ドイツと日本をつなぐアンバサダー TOPCON 欧州コンプライアンス責任者
稲留 康夫
Mr. Yasuo Inadome
プロフィール
1981~83年、国費留学生として渡独。84年に日本の光学機器メーカーTOPCON社に入社。86年から現在まで、ドイツ・ヴィリッヒ市で職務に当たる。ヴィリッヒ市日本クラブ会長、独日協会ニーダーライン副会長、フィーアゼン郡、およびヴィリッヒ市のCDU プロテスタント教徒労働サークル委員長を兼任。2015年にはデュッセルドルフ日本人クラブ広報部長として、外務大臣表彰を受けた。
ドイツのリトル・トーキョーと呼ばれるデュッセルドルフから西に25キロの距離に位置するヴィリッヒは、人口5万人規模の市でありながら、30もの日本企業が拠点を構える場所として知られている。稲留康夫さんは、日本とドイツの相互理解の促進という功績を称えられ、2006年にはヴィリッヒ市の名誉市民のメダル(Ehrenplakette der Stadt Willich)を、そして昨年は外務大臣表彰を受けた、誰もが認めるヴィリッヒの顔だ。
母国を背負うチカラ
日独関連の催しでドイツ語の司会や講演を堂々と務めると、「彼は完璧な、そしてトーマス・マンやシラーを想起させるような少し古風な響きのドイツ語を話す」と、地元紙の記者が舌を巻く。外務大臣表彰を得たデュッセルドルフ日本人クラブ広報部長としての活動は早10年以上。ドイツの学生が日本についての論文を書くのを手伝い、講演会で日本企業の当地への進出の歴史を語り、アニメやマンガを愛するコスプレイヤーを前に手塚治虫の話をする。「ドイツ人は、私たちを見て日本という国を計ります」。だから、「ここで生活する日本人は皆が大使なんです」という心構えで30年間、ドイツで暮らしてきた。
「私自身がドイツで留学していた学生の頃、ドイツの人に助けられてきたので、その恩返しになれば」と振り返ったベルリン留学時代、学生寮は東ベルリンにあった。共産圏の国民ではないため、毎日のように西と東の壁を超えて歩くことができた。ドイツ史を専攻し、コンラート・アデナウアーを敬愛する学生にとって、まさに歴史の1ページを生きた経験。その留学中すでに、ドイツで就職したいと、気持ちは固まっていた。ドイツに進出していたTOPCONにドイツ語を解する新入社員として採用され、2年半後にドイツへの駐在が決まった。「当時は、永住するつもりで日本を出ました」。
フェアに戦うチカラ
「カルチャーショックを受けたことは、正直ないんです」。異なる歴史、文化的背景を持つ日本とドイツには、しかし共通の価値観や美徳があると稲留さんは実感する。真面目で時間に正確であること、親切や清潔を好むこと、根底にある価値観を同じくする二国間は、1万キロの距離ほど遠くない。
また、ドイツ人と働くときに気をつけているのは、「公正であること」。ドイツ人の部下に対して常にフェアであろうとする努力を惜しまない。すると相手から、信頼という形で評価が返ってくる。顧客としてのドイツ人は、「新しいものに対して懐疑的で、妥協を許さない、完璧主義なとても難しい客」。しかし、「地元に競合がたくさんいる中で、外国製品も良いものは良いと受け入れられる」。適正な価格、最高の技術で一度でも彼らを納得させることができたなら、揺るぎない信頼関係を獲得できる。「ドイツの消費者の心をつかむことができたら、欧州のどこに行っても大丈夫」。つまり、最難関のドイツをクリアしたら、欧州での成功が見えてくる。ここはまさしく欧州市場の登竜門といえる。
結びつけるチカラ
CDUのプロテスタント教徒労働サークルの
委員長に選出された際の稲留さん
デュースブルク=エッセン大学で開催される
「企業シュミレーション交渉ゲーム」に特別講師として
毎年参加。今年の開催は7月2日
これから世界に出ようという挑戦者に向けて、稲留さんは「世界を知れば知るほどに、自分と自分の国を知ることができます」とメッセージを送る。ゲーテの言葉にある通り、「外国語を学ばない人は、自分の国の言葉もわからない(Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.)」ということを、日本を出て初めて知る。「ドイツに来たことで、自分の人生は豊かになりました。一度きりの人生です。どこの国でも良いので、日本の代表として世界に出てみてください」。
若い人たちに激励の言葉を贈る稲留さんが、今後挑戦してみたいこととは? 「将来、定年退職したら、もう一回ドイツの大学に入り、ドイツ文学やドイツ史を学びたい」。心底、ドイツにほれている。