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ヒロシマから世界へ平和の種をまき続けて - 広島・長崎原爆投下から75年

広島・長崎原爆投下から75年 特別インタビュー
ヒロシマから世界へ
平和の種をまき続けて

第二次世界大戦の集結から75年を迎えた今年。戦争体験者の声を伝える記事やテレビ番組も多く見かけるが、5年後や10年後にはその機会は一体どれほどあるのだろうか。平均年齢83歳となった広島・長崎の被爆者のおひとりである森下弘さんは、世界平和巡礼などに参加し、ドイツでも平和活動を行ってきた。NHKBSプレミアムのドキュメンタリードラマ「Akiko’s Piano~被爆したピアノが奏でる和音」の被爆ピアノを救ったことでも知られる森下さんが、その体験と平和への思いを語ってくれた。 (Text:中村真人、取材協力:一般社団法人HOPE プロジェクト)

森下弘さん 森下弘さん Hiromu Morishitao 1930年広島県生まれ。旧制広島県立広島第一中学、広島高等師範学校、広島大学文学部国文学科で学ぶ。大学卒業後、広島の県立高校の書道科の教諭に。後に島根大学、広島文教女子大学でも教鞭を執った。米国人の故バーバラ・レイノルズが立ち上げたワールド・フレンドシップ・センターに1965年の設立当初から関わり、1985年から2012年まで理事長を務めた。

広島が修羅場となったあの日のこと

1945年8月6日の朝、広島第一中学3年だった森下弘さんは比治山(ひじやま)のたもと、鶴見橋の西側にいた。広島は近いうちに空襲を受けるだろうという予測から建物疎開(空襲時の被害を広げないために家屋を取り壊す作業)を急いでいた。

その日は2回目の建物疎開で、すでに倒した家の柱や瓦をどこに運ぶといった仕事の指示を受けていました。その時です。ものすごい爆風に襲われ、煮えたぎった巨大な溶鉱炉に投げ込まれたかのようでした。爆心地から1.5キロの地点です。私は気を失い、顔や手足に大火傷を負いましたが、同じ班の70人は結果的に全員助かった。もし仕事が始まって、裸になって作業をしていたら、みんな死んでいただろうと思います。

空は真っ暗で、不気味な静けさでした。しばらくして皆で連れられ、ゾロゾロと比治山に登りました。山の上から市内を見ると、街全体がなくなっていた。別の世界、次元に飛び込んだような感覚でした。やがて向こうから兵隊の群れがやって来ました。みんな申し合わせたように帽子の下から皮膚がずるっとむけて、手をもたげていて……。何事か分からないけれども、全く奇妙なことが起こったと思った。周りのお年寄りや女性たちは、みんな腰を抜かしたように「ナンマイダ、ナンマイダ」と言いながら怯えていました。

河原にはたくさんの死体がころがり、至るところで修羅場がありました。広島駅まで行って、自宅のあるその先の白島(はくしま)に入ろうとしましたが、熱風の壁に弾き返された。火が収まるまで駅裏の山の上で待って、ようやく夕方になってから鉄橋の枕木を渡って家へたどり着きました。しかし家はもうそこにはなく、郊外の知人の家を頼りにとぼとぼ歩いて、とっくに日が暮れたなかでたどり着き、そこで気を失いました。

数日後、父親が自宅の焼け跡を掘りに行くと、母親の骨を見つけました。頭の上から下まで押しつぶされて即死のような感じで骨になっていたそうです。あの日の朝、家の格子戸から母が私を見送っていたのを覚えています。それがさえない、どこかつまらなそうな表情だったのです。何かを予感していたのかもしれません。父と2人の妹は助かりました。

半年間、知人の家でお世話になりました。包帯を替えると傷口から膿がドロドロ出て、「痛いよ、痛いよ」と苦しみました。毎日死体を河原で焼くという噂を聞いて、「自分はいつ死ぬのだろうか」と思った。見舞いに来てくれた叔母は、火傷も傷も負っておらず元気そうに見えたのに、しばらく経って口から黒い泡を吐いて亡くなった。放射線障害のことなど当時は誰も知らず、「原爆の毒」といって皆が恐れていました。

半年後にバラックの校舎でやっと学校が始まりましたが、みんな「生き残って良かった」ではなく、「わー!」と叫び出したいような感じでした。先生方も含めて親しい人が亡くなり、1クラスが全滅した例もありました。自分たちはけがをして、食べるものもない。それまでは「天皇陛下のために」と信じ込まされ、歯を食いしばって作業に励んでいたのに、精神的なバックボーンを失ったことも苦しかったです。

大学で文学を学ぼうと思ったのは、すべてが崩壊するという寂寥(せきりょう)感にとらわれて、滅びないもの、ロマンの世界を求めていたからかもしれません。母親への愛情、そういうものへの憧れもありました。でも、途中で結核を患って死にかけ、卒業後も就職は難しい時期。父が書道の先生だったこともあり、途中から書道の単位を取って、この科目の教員になりました。

写真左)6歳の時に自宅の中庭で撮った家族写真、写真右)広島高等師範学校時代に。旧陸軍被服支廠校舎にて写真左)6歳の時に自宅の中庭で撮った家族写真、写真右)広島高等師範学校時代に。旧陸軍被服支廠校舎にて

子どもたちが平和巡礼を決意させた

高校の教師になった森下さんだが、さまざまな苦しみから、被爆体験を封印していた時期が続いたという。その心境に変化が生まれたのは、原爆を体験していない戦後生まれの世代が高校生になったぐらいの頃だった。

生徒の引率で平和記念資料館に行ったら、ケロイドのアルコール漬けなどの展示品を見た生徒が、私のそばで怖いと言っていた。私も顔にケロイドが残っていますから、授業中に生徒たちが自分の顔を時々注視しているのをふっと思い出し、それから教壇に立つのが怖くなって原爆の話を避けていました。そんな頃、東京の友人から「戦後生まれの高校生は、原爆についてどう感じているのか」という質問をされました。体験者であり、生徒たちと日常を過ごしている自分が彼らの思いを何も知らなかった。私はそれを恥じて、生徒たちの意識を調べてみようと思いました。

もう一つ、森下さんにとって重要な転機となるのは、1963年に長女が生まれたことだった。

原爆のあの日、広島駅の裏から鉄道のガード下を通って自宅に帰る途中に、真っ黒焦げの幼児の死体が転がっていました。泥まみれでミミズのように。自分の子どもの安らかな寝顔を見ていた時に、ふとあの真っ黒焦げの幼児がオーバーラップしたのです。「これはいけん」と。前向きに語っていかなければというきっかけになりました。

そんな時期、森下さんのもとに平和巡礼の話が届く。広島在住のバーバラ・レイノルズという米国出身でクエーカー教徒の女性が、1964年に「広島・長崎世界平和巡礼団」を組織して、核保有国を中心に8カ国、150の都市を訪れて核廃絶を訴える巡礼の旅を企画したのだった。

実はその少し前に高教組(高等学校教職員組合)を通じて「東ドイツの病院でケロイドを直す手術を受けてみないか」という招待を受けていたのですが、いくつかの理由から断念していました。外国に行くチャンスを逃して残念に思っていたこともあって、平和巡礼にぜひ参加しようと決意しました。

トルーマン元大統領と面会を果たす

参加した25人の被爆者(広島から19人、長崎から6人)は、医師、主婦、新聞記者などさまざまな立場の人から成り、森下さんは教員として参加。さらに学生の通訳が付いて総勢約40人の大所帯となった。最初に向かったのは米国。そこでは、原爆投下を決定したハリー・トルーマン元大統領と面会する機会も。

トルーマン氏と面会したのは、ミズーリ州のカンザスシティにあるトルーマン・ライブラリーの講堂でした。いろいろと話したかったのですが、氏には被爆者と会うことへの恥じらいや躊躇があったようです。それでバーバラさんが向こうの人と計らって、壇上には団長の松本卓夫先生だけが上がり、私たちはその下で様子を見ていました。「なぜ原爆を投下したのか」という質問には、「数十万の若い兵士を救うためだ。本土決戦になったらさらに多くの犠牲者が出ただろう」という説明を繰り返すだけ。私たちとしては「すまなかった」の一言が欲しかったですが、そういうやりとりはなかった。「戦争を終わらせるために仕方がなかった」と。面会はごく短時間で終わり、みんな悔しがっていました。でも、バーバラさんは、「(元大統領が)あの場に出てきただけでも成功だった」と話していましたね。

この時、森下さんのメモ書きには、トルーマンが語った言葉や居合わせた人の声が記されている。「日本と米国はひょんなことから戦うことになったが……二度とああいうことにならないように……」、「原爆投下を決定した時、幼い命の(原文ママ)たくさんあることを考えなかったのか」、「『あんな会見、やらない方がましだ』と」。ニューヨークでは国連を訪れ、ウ・タント事務総長(当時)と面会。原爆被害について科学的な調査をしてほしい旨を伝えた。その後、欧州に渡り、フランスや東西ドイツ、ソ連などを訪問する。

1964年、広島・長崎世界平和巡礼でトルーマン元米大統領に面会した際に記したメモ書き1964年、広島・長崎世界平和巡礼でトルーマン元米大統領に面会した際に記したメモ書き

熱心に耳を傾けていたドイツ人たち

検問所を何度か往復して、東西ベルリンを行き来しました。西側から東ドイツの親戚を訪ねてきた家族がいて、短時間滞在してまた向こうに帰らなければならない。そこで別れを惜しんでいる姿を見たのを覚えています。私たちは学校や教会、ライオンズクラブなどで被爆体験をお話しました。受け入れてくれたのが進歩的な考えの人たちだったこともあり、熱心に耳を傾けてくれました。西ベルリンでは学生会館で大きな集会が開かれ、そこで庄野直美さんという広島女学院大の物理学の先生が放射能の被害や核の無意味さについて語りました。現地のNPOなどが、被爆者が訴える場を準備してくれたのでしょう。西の教会には銃弾の跡がたくさん残っていました。連合軍の空爆であれほど壊されたのに、後年ドイツを再び訪れた時、建物がきれいに再建されているのには驚きましたね。

1964年、西ベルリンを訪れた時にホームステイをしたリヒテルさんと1964年、西ベルリンを訪れた時にホームステイをしたリヒテルさんと

最後にもう一度西から東ベルリンに入り、そこから列車でモスクワに行きました。途中農民が大きな鎌で草や麦を刈っている風景が印象に残っています。モスクワではゴーリキー公園で新聞社が主催した大集会に参加し、約2000人を前に被爆体験や核兵器廃絶を訴えました。バーバラさんは各地で、医師は医師同士、学校の先生は先生同士というように、現地の人との交流の場をアレンジしてくださった。私は詩を書くので、マモノフさんという詩人に会わせてもらったのですが、峠三吉(『原爆詩集』で知られる)のことを話していたので驚きました。

広島と長崎の声を世界に届けたレイノルズさん

シベリア鉄道と飛行機でユーラシア大陸を横断し、最後は船で横浜へ。1カ月半に及ぶ大旅行だった。帰国後、バーバラ・レイノルズさんは広島に「ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)」を設立。森下さんも1965年の設立当初から携わることになる。インタビュー中に何度も名前が出たレイノルズさんとは、どういう人だったのだろう。

戦後、ご主人がABCC(原爆傷害調査委員会)の研究員として広島に来られ、最初は呉の進駐軍の宿舎で優雅なご婦人生活を送っていたようです。原爆を落とした側のアメリカ人ですから、広島に行くのを怖がっていたのですが、たまたま被爆した女性に会って話をしている時に、「私たちは大変な目に遭ったけれども、憎しみではなく、平和のために一緒に頑張りましょう」と言われて、心を動かされたそうです。やがて夫婦 でヨットに乗って核実験への抗議のための航海に出 た。実験区域に入って、捕らえられたことも。強い、 激しい行動を取ることもあるけれど、会った感じは優 しく、「森下さーん」と話しかけてくるような親しみの 持てる方でした。そのような抗議行動の末、しっか りした活動をするには広島と長崎の被爆者の声を世 界中に届けないといけない。それで募金を集め私財 を投げ打って平和巡礼を企画した。それを一回限り ではなく、持続的な活動にしたいとWFCをつくった のです。さまざまな国の人々が集まって、世界中で吹 き荒れている戦争の嵐の中で思いを静かに語り合う。 そういう場にしたいと。そこで被爆者の援護もしまし た。ベトナムの孤児や傷ついた子どもたちを初代理 事長の原田東岷(とうみん)先生と一緒に受け入れ、アメリカに帰ってからもそういう人たちの世話をしていました。 後年はウィルミントン大学に原爆の資料や本を集め て、アメリカでの平和教育のライブラリー「Hiroshima Nagasaki Memorial Collection」を設立しました。

広島平和記念公園にあるレイノルズさんの記念碑には、「私もまた被爆者です」という彼女の言葉が刻まれている。後に森下さんはWFCの理事長を長きに渡って務め、現在に至るまで平和巡礼はさまざまな形で続いている。森下さん自身、海外からの人々と交流するなかで、再びドイツとの縁も生まれた。

1999年にエッセンで障がい者施設のスタッフとして働いているベアーテ・ブルーダーさんという方が数人で広島に来られ、それをきっかけに、2001年に今度はわれわれがドイツを訪ねました。エッセンでは小学校の子どもたちの前で被爆体験をお話ししたり、現地のグループと書道による交流をしたりしました。ベアーテさんは今も毎年のように広島に来られます。一緒に桜を見たり、お好み焼きを食べに行ったり。私よりも広島のことをよく知っているほど。片言の日本語を話され、お名前のBeateから手紙には「熊の手」と書いてきます(笑)。

2001年にエッセンを訪問して現地の学校で平和授業をした2001年にエッセンを訪問して現地の学校で平和授業をした
現地の女性グループと書道で交流をした時の様子現地の女性グループと書道で交流をした時の様子

広島を訪れた2人のローマ法王のメッセージ

広島平和記念資料館の入口ロビーに、「ローマ法王平和アピール碑」が飾られている。1981年2月、ヨハネ・パウロ2世が広島を訪問した際にスピーチで述べた言葉が刻まれており、実はその碑文を筆文字で書いたのが森下さんだ。昨年は、フランシスコ法王がローマ法王として38年ぶりに広島を訪れた。

広島平和記念資料館に展示されている「ローマ法王平和アピール碑」。碑文に刻まれた筆文字は森下さんが書いた広島平和記念資料館に展示されている「ローマ法王平和アピール碑」。碑文に刻まれた筆文字は森下さんが書いた

ヨハネ・パウロ2世も今回のフランシスコ法王も、「核兵器は悪。それを保有するだけでも悪である」と言い切っている。被爆者としては後ろ盾をいただいた気持ちになりました。新型コロナウイルスで大変な今の世界ですが、核兵器もなくなっていないでしょう。どちらも人類にとっての敵なんです。皆が一致して立ち向かわないといけないのに、今またアメリカと中国が対立したり……。糾弾していかなければなりません。

原爆の記憶をどう伝えていくのか

森下さんが平和教育に力を注ぐようになったのは、高校の教科書に原爆についての記述が少ないことに疑問を持ったからでもあった。その森下さんもこの10月で90歳を迎える。被爆者の平均年齢は、今年83歳を超えた。私たちは原爆の記憶をどう語り継ぐべきだろうか。

これまでは修学旅行で広島に来る生徒たちに毎週のように自分の体験を話しに行っていましたが、そのような直接の交流はいつかなくなる時が来ます。生徒たちに意識調査をすると、「原爆の悲惨さはよく分かったが、実感できない」という答えが返ってきて、年を経るにつれてそれが増えてくる。

若い方たちによくこういうお話をするんです。「私たちが被爆してこのような悲惨な目に遭ったのは、戦争だったから。戦争がなければ核兵器は使われなかったはずだし、多くの人が空襲などで亡くなることもなかった。ではどうして戦争が起こるのか。そこにはさまざまな要素がある。人種差別、経済的な問題、あるいは軍需産業が膨大になって兵器で人殺しをしていくようになる。そういった戦争がなぜ起こるのかを自分たちで一生懸命調べたり、考えたりしてほしい。私たちも悲惨な目に遭ったからといって、戦争について全てを知っているわけではないし、それを止められるわけでもない。だから一緒に学び、考えよう。あなたたちが自発的にそのことに取り組んでほしい」と。

戦争や原爆について考えたり、調べたりしていると資料が必要になりますよね。今それがより大事になってきているので、コロナ禍で外に出られない時期、自宅の資料の整理をするなど、次の世代にバトンタッチをすべくできる限り頑張っているところです。

私が森下さんと出会ったのは、7月に刊行した拙著 『明子のピアノ 被爆をこえて奏で継ぐ』(岩波ブックレット)がきっかけだった。原爆で亡くなった河本明子さんが弾いていたピアノを救った、命の恩人ともいえるのが森下さんだった。

2002年に広島大の山岳部時代の仲間が実家の家を解体するというので手伝いに行ったら、そのピアノが置いてありました。きれいな音ではないけれども、原爆であれだけ大変な目に遭ったピアノが傷つきながらも残っている。「そのまま処分されるのは忍びない。残してあげたい」という気持ちでした。妻がピアノを弾くので、毎年1回坂井原浩さんという調律師の方に来てもらっていました。それである時、「実は三滝にこういうピアノがあるんじゃ」と坂井原さんに話をしたのです。たまたま引き継ぎができた感じですね。

森下さんの取った行動は小さなものだったかもしれない。しかし、そこからまた新たな平和を求める人々の輪が生まれた。私たちができることも、案外身近なところにたくさんあるのではないだろうか。最後に「これまでの人生で大切にしてきたことは何ですか」と尋ねると、少し間を置いてから、こんな答えが返ってきた。「原爆であれだけの悲惨なことがあった。平和というのは大事だということです。小さい子どもの命まで奪うんですから。一人ひとりの命、誰の命も大事にしたい。そういう思いですね」。

関連書籍

書籍:明子のピアノ明子のピアノ
被爆をこえて奏で継ぐ

広島の原爆により19歳でその生涯を閉じた河本明子さん。残された家族たち、周囲の人々の交流から、彼女が奏でていたピアノが数十年の時を経て甦った。無邪気な子ども時代から戦争体験までが綴られている彼女の日記、そして被爆ピアノを奏で継ぐ人々が、平和への思いを紡ぎ出す。

著者:中村真人
発行元:岩波書店
刊行:2020年7月3日
ISBN:9784002710280

最終更新 Freitag, 14 August 2020 13:55
 

映画でめぐるドイツ - おうちで旅気分を味わおう

おうちで旅気分を味わおう 「映画でめぐる」ドイツ

コロナ禍でだいぶ規制が緩和されたものの、今年の夏の旅行はあきらめた、という人が多いかもしれない。長いステイホームが続くなか、何をしたら? そんな方のために、映画でドイツを旅するプランをご提案。言わずと知れた名作揃いのドイツ映画の中から、各都市を訪れたり、タイムトラベルが味わえる作品を紹介する。好きなドリンクを用意して、ソファに座ったら準備万端。物語の世界へ出発しよう。(Text:編集部、沖島景)

「ベルリンを旅する」映画

ドイツ人の間でも「ベルリンはドイツじゃない」といわれるほど、独特の魅力がある首都。壁崩壊前と後、そして現代の三つの時代から、それぞれ違う雰囲気のベルリンが味わえる作品を紹介しよう。

ベルリンの壁の上空から見る景色
ベルリン・天使の詩
Der Himmel über Berlin

あらすじ

天使のダミエルは同僚で親友のカシエルと共に、壁に隔てられたベルリンの街を歩く。彼らの仕事は、地上の人々の心の声に耳を傾け、優しく寄り添って見守ること。大人は天使を見ることができないが、子どもは天使を見つけると微笑みかけてくるのだった。ある日、ダミエルはサーカスの舞姫マリオンに恋をする。マリオンが呟いた「愛したい」という言葉に動揺するダミエル。天使の世界はモノクロで、死が訪れることはない。しかし、憧れや情熱などの想いを求め、永遠の命を放棄して人間になることを決断。そこで新しい「色」の世界を体験することになる。

作品をもっと知る

中年男性たちが演じる天使は、一般的な「天使」のイメージとはかけ離れているが、彼らの存在がまさに物語に深みを与えている。物語の所々に織り込まれた詩「Lied vom Kindsein」は、本作のために詩人のペーター・ハントケが書き下ろしたもので、物語全体を優しく包み込むかのよう。また、ダミエルが天使をやめて人間になった時、映像はモノクロからカラーに。色以外にも、音や味、寒さなど、人間になって世界を初めて感じるダミエルの姿が印象的だ。壁が崩壊する直前のベルリンの様子が映されているため、歴史的にも貴重な作品といえるだろう。

ベルリン・天使の詩

公開年:1987年
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ペーター・ハントケ、ヴィム・ヴェンダース
主演:ブルーノ・ガンツ
上映時間:125分
言語:ドイツ語
DVD販売元:STUDIOCANAL

壁崩壊後のベルリンを疾走する
ラン・ローラ・ラン
Lola rennt

あらすじ

午前11時40分、主人公ローラのもとに恋人のマニから電話がかかってくる。裏金の運び屋をしているマニは、大金を電車の中に置き忘れ、12時までに取り戻さなければボスに殺されてしまうという。窮地の恋人を救うために家を飛び出したローラは、真っ赤な髪を振り乱しながらベルリンの街を東奔西走。なんとかお金を工面してマニのもとへ行こうとするローラの疾走が、テクノポップに合わせて3パターンのストーリーで描かれる。ローラの性格や行動は、無計画かつ無鉄砲で、あるのはマニへの愛だけ。そんな彼女がベルリンを走り抜ける姿はひたすら爽快だ。

作品をもっと知る

映画が公開された1998年は、1989年のベルリンの壁崩壊から9年後。東西の行き来が可能になったベルリンの90年代は、アートやアナーキズム、サブカルチャーやテクノなど、激しいながらも自由奔放な空気が漂っていた。映画の中には当時の街並みや建築などが登場するが、特に印象的なのは、ローラが「オーバーバウム橋」を渡るシーン。ここは1961〜1989年までは東西ベルリンをつなぐ場所で、西側には国境検問所が設置されていた。東西国境が撤廃され、ローラが脇目も振らず橋を駆け抜ける姿に、当時のベルリン市民たちは心踊ったことだろう。

ラン・ローラ・ラン

公開年:1998年
監督・脚本:トム・ティクヴァ
主演:フランカ・ポテンテ
上映時間:76分
言語:ドイツ語

ベルリンと人生をさまよう1日の物語
コーヒーをめぐる冒険
Oh Boy

あらすじ

朝、コーヒーを飲むかと彼女から尋ねられるが、断ってしまったニコ。そうして、ことあるごとにコーヒーを飲み損ねる、というツイてない1日が始まった。クセのある隣人カールに、親友で自称俳優のマッツェ、偶然再会した同級生のユリカ……大学を中退して何もする気が起きなくなっていたニコは、この日ベルリンをさまよいながらたくさんの人に出会い、何かが少しずつ変わっていく。役所のアポイントメントに無賃乗車のコントローラーなど、極めてドイツ的な日常風景に思わずくすりとしてしまう一方、誰しも経験するような人生に対する不安が細やかに描かれている。軽快でときにメランコリックなジャズをバックに、ニコの長い1日を追いかける。

作品をもっと知る

ニコが住んでいるのは、ベルリンでも特に人気の高いプレンツラウアー・ベルク地区。かつて東ベルリンだったこのエリアは東西再統一後に再開発され、雰囲気のいいお店やカフェが建ち並ぶ。さらにニコのアパートはアルトバウ(戦前の建物)で、窓からはレトロなUバーンの線路が見え、人々が憧れる場所であるのも納得がいく。また本作では、ベルリンの混沌とした風景が要所要所に映し出される。観光客の多い近代的なエリアや戦後に建てられた団地、かつてサブカルチャーの聖地だったタヘレスなど、ベルリンが東西の面影を残しながら発展してきたことが伝わってくるシーンが満載。時の重みも感じるベルリンの複雑な魅力が、たっぷりと詰まった作品だ。

コーヒーをめぐる冒険

公開年:2012年
監督・脚本:ヤン・オーレ・ゲルスター
主演:トム・シリング
上映時間:85分
言語:ドイツ語

「東西分断時代を旅する」映画

今年はドイツが再統一して30年を迎える記念年。東西分断時代のことを知るには、ぴったりな節目だ。東と西、それぞれの観点からドイツを見つめるタイムトラベルを楽しもう。

壁建設前の旧東ドイツの光景
僕たちは希望という名の列車に乗った
Das schweigende Klassenzimmer

あらすじ

東西ドイツ分断時代の1956年、東ドイツのトップ大学を目指す高校生のテオと親友のクルトは、列車に乗って西ベルリンの映画館を訪れる。そこでハンガリー動乱のニュースの映像を見て、自由を求める多数の市民がソビエト連邦軍に殺害された事実を知った。東ドイツに戻った2人は級友たちに対し、亡くなったハンガリー市民のために2分間の黙祷を捧げることを提案。純粋な哀悼を意図していたものの、ソ連の影響下に置かれた東ドイツ当局からは反逆行為とみなされてしまう。

作品をもっと知る

原作は、冷戦下の東ドイツで実際に起きた出来事を、当事者の一人であるディートリッヒ・ガルスカが描いたノンフィクション小説『沈黙する教室』。舞台は1956年で、第二次世界対戦から約10年後のこと。東西ドイツの対立は始まっていたものの、ベルリンの壁はまだ建設されておらず、東ドイツと西ドイツを列車で行き来することができた。敗戦体験や社会主義体制の影響で、どこか暗い影を落としている大人たちとは対照的に、若者たちは生き生きと描かれている。

僕たちは希望という名の列車に乗った

公開年:2018年
監督:ラース・クラウメ
脚本:ラース・クラウメ
(原作:ディートリッヒ・ガルスカ「沈黙する教室」)
主演:レオナルド・シャイヒャー
上映時間:107分
言語:ドイツ語
DVD販売元:STUDIOCANAL

自由の聖地だった80年代の西ベルリン
Herr Lehmann

あらすじ

西ベルリンのクロイツベルク地区に暮らす29歳のフランク・レーマンは、なぜか「Herr Lehmann(レーマン氏)」と呼ばれている。親友で芸術家のカール、気の強い恋人カトリン、ブレーメンから息子を訪ねてきた両親……個性あふれる人々が、レーマン氏の自由気ままな生活を振り回す。やがて、カールは心を病み、カトリンとはケンカして、レーマン氏の周囲が急激に変化していく。そして30歳になった晩、ちょうどベルリンで歴史的瞬間が訪れる。

作品をもっと知る

東西分断時代、西ベルリンには兵役がなく、ほかの西ドイツ地域と違って営業時間に制限がなかったため、「自由の島」と呼ばれていた。そのため、西ドイツの多くの若い男性がこの街に移り住み、レーマン氏もその若者の1人として描かれている。特に1980年代のナイトライフは自由の象徴で、人々は踊りながら夜を明かし、そのまま朝食を取り、仕事に向かったとか。そんな西ベルリンの破天荒な暮らしぶりが描かれているのも、本作の魅力の一つだ。
参考:Goethe-Institut e.V.「Westberlin - Die Insel der Freiheit」

Herr Lehmann

公開年:2003年(日本未公開)
監督:レアンダー・ハウスマン
脚本:スヴェン・レーゲナー
主演:クリスティアン・ウルメン
上映時間:113分
言語:ドイツ語

「ドイツ各地を旅する」映画

16州からなるドイツには、それぞれ特徴を持った魅力的な都市が多々存在する。ここでは、映画の舞台となった街の様子や歴史が垣間見える作品を集めた。

西ドイツの新たな出発Essen エッセン
ベルンの奇蹟
Das Wunder von Bern

あらすじ

舞台は、第二次世界大戦後の工業都市エッセン。11歳のサッカー少年・マティアスは、鉱山労働者の家庭で育ったサッカー選手のヘルムート・ラーンの荷物持ちをするのが誇らしくて仕方ない。マティアスは母親と兄姉と慎ましく暮らしていたが、そこへ戦死したはずの父親が戻ってきた。戦争のトラウマを抱えた父親は、家族に厳しく当たり、マティアスにもサッカーを禁じてしまう。一方、ヘルムートはワールドカップのドイツ代表に選ばれ、スイスへと旅立った。そんなヘルムートの勇姿を見ようと、マティアスは独りでスイス行きを計画し、夜中にこっそり家を飛び出すが……。

作品をもっと知る

1954年にスイスで開催された第5回ワールドカップ(W杯)で、実際に起こった「ベルンの奇蹟」が題材となっている。敗戦による鬱々とした雰囲気が残る西ドイツがW杯に出場するのは初めてだったが、人々の予想に反して決勝戦へと勝ち進んだ。そして、本作にも登場するエッセン出身のヘルムート・ラーンがゴールを決め、3対2でハンガリーを下し、初優勝を果たしたのだった。トロフィーが渡されると西ドイツ国歌が演奏され、狂喜するドイツ人サポーターたちが合唱したという。この優勝は、西ドイツに再び自信を取り戻させる出来事となった。
参考:ドイツニュースダイジェスト「そのとき時代が変わった - ベルンの奇蹟 Wunder von Bern」

ベルンの奇蹟

公開年:2003年
監督:ゼーンケ・ヴォルトマン
脚本:ゼーンケ・ヴォルトマン、ロッフス・ハーン
主演:ルーイ・クラムロート
上映時間:118分
言語:ドイツ語

大都市のさまざまな顔をのぞくHamburg ハンブルク
ソウル・キッチン
Soul Kitchen

あらすじ

ジノスは、レストラン「ソウル・キッチン」のオーナー。彼の不幸は、恋人と遠距離恋愛になったことから始まり、税務署からは税金の支払いを迫られる。さらに衛生局の検査に引っかかり、食器洗浄機を移動させようとして腰を痛める始末。動けないジノスは、腕は良いが変わり者のシェフを雇い、段々と店が繁盛してくる。そんな折、刑務所から仮出所した兄のイリアスがやってきた。イリアスが盗んできたDJセットで軽快な音楽をかけ始めると、瞬く間に人気店に。ところが、今度はソウル・キッチンの土地を狙う者が現れた。

作品をもっと知る

ハンブルク生まれのアキン監督は、高級住宅街から赤レンガ倉庫など、街のさまざまな魅力を表現している。同時にソウル・キッチンの土地を狙う不動産屋のように、経済中心に街が変化することにも、作品を通じて抵抗する。実際に2000年代、撮影に使われた歴史あるゲンゲ地区も土地が売却されるなど再開発計画が進んだが、反対派の芸術家がこの地区を占領し、監督も支援した。一方、ベルリンに移住する芸術家も多かったため、ハンブルク市が危機を感じて土地を買い戻し、現在では芸術の拠点として守られている。

ソウル・キッチン

公開年:2010年
監督:ファティ・アキン
脚本:ファティ・アキン、アダム・ボウスドウコス
主演:アダム・ボウスドウコス
上映時間:99分
言語:ドイツ語
年齢制限:12歳以上
DVD販売元:Pandora Film

異国からの来客が教える「家族」München ミュンヘン
はじめてのおもてなし
Willkommen bei den Hartmanns

あらすじ

ミュンヘンの閑静な住宅街で暮らすハルトマン家。一見何不自由ない生活をしている彼らだが、母アンゲリカは教師を引退して生きがいを失い、夫リヒャルトは老いへの恐怖からシワ取り注射を打ち、弁護士の息子や大学生の娘もそれぞれ問題を抱えていた。ある日アンゲリカは、難民を1人受け入れることを宣言。ナイジェリア出身の心優しい青年ディアロとの共同生活に心癒される一家だったが、難民受け入れに対する近隣住民の抗議が極右デモに発展したり、テロリストの容疑をかけられたりと大騒動へと発展していく。

作品をもっと知る

舞台であるミュンヘンは、2015年の欧州難民危機の際に「難民の玄関口」となった場所。当時の中央駅では、祖国の戦火を逃れて到着した難民の人々を多くのドイツ人が温かく迎えた。しかし難民受け入れをめぐっては、現在も賛成派と反対派の対立が続いている。とはいえ、映画で描かれるのはあくまで「人」と「人」の関係。「人助け」や「移民統合」というもっともらしい言葉で難民を受け入れたハルトマン家だったが、ディアロの存在によってむしろ自分たちの傷ついた心が救われ、家族として再生していくのだった。

はじめてのおもてなし

公開年:2016年
監督・脚本:サイモン・ヴァーホーヴェン
主演:センタ・バーガー
上映時間:116分
言語:ドイツ語

バルト海の保養地で起きた襲撃事件Rostock ロストック
ロストックの長い夜
Wir sind jung. Wir sind stark.

あらすじ

1992年に旧東ドイツ地域の街ロストックで実際に起きた、ベトナム難民住宅「ひまわりハウス」への大規模な襲撃事件。そこに至るまでの24時間が、ネオナチの青年シュテファン、その父親で市議会議員のマルティン、ベトナム難民の女性リエンの三者の視点で描かれる。日々を無為に過ごすシュテファンたち若者グループは、そのやるせなさをシンティ・ロマやベトナム難民の存在に当てつけ、怒りを増幅させていく。

作品をもっと知る

ロストックは旧東ドイツでは最大の湾岸都市として栄えたが、東西ドイツの再統一後はその座をハンブルクに奪われ、失業者も増えていった。この襲撃事件が実際に起きたのは1992年のことだが、現在の欧州やドイツが抱える難民問題や人種差別に置き換えずには観られないだろう。監督であるブルハン・クルバニはドイツ出身だが、両親は政治的な理由でアフガニスタンからドイツに亡命してきた。

ロストックの長い夜

公開年:2014年
監督:ブルハン・クルバニ
脚本:マルティン・ベーンケ、ブルハン・クルバニ
主演:ヨナス・ナイ、トラン・ル・ホン
上映時間:128分
言語:ドイツ語

21世紀のドイツを「ヒトラー」が周遊!?Deutschland 全国
帰ってきたヒトラー
Er ist wieder da

あらすじ

アドルフ・ヒトラーが、70年後のベルリンにタイムスリップ!? 記憶を失ったヒトラーが出会ったのは、リストラされたテレビマン。テレビマンはヒトラーの「そっくりさん」に期待をかけ、テレビ出演を持ちかける。テレビ番組では、ヒトラーは過激でユーモラスな演説を展開。視聴者の心をガッチリ捉え、一躍スターダムにのし上がった。世間はモノマネ芸人だと認識し、誰も本物だと気づかないままに物語は進む。

作品をもっと知る

劇中ではハンブルクやドレスデンなど、全国各所を訪れている。俳優が演じるヒトラーが街の人々に実際にインタビューをしたり、社会民主党(SPD)と話し合あったりと、セミドキュメンタリー・スタイルで現実問題を浮き彫りにしていく。コメディではあるが、一種の恐怖を覚える場面も。もし今ヒトラーのような指導者が現れたら、不況や失業など現代社会に不満がある人はどう思うか、考えさせられる作品だ。

帰ってきたヒトラー

公開年:2016年(日本)
監督:デヴィッド・ヴェンド
脚本:デヴィッド・ヴェンド、ミッツィ・マイヤー
主演:オリヴァー・マスッチ
上映時間:116分
言語:ドイツ語
(日本語吹き替え、日本語字幕)
DVD販売元:ギャガ
価格:¥1,143(税抜)発売中

心のケアのために思い出の場所へItalien イタリア
Honig im Kopf

あらすじ

妻を亡くしたアマンドゥスは、アルツハイマー病が進行していた。息子のニコの家に住み始めるが、トラブルばかりで、ニコはアマンドゥスを施設に入れるようと計画する。孫のティルダはこれを阻止しようと、医師に祖父の病気について尋ね、思い出の場所に行くことがアルツハイマー病の患者にとって良いことを知った。そしてティルダは、祖父母が新婚旅行で訪れたヴェネツィアへ、アマンドゥスを連れて旅立つことを決意するのだった。

作品をもっと知る

少子高齢化が進むドイツでも、アルツハイマー病は社会問題の一つだ。ドイツ・アルツハイマー協会によると、約170万人(2018年6月現在)がこの病による認知症に苦しんでいるという。本作では、物忘れや信じがたい行動をするアマンドゥスから病気のリアルを知ることができ、孫のティルダを通じて周囲の人々に何ができるのかを示してくれる。昨今身近なテーマだけに、2014年にドイツで最もヒットした作品となった。

Honig im Kopf

公開年:2014年(日本未公開)
監督:ティル・シュヴァイガー
脚本:ヒリー・マルティネク、
ティル・シュヴァイガー
主演:ディーター・ハレル
上映時間:133分
言語:ドイツ語

僕と彼女の生きる意味を探してJapan 日本
命みじかし、恋せよ乙女
Kirschblüten & Dämonen

あらすじ

酒に溺れて家族も仕事も失ったカール。そんな彼のもとに、ある日ユウと名乗る風変わりな日本人女性が訪ねてくる。カールはユウと共に、ミュンヘンの片田舎にある実家を訪れ、そこで幽霊となって現れる両親の姿に苦悩。やがて自分の人生を見つめ直すカールだったが、その矢先にユウは忽然と姿を消してしまう。彼女を追って日本へ向かったカールは、神奈川県茅ヶ崎市の旅館でユウの祖母に会い、そこで驚きの真実を知る。

作品をもっと知る

監督のドーリス・デリエは日本文化をこよなく愛し、これまでも日本を舞台にした映画を制作してきた。今作では、デリエ監督は日本の女優である樹木希林の出演を熱望し、老女将のセリフは彼女に当て書きしたという。「あなた、生きてるんだから、幸せになんなきゃダメね」とカールに浴衣を着せながら背中を優しく叩く老女将の言葉は、公開前に急逝した樹木希林からのメッセージのようにも感じられる。

命みじかし、恋せよ乙女

公開年:2019年
監督・脚本:ドーリス・デリエ
主演:ゴロ・オイラー、入月絢
上映時間:117分
言語:ドイツ語、日本語、英語
発売中『命みじかし、恋せよ乙女』
価格:¥3,800(税抜) 
発売・販売元:ギャガ

異国の地で奮闘する娘を追いかけてRumänien ルーマニア
ありがとう、トニ・エルドマン
Toni Erdmann

あらすじ

音楽教師のヴィンフリートは悪ふざけが大好き。一方、娘のイネスはコンサル会社で働く仕事人間。二人の関係はうまくいっていない。そんななか、イネスが働くブカレストに突然やって来たヴィンフリート。父をドイツへ帰したものの、イネスの前に「トニ・エルドマン」と名乗る男が現れた。カツラに不気味な入れ歯……なんと別人に変身したヴィンフリートだった! 神出鬼没のトニ・エルドマンにイネスは振り回されるも、少しずつ二人の距離は縮んでいく。

作品をもっと知る

ここ数年、東欧地域のハブとして注目されるのが、イネスも働くルーマニアだ。アデ監督は映画製作に当たり、現地の多国籍企業で働く女性を取材したという。話せば人間らしいのに、仕事に身を捧げて自分を押し殺して生きる彼女たちの姿は、イネスにも重なる。役柄を演じることで自分を解放するヴィンフリートと、役柄(仕事)を放棄することで自分を解放していくイネス。生の声を聞いたからこそ生まれたこのアイデアは、監督自身も気に入っているそう。

Toni Erdmann

公開年:2016年
監督・脚本:マーレン・アデ
主演:ペーター・ジモニシェック
上映時間:162分
言語:ドイツ語、英語
DVD&Blu-ray発売中
価格:DVD ¥3,900/Blu-ray ¥4,800(いずれも税抜)


最終更新 Mittwoch, 22 Juli 2020 17:07
 

ドイツのサイクリング小史

ドイツと自転車の関係を深掘り
ドイツのサイクリング小史

整備されたサイクリングルートや交通ルール、サイクリストが安心して旅行できるサービス……ドイツが「自転車天国」と呼ばれるのには、古くからの自転車文化や歴史、環境への意識など、実はちょっぴり深い理由がある。ここでは、そんなドイツと自転車の関係を紐解いてみよう。

参考:ADFC(ドイツ自転車連盟)ホームページ、自治体国際化協会ロンドン事務所「ドイツ;国家レベルでの自転車施策への取り組み」、Telescope Magazine「自転車重視を鮮明にするEU」、www.muenster.de、radfahren.de「Dies sind die fahrradfreundlichsten Städte in Deutschland!」

自転車を発明したのはドイツ人?!

自転車が誕生したのは、1817年のドイツ。産業革命による工業化と都市化が進み、社会構造に変革が起こっていた時代だ。蒸気機関車の発明から40年が経っていたが、市民の日常の移動手段としてはまだまだ高価で、馬車などが主な交通・運輸手段だった。

そんななか、バーデン=ヴュルテンベルク州で森の管理をしていた森林官のカール・フォン・ドライス男爵が、自転車の原型となる「ドライジーネ」を発明。木製の二輪車でペダルは付いておらず、地面を蹴って走る仕組みだった。

サイクリング生活のすすめ世界初の自転車である「ドライジーネ」。発明者のドライス男爵は、ほかにも高速タイプライターなどのさまざまな発明品で知られる。

ドライジーネが完成すると、ドライス男爵は早速、マンハイムにある自宅から7キロ南東にあるライナウ地区までドライジーネを試走。平均時速は15キロ程度で、なんと駅馬車よりも速かったという。ドライス男爵はドライジーネの特許を取得し、その後、瞬く間に欧州で普及していった。そしてフランスや英国でも自転車の改良が重ねられ、19世紀後半には工場での大量生産も始まった。

戦後ドイツの復興と自転車

1950〜60年代の戦後復興期、ドイツでは急速に自動車が普及していったが、それに伴う騒音や振動、環境への負荷が問題となっていた。さらに人々が住環境の向上や健康面にも配慮するようになり、自転車がもたらすプラスの側面が注目されることに。

1964年の東京オリンピック1964年の東京オリンピックに、東西分断中のドイツは「東西統一ドイツ」チームとして参加。男子4000m団体追い抜きでは、見事金メダルに輝いた

そのような背景から、ドイツ国内でも1970年代後半から長距離自転車道の整備が開始。1990年代には、そのほとんどが完成したという。また欧州連合(EU)では「自由な移動の保証」というEUの理念に基づき、人々の車以外の交通手段も整える必要があった。そこでEUは、自転車を「移動の自由」を担う存在としてクローズアップし、国を超えた自転車道ネットワークを次々と整備していったのだ。

ドイツではさらに、国家計画として2002年から「全国自転車計画」、2013年からは「全国自転車計画2020年」を実施。自転車道の整備や交通インフラの向上、自転車に関する研究などを支援し、利用促進を行っている。近年、ドイツでは「自転車ツーリズム」が重要な観光形態の一つとなり、世界中の人々がサイクリングを目的にドイツを訪れている。

自転車に優しい街はサステナブルな街

フライブルクやミュンスターといったドイツのいくつかの街は、近年では持続可能な社会を実現するための街づくりを推進する環境都市として注目されている。これらの街に共通して言えるのが、快適に自転車生活を送ることができる「自転車に優しい街」でもあるということだ。ADFCが2年ごとに発表する「自転車に優しい街」ランキングでも、これらの都市は上位の常連となっている。

ミュンスター市内ミュンスター市内中心部には車で入ることができなくなっており、徒歩か自転車の方が生活しやすいという

特にミュンスターは、自転車交通比率が39%と非常に高く、これは同規模の都市の約3倍にも上る。人口よりも自転車数の方が多いともいわれ、中央駅西口にある3000台以上を収容できるガラス張りの駐輪場は街のシンボル的存在だ。また旧市街を囲む城壁跡地に作られた自転車専用道路は、どこからでも市内中心部にアクセスが可能。さらに高速道路と主要道路以外での自動車制限速度を時速30キロに設定するなど、「自転車や徒歩の方が移動しやすい」街づくりを通して、環境に配慮した都市を実現してきた。新型コロナウイルスの感染拡大によって生活空間や街づくりが見直される今、「自転車に優しい街」から学べることは多いだろう。

最終更新 Mittwoch, 08 Juli 2020 18:25
 

サイクリング生活のすすめ - 自転車選び・交通ルール・サイクリングルート

サイクリング生活のすすめ

ドイツの夏は、サイクリングの本番。約7万5000キロの自転車道が整備されたドイツでは、多くの人が自転車生活や旅行を楽しんでいる。また新型コロナウイルスの影響で都市の交通量が40%減少したといわれる今、人との距離を保ちつつ運動不足やストレス解消に役立つとして、自転車が再注目。本特集では、そんなドイツでの自転車生活のヒントになる情報をお届けする。(Text:編集部)

サイクリング生活のすすめ

STEP1 ドイツ製は名品揃い
自分にぴったりの自転車を買おう

ものづくり大国として名高いドイツには、機能性やデザインなどにこだわった自転車メーカーが勢ぞろい。手入れ次第で何年も愛用できるのが特徴だ。ここでは使用目的別に、自転車選びのポイントをご紹介。
参考:fahrrad.de「Studie zur Allgemeinen Fahrradnutzung in Deutschland 2017」、zeit.de「Wie finde ich das optimale Rad?」、ドイツニュースダイジェスト853号

通勤&近場でサイクリング

毎日の通勤・通学やショッピングなどの近距離走行が主な用途という人には、いわゆるママチャリタイプの街乗り自転車や、コンパクトな折りたたみ式自転車がおすすめ。小回りが利いて、スピードも出過ぎない安定した自転車で、気軽にサイクリングを楽しめる。

おすすめのメーカー

Riese + Müller GmbH / Birdy

ダルムシュタット工科大学の同級生2人組が立ち上げた自転車メーカー。自転車の支点から分割してフレームを折りたたむ、全く新しい折りたたみ自転車の機構を開発した。近くに駐輪場がない人や、オフィスビル勤務の方におすすめ。
www.r-m.de

Riese + Müller GmbH / Birdy

長距離&スポーツ用

自転車旅行を満喫したい人には、スピード重視で長距離走行にも耐えられるスポーティーな1台がおすすめ。自転車専用道メインで郊外を走るならロードバイクを、自然の中を思いっきり駆け抜けたいなら、でこぼこ道にも強いマウンテンバイクを選ぼう。

おすすめのメーカー

Canyon Bicycles GmbH / Pathlite WMN 4.0

全ての自転車が「メーカー直販限定」。小売店を経由しないため、他メーカーと比べて価格が安いのが特徴だ。一方、国際レースで数々の優勝者を輩出してきた実績もあり、実力とコストパフォーマンスを兼ね備えている。
www.canyon.com

Canyon Bicycles GmbH / Pathlite WMN 4.0

電動自転車でラクラク

エコな乗り物の代表格として、今や大人気の電動自転車。急勾配の坂道もラクラク登れるのがうれしい。電池の小型化と軽量化が進んだことで、おしゃれで洗練されたデザインが多数登場している。体力に自信がない人や、子ども連れの人にぴったり。

おすすめのメーカー

WINORA - STAIGER GmbH / Sinus Tria 7eco

デザイン性の高い電動自転車ならWINORA。まだ子ども用自転車がなかった1920年代に、創業者が自分の娘のために自転車を作り、センセーショナルを起こした。今日では、幅広い世代と環境に配慮した電動自転車が人気だ。
www.winora.com

WINORA - STAIGER GmbH / Sinus Tria 7eco

気になる予算は?

ドイツの自転車価格は、安いもので200ユーロ前後、マウンテンバイクなどは1000ユーロ前後から。日本と比べて割高だが、その品質はもちろん折り紙付きだ。倹約家として知られるドイツ人も、自転車の購入には平均698ユーロ(電動自転車を含む)と結構な金額を使っているという。もっと安く、気軽に自転車を手に入れたい場合は、フリーマーケットやネットオークションで中古品を狙うのも手だ。

STEP2 安全に楽しむために
自転車の交通ルールQ&A

さあ、いよいよ自転車デビュー! でもその前に、日本とは違うドイツの交通ルールをしっかりチェックしよう。自分や周囲の人の安全を確保した上で、サイクリング生活を楽しんで。
参考:ADFC(ドイツ自転車連盟)ホームページ、ドイツニュースダイジェスト853号

Q. 歩道は走っていいの?
A. 車道か自転車専用道路を走ろう

自転車は自動車と同じ「車」。自転車で歩道や歩行者ゾーンを走ると、罰金25~100ユーロに。共有の歩道や歩行者ゾーン、歩行者用の横断歩道は、自転車を降りて通行すること。歩行速度以上のスピードを出して走った場合は、15ユーロの罰金が科される。

rulesQ. 自転車も右側通行?
A. 原則的に右側を走ろう

自動車と同じで右側を走るのが原則。これに違反すると、20~35ユーロの罰金が科される。ただし、自転車専用道路で両方向の走行が認められている場合は例外。

rulesQ. 手信号は出すべき?
A. 安全のため出すのがベター

自転車にはウィンカーが付いていないので、手信号がその役割を果たす。義務ではないが、特に自動車のそばを通行するときなどは、安全確保ために進行方向の手をまっすぐ伸ばしてサインを出そう。

rulesQ. 2人で横並びに走行しても良い?
A. 危険でなければOK

周囲に危険を及ぼさなければ、問題なし。ただし、横並びで走行している際にほかの自転車や歩行者に迷惑をかけたり、事故につながった場合は、20~30ユーロの罰金が科される。

rulesQ. ライトは前にだけ付ければOK?
A. 前後に付けよう

ライトは必ず前後に付けなければならない。ライトの不備や故障は、20~35ユーロの罰金対象。また、ブレーキやベルなどが故障していると、罰金15ユーロが科される。自転車のメンテナンスは定期的に行うべし!

rulesQ. 信号無視に対する罰金が高額って本当?
A. 最高で180ユーロの罰金

赤信号を無視すると60~120ユーロ、さらに1秒以上赤信号になっていたにもかかわらず、それを無視すると100~180ユーロの罰金がそれぞれ科される。また、歩行者でも赤信号を無視すると罰金5~10ユーロ、自転車も歩行者も踏切が降りている状態で通過した場合は罰金350ユーロとなっている。

rulesQ. 走行中にスマホで通話するのはあり?
A. 「ながら運転」も罰金の対象

スマートフォンなどを片手に持って走行する「ながら運転」は、55ユーロの罰金が科される。また、いくら腕に自信があっても、事故につながる可能性があるアクロバティックな運転はNG。手放し運転をした場合は、5ユーロの罰金。

rulesQ. ヘルメットは被らないとダメ?
A. 着用義務はない

ドイツではヘルメットの着用義務がないため、罰金も科されない。一方、スピードが出るロードバイクや不安定な道を走るマウンテンバイクで走行する際は、着用が推奨される。

愛車を盗難被害から守るには?

自転車が盗まれてしまった! という話をドイツではよく聞く。もしかしたら、実際に盗難被害に遭ったことがある人もいるだろう。しかし、2015年に32万8854件の自転車の盗難被害があったが、2019年には27万1500件になり、近年は盗難件数が大幅に減少傾向に。とはいえ、昨年日本で発生した16万8703件(警察庁犯罪統計資料より)という数値と比べると、ドイツの件数の多さには圧倒される。大切な自転車を守るには、まずは防犯対策をしっかりすることが大切だ。

盗難防止のためにここをチェック!

以下は、ADFC(ドイツ自転車連盟)が推奨する盗難防止のための項目。防犯対策がきちんとできているか、チェックしてみよう。

  • 前輪と後輪だけではなく、必ずフレームもロックし、駐輪スタンドにしっかりとつないで固定する
  • 人通りの少ない場所ではなく、人目に付く場所に駐輪する
  • 地下室や鍵のかかる部屋に保管するのがベター
  • 特徴のある自転車は盗難被害に遭いにくい
  • 車体番号やメーカーなど、自転車に関わる情報を書き留めておく
  • マークされないよう、いつも同じ場所に駐輪しない

もしも盗まれてしまったら……

残念ながら自転車が盗まれてしまったという場合は、まずは警察へ通報する。その際に、所有権を証明するもの(購入証明など)、車体番号(Rahmennummer)、車体の大きさやモデルなどを伝えるようにしよう。家財保険などに加入している人は、盗まれた自転車が3週間経っても見つからなかった場合、保険会社に連絡すること。

参考:ADFC(ドイツ自転車連盟)ホームページ、tagesschau.de「Weniger Fahrraddiebstähle in Deutschland」

STEP3 今年の夏はどこに行く?
自転車で旅するドイツ

サイクリングルートマップ
クリックで拡大

せっかくの夏休み、どこかに出かけたいけれど新型コロナウイルスが心配……。そんな方は、今年は自転車旅行を検討してみてはどうだろうか。ここでは、ドイツで人気のサイクリングルートや、自転車旅にぴったりの宿泊サービスを紹介。気持ちのいいサイクリングロードを自転車で思いっきり駆け抜けながら、ドイツの夏を堪能しよう。

ドイツのサイクリストたちが選ぶ
サイクリングロード TOP3
(2019年 ADFCドイツ自転車協会調べ)
出典:statista「Die beliebtesten Radwege Deutschlands」

第1位ヴェーザー川サイクリングロード

ヴェーザー川サイクリングロード

ドイツ中部から北海へ北上する、およそ520キロのルート。幹線道路から離れた走りやすい道路が整備され、傾斜も少ないので家族連れにも◎。緩やかな丘陵が続くヴェーザー山地の風景を通り、北ドイツの低地地帯に入ると木組みの家や古城など、ドイツの歴史的な街並みが登場する。ブレーメンでハンザ自由都市の空気を味わったら、北海まであと少し。
www.weserradweg-info.de

第2位エルベ川サイクリングロード

エルベ川サイクリングロード

エルベ川沿いを通って北海へ向かう、およそ860キロのルート。ワイン畑や国立公園などの自然を思う存分楽しんだら、「エルベのフィレンツェ」と呼ばれるドレスデンへ。その後、ルートは磁器の街マイセン、マルティン・ルターの街ヴィッテンベルク、美術と建築の学校「バウハウス」の街デッサウへと続き、ドイツの芸術や文化に浸ることができる。
www.elberadweg.de

第3位ルール渓谷サイクリングロード

ルール渓谷サイクリングロード

ドイツ中部のヴィンターベルクから、西部のデュイスブルクまでを横断する、およそ240キロのルート。ブルッフハウザー・シュタイネ自然保護区や、木組みの家が並ぶ街を抜けると、ルール工業地帯のダイナミックな産業遺産が目に飛び込んでくる。鉱山博物館や鉄道博物館などをめぐりながら進み、ラストはルール渓谷の雄大な自然を満喫しよう。
www.ruhrtalradweg.de

サイクリストに優しい宿探し - Bett&Bike

「Bett & Bike」とは、ADFCによってサイクリストに優しい宿として認められた宿泊施設を探せる便利なサービス。屋根付きの自転車置き場があったり、メンテナンス用の工具が揃っているほか、現地のサイクリングロード情報など、自転車旅行に必要な設備や情報が完備されている。
www.bettundbike.de

最終更新 Mittwoch, 08 Juli 2020 12:07
 

コロナで変わるドイツ人の働き方 - 2020年はリモートワーク元年に?

2020年はリモートワーク元年に? コロナで変わるドイツ人の働き方

新型コロナウイルスの感染拡大によって、予期せずして世界に訪れた「働き方改革」。2020年6月現在、ドイツでも2人に1人が在宅勤務を行っており、生活様式や労働観など、あらゆる面でニュースタンダードが求められている。この大きな社会の変化を、私たちはどのように未来に生かすことができるだろうか。本特集では、ドイツのリモートワークを取り巻く現状を紹介するとともに、コロナ危機以降の働き方についてのヒントを探っていく。 (Text:編集部)

参考:TRT Deutsch「Auch nach Corona-Krise: Fast jeder Dritte befürwortet Homeoffice」、vorwärts「Homeoffice: Was Arbeitnehmer*innen beachten sollten」、 Handelsblatt「So arbeitet die Welt」、Haufe.de「Recht auf Homeoffice-Arbeitsplatz: Kommt das Gesetz?」

コロナで変わるドイツ人の働き方

実はリモート後進国だったドイツ

ドイツ人は1カ月以上バカンスに行く、ドイツ人は残業しない……など、事実かどうかは別として、何かと「ライフワークバランスのお手本」と紹介されてきたドイツ。しかし意外にも、コロナ危機以前のドイツは欧州他国に比べてリモートワーク化が進んでいたとは言い難い。

ドイツ経済研究所(DIW Berlin)の調査によると、コロナ危機前から常にリモートワークで働いていたドイツ人の割合は5.0%で、これは欧州平均(5.2%)を下回る。ちなみに欧州全体としては、東欧や南欧地域よりも、北欧諸国やオランダ、オーストリアなどでリモートワーク化が進んでいる傾向がある。

労働心理学者のヨハン・ヴァイヒブロット氏は、ドイツでリモートワーク化が進まなかったのは、ドイツ社会の労働に対する価値観に理由があると分析している。つまりドイツ社会にとって労働とは、「信頼」というよりも「条件」や「義務」に基づくという考えが根強く、労働法の遵守や労働時間の管理が厳しい。決められたルールを徹底して守ることで、合理的で生産性の高い仕事をしようというのだ。そのためドイツでは、リモートワークによって社員の統制が取れず、仕事の効率が下がるのではないかと懸念する雇用主が多い。

しかし、新型コロナウイルスの感染拡大によって、ドイツでも今年3月ごろから半ば強制的にリモートワーク化が進行。現在ドイツでは2人に1人が在宅勤務をしているが、58%の人が「問題なくリモートワーク」をできていると回答している。さらに、コロナ危機をきっかけに「コロナ収束後もリモートワークを続けたい」と考える人が増え、人々がライフワークバランスを改めて見直す機会となっていることが伺える。

一方で、同僚やクライアントとのコミュニケーションの問題や、通信設備や仕事環境が整わないといった課題も浮上している。また、リモートワークへの移行に十分な時間がなかった企業では、労働規約や労働時間法、データ保護について雇用者・労働者間で十分に明確化できていないケースも。

新型コロナウイルスの収束に早くて2年かかるといわれる今、ドイツでは個人の居住環境や労働観をはじめ、雇用者の対応、そして法制度の見直しに至るまで、さまざまな側面での「働き方改革」が始まりつつある。

コロナ危機下のドイツのリモートワーク状況

コロナ危機下でリモートワークはうまく機能しているか?

コロナ危機下でリモートワークはうまく機能しているか?

コロナ危機の収束後もリモートワークを続けたいか?

コロナ危機の収束後もリモートワークを続けたいか?

リモートワークに法制化の動き

コロナ危機によって在宅勤務が増加したことを受け、今年4月にハイル連邦労働相(社会民主党・SPD)は、リモートワークの権利を法制化することを提唱。秋には法案を提出する予定だという。同法案が成立すれば、「労働者は完全にリモートワークに切り替えることも、週に1〜2日だけ切り替えることも可能になる」そうで、コロナ危機後も在宅勤務を希望する人々にとって追い風になることが予想される。これに対し、自由民主党(FDP)と緑の党からは賛成の声が上がっている。

現在のところドイツの労働者には、リモートワークに関する法的権利はなく、労働者がリモートワークを行うかどうかの決定権は雇用者にある。しかし、リモートワークが法制化されれば、雇用者は在宅勤務を希望する従業員の求めに応じる義務が生じ、もし従業員のリモートワークを認めない場合は、正当な理由を提示しなければならないという。なお、オランダではすでに2015年からこの法制度が導入されている。

しかし、リモートワーク法制化の動きに対して、雇用者側からは批判的な意見も聞こえてくる。ドイツ経営者連盟(BDA)の最高経営責任者であるシュテフェン・カンペーター氏は、「従業員がオフィスに集まって働くのは、雇用者と従業員双方の利益のためだ。リモートワークの法制化にあたっては、業務上の利害やクライアントの希望を第一に考えるべき」と慎重な姿勢を示している。一方で、「リモートワークのためのインフラを整備したことで組織内の分散した意思決定が可能になり、企業全体の柔軟性や実行力が高まった」として、コロナ危機後もリモートワークの導入(全日または週数日)に前向きな企業もあるという。

ドイツの雇用者がリモートワークを懸念する理由は?

ドイツの雇用者がリモートワークを懸念する理由は?

仕事も生活も充実させる仕組みづくり ドイツでも注目のASOBU式リモートワークとは?

建築やまちづくりを通して持続可能な社会を目指す設計・コンサルティング会社、ASOBU GmbH。2018年の設立当初からリモートワークを採用し、現在フリーランサーも含め30人いる社員・アソシエイトは、ドイツと日本、場所も時間もバラバラの状態で働いている。その独自のワークスタイルは、コロナ危機下のドイツメディアでも紹介された。今回、同社の稲熊史子さんに、うまく仕事を回すためのリモートワークの実践例について伺った。

参考:Golem.de「HOMEOFFICE WEGEN CORONA:Von der IT-Branche lernen」、Narrative BASE「Narrative ch. Online Talk 日本版の働き方、戻すか?! 進めるか!? ベルリンの最新リモートワークモデルから学ぶ」

お話を聞いた人

稲熊 史子(いなくま ふみこ)さん
大学で経営およびマーケティングを学ぶ。化粧品メーカーに8年勤め、商品開発とマーケティングに従事。2013年にベルリンに移住し、フリーランサーを経て、2018年よりASOBU GmbHのオフィスマネージャー、PRを担当している。
https://www.asobu-gmbh.com

ASOBU独自のリモートワーク

場所を手放す
オフィスがない代わりに、プロジェクト管理ツールやオンラインストレージ(P11参照)を利用したプラットフォームをつくり、コミュニケーションや業務に関する情報を一元化・可視化させる。

時間を手放す
全員が集まるコアタイムがない代わりに、文字・音声・動画・対面などのコミュニケーション手法を目的別に使い分けながら、上記のプラットフォーム上で業務確認やスタッフ同士のやり取りを行う。

管理を手放す
上記のプラットフォーム上で進捗状況が全て把握できるため、マネジメントする上で情報共有のためのミーティングや進捗確認が不要となる。

ドイツ人の働き方がヒントに

コロナ危機以前から、リモートワークを実施してきたASOBU。その背景には、建築設計やまちづくりのプロジェクトをサステナブルな働き方で実施することこそが、真の持続可能な社会の実現に寄与できるとの思いがあった。そのため、「いつでも・どこでも・誰でも働きやすい環境」がモットー、と稲熊さんは言う。

「ASOBUを立ち上げる時、インターネットがある時代なので、私たちの活動に共感してくれる人や高い専門性を持つ多様なメンバーと、いろいろな国でプロジェクトをやりたいね、という話になりました。だとしたら、一緒にいなくても共有できるプラットフォームが必要、ということになったんです」

こうして、同社では新しい働き方を模索することになった。その際にヒントになったのがドイツ人の働き方だった、と稲熊さんは続ける。 「オフィスにファイルが並んでいることはドイツでは当たり前の光景ですが、歴史を紐解いても、情報を整理することが得意な国民だと思います。また、ジョブ型雇用(職務を明確にして最適な人材を配置する雇用形態)を主流とするドイツ企業では即戦力を求めることや、休暇を大事にする考え方なども日本とは違いますよね。だから、誰かが入社したり休暇で不在になっても、情報整理がされているので、スムーズに働けるという環境なのだと思います」

そしてたどり着いたのが、「場所・時間・管理を手放す」という、右上のスタイルだった。

コロナ危機でミーティングが減った!?

前述の三つの事柄を手放すことで、スタッフ同士のコミュニケーションの効率が上がり、それぞれ集中して仕事に取り組めている、と稲熊さん。コロナ危機でも、働き方に変わりはなかったのだろうか。

「スタッフにアンケートをしたところ、これまでとほとんど変わらなかったという人しかいませんでした。強いて言うなら、子育て中の人が多く、保育園や学校が休みになったため、ミーティングの時間が取りづらくなったこと。そこで、ミーティングができるだけ減るように、ボイス・ビデオメッセージを導入するなどの工夫をしました。それから、意外かもしれませんが、リモートワークになるとスタッフ同士の心遣いがかえって生まれやすいんです。こういう伝え方をしたら分かりやすいかな、返信がなかったらほかの仕事で忙しいんだな、もしくは保育園のお迎えの時間かもしれない……など、顔が見えなくてもそれぞれが稼働している様子がきちんと見えているからこそ、思いやりの気持ちが芽生えるようになるのだと思います」

リモートワークは仕組みづくりが重要

とはいえコロナ危機で急にリモートワークに切り替わり、ミーティングが多くなってしまった、誰が何をしているのか分からない、などの悩みはドイツでも日本でも少なくない。

「これらの悩みは、オンラインミーティング以外に情報共有する仕組みがないことが理由の一つだと思います。リモートワークを経験してやはりオフィスが良い、という結論に至った企業もあると聞きますが、仕組みさえあれば考え方が変わるのかもしれません。情報を共有、蓄積していくことは会社の財産にもなりますし、企業がリモートワークという選択肢を持つことで、より魅力的な環境を提供することになり、優秀な人材を惹きつけることにつながると思います」

リモートワークをあきらめていた人や今後も継続するか悩んでいる人に向けて、まずは「本当に現場でやる必要があるのか、現場に行く目的は何か」を考えてみると良い、と稲熊さんはアドバイスする。

「物理的に不可能な職種もありますが、例えば事務仕事は自宅で行うなど、業務を切り離して考えると、部分的にできることがあるかもしれません。また、テクノロジーが解決してくれることも。当社でも、ドイツ国内外の設計プロジェクトにVR(バーチャル・リアリティー)を使っています。360度写真や3Dモデルをバーチャル空間で確認しながら、日独の設計チームが連携して設計・施工監理ができる手法も採用。できないと思っていたことを細分化し、『何ができて、何ができないのか』を、もう一度突き詰めると見えてくるものがあると思います」

完成予想CG日独カップルの新居として設計中の戸建住宅プロジェクトの完成予想CG。建築模型の代わりにVRを利用し、ドイツと日本の設計士がバーチャル空間を共有して設計している

「遊ぶようにモチベーション高く働ける環境」を目指すASOBUは、仕事のパフォーマンスを上げるだけでなく、働く人々の人生をより豊かにしていく努力をいとわない。リモートワークという枠を超えて、時代の流れに柔軟に対応しながら常に新しいやり方を模索していくことも、同社の独自スタイルといえそうだ。次ページでは、そんなASOBU式リモートワークの実践ヒントを紹介する。

在宅勤務での悩みを解決!ASOBU式リモートワークの実践ヒント

それぞれがきちんと仕事をしているか分からない ツールを利用して業務を「見える化」する

オンライン上のプロジェクト管理ツールでは、現在それぞれの業務担当と進捗をプロジェクトごとに整理し、各々が確認することができる。さらに、細かいやり取りも全て同ツール内で完結させることが可能なので、業務や進行が「見える化」され、進捗確認などの不要なコミュニケーションも減る。ASOBUでは以下の三つのツールに集約し、スタッフ全員にシェアすることで、誰もが必要な情報にアクセスできるプラットフォームを実現している。

  • プロジェクト管理・コミュニケーションツール Wrike(ライク)
  • オンラインストレージ Box(ボックス)
  • オンラインミーティング Zoom(ズーム)

業務に必要な資料の場所が分からない 情報整理のルールをつくる

リモートワークでは周囲の人に気軽に質問することができないため、徹底した情報整理が必須となる。ASOBUのストレージでは、まずフォルダをプロジェクトごとに分類し、最新データ以外の古いデータは全てアーカイブフォルダに収めるというルールがある。誰が作業しても最新のデータが明確になることで、探す手間が省けるだけでなく、誰かに聞くという不要なやり取りを減らすことにもつながる。

ミーティングが多く個々の業務に集中できない ボイス・ビデオメッセージでミーティングの回数を減らす

ミーティングするほどではないけれど、書いて伝えるには難しい……そんなときに便利なのが、ボイス・ビデオメッセージだ。ASOBUでは、簡単なパソコンの操作説明からちょっとした企画のプレゼンまで、音声と動画で数分にまとめ、ストレージにアップロード。それぞれ好きなタイミングに確認し、考えを整理した上で返信できたりアーカイブしたファイルを転送するなど、簡単に行えるのが便利だ。

スタッフ同士のコミュニケーションが減ってしまった 積極的に雑談タイムを設ける

コミュニケーション不足におすすめなのが、「ワン・オン・ワン・ミーティング」と呼ばれる1対1で話し合う時間。ASOBUでは、業務時間中に仕事以外のことを話し合う機会を意識的に持つことで、相手の考えや興味分野を知り、働きやすい人間関係の構築を目指している。さらに、デザイナーなどの専門スキルをシェアするオンラインワークショップを社内で月2回開催。異なる専門性を持つメンバー同士が視座を理解し合うことで、協業しやすい環境づくりを行っている。

家にいるとだらだら仕事をしてしまうことが…… 仕事モードに切り替えるルーティンをつくる

「職住融合」となるリモートワークでは、なかなか仕事モードに切り替えられないという人も多いだろう。例えば、オフィスで仕事を始める前にコーヒーを入れていたならば、自宅でも同じようにルーティン化することが一つの手段。ほかにも部屋を片付けてから業務を開始する、毎日の終業時間を明確に決めるなどの「自分との約束」も有効だ。自分に合った方法を見つけてみよう。

ASOBU GmbHでは、働き方やオフィス環境のアドバイスも行っています。
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最終更新 Freitag, 16 April 2021 13:19
 

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