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人から人へと受け継がれる世界遺産 - ドイツの「無形文化遺産」を知る!

人から人へと受け継がれる世界遺産ドイツの「無形文化遺産」を知る!

人類共通の遺産として保護されているユネスコの無形文化遺産。グローバリゼーションに伴って、世界的に伝統文化の消滅の危機が叫ばれており、ドイツでも伝統文化の保護対策として無形文化遺産は重要視されている。本特集ではドイツが築いてきた無形文化遺産をご紹介。さまざまな地域やコミュニティーによる無形文化遺産を知ることで、異文化や多様な生き方への理解を深めてみよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:Deutsche UNESCO-Kommission、UNESCO Intangible Cultural Heritage、文化庁「無形文化遺産」、『ユネスコ「無形文化遺産」生きている遺産を歩く』(国末憲人著、平凡社)、シンクタンクせとうち総合研究機構

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そもそも「無形文化遺産」とは?

「世界遺産」と聞くと、ユネスコにより1978年から登録が始まった文化遺産や自然遺産など、有形のものを思い浮かべるだろう。伝統文化や知識、技術などのいわゆる「無形文化遺産」が世界遺産条約の対象となったのは、2003年のこと。その年に開催されたユネスコ総会で、無形文化遺産も国際的に保護する仕組みを作ることが採択されたのだ。その背景には、1990年代からグローバル化の大きな流れにより、各地の文化遺産が消滅の危機や脅威にさらされていたという事実がある。

また欧米では第二次世界大戦後に、著作権を保護する活動が活発になったが、民間伝承や伝統的知識が著作権や特許権の対象になることはほとんどなかった。例えば先住民族の絵柄や民謡などを、欧米人が商品として使用し利益を得ていたことも。先住民族側は大切な文化を無断で使われたことが許せないと、著作権をめぐって争いになったケースもある。このような背景から、民間伝承や伝統的知識を知的所有権を有するものとして守ることも、無形文化遺産の登録を目指す大きな軸となった。

各国の無形文化遺産をユネスコの「無形文化遺産の保護に関する条約」へ登録するには、まず国内の無形文化遺産一覧表に登録される必要がある。すなわち、各締約国は自国における無形文化遺産の保護のため、国内の無形文化遺産を特定し、一覧表を作成する。各国は遺産の保護措置を取るよう努めることが求められているのだ。この中から、各国は国際的な水準での無形文化遺産の保護のため候補を選定し、ユネスコ事務局に提案。提案書は、無形文化遺産保護条約政府間委員会によって評価され、記載するか否かが決定される。ちなみに政府間委員会は締約国の中から十数カ国が選ばれ、任期は4年。2年ごとに半数が改選される。

2023年7月現在、世界140カ国で676件がユネスコ無形文化遺産に登録されている。ユネスコでは、無形文化遺産を次の三つのカテゴリ(一覧表)に分類し、それぞれの目的や方法によって保護している。

❶ 人類の無形文化遺産の代表的な一覧表

文化の多様性を尊重する対話を奨励するために、無形文化遺産の重要性が世界的に認識され、認知度が高まることを目的としている。登録件数が一番多く、2013年に登録された「和食;日本人の伝統的な食文化」はこれに分類される。

人類の無形文化遺産の代表的な一覧表

❷ 緊急保護が必要な無形文化遺産一覧表

適切な保護措置が必要であることを強調するための一覧表。この一覧表にある無形文化遺産の保護を支援するために、ユネスコは国際基金を設立している。例えばモンゴルの伝統的民族舞踊「モンゴル・ビエルゲー」などがある。

緊急保護が必要な無形文化遺産一覧表

❸ グッド・プラクティス

無形文化遺産を革新的な方法で効果的に保護している実践事例の一覧表。日本にはまだグッド・プラクティスに登録されているものがないが、ドイツでは「バウヒュッテにおける工芸技術と慣習」が登録されている。

グッド・プラクティス

ユネスコに登録された7つのドイツの無形文化遺産

現在、ドイツの無形文化遺産でユネスコで登録されているものは7件。なかには他国と共同遺産として登録されているものもあるが、それぞれにドイツの文化的要素も垣間見える。そんなドイツの無形文化遺産をピックアップするとともに、実際にその文化遺産を見学したり体験したりできるヒントをご紹介する。

今日の「協同組合」の原点はドイツに!❶ 協同組合における共通的利益を組織する理念と実践Idee und Praxis der Organisation gemeinsamer Interessen in Genossenschaften

登録年
2016年(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)

同じ目的を持つ人同士が集まって組織される「協同組合」の存在は今日では当たり前となったが、ドイツには古くから商業や職人による職業別組合「ギルド」があり、ドイツらしい無形文化遺産ともいえる。

中世のギルドでは、メンバーになるとさまざまな規律に従わなくてはならなかったが、その代わりに経済的安定や平等が保証され、共用施設も使用できた。19世紀になって自由主義思想が広がると、ギルドは解体する。そこで新たに登場したのが、協同組合だった。その協同組合の重要な基礎を築いたのが、ヘルマン・シュルツェ・デーリチュ(1808-83)とフリードリヒ・ヴィルヘルム・ライファイゼン(1818-88)だ。経済学者であるシュルツェ・デリッチュは世界初の信用協同組合を、市長であったライファイゼンは農村信用組合の基となる信用協同組合を築き上げた。

協同組合は民主的に確立された組織構造であり、組合員が市民社会への積極的な関与を通じて社会的責任を担う。組合員は、協同組合に出資することで共同所有者となり、議決権は出資額に関係なく皆平等に与えられる。協同組合のアイデアはすぐに応用され、今日では仕事、金融、食料、住宅など、地域的にも世界的にも、ほとんど全ての分野に存在している。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Gesellschaftliche Selbstorganisationsform ist erster deutscher Eintrag auf UNESCO-Liste」、Deutscher Genossenschafts- und Raiffeisenverband e.V「Kulturerbe der Menschheit」
見学・体験

シュルツェ・デーリチュ・ハウスの協同組合博物館Genossenschaftsmuseum im Schulze-Delitzsch-Haus

ヘルマン・シュルツェ・デーリチュの生涯と、協同組合の誕生について学ぶことができる博物館。約250平方メートルの広さを誇る館内では、19世紀の社会問題を解決するために彼が行ったさまざまなアプローチについて解説。また当時のドイツの社会から経済、社会史の一端が語られ、現在の協同組合へのつながりも見えてくる。壁に展示されている「協同組合の世界地図」では、協同組合のアイデアが国際的に広がった様子が一目で分かる。
https://genossenschaftsmuseum.de

楽器の音色も文化遺産❷ オルガン製造技術と音楽Orgelbau und Orgelmusik

登録年
2017年(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)

オルガンは約2000年前にエジプトで誕生したといわれている。その後、東ローマ帝国時代に欧州に伝わり、ドイツでも発展してきた。中世以来、オルガン演奏は教会の典礼の一部でもあり、バッハ、リスト、メンデルスゾーンなどドイツの作曲家たちもオルガンの曲を多く残している。

職人に代々引き継がれる技と知識はオルガン製造に欠かせず、非常に高度な感性も必要といわれる。オルガンを制作する際は、建物の音響条件をしっかり把握し予算に応じて個別に設計される。一方でオルガンは伝統的な職人技だけではなく、常に変化する革新的な技術を取り入れていくことも大切にされている。例えば、初期のオルガンの内部は鍵盤と弁が直接結合されていたが、時間が経つにつれて空気圧のモーターや電気で動作するように改良されてきた。

今日、ドイツ全国には5万台のオルガンがあり、オルガン工房は400社(2800人の従業員と180人の見習い)存在する。国内に3500人のオルガニストがいるが、アマチュア奏者も合わせると数万人ともいわれる。音楽大学や教会施設でオルガン奏者養成を行っており、将来のオルガニストが今も着々と育っている。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Hochspezialisiertes Erfahrungswissen und besondere Fähigkeiten」、Sonntagsblatt「Orgelbau und Orgelmusik gehören zum "Immateriellen Kulturerbe" der UNESCO」
見学・体験

第13回 ドイツオルガンの日13. Deutscher Orgeltag

毎年9月の「ドイツオルガンの日」には、さまざまな大きさ、古いものから新しいものまでドイツのオルガンが全国同時に一般公開される。コンサートだけでなく、舞台裏を見学するオルガンツアー、オルガニストやオルガン製作者、オルガン愛好家たちとのトークやインタビュー、オルガンの歴史や新築計画に関する展示会など、オルガンにまつわるあらゆるイベントも開催。音も見た目も違うオルガンは、聴きごたえ見ごたえあること間違いなし!
2023年9月10日(日)
www.orgeltag.de

工業化で消滅しかけた伝統技術❸ 藍染め ヨーロッパにおける防染ブロックプリントとインディゴ染色Blaudruck

登録年
2018年(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)
※オーストリア、チェコ共和国、ハンガリー、スロバキアと共同

17世紀後半、オランダ東インド会社の旅行者たちによって、藍染めが欧州に伝えられた。その後、18世紀から19世紀にかけて藍染めの技術は中欧にも広まってゆく。それまで染色には森林植物が使われていたが、大量に収穫しやすい藍が染料として使われるようになったことが理由の一つだ。しかし工業化により大量生産の時代になると、手作業による藍染めは衰退し、多くの工房は閉鎖を余儀なくされた。

今日、伝統的な方法で藍染めを行っている工房はドイツでは12軒、そのほかの欧州諸国では15軒のみ。そのほとんどが家族経営だ。伝統的な工房は何世代にもわたって存続し、固有の知識と技術は家族内だけで受け継がれている。

生地のデザインは、木型を使って手作業でプリントされる。細かい模様が施された木製(あるいは金属製)の版木に防染剤を付け、布の上に版木を設置。次に藍の染色槽に布を浸すのだが、防染剤を付けた部分は染まらないため、模様ができるという仕組みだ。現在、若手のデザイナーが工房と協力して独自のファッション・コレクションを発表するなど、藍染の魅力があらためて注目されている。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Blaudruck in Deutschland ist Immaterielles Kulturerbe der UNESCO」、Auswärtiges Amt「Blaudruck von der UNESCO als Immaterielles Kulturerbe der Menschheit anerkannt」
見学・体験

イェーファー藍染工房Blaudruck Jever GmbH

ニーダーザクセン州イェーファーの中心部にある藍染工房は、1822年に建てられた倉庫を使用し、消滅しかけていた藍染めの伝統を復活させた。ニーダーザクセン州で受け継がれている型のほか、北ドイツ、オランダ、スイス、ハンガリーなどの伝統的な型も保管。古くから伝わる職人技と現代的なデザインを融合させながら、藍染技術を守り続けている。毎週水曜15時には、色模様を染めだす 捺染 (なせん) などの様子を実演するほか、工芸の歴史や文様の由来を解説し、藍染めについて深く知ることができる(所要時間約45分、参加費7ユーロ)。
www.blaudruckerei.de

数百年受け継がれてきたチームワーク❹ ヨーロッパにおける大聖堂の建設業場、いわゆるバウヒュッテにおける工芸技術と慣習:ノウハウ、伝達、知識の発展およびイノベーションDas Bauhüttenwesen - Weitergabe, Dokumentation, Bewahrung und Förderung von Handwerkstechniken und -wissen

登録年
2020年(グッド・プラクティス)
※フランス、ノルウェー、オーストリア、スイスと共同

ゴシック建築様式の大聖堂は、建築家、石工、鍛冶職人、大工、芸術的なガラス職人、足場職人、塗装職人、屋根職人など、多くの専門的な石工作業を必要とする。そんなゴシック建築の最盛期である13世紀、都市生活が発展すると同時に、分業制に基づいて高度に専門化された建築組織と施工形態も発展した。そうした新たな組織や形態は「バウヒュッテ」と呼ばれ、棟梁の指導のもと各専門家が共同作業で一つの建物を造り上げていた。中世後期以降、バウヒュッテは国境や帝国を越えて互いに密接に結びつき、ネットワークが形成され、欧州中に知識や技術が広まった。

バウヒュッテの職人たちは、毎年春になると欧州中の大きな建設現場に出向き、秋になるとまた故郷へと帰った。職人を長い期間確保するために、彼らには宿舎が提供され、冬でも作業できる部屋が用意されることも。こうして同じ職人たちによる長期的な計画が可能になり、非常に複雑な構造の建築が可能になった。

大聖堂のバウヒュッテの安定と成功の中心は、経験豊かなマイスターの知識と技が弟子たちに受け継がれてきた教育システムの賜物。職人としての活動以外でも保存活動を記録し、青少年などに活動を広めたり、定期的に会議を開き情報交換したりと、地域を超えて文化を受け継いできたことがグッド・プラクティスに登録された要因だ。現在も当時と同じように、バウヒュッテは教会のすぐ近くに作業場を持ち、さまざまな業種の人々が建築現場で密接に協力し合っている。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Das Bauhüttenwesen - Weitergabe, Dokumentation, Bewahrung und Förderung von Handwerkstechniken und -wissen」。Karlsverein – Dombauverein「UNESCO nimmt Bauhüttenwesen als Immaterielles Kulturerbe auf」
見学・体験

ケルン大聖堂Kölner Dom

3人の王の骨を収めた聖遺物箱があるケルン大聖堂は、ゴシック建築の傑作の一つといわれている。ローマ・カトリック教会として1248年から建設が始まり、完成したのは1880年。600年以上の歳月を費やした大聖堂は、1996年にユネスコの世界遺産に登録された。しかし近年は環境の影響によって風化が深刻に進んでいる。バウヒュッテは損傷した石造物の修復や、歴史的な窓の保存と保護などを随時行なって、世界遺産を守り続けている。
www.koelner-dom.de

24カ国で守り続ける狩猟文化❺ 鷹狩りFalknerei

登録年
2021年(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)
※オーストリア、ベルギー、クロアチア、チェコ共和国、フランス、ハンガリー、アイルランド、イタリア、カザフスタン、キルギスタン、モンゴル、モロッコ、オランダ、パキスタン、ポーランド、ポルトガル、サウジアラビア、スロバキア、スペイン、韓国、シリア、アラブ首長国連邦、カタールと共同

訓練された猛禽類を使って野生の獲物を捕らえる狩猟には、3500年以上の歴史がある。動物を飼いならし、調教するための知識と経験は、世代を超えて受け継がれてきた。

猛禽類と鷹匠は、まず信頼関係を築く必要があり、打ち解けるまでには繊細なプロセスを踏まなければならない。猛禽類はごほうびをもらうなどポジティブな経験を通じてゆっくりと鷹匠に慣れていき、やがて狩猟を行うようになる。訓練した猛禽類たちの飛行速度は、時速300キロ以上にもなるという。鷹匠の技術習得は、生きた動物を扱うため、理論の勉強だけでは不十分であり、実践のほか、動物や自然の保護対策も不可欠である。

ドイツで狩猟免許を取得するためには、通常の狩猟試験に加え、特別な鷹匠試験に合格しなければならない。この二つの試験が存在するのは、世界でもドイツだけである。またドイツでは鷹匠1名につき合計2羽まで飼育が可能で、鷹狩り用の鳥としてオオタカ、イヌワシ、およびペレグリン・ハヤブサが、法的に認められている。使用される道具も、この数千年の間、ほとんど変わっていない。これらの道具は高品質で特別な仕組みがあるため、今日でも手作業で作られている。

鷹狩りは多くの国で行われていて、鷹匠間で国内および国際的に情報を交換することは文化保存にとって重要だ。リストに登録されたことで、国境を越え、後世に継承されるに違いない。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「3.500 Jahre alte Tradition durch insgesamt 18 Länder nominiert」、Deutscher Falkenorden e. V.「Immaterielles Kulturerbe」
見学・体験

ホーエン・ノイフェン城でのサマープログラムSommerprogramm auf der Burg Hohen Neuffen

シュトゥットガルト近郊にあるホーエン・ノイフェン城で毎年夏に行われる鷹狩りショー。ワシ、ハヤブサ、ハシビロコウ、フクロウなどを間近で見ることができ、猛禽類が来場者の頭上近くを飛び、さまざまな狩りの戦略や獲物を捕らえる技術を実演する。鷹匠の高度な技術はもちろん、人と動物、そして自然が織り成す特別な体験を楽しめる。
2023年4月7日〜11月末まで
日曜・祝日 12:00、14:00、16:00
www.falkner-wolfgang-weller.de

ワイマール共和国時代に生まれた前衛舞踊❻ ドイツにおけるモダンダンスの実践Moderner Tanz – Stilformen und Vermittlungsformen der Rhythmus- und Ausdruckstanzbewegung

登録年
2022年(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)

モダンダンスは、ワイマール共和国時代にクラシックバレエを否定して生まれた自由な身体表現で、表現主義ダンスと生活改革運動にルーツを持つ。表現主義ダンスの創始者の一人、ルドルフ・フォン・ラバン(1879-1958)をはじめ、舞踊家ピナ・バウシュ(1940-2009)の師匠であるクルト・ヨース(1901-79)、振付師のマヤ・レックス(1906-86)などに影響されながら発展し、今日まで受け継がれている。

あらかじめ決められたポジションを再現するのではなく、感情や人生経験を反映したありのままの表現を追求するモダンダンス。ソロや小グループでの共同創作が中心で、年齢、社会的地位、出身、体格、性別は関係ない。そしてモダンダンスはさまざまなダンススタイルと組み合わさり、コンテンポラリーダンスへと発展した。

ドイツでは、モダンダンスはさまざまな年齢やスタイルのダンサー、振付家、ダンス教育者によって実践され、教えられている。また公立学校やレジャー施設での子どもや若者のためのダンス・プロジェクトも盛んだ。専門学校、文化施設、成人教育や学習プログラムにおいても、コースやワークショップを提供し、地域に根差している。モダンダンスには共同体感覚を生み出し、人と人との結びつきを強めるという側面もあるのだ。こうしたコミュニティー構築に貢献している点も、無形文化遺産登録に際して評価されたといえる。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Moderner Tanz – Stilformen und Vermittlungsformen der Rhythmus- und Ausdruckstanzbewegung」、Ständige Vertretung der Bundesrepublik Deutschland「Der Moderne Tanz wurde in die UNESCO-Liste des Immateriellen Kulturerbes aufgenommen」
見学・体験

タンツハウス nrwtanzhaus nrw

デュッセルドルフのtanzhaus nrwは、現代のダンス文化を促進する非営利団体で、アマチュアからプロまで通えるダンスアカデミー。さまざまなジャンルのダンスが学べ、モダンダンスのコースも開講されている。八つのスタジオのほかにシアターもあり、プロのパフォーマンスが見られる機会も多い。またドイツ各地にある市民学校のフォルクスホッホシューレ(VHS)でも、モダンダンスのコースが提供されていることもあるため、気になる人はチェック!
https://tanzhaus-nrw.de

ライン川でも行われていた木材輸送❼ いかだ流しFlößerei

登録年
2022年(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)
※オーストリア、チェコ共和国、ラトビア、ポーランド、スペインと共同

河川に木材を流して運ぶ「いかだ流し」は、何世紀にもわたって森林地帯から木材を移動させる最も費用対効果の高い方法だった。遅くとも13世紀には、木材の需要は燃料や家屋の建築のみならず造船用としても高まり、いかだ流しは重要な輸送手段の一つとなったと考えられている。

いかだ師たちは、組んだいかだの上で何週間も共同で生活を送り、作業をしていた。その結果、いかだを作り川を下るための知識や技術、価値観を共有するコミュニティーが生まれた。いかだ流しによって繁栄した街もあり、例えばバーデン=ヴュルテンベルク州のヴォルフアッハでは、1763年時点で労働人口の20%がいかだ流し業に携わっていたという。

三十年戦争(1618〜1648)の復興期には、木材に乏しいオランダでは造船需要に対応するため、取引先を拡大。その莫大な需要により「オランダいかだ」でライン川を航行し、ドイツから大量の木材を輸送していた。しかし19世紀末には交通網と鉄道網が整備され、さらにライン川の運送船がいかだ流しに不満を抱くようになり、いかだ流しの重要性は次第に低下していった。第二次世界大戦には、いかだ流しはドイツの川で散発的にしか行われなくなり、1967年にライン川でのいかだ流しは廃止された。

人々の生活を支えてきたいかだ流しは、1980年代まで商業的に続けられ、現在は観光客向けに行っている地域も。近年では、いかだ流し協会が学校などに出向き、いかだ流しを通じて子どもたちに木材の重要性を伝える活動をしている。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「UNESCO erklärt Flößerei zum Immateriellen Kulturerbe der Menschheit」、planet wissen「Vom Floß zur Kogge: Geschichte der Floßschiffahrt」
見学・体験

いかだ流しと交通博物館 ゲンゲンバッハFlößerei- und Verkehrsmuseum Gengenbach

ヘッセン州にあるキンツィヒ渓谷のいかだ師の歴史を詳しく紹介する博物館。いかだ師は長旅に出る前に天に祈りを捧げ、危険な旅への安全を祈願していた。いかだ師の仕事は体力勝負でもあり、気性が荒い人が多かったが、根は優しかったといわれている。いかだ流しは、19世紀までシュヴァルツヴァルトの重要な収入源であった。地域の活動を後世に残すために、1991年にシュヴァイバッハのいかだ師組合がかつての鉄道衛兵の家を使用して博物館を設立。館内ではいかだ流しや林業、木材加工に関する数多くのドキュメンタリーを見ることができる。
www.floesserei-museum.de

ドイツ国内で保護されている無形文化遺産

ユネスコの無形文化遺産に登録されるには、まず国内で保護体制が取られていることが条件。そのため、ドイツユネスコ委員会はまず国内で無形文化遺産リストを作り、該当する遺産を登録している。ドイツ国内で登録されたものから、あまり知られていない興味深いものをご紹介しよう。

ハイデルベルクのヒップホップ文化Hip-Hop-Kultur in Heidelberg und ihre Vernetzung in Deutschland

登録年
2023年

ラップ、DJ、ヒューマンビートボックス、グラフィティ、ブレイクダンスなどのさまざまな要素に基づくヒップホップ文化。多様な表現形態があることが特徴で、1970年代の米国が発祥の地だ。ドイツでは1980年代からハイデルベルク出身のグループ、アドバンスド・ケミストリーを中心に発展した。ドイツ語圏全域で継承されているが、ハイデルベルクはヒップホップ文化の発展に貢献した都市として、同地のヒップホップ文化がドイツ国内の無形文化遺産にリストアップされた。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Hip-Hop-Kultur in Heidelberg und ihre Vernetzung in Deutschland」、Stadt Heidelberg「 Immaterielles Kulturerbe: Deutsche UNESCO-Kommission zeichnet Heidelberger Hip-Hop aus」

ハーメルンの笛吹き男 民間の取り組みAuseinandersetzung mit dem Rattenfänger von Hameln

登録年
2014年

「ハーメルンの笛吹き男」は、最もよく知られたドイツ民話の一つ。そして今日、ハーメルン市ではこの話を軸にして、芸術や大衆文化のあらゆるジャンルでさまざまな解釈による上演や創作活動が行われている。例えば、1956年以来、毎年夏にボランティアの俳優たちによる「笛吹き男」の野外劇が、2000年からは5~9月までの毎週水曜日に、ミュージカル「RATS」が入場無料で上演される。さらに2004年には、70匹以上のネズミが表現された彫刻フェスティバルが開催された。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Auseinandersetzung mit dem Rattenfänger von Hameln」Die Rattenfängersage: Stadt Hameln「Eine gelebte Tradition」

モールス信号Morsetelegrafie

登録年
2014年

1830年代半ばに米国人のサミュエル・モールスが開発した、短音と長音の組み合わせで伝達を行うモールス信号。当初は有線のみだったが、19世紀末には電波を使った無線機器も登場した。1849年にドイツ人のフリードリヒ・クレメンズ・ゲールケが符号を改良し、国際規格として承認され、今日まで公式かつ世界的に使用されている。20世紀後半にはモールス信号は使用されなくなったが、アマチュア無線家の中にはファンも多い。歴史、言語、そして文化を超えたモールス信号は、世界のコミュニケーションツールとして伝承されている。

参考:Deutsche UNESCO-Kommission「Morsetelegrafie」、Ministerium der Deutschsprachigen Gemeinschaft Belgiens「Morsetelegrafie」
最終更新 Dienstag, 29 August 2023 09:31
 

ドイツでサッカーを120%楽しもう! - はじめて観に行く ブンデスリーガ

ドイツでサッカーを120%楽しもう!はじめて観に行くブンデスリーガ

昨年開催されたカタールW杯では日本代表がドイツ代表に勝利するなど、日本人選手の活躍もあり、サッカーに興味を持ち始めたという人はきっと少なくないはず。せっかくドイツに住んでいるなら、世界トップリーグの一つ「ブンデスリーガ」を見に行かなきゃ損! シーズン開始前に、ブンデスリーガの歴史から楽しみ方まで、その魅力をとことん解説する。今号を片手にスタジアムに熱い試合を観に行こう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ビギナーのためのブンデスリーガ Q&A

Q1. いつからブンデスリーガは始まった?

ドイツサッカーの最高位リーグである「ブンデスリーガ」(Bundesliga)がスタートしたのは、1963年の西ドイツ。1888年にイングランドでサッカーリーグが始まったことに比べると、その始まりはずいぶんと遅い。一方で、1920年初頭のドイツには、さまざまな名前で70もの「1部リーグ」が存在していたとか。当時から全国統一リーグの設立が叫ばれていたものの、アマチュアとプロを分けるかどうか、非営利で運営されていたクラブの税制優遇をどうするか……などの諸問題でなかなか決着がつかず、さらに戦争や東西分断など歴史的な理由からも長らく実現に至らなかった。

そして数十年にわたる論争を経て、1962年7月28日、ドイツサッカー連盟は賛成票103票、反対票26票でプロリーグであるブンデスリーガの導入を決定。1963/64シーズンに初のブンデスリーガが開催され、ケルンが最初のチャンピオンとなった。これまで最も多くチャンピオンシップを獲得したのは、33回優勝しているバイエルンで、ニュルンベルク(9回)とドルトムント(8回)がそれに続く。 参考:der-fussball-gehoert-uns.de「Die Geschichte der Fußball Bundesliga」、NDR「1962: Die schwere Geburt der Bundesliga-Gründung」

第1回ブンデスリーガで初ゴールを決め、喜ぶドルトムントの選手たち第1回ブンデスリーガで初ゴールを決め、喜ぶドルトムントの選手たち

Q2. ブンデスリーガの特徴は?

ドイツのブンデスリーガは、英国のプレミアリーグ、スペインのリーガ・エスパニョーラ、イタリアのセリエAと並ぶ世界4大リーグの一つ。それぞれのリーグに特徴や傾向があるが、ブンデスリーガのポイントをいくつかご紹介する。

❶ 1対1の「デュエル」が見られる

ブンデスリーガでは、選手同士の1対1の対戦「デュエル」が多く見られるのが特徴の一つ。最近では、日本代表の遠藤航選手(シュトゥットガルト)が、2年連続でブンデスリーガの最多デュエル勝利数を誇っている。

デュエルが強みの一つである遠藤選手は日本代表の新主将に選出されたデュエルが強みの一つである遠藤選手は日本代表の新主将に選出された

❷ 物議をかもす「50+1ルール」

1998年に導入されたドイツサッカー特有の「50+1ルール」が、しばしば物議をかもす。これは、単一の企業などがクラブの決議権の50%以上を持つことを禁止したもので、スポーツクラブは公共のものであるという考えに基づいている。一方では、国際的な競争力の低下につながるとして、ルール廃止を求める声も。

❸ 日本人選手が多く所属

ブンデスリーガでは各チームにドイツ人選手12名以上の登録が義務付けられているが、外国人選手の人数制限はない。そのため、日本人選手も多く活躍している。2022-23シーズンでは、1部と2部を合わせて16人の日本人選手が所属していた。 参考:SPORTS UP!「サッカーの世界4大リーグとは?各リーグの特徴についても解説」、REAL SPORTS「なぜドイツで「侮辱バナー」「試合放棄」事件が起きた? ファンとの亀裂招いた“2つの要因”」

Q3. ブンデスリーガのシーズンは?

1部と2部には各34節あり、各チームは本拠地で行うホーム戦と敵地で行うアウェー戦で対戦する。前期シーズンは8月から12月中旬(第1~17節)、後期シーズンは2月から5月(第18~34節)にかけて開催。選手の移籍はウィンターブレイクやシーズンオフに行われる。また、ブンデスリーガは基本的に金曜から日曜にかけて試合がある。

基本的な試合日程 金曜 20:30(1試合)
土曜 15:30(4試合)/ 18:30(1試合)
日曜 15:30(1試合)/ 17:30(1試合)

シーズンカレンダー

Q4. リーグは何部まであるの?

ブンデスリーガは二つのプロリーグからなる。各18チームある1部リーグと2部リーグは、ドイツサッカーリーグ(DFL)、3部リーグ以下はドイツサッカー連盟(DFB)の管轄となっている。最終節の順位が1部の18位と17位のチームは自動的に2部に降格し、逆に2部の首位と2位のチームは昇格する仕組み。また、1部の16位と2部の3位のチームは、ホーム&アウェーの入れ替え戦を行い、それによって昇格・降格が決まる。2部と3部の昇格・降格も同じ仕組みだ。4部以下はセミプロリーグとなり、五つの地方に分けて行われるレギオナルリーガ(4部)、オーバーリーガ(5部)、フェアバンデスリーガ(6部)と続き、地域ごとに10部ほどまでリーグが存在する。

Q5. ブンデスリーガで優勝するとどうなる?

ブンデスリーガの首位を含む上位4位までが、自動的にUEFA(欧州サッカー連盟)が主催するチャンピオンズリーグの出場権を得ることができる。また、5位チームは同連盟のヨーロッパリーグに、6位チームはヨーロッパ・カンファレンスリーグにプレイオフから出場する。ブンデスリーガの上位に入れば、欧州の舞台で活躍するチャンスがあり、ブンデスリーガが盛り上がるポイントの一つとなっている。

チャンピオンズリーグ Champions League

欧州最強のクラブチームを決定する国際大会。毎年9~5月に開催され、32クラブが出場する。2023/24年シーズンの決勝戦は、英国ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われる予定。

ヨーロッパリーグ Europa League

チャンピオンズリーグに次ぐ欧州クラブチームの国際大会。毎年9~5月に開催され、出場枠は32チーム。前年度優勝したチームは、翌年のチャンピオンズリーグに出場することができる。

ヨーロッパ・カンファレンスリーグ
Europa Conference League

2021年からUEFA主催で始まったヨーロッパリーグに次ぐ国際大会。ヨーロッパリーグと並行して開催される。優勝したチームは、翌年のヨーロッパリーグに出場することができる。

参考:BUNDESLIGA「欧州カップ戦の出場権を手にするには?」

Q6. チケットの入手方法は?

チケットは、ホーム戦を行うクラブの公式サイトで購入可能。シーズンの1~2カ月前から販売が開始されるため、人気の試合は販売スケジュールをチェックしよう。メンバーシップに加入していると、優先してチケットを購入することもできる。ちなみに、チケットには市内交通チケットが含まれている(適用範囲は要確認)。また、どうしても観たい試合のチケットが手に入らない場合は、チケット販売代理店(viagogoやStubHubなど)で探すことも可能。ただし、高値で販売されていることも多いのでご注意を。

一般的な観戦席位置

ビギナーには、試合全体が見えるメインスタンドがおすすめ。また、アウェー席は相手チームのホームページで買うのが基本
※スタジアムによってアウェー席は異なる

Q7. スタジアムでの服装やマナーはある?

地元チームの席で相手チームのユニフォームを着るのはもちろんNGだが、相手のチームカラーと同じ色の服装も避けるのがベター。地元側の熱狂的なファンから罵声を浴びせられることもある。また興奮状態が高まった観戦席では、ビールが飛び交うこともしばしば。汚れてもいい服装で出かけよう。暑い時期には熱中症や日焼け対策を、寒い季節には防寒対策を忘れずに。雨が降った場合は、周りの観戦者の迷惑にもなるため、傘ではなくレインコートを着るのがマナー。

サッカー観戦のお供といえば、ビール! ソーセージと一緒にスタンバイしようサッカー観戦のお供といえば、ビール! ソーセージと一緒にスタンバイしよう

観戦ですぐ使えるドイツ語

・Tor!!!
ゴール!!!

・Los!!!
行け!!!

・Schieß!!!
シュート(キック)!!!

・Schieß doch!!!
シュート(キック)だよ、おい!!!
※チャンスの際にボールを蹴らなかったときなど

・Weiter so!!!
その調子!!!

2023-24シーズンブンデスリーガ1部マップ

開催期間 2023年8月18日(金)~2024年5月19日(日)

8月18日(金)にいよいよ開幕する第61回ブンデスリーガ。今シーズン戦いを繰り広げる、1部リーグ全18チームを一挙にご紹介する。ビギナーのあなたも、今シーズンで推しのチームが見つかるかも!参考:fussball.jp、スカパー!サッカー、各クラブチームのホームページ

2022-23シーズンで優勝したバイエルン。ドイツ代表で同チーム主将のマヌエル・ノイアーが優勝皿を掲げている2022-23シーズンで優勝したバイエルン。ドイツ代表で同チーム主将のマヌエル・ノイアーが優勝皿を掲げている

※ランキング順 ※2023年7月11日現在の情報

1 FCバイエルン・ミュンヘン
FC Bayern München AG

設立年1900年
ホームAllianz Arena(7万5024人収容)
FC Bayern München AG

33回のブンデスリーガ優勝経験があるバイエルンは、ドイツ代表選手が多く所属する強豪。人気がある一方で「一強」ともいわれ、他チームのファンから煙たがられることも。前シーズンでは、最終節の逆転勝利で王者の座を守り抜いた。今シーズンで12連覇なるか、最後まで目が離せない。

2 ボルシア・ドルトムント
Borussia Dortmund GmbH & Co. KGaA

設立年1909年
ホームSIGNAL IDUNA PARK(8万1365人収容)
Borussia Dortmund GmbH & Co. KGaA

前シーズンでは、バイエルンにあと一歩及ばす優勝を逃したドルトムント。昨年SLC Managementによる調査では、最も人気のあるチームに初選出された。香川真司選手が所属(2010-2012、2014-2019)していたことから、日本人の間でも特にファンが多いクラブチーム。

3 RBライプツィヒ
RasenBallsport Leipzig GmbH

設立年2009年
ホームRed Bull Arena(4万2558人収容)
RasenBallsport Leipzig GmbH

発足からわずか7年で5部リーグから1部リーグへと部へと昇格した。バイエルン、ドルトムントと並んでドイツ代表に4名が選出されている(2023年7月現在)。前シーズンはDFBポカール(ドイツ杯)で連覇を果たし、今季はチャンピオンズリーグにも出場予定。

4 1.FCウニオン・ベルリン
1. FC Union Berlin e.V.

設立年1966年
ホームAn der Alten Försterei(2万2012人収容)
1. FC Union Berlin e.V.

第二次世界大戦後に東ドイツで発足したベルリンのクラブチーム。2018-19シーズンでは2部で3位となり、入れ替え戦で1部に昇格した。チャンピオンズリーグ出場権も獲得しているが、ドイツ代表は現時点でゼロ(2023年7月現在)。今後の選手たちの活躍に期待したい。

5 SCフライブルク
Sport-Club Freiburg e.V.

設立年1904年
ホームEuropa-Park Stadion(3万4700人収容)
Sport-Club Freiburg e.V.

かつては2部と3部を行き来していたが、1993年に2部で優勝を果たし、1部に昇格した。フライブルクが大学都市であることから、サポーターはインテリ層が多いことで知られている。日本人選手では、堂安律が活躍中。

6 バイエル・レヴァークーゼン
Bayer 04 Leverkusen Fußball GmbH

設立年1904年
ホームBayArena(3万210人収容)
Bayer 04 Leverkusen Fußball GmbH

1904年、レヴァークーゼンに本社を置く製薬会社バイエルの従業員が作ったクラブチーム。2002年にチャンピオンズリーグ、ブンデスリーガ、DFBポカール(ドイツ杯)で全て準優勝し、準三冠となったことがある。ドイツ代表のフローリアン・ヴィルツが所属している。

7 アイントラフト・フランクフルト
Eintracht Frankfurt Fußball AG

設立年1899年
ホームDeutsche Bank Park(5万1500人収容)
Eintracht Frankfurt Fußball AG

ドイツで最も歴史あるクラブチームの一つで、ブンデスリーガでの優勝経験もある。また、2021-22シーズンではヨーロッパリーグを制覇した実力のあるチーム。現在、日本人選手では長谷部誠が所属している(2023年7月11日現在)。

8 VfLヴォルフスブルク
VfL Wolfsburg-Fußball GmbH

設立年1945年
ホームVolkswagen Arena(3万人収容)
VfL Wolfsburg-Fußball GmbH

ヴォルフスブルクに本拠地を置くフォルクスワーゲンがスポンサーの一つ。2008-09シーズンではグラフィッチとエディン・ジェコのコンビが話題となり、ブンデスリーガで王者に。当時所属していた長谷部誠と大久保嘉人が、日本人選手として31年ぶりに優勝を経験した。

9 1.FSVマインツ
1. FSV Mainz 05 e.V.

設立年1905年
ホームMEWA ARENA(3万3305人収容)
1. FSV Mainz 05 e.V.

長らく2部に属していたが、2004-05シーズンで創立100年目にして初の1部昇格を果たした。同シーズンにはUEFAフェアプレー賞を受賞し、初のヨーロッパリーグ出場権も獲得。前シーズンでは、最終節でドルトムントの優勝を阻んだ。

10 ボルシア・メンヒェングラートバッハ
Borussia VfL 1900 Mönchengladbach GmbH

設立年1900年
ホームBORUSSIA-PARK(5万4022人収容)
Borussia VfL 1900 Mönchengladbach GmbH

1960~70年代には攻撃サッカーの殿堂と呼ばれ、ブンデスリーガでは5回の優勝経験がある。常に強豪バイエルンと争ってきたが、ここ数年は4~10位の間を行き来している。日本人選手では、板倉滉が所属する(2023年7月11日現在)。

11 1.FCケルン
1. FC Köln GmbH & Co. KGaA

設立年1948年
ホームRheinEnergieSTADION(5万人収容)
1. FC Köln GmbH & Co. KGaA

ブンデスリーガの初代王者で、日本人初のブンデスリーガ選手だった奥寺康彦が所属していた。ロゴのヤギは実在し、ヘンネスという名で親しまれている。現在は9代目ヘンネスがホーム戦で選手たちを応援している。

12 TSG1989ホッフェンハイム
TSG 1899 Hoffenheim Fußball-Spielbetriebs GmbH

設立年1899年
ホームPreZero Arena(3万150人収容)
TSG 1899 Hoffenheim Fußball-Spielbetriebs GmbH

1989-90シーズンで8部へと降格したが、ソフトフェア企業SAP創設者のディートマー・ホップ氏の経済的支援により、2007-08シーズンで1部まで昇格を果たす。サッカー育成部門はドイツでもトップレベルで、最も注目を浴びているクラブチームの一つ。

13 ヴェルダー・ブレーメン
SV Werder Bremen GmbH & Co. KG aA

設立年1899年
ホームwohninvest WESERSTADION(4万2100人収容)
SV Werder Bremen GmbH & Co. KG aA

1899年、ブレーメンの学生たちが綱引き大会で優勝し、賞品にサッカーボールをもらったことをきかっけに設立された。2021-22シーズンでは41年ぶりに2部に降格したが、翌年には1部に復帰。オープニングマッチでは、バイエルンとのホーム戦を控えている。

14 VfLボーフム
VfL Bochum 1848 GmbH & Co. KGaA

設立年1938年
ホームVonovia Ruhrstadion(2万7599人収容)
VfL Bochum 1848 GmbH & Co. KGaA

ブンデスリーガ2部では4回の優勝経験があり、2021-22シーズンから1部に復帰。現在は、日本人選手として浅野拓磨がプレーしている。チームの応援歌はロック歌手ヘルベルト・グレーネマイヤーの「Bochum」で、ホーム戦の選手入場前に歌われるのがお決まり。

15 FCアウクスブルク
FC Augsburg 1907 GmbH & Co. KGaA

設立年1907年
ホームWWK ARENA(3万660人収容)
FC Augsburg 1907 GmbH & Co. KGaA

かつては2部と3部と行き来することが多かったが、2010-11シーズンで史上初の1部昇格を果たした。今年7月に奥川雅也選手が3部へ降格したビーレフェルトからアウクスブルクへ移籍することが発表されたばかり。

16 VfBシュトゥットガルト
VfB Stuttgart 1893 AG

設立年1893年
ホームMercedes-Benz Arena(6万449人収容)
VfB Stuttgart 1893 AG

ブンデスリーガ1部・2部共に2回ずつ優勝経験のあるクラブチーム。前シーズンでは入れ替え戦でハンブルガーSVを下し、1部残留が決まった。現在日本人選手が多く、遠藤航、伊藤洋輝、原口元気の3名が所属している。

17 SVダルムシュタット98
SV Darmstadt 1898 e.V.

設立年1898年
ホームMerck-Stadion am Böllenfalltor(1万7400人収容)
SV Darmstadt 1898 e.V.

2022-23シーズンでは2部リーグで2位となり、2016-17シーズンぶりに1部リーグ復帰となった。チームの愛称「Lilien」(リリエン、ユリの意)は、ロゴのユリが由来。ダルムシュタット市の紋章にも同じくユリが描かれている。

18 1.FCハイデンハイム
1. FC Heidenheim 1846 e.V.

設立年2007年
ホームVoith-Arena(1万5000人収容)
1. FC Heidenheim 1846 e.V.

1910年に前身となるVfB Heidenheimが設立され、長い間アマチュアチームとして存在していた。2007年に現在の名称になってから、南ドイツの若い選手たちの育成に取り組んでいる。2022-23シーズンは2部で優勝し、クラブ史上初の1部昇格を果たした。

サッカー好きスタッフが語る!ブンデスリーガが好きな理由

きっかけはサポーターとの交流

もともとサッカーが好きでしたが、「ブンデスリーガのサッカー」が好きだったわけではありません。大学でドイツ語を勉強したため、日本人選手が多く活躍するドイツへ観戦旅行をして、覚えたドイツ語で現地のサポーターたちと話せたらいいなと思ったことがきっかけです。実際にドイツのスタジアムに足を運んでみると、当時ドルトムントで香川真司選手がプレーしていたため、「Shinji Kagawaはすごい選手だよね!」と何人もの人に話しかけられました。試合が始まってからもサポーターたちの熱量に圧倒されるばかり……日本のサポーターと比べてアグレッシブな部分もありますが(笑)、それも含めてブンデスリーガに夢中になりました。ドイツで暮らすようになってからは、スタジアムやスポーツバーで観戦しています。

今シーズン注目の選手は?

フランクフルトの長谷部誠選手です。2014年から同チームでプレーしている長谷部選手は現在39歳ですが、今年3月に2024年6月末まで1年間契約を延長しました。クラブ最年長で最も古株。強豪クラブで監督や選手も入れ替わっていくなかで、常に必要とされる選手であり続けることが、長谷部選手の実力を物語っていると思います。

はじめてブンデスリーガを見に行く人へ

最初は好きなチームがなくても大丈夫です。まずは近くのスタジアムに観に行ってみてください。サッカー好きの友人や知人についていけば、観戦のハードルも下がり、一緒に盛り上がれると思います。推しのチームが見つかったら、好きな気持ちを全力に押し出して、熱いサポーターたちと一緒に観戦を楽しんでくださいね!

最終更新 Donnerstag, 27 Juli 2023 10:12
 

明日誰かに教えたくなる - ドイツ人も知らない20のこと

明日誰かに教えたくなるドイツ人も知らない20のこと

ドイツに来たばかりの人はもちろん、長年住んでいるという人、はたまたドイツで生まれ育ったという人であっても、この国について知らないことはたくさんある。本特集では、そんなドイツにまつわるとっておきの豆知識や雑学をご紹介。歴史や政治をはじめ、言語や文化までドイツのことをもっと知れるのはもちろん、ドイツ人の同僚や友人に披露するのにもぴったりだ。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

言語 Sprache

1. ドイツ語は女性名詞が46%を占める

ドイツ語を勉強し始めた人が最初に苦戦するのが、名詞の性だろう。すなわちドイツ語の名詞には必ず性があり、男性名詞(der)、女性名詞(die)、中性名詞(das)の三つのうちどれかに属する。名詞の特徴や語尾などによって、どの性に属するかをある程度見分けることはできるが、基本的には性と名詞をセットで覚える必要がある。しかしこの三つの性は均等にあるわけではなく、女性名詞が全体の46%を占めている。2番目に多いのが男性名詞で34%、中性名詞は20%。ドイツ語試験などで名詞の性が分からなくて困ったときは、ひとまず女性名詞(die)を選んでおけば正解率が高まるかもしれない。

また三つ全ての性に属する単語もいくつかある。例えばヨーグルト(Joghurt)という単語は、主に男性名詞(der Joghurt)で使われるが、中性名詞(das Joghurt)を用いる人もおり、さらにオーストリアの一部地域などでは女性名詞(die Joghurt)で使われることもある。 参考:Karpatenblatt「10 unnütze Fakten über die deutsche Sprache」

2. 「Dreh mal am Herd」(コンロの電源を入れて)は、上から読んでも下から読んでも同じになる

「しんぶんし」や「たけやぶやけた」のように、上から読んでもしたから読んでも同じ意味になる回文。ドイツ語で回文は「Palindrom」といい、単語では「Neffen」(甥の複数形)、「Kajak」(カヤック)、「Lagerregal 」(倉庫の棚)などがある。文章では、「Dreh mal am Herd」(コンロの電源を入れて)をはじめ、「Ein Esel lese nie」(ロバは字を読まない)、「Bei Leid lieh stets Heil die Lieb」(悲しいときには愛によって慰められる)などなど。

またドイツ語で最も長いとされる回文は、「Geist ziert Leben, Mut hegt Siege, Beileid trägt belegbare Reue, Neid dient nie, nun eint Neid die Neuerer, abgelebtgärt die Liebe, Geist geht, umnebelt reizt Sieg.」(精神は人生を飾り、勇気は勝利を育み、弔いは悔恨を運び、ねたみは決して役に立たず、ねたみはただ改革者を束ね、亡き者は愛を増大させ、精神は行き、霧で包み込み、勝利を刺激する)。 参考:Leemeta「PALINDROME IN DER DEUTSCHEN SPRACHE」

3. ドイツ語には-nfで終わる単語は3つしかない

ドイツ語は約530万語で構成されており、これは英語の約8倍に相当する。このうち3分の1は過去100年の間にできたもので、その数は年々増え続けているという。もっとも、ドイツ語を話す人が一般的に使用するのはこのうち1万2000〜6000語程度。そのなかでも、ドイツ語には語尾が「-nf」で終わる単語は、「Hanf」(麻)、「Senf」(マスタード)、「fünf」(数字の5)の三つしかない。さらに地名を加えるならば、スイスの都市「Genf」(ジュネーブ)と川の名前「Sernf」(ゼンフ)の合計五つとなる。ちなみにドイツ語には、母音が五つを超えて続く単語は存在しない。母音が五つ続く単語の例としては、「Niveauausgleich」(レベル調整)、「Bioeier」(ビオの卵)などがある。 参考:Karpatenblatt「10 unnütze Fakten über die deutsche Sprache」、Actilingua「5 überraschende Fakten über die deutsche Sprache」

政治家 Politiker

4. ショルツ首相のあだ名「Scholzomat」を付けたのは、ツァイト紙のジャーナリスト

ショルツォマートのあだ名が付いたシュレーダー政権時代のショルツ氏(左)ショルツォマートのあだ名が付いたシュレーダー政権時代のショルツ氏(左)

オーラフ・ショルツ首相(社会民主党・SPD)のあだ名「Scholzomat」(ショルツォマート)をご存知だろうか? これはScholzとAutomat(ロボット)を掛け合わせた造語で、シュレーダー政権時にショルツ氏が書記長を務めていたころ、政治的発言をまるでロボットのように感情なく話すことが由来となっている。この不名誉なあだ名を付けたのは、ツァイト紙の政治部ジャーナリストであるヤン・ロース氏だ。同氏は、2003年3月13日の記事で「彼(ショルツ氏)が審議会後に報道陣の前に現れるとき、ショルツォマートのスイッチが入る」と表現した。同年、ロース氏は出版社PONSがクリエイティブな新語に贈る「PONS PONS メディア賞」を受賞している。

その後ツァイト紙は、2013年のショルツ氏へのインタビューで「私たちがあなたをショルツォマートと名付けましたが、どのくらい傷つきましたか?」と質問。ショルツ氏は「まあ、もちろんうれしくはなかったですね」と述べつつ、これまでも今後も批判するつもりはないと応えている。 参考:Presseportal「Hertha BSE - Global Prayer - Der Scholzomat: Medienpreis PONS PONS für kreative Wortschöpfer」、SPD「Zeit Interview: "Ich Mache Politik, Weil Ich Etwas Verändern Will."」

5. ブッシュマン連邦司法相は、「MBSounds」という名前で楽曲制作をしている

ブッシュマン氏は大学卒業後に米国の法律事務所で弁護士として働き、2009年から連邦議員ブッシュマン氏は大学卒業後に米国の法律事務所で弁護士として働き、2009年から連邦議員

何かとお堅いイメージのあるドイツの政治家だが、実は連邦司法相を務めるマルコ・ブッシュマン氏(自由民主党・FDP)には、意外な裏の顔がある。なんと「MBSounds」という名前で音楽活動をしているのだ。数年前からSOUNDCLOUDにオリジナル楽曲をアップロードしており、ジャンルはハウスミュージックや電子音楽が多い。日中は政治の場で仕事をし、帰宅後はパソコンの前で打ち込みをするブッシュマン氏は、一見して仕事と趣味を分けているように思えるが、どうやら曲名を見るとそうではなさそうだ。

例えば、FDP党首のクリスチャン・リントナーの演説を取り入れたサンプリング音楽「Wutrede」(怒りの演説)や、リントナー氏の著書名をもじったサウンドトラック系の「Schattenjahre: Die Zweifel verschwinden」(影の数年:疑いは晴れる)などがある。一方で「Train toBerlin」といった政治色のない楽曲もたくさんアップされている。一番人気は「Wutrede」。政治家魂が込められたサウンドをぜひ聴いてみては? 参考:SOUNDCLOUD「MBSounds」、watson「Inklusive Lindner-Remix: Justizminister Buschmann aka "MBSounds" wird nach Feierabend zum Musikproduzenten」

6. ベアボック外相は子どものころ、トランポリン選手として活躍していた

選手を引退してからは、ハンブルク大学で政治学と法学を学んだベアボック氏選手を引退してからは、ハンブルク大学で政治学と法学を学んだベアボック氏

外務大臣として世界中を飛び回るアンナレーナ・ベアボック氏(緑の党)だが、子どものころはトランポリンの上を華麗に飛び回り (・・・・)、選手として活躍していた。しかも、ドイツ選手権で3度も銅メダルを獲得したというから、かなりの実力の持ち主である。6~18歳までトランポリン教室に通っていたベアボック氏。当時トレーナーをしていたドロテー・クリストリープ氏は早くから彼女の才能に注目し、多い時では週6でトレーニングしていたという。ベアボック氏自身も「トランポリンで飛ぶことが私の人生だった」と振り返っている。

大学進学後はトランポリンから離れてしまったが、ロベルト・ハーベック経済・気候保護相と共同党首を務めていた際、共同事務所にレクリエーション用トランポリンが設置されていたことが知られている。ドイツには庭にトランポリンを置いている家庭も多く、100ユーロ以下の安価なものから数千ユーロする本格派までそろう。各地にトランポリンパークもあり、その人気ぶりがうかがえる。 参考:ntv「Einst Bronze bei Trampolin-DM: Die sportliche Sternstunde der Kandidatin」、Abendzeitung「Annalena Baerbocks und das Trampolin: ein unterschätztes Sportgerät」

文化・芸術 Kultur / Kunst

7. グーグルアースの前身となるシステムは、1990年代にベルリンのアーティスト&ハッカー集団が作った

ネットフリックスで配信中のドラマ「ビリオンダラー・コード」のワンシーンネットフリックスで配信中のドラマ「ビリオンダラー・コード」のワンシーン

グーグルが開発したバーチャル地球儀システムの「グーグルアース」(Google Earth)。実はこれの元になったのは、1991年にベルリンのアーティスト・ハッカー集団であるART+COMが実施したアートプロジェクトだったといわれる。1990年代、ドイツの通信会社テレコムは未来技術のための研究資金を提供しており、ART+COMはこの支援を受けてデジタルアート作品に取り組み、衛生写真や航空写真を使用したデジタル地球儀「テラヴィジョン」(Teravision)を開発。このプログラムは1994年に京都で開催されたITU技術フェアで初めて発表された。

しかしその11年後の2005年、グーグルアースが発表され世界的に大ヒット。ART+COMのメンバーらは、アイデアおよびアルゴリズムを盗用されたとして、2014年から特許侵害でグーグルを訴えていた。法廷では激戦を繰り広げたが、2017年、ART+COMの敗訴によって終わりを迎える。この一連の騒動は、2021年にネットフリックスによって「ビリオンダラー・コード」というタイトルでドラマ化されている。 参考:Gründer.de「Terravision-Gründer: Stahl Google ihren Code?」

8. カウントダウンは、1929年のドイツ映画「月世界の女」から生まれた

映画「月世界の女」のワンシーンから映画「月世界の女」のワンシーンから

ロケットの打ち上げ時はカウントダウンするのがお決まりだが、実はこの習慣はあるドイツ映画から生まれた。その作品とは、1929年に公開されたサイレント映画「Frau im Mond」(月世界の女)だ。監督はヴァイマール時代の伝説的なSF映画「Metropolis」(メトロポリス)を製作したフリッツ・ラング。金を採掘するために月へと旅立つ冒険物語で、恋愛ドラマも描かれる壮大なSF作品である。同作に登場するロケットの打ち上げシーンでは、「残り20秒」という字幕が挿入され、乗組員たちの緊張した面持ちが映し出される。そして「残り10秒!」で飛行士がレバーを握り、「残り6秒!」から「3、2、1」と数字が徐々に大きくなり、最後「JETZT」(Now)の後、ロケットが勢いよく空へと飛び立つ。

ラングは後に、「1、2、3……と数えては観客はいつそれが始まるのか分かりません。でも、逆に10、9……3、2、1と数えれば分かりますよね」と語っている。ラングの匠な演出力によって生まれたカウントダウンは、今日もさまざまな場面で私たちをワクワクした気持ちにさせてくれる。 参考:Forschung & Lehre「Wie das Kino die Welt lehrte, rückwärts zu zählen」

9. ケルン大聖堂の資産価値は、たったの27ユーロ!?

ケルン大聖堂自体は入場無料だが、財源確保のため尖塔を登るには6ユーロかかる(2023年6月現在)ケルン大聖堂自体は入場無料だが、財源確保のため尖塔を登るには6ユーロかかる(2023年6月現在)

人類共通の財産として登録されている世界遺産。ドイツ屈指の世界遺産であるケルン大聖堂には世界中から毎年600万人もの観光客が訪れるが、その資産価値はたったの27ユーロだという。1248年から1880年にかけて建設されたケルン大聖堂は、157メートルある二つの尖塔が特徴で、ゴシック式の大聖堂では最大規模。そんな歴史ある建築物がなぜ27ユーロなのだろうか。

まず、教会は非売品であるため市場価値を付けることができない。そして、大聖堂を維持するためには人件費や改修費として年間1200万ユーロ、1日当たりにして3万3000ユーロという膨大なコストがかかる。これに司祭の給与は含まれず、ケルン市とノルトライン=ヴェストファーレン州からも予算がつく。そうした状況を加味し、あえて資産価値を述べると27ユーロになってしまうようだ。この価格は、2015年にケルン大司教区が初めて資産(総額34億ユーロ)を公開したときに付けられたもので、今も変わらず27ユーロだという。 参考:wa.de「Verblüffende Zahl: Warum der Kölner Dom nur 27 Euro wert ist」

10. ジェームズ・ボンドはルール工業地帯の炭鉱町生まれ

架空の英国人スパイ、ジェームズ・ボンド。1950年代初頭に英国の作家イアン・フレミングによって考案された小説のキャラクターで、テレンス・ヤング監督による1962年の映画「007は殺しの番号」で世界中に知られるようになった。フレミングの死後、彼の友人でジャーナリスト、小説家であるジョン・ピアソンは、1973年にジェームズ・ボンドの伝記を出版。この架空の伝記では、ジェームズ・ボンド自身が「私はエッセン近郊の街、ヴァッテンシャイトで生まれた」と述べていたという記述がある。ボンド・ファンの間では異論もあるものの、フレミングがジェームズ・ボンドシリーズを発表した出版社もこの伝記を「公認」としてカタログに掲載。そのため信ぴょう性は高いとみられている。ヴァッテンシャイトはルール地方の独立都市だったが、1975年に地域改革の一環としてボーフムへと合併された。「ジェームズ・ボンドの生誕地」ということを知れば、旧ヴィッテンシャイトにゆかりのある人たちも誇りに思うことだろう。 WESTFALENSPIEGEL「James Bond – Spion aus Wattenscheid」

産業 Industrie & Handel

11. アディダスとプーマは、もともと同じブランドだった

ドイツの二大スポーツブランドであるアディダスとプーマ。歴史をたどると、1920年にダスラー家兄弟がバイエルン州ヘルツォーゲンアウラハに設立した靴工場で、実はもともとは一つのブランドだった。兄のルドルフはセールスマンとしての才能があり、弟のアドルフは靴職人として優れた腕前を持っていた。まさに理想のコンビとして会社を成長させ、1928年のアムステルダムオリンピックで選手たちに着用されるまでに発展。8年後のベルリンオリンピックでは、米国代表のジェシー・オーエンスがダスラー兄弟の靴を履いて四つの金メダルを獲得した。

しかしヒトラーが政権を取り戦争に向けて動き出すと、兄弟関係も次第に崩れていく。ルドルフは徴兵されたが、アドルフは職人としての力を買われて免れ、アドルフだけが経営を続けていくことになった。そして戦後も兄弟間での対立は続き、1948年以降、別々の道を歩むことになる。ルドルフは工場を出て、川を挟んだ対岸に靴工場「ルーダ」(その後プーマと改名)を設立。残されたアドルフは自分のニックネーム「アディ」と苗字「ダスラー」を繋ぎ合わせた「アディダス」を創業することになった。犬猿の仲になった兄弟は互いにつぶし合ったが、最終的には二つの世界的企業の出現という神話を築き上げた。 参考:Nürnberger Nachrichten「Adidas und Puma: Die Geschichte zweier fränkischer Sportgiganten」、News.de「Adolf und Rudolf Dassler: Puma und Adidas: So entstanden die beiden Kult-Marken」

12. 世界一粘着力の強い接着剤は、バイエルン州のDELO社が作っている

ギネス記録を達成して喜ぶDELO社の人々ギネス記録を達成して喜ぶDELO社の人々

バイエルン州に拠点を置く工業用接着剤の会社「DELO」。自動車産業や機械工学、スマートフォンなどに使用する特殊な接着剤の開発を行っている同社は、現在「接着剤で持ち上げられた最大重量(非市販品)」のギネス記録を保持している。挑戦が行われたのは2019年、クレーンに装着された直径7センチのアルミシリンダーに同社製の接着剤を3グラム塗布し、それによって17.5トンのトラックを1メートル宙に浮かせ、1時間の耐久に成功した。ちなみに前記録保持者はドイツ航空宇宙センターで、2013年に16.09トンの重量を持ち上げたという。

DELO社のユーチューブチャンネルでは、ギネス記録の審査当日の様子を記録した「Der stärkste Klebstoff der Welt」というビデオを公開している。緊張した面持ちの社員たちが見守るなかで接着剤がトラックを持ち上げる様子と、記録更新を達成したときの感動の様子はなかなかの見応えあり。 参考:DELO「Der stärkste Klebstoff der Welt」

13. ケバブサンドはトルコ発祥……ではなく、ベルリンで誕生した

ドイツのB級グルメといえば、ブラートヴルスト(焼きソーセージ)やカリーヴルストが思い浮かぶが、もう一つ忘れてはならないのが、そう、ケバブ! トルコ料理であるケバブは、もともと肉や魚、野菜をローストしたものを指し、よく耳にするドネルケバブは回転焼き、シシケバブは串焼きを意味する。ドイツではドネルケバブをフラットブレッドに挟んだケバブサンドがポピュラーだが、実はこの食べ方はベルリンで誕生した。その発明者とは、戦後にガストアルバイター(出稼ぎ労働者)としてベルリンにやってきたトルコ人。1972年にベルリンの動物園駅でカディル・ヌルマンがケバブをパンに挟んだのが、ケバブサンドの始まりだという。歩きながら食べられるケバブサンドは瞬く間に人気となり、すぐにほかのスタンドでも売られ始めた。

カリーヴルストに並ぶ国民的ファーストフードとなった現在、ドイツにはおよそ1万6000軒のケバブ店があり、そのうち1000軒がベルリンにあるとか。1996年には欧州トルコケバブ製造業者協会(ATDiD)が設立され、ケバブの品質を守る活動をしている。 参考:ベルリン市ホームページ「Döner Kebab ist eine Berliner Erfindung」

法律・規則 Gesetze / Richtlinien

14. ドイツでは1951年まで、女性教師は結婚してはいけない規則があった

1970年代のドイツの小学校で教える女性教師。この頃には女性教師の独身制は廃止されていた1970年代のドイツの小学校で教える女性教師。この頃には女性教師の独身制は廃止されていた

1880年、ドイツ帝国では女性教師は独身でなければならないという法律が制定された。当時、家事は女性がこなすべきものであり、仕事と家庭を両立させることはできないという考えがあった。そのため19世紀から20世紀初頭にかけて、女性は大きな決断を迫られた。「若い女の子を教育したい」という熱意に溢れた女性教師たちは、教師協会に参加したり、会議に出席したりと活発な社会生活を送っていたが、19世紀に期待されていたようないわゆる「良妻賢母」とは異なっていた。その後1919年のワイマール憲法調印により、女性教師の独身主義はひとまず終わりを告げた。

しかし1920年代は高騰するインフレのなか、国家は公務員の削減を迫られ、職員削減令を公布する。そのなかで結婚している女性教員を解雇することを規定した。女性教師の独身制が廃止されたのは、西ドイツでは1951年、バーデン=ヴュルテンベルク州ではさらに時間がかかり、差別がなくなったのは1956年である。一方、東ドイツでは1949年に男女平等がすでに憲法に明記されていた。 参考:Süddeutsche Zeitung「"Außereheliche Sexualität war ein No-go"」

15. ドイツでは7人目の子どもが生まれると、連邦大統領がその子の名誉スポンサーになってくれる

ドイツのラッパーおよび起業家として知られるBushido(写真左)は、シュタインマイヤー連邦大統領が、2022年11月に生まれた三つ子の娘たちの名誉スポンサーになったことをSNSで報告。3人分の贈呈金は寄付したというドイツのラッパーおよび起業家として知られるBushido(写真左)は、シュタインマイヤー連邦大統領が、2022年11月に生まれた三つ子の娘たちの名誉スポンサーになったことをSNSで報告。3人分の贈呈金は寄付したという

ドイツでは1949年以来、「子どもの多い家庭に対する国家の特別な義務を表明する」として、7人目に生まれた子どもに対して、連邦大統領が名誉スポンサー(Ehrenpatenschaft)になるという制度が存在する。これまでに歴代の連邦大統領は8万2600人以上の子どもの後援者となり、2022年には400人の子どもがこれに該当した。大統領に名誉スポンサーになってもらう条件は、7人の実子がいること、全員が同一の父母の子どもであること、子どもがドイツ国籍であることなど。また名誉スポンサーシップは、1家族に付き1回のみ申請が可能で、子ども1人に付き500ユーロの贈呈金をもらえる(多胎児の場合は、全ての子どもに対して付与される)。

なお、連邦大統領はそれ以上の義務を負うわけではない。名誉スポンサーシップの申請は、子どもの誕生から1年以内に行う必要があり、各自治体のウェブサイトから申請書をダウンロードできる。 参考:rbb「Bundespräsident Steinmeier übernimmt Patenschaft für Bushidos Drillinge」、Bundesverwaltungsamt「Ejtunhrn unf Ausyeichnung」

16. ドイツの労働局では、失業中のプロサッカー選手は「芸術家・パフォーマー」に分類される

コロナ禍や経済危機などによって、財政難に陥るサッカークラブが増え、サッカー選手も失業による影響を受けることが多くなってきている。特に大きな問題となっているのがテレビ放映権による収入の大幅減で、これによりチームの縮小を余儀なくされているのだ。プロのサッカー選手が失業した場合、彼らは労働局では「芸術家・パフォーマー」(Künstler&Artisten)に分類され、一般的な失業者と同じように手続きを行うことで失業手当を得られる。失業手当の査定限度額は、旧西ドイツ地域だと月給総額6700ユーロ、旧東ドイツ地域では6150ユーロ。そこから保険料などが差し引かれるため、たとえ失職前のクラブチームとの契約が年俸30万ユーロであったとしても、実際の手取りは月額2000〜2400ユーロ程度に。失業以前の生活とは大きなギャップが生まれることになる。また新しいクラブチームに配属されることは容易ではなく、スポーツマーケティングに携わったり、スポーツ用品メーカーで働いたりと、元プロ選手たちも第二のキャリアを模索する必要があるようだ。 参考:Sportfails「Kein Fail: Arbeitslose Fußballer fallen unter Künstler und Artisten」、StN.DE「So viel Arbeitslosengeld bekommt ein Profi」

17. ドイツで初めて有給休暇ができたのは1903年で、日数は3日間だけだった

19世紀中頃まで、国民の多くは休暇を取ることができなかった。そもそもドイツ語の 「Urlaub」(休暇)は古・中高ドイツ語では「職務・任務からの解放」を意味する。つまり現在使われている娯楽のための休暇ではなく、親族の葬儀など、家庭の事情のために雇用主へ「Urlaub」を求めるときに使われていた言葉だ。また中世で旅をするのは、商人が長距離貿易を行うため、または宗教的な理由がある場合のみだった。貴族が旅をすることもあったが、目的は観光ではなく、遠くの領地を管理するため、あるいは領地を手に入れるために訪れた。

19世紀半ばになると、上流階級の人や公務員は「バカンス」のための休暇を取るように。休暇はステータスや自慢の種となった。しかし一般の工場労働者は、この社会の変化の恩恵を受けることができず、20世紀まで待たなくてはならなかった。1903年、ビール醸造所の労働者が労働協約によって初めて有給休暇を取得するが、それは年にたったの3日間。1933年にヴァイマール共和国が終わるまでには法的に有給休暇が与えられるように。当時は休暇は3~4日と短い期間だったが、民間旅行会社が低価格で旅行の提案をするなど、次第に現在のような休暇の形になっていった。 参考:Bayerischer Rundfunk「Die Erfindung der Ferien: Geschichte einer wunderbaren Zeit」、Norddeutscher Rundfunk「Ferien ohne Urlaub? Als Reisen noch nicht selbstverständlich war」

恋愛・結婚 Liebe / Heirat

18. ドイツの戸籍役場では、「Ja」以外の答えだと婚姻が認められない

ドイツで結婚する際は、市役所内にある戸籍役場(Standesamt)へ婚姻届や必要書類を提出し、戸籍役場に併設されている結婚式場の予約を取る。そして結婚式当日には、戸籍役場の担当官が婚約者たちそれぞれに結婚の意思を尋ね、結婚証明書への署名をもって婚姻が成立する。

結婚式では、担当官からの「結婚に同意するか」という質問に対して、はっきりと「Ja」(はい)と意思表示をすることが必要。これはドイツ民法(BGB)133条で、「結婚の意思表示に当たっては、文字ベースではなく真意を確認する必要がある」と定められているのに基づく。そのため担当官にもよるが、「Nein」(いいえ)はもちろん、「Gern」(良いですね)、「Mhm」(うーん)、「Klar」(もちろん)などの曖昧な返事、うなずきやジェスチャーも基本的には認められないという。なかには「本当に結婚をして良いのかな」とジョークを言ったために、結婚が認められず帰されたという例も……。 参考:stern「Ein Bräutigam macht einen doofen Scherz – dann sagt der Standesbeamte die Hochzeit ab」

19. ドイツで最も多いパートナー間のもめごとは「片付けができていないこと」

ドイツで多いパートナー間のけんかの原因は?

エリートパートナー研究の調査によると、ドイツ人のカップルにおいて、けんかの原因として最も多いのは、片付けができないことや家が散らかっていること(Unordentlichkeit)。例えば書類が散乱していたり、食器洗い機が片付いていなかったりすると、ついけんかになってしまうという。これをけんかの理由として上げているカップルは、交際期間が1年未満の場合は約29%だが、交際期間5年以上10年未満では、なんと約52%にも上る。さらにけんかの原因として2位にランクインしたのは、スマートフォンなどの使用時間の長さ。4組に1組が、携帯電話、タブレット、パソコンの見すぎが原因で口論になる。

また生活面で、時間を守らない、出費や金銭面、買い物から家事、食事まで日常生活の計画も、5組に1組の割合(各20%)で衝突する原因に。また在宅ワークであろうとなかろうと、カップルの7人に1人 (14%) が、労働時間について口論になる。一方、義理の家族(13%)や性生活(11%)のような感情的な話題は、比較的少ない。 参考:statista「Über welche der folgenden Themen streiten Sie und Ihr/e Partner/in am meisten?」、welt「Wenn ständige Unordnung die Liebe belastet」

20. ドイツ人の70%は一目惚れを信じている

YouGovの調査によると、ドイツ人の70%が一目惚れを信じており、また45%は一目惚れを経験したことがあると回答している。さらにアレンスバッハ研究所によると、ドイツ人66%は生涯の愛を信じているという。この数字を見ると、ドイツ人はロマンチストであるといえるだろう。家族心理学者の研究によると、パートナーに恵まれ、幸せな結婚生活を送っている人は、そうでない人よりも4年長生きすることが明らかになっており、重病にかかるリスクも35%低くなっているという。

ただし、自分たちのパートナーシップに満足している人でさえ、4人に1人が「自分にはもっと適切なパートナーがいるのではないか」と考えているという結果も。これは現パートナーへの不満からではなく、オンラインでの新しい出会いの機会も多いため、本当に自分に最適なパートナーを見つけられたかどうかの確信が持てないのだという。 参考:Lovomi「Beziehung Statistik: Die Liebe in Zahlen」、Süddeutsche Zeitung「Mehrheit der Deutschen glaubt an die große Liebe」

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最終更新 Donnerstag, 13 Juli 2023 08:44
 

おいしいドイツを食べ尽くす! - ドイツ郷土料理ガイド

おいしいドイツを食べ尽くす!ドイツ郷土料理ガイド

ドイツ料理といえば、ソーセージ、ジャガイモ、ザワークラウト……と、それ以上思いつかないという人も少なくないだろう。そんなドイツにも、地方ごとに人々に愛され続けてきた郷土料理が数多く存在する。本特集では、知ったらきっと食べてみたくなること請け合いのドイツの郷土料理を一挙にご紹介する。さらにドイツの食にまつわる歴史的エピソードや、現代ドイツ人のグルメ事情も解説。いよいよ夏休みシーズン、ドイツ国内の旅先でおいしいものを食べ尽くすヒントにして!(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:本誌984号「ドイツ美食マップ 郷土料理編」

ドイツ料理の歴史

ローマ帝政時代の歴史家タキトゥスが紀元100年頃に執筆した『ゲルマニア』によれば、ドイツ人の祖先であるゲルマン民族は「大麦や小麦から醸造された液体」、すなわちビールを好んで飲んでいたという。それと同時に、彼らの食事はいたってシンプルで、木の実や新鮮な狩猟肉、牛乳から作ったチーズなどの動物性食材に依存していたことも記されている。ローマ文化からすれば、これらの食習慣は「野蛮」と見なされており、「ゲルマン民族の食べ物は単に空腹を満たすもの」とやや批判的な視点で捉えられていた。

しかし現在の研究では、ゲルマン民族の食事は実は非常に健康的で、肉を使わないシチューや新鮮なハーブで味付けした料理が特に好まれていたことが分かっている。さらに北部には、漁業で生活しているゲルマン民族もいたという。

13世紀になると、モンゴル軍の侵略を通じてさまざまな種類のキャベツがもたらされ、ドイツ料理でおなじみのザワークラウトもこの頃から作られるようになる。また、じゃがいもが登場したのは16世紀と遅かったが、ドイツ文化圏の食生活に革命をもたらしたといえる存在で、後に国民食となった(詳しくはp9)。さらに18世紀以降の工業化によって食品産業が発展すると、移民労働者の料理がドイツ各地の伝統料理と混ざり合うようになり、さまざまなバリエーションのドイツ料理が誕生したのだった。

19世紀後半にドイツが統一されると、郷土料理は各地方のアイデンティティーを保つ役割も担った。ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872)が「人間は食べたもので決まる」と言ったように、同じものを食べることがそれぞれの土地に住む人々の帰属意識を高めたのである。

参考:Südwestrundfunk「Wie ernährten sie sich? | Hintergrund」、Kleine Geschichte der Esskultur「Hamburger Abendblatt」、佐藤洋一郎著『食の人類史』 (中公新書)

MAP

MAP

北部
  • 1 シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州
  • 2 自由ハンザ都市ハンブルク
  • 3 メクレンブルク= フォアポンメルン州
  • 4 ニーダーザクセン州
  • 5 自由ハンザ都市ブレーメン
東部
  • 6 ベルリン州
  • 7 ブランデンブルク州
  • 8 ザクセン=アンハルト州
  • 9 ザクセン自由州
  • 10 テューリンゲン自由州
西部
  • 11 ノルトライン=ヴェストファーレン州
  • 12 ヘッセン州
  • 13 ラインラント=プファルツ州
  • 14 ザールラント州
南部
  • 15 バーデン=ヴュルテンベルク州
  • 16 バイエルン自由州

ドイツ北部(地図❶~❺)

Labskaus ラプスカウス塩漬け肉の目玉焼き載せ

塩漬けにした牛や豚のひき肉にビーツやじゃがいも、玉ねぎを混ぜ合わせたものを叩いてペースト状にしたものに、目玉焼きを載せていただく料理。付け合わせの定番は、ニシンの甘酢漬けやピクルスなど。18世紀に船乗りのために作られるようになり、デンマークやスウェーデン、ノルウェーにも同様の料理がある。

Finkenwerder Scholle フィンケンヴェルダー ショレフィンケンヴェルダー風カレイのムニエル

刻んだベーコンとカレイをバターでソテーした魚料理。ハンブルク東部のフィンケンヴェルダー地域で食べられていたことからその名が付いた。淡泊な味のカレイに、バターのコクとベーコンの塩味がマッチ。外はカリッと、中はふんわりと焼き上げられる。

Birnen, Bohnen und Speck ビルネン ボーネン ウント スペック洋ナシ、インゲン、ベーコンの煮物

洋ナシが収穫される8~9月にかけてよく食べられるこの料理は、レストランのメニューにはGrööner HeinやGrönen Heinとも記載されている。洋ナシは青く甘みの少ないものを使用する。素朴で意外な組み合わせだが、ベーコンのうま味と洋ナシの酸味がほどよく調和した料理。

Grünkohl und Pinkel グリューンコール ウント ピンケルケールの煮込みとピンケルソーセージ

ビタミン豊富な冬の野菜グリューンコール(ケール)を煮込み、ドイツ北部でポピュラーなピンケルソーセージと共にいただく。ブレーメン名物として知られるが、ニーダーザクセン州でもよく食べられている。ピンケルソーセージには豚肉や穀物、ラード、玉ねぎなどのミンチがたっぷり入っていてボリューム満点。ちなみに「Pinkel」は、フリースラント地方の方言で「小さな指」を意味する。

Geräucherter Aal ゲロイヒャーター アールウナギの燻製 (くんせい)

ドイツ北部でよく食べられる、ウナギの燻製。燻製にレモン汁を振りかけてそのまま食べたり、パンに載せてサンドイッチにしたり、スープに入れて食べる方法も。燻製方法は、内臓を取り、頭から吊るして丸ごと(いぶ)す。日本の蒲焼のように脂を落とす調理法ではないため、脂分は多め。

燻製の様子燻製の様子

ドイツ東部(地図❻~❿)

Leber Berliner Art mit Äpfeln レバー ベルリーナー アート ミット エプフェルンベルリン風仔牛のレバー焼きリンゴ添え

ビタミンA・Bや鉄分などを豊富に含む栄養価の高いレバー。牛のレバーの塊をじっくりとソテーし、赤ワインソースをかけていただくボリューム満点の一品。付け合わせは、バターでソテーしたリンゴのスライスにマッシュポテト、フライドオニオンなど。

Rollmops ロールモップスニシンの甘酢漬け

ピクルスと玉ねぎのスライスをニシンで巻いて酢漬けにしたオードブル料理。オリーブを入れることもある。巻いたニシンをほどいてパンに載せる食べ方も。世界的に共通の呼称だが、名前の由来は実はドイツ語。料理の見た目がパグ犬(Mops)に似ていることからこの名が付いた。ベルリン発といわれているが、ドイツ北部でもよく食べられている。

Gekochtes Eisbein ゲコフテス アイスバインゆで豚すね肉

アイスバインは、日本でもよく知られる代表的なドイツ料理。豚のすね肉を骨付きのまま塩漬けにし、ハーブや香味野菜と共に長時間ゆでて作る。皮にはコラーゲンがたっぷり含まれている。マスタードを付けていただくのが主流。付け合わせには、定番のザワークラウトをどうぞ。

ドイツ西部(地図⓫~⓮)

Rheinischer Sauerbraten ライニッシャー ザウアーブラーテンライン地方の牛肩肉ロースト

赤ワインビネガーにリンゴや玉ねぎ、セロリなどを加えた漬け汁に、牛肩肉(鹿肉の場合もある)を数日間漬け込んで蒸し焼きにした料理。ほのかな酸味が特徴だ。ソースは、漬け汁に干しぶどうやはちみつを加えて甘くし、裏ごしして煮詰める。ライン地方では定番の家庭料理。

Himmel un Äd ヒンメル ウン エードブラッドソーセージとリンゴ入りマッシュポテト

ケルンの郷土料理で、カリカリに焼いたブラッドソーセージに、ローストした玉ねぎ、リンゴの入ったマッシュポテトが付け合わせになっている。ヒンメル・ウン・エードはケルンの方言で「天と地」という意味。「地中のリンゴ」と呼ばれるじゃがいも(Erdapfel)と、天に向かって実を成すリンゴ(Apfel)のことを示している。

Frankfurter Grünesoße フランクフルター グリューネゾーセフランクフルト風グリーンソース

ヨーグルト、サワークリーム、マヨネーズに刻んだ香草(パセリやクレソン、ディルなど)やニンニク、玉ねぎなどを入れて裏ごしして作る、さっぱりとした冷製ソース。ゆでたじゃがいもやゆで卵に付けていただくのがポピュラーな食べ方。ソテーした魚や肉料理に合わせることもある。

ドイツ南部(地図⓯~⓰)

Zwiebelkuchen ツヴィーベルクーヘン玉ねぎケーキ

ケーキ(クーヘン)といっても甘くなく、パン生地やパイ生地の上に大量の玉ねぎとベーコン、卵、サワークリームを混ぜたものを載せて焼いた、ピザやキッシュのような食べ物。玉ねぎの収穫時期に家庭でよく作られる。ツヴィーベルクーヘンを食べるときは、フェーダーヴァイサー(ワインになる前の発酵途中のアルコール飲料)をお忘れなく。

Käsespätzle ケーゼシュペッツレチーズシュペッツレ

細長くちぎって茹でたシュペッツレ(パスタに似た卵麺)とすりおろしたチーズを絡めた料理。仕上げに揚げた玉ねぎを添える。チーズは主にベルクケーゼ(アルプスで放牧されている牛のチーズ)やエメンタールチーズを使用。シュペッツレは、シュヴァーベン語で「小さなスズメ」を意味する。

Fränkisches Schäufele フレンキッシェス ショイフェレフランケン風豚肩肉のロースト

豚の肩肉を刻んだ根菜や玉ねぎ、ビールと共にオーブンで2~3時間、豚肉が黄金色になり、表面がカリッとなるまで焼く。付け合わせは、クヌーデル(じゃがいも団子)やザワークラウト、赤キャベツなどさまざま。ショイフェレは南ドイツの方言で「豚の肩肉」を意味する。

Schwäbische Maultaschen シュベービッシェ マウルタッシェンシュバーベン風マウルタッシェ

正式名称はマウルブロン・タイヒタッシェ。大きなパスタ生地の包みの中にほうれん草やひき肉などの具が入っており、ソースをかけていただくほか、スープの具としても食される。キリスト教徒が肉食を禁じられている聖金曜日に、どうしても肉が食べたくて思い付いたといわれる料理。

Schweinehaxe シュヴァイネハクセ豚すね肉ロースト

バイエルン名物といえば、シュバイネハクセ。アイスバインと同様に豚のすね肉を使った料理で、こちらは皮をカリカリになるまで焼き上げる。バウアーブロート(農家のパン)やブレッツェルと一緒に食べるのがバイエルン流だ。ビールの祭典であるオクトーバーフェストにも欠かせない一品。ぜひビールと一緒に楽しもう。

Schupfnudeln シュプフヌーデルン南ドイツ風ニョッキ

シュプフヌーデルンは、南ドイツで人気のあるニョッキのような麺。基本材料は卵、小麦粉、水だが、17世紀にじゃがいもが栽培されるようになってからは、じゃがいもも使われるようになった。グラタンにしたり、ザワークラウトと絡めたりしていただく。砂糖をまぶしてデザートにしてもおいしい。

ドイツの食にまつわるコラム

じゃがいもがドイツ人の主食になるまで

ポツダムのサンスーシ宮殿にあるフリードリヒ大王のお墓には、じゃがいもが供えられているポツダムのサンスーシ宮殿にあるフリードリヒ大王のお墓には、じゃがいもが供えられている

欧州のじゃがいもの歴史は16世紀からで、スペイン人が南米から持ち帰ったことがはじまり。最初は食用ではなく、観賞物や薬草として、植物学者や王侯の庭園に珍重されていた。17世紀にはドイツでも知られるようになり、フランケン地方の農民が野外栽培を始めた。栽培は非常に成功し、ほかの公国やプロイセンにも供給されるように。しかし塊茎 (かいけい)(じゃがいものように栄養貯蔵のため地中で茎が肥大化したもの)を食べることに抵抗があったようで、農民の中には栽培に抵抗した者が多かった。イヌですら食べたがらず、地上部分には毒があるとも考えられていた。

じゃがいもが広く普及したのは、18世紀半ばころ。フリードリヒ大王は食料不足を解消するため、1756年に「じゃがいも令」を発令し、全ての農家にじゃがいもの栽培を義務付けた。特にブランデンブルク州などの寒冷な地域、痩せた砂地でも大量に収穫できるじゃがいもは貴重だった。また啓蒙家ルドルフ・ツァハリアス・ベッカー(1752-1822)が1788年に著した『農民のための生活の手引き』は当時ベストセラーとなり、じゃがいもの性質や利点についても紹介している。こうしてじゃがいもに対する人々の偏見は徐々になくなり、栽培が定着していく。19世紀になると、人口の増加に伴い大都市が誕生し、栽培も大規模になっていったのだった。

参考:Kartoffellager- und Handelsgenossenschaft Unteres Erzgebirge Großwaltersdorf e. G.「Die Kartoffel – unser wichtigstes Grundnahrungsmittel」、本誌1056号「じゃがいも事典」

ゲーテの美食家としての顔

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)

ドイツで最も重要な作家・詩人の一人であるゲーテは、並外れた美食家でもあった。同じ時代に活躍した劇詩人フランツ・グリルパルツァーは、「偉大な巨匠は時に悪いものを書くが、決して悪いものを食べることはなかった」と、ゲーテの美食家ぶりについて語っている。食事はゲーテにとって副次的なものではなく、人生に必要不可欠なものだったのだ。

そのため彼の食卓は豊かで、非常に洗練されたものであった。新鮮な果物や野菜もまた食の楽しみの一つで、特にゲーテが好んで食べたのはカブだったという。ゲーテはしばしば自宅に客を招待し、厳選された特産品を振る舞った。ゲーテが好んで食べていた料理は、ボリュームたっぷりのパテ、フランクフルトのグリューネゾーセ、アンチョビのサラダ、パルメザンチーズ入りのプレーンパスタ……などなど。実はゲーテの祖母のアンナ・マルガレーテ・リントハイマーは手書きのレシピ本を残しており、ゲーテも祖母の味を受け継いで料理をしたといわれる。このレシピ本は、ヴァイマールのGoethe- und Schiller-Archivに保管されており、18世紀半ばのフランクフルトの中流家庭の様子を伺い知ることができる貴重な文献でもある。

参考:Stadt Wetzlar「Speisen wie zu Goethes Zeiten」

ドイツ式夕食「冷たい食事」はもう古い?

一般的に午後5~7時がアーベントブロートの時間とされる一般的に午後5~7時がアーベントブロートの時間とされる

ドイツの夕食は「Abendbrot」(アーベントブロート、夜のパン)や「Kaltes Essen」(カルテスエッセン、冷たい食事)と呼ばれ、文字通りパンとハムやソーセージ、チーズなどを食べる。驚くことに、夜に温かい食事を取ることが健康に良くないと思っている人も存在する。そもそもこのようなシンプルな夕食を取るようになったのは、1920年代ごろから。工場の食堂では昼に温かい食事を取っていたため、夜は簡単に済ませるスタイルが広まった。戦後は女性の社会進出も進み、ささっと用意できるカルテスエッセンが定着したのだった。

しかし、最近ではその文化も徐々に廃れてきているという。2019年のネスレによる調査では、夕食がメインの食事であると回答した人は全体の38%だった。ライフスタイルが多様化したことに加え、スペインやギリシャなど夕食に温かい食事を取る他国からの影響もある。また、ベジタリアンが増加し、ソーセージやハムの消費量が減ったことも少なからず関係していそうだ。一方で、高齢者や子どもがいる家庭では今もカルテスエッセンが好まれる傾向にあるという。ドイツには何百種類というパンやソーセージがあるため、カルテスエッセンは「飽きが来ない」のが良いところ(諸説あり)。忙しいときやあまり食欲のないときに取り入れてみては?

参考:GEO「Wandel der Esskultur: Sterben die deutschen Schnittchen aus?」
最終更新 Dienstag, 20 Juni 2023 14:51
 

まだまだ知らない魅力がいっぱい! - ロマンチック街道をたどる

まだまだ知らない魅力がいっぱい!ロマンチック街道をたどる

ドイツの観光ルートといえば、ヴュルツブルクからフュッセンを結ぶロマンチック街道を思い浮かべる人が多いだろう。事実、街道沿いの各スポットは世界中から人気がある。一方で、ロマンチック街道ができた歴史や各都市で活躍した人たち、また中世から受け継がれてきた地域特有の文化など、あまり知られていない見どころも。本特集では、そんな世界中の心をつかむロマンチック街道の魅力を深掘りする。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:Romantische Straßeホームページ、Deutsche Zentrale für Tourismus e.V.「Die TOP 100 Sehenswürdigkeiten in Deutschland」、Rothenburg Tourismus Serviceホームページ

ドイツの「悪印象」から挽回ロマンチック街道の誕生物語

第二次世界大戦の後、西ドイツは「経済の奇跡」によって着実に復興の道を進んでいた。一方で、ナチス政権が引き起こした悲惨な戦争の悪いイメージはぬぐい切れていなかった。そんななか、戦勝国によって四つに分割された西ドイツの米国占領地域で、米国人観光客に向けたイメージづくりが始まった。そして1950年、政治家や観光関係者がアウクスブルクのホテルに集まり、ヴュルツブルクからフュッセンまでの街々を結ぶロマンチック街道が考案され、協働団体が結成される。

街道沿いの街や村には、中世の街並みが残されていて、歴史的な宮殿や城、教会など、見応えがあるスポットにあふれていた。特に戦争で印象付けられた「悪いドイツ」とは違う、伝統的で生活感のあるイメージを観光客にアピールすることを強く意識していた。また同団体は、ゆくゆくは米国以外の外国人旅行者にもロマンチック街道を広めたいという目標を当初から持っていたという。

ロマンチック街道のイメージ戦略は見事に成功した。米軍の兵士たちは駐屯地に家族を招き、まるで絵画の世界に迷い込んだかのような美しい風景を家族にも見せようと、休暇をロマンチック街道で過ごすようになった。この評判を受け、西ドイツ政府観光局は特に米国やカナダに向けて、ロマンチック街道を売り込むようになっていく。こうして大戦の混乱を乗り越えて、ドイツ観光業界はようやく第一歩を踏み出したのだった。

立派な制服に身をつつむバス乗務員立派な制服に身をつつむバス乗務員

1950年5月には最初のプレスツアーが企画され、各国から十数名のジャーナリストや旅行本の著者が参加。ロマンチック街道の観光の魅力を世界に向けて発信した。翌月には南ドイツ最長の長距離バス路線が運行を開始。377キロにわたる長距離路線は毎日両方向に運行された。バスには試験的に英語の通訳も乗車し、やがて専用の乗務員が同行するようになった。

こうしてロマンチック街道は、ドイツの観光ルートとしての地位を確立した。この成功は世界中に広まり、日本でもドイツをモデルにして長野県上田市から宇都宮市まで伸びるロマンチック街道が造られ、1988年に姉妹街道になっている。

1951年にはローテンブルクからミュンヘンを往復する特急車両を運航するようになり、各駅でロマンチック街道バスに乗り換えることができる仕組みを構築した1951年にはローテンブルクからミュンヘンを往復する特急車両を運航するようになり、各駅でロマンチック街道バスに乗り換えることができる仕組みを構築した

ここだけは行っておきたい!ロマンチック街道沿い必見の都市4選

ロマンチック街道はヴュルツブルクからフュッセンまで約400キロもあるが、そのなかでも一度は見る価値がある4都市をご紹介。歴史はもちろん、知られていない逸話から、今もなお街が愛されている理由を探ってみよう。 参考:Münchener Zeitungs Verlag「Würzburg - Lage, Geschichte, Wirtschaft, Politik und Sehenswürdigkeiten von Stadt und Landkreis」

MAP

MAP ①
ヴュルツブルクWürzburg

ロマンチック街道のスタート地点のヴュルツブルクは、マイン川がある立地を活かして発展した。ヴュルツブルクが文書で初めて言及されたのは704年のことだが、すでに紀元前1000年ころ、現在のヴュルツブルク市周辺にはケルト人の避難所としてマイン川の丘に城塞が築かれていたという。そして司教座が創設されて以来、大司教の街として栄えた。

見どころ❶マリエンベルク要塞

マイン川を見下ろすマリエンベルク(マリアの山)の名前は、706年にその丘に建てられた教会が聖母マリアに捧げられたことに由来する。13世紀に要塞が築かれ、大司教が代々居住した。現在要塞にはマイン・フランケン博物館があり、彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの彫刻を見ることができる。

見どころ❷ユネスコ世界遺産のレジデンツ

世の中が安定してきた17世紀、大司教は丘の要塞に住む必要がなくなり、街の中心に豪華絢爛 (ごうかけんらん)なバロック様式のレジデンツを建設した。現在はユネスコの世界文化遺産に指定されている。マイン川の斜面にはワイン用のブドウが栽培されており、レジデンツ地下にあるヴュルツブルク国立醸造所も見学可能。

逸話救済を目的として設立された醸造所

ヴュルツブルクにはヴュルツブルク国立醸造所以外に二つの大きな醸造所、ビュルガーシュピタール(Bürgerspital)、ユリウスシュピタール(Juliusspital)がある。二つの醸造所は、「助けを必要とする人々」の救済を目的として設立されたところが興味深い。ビュルガーシュピタールは、1316年に街の裕福な市民ヨハネス・フォン・シュテルンが妻と共に貧困層や病人を受け入れる財団病院を設立したのが始まり。今日でも醸造所と市民の寄付によって老人ホームと病院が運営されている。ユリウスシュピタールは、ユリウス・エヒターが私財を投じて取り組んだ老人ホームと病院で、1576年からワインを造り始めた。ヘッセンのクロスター・エバーバッハに次いでドイツ第2の規模を誇り、収益は施設の運営に充てられている。

MAP ③
ローテンブルクRothenburg ob der Tauber

970年頃、東フランケン地方の貴族ラインガーがタウバー渓谷にデトワング教区を設立したのが、ローテンブルクの始まり。1142年、コンラート3世が領域を獲得し、タウバー川の山上に「Rote Burg」(赤い城)を建設。現在の都市名「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」とは「タウバー川上方の赤い城」という意味で、この城に由来する。

見どころ❶ブルク公園

都市名に「ブルク」(城)があるため、ローテンブルクに城があると思われがちだが、残念ながら現在城は存在しない。しかしかつて城があったブルク庭園からは、ローテンブルク旧市街のパノラマを見渡すことができる。ここから眺めるローテンブルクの街並みは、まるで絵本の世界だ。

見どころ❷市長の伝説「マイスタートゥルンク」

三十年戦争でローテンブルクは破滅的な状況に陥った。敵の将軍が「3リットルのワインを一気に飲み干したら街を救おう」と提案し、市長が自らこの挑戦を受けて見事成功。この話は「マイスタートゥルンク」として語り継がれ、毎年5月に祭りが開かれるほか、広場にはこの様子を描いた仕掛け時計がある。

逸話奇跡ではない、街並み保存活動

ローテンブルクでは古くから街並み保存運動があり、1898年に「アルテ・ローテンブルク協会」が設立された。中世からの古い建物を残すべく市当局が監視の目を光らせており、たとえ個人住宅でも許可なしには増改築ができない。この郷土愛は、小さな国家の集まりだった時代を経て、1871年にドイツが統一国家として成立したとき、かつての自国に対する愛着が強まったことから生まれたものだという。第二次世界大戦では旧市街地の約45パーセントが破壊されたが、市民たちは寄付を惜しまなかった。街並み保存のための市の指導は今日も健在で、市民は傾斜のある床やたわんだ梁がむき出しの室内で生活したり、マクドナルドは街並みに調和するように鉄製の装飾が施されていたりする。

MAP ④
ネルトリンゲンNördlingen

898年にカロリング朝の領地「ノルディリンガ」として、初めて文献に登場したネルトリンゲン。城塞は敵が攻めにくいように高台や川の上に建設されるのが一般的だが、ネルトリンゲンは平地である。「リース盆地」と呼ばれる平らな土地が生まれたのは、500万年前に隕石が落下したクレーターの跡。敵の進撃を防ぐため、とりわけ強度の高い市壁が築き上げられた。

見どころ❶製皮職人の家

中世には皮革産業が盛んで裕福な市民の多くが製皮業者に所属していた。今でもゲルバーガッセという小路があり、職人の家が保存されている。潤っている職人の家はさすがに立派で壁には組合のマークが。家の裏には小川が流れており、仕事に不可欠だった水を自由に使用できた。

見どころ❷市壁

街を囲む見事な円形を描いた市壁は、14世紀にバイエルン王の命により建設された。今でも市壁の上には見張り用の通路があり、街を完全に一周することができる。ちなみにマンガ作品『進撃の巨人』にも街を囲む壁が登場するが、ファンの間ではネルトリンゲンがモデルではないかと噂されている。

逸話市民に愛される塔守

ゲオルグ教会の鐘楼には塔が建てられた1490年以来、塔守が寝泊まりをしている。今でも夜になると22時~深夜0時まで、塔守が1時間おきに展望台へやって来る。しかも塔の上から低い音で「ゾー・ゲゼル・ゾー!」(ほら、豚が行く!)と叫んでいるのだ。これは1440年の出来事に由来する。この街を奪おうと企んでいた近辺の領主がおり、その兵士たちが夜中に市壁の周りにいた。ところが女性が街の門から逃げていくブタを発見し「ブタが逃げた!」と騒ぎ立てた。驚いたのは敵の兵士たち。まさか豚のことで騒いでいるとは思わず、気づかれたと勘違いして、さっさと逃げてしまった。結果的にこの言葉が街を救ったということで、事件以来、安全を確認するための合言葉になったという。

MAP ⑤
アウクスブルクAugsburg

地名の由来となったのは、ローマ皇帝アウグストゥス。彼は紀元前15年にこの街を創設し、軍営を設けていた。13世紀以降、アウクスブルクは帝国自由都市の権利を得て、関税、税金、裁判の権利が完全に与えられるようになった。帝国自由都市になってから裕福な貴族がますます影響力を増し、特に力のあったヴェルザー家とフッガー家の名残りが今も街中で見られる。

見どころ❶シェッツラー宮殿

15~16世紀は欧州における重要な貿易拠点として発展し、豪商たちは芸術を保護するなど、文化に貢献した。銀行家リーベルト・フォン・リーベンホーフェンもその一人。彼の館「シェッツラー宮殿」は現在アウグスブルク市立博物館になっており、バロック芸術作品や宗教画などが収蔵されている。

見どころ❷アウクスブルク市庁舎

17世紀に建てられたルネッサンス様式のアウクスブルク市庁舎は、アウクスブルク出身の建築家エリアス・ホルが手がけた。当時、アウクスブルクは重要な金融・貿易都市であったため、市庁舎は重要な役割を果たし、街の誇りと自信の象徴でもあった。現在も市庁舎は市のランドマークとなっている。

逸話築いた富を貧しい市民のために使ったフッガー家

ドイツのフッガー家は、イタリアのメディチ家と並んで中世の大富豪として知られている。ヤーコプ・フッガーは父の商売を受け継ぎ、銀の取引で巨大な富を築いた。その富を彼は貧しい人々のために使い、低所得者のための福祉施設フッゲライを1521年に完成させる。家賃は年間わずか1ライングルデン(当時の手工業者手取りの2週間分)。この家賃は財団により今日も守られており、ドイツマルク時代は光熱費別で年間72ペニヒ、現在でもたったの88セント。入居条件は低所得であること、罪科が無いこと、アウクスブルク市民であること、敬虔なカトリック信者であること、創立者の冥福を1日に3回礼拝堂で祈ること……など、条件が厳しくないことから長い順番待ちとなっている。

ロマンチック街道沿いの街で傑作を生み出した人物

ロマンチック街道沿いの街には、現在でも多くの人を感動させるものを造った人物がいる。3人の人物たちとその傑作をご紹介しよう。 参考:Bayerischer Rundfunk「Lichtgestalt und Lichtgestalter des Rokoko」、Süddeutsche Zeitung「Ludwigs Traum in Weiß」、Denkmalstiftung Baden-Württemberg「Dominikus Zimmermann」

過酷な運命をたどった彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーTilman Riemenschneider

リーメンシュナイダーはヴュルツブルクに住み、起業家として成功した人物。祭壇、彫像、記念碑、そのほかの宗教的な品々を、地元の高い需要に応えてオーダーメイドで製作し、バイエルン州で名が知れ渡った。数十年かけて工房を拡大し、晩年には40人ほどの弟子を雇っていた。さらにいくつかの家屋と広大な土地とブドウ畑を所有し、市民からの人望も厚く、1520年にはヴュルツブルクの市長も務めた。

そんななか、人生を揺るがす事件が起こる。16世紀に南ドイツで起こった農民戦争はヴュルツブルクでも発生。大司教の支配から解放されるようにと、市民の大多数は農民側についてマリエンベルクを攻めた。リーメンシュナイダーもヴュルツブルク市長として農民側に立つ。しかし大司教の要塞はそう簡単には崩れず包囲に耐え、反乱は鎮圧された。議会は反乱軍を支援したため、リーメンシュナイダーとほかのメンバーは逮捕され、投獄されてしまう。数カ月後に解放されたが、役職、名誉、財産を失ったリーメンシュナイダーは1531年に死去した。さらに彼の作品の多くは、その後の宗教戦争でプロテスタントに破壊されてしまっている。クレーグリンゲンのヘルゴット教会にある「聖母マリアの昇天」は、リーメンシュナイダーの最高傑作といわれる。彼は祭壇に当たる自然光を計算して、彫刻がドラマチックに見えるように工夫した。巡礼者の中には、実際にマリアが天に昇ったと信じることもあったという。

ロマンチック街道内にある作品

「聖母マリアの昇天」ヘルゴット教会(Herrgottskirche)

クレーグリンゲン(地図❷) www.herrgottskirche.de

空間の創造者としての建築家ドミニクス・ツィンマーマンDominikus Zimmermann

ヴェッソブルン近郊の村で生まれたツィンマーマン。5歳年上の兄は、後に有名な画家で左官職人になるヨハン・バプティストだ。ヴェッソブルン修道院の工房で訓練を受け、のちに兄弟そろってバロックの化粧しっくい職人の流派「ヴェッソブルン派」の代表的な存在となった。その後、化粧しっくい職人、大理石職人、棟梁、建築家としてランツベルク・アム・レヒに移り、1716年に市民権を取得。1719年には同市庁舎のファサードのデザインを依頼された。この美しいファサードは、今日でも広場の顔となっている。1725年以降、彼はますます建築に傾倒するようになり、棟梁および建築家として無数の祭壇、教会、修道院、礼拝堂を造り上げた。

ツィンマーマンが目指していたのは、「建築と芸術の融合」。つまり装飾、絵画、建築が単体として目立つのではなく、全てを組み合わせた総合的な芸術空間のことである。彼の生涯の仕事の集大成になるヴィース教会は、1746年から建設開始。教会に魅了されたツィンマーマンはひときわこの仕事に情熱を傾け、世界で最も完璧なロココ様式の教会を生み出した。1755年以降、彼はヴィース教会の近くに建てられた自分の家に移り住み、1766年に自宅で息を引き取った。現在、同教会はユネスコの世界遺産に登録されている。

ロマンチック街道内にある作品

旧市庁舎(Historisches Rathaus)

ランツベルク・アム・レヒ(地図❻) www.landsberg.de ヴィースの巡礼教会(Wieskirche)

シュタインガーデン(地図❼) www.wieskirche.de

夢の城を再現したバイエルン王ルートヴィヒ2世Ludwig II.

バイエルン国王ルートヴィヒ2世は幼い頃、フュッセン郊外のホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。城内に描かれたドイツ中世騎士物語の壁画は、やがてルードヴィヒを伝説の世界に導いていく。18歳でバイエルン国王に戴冠したルートヴィヒは長身で美しく、国民の人気を集めた。彼はリヒャルト・ヴァーグナーの楽劇の世界にとりつかれ、ヴァーグナーのパトロンとなる。女性に興味がなかった彼は、結婚せずに中世騎士物語にのめり込んでいく。やがて伝説の世界を実現させるため次々に城を建設して、国を破綻寸前に追い込んだ。そして夜と昼が逆転した生活を送っていたルートヴィヒは精神病と診断され、強制的に退位させられることに。

1886年6月12日、ノイシュヴァンシュタイン城からシュタルンベルク湖畔のベルク城へ送られた。翌日の夕方、医師のグッデンと共に散歩に出かけたルードヴィヒはそのまま戻らず、夜になってグッデンと共に湖の浅瀬で水死体となって発見された。死因として多くの推測が飛び交ったが解明されず、未だに謎に包まれたままである。

ロマンチック街道のフィナーレに相応しいノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツで最も美しい城と謳われている。ルードヴィヒが憧れた中世騎士物語の世界を再現し、きめ細かな装飾、鮮やかな色彩、構造全てに独特な趣がある。

ロマンチック街道内にある作品

ノイシュヴァンシュタイン城

寝室は鮮やかなブルーを基調としている。ゴシック調の彫刻が見事だ寝室は鮮やかなブルーを基調としている。ゴシック調の彫刻が見事だ

シュヴァンガウ(地図❽) www.neuschwanstein.de
最終更新 Dienstag, 06 Juni 2023 17:24
 

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