森鴎外没後100年ドイツに足跡を残した森鴎外
2022年7月9日で、明治時代を代表する文豪・森鴎外がこの世を去ってちょうど100年になる。文学者としてだけではなく、軍医や評論家としても活躍してきた鴎外。その功績の裏には、ドイツでの留学経験があった。そんなドイツに足跡を残した鴎外をこの地で長く広めてきた人物がいる。ベルリン森鴎外記念館を立ち上げた一人、ベアーテ・ヴォンデさんだ。不思議と鴎外の生き方とも重なる人生を歩んできたヴォンデさんに、そのエピソードと鴎外の魅力をお話いただいた。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、インタビュー:中村真人)
1916年に撮影された森鴎外
森鴎外ってどんな人?
1862年、森鴎外(本名:林太郎)は津和野藩(現島根県鹿足郡津和野町)の典医だった森家の長男として生まれた。10歳のときに父と一緒に上京すると、ドイツ語を学び始めた。その後、最年少で東京医学校予科(現東京大学)に入学し、1881年に卒業する。軍医となった鴎外は、軍における衛生学の研究のため、1884~1888年にドイツへ留学した。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンの4都市をまわり、ベルリンでは細菌学者のロベルト・コッホのもとで学んでいる。
帰国から1894年に開戦する日清戦争までの6年間は、軍医および作家として熱心に活動。『舞姫』をはじめとしたドイツ三部作が世に送り出されたのも、この頃のことである。1889年には一人目の妻・赤松登志子と結婚して子を授かったものの、すぐに離別した。そして、日清戦争の勃発により、鴎外は軍医として朝鮮、満州、台湾へと赴いた。
帰国後は、1902年に二番目の妻・荒木志げと結婚。日露戦争(1904~1905年)が終わると、1907年に軍医としての最高職である陸軍軍医総監・陸軍医務局長に任命される。日本軍に腸チフスのワクチンを導入し、かっけ病調査会を設立するなど貢献した。一方で、医務局長になったのを機に文学活動を全面的に再開させ、翻訳や現代小説を次々に発表。1912年、明治天皇が崩御し、乃木将軍の殉死をきっかけに歴史小説に転換した。
1916年には陸軍を退職したが、翌年には宮内省帝室博物館総長兼図書頭となった。晩年は史伝の執筆に取り組み、1922年7月9日、萎縮腎と肺結核により60歳でその生涯を閉じた。
参考:ベルリン森鴎外記念館ホームページ、国立国会図書館「近代日本人の肖像」
Interviewわたしと鴎外の人生
もともと森鴎外には興味を持っていなかったというベアーテ・ヴォンデさん。しかし、その人生は不思議と鴎外とリンクする部分があった。その共通点をたどりながら、鴎外の魅力を深掘りする。
お話を聞いた方
ベアーテ・ヴォンデさん
Beate Wonde
ベルリン森鴎外記念館元副館長兼キュレーター。ブランデンブルク州グーベン出身。現在はフリーランスでキュレーションを担当するほか、講演会出演などで各地を飛び回っている。ヴォンデさんが企画した鈴鹿墨の展覧会「The making of: Suzukazumi」が、バイエルン州ヴュルツブルクのシーボルト博物館で10月16日(日)まで開催中。
https://beatewonde.de
鴎外が生きたベルリンの街で
ベアーテ・ヴォンデさんから待ち合わせ場所に指定されたのは、ハッケシャー・マルクト駅から近いモンビジュウ・ホテルだった。『舞姫』で主人公の太田豊太郎の下宿先として描かれている「モンビシュウ街」と重なる。路面電車の音が響くなか、ヴォンデさんが鴎外の生きた時代のベルリンに誘う話をしてくれた。
「モンビシュウ街」はMonbijoustraßeと訳されることが多いのですが、あの向こうに「モンビジュウ通り」ができたのは鴎外が帰国した1904年になってからなので、このモンビジュウ広場(Monbijouplatz)がモデルになっていると見るべきでしょう。ではなぜ鴎外はこの広場を太田豊太郎の住まいとして選んだのか。実はここ、ベルリンでの鴎外の三つ目の下宿先からほど近く、広場の3番地にはシュプリンガー出版社があり、1階は直営の書店だったのです。鴎外文庫(東京大学附属図書館にある鴎外の蔵書)には彼が所蔵していたこの出版社の本が2冊あります。どちらも郵便、電灯といった技術に関する本。鴎外は鉄道、車、飛行機といった科学技術と人間の関係に深い興味を抱いていました。これもまた一つの興味深いテーマです。こうして現場に立って、当時の地図を開くと、『舞姫』の印象もちょっと変わってくると思いませんか。
20世紀初頭のモンビジュウ広場
東ドイツ時代、ブランデンブルク州のグーベンに生まれ育ったヴォンデさんは、1973年にベルリン・フンボルト大学に入学した。「私はど田舎出身の椋鳥(むくどり)だったので、外の世界を知ろうと外国語を何か勉強しようと思いました」。くしくも、東独と日本の国交が樹立したこの年、彼女が選んだのは日本学、そして演劇だった。
急に日本からお客さんがやって来て、でも日本語ができるのは数人だけ。それで私も1年時からバスツアーのガイドなどに駆り出されました。「これがテレビ塔、あちらが外務省です」と、まだこのぐらいしか話せない頃です。でも、何かを伝えたいというミッションの意識はとても強く、私とベルント先生、学生たちみんなが高い意識を共有していました。
ユルゲン・ベルント(1933〜1993)は当時フンボルト大学日本学科の教授で、彼との出会いはヴォンデさんにとって運命的といえるものだった。このベルント教授が後にベルリン森鴎外記念館を設立することになるのだが、時の針はヴォンデさんが学生だった頃からさらに10年ほどさかのぼる。鴎外の生誕100年に当たる1962年から65年ごろにかけて、日本では「鴎外ルネサンス」と呼ばれる動きがあった。研究が活発になり、ゆかりの地の東京都文京区に鴎外記念室(現在の文京区立森鴎外記念館の前身)が設立された。その頃、東ベルリンに滞在していたのが哲学者、評論家の篠原正瑛(1912〜2001)だった。
ベルント先生は若い頃から翻訳活動も熱心で、ちょうど東京五輪の頃、東ベルリンに滞在していた篠原さんと一緒に夏目漱石の『坊ちゃん』(ドイツ語名:Der Tor aus Tokio)をドイツ語に翻訳しました。篠原さんは鴎外ファンでもあり、『独逸日記』に出てくる場所を歩いて、どこに何が残っているかをつぶさに調べたのです。すると、鴎外のベルリンでの最初の下宿先だったルイーゼン通りとマリーエン通りの角の建物が戦災を免れて残っていた。「これは両国にとっての文化遺産」と考えた2人は、ドイツと日本の両方から働きかけ、それにより1966年に記念プレートが設置されました。その頃、ベルント先生は『舞姫』の翻訳も始めました。私の大学時代、先生とコーヒーを飲んでいたら、「いつか鴎外の記念館を作りたい」とおっしゃっていたことを覚えています。
もっとも、ヴォンデさんは「当時私が興味を持っていたのは鴎外ではなく、演劇でした」ときっぱり言う。当時、東独と日本の文化、経済交流は極めて活発で、刺激には事欠かなかった。フンボルト大学を卒業後の1979年から1年半、文部省奨学生として早稲田大学に留学する機会に恵まれた。この異文化体験は、ヴォンデさんにとって重要な意味を持つことになる。
鴎外の時代、一般の日本人が外国に行けなかったように、東ドイツ時代も、西側の外国に行くというのは特権的なことでした。だから、その経験を東ドイツ社会に還元することは、私たちの義務だと捉えていました。この点で鴎外と私は、共通します。鴎外が『独逸日記』を書いたように、私も毎週最低20〜30枚の手紙を書いていました。私が東独の友だちに手紙を送ると、皆で集まってそれを読んだそうです。今日は何を食べて、何を読んだか。外国の匂いや日常生活を伝えようと必死でした。何をやっても日記を書き、メモを取らなくてはという情熱がありました。それが自分に還かえってきて、道になるのです。
夜中に芝居が終わると、その後おでんをつくったり、お酒を飲んだり、朝帰りしたりと……。この日本での経験は私の泉になりました。鴎外もそうでしょう。4年間のドイツ留学時代は、彼の後の活動の全ての土台となりました。
今はお金さえあれば日本に行ける時代ですが、私が学生だったときは5年間ドイツで日本語を勉強して、日本に着いてからようやく日本語が分かる。鴎外は10歳からドイツ語を学んでいました。船でマルセイユに渡り、ケルンの駅に列車が到着したときに彼はやっとドイツ語を理解するのですが、その気持ちはよく分かります。
ミュンヘンに留学していた時の森鴎外(後方左から2番目)
森鴎外記念館の職員としてスタート!
1981年にベルリンに戻った後、大学で日本演劇の講師になる予定だった。しかし、講師のポストそのものがカットされてしまう。その頃、ベルリン森鴎外記念館のオープンが近づいていた。恩師のベルント教授から「しばらく働いてみないか」と誘われたこともあり、心が動かされた。1984年10月12日、鴎外のドイツ留学100周年に合わせて、森家や鴎外記念室の代表者も招いて盛大なオープニング式典が行われた。ヴォンデさんはフンボルト大学附属の記念館唯一の常勤職員となる。
ちょうど日本留学から帰ってからこの仕事を始めたこともあり、鴎外のドイツ留学が記念館での私の最初の研究テーマになりました。鴎外は私の「初恋」ではなく、「見合い結婚」のようにして始まりましたが、歳を取るにつれ鴎外がどんどん面白くなってきたのです。私が50歳になったとき、鴎外が50歳で書いた作品に夢中になりました。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツがあっという間に統一した。大学も含め社会システムが劇的に変わり、森鴎外記念館の存続も先行き不透明となる。その一方、壁が開いて日本から記念館を訪れる人の数は激増した。
壁崩壊後、多くの日本人観光客がベルリンにやって来て、壁跡と合わせて、記念館を見学に訪れるようになったのです。あの当時、年間8000人ぐらいの訪問者のほとんどが日本人だったと思います。記念館の前にバスの停留場があるほどでした。
ヴォンデさんは2020年5月に定年で退職するまで、森鴎外記念館副館長兼キュレーターを長きにわたって務めた。展覧会や講演会の企画展示も、彼女にとって大きなやりがいになったという。
私は学者ではないですし、一つのことを掘り下げるよりもいろいろなことに興味がある。木の幹よりも枝なんですね。これまで日本語を習い、演劇を専攻し、文学は常に私の中心。歴史の調査にも興味がある。それらの希望を全て実現できるのが森鴎外記念館でした。例えば、鈴鹿墨がどうやって作られるかとか、日本のマンホールのデザインをテーマにした展覧会をやったこともあります。スペースは狭いけれど、あちこちにネットワークを張って、次はどんな展覧会をやろうかと考えるのは楽しかったです。ドイツの文学ネットワークや博物館の世界でも森鴎外記念館はすでによく知られています。
鴎外の生きざまに自身を重ね合わせて
軍服に身を包む森鴎外(1899年撮影)
多岐にわたる活動を、ヴォンデさんは鴎外とも重ね合わせる。熱く語るその話からは、鴎外という人のもつ驚くべき多面性と卓越した啓蒙者としての顔が見えてくる。
鴎外は軍医が本職でしたが、隣には常に別の世界がありました。文化的、思想的な世界です。両方あると、いつでもどこかに逃げることができます。彼は軍医の仕事をこなしつつ、文学に勤しみ、本職でない方で有名になりましたよね。実際、今も生きた存在であり続けているのは文学のおかげだと思います。
鴎外は初めて腸チフスのワクチンを行ったり、最初の衛生雑誌を出したり、医学者として良いことをたくさんやっています。同性愛や性教育についても書いており、私はまだ研究したいテーマがいっぱいありますよ。鴎外のすごいところの一つは、同じ問題について専門家同志のために学術的に書くと同時に、一般の人にも分かるように適切な言葉で伝えられたこと。例えば、牛乳を飲んだら健康に良いか悪いかを衛生雑誌で学問的な記事を書き、同時に読売新聞に誰でも分かる記事を寄稿したのです。
今のコロナ時代を鴎外はどう考えたかなと思います。彼の時代にはかっけの問題がありましたが、未知の病気の究明には数十年かかることもあります。後からこれはダメ、あれは間違いだったと言うのは簡単ですが、もっと過程を見るべきだと思います。もし鴎外が1日だけ今の時代に遊びに来ることができるなら、聞いてみたいことがたくさんありますね。
コロナ禍直前の2020年1月、ヴォンデさんが森鴎外記念館で最後に企画したのは書道展「百折不回(ひゃくせつふかい)」。「何度失敗しても諦めないこと」という鴎外の言葉は、そのままヴォンデさんの生きてきた道ともどこかで重なり合う。記念館の母体であるフンボルト大学への感謝をこう語った。
森鴎外記念館が設立されたときはどこに属するのかはっきりしておらず、ベルリン市の施設になる可能性もありました。もともとベルント先生のヴィジョンとイニシアティブで始まり、先生自身も日本文学の翻訳者だったので、やはり大学に残した方がいいのではないかとなりました。この記念館は再来年(2024年)に設立40周年を迎えます。何度か存続の危機はありましたが、フンボルト大学がお金を出し続けてくれていることに感謝しなければなりません。外国の文学者のための施設にずっと予算を出し続けていて、ドイツ語と日本語の2カ国語で展示している。すごいことだと思いますよ。
そして、森鴎外記念館を訪問された多くの方々との交流も私の財産です。ここでは誰が入口のベルを鳴らすか分かりません(笑)。鴎外研究者から若い旅行者まで、実に多種多様な方から質問を受けました。「鴎外はチョコレートが好きだった」という話を聞いて自分で調べてみたり、その場で答えられないときは後で手紙を書いてお返事をしたり……。互いに影響し合い、学び合う。それは私の研究の刺激になりました。
2011年6月、天皇陛下(当時皇太子)がベルリン森鴎外記念館を訪れた際、ヴォンデさんが案内役を務めた
「ベルリン森鴎外記念館は全ての森鴎外記念館のお姉さんです」とヴォンデさんはユーモアを込めて語る。ゆかりの地である文京区立森鴎外記念館(2012年開館)、津和野の森鴎外記念館(1995年開館)よりも古い。まず外国で森鴎外記念館が生まれ、鴎外の母国での活動に刺激を与えた。ヴォンデさんは日本の森鴎外記念館でも講演を行うなど、「互いに影響し合い、学び合う」関係は今も続いている。2021年秋、そんなヴォンデさんに日本政府から旭日双光章が授与された。「ドイツにおける日本文化の紹介および日本・ドイツ間の相互理解の促進に寄与」したというのが受章理由だった。
ちょうど実家のあるグーベンに滞在中、日本大使館から連絡が届きました。グーベンは国境の町で、ナイセ川の対岸はもうポーランドです。子ども時代に立っていた原点といえる場所で受章の知らせを受けたのはうれしかったですね。私の遠くへの憧れはここから始まったからです。当時、小学校に行くため毎日鉄道の踏切を越えなければなりませんでした。貨物列車やワルシャワ行きの列車を眺めながら、あの先にはどういう世界があるのかと思いを巡らせました。境界を超えて、遠くに行きたい……。
鴎外というペンネームはカモメから取られていますよね。「おりがあっても外に出ることができる。それを助けるのは精神世界である」とは、鴎外からの最も重要なメッセージだと思います。鴎外を通じて、数多くのユニークな経験ができたことに私は感謝しています。
Info
ベルリン森鴎外記念館
Mori-Ôgai-Gedenkstätte
鴎外がベルリンで最初に住んだアパートと同じ建物内にある記念館。常設展のパネルには白木や和紙が使われ、鴎外の文学とその多面性を紹介している(日独併記)。19世紀当時の下宿の内装を再現した部屋も。没後100年を記念して7月14日(木)の記念式典を皮切りに、さまざまなイベントを企画中。詳しくはホームページへ。
オープン:火・水・金12:00~16:00、木12:00~18:00
住所:Luisenstr. 39, 10117 Berlin
URL:http://u.hu-berlin.de/ogai
ヴォンデさんおすすめ鴎外作品5選
「鴎外の古い文体のテキストを読むのは時に苦労します。でも、何回読んだ作品でも視点を変えて読むことで、彼の作品からはいつも新しい見方を得られるのです」とヴォンデさん。鴎外の多彩な作品の中から、おすすめの5作品を選んでいただいた。
1.『妄想』(1911年)
鴎外の没後100年の機会にまずおすすめしたいのが、50歳の鴎外が自身の人生を振り返って書いた『妄想』という短編作品です。ベルリン時代についての印象的な記述もあります。
2.『高瀬舟』(1916年)
高瀬川を下る船に、役人と弟を殺して遠島に送られる男が乗っています。役人は地位と金を手にしていますが、内面的には幸福ではありません。一方、愛する弟のために、病気で苦しむ彼の自死を助けてしまった男は、とても幸せそうに見えます。この作品はよく安楽死問題と結び付けられますが、私にとっては幸福とは何かを問いかけてくる大好きな作品です。
3.『じいさんばあさん』(1915年)
ある仲睦まじい夫婦がいました。子どもにも恵まれますが、夫は傷害罪を犯して左遷されてしまいます。実に37年ぶりにこの夫婦は再会するのですが、最初の頃と変わらない愛を持ち続けており、すっかり歳を取った2人の互いへの接し方がすてきです。男女平等の観点からも優れた作品だと思います。
4.『大発見』(1909年)
鴎外のユーモアに出会いたかったら『大発見』を読むべきです。なんと「ヨーロッパの人びとは鼻をほじるのか」が主題で、鴎外がドイツ滞在中に直面した問題が大真面目に論じられます。
5.『花子』(1910年)
哲学や人種の違い、さらに「日本人女性の美とは何か」という主題を語るため彫刻家のロダンを登場させるなど、短い中に多くの要素を盛り込んだ卓越した作品です。鴎外はベルリンの日刊紙の小記事からヒントを得て、この短編を一気に書き上げました。
『ちくま日本文学017 森鴎外』
著者:森鴎外
発売元:筑摩書房
『妄想』、『高瀬舟』、『じいさんばあさん』、『大発見』が収録された森鴎外の短編集。