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ベルリンの壁崩壊35周年記念特集ベルリンの壁崩壊後のドイツで 「見えない壁」を見るために

来たる11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから35年を迎える。東も西も関係なく喜びに沸いたあの日から35年。東西ドイツの経済格差をはじめ、2015年の難民危機や極右の台頭など、人々の間には今もさまざまな形で「見えない壁」が立ちはだかっている。ベルリンの壁崩壊から世界が学んだことは一体何だったのか、「壁」を壊す・越えるには何が必要なのか。国際関係学者である羽場久美子さんへのインタビュー、そしてさまざまな世代・文化的背景を持つドイツ在住・出身者の視点を通して考える。
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ベルリンの壁崩壊

分断された二つのドイツ ベルリンの壁、建設・崩壊の歴史

参考文献:本誌 1108号「分断された2つのドイツの物語」、1109号「2つのドイツが迎えたあの日とそれからの30年」、Bundeszentrale für politische Bildung「Die Berliner Mauer」、Westdeutscher Rundfunk Köln「Geteilte Stadt Berlin」

冷戦による二つのドイツの誕生

ベルリンが東西に分断されたのは、第二次世界大戦後のこと。1945年7月のポツダム会談で米国、英国、フランス、ソビエト連邦(ソ連)による共同統治が決まる。首都ベルリンについては、ソ連が連合国軍が同市へ侵攻する前に東側を占拠していたため、残りの西側を米国、英国、フランスで分割・管理することになった。

もともとはドイツの再統一を目指しての決定であったが、西側では資本主義と議会制民主主義を、東側はドイツ社会主義統一党という形で社会主義を主張。ソ連代表が連合国統制評議会から脱退し、1949年5月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生した。西ドイツは米国、英国、フランスの占領地区が統一され、各国がソ連の軍力と共産主義の浸透を防ぐために経済的に支援した結果、奇跡的な経済復興を遂げた。一方、東ドイツの多くの個人商店は財産を没収され、生活協同組合への加入を強制された。農業生産は劇的に落ち込み、経済崩壊の危機に瀕していた。

突然現れた厚い壁

こうした不安定な状況により、1950年代に入ると東ドイツから西ドイツへの逃亡が急増。東ドイツ政府は市民の移動を阻止し西側へのルートを封鎖するため、1952年5月26日に連邦共和国とのドイツ内陸国境を閉鎖した。しかし、ベルリンは市全体が4カ国の共同管理下にあったため境界線がなく、西側に向かう抜け道だった。1949〜1961年までの13年間で、東ドイツの人口の約15%に当たる273万9000人が東から西へ流出したとされている。

突然現れた厚い壁

これに危機感を覚えた東ドイツ政府は、1961年8月12日から13日の真夜中過ぎにかけて、ついに壁の建設を始める。13日の午前1時45分ごろには西ベルリン全域が封鎖され、武装した東独部隊が国境に並んだ。壁建設からすぐは、まだ逃亡のチャンスも残っていたが、やがて国境には5キロにも及ぶ立入禁止区域が設置される。1970年代に入ると、世界の人々、そして多くの西ベルリンの人々も、ドイツが分断されている状況に慣れていった。

民主化の波とベルリンの壁崩壊

転機が訪れたのは1985年。ミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任し、政治体制の改革「ペレストロイカ」を推進する。それに伴い、東欧諸国でも民主化を求める声が高まっていった。1989年5月には、ハンガリー政府が国境にあった有刺鉄線を撤去。これを知った東ドイツ市民たちは、ハンガリー経由でオーストリアの国境を越え、西ドイツへと渡った。内側から改革を目指す運動も広まり、1989年9月4日にライプツィヒで行われた市民デモでは「大量逃亡の代わりに旅行の自由を」というスローガンが掲げられた。

こうした状況に対応すべく、1989年11月9日に東ドイツ指導部が新たな渡航規制を発表した。新政令について正しく理解していなかったスポークスマンは、会見で記者の質問に対し、新しい旅行規則が「今すぐに」効力を発揮すると発言。このニュースを聞いた東ベルリン市民たちは、国境沿いのゲートに詰めかけ、その数は3万人にも及んだという。やがてゲートが限界を迎え、人々の安全のために遮断機が上げられた。こうしてベルリンの壁が崩壊。東ベルリン市民は、西ベルリン市民によって迎え入れられ、朝まで共にパーティーを楽しんだ。

鉄のカーテンと共産主義体制が崩壊した当時、多くの人がもう二度とこのような悲惨な壁が築かれることはないと思っただろう。しかしながら、ベルリンの壁が崩壊した35年前よりも、人々を分断する物理的・心理的な「壁」は世界中で増え続けている。その後の35年に築かれた「見えない壁」について考えることが、これからの未来を考える上でヒントとなるかもしれない。

人々の間に再び築かれた壁世界から「壁」はなくせるのか?

昨今ドイツでは極右・極左政党が支持率を大きく伸ばすなど、ベルリンの壁が崩壊して35年がたった今もなお、人々の間に見えない壁があることを感じる場面が少なくない。現在ドイツを含む欧州で右傾化が進んでいるのはなぜか、ベルリンの壁崩壊後の欧州がどんな経験をしてきたのかをひも解くことで見えてくるかもしれない。再び築かれた壁を私たちはなくすことができるのか、国際関係学者の羽場久美子さんにご自身の経験も併せてお話を伺った。(取材:ドイツニュースダイジェスト編集部)

羽場久美子さん Kumiko Haba 羽場久美子さん Kumiko Haba 青山学院大学名誉教授、世界国際関係学会副会長(2016-17)、世界国際関係学会アジア太平洋会長(2021-24)、現在早稲田大学招聘研究員、京都大学客員教授。著書に『ヨーロッパの分断と統合―包摂か排除か』(中央公論新社)、『移民・難民・マイノリティー欧州ポピュリズムの起源』(彩流社)など多数。 https://side.parallel.jp/kumihaba

壁崩壊の歓喜はどこへ?
東側の1年後

もともと冷戦は私自身の重要な研究テーマであり、ベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦の終焉は自分自身の転機でもありました。ベルリンの壁が崩れたとき、テレビでは歓喜する若者たちが映し出されていましたが、ソ連からの解放と自立の道をずっと研究してきた私も、欧州の「ユーフォリア」(極度の幸福感)に共感するところがあり、当時多くの新聞や雑誌論文にも寄稿しました。他方で混乱を客観的に分析したいという気持ちもありました。なぜなら現地の知人たちが混乱を表明していたからです。

それから1年後、ベルリンにも行きましたが、東西の貧富の差が著しかったことを覚えています。あのテレビで見たような笑顔や歓喜は東西のどちらにもあまり見られず、特に道を歩く東ベルリンの人たちは本当に暗い顔をしていました。当時、共産主義的な知識人は亡命し、多くの人が元シュタージとして逮捕されています。実際に東ベルリンにあるフンボルト大学を訪れても、共産主義政権下で知っていた研究者の多くが解雇されたり亡命したりして、ほとんど残っていませんでした。またコール政権下で東西マルクを1対1で交換可能と宣言された結果、当初それは東ドイツで歓喜を持って迎えられたものの、旧東ドイツの国営企業の製品は誰も買わなくなり、倒産へと追い込まれていきました。旧東ドイツの働く人々の5割以上が失業したといわれています。

ドイツ銀行の窓口に押し寄せた東ベルリン市民東西マルクの換金のためにドイツ銀行の窓口に押し寄せた東ベルリン市民(1990年7月1日撮影)

一方ハンガリーは対照的で、多くの共産主義者が銀行員やマクロ経済学者になって生き残っていました。例えば、マルクス経済大学(現ブダペスト経済大学)で共産主義を教えていた人たちがマクロ経済を教えるというような状況で、とてもプラグマティックで興味深かったです。そもそもハンガリーにはポーランドなどと同様に、壁崩壊前から「市場社会主義」が実践され、マクロ・ミクロ経済が導入されていました。またそうした比較的自由な経済活動の中で、隣国のオーストリア国境周辺の住民は国外へ買い出しに行けるなど、東ドイツとの大きな違いがありました。

他方で冷戦終焉後、それまでロシア語が義務教育だった東欧でロシア語教師をしていた女性、また保育園の閉鎖により子どものいる女性が働くのが難しくなったことから、多くの女性たちが職を失います。旧社会主義国では共働きによって家庭が支えられていたので、そうした結果、西側諸国へ売春や人身売買などを含め、出稼ぎに行かざるを得ない状況も出てきたのです。実際に訪れた東側は、1年前にテレビを通じて切り取られて拡散されたユーフォリアとは大きく異なる混乱状況で、非常に強いショックを受けました。

冷戦時代のヨーロッパ

若者やエリートたちは西へ
大多数が貧しい生活に

少なくとも1990年初めまではユーフォリアがありましたが、1年も経つと、誰もベルリンの壁崩壊が「平和と自由の象徴」とは言わなくなっていたと思います。その当時、「鉄のカーテンは崩れたが、レース(ブリュッセルの特産)のカーテン、紙幣(西側の紙幣)のカーテンが東西を覆った。今度は西側から見えない壁が作られてわれわれを排除した」ということがよくいわれていました。東欧諸国の人々は、解放されて豊かな西側の一員になろうとしているのに、自分たちは貧しいまま差別され、排除されているという意識が、その後10年の間に強まっていくことになります。

そんななか、若者たちは次々に西側へ行きます。特に英語を駆使して西側で活躍できるポテンシャルのある大卒の若者たちや頭脳労働者は、英国やフランス、旧西ドイツ、ブリュッセルなどに移り、ほとんどが自国へ帰ってきませんでした。それから医師や大学教授、核技術を持った軍事科学技術者たちなどのエリートも、次々と国境を超えて西側へ移っていきます。給与も東側に比べて3倍や10倍にもなるので、著しい頭脳流出が起こりました。

一方で、新しい職場で働けないような中堅労働者や年金生活者の暮らしは厳しいものでした。社会主義時代は給与の7~8割程度の年金をもらえていたため、悠々自適の老後を過ごしていました。しかし、新しい時代に入って物価は西側並みに急上昇したにもかかわらず、賃金水準は変わらなかったため、社会主義時代の賃金のままでは生活できなくなります。さらに年金は目減りして、年金生活者たちはパンとミルクを買うのがやっとというような生活になってしまったのです。国に残った人たちは、社会主義時代よりもずっと厳しい物価高と賃金格差にあえぐことになります。

さらに国家破綻したウクライナやモルドバでは大量の人身売買が発生。ホテルや新聞社、テレビ局や城に至るまで、その多くが西側企業によって買い占められました。このように、東側では資本主義に移行できた人たちが豊かになった一方で、圧倒的多数の人たちが物価高にあえぎ貧しくなるような状況が90年代に広がり、21世紀になっても改善されないまま今日に至っています。

ドイツ再統一後に行われた東ベルリンのデモドイツ再統一後に行われた東ベルリンのデモでは、「1990年10月3日、私たちは故郷を失い、二度と見つけられなかった」と記されたプラカードが掲げられた(1991年撮影)

極右勢力の台頭は自分たちを守るため

『東欧にとって、89年、90年は資本主義、自由主義、民主主義が非常に美しいものに見えていたし、自分たちは本当に西欧や米国のようになれると思っていました。次々に社会主義を捨てて民主化・自由化を達成し、欧州連合(EU)にも入っていくわけです。ところが、それは個々人の生活にとっては幻想だった。逆に西側から見たら、東側は社会主義時代の四十数年間で著しく遅れていて資本主義も自由主義もあまり発達していない。鉄のカーテンは崩れましたが、東西の格差は現在に至るまで縮まることがないばかりか、東側に対する蔑視と非難が恒常的に投げつけられてきたのです。

冷戦時は東側に西側の資本主義が入ってこないように、あるいは社会主義の民衆が西側へ逃げないように、東側から壁が築かれました。一方冷戦終焉後は、豊かな西側が、東側の貧しい人々が大量に西側に入ってこないように壁を作ってきました。東側の壁は「イデオロギーの壁」だったのに対し、西側の壁は「格差を固定化する壁」だったといえます。

そうしたなか、東欧諸国の政府は西側批判として右傾化を正当化してきました。西側からすれば、東欧諸国は後進国だから右傾化したと思うかもしれません。ただ、これだけの社会転換を経験した東欧の国々としては、右傾化は自己防衛のための行動だったともいえるのです。

オルバーン首相2024年6月10日、欧州議会選挙での勝利を祝うハンガリーのオルバーン首相(中央)

その結果として、例えばハンガリーのオルバーン首相のような人物が出てきて、リベラルではなく「イリベラル(非自由主義的)な民主主義」が唱えられるようになりました。ハンガリーは、EUに入っても結局西欧から差別され排除されていると感じたとき、自分たちはどこの国と手を結べば国益になるかということを考えたのです。その結果、あれほど嫌っていたロシアや中国やシンガポール、トルコなどと連携して、自国経済を発展させようという方向に転換します。これはまさに、自己防衛本能でもありました。当時ハンガリーは極右の代表として非常に批判されましたが、ドイツでは東西の格差、西欧諸国でも都市と農村の間で深刻な格差があり、それが現在に至る自己防衛による右傾化の背景になったと考えられます。

ブリックスやグローバルサウスに見る未来像

2010年以降、ユーロ危機などでEUの成長が頭打ちになってきた一方で、中国やインドをはじめとしたブリックス(BRICS:ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)がものすごく成長してきました。その結果ハンガリーのように、これらの国と一緒に歩んだ方が自分たちの経済もよくなるのではないかと考える国がいくつも出てきます。

例えば、中国やインドは、周りの貧しい国々のインフラを整備し、高速道路や高速鉄道を作るなど投資をしています。インドに至っては、南アジア大学を設立し、アフガニスタンやスリランカなどの近隣諸国の若者たちを無償で教育しようとしている。現時点では国同士はけんかをしているかもしれないけれど、若者たちが共に学びそれぞれの国で働くようになったら、EUのようにお互いに助け合うだろうというビジョンを掲げ、共同発展を目指しています。

格差や差別、排除の壁は、資本主義が生み出したものです。本来、旧社会主義の体制というのは、中世から近世の帝国のように、貧しい地域を豊かにするため引き上げようとしてきました。中国やインドも問題を抱えながらそうした取り組みを進めています。排除ではなく、貧しい国を底上げして共に豊かにするという方向性が、今後は重要になってくるかもしれません。

今年9月、中国で開かれた国連平和デー記念式典に招聘され参加する機会がありました。80カ国130団体が来ていたのですが、面白いことに圧倒的にグローバルサウス(南半球を中心とした新興国・途上国の総称)の国々が多かったんですね。なかでも南アフリカの元大統領であるカレマ・モトランテ氏が「イスラエルのジェノサイドを止めることが私たちの使命である」という趣旨の発言をしていたのが印象的でした。われわれグローバルサウスの国々も戦争によって被害を受けている。われわれは平和、そして安定と発展を望むといわれていて、とても心に響きました。

実際に、戦場で犠牲になっているのはロシアとウクライナ東部の人々、イスラエルに爆撃されているガザの人々ですが、戦争の影響を受けて食物や石油が届かなくなった第三世界では飢餓が起きている。グローバルサウスは生活の中から平和を求めているんですね。戦争の終結や共同発展を望むグローバルサウスの国々を巻き込む形で、連携と共同による新しい国際社会を共に作っていくことが、今の不安定な状況を変え、戦争を終わらせていくことにつながるのではないかと思います。

壁をなくすためにこれからの100年を考える

そもそも物理的な壁がなくなっても、本能的に人の心の中には何重にも壁があるのだと思います。壁は、最初は物理的なものとして現れますが、徐々に社会構造の中に現れる心理的な壁、つまり格差や差別などの見えないガラスの壁として立ち現れてきます。例えば、ドイツに入ってきたムスリム系の難民などに対して、入国管理で物理的に排除するだけではなく、ヘイトなど心の中で差別して排除するようなイメージです。

今こうした心理的な壁の存在が、極右や極左を生み出していると思います。西側から差別されてきた東欧諸国側から見ると、自分たちの人権や発展の要求がなぜ認められないかという立場で、ぎりぎりのところで戦っている。その差別や格差は先進国の中にも内包されていて、内側からも極右や極左が現れてネオリベラルの自由競争を批判している。また逆にこの極右や極左を批判している人々も、無意識のうちに差別と排除を実行していることを認識していく必要があると思います。

これは日本の話ですが、これから急速に少子高齢化が進んで、あと40~50年もすると生産年齢人口は半分になるといわれています。欧州も同じ状況です。少子高齢化問題は、まさに移民問題につながります。歴史人口学者のエマニュエル・トッドはすでに30年前、白人の人口がイスラム系の人口に凌駕されていくという統計を出していました。今まさに日本や欧州は、移民が入ってくることをはじめ、新しい時代の多様な価値感を受け入れるのか、それとも壁を築いて移民を排除し、静かに衰退していくのか、いずれかを選ばなければならない状況に来ているといえます。

人類の歴史を振り返ってみると、古代や中世で500年以上続いた帝国というのは、基本的に多民族国家なんですね。例えばローマ帝国は法によって人々を支配しましたが、その中にはイスラム教徒もユダヤ教徒もいました。オスマン帝国もイスラム教が基本であるにもかかわらず、キリスト教徒も国に追従するのであれば認めるというような、非常におおらかな体制でした。実際に中国やインドのような人口が多いところでは、多民族・多宗教国家として国を統治しようとしています。そういった国々が欧米をしのいで成長していくとしたら、国民国家そのものの考え方も変わっていくような気がします。

今後の100年をどう作っていくかは、われわれにとって重要な課題だと思います。国連の人口統計が示しているように、G7に代表されるような欧米の民主主義・自由主義システムを取る国は75年後には1割ほどに減り、8割がブリックスやグローバルサウスの国々となります。今や中国とインドのIT・AI人口はそれぞれ10億人、6億人の計16億人で、これは欧米と日本のIT人口8億人の2倍に相当します。人口や経済で負けているばかりか、すでにIT人口の数で負けているという状況下です。先進国はイスラムやアジアの人々、考え方、価値観などを考慮することなしに果たして生き残れるのか、という時代に入っているのではないかと思います。ですから、先進国から貧しい国を排除する壁を作るのではなく、壁を開いて共に生き延びる時代を作っていかなければならないと考えています。

ハンガリーとセルビア国境に築かれたフェンスの壁難民が自由に入ってこられないように、ハンガリーとセルビア国境に築かれたフェンスの壁(2016年)

ドイツ出身・在住者と考える分断と再生「壁を感じる」のはどんなとき?

ベルリンの壁が35年前に崩壊し、ドイツを分断する物理的な壁はなくなった。一方で、社会にはさまざまな分断が存在し、それが強化されてしまうこともあれば、乗り越えようとする努力も絶えず行われている。そんなドイツ社会で私やあなたを隔てる「見えざる壁」の存在について、ドイツ在住のさまざまな世代・文化的背景を持つ方々の声を聞いた。※各回答は、あくまで個人の見解です。

旧東ドイツ人と旧西ドイツ人の壁

ハンス=ユルゲン・シュタルケによるカリカチュア(1994年)ハンス=ユルゲン・シュタルケによるカリカチュア(1994年)。
レンガの接着剤が入ったそれぞれのバケツには、
「オッシーは怠け者で、世間知らずで、鼻持ちならない」(左)、
「ヴェッシーは傲慢で、利己的で、冷酷」(右)と書かれている

  • 壁崩壊後のドイツで育った自分にとって、正直なところ、東西の境界線は必ずしも明確ではありません。一方で、もちろん社会的には大きな格差があります。西ドイツの人々は1990年以降、方向転換をする必要がなく、新しいシステムを学ぶこともなく、システムが消えていく様子や工場が大量に閉鎖されるのを経験しませんでした。こうした経験の違いが、異なる影響とお互いへの理解の難しさを生んでいると思います。(A、20代、ポーランド出身)
  • あるとき、旧東ドイツ出身の友人が「ドイツ再統一は、新たな機会を得たというよりも、祖国を失うという感覚だった」と言っていて、これは自分にとって全く知らなかった視点でした。このアイデンティティ・クライシスは、現在も旧東ドイツの社会的・政治的状況に影響を及ぼしていると思います。同時に、この視点に対する旧西ドイツ人の無知は、旧東ドイツ人が社会の中心から阻害されていると感じる原因でもあります。時間の経過とお互いへの理解こそが、本当の意味で助けになると思います。(A、20代、デュッセルドルフ出身)
  • 私は1990年の東西ドイツの統一をベルリンの東側で経験し、2015年の難民危機の際にはバイエルン州にいました。10月3日がドイツ統一記念日だという話をバイエルンの人と話していたときに「その日って、バイエルンも祝日なの?」と聞かれたことがあります。比較的最近の話です。州が変わるとこれほど関心も薄れるのかと、びっくりしたのを覚えています。(T、50代、日本出身)
  • 特に高齢者の間では、「他者」に対する偏見がまだ残っていると思います。「ヴェッシー」(Wessi、西ドイツ人)は傲慢で知ったかぶり、「オッシー」(Ossi、東ドイツ人)は愚かで怠け者。そうした先入観を持ち、お互いの意見に耳を傾けようとしないのは大きな問題です。こうした偏見は若い世代では薄まっていると感じます。(J、60代、エーレンフリーダースドルフ出身)
  • 旧西ドイツに住む自分の家族が(軽蔑的な意味で)旧東ドイツの人々について話すとき、あるいは自分が旧東ドイツの人と話しているときに「ヴェッシー」という言葉を聞いたとき、どちら側からも壁を感じました。連邦政治における旧東ドイツからの代表を増やすこと、東西分断を助長するようなソーシャルメディアの取り締まりなどがもっと必要なのではないでしょうか。(K、30代、ハノーファー出身)

経済・教育格差の壁

  • 旧東ドイツでは、さまざまな職業の人が生活の中で混ざり合っている状態が望ましいと考えられていました。そのため私が子どもの頃住んでいたアパートには、職人、弁護士、医者、組立ライン労働者など、さまざまな隣人がいました。それが今日では、それぞれの経済状況によって住んでいる場所が異なるし、受けられる教育にも経済格差が明らかに反映されています。もっと公的扶助のある住宅が増えてほしいと思います。(F、40代、ヴェルニゲローデ出身)
  • 全ての人が質の高い教育を平等に受けられるような教育政策改革と、学校への財政支援が必要だと思います。教職員の給与を改善し、生徒への個別支援を強化する。今日でも、アカデミックな家庭の子どものほとんどが大学で学んでおり、非アカデミックな家庭の子どもで大学に行けるのはごく一部です。親が教育を重要な財産と考えなければ、どんなに優秀な子どもでも大学に入るのは非常に難しいと思います。(I、30代、エッセン出身)
  • もちろんドイツ東部の収入や仕事の少なさは問題ですが、東部の住宅は西部に比べてはるかに安価です。例えばライプツィヒでは、そうした安い家賃や生活費に惹かれて、西側や外国から若いアーティストやデザイナー、スタートアップが集まってきました。また教育制度でいえば、ザクセン州は優れた学校制度で知られているなど、ポジティブな面にも目を向けることは大事だと思います。(S、40代、ケムニッツ出身)
  • 地区間の境界線も、壁のように作用することがあると思います。住んでいる街を歩くと、どの地区が裕福かがはっきりと分かります。最も厚い壁は、貧富の差によるもので、残念ながら最近ますます厚くなっています。(E、60代、ブレーマーハーフェン出身)

ドイツ人と移民の壁

ドイツ各地にある難民キャンプドイツ各地にある難民キャンプでは、子どもたちのためのワークショップなども行われ、
インテグレーションの機会を提供している

  • 2016年に難民申請者としてドイツに渡り、申請と並行してドイツ語とドイツ文化を学びました。申請には長い時間がかかりますが、その間は働くことができず、自分が社会からはみ出た存在のように感じていました。その後、宅配ドライバーとして働いていたときも、荷物を届けに来ただけなのにすごく警戒されたり、怖がられたりすることがありました。難民による犯罪がメディアで強調され、「難民は危険」という固定概念がさらに強まっていると思います。(K、30代、アフガニスタン出身)
  • ドイツで外国人が滞在許可を得るためにはさまざまな申請が必要ですが、一般的なドイツ人でこのシステムについて理解している人はほとんどいません。私はよく外国人の友人をビザの申請などで助けてきましたが、用意すべき書類の多さや、複雑なプロセスにいつも驚かされます。ドイツ語ネイティブである私自身が、理解するのに時間がかかるような申請も少なくありません。(A、20代、ポーランド出身)
  • 難民危機の際、熱狂的に難民を受け入れて支援しようとした人たちと、難民に恐れを抱く人たちがいましたが、彼らの間に接点や対話はほとんど存在しないと思います。難民受け入れが地方自治体を圧迫し、一つの学校に難民の子どもたちが集中してしまっているといったニュースを昨今よく目にします。また、一人の難民による殺傷事件が国内で起こると、それが人々の心に恐怖心を植え付けてしまう。そして多くの人が、政治に対する信頼を失ってしまっていることも、この問題に大きな影を落としていると思います。 (T、50代、日本出身)
  • もちろんそれぞれの文化には違いがあります。私たちは何よりも、互いに学び合う覚悟を持つべきだと思います。(E、60代、ブレーマーハーフェン出身)

ジェンダー/セクシャリティの壁

  • ドイツにおける性差別は、まだまだ克服されていないと思います。例えば、大学で年配の教授が30年前なら受け入れられたような(差別的)発言をしたとして、私たちはそれをただ笑って受け流すことしかできない。また一部の社会層では、「フェミニスト」という言葉が侮辱的な意味合いで使われているように感じます。(A、20代、デュッセルドルフ出身)
  • LGBTQIA+にとっての壁。ベルリンはゲイパレードに象徴されるようにLGBTQIA+ フレンドリーな街ですし、当事者である私とパートナーはこれまでのところ不安なく暮らせています。一方で、日常で好奇な視線を向けられたり、雇用における差別を受けたりしたという知り合いも。誰もが自分らしく安心して暮らすには、法が整備されて終わりではないと思います。(D、30代、ブラジル出身)
  • 自分の仕事をきちんとこなし、お互いに敬意を持って振る舞う限り、性別の違いはますます少なくなっていると感じています。しかし、旧東ドイツ地域に引っ越して気づいたことがあります。ここでは、女性たちが西側よりもずっと自信を持っているように思えました。これは、彼女たちが東ドイツの統一前に完全な労働力として認識され、男性と平等に扱われていたからかもしれません。(J、60代、エーレンフリーダースドルフ出身)

ジェネレーションの壁

  • 若者と高齢者の間の価値観、ライフスタイル、テクノロジースキルの違いは、しばしば誤解を生む原因となりますが、私はこれは当たり前のことだと思います。どの新しい世代も、親の世代から何かを変えたいと考えます。ほかの世代の経験に対するオープンさや、お互いから学ぶことが重要ですし、これは政治的なレベルだけでなく、家庭教育によって形作られるものでもあります。私はこれを壁ではなく、歴史的に全ての世代が同じであることを映し出す鏡だと感じています。(I、30代、エッセン出身)
  • 高齢者の貧困は問題ですし、一方で若い人々の間では年金制度への信頼が薄れています。さらに、デジタルデバイド(情報格差)という問題もあります。つまり、年齢により人々が社会的な参加や関与から排除されることがあるのです。(A、70代、ベルリン出身)
  • 少子高齢化が進むドイツでは、「高齢者のために政策を進めている」と不満を持つ若い世代が少なくありません。なぜなら高齢者は多数派であり、若者よりも重要な有権者グループだからです。若者が高齢者と同じような経済的・社会的な機会を得ることができず、世代間で世界政治の見解や未来に対する印象、考え方が食い違ってしまいます。(D、30代、リューネブルク出身)

ドイツ語の壁

  • ドイツ社会への統合や社会包摂には、語学力がとても重要だと思います。プライベートな場面では、限られた語学力でも十分にやり取りできることがよくあります。しかし、言語は出会いや意思疎通の基盤であることに変わりはありません。お互いの言語を十分に理解できない人同士の会話は、本当の意味でのつながりを深めることが難しく、結果として関係が表面的になりがちです。(F、40代、ヴェルニゲローデ出身)
  • 移民である自分は、ドイツ語を一対一で話すときは理解できるのに、数人のネイティブスピーカーに囲まれると途端に話に入れなくなることがあります。一方で、自身の考えをつたないドイツ語でも言葉にし続けることで、面白がってもらえたり、仕事でアイデアが採用されたりする。また忍耐強く私のドイツ語に耳を傾けてくれる人たちとは、かけがえのない友人になることができました。(E、30代、ベトナム出身)

ほかにも感じる日常の中の壁

  • 民主主義に対する姿勢のギャップ、権威主義的なリーダーを強く求めたり、陰謀論にのめりこんだり。これらは全て、細分化されたメディアによって助長されていると思います。特にソーシャルメディアは、自分の中の「バブル」(閉ざされた環境)でのみ情報や意見を受け取る傾向を強めています。(A、70代、ベルリン出身)
  • 富める者はますます富み、貧しい者はどんどん貧しくなる新自由主義的な社会の中で、さまざまな分断が起こっています。ドイツ人は言論の自由を愛し、対話を愛する人たちだと思っていたけれど、問題と根本的に向き合う対話が失われてしまっているのを感じます。そういう分断という名の壁を社会のあちこちで感じます。(T、50代、日本出身)
  • 今回の特集制作のために、さまざまな人にアンケート協力を依頼するなかで、特に旧東ドイツ出身の方や移民・難民の方から「このテーマについて簡単に言葉にできない」「回答することが辛いので協力できない」というお返事をいただきました。そうした返答自体が、ドイツ社会の現状を反映しているのは言うまでもありません。回答くださった方々に感謝すると共に、「多数派に声をかき消されてしまった人」「歴史の中であえて沈黙を選んだ人」の存在についても、真摯に向き合いたいと思いました。(編集部O、30代、日本出身)
 
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