ジャパンダイジェスト
特集


中村勘三郎 ベルリンに来たる!

中村勘三郎ベルリンに来たる!

歌舞伎俳優・中村勘三郎氏率いる平成中村座のベルリン公演が5月に行われるのに先立ち、2月28日(木)11時30分、公演会場となる「世界文化の家」(Haus der Kulturen der Welt)で勘三郎氏が会見した。ドイツでの歌舞伎公演は15年ぶりとのことで、べルリンに拠点を置く日本のメディアのみならず、地元の記者も多く参加し、会見は和やかなムードで始まった。

「今回、ベルリンにお招きいただいたことを、非常に嬉しく思っています。ドイツ、特にベルリンの演劇がいま非常に過激でおもしろいと我々演劇人の間ではよく話題になりますし、私の父(17代目中村勘三郎)が1965年にベルリンのフォルクスビューネで伝統的な歌舞伎を披露したこととも関係があります。18代目を継いだ息子の私が、このエキサイティングな町で、今度は新しい試みの歌舞伎をやらせていただくことは大きな喜びですね」

記者会見の様子
記者会見に臨む中村勘三郎氏(中央)

勘三郎氏といえば、演出家の野田秀樹と組んだり、歌手の椎名林檎の曲を取り入れたりするなど、歌舞伎という伝統芸能に新しい要素を積極的に取り入れることで知られる。日本の多くの若者に支持されるのもそれゆえだ。

「代々受け継がれてきた歌舞伎の伝統的な部分は、もちろん尊重します。ただ、江戸時代の人々にとって歌舞伎が大きな楽しみだったように、いまの歌舞伎だって、観ておもしろいものでなければと私は考えている のです」

記者会見の様子
ドイツ人記者も多数出席した

串田和美を演出に迎えた今回の演目「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」は、「命懸けで何かを守ろうとする人々の義理と人情、暴力をテーマにした大阪の下町が舞台」とのこと。ニューヨークではすでに2度上演され、辛口で知られるニューヨーク・タイムズ紙からも絶賛された。

会見後の質疑応答では、興味深い質問が相次いだ。「お父様が今回の舞台を観たらどういう反応をすると思いますか?」というドイツ人記者の質問に対しては、「古典についてはまだダメだと言うでしょうね。でもこういう新しい試みは、『(生きていたら)オレが最初にやりたかった』と悔しがると思います」と言って、記者たちの笑いを誘った。

会見の前日には「世界文化の家」の舞台を下見したという。

「舞台は東京のシアターコクーンに似ています。最初は花道を作ろうかと思っていたのですが、考えを改めました。実はちょっとおもしろいアイデアも浮かんでいて、それがどういうものになるかは、5月のベルリンの舞台をどうぞ楽しみにしていてください」

平成中村座のベルリン公演は5月14日から21日まで。伝統と革新の町ベルリンで、中村勘三郎氏が歌舞伎旋風を巻き起こしそうだ。

(TEXTE:MASATO NAKAMURA)


最終更新 Dienstag, 13 September 2011 17:40
 

若松孝二監督インタビュー:ベルリン国際映画祭閉幕特集 [後編]

ベルリン国際映画祭閉幕特集 -後編-

若松孝二監督にインタビュー

カリスマ的前衛作家として国際的な人気を誇る若松孝二監督。今年のベルリナーレでは、新作「実録・連合赤軍~あさま山荘への道程」のほか、トリビュートとして過去の作品3本が上映された。702号に続き、ベルリン国際映画祭閉幕特集・後編となる今号では、フォーラム部門でNETPAC (最優秀アジア)賞とCICAE(国際芸術映画評論連盟)賞の2冠を戴いた監督に、同受賞作について語っていただいた。

Koji Wakamatsu
1936年4月1日、宮城県生まれ。高校中退後上京し、さまざまな職を経て映画監督に。1963年にピンク映画「甘い罠」で監督デビュー。“ピンク映画の黒澤明”と称され、次々とヒット作を世に送り出した。65年に若松プロダクションを立ち上げ、足立正生、山本晋也、高橋伴明らを輩出。主な作品に「胎児が密猟するとき」(1966)、「腹貸し女」(1968)、「寝盗られ宗介」(1992)などがある。また、「女学生ゲリラ」(足立正生監督、1969)、「愛のコリーダ」(大島渚監督、1976)をプロデュースするなど、プロデューサーとしても高名である。

権力者側の視点に立って、映画を撮ってはいけない

許せなかった「突入せよ! あさま山荘事件」

赤軍というのは、かつてのファシスト国家にしかないのですよ。国家のいいなりになっていた親の世代への拒否反応から生まれたのです。しかし、連合赤軍は、ドイツ赤軍とイタリアの「赤い旅団」とは違い、権力に対してではなく、自分の仲間たちに銃口を向けてしまった。それを僕は、断じて許すことができません。

今回の作品で、僕は彼らを批判するつもりはありません。中立的な視点から赤軍を描いたつもりです。それをどう受け止めるかは、観客が決めてくれればいい。僕が撮るというと、皆、また革命映画だろうと思うでしょうが、今回は違う。そういうものは、まただれか他の人が撮ってくれればいい。

原田眞人監督の「突入せよ!あさま山荘事件」(2002)を観て、これは許せないと思いました。権力者側の視点に立って映画を撮ってはいけない、というのが僕の持論です。そこで、なんとか事実に近い映画を撮りたいと思った。中で何が起きたのか、世界で何が起こっていたのか、なぜあそこまでいったのかを徹底的に描くために、どうしても60年安保まで遡り、自分でもきっちり理解する必要があった。

全財産を担保に

昔から撮影のスタイルはまったく変わっていません。例のごとく密室劇なので、経済的でしたし、カメラ3人、照明二人、助監督4人という小さいチームで撮りました。役者はオーディションで選びました。皆最初は“イケメン”でしたよ。怒鳴りつけて、繰り返させて、どんどん追い込んでいった末に、ああいう役柄に近い顔立ちになっていったのです。当時の学生たち特有の話し方を教えるのは大変でしたね。赤軍のように合宿をして、撮影をしました。

制作上の制約がなかったので、楽しみながら作れました。自分は絶対にこれを残さなければならないと決めて、自分で資金を集めて、自分ですべてをやりました。全財産を担保に入れました。名古屋に自分の映画館を持っているので、日本ではそこで先行上映をしています。

元赤軍派メンバーと一般観客の反応

若松監督元赤軍派メンバーたちはこれを見て、「ようやく自分たちのことが認められた」と喜んでくれました。肩身が狭かったが、これでやっと面を上げることができると。20年の懲役を終えた植垣康博も見てくれました。東京拘置所にいる重信房子はシナリオに朱筆を入れてくれた。鑑賞後、一般の観客たちはほとんど泣いて出てきます。あまりの衝撃で椅子から立ち上がれないという人もいました。

オウム事件についての記録映画を撮った森達也監督と、3度ほど対談しました。赤軍とオウム、どちらのケースでも、優秀で生活に困らない若者たちがテロ事件を引き起こしている。しかし、麻原彰晃が自分の欲望を満たすために組織を利用したことに対し、森恒夫は、本気で革命を起こそうとしたと思うんです。

今度の作品にもエロティシズムを期待した観客がいるかもしれませんが、これは実録ですからね。実際、少しでも変なことを考えたら、それこそ「粛正」ですよ。殺されてしまうんです。植垣は「俺は適当にやってたよ」とか言うけれど、その事実は残っていない。昨今のいじめと同じで、閉塞情況のはけ口が、暴力や他者の排除に行ってしまったのでしょう。

僕はパレスチナ難民キャンプ、サブラ・シャティーラの大虐殺(レバノンのベイルート市内で1982年に起きた虐殺事件)の後を訪ねたことがありますが、恨みを持って死んだ人の顔は凄まじいものです。リンチ死した赤軍メンバーの死顔はそれとは違う。彼らは粛正されても恨んではいなかったのではないのでしょうか。永田洋子に「総括」を強要され、遠山美枝子が自分の顔を打つシーンだけは、特殊メイクを雇いました。鏡に映る遠山の腫れ上がった顔が、永田の顔と並ぶところで、永田に「この醜い顔は、あなたの内面そのものですよ」と言ってやりたかった。

警官を映画の中で殺すために監督になった

僕は映画の中で警官をたくさん殺してやろうと思って、監督を志しました。僕ほどたくさん権力者を殺した人間はいないんじゃないですか?皆僕に騙されて、お色気目当てで映画館に来て、バサッと刀で切られるような目に遭って帰っていく。僕は人に気に入られたくて映画を作っているわけじゃない。作品は、手をかけなくても自然に育っていくものです。いまの日本は難病や犬猫の映画、マンガの映画化、リメイクばかり。程度の低いものを作って、宣伝にお金をかけている。皆バカですよ。

僕が影響を受けたのはゴダール(ジャン=リュック・ゴダール、フランスの映画監督)だけです。彼に「映画には文法がない」ということを教わって以来、自由に作るようになりました。きちんとした考えさえあれば、どんなに無茶苦茶に撮ってもちゃんと繋がります。日本の映画から学ぶことなんて一つもありません。向こうは僕から学んでいるかもしれませんがね。それでも大島渚には共鳴しますし、北野武は好きです。いちばん好きなのは「あの夏、いちばん静かな海」かな。あれと同じで、「実録・連合赤軍」も青春映画なのです。青春はなんでもありです。そして苦しいです。僕の映画はどれも苦しいんですよ。

(INTERVIEW:KAYO ADACHI-RABE)

ベルリナーレでの若松作品

100本以上のアヴァンギャルドな“性と革命の映画”を撮った若松孝二監督を、再評価する機運が高まっている。今回のベルリナーレでは彼の初期作品3本と、新作「実録・連合赤軍~あさま山荘への道程(United Red Army)」が出品され、大反響を呼んだ。

写真:©Internationale Filmfestspiele Berlin

壁の中の秘め事
「壁の中の秘め事」
そのうち「壁の中の秘め事(Secrets Behind the Wall)」は、1963年にベルリン映画祭のコンペティション部門に出品されたもの。ある団地の住人たちの欲望と孤独が織りなす心理ドラマだ。当時日本では「国辱ムービー」のレッテルを貼られたが、欧州ではスタイリッシュな映像で高い評価を得ている。
ゆけゆけ第二の処女
「ゆけゆけ第二の処女」
「ゆけゆけ第二の処女(Go, Go Second Time Virgin)」(1969)は、驚くべき画面展開で、今回特に注目を浴びた傑作。若者たちの性衝動をニヒルな世界観で捉えている。監督の思想的盟友である足立正生の脚本が、透徹した不条理を追求した。
天使の恍惚
「天使の恍惚」
「天使の恍惚(Ecstasy of the Angels)」(1972)は、一連の赤軍事件に対する若松監督の直接的なリアクションといわれる。追いつめられたアナーキストたちが、内部分裂しながら爆弾テロに走る。過激な内容のため、公開当時は上映拒否が相次いだ。
実録・連合赤軍~あさま山荘への道程
「実録・連合赤軍
~あさま山荘への道程」
上映時間3時間の大作「実録・連合赤軍~あさま山荘への道程」は、学生運動の始まりから、アジトでのリンチ事件を経て、あさま山荘事件に至るまでの過程を、記録資料を交えながら人間ドラマとして再現したもの。自らも赤軍に参加していた若松監督ならではの、鬼気迫る映像が胸を打つ。上映後のディスカッションも大いに盛り上がった。

(TEXTE:KAYO ADACHI-RABE)

第58回ベルリン国際映画祭レポート
ファンタジーとドキュメンタリーの繚乱

今年のベルリナーレでは、商業的な劇映画よりも、想像力豊かな実験的作品やドキュメンタリー映画が俄然光って見えた。足立ラーベ加代(映画研究者)

傑作ぞろいのドキュメンタリー作品

マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督による、ローリング・ストーンズのコンサート記録映画 「Shine a Light」(米国)は圧倒的だった。伝説のザ・バンドの解散ライブ記録「ラスト・ワルツ」から30年、スコセッシは最新の技術でスターたちの強烈な存在感と対決するかのように、挑発的な撮り方をしている。「ただの記録ではなく、カメラや編集の力によるポエジーを発散させたかった」という。劇作家だったチェコ共和国初代大統領の記録をP.コウテツキ(Pavel Koutecky)と M.ヤネク(Miroslav Janek)監督が撮った「市民ハヴェル(Obcan Havel)」(チェコ)でも、国賓としてストーンズが現れ、独特の愛嬌を振りまいていた。こちらも突出した人物の素顔に迫った快作である。

 Shine a Light 市民ハヴェル
左)Shine a Light 右)市民ハヴェル(Obcan Havel)
©Internationale Filmfestspiele Berlin

ユンゲ夫妻(Winfrien Junge&Barbara Junge)の世界最長観察記録「ゴルツォーの子どもたち(Die Kinder von Golzow)」の最終巻「...dann leben Sie noch heute...」(ドイツ)も絶賛を浴びた。この作品は、1961年に、ある小学校に入学したひとクラスの子どもたちの人生を、2007年まで追ったもの。同窓生でいちばん出世した隣り町の町長になった女性の、ドイツ統一後の失脚には泣かされる。この作品に現れる“本物の生活時間”は、唯一無比の映画的体験ではないだろうか。

日本在住の中国人監督リ・イン(Li Ying)のドキュメンタリー「靖国」(日本/中国)④もすごい。不毛な議論を重ねるよりも、現場を知ることが肝心なのだ。「ご神刀」の鋳造所や、軍服姿の人や政治家たちが参拝に来る異様な場面など、いまでは撮影禁止になった境内の様子を衝撃的に伝える、貴重な記録である。

ゴルツォーの子どもたち(Die Kinder von Golzow) 靖国
左)...dann leben Sie noch heute... 右)靖国
©Internationale Filmfestspiele Berlin

独創性と想像力の競演

カナダのガイ・マディン(Guy Maddin)監督の「My Winnipeg」は耽美的な疑似無声映画で、かつ監督の故郷を紹介する疑似記録映画だ。弁士は監督本人。雪の降り止まない故郷を後にする列車の中で、主人公が子ども時代を回想する。前進するごとに後退する記憶、遠ざかるほどに立ちふさがる故郷。雪が見せる夢のように幻想的な、美しい映画だ。

フランスのミシェル・ゴンドリー(Michel Gondry) 監督の「Be Kind Rewind」も独創性で群を抜いていた。あるレンタルビデオ屋で、カセットの中身が磁気を帯びて全部消えてしまう。商売を続けるために、店員たちが人気映画を次々と自分たちで撮り直す。「ゴースト・バスターズ」「キングコング」「キャリー」など、悪趣味な選択も爆笑ものながら、チープな素材で有名シーンを再現する、瞬間芸の連発にお腹がよじれる。普通の映画の何倍ものアイデアが詰まった、才気ほとばしる作品だ。荻上直子監督の「めがね」、押井守監督の「真・女立喰師列伝」もやはり、だれにも真似のできない独特の発想で、世界の秀逸なファンタジー映画と肩を並べた。

ゴルツォーの子どもたち(Die Kinder von Golzow) 靖国
左)My Winnipeg 右)Be Kind Rewind
©Internationale Filmfestspiele Berlin

オードレイ・エストゥルゴー(Audrey Estrougo)監督の「Regarde-Moi」(フランス)は、ドキュメンタリータッチの劇映画。パリ郊外の団地でたむろする多国籍の若者たちの物語が、最初は男の子たちの側から、そして次に女の子たちの視点から繰り返し語られる。この視点の転換の仕方が画期的だ。ライバル関係にある女の子同士の友情が、赤裸々に描かれていて感動的だった。主人公の住空間を面白く捉えている点で、廣末哲万監督の「夕日向におちるこえ」や、熊坂出監督の「パークアンドラブホテル」も斬新だった。

Regarde-Moi
Regarde-Moi
©Internationale Filmfestspiele Berlin

娯楽映画 vs 実験映画

商業映画としては、ポール=トーマス・アンダーソン (Paul Thomas Anderson)監督の「There will be blood」(米国)が傑出していた。石油王を演じたダニエル・デイ=ルイスとうさん臭い宣教師役のポール・ダノの、悪党ぶりが猛烈にうまい。轟音のような音楽がスクリーンを何倍にも膨らませる。

ジェームス・ベニング(James Benning)監督の実験映画「RR」(米国)は孤高の名作だった。列車が現れ、風景の中を通り過ぎるまでを延々と撮る。こんなところによく列車が来るものだとか、金属音にもいろいろな音色があるなあとか、この角度で列車が通りすぎるのが、これほど痛快なのはなぜだろうなどと感慨に浸りつつ、感覚の刺激に没頭できる。「列車はそれ自体が映画的です」とおっしゃる巨匠に、今年もまた多くを学んだ。

There will be blood, RR
左)There will be blood 右)RR
©Internationale Filmfestspiele Berlin

(TEXTE:KAYO ADACHI-RABE)

最終更新 Freitag, 16 August 2019 18:15
 

ブンデスリーガ1部「VfLボーフム」所属 小野伸二

小野選手インタビュー

この人の来独を、どれだけ多くの在独日本人が待っていたことか。1月末に入団発表をしてから約1カ月。2月22日には4戦目にしてついに90分フル出場を果たし、試合毎に「ボーフムのシンジ・オノ」としてドイツでも知名度を上げている。日本では”天才“の異名を持ち、確固たる地位を築いた彼も、この国ではデビューしたばかり。いまはまだ挑戦の日々が続く。

サッカーが好きな人もそうでない人も、ぜひ一度、ピッチに立つ小野の姿を見て欲しい。有名人と言えども、彼もまた、祖国を離れ、異国の地に挑む一人の若者なのだから。

「条件云々じゃなく、もう一度欧州で自分を試したかった」

「またこっちに来れたというのが、自分の中で嬉しかったですね。多少、帰ってきたなぁという感じはします。ここはオランダと、天気も言葉も似ていますから。だからドイツ語で相手が何を言っているのか、わかるときもあります。右・左はオランダ語と同じ単語のようなので、試合中も使ってますね」

約6年間暮らしたオランダの港町ロッテルダムを離れ、帰国したのが2006年のこと。そしてこの度、2年ぶりに欧州へ戻ってきた。ルール工業地帯の旧炭鉱町・ボーフムへ来てから、ちょうど1カ月になる。

小野選手「まだボーフムには慣れていないかな。でも、来てすぐに町を探検しましたから、何がどこにあるかはわかります。中華やイタリアン、アルゼンチンなどのレストランや良さそうな洋服屋も見つけました。この前は、同じ時期に入ったアレクセイ(アレクセイ・ベリク、ウクライナの選手)が、中華を食べたことがないと言うので連れていきました。喜んで食べてましたね」

入団発表の4日後、ブンデスリーガ後半戦初戦となる強豪ブレーメン戦で、途中出場ながらもいきなり2アシストの活躍。翌週のホームで行われたコットブス戦では、自らが蹴ったフリーキックがゴールの糸口となった。

「あの時間帯ではあれぐらいやらないと。目標はスタメン。とりあえず今シーズンは2部に落ちないように、毎試合たくさん点を取ることが大事だと思うので、それだけを考えてやっていきたいですね。そしてもっと活躍して、周りから喜ばれるようになりたい。

ボーフムのファンは温かいな、という印象を受けました。途中出場するときの、あの掛け声がおもしろいと思って。『シンジー』と場内アナウンサーが叫ぶと、ファンが『オーノ』と応える。オランダにはなかったな」

この移籍には「挑戦」という意味合いが強い。Jリーグ浦和レッドダイヤモンズのときと比べると、年棒が半減しているからだ。条件面だけを見れば、浦和に残っていたほうがよかったといえる。

「オランダにいたとき、思い切りやっていなかった部分があったので、もう一度世界の舞台で自分を試したかった。またそういうチャンスを与えてもらえて、本当に嬉しいです。年棒の件は全然気になりません。海外にはお金で買えないものがあると思うから」

試合修了後、ピッチから去るとき、グラウンドに向けお辞儀をする。欧州の選手の中で、その姿はとても印象的だった。

「小学生のときに教わってから、ずっとやっています。ありがとうという意味を込めてね。でもブレーメン戦では、初戦ということで興奮していて忘れてしまいましたけど(笑)」

小野選手

7人が男という10人兄弟の5番目。名前から想像するに2番目かと思ったが、「母が牧伸二のファンで」と笑う。ビリヤードの腕前はかなりなもの。カラオケが好きで、酒も相当いける。

今回来独したときは、フランクフルト空港からバスでデュッセルドルフに着いたそうだ。サッカーの高度なテクニックだけでなく、そんな気取らない人柄と時折目を逸らせながらも誠実に答えようとする姿が、多くの人が彼に惹き付けられる要素なのだろう。

「ドイツにお住まいの皆さん、すぐ近くから見れますので、遠慮なく練習を見に来てください。たくさんの人が見に来てくれるように、僕もがんばります」

最近、ホテル住まいから家を見つけて引っ越した。いまは家族が日本から訪れているが、基本的には単身赴任ということになる。「寂しいですけど、僕にはサッカーがありますから」 との言葉に、彼の決意を見たような気がした。

小野選手
ホームデビューとなった2月9日のコットブス戦。
後半途中出場ながら、得点にからむ活躍を見せた

プロフィール

1979年9月27日、静岡県生まれ。175cm、74kg、O型

1995年 沼津市立今沢中学校卒業
1998年 静岡市立清水商業高校卒業後、浦和レッドダイヤモンズに入団。フランスW杯に最年少で出場
2001年 オランダ1部リーグ「フェイエノールト」へ移籍
2002年 UEFAカップで優勝
2006年 浦和レッドダイヤモンズへ移籍
2008年 ドイツ1部リーグ「VfLボーフム1868」へ移籍、背番号23

高度な技術を持つMF。利き足は右だが、左足も利き足のように操れるため、ボールを利き足へ持ち替えるということは見られない。過去3大会連続W杯出場。

小野選手を応援に行くためのbonAbisZ

チケットを取ろう

チケット売り場ボーフムのホームスタジアム「rewirpowerSTADION」へ応援に行くなら、まずはチケットを取らなければ始まらない。下の図を参考に、チケットを予約しよう。生粋の地元ファンといっしょに熱く盛り上がりたい人は、N~Qの立見席がおススメだ。

通常はチケットを郵送してくれる。でも試合日が近いときは、現地で受け取れるのでご安心を。

スタジアム

A-D
25ユーロ、14歳までの子ども10ユーロ
30~35ユーロ
3
11ユーロ
4
20ユーロ
5
27~32ユーロ
6
35ユーロ

※ 対ボルシア・ドルトムント、シャルケ04、バイエルン・ミュンヘン、ヴェルダー・ブレーメン、ハンブルガーSV、VfBシュトゥットガルト戦の場合は、下記の料金にプラス5ユーロ(立見席はプラス2ユーロ)となる。
※ インターネットで予約する場合や前売りチケットの場合は、下記の料金に手数料が加算され、若干高くなる。

● チケット予約
ファンショップで:月~金10:30~19:00、土10:30~ 14:00、
試合のある日はキックオフまでオープン
電話で:01805-951848(毎日8:00~20:00)
インターネットでwww.vfl-bochum.de


スタジアムへ行こう!

スタジアムへ行こうチケットを無事に入手したら、あとは現地へ行くだけだ。デュッセルドルフからなら約40分とそれほど遠くないし、フランクフルトやハンブルク、ベルリンからでも十分に日帰りできる。

ボーフム中央駅に着けば、あとは簡単。正面出口側にある地下鉄の入り口へ行き、308か318の「Gerthe」方面行きに乗って2駅目の「rewirpowerSTADION」で降りよう。スタジアムはすぐ目の前だ。

スタジアム地図

● スタジアム
「rewirpowerSTADION」
住所:Castroper Straße 145, 44791 Bochum


応援グッズを入手しよう!

さあ、会場に着いたら、応援グッズをゲットしよう。ファンショップはインフォメーションの前にある。これが熱狂的なボーフムファンのいでたちだ。

サポーター

item1

ユニフォーム「Heimtrikot07/08」59.95ユーロ

背番号と選手名を付けるとプラス11.95ユーロ
さらに袖にブンデスリーガのロゴを付けるとプラス3ユーロ
※ファンショップでは2月22日から、最大4割引きのセールを実施中。在庫限りなのでお早めに。

item2

マフラー「Schal」11.95ユーロ

item3

キャップ「Cap」 11.95ユーロ

item4

Fiegeビール「Moritz Fiege」
スーパーで1ユーロくらい

VfLボーフムのスポンサーでもある地ビールの「フィーゲ」。ボーフムでしか味わえない少し苦味の効いたビールを、スタジアムに入場する前に1杯飲んでおこう。スタンドに売りにくるのも、もちろんこのビール。

item5

ファン雑誌「Mein VfL」 1ユーロ

Bochumitem6

CD「Mein VfL」 4.95ユーロ

VfLボーフムの応援曲「Mein VfL」と「Wir steh'n zu dir」の2曲入り

CD「Bochum」
Herbert Grönemeyer Before Gro(EMI)1984

Bochum試合前やハーフタイムにスタジアムで流れるのが、この町で育ったドイツを代表する歌手、ヘルベルト・グリューネマイヤーの歌う「Bochum」だ。ボーフムは美しくないし世界都市でもない。モードショーもないが、心はある……と歌うご当地ソング。プリントアウトした歌詞を持っていっしょに歌えば、スタジアムで一躍人気者に!!

いよいよ試合開始!

もうこれで準備万端。遅くとも試合開始30分前にはスタジアムに入りたい。スターティングメンバーの紹介やピッチで練習する選手を見て、キックオフまで気分を高揚させよう。地元ファンには「Glück auf!!!」と、声をかけるのを忘れずに。

サポーター


試合後は町へ繰り出そう!

ボーフムにあるドイツ一有名なもの、それは……?

応援で身も心も熱くなった後は、町へ繰り出して、試合の余韻に浸りたい。ボーフムの飲み屋街は、「Bermuda dreieck」という三角になった地域。地下鉄で中央駅よりもう一つ向こうの駅「Engelbert-Brunnen/ Bermudadreieck」で下車するとすぐだ。中央駅からも徒歩圏内で、正面口を出て大通りを左へまっすぐ歩いた左手にある。ここにはさまざまな居酒屋やレストランが建ち並び、飲んで騒ぎたい人や静かに試合の興奮に酔いたい人など、自分の好みに合った店を選べる。隣りに座った生粋のボーフムサポーターと意気投合して、試合談議に花を咲かせるのもいい。

飲み屋街

小腹がすいたときにぜひ訪れてほしいのが、この地域の一角にあるカレーソーセージの屋台「Bratwursthäuschen」 だ。なんと“ドイツの中でいちばん有名な屋台”と言われている。その理由は、Schritt3でも紹介したグリューネマイヤーが、1982年に発表した曲「Currywurst」によるところが大きい。彼はゲッティンゲン生まれだが、ボーフムで育ち、「Bochum」の歌からもわかるようにこよなくこの町を愛している。「町へ行こう、何が君のお腹を満足させてくれるか?それはカレーソーセージさ」と歌う「Currywurst」は、ドイツ人で知らない人はいないくらい有名な歌だ。

細かく切った白ソーセージに温かいカレーソースがかかったここのカレーソーセージは、まさに絶品。カレーのピリ辛がよく効いていて、これを試さずにボーフムを去るのは実に惜しい。ぜひ、お試しあれ。

カレーソーセージ

Bratwursthäuschen
Kortumstr.18, 44787 Bochum
TEL:0234-684270
営業時間:日~木10:00~24:00、金・土10:00~27:00
料金:カレーソーセージ 2.2ユーロ

耳より情報
練習場小野選手を間近に見たい人は、平日の練習を見に行ってみよう。運が良ければサインがもらえたり、話しかけたりできるかもしれない。でも監督や他の選手もいることを忘れずに、マナーを守って観戦を。練習は、スタジアムのすぐ横で行われる。たいていは10時からだが、午後のときもあるので、正確な時間はV f L ボーフムのホームページ「Terminplaner」で要チェック!www.vfl-bochum.de

● 各地からボーフム中央駅までの所要時間と運賃
デュッセルドルフから:REで直通約40分、9.1ユーロ
フランクフルトから:ICEで約2時間30分、78ユーロ
ハンブルクから:ICで直通約3時間、62ユーロ
ベルリンから:ICEで直通約3時間30分、89ユーロ

※ 試合のチケットを持っていれば、デュッセルドルフからスタジアムまでの往復運賃は無料となる。その他の地域からでも片道29ユーロなどの割引切符もあるので、早めの予約を。

※ 所要時間と運賃は2月26日現在。運賃は普通切符の値段。曜日や時間、乗る電車、予約時期によって異なるため、出かける前に確認を。
ドイチェ・バーン(DB) TEL:11861 www.db.de

最終更新 Freitag, 30 August 2019 14:30
 

ドリス・デリー監督 Doris Dörrie、浅野忠信さん:ベルリン国際映画祭閉幕特集 [前編]

ベルリン国際映画祭閉幕特集

10日間にわたって華やいだベルリンの街もついに元の姿に戻った。ローリング・ストーンズやマドンナなど世界中から多彩なVIPを迎えたベルリン国際映画祭は、金熊賞にブラジルの「The Elite Squad」(ホセ・バティーヤ監督)、また日本勢では熊坂出監督の「パークアンドラブホテル」が新人作品賞を受賞するなど健闘し、感激と拍手の渦の中で17日(日)に幕を閉じた。

本誌では閉幕に合わせて、コンペティション部門で話題となった独日の二人に直撃取材を実施。ベルリン在住の映画研究者、足立ラーベ加代さんにインタビューをしていただいた。後編(704号掲載予定)では、2冠を達成した若松孝二監督のインタビューと映画祭全体の総括をお伝えするのでお楽しみに。(編集部)

ドリス・デリー監督 Doris Dörrie
「アルゴイの山並みを、北斎の『富嶽三十六景』のように描きたかった」

ドリス・デリー監督Doris Dörrie
1955年5月26日、ハノーファー生まれ。アビトゥア取得後、アメリカへ。カリフォルニアのパシフィック大学で演技・映画学を学び、その後ニューヨークに移る。75年にドイツへ帰国した後は、ミュンヘンのテレビ映画大学で学びながら、「Süddeutsche Zeitung」紙に映画評論を書く。その後、ドキュメンタリー作品などを撮り始める。作家やプロデューサーとしても活躍しており、これまでにも日本に関する映画を撮っている。

作品紹介
「Kirschblüten-Hanami」
「Kirschblüten-Hanami」(2008、ドイツ)

監督:Doris Dörrie
出演:Elmar Wepper、Hannelore Elsner、Nadja Uhl、入月絢ほか
公開:3月6日~
バイエルンに住む夫婦ルーディー(エルマー・ヴェッパー)とトルーディー(ハンネローレ・エルスナー)は、ベルリンに住む子どもたちを訪ねるが、あまり歓待されない。旅行中、思いがけなく妻を亡くしたルーディーは呆然自失。傷心のうちに、妻の憧れであった日本に一人旅立つ。そこで彼は、可憐なダンサー、ユウ(入月絢)に出会うのだった……。ドイツのコメディ映画の女王、ドリス・デリー監督の新しい境地を開く、叙情的な逸品。

「Kirschblüten-Hanami」は、大変興味深いことに「東京物語」(1953)のリメイク作品ですね。小津安二郎監督の作品をどう解釈されたのですか?

「東京物語」はもともと、レオ・マッケリーの「明日は来ず」(1937)のリメイクです。小津監督はアメリカの作品を日本的に翻案したのですが、その舞台を私は再び西洋に置き換えました。それが私の作品の前半部分です。後半では、主人公ルーディーは日本へ旅行に出かけます、つまり、小津の国に帰っていくのです。

「東京物語」の数々の名場面や名セリフを、忠実に再現していらっしゃいますね。

セリフにはずいぶん手を加え、自分なりのものになったと思っています。引用は多くありますが、全体としてまったく違った作品です。

小津映画に出会ったのはもう30年も昔、映画大学に通っていたときのことでした。当時は、なんて退屈な映画だろうと思いました。その後、日本に行く機会があったり、娘を出産したりして人生経験を積んでからもう一度小津を見たとき、そのすばらしさが突然理解できました。本当にハートを直撃されたと言っていいくらいの衝撃でした。

小津作品では、残された夫が妻の死を静かに受け入れて終わりますが、デリーさんの作品では、そこからルーディーが積極的に行動を起こします。

それは私の中から自然に出てきた展開です。ルーディーの冒険は私の日本体験そのものです。異邦人である私は、日本でいろいろな失敗をしています。でもいつもだれかがそっと手を差し伸べてくれるのです。同じように、ルーディーはユウによって救われます。彼女は自由な人間で、小津作品の紀子とはひと味違うところをぜひ見ていただきたいです。

日本とドイツの共通点が強調されていると同時に、コントラストも明快に浮かび上がっています。

ただ違いを見せたのではなく、表現の中で重ね合わせたといいましょうか。例えば、アルゴイの山並みを、私は北斎の版画「富嶽三十六景」のように描きたいと思ったのです。

また、禅の精神も映画作りに応用しました。つまり、“コンセプトを作らない、できたら壊す”というやり方です。今回の撮影には不測の事態が多くありました。桜がいつ咲くか、富士山がいつ見えるかはまるでコントロールがきかないし、出演者は時差ボケに苦しむし、撮影とラッシュアワーがぶつかるし……。だからできるだけオープンな計画で、毎日撮影に臨んだのです。それも私独自のスタイルでしょうね。

(Interview: Kayo Adachi-Rabe)

インタビューを終えて「インタビューを終えて」

インタビュー後、デリーさんにレセプションに招待していただいた。その席で、ユウを演じたダンサーの入月絢さんにもお会いできた。役作りについては、「演技なんて全然したことがないし、ただデリーさんについて行っただけです。踊りは遠藤さんといっしょに作っていったし」とおっしゃっていた。

ゲッティンゲン在住の舞踏家・遠藤公義(ただし)さんともお話をし、この映画の魅力の秘密を知った。「舞踏とは、死者の夢と生者の夢が出会う場所」という奥義を、出演者・スタッフたちに仕込んだのがこの人なのである。本作で、日本が魅力的に描かれているのは、彼ら日本人出演者のセンスの良さによるところも大きいと思う。お二人のますますのご活躍をお祈りしたい。

浅野忠信さん Tadanobu Asano
「役作りは、日常で蓄えたイメージをそのまま当てはめる作業」

浅野忠信さんTadanobu Asano
1973年11月27日、横浜生まれ。テレビドラマ「3年B組金八先生」でデビューしたが、無名の若手監督作品に積極的に出演するなど、映画を中心に活動している。2003年には「地球で最後のふたり」(日本、タイその他合作)でベネチア国際映画祭コントロコレンテ部門主演男優賞を受賞、その他数々の賞に輝く。主演したロシアのセルゲイ・ボドルフ監督作品「モンゴル」は、2月24日に発表される第80回アカデミー賞で外国語作品部門にノミネートされている。

作品紹介
母べえ
「母べえ」(2007、日本)

監督:山田洋次
出演:吉永小百合、浅野忠信、壇れいほか
公開:未定
黒澤明監督のスクリプター(記録)として活躍した、野上照代さんの自叙伝を元にしたホームドラマ。ときは1941年、ドイツ文学者の夫・滋(坂東三津五郎)が思想犯として逮捕され、妻・佳代(吉永小百合)は二人の娘を女手一つで養っていかなければならなくなる。戦争の足音が近づくなか、滋の義妹・久子(壇れい)、元教え子の「山ちゃん」(浅野忠信)に助けられ、一家はひたすらけなげに、慎ましく日々の営みを重ねてゆく……。

ベルリナーレにいらっしゃるのは何度目ですか?

今回で3度目になります。最初は自作の短編映画「トーリ」(2005)をタレント・キャンパス部門に出品したとき、2度目は主演作「インビジブル・ウェーブ」(2006、ペンエーグ・ラッタナルアーン監督)のコンペ参加のため、そして今回の「母べえ」です。

国際的に活躍なさっている浅野さんですが、今回は純日本的な映画でしたね。作品の中での好演が光っていました。

山田洋次監督の映画、吉永小百合さんと共演、ということで絶対に出たいと思いました。けれども脚本を読んだとき、いつもの役柄とは全然違うので本当にできるかどうか心配でした。監督に助けていただきながら、役を作っていった感じです。また、友だちに「山ちゃん」に似た感じの人がいて、真面目すぎて変な方向に走って滑稽だけれど、よくよく見ると悲しさも感じさせるんです。今回、彼の存在が良いヒントとなりました。

北野武監督が浅野さんを、セリフやアクションがなくても5分以上カメラの前に立っていられる稀有な俳優、と評していますが、そのようなシーンではどんなことを考えているのですか?

できるだけ何も考えないようにしています。俳優をやり始めたころは生意気でやる気がなかったから、監督に「悲しいときのことを思い出せ」とか言われても、本気になれなかった。例えば葬式に行っても、実際はずっと悲しいだけではなくて、「ラーメン食べたいな」とかどうでもいいことが頭に浮かんだりしますよね。カメラの前で、実は「早く撮影終わってくれないかな」とか思っていても、観客は何か別のことを汲み取ってくれるのでは、と思っています。

浅野さんというと「即興の天才」と言われますが、何かコツがあるのですか?

ちょうど「FOCUS」(1996、井坂聡監督)のとき、演技ではないありのままの自分を見せたいと思っていたんです。だからあのドキュメンタリー的なスタイルがぴったりだった。いつでも、日常の中で蓄えているいろいろなイメージを、そのまま当てはめる作業をしているつもりです。

同じ映画作家として、山田洋次監督から学んだことは何ですか?

「絶対に諦めないこと」です。撮影に入るまで、スタッフや出演者にこれでいいのかと何度も問い直す姿を見て、とてもテンションが上がりました。将来、自分でも長編映画を撮ってみたいと思っています。

吉永小百合さんと共演されたご感想は?

吉永さんくらいの年齢で、あれほど健康的なオーラを放つ人は見たことがないです。いっしょにいるとこっちも元気になるし、変な遠慮をする必要もない。映画でも吉永小百合さんに救助される、という珍しい役を与えてもらって、本当にラッキーでした(笑)。

(Interview: Kayo Adachi-Rabe)

記者会見「記者会見では厳しい質問も」

記者会見では、吉永小百合さんの薄紫の着物姿が注目の的となった。内容については、「家族の物語が美化されすぎていないか」や「戦争の場面がないのはなぜか」という厳しい質問も飛んだ。しかし、野上さんは「子どもだったので、あまり大変なことが起こっているとは思わなかった」そうだ。

山田監督は「暴力には興味がないので、描写する気はさらさらない」と答えていた。野上さんの原作に綴られている、日々の生活の細部に魅かれて映画化したのだという。あくまでも職人芸的な庶民劇である。その意味で、ベルリナーレでは異彩を放った作品だった。

最終更新 Dienstag, 03 September 2019 14:48
 

ミュンヘンに散った正義の「白バラ」

ミュンヘンに散った正義の「白バラ」
ミュンヘンに散った正義の「白バラ」

写真左から、ハンス・ショル、ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープスト

1943年2月22日、午後5時。ミュンヘンでミュンヘン大学の学生3人が断頭台で処刑された。彼らの名前は、ゾフィー・ショル(21)、ハンス・ショル(24)、クリストフ・プロープスト(23)──。

ときのナチス政権に反旗を翻し、戦争を終結させようと剣ではなくペンで抵抗運動を行った、勇気ある若者たち。ただ純粋に人間の権利と自由を求め、“自分たちは間違っていない、間違っているのはあなたたちだ”との信念を持ち続けた強靭な精神。謄写版で刷ったビラをできるだけ広く行き渡らせることが、「白バラ抵抗運動」として知られる彼らの主な活動であった。

逮捕からわずか4日後、理不尽な裁判によって死刑判決を受け、その日のうちに斬首されてから今年で65年。時代に翻弄されながらも、正義を貫いた彼らの勇気ある姿を紹介しよう。

「白バラ(Die Weiße Rose)」とは?
ミュンヘン大学の学生たちによる反ナチス抵抗運動。1942年から43年にかけて6枚のビラ(Flugblätter)をガリ版で作成し、郵送や配布によって、人間の権利と自由を我らの手に取り戻そう、戦争を終結させようと国民に呼び掛けた。
第二次世界大戦で東部前線に行った際、ポーランドやソ連で多くの虐殺を実際に目の当たりにした経験から、ハンス・ショルとアレクサンダー・シュモレルが「白バラ」運動を立ち上げたのは42年6月のこと。最初の4枚のビラは、6月末から7月中旬にかけて主にドイツ南部やオーストリアで配布され、5枚目はスターリングラードが陥落した直後の翌年1月に作成された。そして2月18日、6枚目のビラ配布中にハンスと妹のゾフィーが逮捕され、7枚目が出ることはなかった。

白バラの主要メンバー


ゾフィー・ショル  Sophie Scholl
1921年5月9日~1943年2月22日

バーデン=ヴュルテンベルク州フォルヒテンベルクの町長を長年務めた父・ロベルトと母・マグダレーネの3女として生まれる。1932年に家族でウルムへ。42年5月にミュンヘン大学へ入学(生物学、哲学専攻)。43年2月18日に兄のハンスとともに大学構内でビラを撒いた後、逮捕。同月22日、国家反逆罪で死刑判決を受け、同日17時に斬首。享年21歳。


ハンス・ショル Hans Scholl
1918年9月22日~1943年2月22日

ゾフィーの兄でミュンヘン大学医学生。5人兄弟の長男。1940年9月に戦場から帰還後、アレクサンダーとともに白バラ運動を立ち上げ、42年6月から7月の間にビラを4号発行した。7月にはアレクサンダー、ヴィリと東部前線での医療実習のためソ連へ。11月に帰国後、白バラ運動を再開。43年2月22日斬首。断頭台に上がる際、「自由ばんざい」と叫んだという。享年24歳。


クリストフ・プロープスト Christoph Probst
1919年11月6日~1943年2月22日

ミュンヘン大学医学生。バイエルン州ムルナウ生まれ。ミュンヘンの高校でアレクサンダーと出会い親しくなる。1939年にミュンヘン大学へ入学、40年には結婚し長男をもうける。翌年次男誕生。43年には第3子が誕生。同年2月19日にインスブルックで逮捕。裁判で家族のために助命を嘆願し、ショル兄妹も同調したにもかかわらず、死刑判決を受け22日に斬首。享年23歳。


アレクサンダー・シュモレル Alexander Schmorell
1917年9月16日~1943年7月13日

ミュンヘン大学医学生。ソ連生まれ。ソ連人の母とドイツ人の父を持つ。幼いときに母を亡くし、4歳でミュンヘンへ。ハンスとともに白バラ運動を立ち上げ、最初の4枚のビラ作成に携わる。ソ連から帰還後の43年1月、5枚目のビラを作成。ショル兄妹が逮捕された後、逃亡を試みるが同年2月24日に逮捕。4月19日に開かれた裁判で死刑判決を受け、7月13日処刑。享年25歳。


ヴィリ・グラーフ Willi Graf
1918年1月2日~1943年10月12日

ミュンヘン大学医学生。ザールブリュッケン生まれ。1942年の医療実習でハンスやアレクサンダーといっしょになり、白バラ運動に参加するようになる。43年2月18日深夜に逮捕。同年4月19日に開かれた裁判で死刑判決を受け、10月12日処刑。享年25歳。


クルト・フーバー Kurt Huber
1893年10月25日~1943年7月13日

ミュンヘン大学教授(音楽、心理学)。スイス生まれ。1896年に家族でシュトゥットガルトへ。ミュンヘン大学を卒業後、同大学で職を得る。1942年12月、ハンスたちからビラの発行者であることを打ち明けられる。5枚目のビラをいっしょに作成、6枚目はフーバー教授一人で書いたと言われる。43年2月27日逮捕。同年4月19日に死刑判決。7月13日処刑。享年49歳。


ビラ
実際に撒かれたビラ ©Weiße Rose Stiftung e.V.

処刑までの3人の主な行動
1943年
1月末
  ビラ第5号作成・配布。ゾフィーはアウグスブルクへ行き、ビラを投函
2月3、8、15日
深夜 ハンス、アレクサンダーやヴィリとともに、ミュンヘン大学や市内の壁にタールで「打倒ヒト ラー」「自由」と書いてまわる。その間5日から15日まで、ゾフィーは母の病気のためウルムへ戻る
2月18日
午前 ハンスとゾフィー、6枚目のビラをトランクに詰めミュンヘン大学へ。授業中の構内でビラを1000枚以上撒き、いったん外へ出るが、トランクの中にまだ残っているビラも撒かなければならないと大学へ戻る
11:00ごろ ハンスとゾフィー、管理人に見つかり秘密警察ゲシュタポにより逮捕。ハンスが持っていたクリストフの下書き原稿が発見される。最初は否認していた二人だったが、ハンスの部屋で大量の切手などの証拠が見つかったことから是認し、他の同志を守るため、ビラの作成はすべて二人だけで行ったと主張
2月19日
  クリストフ、インスブルックで逮捕
2月21日
  ハンスとゾフィー、クリストフが逮捕されたことを知る
15:00 3人、起訴状を受け取り、翌日が審理だと知らされる
2月22日
9:00 3人、民族裁判所へ
10:00 裁判開始
13:00 死刑判決を受け、ミュンヘン・シュターデルハイム刑務所へ
16:00ごろ ハンスとゾフィー、刑務所内で両親と面会
17:00 ゾフィー、クリストフ、ハンスの順に断頭台で処刑

時代背景を辿る
1933年   ナチスが政権掌握
1939年   独ソ不可侵条約、ドイツ、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦始まる
1940年   日独伊三国同盟締結
1941年 4月6日 独軍、ユーゴ軍事侵攻
  6月22日 独ソ戦開始
  9月8日 レニングラード包囲戦
  12月7日 独軍、東部戦線全軍に一時休止命令
  12月11日 独伊、対米宣戦布告
1942年 8月23日 スターリングラード攻防戦開始
1943年 2月2日 スターリングラードで独軍全面降伏
1944年 7月20日 ヒトラー暗殺未遂事件
  4月30日 ヒトラー自殺
1945年 5月7日 ドイツ、無条件降伏

歩いて感じる「白バラ」

1ミュンヘン大学 Ludwig-Maximilians-Universität

メンバーが通っていた大学。2月18日にショル兄妹が最後のビラを撒き、この構内で逮捕された(写真左)。中央玄関を入って右側に進むと、白バラ記念館がある。中央玄関の前の広場は「ショル兄妹広場(Geschwister-Scholl-Platz)」と名づけられ(写真中)、噴水と玄関の間には記念碑が埋め込まれている(写真右)。道路を挟んで向こう側の広場は「クルト・フー バー教授広場(Prof.Kurt-Huber-Platz)」だ。

ミュンヘン大学

白バラ記念館 「DenkStätte Weiße Rose am Lichthof」

開館時間:月~金、10:00~16:00
TEL:089-21805359
入場無料
www.weisse-rose-stiftung.de

記念碑2白バラの記念碑

ホーフガルテンの裏に建つ白バラの記念碑。上には祈りのための石がたくさん乗せてある。
Fotos: Weiße Rose Stiftung e.V., Maiko Fuji

3ショル兄妹が住んでいた家

ハンスとゾフィーは、1942年6月から逮捕される43年2月 までここに住んでいた。記念碑がある。
Franz-Joseph-Straße 13

4ヴィリ・グラーフが住んでいた家

ヴィリもショル兄妹の近くに住んでいた。
Mandlstraße 1

5裁判所 Justizpalast

1943年2月22日のハンス、ゾフィー、クリストフの裁判、そして4月19日のアレクサンダー、ヴィリ、フーバー教授の裁判がここで開廷された。平日の9:00から16:00まで、4月19日に開廷された部屋を見学できる(4月10日 ~5月31日、10月10日~11月30日は見学不可)。
Prielmayerstraße 7

その他

ミュンヘン市内の墓地「Friedhof am Perlacher Forst」 には、ショル兄妹とクリストフが眠る。
Stadelheimer Straße 24, 81549 München
開場時間:10月~2月8:00~17:00
3月、9月8:00~18:00 4月~8月8:00~19:00
TEL:089-767735910 最
寄り駅:トラム27、バス139「Schwanseestraße」

命日には記念コンサートが開催される
「Gedankkonzert」開演 20:00

場所:Allerheiligen-Hofkirche Residenz München
チケット:ミュンヘンチケット 0180-54818181

白バラの「美しさ」
早稲田大学教授 山下公子


私が初めて「白バラ」と呼ばれる人たちと深く関わるようになったのは、ショル兄妹のハンスとゾフィー、二人の遺稿集を日本語に翻訳したときでした(『白バラの声』新曜社、1985)。いただいた書評の中に、遺稿そのものもショル兄妹の存在も「美しすぎる」と書かれたものがあり、「美しくて何が悪いのだろう」と戸惑ったことを覚えています。

1943年に「白バラ」関係者として処刑された人は7人いますが、直接に政権批判のビラ作成に携わった、いわゆる「ミュンヘン・白バラ」のメンバーは6人です。そのうち5人までが20代の大学生でした。

4人の男子学生は全員医学生で、同時にドイツの正規軍である国防軍(および一人は空軍)所属の兵士。ただ一人女性で死刑になったゾフィー・ショルは、その前年、大学で哲学と生物学を学び始めたばかりでした。

5人はいずれも「良家の子女」と呼ぶにふさわしい生まれ、育ちでしたし、残されている写真を見ても、みんな魅力的な人たちです。

ショル兄妹を「美しすぎる」と評した方は、彼らの若さや美しさを一方で惜しみ、他方ではうさん臭いと感じていらしたのではないかと思います。人生を重ねていたら、人間そんなに純粋に突っ走れはしなかっただろうと。

しかし、当時のドイツに、若く、魅力的で、育ちの良いドイツ人は他に何百万人もいたはずです。すでに子どものころからナチの教育を受けていたとはいえ、あるいは逆に、受けていたからこそ、ナチ体制に批判的な思いを抱いていた者も、ドイツのあちこちにいなくはなかったでしょう。でも、そのほとんどは口を噤み、目を逸らし、ナチ・ドイツが世界にもたらしている災いを、我が身に関わらないかぎり無視して、安穏な日常を追っていたのです。

公刊されているショル兄妹、そしてヴィリ・グラーフの遺稿、部分的に公開されているクリストフ・プロープストやアレクサンダー・シュモレルの書簡などから、彼らが自分たちを取り巻く当時の社会の多数派、「大衆」に強い違和感を抱いていたことがわかります。そして、このように、自分たちと同年代の若者たちまで呑み込んでゆく、当時の体制に対する怒りも。

あえて言えば、ミュンへン・白バラの若者たちは、自らの言葉と行為によって当時のドイツの青年男女に、ナチ体制の中で失われつつあった若者の輝く美しさを取り戻す、そのために立ち上がれと、訴えたかったのかもしれません。

もっと詳しく知りたい人のために

映画で見たい人には
白バラの祈り
DVD
「白バラの祈り ~
ゾフィー・ショル、最期の日々 ~ 」

2005 ドイツ
amazon.co.jpで購入

発売元:CKエンタテインメント/レントラックジャパン/双日/朝日新聞社
販売元:レントラック ジャパン/BIG TIME ENTERTAINMENT

DVD「白バラは死なず」
amazon.deで購入

1982、西ドイツ(日本公開は85年)
監督:ミヒャエル・フェアヘーフェン(Michael Verhöven)
日本語で読みたい人には
白バラの声
『白バラの声~ショル兄妹の手紙~』

復刻版

インゲ・イェンス 編
山下公子訳

新曜社
2005

amazon.co.jpで購入
ドイツ語で読みたい人には
Die Weiße Rose
『Die Weiße Rose』

Harald Steffahn
Rowohlt
2005

amazon.deで購入
最終更新 Freitag, 30 August 2019 10:47
 

<< 最初 < 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 > 最後 >>
109 / 117 ページ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


Nippon Express ドイツ・デュッセルドルフのオートジャパン 車のことなら任せて安心 習い事&スクールガイド バナー

デザイン制作
ウェブ制作