ヴィッコ・フォン・ビューロー没後10年ドイツ人に愛されたコメディ王ロリオ
ドイツ人にはユーモアのセンスがない……といわれるが、果たして本当にそうなのだろうか? かつて、ドイツ中のテレビの前で人々を笑わせていたコメディアンがいる。それが「ロリオ」の名で知られる、ヴィッコ・フォン・ビューローだ。ドイツコメディを確立させたロリオが亡くなって、今年の8月でちょうど10年を迎える。この節目に、今なお人々に愛され続けているロリオの魅力をその人生や作品から紐解いた。
(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:loriot.de、Dieter Lobenbrett『Loriot: Biographie』(riva)
ロリオの2作目の映画「Pappa ante Portas」より
目次
ヴィッコ・フォン・ビューローVicco von Bülow
本名 ベルンハルト=ヴィクター・クリストフ=カール・フォン・ビューロー
1923年11月12日~2011年8月22日(享年87歳)
貴族の家に生まれたコメディアン
1923年11月12日、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに、ヴィッコ・フォン・ビューローは生まれた。後に、ロリオ(Loriot)というペンネームで知られることになる。フォン・ビューロー家は何世代にもわたるプロイセンの貴族で、ヴィッコの父親であるヨハン=アルブレヒトは非常に厳格な人物だったが、ユーモアのセンスを兼ね備えていたという。ヴィッコが4歳のとき、母親のシャルロッテの健康上の理由から、弟とベルリンの祖母の家に預けられた。その後両親は離婚し、6歳のときに母親を亡くしている。10歳の頃に父親が再婚すると、また家族で暮らすようになった。来客時は、ヴィッコはちょっとした演劇や詩の暗唱を披露し、その才能をすでに発揮していたという。
フォン・ビューロー家の紋章。「ロリオ」とは、フランス語でニシコウライウグイスのことで、紋章の一番上にニシコウライウグイスが乗っていることにちなむ
ギムナジウムでは、ドイツ語と絵が得意で、スポーツマンでもあった。1938年に一家はシュトゥットガルトに引っ越したが、戦争の気配をヴィッコは感じ取っていたという。一方で、オペラが好きだったヴィッコは歌劇場でエキストラとして出演しており、この経験はその後のキャリアに活かされることになる。1942年3月、緊急アビトゥア(戦争のため簡潔化した大学入学資格試験)を受けると、ヴィッコはその数週間後に東部戦線に送られることになった。19歳になる前の夏のことだった。
貧乏生活からスタートしたキャリア
戦争が終わった1945年夏、ヴィッコはニーダーザクセン州のマルコルデンドルフという小さな村で森林局の仕事をしていた。その1年後に再びギムナジウムに通い、父親のすすめでハンブルク州立美術大学に進学することになった。ヴィッコは、そこで画家のヴィレム・グリムに師事する。グリムは学生たちに絵画だけではなく、文学と音楽も教えたという。また、ヴィッコは生涯のパートナーとなるローズ=マリー(ロミ)とも、この時期に出会っている。ロミもまた美術大学の学生だった。
1949年に大学を卒業すると、ヴィッコは週刊誌や新聞向けのグラフィックを描いて生計を立てていた。しかし、収入は決して十分な額ではなく、8平米のアパートに住み続けていたという。ロリオというペンネームを使い始めたのも、この頃からだった。そして1950年8月、週刊誌「シュテルン」(Stern)にロリオによる五つのコミックが掲載され、ついに日の目を見ることになった。
問題作で週刊誌へ抗議の手紙!?
1953年、ヴィッコに大きなチャンスが巡ってきた。シュテルン誌で「Auf den Hund gekommen」(ドイツ語のことわざで「落ちぶれる」の意)のコミック連載が始まったのだ。だんご鼻の小さな男と大きなイヌが描かれており、人間がリードにつながれていたり、イヌが人間の世話に手を焼いたりと、その役割が逆転している。しかし、一見ユーモラスなこのシリーズも、見方によってはグロテスクに捉えられ、戦後でまだ余裕のなかった人々には受け入れがたいものだった。シュテルン編集部には抗議の手紙が殺到し、雑誌の不買運動に走る読者もいたという。
だんご鼻の男はロリオを象徴するイラストとなった
『Auf den Hund gekommen 38 lieblose Zeichnungen von Loriot』
発行元:Diogenes
この騒動によってシュテルンから一度は追い出されたものの、ロリオが全国的に注目を集めるきっかけとなった。それに目を付けたのが、スイスの出版社ディオゲネスだった。そして、1954年にロリオの最初の本『Auf den Hund gekommen』が同社から出版。またロリオは妻のロミと二人の娘と一緒に、1963年にミュンジングへと引っ越し、生涯その地で暮らすことになった。
ブレーメンのロリオ広場(Loriotplatz)のベンチに座るだんご鼻の男のモニュメント
テレビ業界にドイツコメディ王が誕生
ロリオは、シュテルン誌、週刊誌クイック(Quick)のほか、大手出版社のヴェルトビルト(Weltbild)からも注文を受けるようになり、コミックアーティストとしてその存在感を示した。1970年代初頭には、およそ100万冊もの本を売り上げたという。同時期にロリオは、テレビ業界にも目を向け始めていた。1967年から1972年までSDRで放送された夜のコミック番組「Cartoon」には、自ら司会者として登場し、アニメーションのスケッチ(数分の短いシーンのこと。日本のコントのイメージに近い)が放送された。
テレビスターとなったイヌのヴムとゾウのヴェンデリン
1972年にはZDFの番組「Drei mal Neun」からの依頼で、マスコットキャラクターのイヌのWum(ヴム)をデザインした。ヴムはたちまち人気者になり、ぬいぐるみやマグカップなど次々とグッズが登場。著作権はテレビ局からロリオに返還されたという。さらに人気を博したロリオは、1974年にSDRで自らが実写のスケッチに出演するコメディ番組「Loriot's Telecabinet」を制作。そして1976~1978年に、ロリオを代表するテレビシリーズ「Loriot」がラジオブレーメンで放送された。このシリーズには、イヴリン・ハマンが出演している。イヴリンはドイツの典型的な女性として選ばれ、ロリオの妻からメイドまでさまざまな役をこなした。こうしてロリオとイヴリンは、ドイツのテレビ業界で最も人気のあるカップルになった。
緑のソファに座るロリオとイヴリン(1989年撮影)
芸術家として歩み続けたロリオ
テレビ業界で成功を収めたロリオは、子どもの頃から好きだったクラシック音楽やオペラなど、より芸術的な分野で活動するようになった。1982年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の創立100周年を記念して、室内楽アンサンブルで「動物の謝肉祭」を指揮。また、1986年にはシュトゥットガルト州立劇場でオペラ「マルタ」の演出や舞台美術を担当したほか、いくつかのオペラ作品をアレンジしている。
1984年、テレビ番組「Ein Star in der Manege」の企画でオーケストラの指揮をしたロリオ
1988年には、初の長編映画「Ödipussi」(エディプッシー)の監督および主演を果たす。東西ドイツで上映され、460万人を動員したヒット作となった。また、2作目の映画「Pappa ante Portas(パパ・アンテ・ポルタス)」は、東西ドイツ再統一後の1991年に上演され、350万人を動員。69歳になったロリオの最後の偉業となった。
2004年、80歳となったロリオは、最後の仕事としてベルリン芸術大学の名誉教授に就任した。講堂は毎回満員となり、ロリオを知らない世代でも彼のユーモアあふれる講義を楽しんだという。2007年には、ZDFの番組「わたしたちのベスト」でドイツ史上最高のコメディアンに選ばれ、ドイツ人からの愛されぶりが改めて確認された。そして、ミュンジングの自宅で2011年8月22日に亡くなるまで、だんご鼻の男とイヌのヴムを描き続けたという。
映画「Ödipussi」の主人公は、ロリオ扮する中年独身男性のパウル。イヴリンが演じる意中の(?)女性・マルガレーテと、母親との関係を中心に描くコメディ。タイトルは、エディプスコンプレックス(男子が母親に性愛感情を抱き、父親に嫉妬する無意識の感情)とパウルの呼び名「プッシー」をかけ合わせている
ロリオが光を当てたドイツ人のユーモアとは?
ロリオは自らを「ユーモリスト」と呼び、ドイツ人にもユーモアがあることを生涯にわたって証明してきた。なかなか理解されてこなかった「ドイツ式ユーモア」とは何か、ロリオの作品から考えてみよう。
参考:loriot.de、nordbayern「Loriot und wie er die Welt verändert」、Deutschlandfunk「Claudia Hillebrandt über Loriot „So harmlos war Loriot gar nicht!“」、Zeit Online「Humor-Analyse: "Loriot war ein Dichter"」
ドイツ人の性質を「笑い」に変えた
コミックから映画までロリオの作品はドイツ人の「自虐的笑い」を含むが、ドイツ人に広く受け入れられてきた。それは、きわめて日常的な風景の中にユーモアのエッセンスがあることが関係しているのかもしれない。
ロリオは、とりわけドイツ人の「秩序への愛」を好み、よく自身のスケッチでも描いている。それをよく表しているのが、有名な実写のスケッチの一つ「Das Bild hängt schief」(この絵は曲がっている)。壁にかかった絵が曲がっていることに気づいたロリオは、それを直そうとして立ち上がり手を伸ばすが、ほかの絵が曲がってしまったり、机の上のものをひっくり返したり、最終的には部屋がめちゃくちゃの状態になってしまう。このスケッチは、セリフはほぼないため、ドイツ語が分からなくても楽しめる内容だ。
また、ロリオはしばしば「コミュニケーションの失敗」をテーマに取り上げている。ロリオのスケッチでは、登場人物たちは一見「普通」に見え、正しい言葉遣いをしているにもかかわらず、人々の間に誤解が生じてしまう。ロリオはそんなコミュニケーションを誇張して描き、それを笑いに変えたのだ。常に正しさを求める傾向にある真面目なドイツ人の性質を表しているともいえるだろう。
これまたよく知られているアニメーションのスケッチの「Feierabend」(仕事帰り)では、夫婦間のコミュニケーションを描いている。リビングの椅子に座っている夫に、キッチンで忙しくする妻が話しかけているシーンを想像してほしい。
夫「うん?」
妻「そこで何をしているの?」
夫「何も」
妻「何も? 何もって?」
夫「何もしていないんだ」
妻「本当に何も?」
夫「何にも」
妻「本当に何もしていないの?」
夫「何も……ここに座っているよ……」
妻「そこに座っているのね?」
夫「そうだよ」
妻「でもやっぱり何かしているでしょう?」
夫「いや……」
妻「何か考えているの?」
夫「別に特別なことじゃないよ」
『Männer & Frauen passen einfach nicht zusammen』の「Feierabend」より
スケッチはここで終わりではなく、こうしたやり取りが延々3分半も続く。この「繰り返し」もロリオの作風の特徴といえ、話が永遠にかみ合わないというパターンが多く見られる。
「Feierabend」のアニメーションはロリオ公式サイトでも公開されているので、ぜひチェックしてみよう。
男性と女性の日常風景を描いたコミックやスケッチ80点以上が収められている
『Männer & Frauen passen einfach nicht zusammen』
発行元:Diogenes
ユーモアに隠れた社会的メッセージ
ロリオが政治的な立場を明確にすることはなかったが、ドイツ人の日常を切り取ったスケッチでは、社会的なメッセージを読み取ることもできる。例えば、1978年のテレビ番組「 Weihnachtenbei Hoppenstedt」(ホッペンシュテット家のクリスマス)では、家族が大量のクリスマスプレゼントを開封していく様子が描かれている。それが「gemütlich」(居心地がいい)な状態であると何度も強調されるのだが、それがどうもわざとらしく聞こえる。子どもの贈り物の中には、「Atomkraftwerk」(原子力発電所)のおもちゃが潜んでおり、今見ると思わずギョッとしてしまう。そんな要所要所にちりばめられた皮肉からも、ロリオが比較的早い段階で消費社会や環境問題について疑問を投げかけていたことも伝わってくる。
またロリオの作品には、知的なユーモアやドイツにおけるマナー、正しい文法など、ドイツ語を学ぶのに必要なエッセンスが詰まっており、ドイツ語教師からも好まれているという。ゲーテ・インスティトゥートを通じて全世界で紹介されており、語学学校でロリオを知ったという人は少なくないかもしれない。
ロリオは生前のインタビューで、ドイツではユーモアが生活に根ざしてこなかったことを指摘している。例えば、英国ではコメディアンは悲劇作家と同様に評価されてきたのに対し、ドイツでは常に悲劇が優位に立っていた。そんな歴史的背景があるなか、本来ドイツ人が持っていたユーモアを引き出したのが、ロリオなのだ。「誰かが何かを真剣にやろうとしてそれに失敗する時、ユーモアが生まれるのです」。ユーモアについて、生前にそう語っていたロリオ。ドイツのクラシックコメディを確立し、その後のドイツ人コメディアンにも大きな影響を与えてきた。没後10年もこうして私たちに笑いを届けてくれるロリオは、これからもドイツが誇る「ユーモリスト」であり続けるだろう。
昨年ロリオ公式サイトに、「コロナ危機の日常で楽をするために」と題したシリーズで、コロナ時代に合わせてセレクトされたコミックの一部が公開された。そのほか多くの作品が公開されているので、www.loriot.deをのぞいてみて!
ロリオ公式サイト:www.loriot.de