ジャパンダイジェスト

WISTAに見る東独の再生例

ベルリンの中心部からSバーンで約30分、旧東地域のアドラースホーフ(Adlershof)は初めて降りる駅だった。戦前からの古い駅舎と工事中の真新しい駅前とのコントラストが印象的だ。多くの学生が向かう方向に歩いて行くと、ヨアヒム・メルケ氏(70歳)が迎えてくれた。先日、あるコンサートでたまたま隣合わせになったことから知り合った同氏は、東独時代、科学アカデミーの広報担当として働いていた。東西統一後も科学ジャーナリストとして活躍した彼が、「東独再生の最大の成功例の1つ」と語ったアドラースホーフのWISTAに私が興味を示したところ、案内していただけることになったのだ。

WISTAとは、「科学・経済の所在地アドラースホーフ」の略語。4,2平方キロメートルの敷地の中に、410の科学系企業、147のメディア関連会社、フンボルト大学の自然科学系の6つの研究所、それ以外の研究機関などが並び、約1万4200もの人々がここで働いている、ドイツでも最大級の学術・テクノロジーパークである。

メルケ氏の車で、WISTAの敷地内を回った。とにかく広いことに驚く。私は日本の学術都市のような人工的な街を想像していたのだが、建物のスタイルが多種多様で、決して無機的ではない。その理由は、この場所の歴史を紐解いてみると見えてくる。

そもそもの出発点は1909年、この敷地にヨハニスタール飛行場が建設され、飛行機の組み立てと整備が行われる重要な基地となったことだ。ナチスが台頭してからは、軍用機開発と戦争の準備のための施設へと姿を変える。第2次世界大戦末期の45年4月23日には、制圧したロシア軍がまさにここから80万もの砲弾を市内に向けて打ち込み、その数日後にベルリンは陥落した。

東独時代は、科学アカデミーの研究センター、国営放送局、シュタージの保安部隊など機密度の高い重要施設が建ち並んだ。物理学者だったアンゲラ・メルケル首相が、かつて勤務していたのもここだ。

東西統一後、ベルリン市がこのテクノロジーパークの開発に2億ユーロ以上を投資して以来、注目すべき成果を次々と生み出し、アドラースホーフは学術都市としてドイツ内外にその名を知られるようになった。敷地内を巡ると、カラフルなガラス張りの建築がある一方、飛行場時代のレンガ造りの格納庫や、ナチス時代に飛行機の落下を測定するために建てられた石造りの塔が保存されていて、ドイツの技術史を垣間見る思いだ。東独時代に国営放送局があった場所はメディアセンターに生まれ変わり、今年9月の総選挙直前に行われたメルケル首相とシュタインマイヤー外相のテレビ討論もここが舞台だった。

「アカデミーの乳房」
東独時代、科学アカデミー物理研究所のシンボルだった通称
「アカデミーの乳房」。メルケル首相も、かつてこの場所に
勤務していた

メルケ氏によると、壁の崩壊後、科学アカデミーの解体と再編に伴って、職を失い路頭に迷った人も少なからずいた。だが、そこから注目すべき成功例も生まれているという。

「ゼンテック(SENTECH)」の創始者アルブレヒト・クリューガー氏もその1人だ。1990年、科学アカデミーの物理学者だったクリューガー氏は、ちょうどアメリカ系の会社を解雇されたばかりの西独出身のヘルムート・ヴィテク氏と出会い、光学式の薄膜測定装置を販売する同社を創業した。「ヴィテク氏がマーケティングを担当して私は製品の開発と、役割分担は当初から決まっていました。それは今もうまく機能しています」。いわば東西のコラボレーションから生まれた企業ゼンテック。現在、従業員50人を抱える企業に成長し、その装置は世界中の研究所で愛用されている。

 
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中村さん中村真人(なかむらまさと) 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。現在はフリーのライター。著書に『ベルリンガイドブック』(学研プラス)など。
ブログ「ベルリン中央駅」 http://berlinhbf.com
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