壁崩壊から20年
「もう」なのか、「ようやく」なのか。2009年、ベルリンの壁崩壊から20年を迎えての感慨は、人によって、あるいは視点の置き方によって様々だろう。
壁の時代は遠くになりにけりと私が感じるのは、市内にごくわずかに残る本物の壁の前に立った時だ。表面のコンクリートはガリガリに削り取られ、錆付いた鉄骨がむき出しになって向こう側が透けて見えることもある。にもかかわらず、今日も世界中の観光客が絶えることなく訪れ、その前でにこやかに記念撮影をしている。壁はいまや、ベルリンを代表する観光アトラクションになった。
金融危機の世の中だが、ベルリンを訪れる観光客の数は右肩上がりだそうだ。団体ツアーには必ず壁跡を巡るコースが含まれているし、壁を見たいと言ってやって来る個人旅行者も少なくない。市内に残る最長の壁、全長1.3キロの「イーストサイドギャラリー」は今年全面的に修復され、その表面にアーティストが新たにペインティングをすることになっている。そもそも負の遺産であるコンクリート製の壁が、なぜ人々をそんなにも引き寄せるのだろうかと、時々ふと思う。
風化し、錆び付いていく一方の本物の壁とは対照的に、ベルリンの町は見事なまでに生まれ変わった。とはいえ、ベルリンを隅々まで歩くと、20年という歳月は傷だらけ の大都市を完全に復興させるには決して十分な時間ではないことを感じる。壁によって東西が分断されていたのは28年間だが、第2次世界大戦の惨禍と壁建設に至るまでの平穏でない年月を含めると、ベルリンはほぼ半世紀もの間、1つの都市としての成長過程から阻害されていた。ポツダム広場は確かに新生ベルリンの象徴と言えるかもしれないが、中心部にまだこれだけ空き地や廃墟が存在する大都市も珍しい。ベルリンはこれからも変わり続けるだろう。「ようやく」始まったばかりなのだ。
私はベルリンの壁を直接には知らない。分断時代、西から東へ行く際の検問所の手続きがいかにわずらわしいものだったかとか、当時のベルリンにしかなかった重苦しさ、焦燥感、刹那的な雰囲気、そのコントラストとしての自由な空気といったものを、実感を持って語ることはできない。だが、ちょうど世界の地理と歴史の授業を受けていた中学生時代、遭遇した壁崩壊のニュースは、鮮やかな記憶をもって、今も脳裏に浮かんでくる。何となく普遍的な事柄のように思っていた教科書の太文字の用語が書き換えられることなどありえるのかと知ったのは、生まれて初めてのことだった。あの時、テレビの画面を通して感じたドイツの人々の歓喜とうねりは、その後の現実が痛みを伴うものであったとしても、私の中で は不思議と色あせることがない。
今年、ベルリン市は「Mauerfall 2009」を掛け声に、壁崩壊年を回顧する大小さまざまな企画を予定している。そのような取り組みを紹介しながら、壁があった時代とは何だったのかを改めて振り返ってみたいと思う。