十分だったため、1956年には徴兵制の導入が決定する。1957年4月1日から18歳以上の男性は、基本法で保障されている「良心の自由に基づく兵役拒否権」を行使しない限り、連邦軍に従事することが義務付けられた。良心的兵役拒否者は、兵役に就く代わりに介護施設などの社会福祉施設で民間奉仕活動を行った。最初の10年間は、兵役を拒否する人の人数は年平均3000人だったが、学生運動とベトナム戦争によって反戦意識が高まり、1967年には6000人、1968年には1万2000人近くになったという。

3. 冷戦後の海外派遣という新たな課題

ドイツの再統一とソ連崩壊に伴い、東ドイツの国家人民軍(NVA)は解体されて西ドイツの連邦軍が引き継いだ。冷戦期の西ドイツは欧州の最前線だったため、それを守ることが連邦軍の仕事だったが、1991年の湾岸戦争、ユーゴスラヴィア紛争で海外派遣をどうするかという問題に直面。その後、1994年に憲法裁判所で連邦軍の海外派遣は合憲との判決が出た。ただし、ナチス時代の反省から、派遣期間や任務内容などを含め、連邦軍の海外派遣には議会の同意を得ることが条件となった。米英仏などでは必ずしも議会の権限は大きくないが、ドイツでは首相の一存ではなく、議会に非常に大きな権限を与えていることが特徴である。なお今年4月、メルツ首相が連邦海軍のホルムズ海峡への派遣を提案したが、ピストリウス国防相は停戦が重要な前提条件であることを強調しており、議会で承認を得る段階には至っていない。

戦後のドイツが目指してきた民主主義のための軍事力とは?

2022年2月に始まったウクライナ戦争を機に、ドイツは軍事力の増強に大きく舵を切った。その増強の中身とはどのようなものなのか、欧州においてドイツに求められている役割とは何か、政策研究大学院大学教授で、ドイツの安全保障問題について詳しい岩間陽子さんにお話を伺った。

岩間陽子さん 岩間陽子さん
Yoko Iwamai
1964年神戸市生まれ。政策研究大学院大学教授。ベルリン留学中にベルリンの壁崩壊を経験したことをきっかけに、国際政治、欧州安全保障を自身の専門分野とする。BS-TBS「関口宏の一番新しい近現代史」に出演中。毎日新聞書評欄「今週の本棚」執筆者。著書に『核の一九六八年体制と西ドイツ』(有斐閣)など。

ロシアの脅威の再来とやせ細ったドイツ連邦軍

― まず、ドイツが今これほど軍事力の強化に動いている背景を教えてください。

軍事力強化の原因は、やはりロシアの脅威の再来です。この時代に軍事力で領土を取りにこようとする国があるという現実のなかで、欧州はまずウクライナを助けなければならないですし、その後も自分たちを自分たち自身で守れるようになる必要が出てきました。

冷戦期はものすごい数の核兵器が欧州にあることによって、戦争を抑止していました。しかし、これは自殺を盾にして守っているような状況で、精神的にはあまり健全ではありませんでした。やっと冷戦が終わって核兵器を減らすことができましたが、今再び軍事的脅威が目の前に広がり、核兵器の議論が活発化してきています。ドイツでは特に核への依存を避けたい人が多いと思いますが、核に頼らないのであれば、人員増強をはじめ、装備品や基地の運用、戦闘機の購入など、通常軍備を分厚くしなければなりません。

― メルケル政権の時代にも問題は指摘されていたのに、なぜ長年にわたって軍拡が進まなかったのでしょうか

1990~2025年までの連邦軍兵士の数

メルケル政権期には第一次トランプ政権も重なり、特に2014年のロシアのクリミア併合以降に「欧州がちゃんとしなきゃいけない」という話はすでに出ていました。しかし結局は軍事費の増額にはつながらず、すでに徴兵制が停止されて10年がたつ2020年代初頭には、連邦軍が非常にやせ細り、装備品も状態が悪いという状況に。さらにドイツでは財政均衡主義が強くなって、赤字を一定程度以上出してはいけないということが基本法に盛り込まれ、政権の手足を縛る形になっていました。そして、昨年3月になってやっと基本法を改正し、防衛支出のうち国内総生産(GDP)の1%を超える部分を無制限に国債でまかなうことが可能になりました。これまで連邦軍へ投資がされてこなかった反動で、今ものすごいお金をつぎ込まなければならない状況になってしまっています。

― お隣のポーランドはすでにGDPの5%近くを防衛費に充てているそうですね。ドイツとの温度差の違いを感じますが、いかがでしょうか?

経済が好調というのもあると思いますが、ポーランドでは国民のコンセンサスがすごい。もう二度とロシアに蹂躙されたくないという強い気持ちが、ポーランド人と話していると伝わってきます。一方、ドイツ人にはそういった気持ちがなく、むしろプーチンと和解して手を打ったらどうだといった考えの人もいるように感じます。ドイツはなんだかんだいって欧州で一番大きい経済国で、地政学的にもど真ん中で物流の中心にある。トランプ政権が欧州から引いていって欧米間の気持ちが離れていっていくなかで、「ドイツが中心となって欧州の防衛を立て直さないといけない」という欧州からの期待に、ドイツは必ずしも応えられていません。

冷戦期の西ドイツにおける核共有という決断

―連邦軍の話をする上で、核兵器の問題は切り離せないと思います。そもそもなぜドイツの安全保障と核はこれほど深く結びついているのでしょうか。 

1950年代、アデナウアー首相(当時)は、米軍が核を西ドイツ領内に持ち込むことに反対しませんでした。陸続きで国境を隔ててソ連軍がいるという状況でしたし、アデナウアー首相は非常に反共主義的だったので、国を守るには最新の兵器が必要だと考えたのです。それから50年代末から60年代にかけて、核兵器を持つ国が少しずつ増えていくと、西ドイツではどうするべきかという議論が起こりました。1955年にNATOに加盟したとき、ABC兵器の所有・製造の放棄を宣言したのですが、持ち込みに関しては米軍が持ち込むことが分かっていたので、そこは制限をかけませんでした。

また、将来的に保有する可能性を残しておくか、核拡散防止条約(NPT)に加盟して核開発を放棄するかという対立があったと同時に、米国ではなくフランスの核兵器に頼るべきかという話も出てきます。この二つの議論が交錯するので、最終的にドイツ国内の若い世代やリベラルな層が、ドイツは核を持たずにやっていくという選択をしました。それが1968年の学生運動、1969年の社会民主党(SPD)のヴィリー・ブラント首相の誕生という転換点につながったのです。

政権交代後、すぐにNPTに署名して、ブラント首相は核戦争が起きない欧州にするため、緊張緩和外交をやっていくんですね。一方で核の均衡が欧州の平和を守っているという現実もあり、米国の核が必要だという考えも続いていました。そしてさまざまな妥協によって、米軍基地には核を置き、本当に戦争になったときには連邦軍もそれを使うという、NATOの核共有という形に落ち着きます。

― ドイツには現在、どのくらいの核兵器があるのでしょうか。

冷戦が終わった時点では、どんなに少なく見積もっても数千個の核兵器がドイツにはありました。一方で60年代に入ると、広島における核兵器の恐ろしさや放射能の害についても知識として広まり、ドイツでも反核運動が広がっていきました。80年代初頭に米軍の中距離ミサイル配備の際にものすごい大きな反対運動が起こり、特に若い人たちがNATOの核政策を支持しなくなっていきます。冷戦が終結すると、核兵器は「あること」自体が危険で、万が一テロリストの手に落ちたり、誰かが勝手に使おうとしたりしたらいけないということで、ドイツから急速に撤収されていきました。それでもドイツ国内の米軍基地には、今も最大で20~30発の核兵器があるといわれています。

推定される欧州の核弾頭数(2025年)

徴兵制停止で途切れた連邦軍の在り方

― ドイツでは2011年に徴兵制が停止されましたが、当時どのような議論があったのでしょうか。また、今振り返ってどう評価されますか。

停止する前、当時のロシアはすっかり弱りきっていて、欧州に脅威というものはほとんどなく、数カ月だけの徴兵はほとんど意味がないのではないかということが議論されていたんですね。一方で徴兵制を止めてしまうと、また始めるのは大変だということも言われていたのをよく覚えています。

私がドイツに滞在していた時は徴兵制はまだありましたし、今も韓国などがそうですが、駅や空港で軍服を着て重そうな荷物を背負った若者を見ることは普通の光景でした。良心的兵役拒否の人もいたけれども、みんな淡々と兵役を受け入れていたので、特に反対運動もありませんでした。必要になったらまたやればいいじゃないという感覚だったと思うのですが、今回の新しい兵役制度の状況を見ていると、現役兵士がそもそも少ないですし、若い世代から強い反発があり、やっぱり大変そうだなという印象を受けています。

兵役では、ある年齢層の男性のほとんどが1年なりを軍隊で過ごすわけで、連邦軍の上官は彼らの適性とかを見るわけですよね。この人は連邦軍に向いているな、こんな仕事に向いているなと、リクルートするチャンスがある。徴兵制がなくなることでその機会がなくなることがすごく惜しいという声も、停止するときの議論の中で聞かれましたね。

メルツ政権の目指す強いドイツは実現できるか?

― 極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の台頭など、国内の政治状況も軍拡の行方に影響しそうですね。

AfDは、ウクライナ戦争にずっと反対してきました。その流れで、ドイツの軍備強化にも反対しています。ウクライナ戦争以降、物価がものすごく上がって、ガソリンも高騰して、インフレが再来しました。5月の日曜アンケートでもAfDが27%と、CDUの24%を抜いてトップに。9月にはザクセン=アンハルト州で州議会選挙がありますが、兵役は嫌だ、物価高は嫌だ、戦争は嫌だ、という人たちがみんなAfDに票を入れて40%の得票率を得れば、メルツ政権にとっては大打撃です。なので、必要な軍備増強がうまくできるかということに対して、黄色信号が出ているような気がしています。

新しい兵役制度については、強制的な徴兵は行わずに順調に連邦軍の人数がどこまで増えるのか。内政の争点としてもAfDが突いてくると思うので、どういう議論になっていくかは非常に注目されるところです。また、ウクライナ戦争初期には若者世代からウクライナ支援について強い支持がありましたが、最近はやはり関心が落ちてきています。若い世代がロシアや中国との安全保障をどう考えるのかは、今後の1~2年でいろいろな流れが出てくると思うので、そこは注視していきたいと思います。

支持政党ごとのウクライナ戦争への意見

―こうした現状も踏まえて、岩間さんはドイツの今後についてどのような見通しをお持ちですか。

ウクライナにとどまらず、ドイツの民主主義の行方を左右する時代に入っていると思います。生活が苦しいという面、目の前にロシア軍の強大な力があるという面と、いろいろな面が交錯していて、そのなかでどういう解決策を見出していくのか。メルツ首相は、民主主義を守るためにドイツ経済を復活させて強い連邦軍が欧州を引っ張っていくことを目指していますが、果たしてそこにたどり着けるかどうかは分かりません。

ドイツでは、自動車産業を兵器産業に転換することで何とかしようとする流れも出てきています。その背景には、ドイツ車が中国で急速に売れなくなってきて、中国の電気自動車(EV)が世界で売れる時代になってきたことがあります。ドローンをはじめ、ロボット兵のようなものも軍事で使われるようになることを考えれば、中国の技術と生産力がロシアの後ろにいることも無視できません。ロシアと中国、北朝鮮がくっついているという現実のなかで、ドイツが自分たちの価値と力をどれだけ強くできるのか。今私たちは分かれ道に来ていて、自分たちがどう変わっていくかで、世界の在り方も変わっていくのではないかと思っています。

ボリス・ピストリウス国防相ボリス・ピストリウス国防相(SPD)は、世論調査で最も人気のある政治家の座をキープしており、今後もその手腕が問われる

欧州最強の軍を目指すために新たな兵役制度にまつわるQ&A

ドイツの軍事力拡大の最初のフェーズとして、ドイツ連邦軍の人員増強が急務だ。今年から施行された新しい兵役制度では、18歳の男女を対象としたアンケートがすでに実施されている。ドイツが多額の防衛費をかけてスタートさせた新しい兵役制度は一体どのようなものなのか、Q&A方式で紹介する。

参考:ドイツ連邦軍ホームページ、連邦国防省ホームページ、tagesschau「Schulstreiks gegen Wehrdienst "Wir ziehen uns aus keiner Verantwortung"」

Q. そもそも兵士はどのくらい増やす必要がある?

軍務近代化法(Wehrdienst-Modernisierungsgesetz、WDModG)は新たな兵役制度に関する法的枠組みを定めた法律で、今年1月1日に施行された。兵役の魅力を高めることにより、連邦軍の人員増強を図る。同時に具体的な増員計画も定められており、2035年までに現役兵士を現在の約18万6000人から26万人以上に、基礎訓練を含めて軍務に就いた経験を持つ予備役兵士(Reservist)を約7万人から20万人以上、合わせて46万人以上の兵士を確保することを目標とする。

Q. 新しい兵役制度で徴兵制が復活したの?

今回の兵役制度の目的は、あくまでドイツ連邦軍が兵役に適した人材を特定し、志願者のみが兵役に就くことになるため、過去に行われていた強制的な徴兵制とは異なる。その準備段階として、今年1月から18歳になった男性はアンケート(次項)に回答することが義務づけられた。これはスウェーデンの徴兵制度を踏襲したもので、今後徴兵制が再開された時に備えて、徴兵を円滑に進めることを目的にしている。すでに今年4月29日までに約20万6000通が送付され、男性の9割以上の回答を回収しているという。さらに、2027年7月からは18歳男性に健康診断が義務付けられる。

Q. アンケートにはどのように答える?

ドイツ国籍を持つ18歳の誕生日を迎えた全ての男女に、オンラインアンケートのQRコードが記載された手紙が送付される。男性は回答必須で、女性は任意だ。質問票は12問あり、所要時間はおよそ15分、回答期限は1カ月以内となっている。また二重国籍の場合でも、ドイツ国籍を保有している場合は対象になる。トランスジェンダーなど第三の性の場合、戸籍に登録されている性別が男性の場合は回答しなければならない。なお、虚偽の申告をしたり、期限内に提出しなかったりした場合は、最高250ユーロの罰金が科されることが検討されている。

質問票の内容
  • ■ 個人情報(名前、住所、生年月日、性別、婚姻状況、国籍など)
  • ■ ドイツ連邦軍における兵役への関心
  • ■ 身長と体重
  • ■ 重度の障害の有無
  • ■ 学歴、スキル、資格
  • ■ 身体能力の自己評価;
  • ■ 外国の軍隊での兵役経験

兵役に関するアンケートが表示されているラップトップの画面を見る男性兵役に関するアンケートに回答する若者

Q. 兵役に興味がある場合はどうなる?

アンケートの回答に基づいて兵役に適していると判断された志願者に対しては、全国各地にあるキャリアセンターが窓口となり、適性検査が実施される予定。身体的、心理的、知的観点からそれぞれ適性と能力を総合的に評価され、本当に兵役に就けるのかどうかや、相応しい配属先などが検討される。志願者には検査最終日に兵役の可否と具体的な検査結果が伝えられ、今後についての最終面談が行われる。

Q. 兵役はどのように行われる?

兵役期間は6~11カ月で、臨時兵(Soldatin auf Zeit)として最長25年まで延長可能。配属先と勤務地は適性検査後に通知され、居住地からの距離、個人のスキルと資格、連邦軍のニーズが考慮される。また、職業訓練や進学等により、一定の条件のもと早期に除隊することも可能。兵役を終えると、予備役兵士として登録され、連邦軍に求人があり必要な資格を持っていれば、職業軍人に応募できる。

Q. 兵役での訓練内容は?

訓練はさまざまな武器を使用した戦闘方法、長距離移動、シェルターなしで数日間生き延びるためのサバイバルスキルなど、多岐にわたる。ほかにも応急処置、兵士としての考え方、基本法・国際法など幅広く学ぶことができる。また軍という共同体のなかで新兵同士が仲間意識を持って秩序や思いやりを学ぶ場でもあり、自身のリーダーシップの素質や厳しい訓練で自らの限界を知る機会にもなる。

Q. 兵士の給料や待遇は?

新しい兵役制度で志願した若者で、6~11カ月の場合は月額最低2600ユーロ(税込)の給与が支給される。軍が無料の医療サービスを提供するため、健康保険料の支払いは不要。連邦軍兵舎の宿泊費は原則無料で、相部屋で生活する。食堂では1日3回の食事(1日当たり約10ユーロ)が提供される。制服は全て無料で、制服着用中は勤務時間外でもドイツ国内の列車に無料で乗車できる。

Q. 志願兵だけで足りるの?

現時点では、連邦政府は志願兵のみによる兵士増強の達成を目指している。しかし今後の防衛政策や人員状況によっては、将来的に追加措置として徴兵制を導入することも検討される。現在検討されているのは、無作為に決定する抽選方式による徴兵。また徴兵制が復活した場合には良心的兵役拒否が認められるが、民間奉仕活動に従事しなければならない。

Q. 当事者である若者たちは納得しているのか?

新しい兵役制度は始まったばかりのため、現段階では若者へのアンケート調査などはまだ十分に行われていない。しかし、各地で若者による兵役反対デモがたびたび開催されており、若者の自己決定権が制限されることへの不満や、再軍備ではなく外交による戦争の解決を望む声が上がっている。家族や友人を守るという使命、魅力的な給与や待遇、キャリア支援など、連邦軍は若者たちへのアピールを続けているが、それがうまく機能するかどうかが、今後注目される。

新しい兵役制度に関する調査
  • ■ 徴兵制の再導入に賛成する人   全体 58%
      18~28歳 30%
  • ■ 兵役に就きたいと考える人   全体 23%
      18~28歳 14%
  • ■ 兵役が若者にとって有益な経験になると考える人   69歳以上 79%
      18~28歳 44%

横断幕を持って「兵役反対学校デモ」に参加する若者たち3月5日にベルリンで行われた「兵役反対学校デモ」に参加する若者たち

 

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