ジャパンダイジェスト
特集


グーテンベルクからデジタル印刷まで ドイツの印刷文化を訪ねて

グーテンベルクからデジタル印刷までドイツの印刷文化を訪ねて

羅針盤・火薬と並び、ルネサンスの三大発明とされる「活版印刷機」。ドイツ生まれのこの機械は、ルターの宗教改革を成功へ導き、フランクフルトやライプツィヒを国際的な出版の中心地に押し上げるなど、歴史とも深く結びついている。デジタル技術が進歩する今なお、活版による美しい印刷物が愛される理由とは?ドイツで現在も生き続ける印刷文化に会いに行こう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ドイツの印刷文化を訪ねて

ドイツの印刷・出版の歴史

参考:mdr.de「Wiegendrucke, Börsenverein und "Leipzig liest"」、mdr.de「BUCHSTADT-CHRONIK」、ardalpha.de「Der geheimnisvolle Erfinder des Buchdrucks」、Universität Leipzig「Buchdruck und Verlagstätigkeit in Leipzig」、Stadt Leipzig「Erste Tageszeitung kamaus Leipzig」、保井亜弓「武器としての版画ー印刷革命とプロパガンダ」、Harry Oelke「Reformation as a Media Event」

世界を変えた発明
グーテンベルクの活版印刷

活版印刷は、実は11世紀半ばごろの中国ではすでに発明されていた。しかし、漢字はアルファベットに比べてはるかに文字数が多く作りも細かいため、それほど普及しなかった。そんななか、フランクフルト近郊の街マインツの貴族だったヨハネス・グーテンベルクは、1450年ごろに世界で初めて活版印刷の実用化に成功。当時の欧州では、写本か木版印刷が主流だったため「本」は希少なものだった。

ヨハネス・グーテンベルク(1398ごろ-1468)ヨハネス・グーテンベルク(1398ごろ-1468)

金属加工職人でもあったグーテンベルクは、まず文字の原型を彫り、その型に調合した鉛合金を流して活字を鋳造する方法を発明。低品質の紙や羊皮紙にも印刷できるように油性インクを作り、さらにインクを付けた活字をしっかり紙に押し付けるために、ブドウ搾り機を応用したプレス機も開発した。このようにさまざまな技術を組み合わせることで、グーテンベルクは本(印刷物)の大量生産を可能にしたのだ。その後、活版印刷はすぐに欧州各地に広がり、マインツやフランクフルトをはじめ、ケルンやアウクスブルク、ニュルンベルク、エアフルト、そしてライプツィヒが続いた。

グーテンベルクが初めて印刷した『42行聖書』。聖書のテキストを活版印刷によって黒一色で刷り、色文字や飾り文字などは後から手描きで追加されているグーテンベルクが初めて印刷した『42行聖書』。聖書のテキストを活版印刷によって黒一色で刷り、色文字や飾り文字などは後から手描きで追加されている

活版印刷とは?

文字や記号を1文字だけ彫り込んだはんこのようなものを「活字」といい、それらを組み合わせた「版」(=活字組版)を使った印刷方法を「活版印刷」という。例えば「ドイツ」という単語を印刷する場合は、「ド」「イ」「ツ」という三つの活字を順番に並べて印刷用の版を作る。印刷が完了したら、組んだ版を再び解体して保管し、繰り返し使うことができる。

活版印刷とは?

ルターの宗教革命を後押し!
ドイツの印刷・出版業界が開花

グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、神学者マルティン・ルター(1483-1546)による宗教改革の追い風となったことでも有名だ。ルターは1517年、カトリック教会の腐敗を批判すべく、ヴィッテンベルク城教会の門戸に「95カ条の提題」を張り出した。これはラテン語で書かれていたが、彼の言葉はすぐにドイツ語に翻訳され、1517年末までにライプツィヒ、ニュルンベルク、バーゼルで出版された。

1520年ごろ、画家クラーナハ(1472-1553)が描いたルターの銅版画。ルターの人物画もまた、活版印刷によって多くの人に知れ渡った1520年ごろ、画家クラーナハ(1472-1553)が描いたルターの銅版画。ルターの人物画もまた、活版印刷によって多くの人に知れ渡った

ルターはその後、ライプツィヒの熟練出版社メルヒオール・ロッターと提携。1518年から21年までに、ルターの著作のうち100冊以上がライプツィヒで出版された。しかし1522年にカール5世がルターの帝国追放を宣言すると、ザクセンでも1519〜1539年にかけて宗教改革に関係する著作の印刷と取引が禁止に。一方でザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受けたルターは、潜伏先のヴァルトブルク城で聖書のドイツ語翻訳を進める。この聖書は、改稿を繰り返しながらルターの存命中に10万部以上が出版され、当時としては破格の大ベストセラーとなった。

ルターが翻訳し、1522年に出版したドイツ語版の新約聖書ルターが翻訳し、1522年に出版したドイツ語版の新約聖書

「本の街」の座を競い合った
フランクフルトとライプツィヒ

現在、ドイツの二大出版都市であるフランクフルトとライプツィヒ。両都市では毎年大規模なブックメッセが開催されているが、歴史的には500年以上も書籍の中心地として競い合ってきた。フランクフルトでは活版印刷機の発明からほどなくして、地元の書籍商人たちがメッセを開くようになり、早くも欧州の文学都市としての地位を確立。しかし宗教改革の影響を受け、神聖ローマ帝国はフランクフルトに検閲機関(Kaiserliche Bücherkommission)を置くことに。同機関は、帝国が崩壊する1806年まで存在し、印刷・出版業界の取り締まりが行われていた。

ライプツィヒで1650年に刊行された 世界初の日刊新聞「Einkommende Zeitungen」ライプツィヒで1650年に刊行された 世界初の日刊新聞「Einkommende Zeitungen」

フランクフルトでは特にカトリックに反する書籍に対する検閲が厳しく、それを嫌った出版業者の多くはライプツィヒへと移った。ザクセン選帝侯の図書委員会は、印刷の特権を統制するだけで内容の統制は行わなかったためだ。こうして1632年には、ライプツィヒ・ブックメッセの出品タイトル数が初めてフランクフルトを追い抜く。三十年戦争終結から2年後の1650年には、ライプツィヒで世界初の日刊新聞が発行されるなど、ドイツの印刷・出版の中心地の座を手に入れたのだった。

印刷所では、女性たちも重要な働き手だった印刷所では、女性たちも重要な働き手だった

近代の書籍取引の立役者
フィリップ・エラスムス・ライヒ

ドイツで近代的な書籍取引を推し進めたのが、ライプツィヒの出版業者フィリップ・エラスムス・ライヒだ。1745年に出版社ヴァイトマンシェ・ブッフハンドルングに入社したライヒは、作家や出版社の権利を保護するための法的条件の整備や、海賊版印刷の取り締まり、書籍の取引を物々交換から貨幣ベースへと変えていった。

またライヒは印刷物の品質やデザインに投資し、改良・増補した新版を数多く出版。ライヒが活躍したのとほぼ同時期の1764年には、書籍用に美しい銅版画の需要が高まったことから、ライプツィヒで「デッサン・絵画・建築アカデミー」(現ライプツィヒ版画・製本芸術大学)が設立された。

フィリップ・エラスムス・ライヒ(1717-1787)フィリップ・エラスムス・ライヒ(1717-1787)

二度の世界大戦と冷戦に苦しんだ
ライプツィヒの印刷・出版業界

グーテンベルクの発明から450年がたった1900年、ライプツィヒには出版社・書店848社、楽譜店113社、古書店44社、製本所201社、印刷所189社など、出版に関わる約1500社が集まっていた。1914年には、本の芸術性を世界に向けて紹介するため、ライプツィヒで「国際書籍商・グラフィック展」(Bugra)を初めて開催。世界22カ国から出展者が集まったが、第一次世界大戦の勃発によって早くも終焉(しゅうえん)を迎えた。

ライプツィヒ中心部に1898〜1901年にかけて建てられたドイツ書籍商会館(Deutsches Buchgewerbehaus)もまた、1943年の空襲で大きく損壊した-1787)ライプツィヒ中心部に1898〜1901年にかけて建てられたドイツ書籍商会館(Deutsches Buchgewerbehaus)もまた、1943年の空襲で大きく損壊した-1787)

そしてナチスが政権を握った1933年、ドイツ書籍商協会は抵抗することなく、ユダヤ人作家の書籍取扱停止や、ユダヤ人会員の排除を進めてしまう。こうした政治的・人種的迫害により、1938年までに5000社あったドイツの出版社は3500社に減少。さらに1943年12月3日、ライプツィヒの出版・印刷会社が集まる地区Graphisches Viertelが英国軍の爆撃を受け、約1000社が壊滅的な被害を受けた。そこから立ち直ることができないまま、ライプツィヒは冷戦時代に旧東ドイツ(DDR)へ組み込まれることに。多くの出版社が西側へと移り、ライプツィヒに残った38社(DDR全体で78社)は強制国有化された。西側のフランクフルトは期せずして、約200年ぶりにライプツィヒに代わり、ドイツにおける書籍取引の中心へと返り咲いたのだった。

1914年にライプツィヒで開催された国際書籍商・グラフィック展(Bugra)のポスター。同展は、デッサン・絵画・建築アカデミーの創立150周年を機に開催され、グラフィックアートの展示にも力を入れていた1914年にライプツィヒで開催された国際書籍商・グラフィック展(Bugra)のポスター。同展は、デッサン・絵画・建築アカデミーの創立150周年を機に開催され、グラフィックアートの展示にも力を入れていた

急速に変化した印刷技術と
変わらない活版印刷の美しさ

ベルリンの壁が崩壊し、1991年に再統一されたドイツ。ライプツィヒは本の街として再出発すべく、同年にブックメッセと合わせて文学フェスティバル「ライプツィヒ・リースト」を開催。1963年から実施されていた「世界で最も美しい本コンクール」も、1991年からブックメッセに組み込まれ、印刷・出版文化の復興に努めた。そして現在では、春にライプツィヒ、秋にフランクフルトのブックメッセが恒例となり、この時期には世界中から多くの人が集まっている。

印刷・出版業界が激動の歴史を経験した一方で、グーテンベルクの活版印刷技術は、細かな改良こそあったものの、1930年ごろまで基本的な構造は変わらなかった。しかし20世紀後半には活字鋳造の機械化が一般的になり、さらに写真技術を応用した写真植字機やオフセット印刷機も登場。やがてパソコン上で文字組みからデザインまで全てを行えるようになり、熟練の職人によるさまざまな工程が不要になった。さらにインターネットや電子書籍が普及した今、印刷・出版業界は再び大きな変革期を迎えている。

1985年、アップル社が開発したプリンターとMac専用ソフトを組み合わせることで、デザインから印刷まで全てを行うデスクトップパブリッシング(DTP)が可能になった1985年、アップル社が開発したプリンターとMac専用ソフトを組み合わせることで、デザインから印刷まで全てを行うデスクトップパブリッシング(DTP)が可能になった

そんななか活版印刷は、デジタル印刷にはない 「文字」の存在感やへこみ、風合いや質感など、世界中のアーティストやデザイナーにとって今なお魅力的な存在だ。また現在では、デジタルデータから版を作成できるなど、活版印刷の表現の幅も広がっている。こだわり抜いて作られた活版印刷の美しさは、これからも変わらぬ存在感を発揮し続けるのだろうか。その答えを探しに、以下ではライプツィヒ印刷博物館を訪ねる。

ライプツィヒ印刷博物館では、館内の印刷機を使ってアーティストの作品制作を行うレジデンスプログラムも実施しているライプツィヒ印刷博物館では、館内の印刷機を使ってアーティストの作品制作を行うレジデンスプログラムも実施している

熟練の印刷職人に聞いた伝統的な印刷技術を守り続ける理由

パソコン1台で誰もが手軽に印刷やデザインをできるようになり、手工業による印刷職人の仕事はどんどん減少した。そんななかライプツィヒ印刷博物館では、熟練の職人たちが古い印刷機を丁寧にメンテナンスして動かし続けている。ここで働くトマス・クルツさんに、旧東ドイツ時代の印刷職人としての生活や、現在の博物館での仕事、そして伝統的な印刷技術を受け継ぐ意義を聞いた。(写真:ドイツニュースダイジェスト編集部)

お話を聞いた人

Thomas Kurz

ライプツィヒ印刷博物館職員
トマス・クルツさん

博物館では、精工に造られた印刷機をクルツさんをはじめとする職員が日々手入れする博物館では、精工に造られた印刷機をクルツさんをはじめとする職員が日々手入れする

クルツさんはライプツィヒ印刷博物館で、どんな仕事をしていますか?

印刷機械の掃除やメンテナンスをはじめ、印刷博物館で開催する展覧会のポスターや案内状の印刷、博物館のショップで販売する紙のプロダクトの制作などです。ほかには、来館者に機械を動かして見せたり、子ども向けの見学ツアーを開催したり、文字組みと印刷のワークショップの講師も行っています。

また印刷博物館では、ここにある機械を使ってグラフィックアーティストの作品制作にも協力しており、その際に技術的なアドバイスや作品づくりの補助をすることもあります。

クルツさんが制作した、3500個の「k」の活字を組み合わせた包装紙。印刷博物館のショップで販売しているクルツさんが制作した、3500個の「k」の活字を組み合わせた包装紙。印刷博物館のショップで販売している

そもそも印刷に関わる仕事に就いたきっかけは?

私はザクセン州エルツ地方にあるザイフェンという村の出身で、1910年に曽祖父がこの地域で印刷工場を創業し、父もその経営をしていました。そのため若い頃の私にとって、印刷職人になるのは自然なことだったように思います。

1982〜1984年まで、ケムニッツからほど近い街で植字工(Setzer)の修行をしました。植字工とは、活字のパーツを一つひとつ集め、単語や行など印刷物のテキストを組んでいく役割。この技術の習得には通常2〜4年かかります。修行後は実家の工場で働き、1991年に父から家業を引き継ぐことに。この印刷工場は2008年12月まで稼働していました。

ザイフェンの印刷工場では、どんな印刷物を制作していましたか?

始業は毎朝7時。活字の鋳造をはじめ、文字組み、注文された商品の印刷、完成したものをお客様に届けるのが日課でした。エルツ地方にあるホテルや観光施設の印刷物、教会の会報や感謝状、それにグリーティングカードの制作なども請け負っていました。

ちなみにザイフェンは、くるみ割り人形をはじめとする木工のおもちゃの産地として有名で、おもちゃの箱に貼るラベルや、おもちゃの取扱説明書などもうちの工場で印刷していましたよ。

旧東(DDR)ドイツ時代に大変だったことは?

DDR時代、印刷物は全て行政の承認が必要でした。さらに、請求書に記載された「印刷承認番号」(Druckgenehmigungsnummer)を完成した印刷物にもプリントしなければいけません。また教会の会報などに印刷される内容や催し物については、事前に検閲が入り、承認が降りた後は絶対に内容を変更することができませんでした。あとは、希望通りの紙が割り当てられるまでにとても時間がかかるので、お客さんは注文してから印刷物が届くまで3週間くらい待つ必要がありました。

ベルリンの壁が崩壊した後、仕事や生活に変化がありましたか?

DDR時代はなかなか新しい機械を購入できませんでしたが、再統一後の1991年に初めてパソコンとオフセット印刷機を買いました。当時で言うと、一戸建ての家を購入するのと同じくらいお金がかかりましたね。それまでは8ページの教会の会報を作るのに1日がかりでしたが、新しい機械だとずっと速く、ずっとカラフルに印刷物を作れるようになったのです。

経営者としては、DDR時代よりも自由度が高まったと感じました。しかし90年代末には自宅用のパソコンやプリンターが普及し、印刷業界も斜陽に。妻がライプツィヒ出身だったこともあり、2008年に引っ越すことにしました。そして運良く、印刷博物館での仕事が決まったのです。業務内容は多岐にわたりますが、博物館での今の仕事がとても気に入っています。

印刷物の需要が減りつつある今、伝統的な印刷技術を後世に伝える意味とは?

この博物館の最大の特徴は、ほとんど全ての機械が、その時代の無言の証人としてではなく、実際に動く様子を来館者に見てもらえることです。機械を見て説明を読むだけでは、その機械がなぜ造られ、どのような仕組みで動くかを知ることはできません。特に、子どもたちにこれらの印刷機を知ってもらうことはとても重要です。そうでなければ、いずれこの技術は忘れ去られ、印刷の歴史の美しさも忘れ去られてしまうのではないでしょうか。

グーテンベルクが活版印刷を発明したことで、より実用的に、より速く情報を拡散することができるようになりました。そしてパソコンやスマートフォンが登場し、そのスピードがさらに速まっています。そう考えると、デジタルが活版印刷に取って変わるのは当たり前の流れかもしれません。確かに今の時代、活版印刷は時間がかかりすぎる。しかし、デジタルの情報がすぐに流れていってしまうのに比べて、すごく時間をかけて作ったものは、相対的に長くこの世界に残るのではないかと思います。

「Museum für Druckkunst Leipzig」(ライプツィヒ印刷博物館)という文字を組んでいくクルツさん。活字を拾い上げるスピードがとにかく速い!

クルツさんが案内する印刷博物館の見学ツアー

インタビューの後、博物館にあるさまざまな機械を動かして印刷技術の面白さを教えてくれたクルツさん。ここでは、そのほんの一部をご紹介する。気になる方は、ぜひ実物を体験しにライプツィヒ印刷博物館へ!

ライプツィヒ印刷博物館

ライプツィヒ印刷博物館

書籍印刷と出版の伝統を持つライプツィヒで、1994年にオープンした印刷技術・文化の博物館。四つのフロアに約90台の印刷機が設置され、数世紀にわたる印刷とメディアの歴史をじかに体験することができる。もとは1919年に創業した旅行関係の出版社Dr. Karl Meyer GmbHの建物で、1953〜1991年まで旧東ドイツ政府に強制国有化されていた。博物館では、職員による機械のデモンストレーションをはじめ、活版印刷を自分で体験できるコーナー、リトグラフやレタープレスなどのワークショップにも参加可能。3階のギャラリーでは、シーズンごとに印刷をテーマにした企画展が開催されている。ミュージアムショップでは、博物館の機械を使って作ったノートや本、活字なども購入できるのでぜひチェックしてみて。

Museum für Druckkunst Leipzig
Nonnenstr. 38, 04229 Leipzig
www.druckkunst-museum.de

Columbia Pressコロンビア印刷機

製造元:Clymer Et Dixon(ロンドン、1842年製)

19世紀初頭に英国のゲオルク・クライマーが設計した活版印刷のプレス機で、機械の総重量は3トンほど。膝の関節のようなレバーの機構を取り入れたことで、グーテンベルクの時代と比べて、より均等に圧力をかけることができるようになった。まずは組んだ版を台に置いてインクを付け、その上に紙を載せる。その後、レバーを手前に引くことで上から圧力をかけて印刷する仕組みだ。この機械を使って、旧東ドイツ時代のメッセのマスコットキャラクター、「メッセメンヒェン」のイラストをプリントしてもらった。

コロンビア印刷機

Linotype"Rossia N7"ライノタイプ「ロシア N7」

製造元:Werk für Polygraphische Maschinen(レニングラード、1967年製)

活字を一文字ずつ鋳造するのではなく、横一行を丸ごと鋳造できる機械「ライノタイプ」。こちらはロシア製で、ライプツィヒの新聞社が実際に使用していたものだという。旧東ドイツ時代は、文字組みや版の鋳造にロシア製の機械が主に使われていた。キーボードの文字を打つと、真鍮(しんちゅう)製の文字の型がセットされ、そこに鉛を流し込んで版を作るところまでが自動で行われる。クルツさんの粋な計らいにより、実際に「News Digest」という版をこの機械で鋳造してもらうことに。マシンのダイナミックな動きと、金属がぶつかる時に奏でられる美しい音色、そして出来上がった版は感動ものだった。

ライノタイプ「ロシア N7」

Handgießinstrument手動の活字鋳造器具

製造元:不明(20世紀中頃製)

グーテンベルクによって、15世紀半ばに開発された手動の活字鋳造の器具。19世紀半ばに自動化されるまでは、この方法で活字を作っていた。鉛合金を火で熱して溶かし、十分な柔らかさになったら杓子(しゃくし)を使って、器具に挟まれた鋳型に直接流し込む。すると合金がすぐに固まって活字が出来上がる。活字の鋳造には、鉛に少量のスズとアンチモンを加えた合金を使用しており、この配合はグーテンベルクの時代からほとんど変わっていない。ちなみに熟練の職人であれば、これを使って1時間に100個程度の活字を鋳造することができるという。

手動の活字鋳造器具

ドイツの印刷よもやま話

学問と音楽の街ならではの出版社ブライトコプフ社とレクラム社

ライプツィヒといえば、学問と音楽の街でもある。ライプツィヒ大学では文豪ゲーテや哲学者ニーチェ、メルケル元首相が学び、音楽ではバッハやシューマン、ワーグナーらにゆかりが深い。こうした文化の醸成にも、ライプツィヒの印刷・出版業界が重要な役割を果たしていた。

まず有名なのが、現存する世界最古の楽譜出版社ブライトコプフ。可動式活字による楽譜の印刷を発明したヨハン・ゴットロブ・ブライトコプフが1719年にライプツィヒで創業し、ハイドンやベートーヴェン、ブラームスなどの楽譜をリアルタイムで出版していた。当時はブライトコプフ社を中心に、世界で出版される楽譜の半分以上がライプツィヒで印刷され、ドイツの楽譜彫刻家の9割がライプツィヒに仕事場を構えていた。

楽譜彫刻家が彫った版で印刷した楽譜楽譜彫刻家が彫った版で印刷した楽譜

黄色いカバーの「レクラム文庫」でおなじみのレクラム社も、ドイツの学問を支えてきた出版社の一つ。貸本業者のアントン・フィリップ・レクラムが1828年に創業し、1867年創刊のレクラム文庫は、日本の岩波文庫のモデルになったといわれる。文芸・哲学・自然科学・社会科学など、安価で誰でも手に取れる文庫本シリーズは、ドイツ語圏の人々にとって重要な知識のよりどころとなってきた。なお第二次世界大戦後は、本社は西ドイツのシュトゥットガルト、さらに近郊のディッツィンゲンに移っている。

ドイツの本屋でよく見かける「レクラム文庫」のコーナードイツの本屋でよく見かける「レクラム文庫」のコーナー

ドイツで20世紀まで使われた中世生まれの書体「フラクトゥーア」

ドイツの古い本や看板などで、インクのペンで手書きをしたような独特の書体を見たことがあるかもしれない。この書体は、写本やカリグラフィーの書体をもとにした活字体「ブラックレター」の一種で、16世紀初頭に誕生した「フラクトゥーア」(Fraktur)という。多くの欧州諸国では早い段階で衰退したが、ドイツ語圏ではフラクトゥーアが20世紀まで使われ続けていた。

20世紀にはナチスが、ほかの西洋諸国と差別化するため、伝統的なフラクトゥーアを正式なドイツ語の書体に制定。1936年には60%の出版物がこの書体で印刷され、学校でもこの筆記体のみが教えられた。ところが1941年、ナチスは一転してフラクトゥーアの使用を禁止。理由は諸説あるが、戦時下にドイツが占領した地域では多くの人がフラクトゥーアを読めなかったことや、接収した他国の印刷所の多くがフラクトゥーアの活字を持っていなかったからともいわれている。

フラクトゥーアは現代のアルファベットと似て非なるため、慣れていないと判読が難しいフラクトゥーアは現代のアルファベットと似て非なるため、慣れていないと判読が難しい

戦後すぐは、多くのドイツの印刷業社が資金不足で新しい活字を買えず、フラクトゥーアの活字を使って印刷物を制作していた。やがて経済復興に伴い、ナチスや帝政時代を思い起こさせるフラクトゥーアは新聞や書籍から姿を消していったという。現在は、ドイツの伝統を表すフォントとして新聞のタイトルやレストランのメニュー、食品ラベルなどに使われることも多い。

最終更新 Donnerstag, 08 September 2022 11:24
 

ドクメンタ15を観に行こう!

5年に一度の現代アートの祭典ドクメンタ15を観に行こう!

ドイツ中部の都市カッセルで、5年に一度100日間にわたって開催される大規模な現代アート展「ドクメンタ」。15回目となる今回は、ドクメンタ史上初めてアジア出身のアート・コレクティブが芸術監督に選ばれ、これまでにない芸術祭の形で注目を集めている。特集では、そんなドクメンタ15を楽しむためのさまざまなヒントをお届けする。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

Documenta 15

「アートではなく友だちをつくろう」現代美術展のイメージを覆すドクメンタ15

ドクメンタとは?

もとはナチス政権によって「退廃芸術」の烙らくいん印を押されたモダンアートの回復と、第二次世界大戦の被害を大きく受けた復興を目的に始まった。第一回目は1955年にカッセルの芸術家で教育者のアーノルド・ボーデの主導で開催されたが、1975年のドクメンタ5以降はその都度異なる芸術監督を選出。その時代に問いを投げかけるような強いテーマ性を持った国際現代アート展となっている。

ドクメンタ15の芸術監督「ルアンルパ」

ドクメンタ15の芸術監督「ルアンルパ」

ドクメンタ15には、インドネシアのアート・コレクティブの「ルアンルパ」が芸術監督に選ばれた。東アジア出身者で、かつグループが選ばれるのはドクメンタ史上初だ。ルアンルパは2000年、表現の自由と集会の自由が厳しく制限されていたスハルト政権末期に美術学校で学んでいた学生たちが結成。アートスペースの運営をはじめ、展覧会やワークショップなどを通して、インドネシアの都市生活や文化的課題にアプローチしてきた。

2020年には、ドクメンタ15のためにルアンルパのメンバーのうち2人がカッセルに移住。彼らが掲げるモットー「Make friends, not art」(アートではなく友だちをつくろう)のもと、地元カッセルとの親交を深めてきた。またドクメンタ15には、アート界のスターではなく、主にグローバル・サウス(アフリカ、アジア、南米など、資本主義のグローバル化によって負の影響を受ける人々や場所)のアーティストやコレクティブを67組招待。その多くがカッセルに長期滞在し、展示やパフォーマンスだけでなく、庭の手入れや食事会、カラオケの夕べ、美術館内のスケートボード場や野外サウナなど、想像力に溢れた場所を創り出している。アーティスト同士の交流やカッセルでのプロジェクトは、ドクメンタ15の閉幕後も続いていく予定だ。

反ユダヤ思想をめぐる論争も

オープニング直後の6月21日、反ユダヤ主義と批判された作品が布で覆い隠されるという異例の措置が取られた(写真下)。問題となったのは、インドネシアのタリン・パディが2002年に発表した垂れ幕の作品「People’s Justice」(人民の正義)。インドネシア軍事政権下での困難を他国の戦争や暴力と結びつけて批判的に表現した本作には、イスラエルの国家情報機関のメンバーや、SS(ナチス親衛隊)の帽子を被った人物などが描かれていた。

「People’s Justice」(人民の正義)「People’s Justice」(人民の正義)

ルアンルパやタリン・パディは声明を出し、反ユダヤ主義との関係を否定した上で、作品によって傷ついた人々への謝罪を述べた。作品はその後撤去され、ほかの出展作も改めて審査されるという。また今後、連邦政府からドクメンタに資金提供すべきでないとの意見や、それに対して「芸術の自由」の侵害ではないかという懸念も。6月29日には「芸術における反ユダヤ主義」と題したパネルディスカッションも行われたが、それ以降も一部アーティストが展示を自主的に取りやめるなど、論争の着地点は見えていない。

しかし、こうした混乱の影にドクメンタ15のエネルギーに満ちた空間が覆い隠されてはならない。非欧米圏を中心とするアーティストたちの視点を通して、西欧中心では見えにくい差別や社会問題に光を当てること、そして新たな世界の捉え方を提示することこそが、ドクメンタ15が目指すところなのだから。整然と並べられた作品を鑑賞するだけではなく、世界各地のコレクティブは、あらゆる体験を通して人々と語り合うよう来場者をいざなっている。

参考:www.documenta-fifteen.de 、The New York Times「Documenta was a whole vibe. Then a scandal killed the buzz.」、Süddeutsche Zeitung「Antisemitismus-Eklat im Mittelpunkt: documenta geht weiter」

ドクメンタ15をひもとくキーワード

ドクメンタ15では、コンセプトやアートに取り組む姿勢を表す、さまざまな言語のキーワードを掲げている。それは「英語が世界共通語」という西欧中心の考え方から距離を置き、ほかの文化圏の価値観から学ぼうとする姿勢でもある。ここではその一部を解説する。

KEY1ルンブン Lumbung

インドネシア語で共有の米倉のこと。同国では、農家が収穫して余った米をルンブンに貯蔵し、共同体で分け合うという。ルアンルパは、この言葉をドクメンタ15の中心的なコンセプトとし、さまざまな資源やエネルギー、資金、アイデア、知識などを共有し、分け合うことをテーマとした。ドクメンタ15の参加アーティストやコレクティブは、ルンブン・メンバーおよびルンブン・アーティストと呼ばれる。

KEY2マジェリス Majilis

アラビア語で、共同体の重要な問題を決定するための集会を指す。ドクメンタが始まる前からドクメンタチームや参加アーティストを集めたマジェリスや、小さなグループに分かれてのミニマジェリスが何度も開かれ、アイデア交換や重要な決定を行うほか、参加者同士の交流を深めた。

KEY3ノンクロン Nongkrong

インドネシア語のスラングで、仲間とぐだぐだおしゃべりしたり、お酒を飲んだりすること。インドネシアには昔から根付いている習慣で、ぶらぶらと時間を過ごすなかで自然な交流が生まれるという。ルアンルパはドクメンタ15の楽しみ方として、来場者にもこの方法を勧めている。

ドクメンタ15の必見会場6選

ドクメンタ15では、中心部のミッテ地区や緑豊かなフルダ地区をはじめ、ノルトシュタット地区、工業地域のベッテンハウゼン地区など、市内に点在する計32カ所で展示が行われている。そのなかでも、特におすすめの会場と作品をピックアップ。

INFORMATION
開催期間:2022年6月18日(土)〜9月25日(日)
開催時間:10:00〜20:00
チケット:1日券27ユーロ(19ユーロ)、2日券45ユーロ(32ユーロ)、夜間入場券12ユーロ(8ユーロ)、ファミリー券60ユーロ、全期間券129ユーロ(104ユーロ)
※かっこ内は割引価格
www.documenta-fifteen.de

ドクメンタ15 MAP

ルルハウス1. ruruHaus

ruruHaus MAP

ドクメンタ15の「リビングルーム」とされているruruHausは、もとは1950年にオープンしたデパートだった場所。ドクメンタ15のオープン前から、ここでアーティストたちによる会議や食事会などが行われ、期間中も展示はもちろん、シンポジウムやワークショップ、ディスカッションなどさまざまなイベントが催される。ドクメンタの案内所をはじめ、書店やカフェ、スマートフォンなどの充電ステーションも完備されているので休憩場所として利用するのも◎。

Obere Königsstr. 43, 34117
www.ruruhaus.de

フリデリチアヌム2. Friederichianum

Friederichianum

Friederichianum

Friederichianum

ドクメンタのメイン会場の一つ。ドクメンタ15では、フリデリチアヌムに「Fridskul」(Fridericianum als Schule、学校としてのフリデリチアヌム)という新たな名前を付け、さまざまな教育の可能性を探るという。作品の展示だけでなく、アーティストたちの居住・作業スペースやキッチン、図書館、子ども向けのワークショップスペースや託児所などもあり、「学びの場」として機能する。アジアやアフリカ各国のコレクティブによる、さまざまな国の芸術的・政治的活動を記録したアーカイブを観ることができるほか、アボリジニの主権を守るために闘う人々のイメージが鮮やかな色彩で描かれた、リチャード・ベルの絵画作品も必見。

Friedrichsplatz 18, 34117

ドクメンタハレ3. Documenta Halle

Documenta Halle

Documenta Halle

Documenta Halle

ドクメンタハレへの入り口は、さびたトタン屋根でできた構造物になっている。これはナイロビのコレクティブWajukuu Art Projektによるもので、ここをくぐると彼らのインスタレーションがナイロビのストリートノイズと共に現れる。キューバ出身のタニア・ブルゲラを中心とするINSTARは、一党独裁が続くキューバ政府から厳しい検閲を受けたアーティストらの作品を展示。ドクメンタという国際展を通して、表現の自由や社会平等を守るための切実な声が世界に届けられる。ほかにもバングラディシュのアーティスト集団Britto Arts Trustによる大壁画をはじめ、タイのコレクティブBaan Noorg Collaborative Arts & Cultureによるスケートボード場では誰でも滑ることができるなど、圧巻の大型作品が並ぶ。

Du-Ry-Str.1, 34117

4. WH22

WH22

会場は19世紀にワインショップ「グンデラッハ」の本社ビルとして建設され、その後はクラブやバーが軒を連ねるナイトライフの中心地だった所。パレスチナのコレクティブThe Question of Fundingは、ガザ地区のアーティスト集団Eltiqaと展覧会を共同で企画。彼らは開催前には反ユダヤ主義の疑惑をかけられたが、実際に展示がスキャンダルになることはなかった。またトリニダード・トバゴのAlice Yardは、100日間のレジデンスプログラムを実施。9人の招聘アーティストがここで生活し、カッセル各地の会場で作品を展開する。

ハーフェン通り765. Hafenstraße 76

Hafenstraße 76

カッセルにはかつて貨物輸送のための港があり、古い産業用の建築が多く残るエリアがある。1907年に建てられたHafenstraße 76の建築もその一つで、9組のアーティストが作品を展示。数あるインスタレーションの中でも注目したいのが、ベルリンのグラフィックアーティスト、Nino Bullingによるドローイング作品だ。シルクに描かれたシンプルな線の中に、クイアの人たちの情緒溢れる愛の物語が広がっている。ベルリンで活動する3人組のコレクティブFehra's Publishing Practicesは、冷戦時代の公文書を訪ねる3人の女性を題材にしたフェミニズムの物語『Borrowed Faces』を、コミカルなフォトノベルで展開する。

Hafenstr. 76, 34121

ヒュブナー社跡地6. Hübner-Areal

Hübner-Areal

ベッテンハウゼン地区は、ドクメンタ15が新たに会場にした工業地域で、この建物はバスや列車などの部品を製造するヒュブナー社がつい最近手放した場所。マリからは世界的に有名なフェスティバルを立ち上げたFondation Festival sur le Nigerが参加し、マリの伝統的な操り人形をはじめ、コンサートや演劇、映画などを展示。会場内に張られたテントには円形のクッションを並べた団だんらん欒空間が広がり、アーティストらや来場者でティータイムを楽しめる。またJatiwangi art Factoryは、屋根瓦や石のインスタレーションを展示するほか、音楽ライブやパフォーマンス、ディスカッションなどを通じて展示ホールを活性化させる。

Agathofstr.15, 34123

知ればもっと世界が広がる注目すべきアーティスト&コレクティブ

ドクメンタ15が世間を驚かせたことの一つは、スターアーティストがほとんど参加しておらず、世界各地でローカルに活動するコレクティブが招待されたことだった。メイン会場以外にも、ぜひドクメンタで観るべきアーティスト&コレクティブをご紹介する。

インドネシアAgus Nur Amal PMTOH

Agus Nur Amal PMTOH

インドネシアのストーリーテラー、Agus Nur Amal PMTOH。ドクメンタ15の記者会見では、自作の段ボール製テレビと一緒に登場。カッセルの子どもたちとのワークショップをもとに作ったフルダ川の未来についての歌を歌い、喝采を浴びた。グリムヴェルトでは、そんな彼の色彩豊かで遊び心いっぱいのインスタレーションが広がり、生き生きとした物語の世界をさらに楽しめる。

展示場所:Grimmwelt Kassel(Weinbergstr. 21, 34117)

ウガンダWakaliga Uganda

Wakaliga Uganda

Wakaliga Ugandaはウガンダの貧民地区を拠点とする映画制作チームで、超低予算(推定200米ドル)で制作されたアクション映画で知られる。ドクメンタハレの一番奥には、自作の映画ポスターがたくさん貼られた暗い廊下が続き、そこを抜けると彼らの長編映画が上映されている。低予算で制作されたとは思えない、華麗なるアクションと驚きのストーリー展開に爆笑・感動必至。

展示場所:Documenta Halle(Du-Ry-Str.1, 34117)

ベトナムNguyen Trinh Thi

Nguyen Trinh Thi

ハノイ出身の映画監督Nguyen Trinh Thiは、フルダ川近くの旧砲塔にインスタレーションを設置。ベトナム北部の収容所を描いた自伝的小説『Chuyen ke nam 2000』の一場面をモチーフに作られた空間で、暗い通路を通り抜けると、円形の部屋の壁に映る影の戯れが目に飛び込んでくる。哀愁を帯びた柔らかなフルートの音色は、北ベトナムの森で吹く風によって奏でられているもの。

展示場所:Rondell(Johann-Heugel-Weg, 34117)

ケニアThe Nest Collective

The Nest Collective

ナイロビのThe Nest Collectiveは、カールスアウエ公園に古着で造られた小屋を立て、中では古着のビジネスに関わる人たちのインタビューが上映されている。映像の中では、欧米のファストファッションへの飢えがいかにアフリカ諸国の犠牲になっているかが印象的に語られる。古着の小屋の周囲には、古い電化製品のゴミの塊も置かれ、先進国での無秩序な消費に対して警鐘を鳴らす。

展示場所:Karlsaue(An der Karlsaue)

ハイチAtis Rezistans|Ghetto Biennale

Atis Rezistans|Ghetto Biennale

ベッテンハウゼン地区にある聖クニグンディス教会は、1927年にコンクリートで建てられ、第二次世界大戦の空襲からも無傷であった建築だ。ハイチのアート集団Atis Rezistansはここで、ハイチのブードゥー教やスピリチュアリティーをテーマにした彫像とサウンド作品を展示。むき出しの教会の魅力と、彼らのインスタレーションが見事に調和する様に、思わず息をのむ。

展示場所:St. Kunigundis(Leipziger Str. 145, 34123)

INTERVIEW

日本からのドクメンタ15参加アーティストCINEMA CARAVAN & 栗林隆

CINEMA CARAVAN & 栗林隆

ドクメンタ15に日本から唯一参加している、CINEMA CARAVAN&栗林隆。ドクメンタの期間中、カッセル各所で地元のハーブを使ったサウナ「元気炉」や映画上映会、DJ、バーなどを展開する。彼らがドクメンタに参加した経緯や、オープニングを迎えた今の思いを聞いた。

PROFILE

栗林さん(左)と志津野さん(中央)栗林さん(左)と志津野さん(中央)

CINEMA CARAVAN
志津野 雷 Rai Shizuno

写真家、CINEMA CARAVAN主宰。「地球と遊ぶ」をコンセプトに、写真家やミュージシャン、大工、料理人らと共に移動映画館プロジェクトを、ホームである逗子海岸映画祭をはじめ、世界のさまざまな場所で実施している。
https://cinema-caravan.com

栗林 隆 Takashi Kuribayashi
日本の美術大学を卒業後、カッセルやデュッセルドルフなどで12年間暮らす。「境界」をテーマに数々の大掛かりなインスタレーションを制作。2005年から逗子、2013年からはインドネシアでも活動。
www.takashikuribayashi.com

これまでの歩みがドクメンタへの道に

CINEMA CARAVANの志津野雷さんと栗林隆さんが出会ったのは2007年、核燃料の再処理工場がある青森県六ヵ所村を旅した時のことだった。そこでの二週間の旅は、今回のドクメンタ参加につながる原点でもあると二人は語る。

志津野:僕をはじめとする逗子のサーファー仲間は、海や自然から恩恵を受けているので、六ヵ所村で出る汚染水に対して疑問を感じていました。再処理工場で何が起こっているのか自分たちの目で確かめたいとの思いから、青森へ向けてキャンプをしながら北上し、それぞれの場所で上映会やトークを開催。隆くんはドイツから日本に帰国して1年くらいのころで、共通の友人を通じてこの旅に参加してくれました。現在に続く仲間たちにも、その時に出会っています。

その後、志津野さんはCINEMA CARAVANを仲間たちと立ち上げ、栗林さんもアーティストとしての活動を続けていた。そして2013年、栗林さんはインドネシアに拠点を構えることになり、現地でドクメンタ15の芸術監督ルアンルパと知り合う。地元コミュニティーとつながりながら活動するルアンルパは、CINEMA CARAVANの活動とも共鳴する部分が多い。そのため栗林さんの紹介で志津野さんもインドネシアへ行ったり、逆にインドネシアのチームを逗子に招待したりと、ゆるやかな交流が続いた。

栗林:ルアンルパがドクメンタ15の芸術監督に決まったという話を聞いたのはコロナ禍中のことで、僕自身はちょうど原発の形を模したサウナ「元気炉」をつくり始めたころでした。西欧中心や資本主義的なアートの在り方が行き詰まりつつある今、アート界のど真ん中の人ではなく、彼らのようなコレクティブが選ばれたことが、すごく誇らしくて痛快で。「僕らもルアンルパを応援しにカッセルへ行こう」と、志津野とも話していました。そうしたら2年後くらいに、ルアンルパのメンバーから直接、「隆とCINEMA CARAVANをドクメンタ15に招待したい」と連絡が来たのです。

「移動式」と「蚊帳」のアイデア

CINEMA CARAVAN & 栗林隆

こうしてドクメンタへの参加が決まり、カッセルでの滞在を重ねながら構想を練っていくが、肝心の展示場所がなかなか見つからなかった。そこで思い付いたのが、自分たちがこれまでやってきたように、場所を選ばない「移動式」のキャラバンを行うことだった。

栗林:移動式にするなら、できるだけ軽く作る必要があります。そこでひらめいたのが「蚊かや帳」を使うこと。「蚊帳の外」という言葉は、日本だけでなくアジア各国にもある表現ですが、ルアンルパのようにアート界の中心から「蚊帳の外」だと思われていた人たちが、今回芸術監督として「蚊帳の中」に入ってきているし、僕らもまたドイツに来れば「蚊帳の外」の人間です。ルアンルパの「Make friends, not art」というモットーのように、今度は僕らが蚊帳を立てて、その中に「蚊帳の外」の人たちをどんどん迎え入れることで、友だちをつくろうということになりました。

オープンの約1カ月前にカッセル入りしてからも、展示場所の決定をはじめ、作業スペースや材料・工具の確保などに苦戦。さらに食当たりになり、3日間寝込むという災難に見舞われた二人……。そんなピンチを救ったのも、かつてドイツで紡いだ縁だった。

栗林:今回のドクメンタで展示の現場監督を務めているのが、なんとかつてカッセルの美大で一緒に学んだ同級生でした。28年ぶりの再会を喜びつつ、現状を伝えたところ、僕たちにの制作に必要なものを全て手配してくれて。あれは本当に助かりました。

志津野:この話もそうですが、今回ひしひしと感じたのは、これまでの僕たちの活動、ドイツ、日本、インドネシアでの小さなコレクティブの物語が、お互いを引き寄せ合ったりつないだりしてくれたということ。過去のさまざまな縁が、僕たちにここまでの道を提示してくれたように思います。

CINEMA CARAVAN & 栗林隆

キャラバンが運んでくる自由気ままな「オアシス」

そうして迎えたオープニングの日、薄い蚊帳(かや)をまとったオープンエアのハーブサウナ「元気炉」や映画上映会、バー、DJ ブースが集まる心地よい空間がカールスアウエ公園に現れた。空が薄暗くなってきたころにぽっと明かりがともり、さまざまな国からのアーティストや来場者、散歩で公園を訪れた市民たちが集まってくる。心地よい音楽や映像が流れ、サウナの中でも知らない人同士が語り合ったりと、自然と人の交流が生まれていた。

栗林:オープンから数日を経て、今回のドクメンタで僕らに託されている部分がなんとなく見えてきました。それは「シリアスにならないこと」(笑)。ドクメンタでは政治的なメッセージや現在起きている論争はもちろん、来場者に考えることを求める作品も多い。それは大切なことですが、一時そういうことを忘れて、心の底から笑ったり話したり感じ合えるような場所って、実はとても重要なのではないかと。

志津野:ドクメンタが激しいメッセージを出せば出すほど、僕たちのこういうポジションが大事になってくる。自分たちがただ気楽に楽しんでる空間が、ドクメンタ15にとってもいい響きになっていると、オープンから数日で手応えを感じています。

キャラバンは移動式のため、最初はカールスアウエ公園で始まり、次はフリードリヒ広場、ハーフェン通り76に移動。そして次にどこへ行くかは、風の赴くままに決めていくという。

栗林:次の移動場所をどこにするかは、今の設営が終わってから考えようかなと。僕たちの作品に遊びに来た人の話を聞くと、「CINEMA CARAVANのサウナ最高だぞ!」といううわさを聞いたという人が多くて。だけどある日突然、その場所がまっさらになって何も無くなっている。「もういなくなっちゃったの?」「あれは何だったの?」と話しながら、次どこに僕らが現れるか、みんながワクワクしながら待っている。その感じがなんだか面白いです。

栗林さんがカッセルで剣道を教えていた教え子とも、28年ぶりに作品の前で偶然再会したという栗林さんがカッセルで剣道を教えていた教え子とも、28年ぶりに作品の前で偶然再会したという

カッセルの街にふと現れる、不思議なエネルギーに満ちた空間。そこで人々が笑い語り合い、そして心を休める様子は、まるで長い旅路の中で出会うオアシスのようだ。ドクメンタ15を訪れる際は、ぜひ彼らが運んでくる温かなひとときを楽しんでほしい。

最終更新 Dienstag, 27 September 2022 10:49
 

10年に一度村人たちが演じるオーバーアマガウ「キリスト受難劇」

ペストの時代からコロナ禍の現代へ10年に一度村人たちが演じるオーバーアマガウ「キリスト受難劇」

新型コロナウイルスのパンデミックが宣言された2020年、バイエルン州の小さな村で予定されていた重要な行事が中止となった。約400年前にペストが流行して以来、この村で10年に一度上演されてきた「キリスト受難劇」(Passionsspiele)である。2年の延期を経て、ついに今年5月から開催される運びとなった。コロナ禍を生きる私たちにとって、このキリスト受難劇はどのような意味を持っているのだろうか。バイエルン州オーバーアマガウを訪ねた。(取材・文:見市知、取材協力:ドイツ観光局、森本智子)

迫力満点のイエス・キリストの磔刑(たっけい)シーン迫力満点のイエス・キリストの磔刑(たっけい)シーン

村人が神に立てた誓い

オーバーアマガウは、バイエルン州のガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡にあるのどかな村オーバーアマガウは、バイエルン州のガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡にあるのどかな村

400年にわたってキリスト受難劇が演じられ続けてきた村、オーバーアマガウの人口は約5400人。美しいアルプスの山並みを背景にした絵本のような風景が広がるこの村は、木彫り細工の手工業の伝統が息づいている。かつて多くの人が読み書きができなかった時代、そして聖書がまだラテン語で書かれていた時代に、この村で造られるキリスト像やマリア像、聖書の場面をかたどった彫像は、人々のよすがだった。この地方の家々に描かれている伝統的なフレスコ画も、雄弁に聖書の物語を語っている。

そんなオーバーアマガウのキリスト受難劇は、次のようなナレーションで幕を開ける。「1632年、この村にペストがもたらされた。大いなる苦しみと恐怖を生み出したこの病に対して、村の代表たちは神に誓いを立てて10年に1回、キリストの十字架の悲劇を演じることを決めた。それ以来、この村からは一人も死者が出なかった」

この受難劇の特異なところは、舞台に立つ全ての俳優が村人であること。舞台に立つ資格を得るためには、「この村で生まれたこと」か「この村に20年以上住んでいること」が条件だ。以前はカトリック教徒であることなども条件に入っていたが、今ではこれは撤廃されている。

アルプスの山並みを背景に、建物に描かれた美しいフレスコ画が映えるアルプスの山並みを背景に、建物に描かれた美しいフレスコ画が映える

今年舞台に立った村人の数は、子どもたちも合わせて約1800人。これは村人の3人に1人に当たる。10年に1回の重要行事のため、全ての出演者は日程をやりくりし、大学を休学したり会社の勤務時間を減らしたりしてもらうのだそうだ。

イエス役に選ばれる条件は?

今回ダブルキャストでイエス・キリストを演じたフレデリック・マイエットさんにお話を聞いた。1980年にオーバーアマガウの木彫り職人の家に生まれたマイエットさん。普段はミュンヘンの劇場に勤めており、プレスを担当している。2010年にもイエス役を演じており、私生活では2児の父親だ。

実はこの村には、10年に一度の受難劇だけではなく、毎年夏に村人総出でさまざまな演劇を演じる伝統がある。子どもたちも6歳くらいから舞台に立って演劇に親しむので、もはや演劇をすることが生活の一部になっているという。

今回2度目の大役を務めるマイエットさんに、イエス役に選ばれる条件を伺った。「演技力があって、外見がイエス・キリストのイメージに合っていることくらいではないかと思います。特別すぐれた模範的な人間である必要はないし、信仰も問われません」

配役が決まると受難劇のリハーサルの一環で、主要な役を演じる俳優たちは10日間イスラエルを訪れる機会があるそう。そこで彼らは聖地エルサレムを直に見て、イエス・キリストについて深く考察し、役作りを深めていく。「イエスは傑出した人物で、新しい思想をこの世にもたらしました。『あなたの隣人を自分を愛するように愛しなさい』という言葉を、もし全ての人が実践できたならば、この世はもっと良い場所になるはずです」

現代における受難劇の意味

受難劇の脚本は時代とともに改編が加えられ、現代ではよりイエスの人間性に焦点を当てた演出になっている。「人間が持つごくありふれた喜怒哀楽の感情や葛藤、肉体の限界や弱さをイエスも持っていたのだということを伝えたい」とマイエットさんは語る。

受難劇冒頭。イエス・キリストがエルサレムに入城する場面受難劇冒頭。イエス・キリストがエルサレムに入城する場面

受難劇は二部構成で、上映時間は計5時間。演劇の場面の合間に歌唱シーンが入り、舞台美術が入れ替わり、壮大なスケールで物語は進んでいく。舞台上にはロバをはじめ、ハトやウマ、ラクダまで本物の動物たちが登場し、彼らも物語の一部として見事な役割を演じている。そして何より、舞台に立つ村人たちが「演じている」ことを忘れさせるような自然さで、演劇というよりは本当に聖書の場面を目撃しているような、リアルな空間がそこに現れる。

大工の子としてこの世に生を受け、真理と愛の言葉を伝え、多くの人に救いをもたらしたイエス。しかし、時の権力者やユダヤ教を信仰する人々から受け入れられず、最後は十字架上で惨殺されてしまう。しかし彼の死後、その言葉と精神は世界中に広まり、欧米社会の精神的基盤を形作った。

マイエットさんは、現代において受難劇を演じ続けることの意味を、このように説明してくれた。「イエスは教会の権威を批判し、神の愛を説きました。戦争や貧困、病気……私たちは今もこれらの問題に直面していますが、その答えはイエスの言葉の中に全て入っているのです。これは信仰の有無や宗派の違いを超えて、全ての人が聞くべきメッセージだと思います」

「これからの400年もこの受難劇は演じられ続けるでしょう」とマイエットさん。村人たちによって紡がれ続ける伝統を、ぜひ自分の目で観に行ってみてはいかがだろうか。

劇場は舞台部分がオープンエアーになっている劇場は舞台部分がオープンエアーになっている

基本情報

■ 上演期間
2022年5月14日(土)~10月2日(日) ※月曜・水曜は休演

■ 上映時間(二部構成)
5月14日(土)~8月14日(日)
1部:14:30~17:00 2部:20:00~22:30

8月16日(火)~10月2日(日)
1部:13:30~16:00 2部:19:00~21:30
■ 上演場所
Passionstheater Oberammergau
Othmar-Weis-Str. 1, 82487 Oberammergau

■ 公式ホームページ
www.passionsspiele-oberammergau.de

受難劇を観に行きたい!鑑賞のためのQ&A

Q 受難劇はドイツ語で上演される?

ドイツ語のみの上演で、外国語字幕はなし。演出家による約30分の無料解説(毎日10:30~英語、11:15~ドイツ語)がある。シナリオはドイツ語、英語、スペイン語、フランス語版が購入できる。

Q 今からでもチケットは購入できる?

チケットは引き続き販売中(7月11日現在)。上演期間中は、現地の宿泊の空きが少なくなっているが、宿泊とセットになったチケットもある。詳しくは公式ホームページをチェック!

Q 聖書の知識はあった方がいい?

あった方がより深く受難劇を理解できる。特に新約聖書の『ヨハネによる福音書』を読んでおくと、ストーリーを追いやすくなるのでおすすめ。また、映画「パッション」や「ジーザス・クライスト・スーパースター」などを事前にチェックしておくのも◎。

Q 現地までのアクセスは?

鉄道のローカル線を乗り継いで行けばミュンヘンから2時間、アウクスブルクからは3時間程度。なお上演期間中は、特別許可がない場合は車でオーバーアマガウの中心部には入れない。少し離れた場所に駐車場があるため、そこからシャトルバスで移動する。

最終更新 Dienstag, 19 Juli 2022 11:58
 

ドイツに足跡を残した森鴎外

森鴎外没後100年ドイツに足跡を残した森鴎外

2022年7月9日で、明治時代を代表する文豪・森鴎外がこの世を去ってちょうど100年になる。文学者としてだけではなく、軍医や評論家としても活躍してきた鴎外。その功績の裏には、ドイツでの留学経験があった。そんなドイツに足跡を残した鴎外をこの地で長く広めてきた人物がいる。ベルリン森鴎外記念館を立ち上げた一人、ベアーテ・ヴォンデさんだ。不思議と鴎外の生き方とも重なる人生を歩んできたヴォンデさんに、そのエピソードと鴎外の魅力をお話いただいた。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、インタビュー:中村真人)

1916年に撮影された森鴎外1916年に撮影された森鴎外

森鴎外ってどんな人?

1862年、森鴎外(本名:林太郎)は津和野藩(現島根県鹿足郡津和野町)の典医だった森家の長男として生まれた。10歳のときに父と一緒に上京すると、ドイツ語を学び始めた。その後、最年少で東京医学校予科(現東京大学)に入学し、1881年に卒業する。軍医となった鴎外は、軍における衛生学の研究のため、1884~1888年にドイツへ留学した。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンの4都市をまわり、ベルリンでは細菌学者のロベルト・コッホのもとで学んでいる。

帰国から1894年に開戦する日清戦争までの6年間は、軍医および作家として熱心に活動。『舞姫』をはじめとしたドイツ三部作が世に送り出されたのも、この頃のことである。1889年には一人目の妻・赤松登志子と結婚して子を授かったものの、すぐに離別した。そして、日清戦争の勃発により、鴎外は軍医として朝鮮、満州、台湾へと赴いた。

帰国後は、1902年に二番目の妻・荒木志げと結婚。日露戦争(1904~1905年)が終わると、1907年に軍医としての最高職である陸軍軍医総監・陸軍医務局長に任命される。日本軍に腸チフスのワクチンを導入し、かっけ病調査会を設立するなど貢献した。一方で、医務局長になったのを機に文学活動を全面的に再開させ、翻訳や現代小説を次々に発表。1912年、明治天皇が崩御し、乃木将軍の殉死をきっかけに歴史小説に転換した。

1916年には陸軍を退職したが、翌年には宮内省帝室博物館総長兼図書頭となった。晩年は史伝の執筆に取り組み、1922年7月9日、萎縮腎と肺結核により60歳でその生涯を閉じた。

参考:ベルリン森鴎外記念館ホームページ、国立国会図書館「近代日本人の肖像」

Interviewわたしと鴎外の人生

もともと森鴎外には興味を持っていなかったというベアーテ・ヴォンデさん。しかし、その人生は不思議と鴎外とリンクする部分があった。その共通点をたどりながら、鴎外の魅力を深掘りする。

お話を聞いた方

ベアーテ・ヴォンデさん

ベアーテ・ヴォンデさん
Beate Wonde

ベルリン森鴎外記念館元副館長兼キュレーター。ブランデンブルク州グーベン出身。現在はフリーランスでキュレーションを担当するほか、講演会出演などで各地を飛び回っている。ヴォンデさんが企画した鈴鹿墨の展覧会「The making of: Suzukazumi」が、バイエルン州ヴュルツブルクのシーボルト博物館で10月16日(日)まで開催中。
https://beatewonde.de

鴎外が生きたベルリンの街で

ベアーテ・ヴォンデさんから待ち合わせ場所に指定されたのは、ハッケシャー・マルクト駅から近いモンビジュウ・ホテルだった。『舞姫』で主人公の太田豊太郎の下宿先として描かれている「モンビシュウ街」と重なる。路面電車の音が響くなか、ヴォンデさんが鴎外の生きた時代のベルリンに誘う話をしてくれた。

「モンビシュウ街」はMonbijoustraßeと訳されることが多いのですが、あの向こうに「モンビジュウ通り」ができたのは鴎外が帰国した1904年になってからなので、このモンビジュウ広場(Monbijouplatz)がモデルになっていると見るべきでしょう。ではなぜ鴎外はこの広場を太田豊太郎の住まいとして選んだのか。実はここ、ベルリンでの鴎外の三つ目の下宿先からほど近く、広場の3番地にはシュプリンガー出版社があり、1階は直営の書店だったのです。鴎外文庫(東京大学附属図書館にある鴎外の蔵書)には彼が所蔵していたこの出版社の本が2冊あります。どちらも郵便、電灯といった技術に関する本。鴎外は鉄道、車、飛行機といった科学技術と人間の関係に深い興味を抱いていました。これもまた一つの興味深いテーマです。こうして現場に立って、当時の地図を開くと、『舞姫』の印象もちょっと変わってくると思いませんか。

20世紀初頭のモンビジュウ広場20世紀初頭のモンビジュウ広場

東ドイツ時代、ブランデンブルク州のグーベンに生まれ育ったヴォンデさんは、1973年にベルリン・フンボルト大学に入学した。「私はど田舎出身の椋鳥(むくどり)だったので、外の世界を知ろうと外国語を何か勉強しようと思いました」。くしくも、東独と日本の国交が樹立したこの年、彼女が選んだのは日本学、そして演劇だった。

急に日本からお客さんがやって来て、でも日本語ができるのは数人だけ。それで私も1年時からバスツアーのガイドなどに駆り出されました。「これがテレビ塔、あちらが外務省です」と、まだこのぐらいしか話せない頃です。でも、何かを伝えたいというミッションの意識はとても強く、私とベルント先生、学生たちみんなが高い意識を共有していました。

ユルゲン・ベルント(1933〜1993)は当時フンボルト大学日本学科の教授で、彼との出会いはヴォンデさんにとって運命的といえるものだった。このベルント教授が後にベルリン森鴎外記念館を設立することになるのだが、時の針はヴォンデさんが学生だった頃からさらに10年ほどさかのぼる。鴎外の生誕100年に当たる1962年から65年ごろにかけて、日本では「鴎外ルネサンス」と呼ばれる動きがあった。研究が活発になり、ゆかりの地の東京都文京区に鴎外記念室(現在の文京区立森鴎外記念館の前身)が設立された。その頃、東ベルリンに滞在していたのが哲学者、評論家の篠原正瑛(1912〜2001)だった。

ベルント先生は若い頃から翻訳活動も熱心で、ちょうど東京五輪の頃、東ベルリンに滞在していた篠原さんと一緒に夏目漱石の『坊ちゃん』(ドイツ語名:Der Tor aus Tokio)をドイツ語に翻訳しました。篠原さんは鴎外ファンでもあり、『独逸日記』に出てくる場所を歩いて、どこに何が残っているかをつぶさに調べたのです。すると、鴎外のベルリンでの最初の下宿先だったルイーゼン通りとマリーエン通りの角の建物が戦災を免れて残っていた。「これは両国にとっての文化遺産」と考えた2人は、ドイツと日本の両方から働きかけ、それにより1966年に記念プレートが設置されました。その頃、ベルント先生は『舞姫』の翻訳も始めました。私の大学時代、先生とコーヒーを飲んでいたら、「いつか鴎外の記念館を作りたい」とおっしゃっていたことを覚えています。

もっとも、ヴォンデさんは「当時私が興味を持っていたのは鴎外ではなく、演劇でした」ときっぱり言う。当時、東独と日本の文化、経済交流は極めて活発で、刺激には事欠かなかった。フンボルト大学を卒業後の1979年から1年半、文部省奨学生として早稲田大学に留学する機会に恵まれた。この異文化体験は、ヴォンデさんにとって重要な意味を持つことになる。

鴎外の時代、一般の日本人が外国に行けなかったように、東ドイツ時代も、西側の外国に行くというのは特権的なことでした。だから、その経験を東ドイツ社会に還元することは、私たちの義務だと捉えていました。この点で鴎外と私は、共通します。鴎外が『独逸日記』を書いたように、私も毎週最低20〜30枚の手紙を書いていました。私が東独の友だちに手紙を送ると、皆で集まってそれを読んだそうです。今日は何を食べて、何を読んだか。外国の匂いや日常生活を伝えようと必死でした。何をやっても日記を書き、メモを取らなくてはという情熱がありました。それが自分に還かえってきて、道になるのです。

夜中に芝居が終わると、その後おでんをつくったり、お酒を飲んだり、朝帰りしたりと……。この日本での経験は私の泉になりました。鴎外もそうでしょう。4年間のドイツ留学時代は、彼の後の活動の全ての土台となりました。

今はお金さえあれば日本に行ける時代ですが、私が学生だったときは5年間ドイツで日本語を勉強して、日本に着いてからようやく日本語が分かる。鴎外は10歳からドイツ語を学んでいました。船でマルセイユに渡り、ケルンの駅に列車が到着したときに彼はやっとドイツ語を理解するのですが、その気持ちはよく分かります。

ミュンヘンに留学していた時の森鴎外(後方左から2番目)ミュンヘンに留学していた時の森鴎外(後方左から2番目)

森鴎外記念館の職員としてスタート!

1981年にベルリンに戻った後、大学で日本演劇の講師になる予定だった。しかし、講師のポストそのものがカットされてしまう。その頃、ベルリン森鴎外記念館のオープンが近づいていた。恩師のベルント教授から「しばらく働いてみないか」と誘われたこともあり、心が動かされた。1984年10月12日、鴎外のドイツ留学100周年に合わせて、森家や鴎外記念室の代表者も招いて盛大なオープニング式典が行われた。ヴォンデさんはフンボルト大学附属の記念館唯一の常勤職員となる。

ちょうど日本留学から帰ってからこの仕事を始めたこともあり、鴎外のドイツ留学が記念館での私の最初の研究テーマになりました。鴎外は私の「初恋」ではなく、「見合い結婚」のようにして始まりましたが、歳を取るにつれ鴎外がどんどん面白くなってきたのです。私が50歳になったとき、鴎外が50歳で書いた作品に夢中になりました。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツがあっという間に統一した。大学も含め社会システムが劇的に変わり、森鴎外記念館の存続も先行き不透明となる。その一方、壁が開いて日本から記念館を訪れる人の数は激増した。

壁崩壊後、多くの日本人観光客がベルリンにやって来て、壁跡と合わせて、記念館を見学に訪れるようになったのです。あの当時、年間8000人ぐらいの訪問者のほとんどが日本人だったと思います。記念館の前にバスの停留場があるほどでした。

ヴォンデさんは2020年5月に定年で退職するまで、森鴎外記念館副館長兼キュレーターを長きにわたって務めた。展覧会や講演会の企画展示も、彼女にとって大きなやりがいになったという。

私は学者ではないですし、一つのことを掘り下げるよりもいろいろなことに興味がある。木の幹よりも枝なんですね。これまで日本語を習い、演劇を専攻し、文学は常に私の中心。歴史の調査にも興味がある。それらの希望を全て実現できるのが森鴎外記念館でした。例えば、鈴鹿墨がどうやって作られるかとか、日本のマンホールのデザインをテーマにした展覧会をやったこともあります。スペースは狭いけれど、あちこちにネットワークを張って、次はどんな展覧会をやろうかと考えるのは楽しかったです。ドイツの文学ネットワークや博物館の世界でも森鴎外記念館はすでによく知られています。

鴎外の生きざまに自身を重ね合わせて

軍服に身を包む森鴎外(1899年撮影)軍服に身を包む森鴎外(1899年撮影)

多岐にわたる活動を、ヴォンデさんは鴎外とも重ね合わせる。熱く語るその話からは、鴎外という人のもつ驚くべき多面性と卓越した啓蒙者としての顔が見えてくる。

鴎外は軍医が本職でしたが、隣には常に別の世界がありました。文化的、思想的な世界です。両方あると、いつでもどこかに逃げることができます。彼は軍医の仕事をこなしつつ、文学に勤しみ、本職でない方で有名になりましたよね。実際、今も生きた存在であり続けているのは文学のおかげだと思います。

鴎外は初めて腸チフスのワクチンを行ったり、最初の衛生雑誌を出したり、医学者として良いことをたくさんやっています。同性愛や性教育についても書いており、私はまだ研究したいテーマがいっぱいありますよ。鴎外のすごいところの一つは、同じ問題について専門家同志のために学術的に書くと同時に、一般の人にも分かるように適切な言葉で伝えられたこと。例えば、牛乳を飲んだら健康に良いか悪いかを衛生雑誌で学問的な記事を書き、同時に読売新聞に誰でも分かる記事を寄稿したのです。

今のコロナ時代を鴎外はどう考えたかなと思います。彼の時代にはかっけの問題がありましたが、未知の病気の究明には数十年かかることもあります。後からこれはダメ、あれは間違いだったと言うのは簡単ですが、もっと過程を見るべきだと思います。もし鴎外が1日だけ今の時代に遊びに来ることができるなら、聞いてみたいことがたくさんありますね。

コロナ禍直前の2020年1月、ヴォンデさんが森鴎外記念館で最後に企画したのは書道展「百折不回(ひゃくせつふかい)」。「何度失敗しても諦めないこと」という鴎外の言葉は、そのままヴォンデさんの生きてきた道ともどこかで重なり合う。記念館の母体であるフンボルト大学への感謝をこう語った。

森鴎外記念館が設立されたときはどこに属するのかはっきりしておらず、ベルリン市の施設になる可能性もありました。もともとベルント先生のヴィジョンとイニシアティブで始まり、先生自身も日本文学の翻訳者だったので、やはり大学に残した方がいいのではないかとなりました。この記念館は再来年(2024年)に設立40周年を迎えます。何度か存続の危機はありましたが、フンボルト大学がお金を出し続けてくれていることに感謝しなければなりません。外国の文学者のための施設にずっと予算を出し続けていて、ドイツ語と日本語の2カ国語で展示している。すごいことだと思いますよ。

そして、森鴎外記念館を訪問された多くの方々との交流も私の財産です。ここでは誰が入口のベルを鳴らすか分かりません(笑)。鴎外研究者から若い旅行者まで、実に多種多様な方から質問を受けました。「鴎外はチョコレートが好きだった」という話を聞いて自分で調べてみたり、その場で答えられないときは後で手紙を書いてお返事をしたり……。互いに影響し合い、学び合う。それは私の研究の刺激になりました。

2011年6月、天皇陛下(当時皇太子)がベルリン森鴎外記念館を訪れた際、ヴォンデさんが案内役を務めた2011年6月、天皇陛下(当時皇太子)がベルリン森鴎外記念館を訪れた際、ヴォンデさんが案内役を務めた

「ベルリン森鴎外記念館は全ての森鴎外記念館のお姉さんです」とヴォンデさんはユーモアを込めて語る。ゆかりの地である文京区立森鴎外記念館(2012年開館)、津和野の森鴎外記念館(1995年開館)よりも古い。まず外国で森鴎外記念館が生まれ、鴎外の母国での活動に刺激を与えた。ヴォンデさんは日本の森鴎外記念館でも講演を行うなど、「互いに影響し合い、学び合う」関係は今も続いている。2021年秋、そんなヴォンデさんに日本政府から旭日双光章が授与された。「ドイツにおける日本文化の紹介および日本・ドイツ間の相互理解の促進に寄与」したというのが受章理由だった。

ちょうど実家のあるグーベンに滞在中、日本大使館から連絡が届きました。グーベンは国境の町で、ナイセ川の対岸はもうポーランドです。子ども時代に立っていた原点といえる場所で受章の知らせを受けたのはうれしかったですね。私の遠くへの憧れはここから始まったからです。当時、小学校に行くため毎日鉄道の踏切を越えなければなりませんでした。貨物列車やワルシャワ行きの列車を眺めながら、あの先にはどういう世界があるのかと思いを巡らせました。境界を超えて、遠くに行きたい……。

鴎外というペンネームはカモメから取られていますよね。「おりがあっても外に出ることができる。それを助けるのは精神世界である」とは、鴎外からの最も重要なメッセージだと思います。鴎外を通じて、数多くのユニークな経験ができたことに私は感謝しています。

Info

ベルリン森鴎外記念館

ベルリン森鴎外記念館
Mori-Ôgai-Gedenkstätte

鴎外がベルリンで最初に住んだアパートと同じ建物内にある記念館。常設展のパネルには白木や和紙が使われ、鴎外の文学とその多面性を紹介している(日独併記)。19世紀当時の下宿の内装を再現した部屋も。没後100年を記念して7月14日(木)の記念式典を皮切りに、さまざまなイベントを企画中。詳しくはホームページへ。

オープン:火・水・金12:00~16:00、木12:00~18:00
住所:Luisenstr. 39, 10117 Berlin
URL:http://u.hu-berlin.de/ogai

ヴォンデさんおすすめ鴎外作品5選

「鴎外の古い文体のテキストを読むのは時に苦労します。でも、何回読んだ作品でも視点を変えて読むことで、彼の作品からはいつも新しい見方を得られるのです」とヴォンデさん。鴎外の多彩な作品の中から、おすすめの5作品を選んでいただいた。

1.『妄想』(1911年)

鴎外の没後100年の機会にまずおすすめしたいのが、50歳の鴎外が自身の人生を振り返って書いた『妄想』という短編作品です。ベルリン時代についての印象的な記述もあります。

2.『高瀬舟』(1916年)

高瀬川を下る船に、役人と弟を殺して遠島に送られる男が乗っています。役人は地位と金を手にしていますが、内面的には幸福ではありません。一方、愛する弟のために、病気で苦しむ彼の自死を助けてしまった男は、とても幸せそうに見えます。この作品はよく安楽死問題と結び付けられますが、私にとっては幸福とは何かを問いかけてくる大好きな作品です。

3.『じいさんばあさん』(1915年)

ある仲睦まじい夫婦がいました。子どもにも恵まれますが、夫は傷害罪を犯して左遷されてしまいます。実に37年ぶりにこの夫婦は再会するのですが、最初の頃と変わらない愛を持ち続けており、すっかり歳を取った2人の互いへの接し方がすてきです。男女平等の観点からも優れた作品だと思います。

4.『大発見』(1909年)

鴎外のユーモアに出会いたかったら『大発見』を読むべきです。なんと「ヨーロッパの人びとは鼻をほじるのか」が主題で、鴎外がドイツ滞在中に直面した問題が大真面目に論じられます。

5.『花子』(1910年)

哲学や人種の違い、さらに「日本人女性の美とは何か」という主題を語るため彫刻家のロダンを登場させるなど、短い中に多くの要素を盛り込んだ卓越した作品です。鴎外はベルリンの日刊紙の小記事からヒントを得て、この短編を一気に書き上げました。


『ちくま日本文学017 森鴎外』

『ちくま日本文学017 森鴎外』
著者:森鴎外
発売元:筑摩書房

『妄想』、『高瀬舟』、『じいさんばあさん』、『大発見』が収録された森鴎外の短編集。

最終更新 Mittwoch, 03 August 2022 09:13
 

この夏はドイツの海へ出かけよう

ドイツにだってビーチはある!この夏はドイツの海へ出かけよう

ドイツの水辺と聞いて、まず思い浮かぶのは河川や湖。真夏といえどもギラギラと太陽が照り付けることが少ないこの国にいると、南方の海への憧れが強くなりがちだが、ドイツにも魅力的なビーチが存在する。北海もバルト海も、北部ではあるものの、実は夏季には晴れの日が多い温暖なリゾート地。コロナ規制も解除され、いよいよ旅行シーズン本番に向けて、そんなドイツの海の魅力をたっぷり紹介する。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:本誌979号「この夏、北海・バルト海へ」、www.nordseetourismus.dewww.ostsee-schleswig-holstein.de

この夏はドイツの海へ出かけよう

Nordsee北海

北海

ノルウェー、デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、英国の島々に囲まれた海。ドイツ国内の北海沿岸地域は、ニーダーザクセン州とシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州にまたがり、海岸の長さは約1300キロメートルに及ぶ。北海を象徴する光景は、フリースラント地方の干潟。1990年代までは、ドイツから北海へ出て、北欧諸国との国境地帯の非関税ゾーンで食品やタバコ、蒸留酒、香水などを買う「Butterfahrt」(バター航海)というツーリズムが行われていた。

北海のおすすめビーチ

Syltズュルト島

ズュルト島

スイスの人気作家クリスティアン・クラハトのデビュー作 『Faserland』(1995)の舞台となった北フリースラント地方最大にしてドイツ最北端の島。錨(いかり)型の特徴的な形で、東側には干潟があり、西側の砂浜は38キロメートルにも及ぶ。延々と続く海岸に点在する無数のシュトラントコルプはこの島の風物詩。
www.sylt-tourismus.de

Borkumボルクム島

ボルクム島

湾流が温風を運び込んでくるため、1年を通して晴れの日が多く、温暖な気候が特徴の島。26キロメートルに及ぶボルクムの海岸はのんびりと散歩するのにぴったり。ミネラルたっぷりの潮風で新陳代謝を促し、リフレッシュできる。海水のパワーを利用したタラソテラピーを体験できる施設も充実。
www.borkum.de

Cuxhavenクックスハーフェン

クックスハーフェン

エルベ川河口にある街で、北部で話される低地ドイツ語では「Cuxhoben」(クックスホーベン)と呼ばれる。海水浴はもちろん、裸足で干潟を歩いたり、海岸で馬車に乗ったり、温水プールで泳いだりと、年間を通して楽しめるスポット。漁業が盛んな街なので、ハンブルクの台所にもなっている。
http://tourismus.cuxhaven.de

そのほかの見どころ

Leuchtturm Arngastアルンガスト灯台

アルンガスト灯台

赤と白に塗られた灯台は、海辺の光景に欠かせないものの一つ。ヤーデブーゼン(Jadebusen)の入り江の中洲に立つアルンガスト灯台は、1910年にヴィルヘルムスハーフェン一帯を照らすために建造された。北海で最も伝統のある灯台として、文化財建造物にも指定されている。

Wattenmeerワッデン海

ワッデン海

オランダ、デンマーク、ドイツの三カ国にまたがる水域と湿原。北欧でも希少な動物・鳥類・植物相の豊かな生息地として、2009年に世界自然遺産に登録された。ドイツ国内ではニーダーザクセン、ハンブルク、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの3州が、当該地域を国立公園に指定して管理している。
www.nationalpark-wattenmeer.de

Deutsches Auswandererhaus Bremerhavenブレーマーハーフェンの国外移住者博物館

ブレーマーハーフェンの国外移住者博物館

海上交易といえば、物流に焦点が当てられがちだが、海辺は人が出入りする場所でもある。ブレーマーハーフェンは、大航海時代から1890年までに約1200万人が米国へ旅立った起点。この国外移住者博物館では、各移住者の家族構成から渡米の理由、名前の由来まで、その歴史をたどることができる。
www.dah-bremerhaven.de

Ostseeバルト海

リューゲン島

スカンジナビア諸島に囲まれた海洋で、ドイツのバルト海沿岸地域はメクレンブルク=フォアポンメルン州とシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州にまたがり、海岸の長さは2247キロメートル。西海岸には、バルト海が現在の地形になったとされる、氷河期における氷河の衝突の跡が氷堆積などの形で残っている。この地域で、造船業と並んで最も盛んな産業は観光業。特に7〜8月は1年で最も多くの旅行者でにぎわう。シリヤラインやステナラインなどのバルト海クルーズも好評を得ている。

バルト海のおすすめビーチ

Rügenリューゲン島

リューゲン島

935キロ平方メートルに上るドイツ最大の島。ドイツ本土の街シュトラールズントと橋で結ばれており、フェリーで渡ることも可能。富裕層が集まる高級リゾート地としても有名で、島を囲む約60キロメートルの海岸には、ヌーディストビーチ(FKK)や、犬を連れて入れる場所、ビーチスポーツができる場所などが点在している。
www.ruegen.de

Fehmarnフェーマルン島

フェーマルン島

20世紀を代表する表現主義画家のエルンスト=ルートヴィヒ・キルヒナーが毎年夏に訪れ、「地上の楽園」と褒め称えたといわれる島。国内で最も日照時間が長い場所の一つで、太陽の光が肥沃(ひよく)なバルト海に輝く様子から、1580年にはデンマーク王フリードリヒ2世から青地に金の王冠をあしらった封建旗を与えられた。
www.fehmarn.de

Kellenhusenケレンフーゼン

ケレンフーゼン

リューベック湾にあるケレンフーゼンは、海辺には人工の海水浴施設が完備されており、気軽にビーチを楽しみたいという人や、家族連れにもぴったり。海に背を向ければ、そこには586ヘクタールの広大な森が広がる。ビーチでひと泳ぎした後に、のんびりと自然散策を満喫するのもおすすめ。
www.kellenhusen.de

そのほかの見どころ

Leuchtturm Bastorfバストルフ灯台

バストルフ灯台

レーリック(Rerik)とキュールングスボルン(Kühlungsborn)という街の中間に位置する、バルト海沿岸にある七つの灯台の中で最も高い場所に立つ灯台。高さ20.8メートルのレンガ造りの灯台の展望台からは、天気の良い日にはフェーマルン島や、はるかデンマークの島々までが見渡せる。

OZEANEUM Stralsundシュトラールズントのオツェアネウム

シュトラールズントのオツェアネウム

海洋博物館と水族館が一緒になったオツェアネウムは、2010年に欧州最優秀美術館賞を受賞したシュトラールズントの人気スポット。北海とバルト海、北大西洋をテーマにした常設展のほか、さまざまな魚や甲殻類、ペンギンなど海の仲間たちに会える。展示ホールに吊るされた等身大のシロナガスクジラの模型は圧巻だ。
www.ozeaneum.de

HANSA-PARK Sierksdorfハンザ・パーク・ジールクスドルフ

ハンザ・パーク・ジールクスドルフ

広大な海を眼前に、潮風を感じながら絶叫マシーンに乗って大はしゃぎ!リューベックの入り江に広がる約46ヘクタールのテーマパークには、大人も子どもも楽しめる計70のアトラクションのほか、季節ごとに花木が植え替えられる庭園も。パレードやサーカスなどのプログラムも充実している。
www.hansapark.de

ドイツのビーチをもっと楽しむ海辺での過ごし方

休暇の目的地を海にするからには、海辺ならではの滞在を満喫したいもの。どこに泊まるか、何をして遊ぶか、何を食べるか……。ドイツのビーチをもっと楽しむためのヒントを伝授する。

ビーチで見かけるあの椅子

泊まる

Strandkorb(シュトラントコルプ、「浜辺の籠」の意)は、ドイツのビーチで必ず見かける独特な椅子。砂浜にいくつも並べられ、各々がくつろいでいる様子は夏の風物詩でもある。1882年にロストックの籠細工職人がリュウマチを患っていた女性のために作ったのがはじまり。柳の枝で編まれたシュトラントコルプは、彼女を浜辺の強い風と日差しから守ったという。その後瞬く間に人気となり、ドイツの海辺に欠かせない存在となった。ビーチによってはオンライン予約もできるので、ぜひ海へ出かけるときは利用してみよう!

泊まる

泊まる

旅の宿泊施設といえばホテルが定番だけれど、ハイシーズンは早めの予約が必須。長期間滞在する場合はペンションやバンガロー(Bungalow)、貸し別荘(Ferienwohnung / Ferienhäuser)などを利用するという手もある。予約のストレスを避けたいという人は、キャンピングカーを借りて行くのもおすすめ。北海・バルト海の海辺にも、車を止めて車内で寝泊まりできるキャンプ場(Campingplatz)が数多く存在するので、事前に目的地付近の適した場所を調べておこう。

泊まる

貸し別荘の検索サイト
www.traum-ferienwohnungen.de
www.strandurlaub-nordsee.com(北海)
www.ostsee-strandurlaub.net(バルト海)

キャンプ場の検索サイト
www.camping.info

食べる

食べる

ニシンのマリネのサンドイッチ

北海・バルト海地域で味わいたいのは、もちろん豊富な海の幸! 生ガキやカレイのフライ、ニシンのマリネのサンドイッチなどに加え、タラの幼魚やコイなども。伝統的な料理を試すなら、「 Schnüsch」はいかがだろうか。これはドイツ北部で夏に食べられる定番料理で、ジャガイモ、豆、グリンピース、ニンジン、クリームソースを基本に、タマネギやベーコン、ハム、若ニシンなど、地方によって異なる食材が入った煮込みスープだ。この地域に定住したゲルマン人によって食されていたことに起源を持つという。肉料理なら、特にリューゲン島の人々に親しまれている「Königsberger Klopse」(仔牛と豚のひき肉を使った肉団子のホワイトソースがけ)がおすすめ。ほかにも生クリームをたっぷり載せたラム酒入りのココア「Tote Tante」や、小さな丸い焼き菓子の「Futjes」、梅ムースと生クリームをパイ生地で包んだ「Friesentorte」など、デザートも思う存分楽しんで。

遊ぶ

遊ぶ

宿泊場所が決まったら、滞在中の遊びの計画もお忘れなく。ジェットスキーにウィンドサーフィン、スキューバダイビング、スノーケリング、ボート、ヨット…… 海でのバカンスの醍醐味の一つは、思う存分ウォータースポーツを楽しめること。ヨットはさまざまな種類のものがチャーター可能。ドイツの海でヨットに乗る体験は、生涯の思い出に残るはず。ほかにも干潟を散策したり、馬車に乗ったりと、海辺ならではのアクティビティーを満喫しよう。さらに旧市街地で美しい建築物を眺めたり、博物館で歴史を学んだりと、その島特有の歴史や文化に触れるのもおすすめ。

北海・バルト海の夏のイベント

北海

Wattolümpiade in Brunsbüttel泥オリンピック

泥オリンピック

干潟で泥んこ遊びをする風習がある北海のブルンスビュッテルで、「汚いスポーツは健全なこと」をモットーに2004年から毎年開かれている泥オリンピック。オリンピックという名が付くだけあって、本格的なスポーツ大会として定着しており、泥まみれになりながらハンドボールやサッカー、バレー、そりレース(干潟で使う木のそりを押して走る)など、真剣勝負が繰り広げられる。参加者はもちろん、観客も一体となって大いに盛り上がる大会だ。

2024年8月17日(土)
www.wattoluempia.de

北海

Husumer Hafentageフーズム港祭

フーズム港祭

今年で40周年を迎えるフーズム港祭。5日間の祭りの会期中、絵のように美しいフーズムの港を背景に、ポップスからロック、マーチングバンドや北ドイツの民族音楽まで、さまざまなスタイルのバンドの生演奏が披露される。街中が陽気な音楽で満たされるとともに、ストリートフードの屋台や観覧車、街中のツアー、港での綱引きなどのアクティビティーも満載。地元の人々も観光客も思いっきり楽しめる内容となっている。

2023年8月9日(水)~13日(日)
www.husum-tourismus.de

バルト海

Kieler Wocheキーラー・ヴォッヘ

キーラー・ヴォッヘ

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都キールで毎年1週間にわたって開かれる北欧地域最大の夏祭り。その起源は1882年に当地で開催されたセーリングレガッタといわれ、今なおセーリングはこの祭りの最大のハイライトだ。世界各国から約4000人のヨット操縦者が集まり、その腕を競う姿は壮観。花火や音楽ライブなどのプログラムが、お祭りムードをさらに盛り上げる。

2023年6月17日(土)~25日(日)
www.kieler-woche.de

バルト海

Hanse Sail Rostockハンゼ・セイル・ロストック

ハンゼ・セイル・ロストック

ハンザ時代の興隆の名残りを今に伝えるロストックで行われる世界最大級の帆船祭り。最新の大型帆船から現在では使われていない旧型帆船まで、約200隻の帆船が一同にバルト海上を帆走する。ハイライトは、ドイツで最も美しいセーリングエリアであるヴァーネミュンデで行われる伝統的な帆船「スクーナー」のレガッタ。観客が実際に乗って操縦できる体験プログラムも。約4キロの遊歩道では、バルト海地域の伝統工芸品や郷土料理を売る屋台のほか、移動遊園地も出現する。

2022年8月10日(木)~13日(日)
www.hansesail.com

バルト海の住人にインタビューフェーマルン島での生活はどうですか?

ここまでドイツの島の魅力をたっぷり紹介してきたが、実際のところ、島での暮らしはどのようなものだろうか?ライプツィヒからバルト海のフェーマルン島(p9)に移住して約1年のフィル・ベッカーさんに、島暮らしの魅力や都市生活との違いを聞いた。

お話を聞いた方

フィル・ベッカーさん

フィル・ベッカーさん
Phil Becker

島暮らし歴1年。仕事・プライベート共に、大好きなカイトサーフィンを満喫中。

Q1. 移住したきっかけは?

フェーマルン島に住み始めたのは転職がきっかけです。現在働いているのは、カイトサーフィン用品を扱う会社。インターナショナルに展開しているブランドですが、その拠点がフェーマルン島にあり、カイトサーフィン用品に関わるサービスや修理の提供、技術的な問題についてのお客様へのアドバイスなどを行っています。もともとカイトサーフィンが趣味で、さらにこのブランドの大ファンだったこともあり、この会社のウェブサイトで求人を見つけました。この仕事がなければ、フェーマルン島に引っ越すことはなかったと思います。

Q2. 都市と島での生活には、どんな違いがありますか?

まず、ライプツィヒに住んでいた時よりも自由な時間が増えました。自然の中にいつでも身を置くことができるし、森や湖へ行くために電車や車に乗る必要がありません。大好きなカイトサーフィンも、都市に暮らしていた時よりもずっと簡単に、そして頻繁に練習することができるようになりました。またフェーマルンのような小さな島では、皆が顔見知りです。もしご近所さんに赤ちゃんが産まれたら、3日後には島中に知れ渡っていますよ。

Q3. 島での生活で、大変なことはありますか?

唯一苦労しているのは、冬の時間です。多くの人でにぎわう夏に比べて、シーズンオフ中はほとんどの施設が閉まるため訪れる人も少なく、厳しい冬がやってきます。あとは、ほかの都市に住むパートナーや友人と会いたいとき、それなりに移動に時間がかかってしまうことも難点の一つです。

Q4. 都市と島では、どちらが生活費がかかりますか?

街中に住むよりも日常生活で必要になるお金は多いと感じます。例えば、都市に住んでいたときは車を持つ必要がありませんでしたが、田舎では車がないと大変です。フェーマルン島では、ガソリン価格は平均して1リットル当たり10〜15セントくらい高く、車の管理や維持にもお金がかかります。またレストランやスナックバーの価格帯も、街中よりも高いと思います。

Q5. 買い物に困ることはありませんか?

スーパーマーケットや市場、ドラッグストアなどがありますし、日常生活に必要なものは何でも買えます。一方で、洋服などのショッピングの機会はやや限られており、チェーン店や大きなショッピングセンターなど、全てがそろっているわけではありません。そんなときは車で買い物に行くか、特別なものが必要な場合はインターネットで注文することにしています。

Q6. 週末は何をして過ごしていますか?

週末はパートナーや友人と過ごすか、風がある日は水上でカイトサーフィンをします。フェーマルン島には、自分の趣味を思いっきり楽しめるビーチがたくさんあってうれしいです。また月に1〜2回程度は、島を離れて街へと出かけます。久しぶりに街を訪れると、インビス(軽食店)やクナイペ(居酒屋)が充実している都市を懐かしく思いますね。

Q7. 移住して約1年、フェーマルン島の魅力は?

フェーマルン島での生活は、とても牧歌的で静かです。夏になると、島にはたくさんの花が咲き、畑は菜の花の緑や黄色で染まります。暖かくなってくると、夏の期間中には多くの観光客が訪れますし、おいしいフィッシュサンドも忘れてはいけません。なんといっても新鮮な空気と太陽光のおかげで、いつでもポジティブな気持ちになることができます。太陽の光を浴びて、気分が良くならない人はいないのではないでしょうか?

最終更新 Dienstag, 23 Mai 2023 17:03
 

<< 最初 < 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 > 最後 >>
16 / 117 ページ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


Nippon Express ドイツ・デュッセルドルフのオートジャパン 車のことなら任せて安心 習い事&スクールガイド バナー

デザイン制作
ウェブ制作