38. オーストリア、アイゼンシュタットに立ち寄って
ブルゲンラントのブドウ畑(アイゼンシュタット郊外)
前回登場したルストへ行く途中、バスはアイゼンシュタット(Eisenstadt)を経由します。この町は元来ハンガリー領だったため、今でもハンガリー系の人がたくさん住んでいるそうで、どこか東欧の香りが漂っています。街並みはパステルカラーに塗られた可愛い家々が連なります。
この地を治めていたハンガリー出身の貴族、ニコラウス・エステルハージ候は無類の音楽愛好家として知られています。その候のお気に入りがヨゼフ・ハイドンで、候の没後も含めて40年近く仕えました。エステルハージ宮殿から、現在ヨゼフ・ハイドン・ガッセという名の通りに入りほんの100mほど行った19-21番地に彼は住んでいました。淡いブルーに塗られた可愛い家で、中庭もあり静かな佇まいです。現在はハイドン・ハウスとして見学をすることができます。
ハイドンは機知に富んだ性格だったことで知られていますが、少年時代はウィーン少年合唱団の前身であるシュテファン大聖堂の聖歌隊に属しています。そこでの悪戯事件の数々が記録に残っていますが、ミサで歌っている最中に前列の少年の後髪(当時は三つ編)を切ってしまい、とうとう解雇されてしまいます(ちょうど変声期にも差し掛かっていたそうですが)。
交響曲には魅力的なタイトルが付けられたものが多く、初期ではウィーンの「朝」、「昼」、「夕」をはじめ「哲学者」、「告別」、「校長先生」、有名な曲では「驚愕」、「軍隊」、「時計」など、曲名を見ただけで聴いてみたくなるほどです。「告別」は離宮での演奏会が長引き、早く家に帰りたい楽団員達からの苦情を聞き入れた形で作曲されました。最終楽章の途中、弱音器をつけ静かに演奏されるあたりからパラパラと楽団員が譜面台の蝋燭を消して退出して行き、最後はコンサート・マスターと指揮者だけが残ることで、候への無言のメッセージを伝えました。そんな悪戯好きでウィットに富んだハイドンですが、曲は様式美を踏みはずさないので品格が保たれています。
このエステルハージ宮殿には現在ハイドン・ザールと冠されたホールがありますが、ウィーンの楽友協会ができるまでは最高の音響を誇っていたといわれています。客席が660席と小さなホールで、バロック調の内装と共に優雅に響くことでしょう。毎年9月初旬にはハイドン・フェスティバルも開催されているようです。