ジャパンダイジェスト
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ドイツの日本文化発信地として55年 ケルン日本文化会館の
過去・現在・未来

ケルンの中心地から少し離れた場所に、ヒロシマ・ナガサキパークと呼ばれる広大な公園がある。その一角にたたずむケルン日本文化会館は、西ドイツ時代から半世紀以上、ドイツにおける日本文化の発信地として存在してきた。なぜケルンに拠点を置いているのか、どんな使命をもって活動してきたのか、ケルン日本文化会館を取材した。
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

取材協力:国際交流基金 ケルン日本文化会館
参考:『日本文化会館開館50周年記念誌』(国際交流基金 ケルン日本文化会館)

ケルン日本文化会館ケルン日本文化会館前には桜の木が植えられている

なぜケルンに日本文化会館?

ケルン日本文化会館の物語は、1960年代初頭、日本政府がドイツに日本文化会館の設立を決定したことに始まる。それに目を付けたのが、当時ケルン市の行政担当市長を務めていたマックス・アデナウアー氏だ。初代連邦首相コンラート・アデナウアー氏の息子で、日本美術のコレクターでもあった同氏は、ケルンが当時の首都ボンに近く、経済都市および文化都市として重要だったことに着目する。また、ケルン独日協会(1961年)やケルン市と京都市の姉妹都市提携(1963年)が生まれた時期でもあった。そうした背景から、ケルン市は日本文化会館の候補地として手を挙げたのである。

ケルン市への誘致には多くの日本関係者が携わっているが、とりわけマックス氏は1962年の訪日時に池田勇人首相(当時)と会談するなど、日本政府に積極的に働きかけた。さらにハインリヒ・リュプケ大統領(当時)、父であるアデナウアー首相(当時)の熱烈な支援もあり、翌年の1963年、すでに建設が決まっていた東アジア美術館の隣に日本文化会館を設立することが決定する。こうして1969年、ケルンに日本文化の発信地が誕生したのだった。

伝統文化からポップカルチャーまで

ケルン日本文化会館は、広々とした展示スペースのほか、211人を収容できるホール、蔵書数2万5000冊に上る図書室を完備し、開館当初には茶室や灯籠が設けられていた。また同館は、外務省が所轄する国際交流基金のドイツ唯一の海外事務所。事業の三つの柱として、①文化芸術交流、②日本語教育、③日本研究と国際対話を掲げ、活動を重ねてきた。

文化芸術の分野では、日本の伝統文化からポップカルチャーまで、さまざまな企画展のほか、講演会やイベントを開催。1996年および2008年には大江健三郎氏、2002年には村上春樹氏など日本を代表する作家の講演会も行われた。開館50周年の節目には、ケルン・フィルハーモニーを会場に梅若研能会による能・狂言のツアー公演を企画。立派な舞台が組まれ、外部との連携事業としても成功を収めた。また開館当初から続く映画上映は、日本作品に触れられる貴重な機会。とりわけ日本学を学ぶドイツの学生たちにとって、昔も今も日本文化会館は思い出深い場所であり続けている。

ケルン・フィルハーモニーでの能・狂言公演(2019年)ケルン・フィルハーモニーでの能・狂言公演(2019年)

日本語教育支援も会館の大きな事業の一つだ。コース開講のほか、日本文化を楽しむ体験講座、日本語ネイティブと実際に話せる場「日本語しゃべりーれん」を定期開催する。また、日本語教師の支援も行い、日本語を学ぶための環境づくりにも力を入れる。

さらに、ドイツ最大の日本フェス「日本デー」では、毎年ステージでトリを務める日本のアーティストを招へいしている。ほかにも日本映画祭「ニッポンコネクション」に上映作品の貸出や提供を行うなど、近年は日本文化会館の枠を越えた活動も増えてきた。

日本デー2022に招いたチャラン・ポ・ランタン(手前)日本デー2022に招いたチャラン・ポ・ランタン(手前)

次世代へバトンをつなぐために

昨今、ドイツにおける日本への興味関心は、ポップカルチャーを中心にますます広がりを見せている。また、外交上においてもドイツと日本は同じ価値を共有するパートナーとしてよりつながりを深めてきた。その上で、ケルン日本文化会館はこれまで丁寧に築いてきた豊かな人脈やネットワークを、これから国際関係を担う次世代へとつないでいくことを大きなビジョンとして掲げる。そのために、若い世代を対象とした事業展開に加え、ドイツ語圏広域での活動に力を入れていくという。

そのビジョンを体現する事業の一つとして、直近では6月5日から「オンライン日本映画祭2024」(JFF Online 2024)を開催予定だ。このようなオンライン事業が増えれば、ドイツ語圏での日本文化への興味関心はより一層広まるだろう。もちろん日本人としても、自国文化への理解を深め、日独交流のきっかけに、ぜひケルン日本文化会館を訪れてみてほしい。

ケルン日本文化会館
Japanisches Kulturinstitut Köln
(The Japan Foundation)

Universitätsstr. 98, 50674 Köln
Tel: 0221-9405580
Email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
https://co.jpf.go.jp/jp
Instagram: @jki_official

最終更新 Mittwoch, 08 Mai 2024 13:38
 

生誕300周年記念 現代に生き続けるカント哲学

プロイセンの哲学者イマヌエル・カントが誕生して今年で300年。カントは18世紀に啓蒙主義を形成し、世界的な平和秩序を唱え、人間を思考の中心に据えた近代哲学の先駆者だ。哲学史に残る名著を著したカントだが、一般人にとっては難解の文献は近寄りがたい存在であるのも事実……。そこで生誕300周年を機に、カントの生涯を振り返り、カントの哲学から現在に活かせる考え方を探ってみよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

イマヌエル・カント

参考文献:カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社)、萱野稔人『NHK「100分de名著」ブックス カント 永遠平和のために: 悪を克服する哲学』(NHK出版)、西研『NHK「100分de名著」ブックス カント 純粋理性批判: 答えの出ない問いはどのように問われるべきか?』(NHK出版)、秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)、御子柴之『自分で考える勇気 カント哲学入門 』(岩波ジュニア新書)、田中正人『哲学用語図鑑』(プレジデント社)、ウィル・バッキンガム『哲学大図鑑』(三修社)、philosophie Magazin「300 Jahre Immanuel Kant」、Schwäbische「2024 wird der 300. Geburtstag von Immanuel Kant gefeiert」、Frankfurter Rundschau「Philosoph Immanuel Kant: Der Mann, der das Denken revolutionierte」

カントが重要な3つの理由

1啓蒙思想の哲学者

カントが生まれる前の欧州はキリスト教中心の世界であり、真理も善悪も全て神の教えのもとに判定されていた。しかし、カントは伝統的な権威に従って決めるのではなく、自らの知性を働かせて考えることを提唱。そして自由、批判的な大衆、民主主義、法の支配を支持した。

2近代の道徳を提唱

倫理学者として、近代における道徳の基礎を築いた。『人倫の形而上学の基礎づけ』 や『実践理性批判』で提示された「定言命法」は、今日でも多くの人々の道徳的指針となっている。

3認識論者として才覚を発揮

認識論とは、世界をどのように認識しているのかを考察すること。カントは、実像であるその物自体は認識できないけれど、人間の感性や理解の仕組みが対象を秩序づけ、認識を構成すると説いた。当時この考え方は全く革命的だったため、センセーションを巻き起こした。


カントの思想はどこから生まれたのか? キーワードでたどるカントの人生

1724年4月22日ケーニヒスベルクで誕生し、1804年まで生きたカント。18世紀にしては長寿であったカントの長い人生のなかで、何に影響を受けて独自の哲学を唱えるようになったのか、キーワードとなる歴史的背景や人物からひも解いてみよう。

ケーニヒスベルクに誕生

カントの像カリーニングラードにあるカントの像

1724年4月22日、ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)で職人ヨハン・ゲオルク・カントとその妻アンナ・レジーナの第4子としてカントが誕生した。洗礼名はエマヌエル・カント(Emanuel Kant)だった。カントが「インマヌエル」(Immanuel)と改名したのは学生時代になってからのことで、ヘブライ語の原語をより正確に表現するためであった。父親は馬車の革の馬具を作る革細工の名人で、ギルドの一員として名誉ある階級に属していた。

KEYWORD 1
港町育ちがカントの世界を開いた

ケーニヒスベルクは海に面した街で、この「港町で育った」ことはカントの人生や哲学の基礎となっている。カントの生まれた時代のドイツ(プロイセン)はキリスト教世界で、神や教会に頼っていた。しかし、ケーニヒスベルクは異国の商人たちが次々とやってきて、彼らが自由に生きる姿を目の当たりにする。この商人たちとの交流を通して、カントは世界にはいろいろな見方や考え方があることを実感した。こうした経験から、カントは思い込みにとらわれない人間に成長したのだった。

ケーニヒスベルク

8歳から名門校に通い始める

カントが誕生後、次第に父の商売が衰退して一家は困窮していく。一方、並外れた才能と高い知性を持つカントは、8歳のときに叔父の援助により名門フリードリヒ学院(Collegium Fridericianum)に通い始めた。

厳しい学校生活だったが、愛情深い両親のもとで育ったカント。しかし、13歳のときに最愛の母が死去する。カントは後に「母は私の中に善の最初の種をまき、育ててくれた。母の教えは私の人生に永遠の癒しの影響を与えた」と述べている。

そして、16歳のときにケーニヒスベルク大学へ進学。数学、物理学、神学、哲学、古典ラテン文学を学び始めた。しかし22歳のときに父が死去し、カントは弟妹を養わなくてはならなくなった。大学を離れてケーニヒスベルク近郊の田舎(Judtschen)で、家庭教師として6年間働いた。ケーニヒスベルクで過ごさなかったのは、唯一この6年間だけである。

KEYWORD 2
厳し過ぎた!? フリードリヒ学院

カントの通っていたフリードリヒ学院は、朝7時から授業が始まり、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語などを学ぶ。下校時刻は午後4時だった。そんな学院の生活について、友人であるテオドール・ヒッペルはこのように振り返っている。「カントはあの若かりし頃の『奴隷の生活』を思い出すと、恐怖と不安に打ちひしがれたようだった」。学校制度そのものやカント家の日常生活も、ルターの信仰の再起を促した敬虔主義の影響を受けており、子どもだったカントには規律と服従が求められ、自主的な思考は奨励されなかったという。その生活が後のカントの思想、すなわち伝統的な権威から自分を解放する啓蒙思想へとつながっていく。

19世紀ごろのフリードリヒ学院19世紀ごろのフリードリヒ学院

ケーニヒスベルク大学で人気講師に

1754年、29歳になったカントはケーニヒスベルクに戻り、翌年に博士号を取得した。カントは最初の重要な著作である『天界の一般自然史と理論』を執筆しており、これによりケーニヒスベルク大学で教職に就けることになった。そして、論理学、形而上学、数学、物理学、地理学、鉱物学、機械学、実践哲学、倫理学、人間学、教育学とあらゆる学問について講義する。カントは商人との交流で得た情報を学生たちに伝えるなど、やがて人気講師に。講義室はいつも満席だったという。当時の学生は「私が講義に出席した9年間で、彼が授業に遅れたことや休講になったことは一度もありませんでした」と、カントの正確さと信頼性について語っている。

KEYWORD 3
ロシア国民として豪華な暮らしを経験

オーストリアとプロイセンが戦った七年戦争の過程で、ケーニヒスベルクはロシアに1758年からの4年半占領されていた。その間、カントはロシア国民であった。しかし「ロシア国民」としての生活は悪くはなかったようだ。カントは、ロシア人将校にさまざまな科目を個人授業することができた。そして何よりも、ロシアの貴族との社交生活も楽しんでいたという。30代だったカントは、フランス料理を楽しみ、仮面舞踏会に招かれるなど、プロイセンとは違うロシアの貴族の豪華な生活を送っていた。

40歳、ライフスタイルをがらりと変える

ケーニヒスベルクが再びドイツ領となり、40歳の誕生日を迎えるころ、それまで華やかだったカントのライフスタイルに変化が訪れる。より精神的健康を重視するようになり、より厳格な規則に従って日常生活をするようになったのだ。規則正しく生活するようになった理由は、生来身体が丈夫ではなかったこと、また親しい友人だった法学教授のヨハン・ダニエル・フンクが若くして亡くなったことが影響しているといわれている。

KEYWORD 4
議論相手だった商人ジョセフ・グリーン

カントは生涯旅行をせず、ケーニヒスベルク周辺を離れることはなかった。しかし、商人との交流によって、驚くほど世界の出来事に詳しかった。特に影響を与えたのは英国人商人ジョセフ・グリーンである。グリーンは厳格な規則に従って生活しており、カントも影響を受けたに違いない。二人は親しい間柄になり、毎日午後はグリーンと過ごすようになっていった。カントは『純粋理性批判』の全ての文章について彼と議論したといわれている。

「三批判書」の誕生

19世紀ごろのフリードリヒ学院カントと議論する仲間たち(1900年頃、エミール・デルストリング作)

ケーニヒスベルクが再びドイツ領となり、40歳の誕生日を迎えるころ、それまで華やかだったカントのライフスタイルに変化が訪れる。より精神的健康を重視するようになり、より厳格な規則に従って日常生活をするようになったのだ。規則正しく生活するようになった理由は、生来身体が丈夫ではなかったこと、また親しい友人だった法学教授のヨハン・ダニエル・フンクが若くして亡くなったことが影響しているといわれている。

「三批判書」ささっと解説!

カントよりも前の時代の認識論には、「イギリス経験論」と「大陸合理論」の二つがあった。イギリス経験論とは、何事も自分が経験しなければ物事を認識できないという考え方で、英国のロックやバークリー、ヒュームなどが唱えていた。一方、大陸合理論は人間には合理的に物事の真理を捉える知的能力が先天性に備わっているという考え方で、フランスのデカルトやオランダのスピノザ、ドイツのライプニッツなどが主張していた。カントは後者の考え方を支持していたが、後に両者の問題点を解き明かし、二つの論を統合。そうして生まれたのが、次の「三批判書」だ。

  • 1『純粋理性批判』(1781年)

    テーマ:人間は何を知ることができるのか、そして、私たちは何を知り得ないのか?

    従来の認識論では、外界の事物(対象)を、スケッチのようにそのまま写し取ることで認識すると考えられていた。しかしカントは対象自体は認識できないが、人間には共通の経験の仕方と理解の仕方が先天性に備わっていると考えた。例えば、机の上にコップがあるとしたら、以前はコップという対象をそのまま写し取って認識していた。しかし、カントは物自体は分からなくても、五感が対象を知覚し、人間が先天性的に持っている認識システムによって対象を読み取り、コップだと認識に至ると考えたのだ。

  • 2『実践理性批判』(1788年)

    テーマ:私たちは何をすべきか、逆に何をすべきでないのか?

    『実践理性批判』では道徳論を論じている。理性は動物にはなく、人間だからこそ備わっているものであり、道徳法則にのっとって皆が納得できるような善い行いをするべきだと主張した。本著に登場する言葉「汝なんじの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ」(自分の意思を決める規則は、常に道徳法則にのっとって決めて行動せよ)は有名。さらにカントは、道徳は目的を達成するための手段になってはいけないとし、「〇〇せよ(べき)」と定言命法で表せることが真の道徳だといった。

  • 3『判断力批判』(1790年)

    テーマ:私たちは何を望むのか、何を望まないのか?

    純粋理性と実践理性を媒介するものとして判断力に注目し、両者を結びつけるために最後の批判書を発表した。主に美や芸術、美的判断などについて考察し、最初の部分にはカントの美学、第二部には目的論が書かれている。美しいということは、認識対象としての事物の中にあるのではなく、事物を美しいと判断する人間の「認識能力の働き」の中にあると唱えた。ただし、純粋に「美」を感じるためには、対象に利害関係が無いことが必要だという。『判断力批判』は、西洋美学史においていまだに参考にされている。

危険視されたカントの思想

1790年代、カントはフランスで激化した「フランス革命期における非キリスト教化運動」をプロイセンに導入する計画に夢中になっていた。カントの思想を警戒していたプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、1792年にカントが教職に就くことを禁じた。しかしカントは折れることなく、自分の意見を放棄しなかった。

1793年には『たんなる理性の限界内の宗教』を出版し、道徳は宗教的要件から完全に独立していなければならないと主張。厳格な信者たちはカントの発言を聖書とキリスト教を軽視するものとみなし、批判した。1794年にカントに宛てられた国王の書簡では、「カントが哲学を悪用して、聖典とキリスト教の教えを歪め、品位を落としている」とされ、カントに対して宗教や神学に関する出版を禁止する勅令が出された。

KEYWORD 5
フランス革命から平和思想へ

ケーニヒスベルクではのんびりと歴史が進んでいたが、フランスでは君主制のような神が与えた政府形態が初めて疑問視され、1789年にはフランス革命が起きていた。カントは絶対王政が崩れ、国民国家が誕生したニュースに新しい時代の幕開けを感じ、強い関心を抱いていた。それは国家の新しい形が生まれたことによって、国家間の関係においても戦争の起こらない国際社会がつくれるのではないかと考えたのだ。

フランス革命フランス革命がカントを平和論へと導いた

平和を祈って亡くなったカント

国王など権力者から監視されていたカントだが、1795年には『永遠平和のために』を出版する。この本は後世に大きな影響を与えている(上記)。1800年になると、カントの精神力は徐々に衰え、友人たちに「諸君、私は年老いて弱っている」と話したという。カントの最後の楽しみは、毎年庭にやってくる鳥たちを観察することだった。

1804年2月11日、世話人から水を混ぜたワインをもらったカントは、「これでよい」と言い、これが彼の最後の言葉になった。そして翌日の2月12日、79歳で息を引き取った。葬儀の日は、ケーニヒスベルクにある全ての教会の鐘が街中に鳴り響いたという。

カリーニングラードにあるカントの墓カリーニングラードにあるカントの墓

意外な一面も? カントの素顔

ギャンブルに強かった

カントは素晴らしいビリヤードプレイヤーだったといわれている。彼の打撃は非常に正確だったので、カントに挑む人は誰もいなかった。また教え子のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによると、カントがポーカーをするときは常に「ポーカーフェイス」だったとか。しかし教え子たちは、ギャンブルのせいでカントが人生の軌道から外れつつあると心配していたという。

何十年も続いた規則正しい生活

カントが規則正しい生活を送っていたことは前述の通りだが、具体的な生活習慣は驚きだ。毎朝4時55分に起床し、紅茶を2杯飲む。7時に大学の講義を行い、15時30分になるとどんな天候でも1時間かけて同じ道を散歩する。正確さは近所の人にも有名で、カントが散歩するのを見て自分の時計の針を合わせる人もいたとか。夜は22時きっかりにベッドに入った。 何十年もの間、カントの一日は全く同じサイクルだった。

おしゃれでチャーミングな人柄

カントの身長はわずか157センチ(当時の平均身長は167センチ)だったが、常にファッショナブルな服装をしていたという。また髪は明るいブロンドだったと推測されている。彼は会話で相手を魅了し、大勢の人々を楽しませることができる人物だったとか。ちなみに生涯一度も結婚していないが、ケーニヒスベルクを訪れた女性と二度親しくなったことがある。ただし恥ずかしがり屋だったため、プロポーズには時間がかかり過ぎたようだ。

今こそ注目すべきカントの平和論

カントが『永遠平和のために』(1795年)を執筆してから200年以上経った現在でも世界では戦争が起こっており、皮肉なことにカントにとって身近な国だったロシアはウクライナ侵攻で国際的に非難されている。国際平和は本当に実現できるのか、最後にカントが考えた平和な世界について考える。

カントはロシアで好まれている?

カントが生まれたケーニヒスベルクは、第二次世界大戦後にロシアのカリーニングラードになったが、カントはいまだに街の誇りだ。市内には、カントの記念碑やゆかりの場所などが今も存在している。ロシアの国営通信社タス通信によると、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はお気に入りの哲学者の一人にカントの名を挙げたこともある。

しかし今年2月、カリーニングラード州のアントン・アリカーノフ知事は地元の政治学フォーラムで、「カントは、われわれが現在直面している世界的な混乱と世界的な再編成に責任がある」とし、「現在のウクライナ戦争も直接カントの影響がある」と持論を展開した。同知事は、カントは道徳法則の道を切り開いたが、「あらゆる行為やあらゆる不正を正当化するために使われる無責任の倫理」を西側諸国に広めたと主張したのだ。この発言はドイツのメディアでも取り上げられ、同知事に対し批判的な意見が多くみられた。

積極的に平和をつくるために

カントが『永遠平和のために』を執筆したきっかけの一つに、1795年にフランスとプロイセン間において締結されたバーゼル平和条約がある。これは戦果を調整しただけの条約で、秘密条項が多く含まれ、戦争の再発を防止するものではなかった。そうした背景から、カントはこの条約を疑問視していたのだ。

『永遠平和のために』では、カントはそもそも人間は邪悪な存在だとし、戦争が起こるのが当たり前でむしろ平和な状態が奇跡的だと考えた。人間の悪は根絶できないものの、それと闘って制圧することはできるとし、平和状態は積極的につくるべきだと主張。さらに国家間の永続的な平和が可能かどうか、またどのようにして実現できるのかを考えた。

同著では、国家間の平和が長期的かつ持続的に可能となるために満たすべき条件として、❶戦争原因の排除、❷国家を物件にすることの禁止、❸常備軍の廃止、❹軍事国債の禁止、❺内政干渉の禁止、❻卑劣な敵対行為の禁止を唱えた。この本が出版された当初から、カントが理想とする平和のための国際組織の構想は熱い論争を呼んだ。 この構想をもとに、第一次世界大戦後に「国際連盟」が結成され、1945年に国連憲章が発効されたことで現在の「国際連合」が誕生した。

カントの平和論は2世紀を経た現在でも、その妥当性は全く失われていない。 二つの世界大戦、冷戦終結後の国際秩序に関する議論が再燃している今、あらためてカントの平和論に注目するべきだろう。

━ 永遠平和は、(中略)たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。
『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社)より

1945年6月26日、国連憲章に署名をする各国の代表1945年6月26日、国連憲章に署名をする各国の代表

参考文献:RedaktionsNetzwerkes Deutschland「Die Russen streiten über „ihren“ Philosophen Kant」、Frankfurter Rundschau「Kaliningrads Gouverneur mit wilder These: Kant ist schuld am Ukraine-Krieg」、「Die russische Philosophie in Bezug auf Kant und die Moderne」

最終更新 Mittwoch, 24 April 2024 16:20
 

いつもご愛読ありがとうございます!ドイツニュースダイジェスト 創刊30周年

本誌ドイツニュースダイジェストは、2024年4月16日に創刊から30周年を迎えることができました。あらためまして、これまで支えてくださった広告主の皆様と読者の皆様に心より感謝を申し上げます。この節目に、ドイツニュースダイジェストが歩んできた30年の歴史を簡単にご紹介させていただきます。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
取材協力:見市知、参考:英国ニュースダイジェスト1443号「創刊30周年を迎えて」

ドイツニュースダイジェスト30年の歴史

ニュースダイジェストはスコットランド生まれ!

ニュースダイジェストの歴史がスタートしたのは1985年のこと。姉妹誌の英国ニュースダイジェストが、スコットランドにあるスターリング大学の日本語研究室で創刊されました。初代編集長の名は、ブライアン・ケイ。広島で3年にわたって技術者として働いた経歴の持ち主で、当時同大学の日本語研究室のコンサルタントを勤めていました。

その後、ロンドンにオフィスを移転。1992年にフランスニュースダイジェスト(現在は休刊)、1994年にドイツニュースダイジェストを創刊します。インターネットが普及する前の時代、現在よりも紙媒体の需要はもちろん、現地のニュースを日本語で読めるメディアは希少価値が高く、ニュースダイジェストは三国で愛されるフリーペーパーへと成長したのでした。

ドイツのニュースを日本語で社会運動にもいち早く注目

現在は月2回お届けしているドイツニュースダイジェストですが、創刊時から長らく「週刊新聞」として発行されていました。縦書きでまさに日本の新聞。ドイツ現地の新聞記事やテレビ報道から、選りすぐりのニュースを日本語で分かりやすく要約し、ワープロを使って記事を制作していました。また、現在も続いている掲示板「クラインアンツァイゲン」は創刊号から存在する長寿コーナー。昔も今も変わらず、在独邦人のビジネスや生活に役立つ情報が掲載されています。

さらにニュースや情報を発信するにとどまらず、メディアとして社会的な動きにもいち早く注目。例えば、創刊当時は世界各地の在外邦人が在外選挙権を求めて署名活動をしており、ドイツニュースダイジェストもたびたび読者にその実態を伝えていました。弊誌のこうした活動は小さな力ですが、そのような草の根のアクションが世界中でいくつも起こり、2000年に在外選挙権が認められるに至ったのです。

ドイツ・欧州生活者&ファンのためのメディアで在り続ける

創業者のケイ氏が2000年に死去した後、ニュースダイジェストは経営母体が何度か入れ替わり、2005年に現在の代表である森美江が発行人となりました。同年に横書きスタイルに変わり、欧州の日系フリーペーパーではどこよりも早くeBook版を公開。そして創刊から20周年を迎えた翌年の2015年、長年の実績とバランスの取れたコンテンツが評価され、「日本タウン誌・フリーペーパー大賞2015」の海外部門賞にて最優秀賞を獲得することができたのです。さらに時代の流れとともに、ウェブサイトやSNSの運営、デザイン制作や印刷手配、翻訳と事業を多様化させてきました。

2012年には、ドイツ語圏の日本ファンのための媒体として、ドイツ語フリーペーパー「JAPANDIGEST」を発行。現在は紙媒体の定期刊行とウェブサイトを運営し、ドイツ語で発信する日本メディアとして広く知られるようになりました。そうした経験と知見を活かして、近年は東京観光レップとしてドイツ市場を担当するなど、訪日インバウンド事業にも積極的に携わっています。

JAPANDIGEST Nr.23ドイツ語姉妹誌 JAPANDIGEST。最新号は2024年5月発行予定

ドイツニュースダイジェストは、常に在独邦人をはじめ欧州に住む日本人に寄り添い、日本にいるドイツ・欧州ファンの存在も見据えながら、どんな情報が必要か、注目すべきテーマは何かを考えながら制作を行ってきました。これからも読者の皆様に向けて役立つ情報を発信し続けるとともに、時代を先取りしながら新しい挑戦を続けていきます。

節目ごとに振り返るドイツニュースダイジェスト

1994年の創刊から30年。その間、時代は流れ、ドイツニュースダイジェストもその形を変え続けてきました。創刊号から最新号まで、マイルストーンとなる号の一面(表紙)を振り返ることで、移り変わりをまとめてみました。

19944.16 発行

創刊号

創刊号 記念すべきドイツニュースダイジェスト第1号。二色刷りで8面まであった 記念すべきドイツニュースダイジェスト第1号。二色刷りで8面まであった

20041.23 発行

500号

創刊号 10周年を迎える頃には全ページがカラー印刷になった 10周年を迎える頃には全ページがカラー印刷になった

200511.4 発行

585号

創刊号 リニューアルして記事は全て横書きになり、右綴じから左綴じに リニューアルして記事は全て横書きになり、右綴じから左綴じに

201210.5 発行

939号

創刊号 月2回発行となったタイミングに現在のデザインに変わった 月2回発行となったタイミングに現在のデザインに変わった

20244.19 発行

1216号

創刊号 最新号。ここから31年目がスタート! 最新号。ここから31年目がスタート!

最終更新 Dienstag, 16 April 2024 10:05
 

新生活を応援!2024年版 ドイツ暮らしガイド

新生活を応援!2024年版 ドイツ暮らしガイド

ドイツで新たな生活を始めることになってドキドキワクワクする一方で、言葉も文化も違う国で生きていくには不安がつきもの。渡独したばかりというドイツビギナーの皆さんが安心して楽しく新生活を始められるように、ドイツ暮らしの基本をポイントを押さえて解説します。さらに、ドイツでの新生活をしっかりサポートしてくれる心強い味方をご紹介。さあ、すてきなドイツ生活をスタートさせましょう!(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:本誌1191号特集「ドイツ暮らしガイド」

そもそもドイツってどんな国?

ドイツは16の州からなる連邦制国家。各州が権限を持っているため、祝日や教育制度などは州によって異なります。地域ごとに文化や食も特色があるため、国内旅行で各地を巡るのも楽しいです。

総人口が日本よりも少ないドイツですが、およそ1390万人もの外国人が暮らす移民大国。これは日本(約322万人)の4倍に当たり、ドイツの全人口のおよそ16%を占めます。日本との時差は、夏時間(2024年3月31日~10月27日)がマイナス7時間、冬になるとマイナス8時間に。なお公用語のドイツ語は、世界で約1億人が母語としているといわれています。

ドイツの成人年齢は18歳で、飲酒や喫煙、車の免許、選挙権と被選挙権などが認められます。16歳でも地方選挙の投票やビールの飲酒が可能です。通貨は「€」(Euro、ドイツ語では「オイロ」と発音)。付加価値税(消費税)は19%ですが、軽減税率が採用されているため、食料品や書籍などの日用品は7%となります。 参考:外務省、ドイツ連邦統計局

ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)

人口:8460万人(2023年9月30日)
面積:35万7000㎡
首都:ベルリン
言語:ドイツ語
宗教:カトリック(24. 8%)、プロテスタント(22. 7%)、ユダヤ教(0.1%)

そもそもドイツってどんな国?

北部の州

❶ シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州(州都:キール)Schleswig-Holstein(Kiel)
❷ 自由ハンザ都市ハンブルク(州都:ハンブルク)Freie und Hansestadt Hamburg(Hamburg)
❸ メクレンブルク= フォアポンメルン州(州都:シュヴェリーン)Mecklenburg-Vorpommern(Schwerin)
❹ ニーダーザクセン州(州都:ハノーファー)Niedersachsen(Hannover)
❺ 自由ハンザ都市ブレーメン(州都:ブレーメン)Freie Hansestadt Bremen(Bremen)

東部の州

❻ ベルリン州(州都:ベルリン)Berlin(Berlin)
❼ ブランデンブルク州(州都:ポツダム) Brandenburg(Potsdam)
❽ ザクセン=アンハルト州(州都:マクデブルク)Sachsen-Anhalt(Magdeburg)
❾ ザクセン自由州(州都:ドレスデン)Freistaat Sachsen(Dresden)
❿ テューリンゲン自由州(州都:エアフルト)Freistaat Thüringen(Erfurt)

西部の州

⓫ ノルトライン=ヴェストファーレン州(州都:デュッセルドルフ) Nordrhein-Westfalen(Düsseldorf)
⓬ ヘッセン州(州都:ヴィースバーデン)Hessen(Wiesbaden)
⓭ ラインラント=プファルツ州(州都:マインツ)Rheinland-Pfalz(Mainz)
⓮ ザールラント州(州都:ザールブリュッケン)Saarland(Saarbrücken)

南部の州

⓯ バーデン=ヴュルテンベルク州(州都:シュトゥットガルト)Baden-Württemberg(Stuttgart)
⓰ バイエルン自由州(州都:ミュンヘン)Freistaat Bayern(München)

初めてのドイツ生活の手引き

いよいよドイツでの暮らしがスタート!スムーズに新生活をスタートさせるためには、まずは次の三つの手続きをしましょう。また、分野別にそれぞれドイツビギナー向けのヒントをまとめました。

ドイツ暮らしを始める3つの手続き

❶ 住民登録

日本のパスポートを持っている場合は、入国後90日間は短期滞在が認められます。長期滞在する場合は、速やかに滞在地の住民登録局(Einwohnermeldeamt)で住民登録の届出(Anmeldung)を行いましょう。届出の期限は原則14日以内とされています。住民登録に必要な書類はパスポートや家主による入居証明など、地域によって異なるため、事前に確認するのがベターです。

問い合わせ先:滞在地の住民登録局

❷ ビザの申請

住民登録が完了したら、短期滞在期間の90日以内に外国人局(Ausländerbehörde)に行き、長期滞在許可(Aufenthaltserlaubnis)を申請します。労働許可が必要な場合も、外国人局の窓口を通して申請可能です。ワーキングホリデービザの場合は、日本で申請手続きをすることもできます。

問い合わせ先:滞在地を管轄する外国人局

❹ 在留届と在外選挙登録

3カ月以上海外に滞在する日本人は、居住地を管轄する在外公館に「在留届」を提出することが義務付けられています。在留届電子届出システム「ORR ネット」(www.ezairyu.mofa.go.jp/RRnet)に登録すれば、オンラインで在留届の申請や内容変更が可能です。また海外から日本の選挙に投票できる在外選挙人名簿登録は、国内で転出届を提出した際に市区町村の窓口から行うか、在外公館を通じて申請できます。申請から在外選挙人証を受け取るまでの期間は2~3カ月が目安であるため、余裕を持って申し込みましょう。

問い合わせ先:滞在地を管轄する在外公館

銀行口座の開設

ドイツの銀行口座を持つ場合、口座維持手数料がかかる場合がほとんどですが、オンラインバンクなど無料で利用できる銀行も存在します。銀行口座を開くには、基本的にパスポートとドイツ国内の住民登録証明が必要です。必要書類がそろったら銀行で予約を取りましょう(オンラインでできる場合もあり)。

また、ドイツの銀行のカードは基本的にGirocard(旧EC カード、ドイツでは一般的に「エーツェーカルテ」と呼ばれる)というデビットカードになっています。ちなみに、2021年には一般市民による支払いの58%が現金、23%がデビットカードで行われており、現金主義が根強く残っているといえます。

各種保険への加入

加入義務のある健康保険(下記「医療」参照)のほか、安心してドイツ生活を送るために各種保険への加入も検討しましょう。まず推奨されるのが「損害賠償保険」(Haftpflichtversicherung)。第三者や第三者の物に損害を与えてしまった際に、被害者に対して保険金が支払われます。また、自宅の火災や水漏れ、空き巣などの被害に遭った場合に備えて、「家財保険」(Hausratversicherung)も大事です。

さらにドイツでは多くの人が「訴訟保険」(Rechtsschutzversicherung)に加入しています。例えば、突然の解雇や異動など職場のトラブルがあった場合に、弁護士費用や裁判費用を補償してくれるものです。

日本とここが違う!ドイツの医療システム

日本とは違うドイツの医療システムに、最初は困惑される方も多いでしょう。ここでは、大きな違いをいくつかピックアップしてご紹介します。

健康保険は2種類ある

公的健康保険(gesetzliche Krankenversicherung)とプライベート保険(Private Krankenversicherung)の2種類があり、いずれかに加入義務があります。公的健康保険は国民の9割が加入し、保険適用の医療行為は無料、追加の検査などは自費で支払うシステム。プライベート保険は、健康な駐在員用の特別な団体加入のパッケージがある場合もあります。ただし、一度プライベート保険へ加入すると公的保険に戻ることが難しいため、よく検討することが大切です。

家庭医を見つけておくと安心

外来診療は全て開業医院(Praxis)が担っています。入院が必要な場合は日本の一般的な病院に当たるクランケンハウス(Krankenhaus)、より高度で専門的な診察が必要な場合は大学病院(Uni-Klinik)で受診するというシステムです。またドイツには、ハウスアルツト(Hausarzt)と呼ばれる家庭医(かかりつけ医)の制度があります。ハウスアルツトを見つけておくと、日常的な診察がスムーズに行え、必要に応じて専門医や大学病院を紹介してもらえます。

日本とここが違う!ドイツの医療システム 参考:本誌812号「ドクターの診察室」

薬について

日本人とドイツ人の体格の違いによって服用量が多く感じられることがありますが、薬局で薬を購入する際は薬剤師の指示に従った分量を服用すれば問題ありません。ただし、体が小さい人や薬が効きやすいという人は半分程度服用するなど、医師や薬剤師に相談しましょう。また、2024年1月より公的保険(義務保険)では従来の紙の処方せんから電子処方せん(E-Rezept)に切り替わりました。アプリを通じて近くの薬局に注文したり宅配をお願いしたりすることができます。

救急車は有料の場合も

ドイツで救急車を呼ぶ際の電話番号は「112」です。呼んだ内容や加入保険によって、有料または保険でカバーされるかどうかが決まります。

家探しでトラブルを回避するために

近年の住宅不足や家賃高騰の影響で、ドイツでの家探しに苦労する人は少なくありません。自分にぴったりの家を見つけるためには、根気強さも必要です。

家探しでトラブルを回避するために

住宅の種類

ドイツの住宅は大きく分けて三つあります。Wohnung(ヴォ―ヌング)はマンションやアパートのような集合住宅のこと。ルームシェアを意味するWG(ヴェーゲー)は学生や若い年齢層に人気ですが、同居人との関係性や共有スペースの管理などには配慮が必要です。Haus(ハウス)は一戸建ての家のことで、郊外にあることが多いため、予算に余裕があり、騒音や振動などによる隣人トラブルを避けたい場合におすすめです。

内覧するのも一苦労

住宅難により都市によっては非常に競争率が高くなっています。新聞に掲載される住宅情報欄やインターネットなどを利用して自分で物件を探すこともできますが、何十件と連絡しても内覧できるのはそのうち2~3件というケースも……。

中・長期の滞在を予定している人で家具付きの住宅を希望する場合や、ドイツ語や英語に自信がない人は、日本語対応の不動産会社に依頼すると安心です。また昨今は、現地での住居見学の代わりに動画による内覧を行っている物件もあります。

トラブルを避けるために

賃貸契約時はきちんと内容に目を通すことが重要です。トラブルを回避するためにも、右記のことを必ず確認しましょう。

賃貸契約時に確認すべきこと

  • 家賃に管理費(Nebenkosten)が含まれているか
  • 管理費の中に何が含まれているか(水道代、暖房費、ゴミ処理費など)
  • 住居独自のハウスルールがあるか
  • 日本にいずれ帰国する予定がある場合は、賃貸契約期間や解約方法などについても確認する
  • 入居前には必ず、プロトコール*(調書)を取る。入居時に気付いた家の傷や破損部分などがあれば、写真を撮っておくと良い
    *プロトコールとは、入居時の状態(家の傷や破損部分が入居前からあったものか、入居時の水道や電気メーターの数値など)を大家さんと確認したことを証明する書類

休暇取得の際に注意すべきこと

社会保障制度がしっかりしているドイツでは、休暇取得に関してもさまざまな法律が存在します。それぞれの休暇を取得するための注意すべき点は以下の通りです。

有給休暇

有給休暇は1人当たり年間20日与えることが定められています。基本的には同年12月31日までに取得しないと消滅してしまいますが、事業上または個人的(親族を看病しなければならないなど)な理由で年内の取得が難しいと判断されれば、翌年3月31日まで繰り越すことが可能です。それ以降は、被雇用者が取得を請求する権利はなくなるのでご注意を。日系企業では年30日間の有給休暇を設けているケースが多いようです。

休暇取得の際に注意すべきこと

病気休暇(病欠)

病気により出勤できない日が原則3日間を越える場合、就労不能証明書(Arbeitsunfähigkeitsbescheinigung、AU)が必要になります。2023年1月からAUの電子化に伴い、非雇用者が雇用主にAUを提出する義務はなくなり、雇用主や会計事務所が保険会社を通じてデータを取得することになりました。

ただし、被雇用者はこれまでと同様に自身の病欠やその期間について速やかに報告する義務があります。ちなみに連邦統計局によると、2021年にドイツの労働者は平均して11.2日の病気休暇を取っているそう。

出産・育児休暇

出産予定日の6週間前と出産後8週間は労働が禁止されています。また、育児休暇は子どもが生まれてから3年目の誕生日1日前まで取得することが可能です。雇用者と被雇用者の間で一度合意がなされた期間を変更することは難しいため、熟考した上で申請することが望ましいでしょう。

安全安心に運転するには?

ドイツの道路は右側通行のため、左ハンドルです。ドイツで運転できる条件がそろったら、ルールに従って安全運転を心がけましょう。

運転免許証

有効な日本の運転免許証とそのドイツ語訳、もしくは国際免許証があれば、入国から6カ月以内はドイツで運転することができます。ドイツ語訳は在ドイツ日本国大使館・総領事館やADAC(ドイツ自動車連盟)で作成することが可能です。滞在期間が6カ月以上になる予定の方は、滞在地域の交通局(Straßenverkehrsamt)でドイツの運転免許証に切り替える手続きを行いましょう。

問い合わせ先:滞在地の交通局や車両登録認可所(Kfz-Zulassungsstelle)

法定速度

ドイツにおける法定速度は、市街地は時速50キロ、住宅地などの指定地域が時速30キロ、市街地以外の一般道路では時速100キロです。標識に指定速度が書かれている場合はその指示に従います。アウトバーンをハイスピードで走り抜けることが夢……という方もいらっしゃるかもしれません。実際にはアウトバーン走行時の推奨速度は130キロとなっているため、くれぐれも出し過ぎには注意しましょう。

主な交通ルール

飲酒後の運転は血中アルコール濃度0.5パーミル未満(目安はビール0.5リットル)は、危険運転や事故を起こした場合を除いて許可されています。ただし、21歳未満のドライバーと運転初心者(免許証取得してから2年間)は飲酒自体が禁止事項です。また、いわゆる「ながら運転」は罰金の対象ですが、ハンズフリーの場合はスマートフォンなどの使用は問題ありません。チャイルドシートは、12歳未満もしくは身長150センチ未満の子どもに使用義務があります。

安全安心に運転するには?

知っておくとお得!ドイツ生活の常識

ドイツに暮らし始めたころは、日本との違いに驚いたり、慣れないルールを不便に感じたり、気持ちがなかなか落ち着かないものです。ここでは、生活の中の「あるある」を集めました。

買い物

ドイツでの新生活でよくあるカルチャーショックの一つが、お店の営業時間です。スーパーマーケットは地域によっては21時前後に閉店し、日曜日は一般的に終日閉まっています。土曜日までに買い出しをお忘れなく!

買い物

外食

レストランやカフェでの食事の際、日本との違いはチップがあること。目安は総額の10%といわれていますが、実際はそこまで厳密なものではなく、端数を切り上げて支払うことが多いです。また支払いが現金のみの場合やクレジットカードが使用できない場合もあるため、入店前に支払い方法を確認するのがベター。

水道水は日本よりも硬度が高く、飲料用にはミネラル・ウォーターや浄水器でろ過した水を使用する人も少なくありません。また、水回りはすぐ白くなるので、こまめなカルキ除去が必須。お酢(Essig Reiniger)やカルキ専用の洗剤(Entkalker)がおすすめです。

風呂、トイレ

アパートに住んでいる場合、居住規約(Hausordnung)に記載されている騒音規定の時間帯(例えば22:00~8:00)にトイレやバスルームを使用することは極力避けるようにしましょう。

掃除

水回りはピカピカに保つのがドイツ流。日本よりも機密性が高いドイツの住居では、換気を怠ると黒カビが発生しやすくなります。また洗濯物を外から見える場所に干すことも好まれません。

ゴミ

ドイツでのゴミ捨ての良いところは、いつでも捨てにいけること!アパートの場合は地下などにゴミ捨て場があり、地域によって差はありますが、プラスチックゴミ(Plastik)やそのほかのゴミ(Restmüll)に分かれています。また、古紙や瓶、不要な衣類専用のコンテナが公共の場に設置されているところも。

電気

日本の電圧は100V、対するドイツの電圧は220V。日本の家電製品は、定格電圧が「100V-240V」など220Vにも対応できるものは使用できますが、それ以外は変圧器が必須です。使用済みの電池は、スーパーマーケットやドラッグストアにある回収ボックスへ持っていきましょう。

通信

通信速度が遅い、頻繁に接続が切れるなど、ドイツのインターネット環境の悪さに驚く人は少なくないでしょう。連邦政府によって光ファイバーケーブルの敷設が進められてきたものの、なかなか進んでいないのが現状。自宅のインターネットを開通するには、通信会社でプランを申し込み、別途予約を取って後日業者に設置してもらうのが一般的です。

郵便配達

家具や大型の荷物を受け取る日は時間指定できないことがほとんどのため、基本的に荷物が届くまで待機しなければなりません。不在票を受け取った場合は、指定されている場所まで身分証を持参して取りに行きましょう。また、近所の人が代わりに荷物を受け取ってくれていることも多く、その場合は不在票に受取人の名前などが記されています。

買い物

治安

人口10万人当たりのドイツの犯罪発生件数は日本のおよそ10倍!スリや置き引き、車上荒らし、空き巣などの窃盗に対しては、自分が被害に遭うかもしれないという警戒心を持つことが大切です。自分が住んでいる地域の情報収集をすることも防犯対策の一つになります。

これだけは覚えておきたい!暮らしに役立つドイツ語表現

ドイツでは比較的英語が通じますが、職場や日常生活で少しでもドイツ語ができると、コミュニケーションがよりスムーズに行くことも。 まずは覚えておきたいドイツ語表現を厳選してご紹介します。

あいさつ

おはようございます。 Guten Morgen! グーテンモルゲン
こんにちは。 Guten Tag! グーテン ターク
こんばんは。 Guten Abend! グーテン アーベント
さようなら! Tschüs! チュース
ありがとう。 Danke schön! ダンケ シェーン
どういたしまして。 Bitte schön! ビッテ シェーン
すみません。 Entschuldigung! エンシュルディグング
ごめんなさい。 Es tut mir leid. エス トゥート ミア ライト

外食

メニューをください。 Die Speisekarte, bitte. ディー シュパイゼカルテ ビッテ
少し待って下さい。 Einen Moment, bitte. アイネン モメント ビッテ
注文をお願いします。 Ich möchte bestellen. イッヒ メヒテ ベシュテレン
お会計お願いします。 Zahlen, bitte! ツァーレン ビッテ
別々/まとめてでお願いします。 Getrennt / Zusammen, bitte! ゲトレント ツザーメン ビッテ
テイクアウトします。 Zum Mitnehmen. ツム ミットネーメン
ここで食べます。 Zum hier Essen. ツム ヒア エッセン

買い物

~をいただけますか? Ich hätte gerne イッヒ ヘッテ ゲルン _____.
~をください。 _____ bitte! ビッテ
~はありますか? Haben Sie ハーベン ズイー _____?

街中でよく見る言葉

入口/出口 Eingang アインガング / Ausgang アウスガング
男性/女性 Herren ヘレン / Damen ダーメン
※トイレでは「H/D」と略されている場合もある
炭酸入り/炭酸なし mit Kohlensäure ミット コーレンゾイレ / ohne Kohlensäure オーネ コーレンゾイレ

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最終更新 Mittwoch, 10 April 2024 10:55
 

「第九」初演200周年記念ベートーヴェンの人生と
受け継がれる交響曲第9番

ベートーヴェン

1824年5月7日、ウィーンでベートーヴェンの交響曲第9番が初演されてから、今年でちょうど200周年。日本では「第九」として親しまれ、年末のコンサートをはじめ、今でも世界各地で演奏され続けている名曲中の名曲だ。そんな記念年にベートーヴェンの人生を振り返るとともに、実は日独交流の懸け橋ともなった「第九」に残されている数々のエピソードに注目する。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:本誌1114号特集「私たちが知らないベートーヴェンの素顔」、本誌1074号特集「音楽が繋ぐ日本とドイツの絆

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
(1770-1827)
ハイドン、モーツァルトと並び、ウィーン古典派を代表する作曲家。宮廷音楽家ではなく、貴族から援助を受けてフリーランスとして活躍。聴覚を失うなどの苦難を克服し、傑作を数多く残した。その後現代に至るまで、多くの音楽家に影響を与え続けている。

ベートーヴェンを知る9つのエピソード

1スパルタで酒癖の悪い父親に育てられた「神童」

1770年12月16日ごろ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはボンの宮廷音楽家のヨハンと宮廷料理人の娘のマリア・マグダレーナの間に生まれた。幼い頃よりスパルタな父親から音楽教育を受けていたベートーヴェンは、楽器と一緒に部屋に閉じ込められたり、夜遅くまで練習させられたりしたこともしばしば。また、ピアノのほかにオルガン、ヴァイオリン、ヴィオラなども演奏できたという。コンサートデビューしたのは実際には7歳のときだったが、父は息子をより「神童」に見立てるため6歳と年齢を偽わり、ベートーヴェン自身もそう信じていたとか。父親はパーティー好きの浪費家で、酒癖も悪かった。一方、優しかった母親はベートーヴェンが16歳のときに死去。母親の死後、家族を支えたのはベートーヴェンだった。

故郷ボンの生家
Beethoven-Haus Bonn
ベートーヴェンハウス

ベートーヴェンハウス

ベートーヴェンの故郷ボンに残っている生家が、現在は博物館として公開されいてる。実際に使用していた楽器や楽譜が展示されているほか、音楽ホールも設備。2020年に生誕250年を迎えたことを機に、新しいエリアがオープンした。

Bonngasse 20, 53111 Bonn
www.beethoven.de

2 自由と平等を愛した本の虫

ベートーヴェンは学校に行く時間がほとんどなく、子ども時代をほぼ音楽だけに捧げていた。しかし、音楽以外にもさまざまなことに興味を持ち、1789年からボン大学の哲学科の講義を受けたり、友人たちとボンの書店に通い、政治や芸術の本を読んだりしていたという。フランス革命(1789-1799)が起こったこの時代に、ベートーヴェンは自由と平等に価値を見出したといわれる。1792年にウィーンに移った後も本に囲まれた生活を送り、生涯にわたってさまざまな分野で知見を広めた。ある日の日記には「5時半から朝食までの時間はいつも勉強」と書き残している。

3隠し子の噂も?恋多きベートーヴェン

生涯独身だったことで知られるベートーヴェンだが、実はずっと家族をもつことを夢見ており、女性関係についてはさまざまな逸話が残っている。30歳のときに恋をしたジュリエッタ・グイチャルディは、「月光ソナタ」の名で知られる「ピアノソナタ第14番」(1801年)を捧げたことで有名だ。また最も知られている「エリーゼのために」(1810年)の「エリーゼ」は、39歳のときに婚約したテレーゼ・マルファッティではないかといわれる。そして、ベートーヴェンは「不滅の恋人」(Unsterbliche Geliebte)に宛てた手紙を書いており、その人物は一体誰なのかは、ベートーヴェン最大の謎の一つである。ピアノを教えていたヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという説が最も有力で、彼女との間には隠し子がいたという噂も……。いずれにしても、現在に至るまで真相は分かっていない。

「月光ソナタ」の譜面「月光ソナタ」の譜面

431歳、ハイリゲンシュタットで遺書を書く

1802年、ウィーン近郊のハイリゲンシュタットに住んでいたとき、かの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた。ベートーヴェンが31歳のときである。すでに患っていた難聴が回復する見込みはなく、最愛のジェリエッタ(前述)が別の男性と結婚したことで絶望のどん底に突き落とされ、死を覚悟したのだった。遺書は2人の弟に宛てたもので「私の死後に読み、私の意志通り取り計らってくれ」と記されていた。しかし、遺書はポストに投函されることはなく、56歳で亡くなった後に机の引き出しの中から見つかっている。遺書には、自分の才能を十分に発揮する機会がなかったことを悔やみ、死がもう少し遅く訪れることを望んでいる旨も書かれており、結局は生き続けたいという気持ちが勝ったのかもしれない。

1802年に書かれたハイリゲンシュタットの遺書1802年に書かれたハイリゲンシュタットの遺書

遺書が書かれた家
Beethoven Museum
ベートーヴェン博物館

ベートーヴェンハウス

1802年に遺書を書いた家が博物館として保存されている。2017年のリニューアルオープンで展示面積が2倍以上に拡張され、さらに見応えのある展示に。ワイン産地として有名なこのエリアにある、「ベートーヴェンの散歩道」を散策するのもおすすめ。

Probusgasse 6, 1190 Wien
www.wienmuseum.at

5「超」が付くほどのかんしゃく持ち?

ベートーヴェンはその気難しそうな見た目からも、気性が荒く短気なことで知られている。使用人が少しでも気に入らないことをすると、怒りで本や食べ物を投げつけることもあり、しばしば使用人たちを解雇したという。そんなベートーヴェンの性格がよく分かる有名なエピソードがある。共和主義を目指したフランスのナポレオン・ボナパルトをたたえ、ベートーヴェンは交響曲を「ボナパルト」と名付けた。ところが、ナポレオンが皇帝に即位したことを知って激怒し、表紙を破り捨ててしまったのだ。それが「英雄」(エロイカ)と名前を変えた交響曲第3番(1804年)。しかしこれは作り話という説もあり、本当のところは分からない。そんなベートーヴェンだが、意外にも友だちは多かったそう。もちろん、友人たちもベートーヴェンから怒りをぶつけられることがあり、扱い方に困っていたようだ。

6引越しは34年間で少なくとも52回

ベートーヴェンが生きた時代は、頻繁に引越すことは今日よりも一般的で、住宅は家具付きが基本だった。とはいえ、ウィーンに暮らした34年の間に、分かっているだけでも街中で24軒、夏場を過ごす郊外では29軒の家に移り住んだというのは、異常である。理由は定かではないが、ベートーヴェンは田舎や自然を愛していたため、5~10月はウィーンではなく郊外の村や小さな街に行き、毎年違う家に滞在したという。田舎の美しい風景が描かれた交響曲第6番「田園」(1808年)は、自然豊かなハイリゲンシュタットに住んでいる間に作曲された傑作だ。

1901年に描かれた、田舎道を散歩するベートーヴェンの肖像画1901年に描かれた、田舎道を散歩するベートーヴェンの肖像画

7病的なほどワインとコーヒーが好き

ドイツといえばビールだが、ベートーヴェンがよく飲んでいたのはワイン。ベートーヴェンは、ワインの酸味が強かったり甘味が少なかったりすると酢酸鉛を入れていたという。なぜなら、本物の砂糖は高価だったのだ。もちろん鉛は体に悪いため、ベートーヴェンの数々の不調はワインの飲み過ぎが原因ではないかともいわれている。また、もう一つお気に入りだった飲み物がコーヒー。こだわりの強かったベートーヴェンは、カップ1杯分のためにご丁寧に豆を60粒数え、専用のコーヒー器具を使って自分自身で入れていた。ところがあるとき、健康のためにコーヒーはドクターストップがかかってしまったそう。

8基本的にいつも不健康

ベートーヴェンが完全に耳が聞こえなくなったのがいつであるのかは分かっていない。難聴の症状が出始めたのは1801年ころといわれており、耳鳴りが絶えず、次第に楽器の音や歌声が聞こえなくなっていった。しかし、ベートーヴェンは1806年までそれを隠し通そうと必死だった。さまざまな治療や当時登場したばかりの補聴器なども試したが、回復することはなくますます悪化してしまう。交響曲第9番(1824年)を作ったときは全く耳は聞こえなかったが、初演では自身が指揮をし、大喝采を浴びたことに気付かなかったという逸話もある。また、聴覚以外にも健康に問題があり、慢性的な頭痛や腹痛、リュウマチなども患っていた。

ベートーヴェンのラッパ型補聴器ベートーヴェンのラッパ型補聴器

9葬式に2万人が参列

1826年秋、ベートーヴェンは肺炎を患い、肝臓にも問題を抱えていた。肝臓病の原因は、ワインの飲みすぎではないかと指摘されている。やがてお腹に水腫ができ、何度か手術をして水を抜き取ったものの一時的に痛みがなくなっただけで、ベートーヴェンはどんどん衰弱していった。そして、1827年3月26日の午後、ベートーヴェンは56歳で息を引き取った。葬式はその3日後だったにもかかわらず、各人に招待状が送られ、当日は学校も閉鎖された。参列者の数は2万人に上ったといわれており、新聞でも大きく報じられたという。日の目を見ることなく一生を終える作曲家もいるが、ベートーヴェンは同じ時代を生きた人々にとっても偉大な音楽家であり、当時その死がどれほどセンセーショナルな出来事だったかが伝わってくるエピソードだ。

ベートーヴェンのデスマスクベートーヴェンのデスマスク

「第九」がつなぐ日本とドイツの絆

1918年6月1日、徳島県鳴門市・大麻町(当時の板東町)にあった板東俘虜収容所でベートーヴェン交響曲第9番が、日本はもとよりアジアで初めて全曲演奏された。鳴門市では毎年6月1日を「『第九』の日」として、6月の第1日曜日に演奏会を開催してきた。その活動は日本のみにとどまることなく、ドイツで「『第九』里帰り公演」が行われたことも。国境を越えて紡がれる日独の交流を探る。

取材協力・資料提供:鳴門市ドイツ館、鳴門市役所『第九』ブランド化推進室

徳島オーケストラのメンバー徳島オーケストラのメンバー

そもそも「第九」はどんな作品?

ベートーヴェンの九つ目にして最後の交響曲である「第九」は、1822年から1824年にかけて書かれた。最終楽章に詩人フリードリヒ・フォン・シラー(1759 - 1805)の「歓喜の歌」を用い、交響曲として初めて合唱を取り入れたことは、音楽史において重要なマイルストーンとなった。初演は1824年5月7日、当時ウィーンの宮廷歌劇場であったケルントナートーア劇場で行われ、センセーションを巻き起こした。「第九」はしばしば平和のシンボルとして演奏され、今日も人々を魅了し続けている。2001年には、ユネスコの記憶遺産プロジェクトである「Memory of the World」に登録された。
参考:ユネスコホームページ、KABINETT「RESOUND Beethoven 9 | 200 Jahre Beethovens Neunte」

「第九」初演の歴史を紐解く板東俘虜収容所の奇跡

鳴門市とドイツの交流の起源は1917年までさかのぼる。1914年に始まった第一次世界大戦で、英国と同盟を組んでいた日本がドイツに宣戦布告。ドイツ兵が東アジアの拠点としていた中国・青島を攻略した「青島の戦い」により、約4700名ものドイツ人捕虜が日本各地の収容所に送られた。そのうちおよそ1000人が徳島県板東町にあった板東俘虜収容所に収容されることになる。

世界大戦当時、敵勢である外国人たちに対し劣悪な住環境で過酷な労働を強いるような強制収容所があったなか、板東俘虜収容所は規則の範囲内でドイツ人捕虜たちに自由を与え、地元民との交流も許した模範的な収容所だった。

このような配慮には、板東俘虜収容所の所長を務めていた松江豊寿の存在が大きかった。彼の父親は明治維新の反乱軍であった会津藩の出身であったことから、松江所長本人も汚名を受けながら苦しい生活を送っていたというバックグラウンドを持っていたため、敗者が味わう屈辱を痛いほど理解していたのだ。そのため、施設が閉鎖されるまでの間、徹底した人道的管理の下、ドイツ兵捕虜に自由を与え、住環境の改善に尽力した(本誌1000号参照)。

文化活動を通じて育まれる日独の絆

松江所長の自由を重んじる方針に加え、徳島が四国88カ所霊場を巡る「遍路」の文化が根付く土地柄もあり、住民たちは「お接待」といわれるおもてなしの心を大切にする風習があった。そのことから、地元の人々はドイツ人捕虜たちを「ドイツさん」と親しみを込めて接し、多くの場面で交流を図っていたという。畜産や製パンの技術指導、スポーツや芸術の指導など、捕虜たちは自国の技術や文化を板東町の人々に伝えた。

また、板東俘虜収容所内での活動としては、所内新聞「ディ・バラッケ」の定期発行、菓子店や商店街を営むなどの商業活動、日本ではまだ珍しかった鉄棒や鞍馬、組体操といった競技を取り入れたスポーツ活動、オーケストラや合唱団を結成し演奏会を開いたり、地元民向けの音楽教室を開くなどの音楽活動に精を出していた。

上記の活動の中でも特に活発だったのが、音楽活動だった。以前、音楽隊に所属していた捕虜たちを中心に結成されたのが、パウル・エンゲル率いるエンゲル・オーケストラと、ヘルマン・ハンゼンが指揮を執る徳島オーケストラだった。彼らは週に1度のペースで定期演奏会を開き、ここで生活をしていた約2年10カ月の間に100回以上、約300もの楽曲を演奏したという。定期的に開催される演奏会は、ドイツ人捕虜たちにとって心のよりどころでもあったようだ。

野外音楽堂で演奏する徳島オーケストラ野外音楽堂で演奏する徳島オーケストラ

1918年6月1日「第九」初演を迎えて

このように精力的な音楽活動を続けるなか、定期演奏会の一環として1918年6月1日に行われたのがベートーヴェン「第九」のアジア初となる全曲演奏会だった。板東俘虜収容所には男性しかいなかったため、本来であれば女性パートであるソプラノ部分を男性用に編曲したり、収容所にない楽器をオルガンで代用して演奏したりするなど、工夫を重ねての試みとなった。

当時、世界各地で争いが起こっていたなか、「alle Menschen werden Brüder」(全ての人々は兄弟になる)という歌詞の一節に代表されるような平和や愛という普遍的なテーマを含む「第九」が選ばれたことは異例のこと。しかし、板東俘虜収容所での生活環境や地元の人々とのふれあいによって、国境を越えたつながりを感じずにはいられない出来事ではないだろうか。

また、演奏会のプログラムには、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスが作曲した楽曲が多く含まれており、ベートーヴェンの音楽の精神性と、シュトラウスの音楽の娯楽性がドイツ人捕虜たちにとって必要なものだったのではないかと考えられている。

『第九』アジア初演プログラム『第九』アジア初演プログラム

演奏は収容所内で行われたため、板東町の人々が実際に演奏を聴くことはできなかった。しかし西洋音楽の発展に貢献した徳川頼貞が初演から2カ月後に第1楽章の演奏を収容所で聴き、感銘を受けたことを自身の著書『薈庭楽話わいていがくわ』で明かしたことから、1940年代頃に「第九」の初演について多くの人に広く知られるようになった。

「第九」初演のキーパーソン、ヘルマン・ハンゼン

指揮者として徳島オーケストラ(後にMAK オーケストラに改称)を率い、「第九」初演を成功へ導いた重要な人物が、前述のヘルマン・ハンゼンだ。自由な活動が許可されていたとはいえ、祖国ドイツから遠く離れた日本ではまだまだ楽器や楽譜が乏しかった状況下でも、演奏会を重ねるごとに自身のオーケストラを立派な楽団へとまとめ上げ、在任中には36回もの演奏会の指揮を務めた。

彼が開催する演奏会は異国の地で暮らす捕虜たちに娯楽を与えるだけでなく、彼が紡ぐ楽曲の数々には、音楽を楽しむことの幸せや内面的な高揚を与えてくれるような要素もあったという。徳島俘虜収容所新聞「徳島アンツァイガー」には、以下のような人物評が掲載されており、彼が板東俘虜収容所内で多くの人から慕われていた人物であったことがよく分かる。

「夏になると通俗的な音楽の演奏会が定期的に行われ、明るく軽やかなメロディーが爽やかな空気を運び、冬になると古典音楽に傾倒する傾向にあった。彼の活動の頂点をなすものは、疑いもなく6月1日に行われた『第九』の演奏と、ワーグナーのコンサートだろう。ハンゼン氏のような有能な音楽家にしても、何の苦労もなく活動できる類のものではなく、小さな作業を苦労しながら根気よく続けることが必要だったことだろう。そして何より仕事に対して真心を持った人物だった」

「第九」が演奏された講堂「第九」が演奏された講堂

脈々と受け継がれる現在の「第九」の姿

100年以上の時を経た現在も鳴門市で行われている「第九」の演奏会。毎年行われるようになったのは、1982年5月15日の鳴門市制施行35周年・鳴門市文化会館落成式記念行事として、第1回目のベートーヴェン「第九」交響曲演奏会が開催されたことがきっかけだった。この演奏会後、市民からの「あの感動をもう一度」という声に応える形で演奏の継続が決定。以降、板東俘虜収容所で行われた『第九』のアジア初演の日にちなんで、6月1日を「『第九』の日」とし、毎年この時期に演奏会を行っている。また、ドイツでも定期的に「『第九』里帰り公演」が行われ、ドイツ兵捕虜の子孫も演奏会に駆け付けるなど、日本のみならずドイツでもその歴史が語り継がれている。

鳴門市では板東俘虜収容所の史実を通して歴史的背景や友愛の心を理解し、この地が「第九」のアジア初演の地であることに誇りを持ち郷土を感じられるよう、若い世代にも受け継いでいく。こうして100年前に始まった日独の絆は、今、次世代へとつながれていく。

過去の「第九」演奏会の様子。2024年で40回目を迎える過去の「第九」演奏会の様子。2024年で40回目を迎える

ヘルマン・ハンゼンの略歴

ヘルマン・ハンゼン若き日のヘルマン・ハンゼン

1886年11月26日 シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州グ リュックスブルクで生まれる。ドイツ最北の街フレンスブルクで育ち、シュテッ ティン(現在はポーランドの都市)で音楽を学ぶ
1904年5月 18歳の時に海軍に入隊
1909年10月 23歳の時に負傷のため一時軍を離れ、12月に原隊復帰
1914年11月 28歳で青島「膠州海軍砲兵大隊(MAK)第3中隊」に所属、一等音楽兵曹として音楽隊の指揮を執る。その後、徳島県・板東で俘虜生活を送るなか「徳島オーケストラ」(後に「MAK オーケストラ」と改称)を率いる
1918年6月1日 32歳の時に板東俘虜収容所でアジア初となる「第九」の演奏で指揮者を務める
1919年8月 故郷であるシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の帰属を決定する住民投票のため33歳の時にドイツに帰国
1920年 帰国後の34歳の時に市の広報係、秘書官、参事などを務める
1925年 39歳の時に声楽クラブ「フェニックス」に参加し、この年の指揮者に選ばれる
1927年3月13日 病気のため死去。享年40歳。墓には楽器が刻印された(現存はしない)
*上記の略歴は、プスト博士の調査によってフレンスブルク市や教会の文書で明らかになったもの

「第九」にまつわる日・独の物語

ベートーヴェン最後の交響曲であり、世界平和への願いや博愛の精神が込められた第4楽章「歓喜の歌」に代表される「第九」。1824年の発表から200年近くの時を経た現在もなお、多くの人々に愛され続けている。世界中の誰もが知っているこの「第九」によって紡がれる四つの物語を紹介しよう。

1年末コンサートの定番となった「第九」

日本では冬の風物詩として、年末コンサートの定番プログラムである「第九」。その始まりは諸説あるが、戦後間もない1940年後半に日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が、12月に演奏したことで、年末の「第九」演奏会が一般的に認知されるようになった。混乱が続く世界情勢のなか、当時喜びや博愛精神に満ちあふれたこの楽曲を聴いた人々から好評だったため、それ以降、年末に「第九」を演奏するようになったといわれている。一方、欧州では年末にメンデルの「メサイア」を演奏するのが定番だ。ただ、ドイツのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団では、 第一次世界大戦が終結した1918年の年末に平和への願いを込めて「第九」を演奏して以来、大みそかにこの楽曲を演奏することがおなじみとなっている。

「第九」を演奏するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(2023年)「第九」を演奏するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(2023年)

2欧州連合のシンボルとなった「第九」

欧州連合(EU)のシンボルには、サークル状に黄金の星が12個あしらわれた欧州旗、EU創設を祝う5月9日のヨーロッパの日、「多様性の中の統合」(United in diversity)を掲げたモットーなどがある。そしてさらに、世界的な平和への願いを込めたベートーヴェン「第九」の4楽章「歓喜の歌」が欧州市民のアンセムとなっている。1972年にオーストリアの指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンによって編曲された「歓喜の歌」が、欧州評議会によって「欧州の歌」として発表され、1985年にミラノで開かれた欧州理事会(EU首脳会議)において「EUの歌」として承認された。「EUの歌」は加盟国の国歌ではなく、あくまでもEUの基本的な価値をたたえる曲という位置付けになった。

1980年代に「第九」を指揮するカラヤン1980年代に「第九」を指揮するカラヤン

3ベルリンの壁崩壊と自由と祈りを込めた「第九」

1989年11月10日、冷戦の終わりを告げる歴史的な出来事であるベルリンの壁崩壊を祝すため、同年のクリスマスに米国出身の指揮者であるレナード・バーンスタインを筆頭に、著名な音楽家たちがベルリンに集結した。オーケストラを構成したのは、ドイツのバイエルン放送交響楽団やレニングラード・キーロフ劇場、シュターツカペレ・ドレスデンをはじめ、ニューヨーク交響楽団、ロンドン交響楽団やパリ管弦楽団など国内外からメンバーが集まった。第二次世界大戦時にドイツと敵国として戦った国々からもオーケストラが加わるなど、世界平和の実現に向けた第一歩となった。このコンサートでは第4楽章の歌詞にある「Freude」(喜び)を「Freiheit」(自由)に変えて歌われた。

1989年12月25日にベルリンで「第九」を演奏したバーンスタイン1989年12月25日にベルリンで「第九」を演奏したバーンスタイン

4長野オリンピックで世界へとつないだ「第九」

1998年に長野県で開催された冬季オリンピックの開会式のフィナーレを飾った「第九」。長野を中心にベルリン、中国、シドニー、ニューヨーク、ケープタウンの五つの拠点で、同時に第4楽章「歓喜の歌」を合唱するという史上初となる一大プロジェクトが行われた。当日は今年2月に亡くなった世界的指揮者の小澤征爾氏が長野県市民文化館でオーケストラ、コーラス、ソリストを前にタクトを振り、その映像と音声を衛生中継で5大陸に届けるという試みだった。それに合わせて計1000名もが合唱する迫力のステージは、現在でも語り継がれている。時差や気象状況による衛生中継の切断など、多くの不安を抱えながらも成功したこの演奏は、世界に日本の技術の進歩を発信するのにも一役買った。

長野オリンピック開会式の一幕長野オリンピック開会式の一幕

「第九」演奏会情報

「第九」演奏会情報ベートーヴェンハウスでは「第九」初演200周年を記念して、2024年5月7日(火)・8日(水)にヴッパータールにて行われる「Resound Beethoven 9」をはじめとしたコンサートを開催。詳しい情報はホームページ(www.beethoven.de)をチェック!
最終更新 Montag, 25 März 2024 12:09
 

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