青木周蔵という人物をご存じだろうか?激動の明治時代を生き、外務大臣にまで上り詰め、不平等条約から始まった日本の国際社会における地位向上のため、先頭に立って舵取りをした政治家だ。留学時代と外交官時代に、合わせて25年をドイツで過ごしたドイツ通で、日本にドイツ文化を伝える役目も果たした。
今回、彼の子孫であるニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵に、家族だからこそ知り得るエピソードも交えて、青木周蔵の人生を語っていただいた。そこから、自分の前に道はなく、外交の前例も慣例も日本には存在しなかった時代に、国際人として毅然と振る舞った青木周蔵の大きな背中が見えてきた。(取材協力:ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵 / 文:高橋 萌)
プロフィール
ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵
Niklas Salm-Reifferscheidt
青木周蔵の子孫で、オーストリアにあるシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)を管理するザルム家の当主。墺日協会(Österreichisch-Japanische Gesellschaft)の理事も務める。
日本開国と日独交流史の始まり
青木周蔵の歩みをたどる前に、まずは日本開国の歴史を簡単に振り返ってみよう。ペリー提督が米国から「黒船」に乗ってやって来たのが1853年。その5年後に、米国、英国、ロシア、オランダと修好通商条約(1858年)、いわゆる「不平等条約」が締結され、200年以上続いた日本の鎖国政策は終焉を迎えた。プロイセン(ドイツ)が、日本と日普修好通商条約を締結したのは1861年1月24日。この日から今日まで、日本とドイツの交流は続いている。
那須塩原市に青木周蔵が建てた青木小学校の100周年記念行事に参加する
ニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(右)
青木周蔵、ドイツ留学へ
青木周蔵 ベルリン留学当時
日本とプロイセンの条約締結から7年後、青木周蔵は何度目かの嘆願の末に長州藩の許可を得て、ベルリンを目指して出発した。時は明治元年、明治維新のまっただ中。大きな野心と祖国への想いを胸に出国した青木だが、そもそも、なぜドイツ行きを熱望したのだろうか。
生まれは1844年。医師の家系であった三浦家の長男として團七(だんしち)と名付けられた彼は、明倫館に入門。そこの教諭であった蘭学者・青木周弼の弟・青木研蔵に才覚を見出され、養子となる。この2人から1字ずつもらい、「周蔵」と改名。医師となる道が定まったような縁組みだった。
蘭学を通して医学を学んだ青木は、オランダがドイツの医学を参考にしていることを知り、さらに「1866年の普墺戦争でもプロイセンはオーストリアに勝利したのだから、プロイセンの科学は優れているはずだ」と、ドイツ留学を強く望むようになった。
ドイツで何を学ぶべきか
1868年夏に日本を出た青木周蔵が欧州の大地に立ったのは12月半ば。青木を乗せた船は、まずフランス・マルセイユに到着した。ここで、彼は人生を変える1つ目の体験をする。
当時のフランスは、ナポレオン3世の時代。青木はその日、豪華絢爛なそろいの制服で行進するフランス軍を目撃し、興奮した。「我が国にも、洗練された制服を着た軍隊の整備が必要不可欠だ」
春になって、ようやくハノーファーに到着した青木は、2つ目の体験に遭遇する。
ベルリン行きの電車の出発まで、まだ1時間あるからと散歩に出た彼は、深い霧に包まれた。眼前に広がる野原には、壁のようなものが見える。いや、壁だと思っていたものが、掛け声とともに動き出すではないか。いったい何事が起きたのかと近付いてみると、それは一糸乱れずに訓練する兵士の隊列だったのだ。「服は地味だが、ドイツの軍隊は強い」。1870年に開戦する普仏戦争直前の出来事であった。
この経験を経て青木は、日本が強国と肩を並べるためにドイツから学ぶべきことがあると、医学部から政治・経済学部に専攻を変える。無断で変えたものだから、後にこのことは問題となった(山縣有朋が来独した際に解決)。
ちなみに、ドイツに初めて留学した人物は会津藩から派遣された小松済治で、1868年10月21日にハイデルベルク大学医学部に学生登録したと記録されている。続いて1870年に赤星研造(福岡藩出身)。その同年、青木はベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学医学部に入学した。
日本にもビールが必要だ
青木が日本に報告した通り、普仏戦争ではプロイセンが勝利し、日本のプロイセンへの注目度は急上昇。1872年には北ドイツ留学生総代に任命され、青木は100人を超える日本人留学生を預かる身となった。ベルリンに派遣された留学生は、医学部や法学部志望者ばかりという状況だったが、林業、地理学、繊維加工、政治学、文学など、ほかの学問を学ぶよう学生に提言した青木。方々から不平不満もあったが、中にはその重要性を理解し、青木の言葉に従った者もいた。
その1人が、黒田清隆。北海道の開拓長官である彼に、青木周蔵は1通の熱のこもった書簡を出している。「ビールは酒よりアルコール度数が低く、栄養価の高い飲み物です。労働者の飲み物として、日本人もいずれビールを飲むようになるでしょう」と記し、北海道の気候が大麦の栽培やビール製造に適し、地域経済の助けになること、ビールは健康にも良いことを伝えた。
もう1人が、中川清兵衛。青木は彼にビール醸造技術習得を勧め、ベルリンビール醸造会社で学べるように援助した。2年2カ月の修業を終え、日本へ帰国した中川は、青木の書簡を受けた黒田に抜てきされ開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)の初代醸造技師に。日本のビール造りの第一人者となった。
ドイツ人女性エリザベートとのロマンス
1873年には、岩倉使節団のドイツ視察の通訳を務め、外務省に入省。翌年には駐独公使として正式にドイツへ赴任する立場となった彼は、1人の美しいドイツ人女性と出会う。エリザベート・フォン・ラーデという貴族の娘だ。
実らないはずの恋だった。青木は既婚者だったのだから。青木家との養子縁組の条件の1つが、養父・研蔵の娘テルとの結婚で、養子になると同時に結婚が決まったのだ。現在よりも家との繋がりが強固だった時代である。
しかし、そんな自身の境遇はどこ吹く風と、青木はエリザベートとの愛を貫こうとする。ここで、政治家としての彼の有能さを垣間見る気がするのだが、すったもんだの末、なんと青木家との養子縁組はそのままに、テルとの離婚を承諾させたのだ。
ところが1879年、妊娠中のエリザベートを連れて日本へ帰国した青木は、そこで信じがたい光景を目撃することになる。大勢の出迎えの中に、前妻テルの姿があったのだ。しかも、テルは離婚の話を聞いたこともないと言う。青木家としては、日本ではテルと、ドイツではエリザベートと暮らせば良い、これで丸く収まると考えたのだ。それでは納得しない青木がテルに新しい夫を見付け、結納金も青木が負担する形でようやく離婚が成立し、晴れてエリザベートと夫婦となり、その結婚は死が2人を分かつまで続いた。
(左)周蔵の娘、若き日の青木ハナ (右)青木周蔵、娘ハナと孫のヒサ
(左)ベルリンで青木周蔵と婚約した当時のエリザベート・フォン・ラーデ
(右)アレキサンドル・フォン・ハッツフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵
不平等条約の改正に尽力
1880年、再び駐独公使としてベルリンへ向かった青木は、大日本帝国憲法の草案や、その他の法案作りに奔走する。当時、日本の法整備が急ピッチで行われた背景には、不平等条約改正という目的があった。
青木は憲法作りにも積極的に取り組み、もっとも古い私擬憲法として知られる『大日本政規』を、1872年に作っている。1882年には伊藤博文の欧州憲法調査に同行し、大日本帝国憲法の父と呼ばれるベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト教授とウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタイン教授を伊藤に紹介。1889年、ついに大日本帝国憲法が布告されたことで、青木の働きは結実した。
憲法の布告により、日本を対等に扱うべき相手として認めるよう、欧米諸国に強く働き掛けることができる体制が整った。その年の12月24日、第1次山縣内閣の外務大臣に就任し、条約改正に向けた方針を「青木覚書」として内閣に提出した。大津事件で引責辞任した後も、ドイツ公使を務めながら、イギリス公使を兼任して条約改正に関わり、1894年、ついに日英通商航海条約の改正に成功した。
ドイツ文化を色濃く残す青木邸で
その後、再び外務大臣を務め、米国大使としてワシントンの社交界で一目を置かれる存在となった青木だが、1908年に日本に帰国してからは徐々に政界との距離を置く。日露戦争で勝利(1905年)した日本は、欧米から「脅威」とみなされ、日独関係も難しい時期に差し掛かっていた。
一方で、政界から引退した青木が力を入れていたのが、那須塩原市にある青木邸を拠点にしての農業開拓。この青木邸は、ドイツで建築を学んだ松ヶ崎萬長の設計で1888年に建てられたもので、日本に残る松ヶ崎の唯一の作品。現在は、国の重要文化財に指定されている。
1913年末に風邪をこじらせた青木は、翌年2月16日、69年の生涯を閉じた。日本がドイツに対し最後通牒を行い、ドイツの植民地、青島とミクロネシアをめぐる日独戦争が勃発したのは、その約半年後の8月。愛する2国が砲弾を打ち合う事実を知らずに済んだのは、青木周蔵にとって幸運なことだったかもしれない。
旧青木家那須別邸前で
ニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(左)と、
妹のソフィーさん(中央)
旧青木家那須別邸前のヒマワリ(那須塩原市)
写真提供:栃木県観光物産協会
ドイツ人のような日本人
それにしても、青木周蔵という人物は、強靭な精神力を持っていた人に違いない。子孫であるニクラス・サルム氏にも、「青木周蔵は、日本人としては直接的にものを言い過ぎるところがあり、ドイツ人のような日本人だった」と伝わっている。長州藩に無断で留学先の学部を変更したり、養子でありながら本家の娘に離縁を申し出たり、あの時代に国際結婚に踏み切ったり。まさに、異例のオンパレード。
そんな彼の心情についてサルム氏は続ける。「彼は、日本の将来の発展を確信しながら、そのために日本が変わらなければならないことを承知していました。だからこそ、彼は変化を恐れない人でした」。主張すべきは主張し、変化を受け入れることによって、自分の人生も、日本の未来をも切り開いた青木周蔵。目まぐるしく変化する時代の波にもまれても、決して自身の本懐を見失わなかった彼の強さに学びたい。
青木家の家系図
青木周蔵の年表
1844年3月3日 (天保15年1月15日) |
長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)に生まれる |
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1866年 | 蘭学者・青木周弼の弟・青木研蔵の養子となって士族となる |
1868年(明治元年) | 長州藩の許可を得て、ドイツへ渡る |
1870年(明治2年) | ベルリンで留学生活をスタート |
1872年(明治5年) | 北ドイツ留学生総代を務める。私擬憲法『大日本政規』作成 |
1873年(明治6年) | 外務省に入省 |
1874年(明治7年) | 駐独代理公使、駐独公使となってドイツに赴任 |
1875年(明治8年) | オーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任 |
1878年(明治11年) | オランダ公使を兼任 |
1879年(明治12年) | 日本に帰国。条約改正取調御用係に任命 |
1880年(明治13年) | 駐独公使としてベルリンに再赴任 |
1885年(明治18年) | オランダ、ノルウェー公使を兼任 |
1886年(明治19年) | 日本に帰国し、条約改正議会副委員長に。第1次伊藤内閣の井上馨外務大臣の下で外務次官を務める |
1889年(明治22年) 2月11日 | 大日本帝国憲法の布告。12月24日、第1次山縣内閣の外務大臣に就任 |
1891年(明治24年) | 第1次松方内閣で外務大臣を留任するも、大津事件が発生し、引責辞任 |
1892年(明治25年) | 駐独公使としてドイツに赴任。駐英公使を兼任 |
1894年(明治27年) | 日英通商航海条約改正に成功 |
1898年(明治31年) | 第2次山縣内閣で外務大臣に再就任 |
1900年(明治33年) | 枢密顧問官を経て叙勲され、子爵となる |
1906年(明治39年) | 駐米大使に任命 |
1914年(大正3年) 2月16日 |
栃木県那須郡那須町にて没する。享年69歳 |