5. オペラの誕生2
夕暮れのアルノ川
前回お話ししたように、紀元前のギリシア劇を再現するに当たり、カメラータ(オペラを最初に作った文芸グループ)たちが作曲段階で犯した過ち・・・・・・。それは、本来ギリシア劇における登場人物になかった「歌」を付けてしまったことです。今日では、歌がなかったという事実は解明できることですが、この当時は、1500年以上も前の時代考証など、明らかにできないのも致し方ありませんでした。
ただし、ギリシア劇は音楽によって劇が進行していったのは事実で、舞台下(オルケストレ)にいるコロスといわれた合唱隊の歌や踊りによって、場面や物語の経緯の説明を補っていました。それは野外劇場という、今日のような舞台背景がないことによる解説の役目もありました。この平土間を意味するオルケストレには楽隊もいて、伴奏をしていたのですが、これが後々ステージに上がってきたオーケストラの語源で、例えば、パリの旧オペラ座1階の床にはOrchestreの文字がモザイクで埋め込まれていますが、これは、ここが平土間であるということを示しているのです。
さて、この後にオペラと呼ばれる作品「ダフネ」ですが、試演したところ大変評判になって、人気が出てしまいます。それまでの音楽といえばグレゴリオ聖歌(単旋律、無伴奏の宗教音楽)が主流で、ポリフォニー(多声音楽)で和音が幾重にも重なり合い、残響の長い教会内においては響き渡って何を歌っているのか聴き取れないのですが、何ともありがたい敬虔な“お経”のような効果をもたらしていました。それに対してこの新たな出し物(ダフネ)は、モノフォニーという単純な1つのメロディーラインで、歌詞が聴き取りやすく、ドラマとして楽しむことができました。
この噂を聞き付けたメディチ家が、まもなく執り行われる予定の娘マリアとフランス王アンリ4世の結婚式でぜひとも上演したいと願い、彼らの依頼によってオペラ史上第2作目となる「エウリディーチェ」が生まれたのです。
このマリアとは、現在、ルーブル美術館のルーベンスの間を飾る絵画(全24作)「マリー・ド・メディスルの生涯」のご本人そのものなのですが、当時は、誰も彼女の波乱万丈な生涯を予測できなかったことでしょう。