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ザウアークラウトから納豆まで ドイツで楽しむ発酵食品

ドイツで楽しむ発酵食品

近年、世界的なトレンドとなっている発酵食品。ドイツでもコロナ禍以降、ドイツを代表する発酵食品であるザウアークラウトが再び注目を集めたほか、コンブチャやキムチ、そして日本のこうじをはじめとする発酵食品を楽しむ人が増えている。本特集では、そんなドイツの発酵食品ブームやザウアークラウトの背景を紐解くと共に、ドイツ在住の発酵ファンの方々にご協力いただき、さまざまな発酵食品を自宅で手作りする方法を聞いた。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:zdf heute「Super-Food - alte Technik, neuer Trend」 、Hogapage「Fermentation als neuer Foodtrend」、Der Feinschmecker「Fermentation: Milchsäuregärung ist wieder Trend」、NDR「Kimchi, Sauerkraut & Co: Wie gesund sind fermentierte Lebensmittel?」

健康促進&サステナビリティで注目! ドイツでもブームの「発酵食品」とは

そもそも発酵とは、酵母や乳酸菌、カビなどの微生物の働きを利用することで食品を加工する技術のこと。その歴史は古く、紀元前6000年ごろには中東で発酵飲料が作られていた記録が残っている。古代エジプトではパンやビール、古代中国では発酵させた豆や魚を使った調味料が広く普及していた。これらの技術は交易や移住を通じて広まり、ドイツのザウアークラウト、日本の味噌や醤油、韓国のキムチ、バルカン半島や中央アジアが発祥とされるヨーグルトなど、地域の気候や食材に合わせて多様な発酵食品が誕生してきた。

近年、そうした発酵食品は世界中で注目を集めている。その理由の一つが、腸内環境を整える働きだ。発酵食品にはプロバイオティクス(善玉菌)が豊富に含まれており、消化を助けたり免疫力を高めたりする働きがあるとされている。発酵過程で生成されるビタミンやアミノ酸は、栄養価を向上させるだけでなく、独特の風味を生み出す。

さらに、環境面でもサステナブルな食文化として評価されている。発酵は食品を長期間保存可能にするため、冷蔵保存や化学保存料に頼る必要が少ない。また、傷みかけた野菜や余剰作物を活用してピクルスやキムチ、ザウアークラウトに加工することで、冷蔵技術が普及する以前から食品ロスを減らす方法として利用されてきた。

ドイツではザウアークラウトやピクルスといった伝統的な発酵食品が長く親しまれてきたが、近年はこれらの伝統食品に加え、海外の発酵食品が新たなトレンドとして台頭している。キムチや納豆、コンブチャ(発酵飲料の紅茶キノコ)が人気を集め、多文化的な食の融合が進んでいる。このように発酵食品は伝統的・地域的な枠を超えて、現代の料理や新しい食文化に取り入れられている。健康意識やサステナビリティの高まりを背景に、発酵食品を使った新しい味や、持続可能な食文化がさらに生み出されていくことだろう。

発酵食品

ドイツの発酵食品の代表格 ザウアークラウトの秘密

ドイツが誇るスーパーフードの「ザウアークラウト」。その歴史や地域性、ドイツ人とザウアークラウトの関係性などから、ザウアークラウトの魅力に迫る。

古代ローマ人も食べていた!?

ザウアークラウト(Sauerkraut)は、キャベツを塩で発酵させた保存食であり、ドイツを代表する伝統食品の一つ。その歴史は古く、アジアでは紀元前221年に建設された中国・万里の長城の建設労働者たちが、キャベツを発酵させた食料を食べていたという記録もある。ドイツにおいては、ローマ時代に伝えられたとされ、寒冷な冬を乗り越えるための貴重な保存食として発展した。

中世ヨーロッパでも、発酵食品は重要な栄養源であった。ザウアークラウトはビタミンCを豊富に含み、長期保存が可能であるため、航海に出る船乗りたちにも重宝されたのだ。特に18世紀には、英国海軍のジェームズ・クックがザウアークラウトを取り入れ、英国海兵たちの壊血病の予防に役立てたという。

地域ごとに一味違うザウアークラウト

現代のドイツにおいても、ザウアークラウトは家庭料理やレストランでは欠かせない存在。特に肉料理との相性が良く、ブラートヴルスト(焼きソーセージ)やアイスバイン(豚のすね肉の煮込み)と組み合わせることが一般的。その酸味が肉料理の脂っこさを中和し、食欲を増進させるのだ。

また、ザウアークラウトの味や調理法は地域ごとに異なる。南ドイツでは白ワインで風味を付けたものが好まれ、バイエルン地方ではキャラウェイシードやジュニパーベリーが加えられることが多い。東部や北部では、シャキシャキした食感を残すために加熱せずに食べることが一般的。一方、西部や南部ではしっかりと火を通し、まろやかに仕上げたザウアークラウトが好まれる。

ザウアークラウト

「クラウト」と呼ばれたドイツ人

ザウアークラウトは、ドイツ人の食文化を象徴する存在であるがゆえに、歴史的にはドイツ人を指す揶揄としても使われてきた。特に第一次世界大戦や第二次世界大戦の時期には、英国や米国でドイツ兵やドイツ人を「クラウト」(Kraut)と呼ぶ風潮が広まったという。なお、近年では「クラウト」という言葉が持つネガティブなイメージも薄れつつあり、むしろ自国の文化を象徴するものとして受け入れられている。

「クラウト」という言葉がユニークな形で転用された例の一つが、「クラウトロック」(Krautrock)だ。これは、1960年代末〜1970年代にかけてドイツで発展した実験的なロック音楽のムーブメントのこと。プログレッシブロックや電子音楽の要素を取り入れ、従来のロック音楽とは異なる独特の音響体験を生み出した。この名称自体は、英国の音楽メディアがドイツのバンドを形容するために用いたもので、当初はやや皮肉を含んだニュアンスがあった。しかし、このジャンルは世界的に評価され、後のテクノやアンビエント音楽にも大きな影響を与えた。

コロナ禍でザウアークラウトがブームに!

コロナ禍に人々の健康意識が高まったことを受けて、ザウアークラウトは「古くて新しいスーパーフード」として再び注目されるようになった。特に、ザウアークラウトの持つ免疫力向上や腸内環境改善の働きが見直され、多くの人々が家庭で手作りするように。パンデミック初期のロックダウン中には、食料の備蓄が求められたこともあり、長期保存が可能なザウアークラウトは再評価された。自宅で発酵食品を作ることが新たな趣味として広まり、SNS上では「#homemadefermentation」や「#sauerkraut」などのハッシュタグが人気を集めた。こうした流れのなかで、ザウアークラウトは単なる伝統食品ではなく、現代の健康意識に合ったスーパーフードとしての地位を確立しつつある。

「簡単おいしいレシピ」より ザウアークラウト&アレンジレシピ

手間がかかるほど愛も深まる! ? 発酵食品を手作りしてみよう

今日、スーパーやネット通販を利用すれば、ドイツでも日本食も含めてあらゆる発酵食品を手に入れることができる。しかし発酵食品をあえて手作りする面白さは、そのトライ&エラーにあり。ここでは、「発酵愛」に溢れたドイツニュースダイジェストゆかりのお二人に、お気に入りのレシピをはじめ、ドイツで買える食材や気候などの違いなど、さまざまなヒントを教えてもらった。

お話を聞いた人 ①

久次貴子さん おんせん県出身。ドイツ人の夫と、二人の子どもと日独いいとこどりの暮らし。昼間はリロケーションサポートのお仕事、趣味は夜な夜な糀作り。台所はいつも実験室のようになっている。本誌連載「私の街のレポーター」では、シュトゥットガルトを担当。

糀との出会いは15年前のドイツニュースダイジェスト!

私がドイツで糀を作り始めたのは、世界各地で糀を醸している人たちの話を読んだり聞いたりして、その工夫や知恵に自分も挑戦してみたい! と心を動かされたのがきっかけです。 特に影響を受けたのが、塩糀を江戸時代の文献から発見した、大分県佐伯市の糀屋本店の女将・浅利妙峰あさりみょうほう先生。妙峰先生との出会いは、なんとドイツニュースダイジェストなのです。15年前、ニュースダイジェストで浅利先生がドイツで糀ワークショップを開催するという記事を読みました。当時、私は子どもが生まれたばかりで参加することができず、浅利先生に「来年はぜひ参加したいので、これからもドイツでワークショップを続けてください!」 と手紙を書いたのです。帰国の際に会いに行ったところ、お手紙のことを覚えていてくださって感動しました。

濾したどぶろくと酒かす濾したどぶろくと酒かす。
どぶろくを作ってみると、全ての工程に意味があり、何一つ無駄がなく、美しくて感動します

糀の柔らかい手触りと音と香りは心を落ち着かせてくれますし、味噌作りや糀のワークショップで糀に触れた人が「気持ち良くてずっと触っていたい」とおっしゃる気持ちがよく分かります。ちなみにドイツではオーガニックの穀物が手に入りやすいので、発酵食品を作る人たちにとってはとてもありがたいです。ただ、麹菌だけは日本の種麹屋さんから購入しています。

最近作って感動したのが、お酒好きにはたまらない「こぼれ梅」(みりんの搾りかす)。まずは、みりんを作ることが必要で、さらにみりんを作るには糀が必要で、1年がかりです。この経験を通して、みりんの甘さは砂糖ではなく、もち米由来だと知りました。こぼれ梅は想像していた以上のおいしさでした。

こぼれ梅完成した「こぼれ梅」にドライフルーツを混ぜてみました。とんでもなくおいしい!

久次さんお気に入りのレシピ

糀と共に生活する

糀はあらゆる日本の調味料に必要なものであり、糀を育てることで自分が日本人であることを再認識している気がします。初めて作るという方には、かわしま屋さんのものがスタンダードで良いと思います。ただし、ウェブサイトにある多くのレシピは、日本に住んでいて、日本の米と水を使っている人のためのもの。ドイツでは米も水質も、温度も湿度も違います。「そこをどうやってフォローするか」というのが燃えるポイント。私自身は、昔の人のように電気を通さずに、人の知恵で工夫して作ってみたい! という好奇心(もはや意地)から、湯たんぽ、鍋帽子、人肌(!)を使いながら糀を育てています。

糀

塩糀と玉ねぎ糀

自分で育てた糀を使って、さまざまな調味料をつくることができます。わが家では、塩の代わりに塩糀、コンソメの代わりに玉ねぎ糀を使用。さまざまな作り方がありますが、私は浅利妙峰先生のレシピを参考にしています。旨味の詰まった塩味があり、酵素も取れて消化に優しいです。酵素にでんぷんやタンパク質を分解する働きがあるので、肉や魚を柔らかくしたりするのにもおすすめ。
参考:糀屋本店「こうじ屋ウーマン浅利妙峰直伝!塩糀(塩麹)のつくり方」

芽キャベツ茹でた芽キャベツに塩糀をまぶすだけで、とってもおいしいです!

材料
塩麹 生糀または乾燥糀 90g
  30g
  お湯(55度くらい) 120ml
玉ねぎ糀 生糀または乾燥糀 100g
  玉ねぎ 300g
  35g
道具
  • 清潔な容器(蓋が金属でないもの)
  • ボウル
  • 計り
  • 箸またはロングスプーン
  • フードプロセッサーまたはブレンダー
作り方
  1. ボウルに塩と糀を入れ、清潔な手で塩と糀を擦り合わせる。しっとりとして糀のいい香りがするまで混ぜる。
  2. 塩糀:熱湯消毒した容器に、❶とお湯を入れる。 玉ねぎ糀:熱湯消毒した容器に、❶とフードプロセッサーで刻んだ玉ねぎを入れる。
  3. 常温で保管する。1日1回、熱湯消毒したスプーンか箸で混ぜて空気に触れさせる。5日後から味見をして、塩の角が取れてまろやかになっていたら完成!お好みでブレンダーで攪拌かくはんしても。

甘酒

甘酒は酒粕甘酒と糀甘酒がありますが、糀甘酒はアルコールゼロ。「甘酒」は、実は夏の季語なんですよ。体を冷やす効果があり、汗をかいて疲れた体に甘酒の糖分が沁みます。
参考:かわしま屋「甘酒の作り方全集|米糀だけ・もち米で作る甘酒を、炊飯器や魔法瓶などで作ろう」

材料
生糀または乾燥糀 300ml
お湯(55度くらい) 300ml
道具
  • ヨーグルトメーカーや炊飯器
  • 温度計
作り方
  1. 糀にお湯を入れ、温度計を使って50〜60度に保ちながら混ぜる。60度以上になると糀菌が死んでしまい、反対に40度以下になると乳酸菌が活発に働いて酸っぱくなるため、温度管理が大切。
  2. ヨーグルトメーカーや炊飯器の保温モードを使って、❶の温度を55〜60度に保ちながら約6時間保温する。
  3. 糀の甘い香りが漂ってきたら、よくかき混ぜて出来上がり。
お話を聞いた人 ②

高橋亜希子さん IT系の翻訳者・プログラマー。三度の食事と、手に入らない食材を自分で育てるのが何よりの楽しみ。食やガーデニングにまつわるプロダクトの製作やスタートアップ事業も行っている。本誌連載「私の街のレポーター」では、ライプツィヒを担当。

菌と時間に委ねつつ、気楽に取り組むのもポイント!

もともと何でも自分で作るのが好きで、加えてアジアショップに買い出しに行ったりするのが面倒になってきたため、発酵食品も自分で作るようになりました。自分の納得できる材料で作れるし、何より時間と菌がほとんどの仕事をしてくれるので、私がほかのことをしている間においしい食べ物が出来上がっているというのが最高です。あと、天然酵母であるサワードウ(サワー種)のスターターや、野菜や果物を発酵させて作る酵素シロップが発酵しているときに出るぷつぷついう音を子どもと聞くのも、目に見えないお友だちがいる感じで大好きです。

ルバーブの酵素シロップルバーブの酵素シロップ。残った果実は煮詰めてジャムのようにしても◎

いつも作っているものとしては、サワードウのパンは週に一度程度、自分で作ったスターターを使って焼いています。ほかにも納豆は1〜2週間に一度にまとめて作って冷凍したり、野菜の塩水漬けは台所の片隅に瓶を常に置いておいて、野菜の端を入れて時々塩を足したりします。季節のものとしては、年初に普通のお味噌を仕込んで、秋口には冬に使う白味噌を仕込みます。キムチは白菜の旬に、酵素シロップはルバーブなどを使って夏にと、季節感を味わえるのもいいですね。

発酵食品作りには失敗もつきものですが、それも含めて魅力だと思います。サワードウのパンでも、スターターが元気すぎて容器からあふれたり、反対にうまく膨らまず石のようなパンができたり、想像の斜め上を行くパンが焼けて大笑いしたり。発酵食品を作り始めた頃は、神経質に細部にこだわっていましたが、最近では気楽に取り組むのが継続のコツだなと思います!

サワードウのパン発酵してふかふかに膨らんだサワードウのパン

高橋さんお気に入りのレシピ

サワードウのパン

サワードウとは、小麦粉と水を発酵させて作る天然酵母。こちらのレシピは、ドイツでパン作りが趣味という人で知らない人はいない有名ブログ「Plötzblog」を参考にしたものです。ごく基本的で食べやすい白いパンが焼けます。
参考:Plötzblog「Mildes Weizensauerteigbrot」

サワードウのパン

スターターの作り方
材料
50ml
全粒粉. 100g
作り方
  1. まずは5日くらいかけてスターターを作る。清潔な瓶に全粒粉20gと水10mlを加えて混ぜる。混ぜにくければ、ほんの少し水を多くしてもOK。室温で保存する。
  2. 翌日、❶に全粒粉20gと水10mlを加えて混ぜる。この作業を5日くらい繰り返す。3日くらいすると小さな泡が出てきて、5日ほどで大きめの泡が見えるようになれば完成。冷蔵庫で保管する。
パンの焼き方
材料
スターター 60g
245ml
小麦粉(550番の白いもの) 345g
8g
作り方
  1. ボウルにスターターと水45ml、小麦粉45gを入れて混ぜ、3〜6時間室温で置く(残りのスターターには、全粒粉40gと水20mlを入れて混ぜ、一日室温に置いてから冷蔵庫に戻す)。
  2. ❶のボウルに水200ml、小麦粉300g、塩8gを入れて、ひとまとまりになるまで5分ほどこねる。
  3. 次の3時間で、30分ごとに10回ずつくらいこねる。徐々に生地がつるっとして扱いやすくなる。市販のイーストよりもゆっくり発酵するので、時間は正確でなくてもOK。
  4. 発酵かごに小麦粉を振るい、生地を丸めて入れる。発酵かごがない場合は、ザルやボウルにキッチンタオルを敷き、小麦粉を振って代用できる。キッチンタオルを被せて冷蔵庫で12時間以上寝かせる。
  5. 十分寝かせて膨らんでいるのを確認したら、オーブンを200度に予熱する。
  6. オーブンの余熱が終わったら、発酵かごをオーブンシートを敷いた天板にひっくり返し、パンの上部に包丁で切れ目を入れてオーブンの中へ入れる。
  7. オーブンに入れて10分ほど経ったら、オーブンの温度を220度に上げ、さらに30分ほど焼く。途中、焼き色を見ながら焼き時間を調整する。

Heizung納豆

納豆を作るための納豆菌は、「枯草菌こそうきん」と呼ばれる細菌の一種。さまざまな植物にこの枯草菌が付いているため、庭に生えているハーブを使って納豆を作ることができるのです。さらに、ドイツの住宅ではおなじみの暖房機器Heizungを使えば、ほったらかしでおいしい納豆の出来上がり!

納豆

材料
乾燥大豆 1カップ
お好みのハーブ 適量
作り方
  1. 乾燥大豆を一晩浸水する。
  2. 吸水した大豆を圧力鍋で茹でる。圧がかかってから20分弱火で蒸したら、圧を解放する。
  3. お好みのハーブを用意する。枯草菌がなくならないよう、軽く水で流すくらいにしておく。春はネギ、夏はシソ、秋冬はパセリやセージのほか、ローズマリーやパクチーなどでも。分量としては、ネギの青い部分だと10cmを5本くらい、シソだと5〜6枚、パセリだと5〜6枝くらい。
  4. 蒸し上がった大豆とハーブを交互に容器に詰める。容器と蓋の間にふきんやキッチンペーパーを挟み、湿気が程よく逃げ、かつ乾燥しすぎないようにする。
  5. ❺Heizungの上にふきんを敷き、その上に❹を置いて12〜24時間寝かせる。表面が一部白くなり、乾燥して糸を引いていたらOK。
  6. 冷蔵庫で一晩寝かせて出来上がり。ハーブも一緒に食べてOK。多めに作って冷凍し、その都度解凍して食べてもおいしい。
最終更新 Dienstag, 25 Februar 2025 15:06
 

オーストリア「ワルツ王」生誕200周年 ヨハン・シュトラウス2世の軌跡

ヨハン・シュトラウス

「ワルツ王」として今日でもオーストリアの国境を越えて広く親しまれている作曲家、ヨハン・シュトラウス2世。ダンス音楽を根本的に改革し、洗練されたコンサート音楽へと発展させた。ワルツだけではなく、オペレッタやオペラも手がけ、時代の寵児に。そんなシュトラウスの生誕200年を記念して、波乱に満ちた生涯をはじめ、才能溢れる親族やその成功を支えた人物など、ヨハン・シュトラウス 2世の軌跡をたどる。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ヨハン・シュトラウス2世 (1825-1899)
Johann Strauss II

「ワルツ王」として名高いオーストリアの作曲家。父も音楽家だったが、それを超える成功を収めた。代表作に「美しき青きドナウ」やオペレッタ「こうもり」など。軽快なワルツや華やかな音楽でウィーン文化を象徴する存在であり、今も世界で愛されている。

シュトラウスが生きた19世紀のウィーン

ヨハン・シュトラウス2世が活躍した19世紀は、ウィンナ・ワルツが社会に浸透し、音楽文化として世界にも認められた時代だった。ウィンナ・ワルツの起源は、18世紀末のオーストリアやバイエルンの農村で踊られていた民族舞踊にある。当初は速いテンポと力強いステップが特徴であったが、次第に優雅で流れるような形式へと進化。従来の貴族のダンスが距離を保つスタイルであったのに対し、ウィンナ・ワルツはパートナー同士が抱き合う画期的な形式で注目され、自由な生活の象徴として受け入れられた。

ウィンナ・ワルツを踊る人々ウィーンのホーフブルク宮殿で行われた宮廷舞踏会にて、ウィンナ・ワルツを踊る人々

ウィンナ・ワルツ発展の契機となったのが、1814~15年に開催されたウィーン会議だ。この会議では、オーストリア皇帝のフランツ1世やメッテルニヒ外相が連日豪華な舞踏会や宴会を開催。ウィーン会議で人気を博した後、ワルツは上流階級や宮廷にも浸透し、音楽としての発展を遂げることとなる。社交場では階級を超えた人々が一晩中踊り明かし、メディアを通じてワルツ熱は欧州全土からロシア、米国にまで拡大した。

しかし、この楽観的な時代は長く続かなかった。ウィーンはその後、不況やメッテルニヒ政権による厳格な統制政策により抑圧され、大衆は監視や検閲の中で苦しい生活を強いられた。このような時代背景のなか、パブや郊外のステージ、ダンスホールでは厳格な風習に反抗する文化的逃避が広がり、ワルツは人々に束の間の自由を与える存在となった。特にヨハン・シュトラウス2世は、ワルツの形式をさらに拡大し洗練させることで、舞曲をクラシック音楽として完成させた。現在、ウィンナ・ワルツはユネスコ無形文化遺産に登録され、大切に受け継がれている。

ヨハン・シュトラウス2世の人生

「ワルツ王」として知られるヨハン・シュトラウス2世は、まさに旋律に満ちた生涯だった。6歳で作曲を始めた早熟な才能、父との確執と競争、そしてウィーンの音楽を国際的な舞台へと押し上げた功績。その背景には、家族の複雑な関係や、時代の波に翻弄されながらも音楽への情熱を貫いた彼の姿がある。

01 6歳で作曲する才児

1825年10月25日、作曲家であり「ワルツの父」として知られるヨハン・シュトラウス1世とその妻アンナの第一子としてウィーンで生まれたヨハン・シュトラウス2世(以下、ヨハン)。父も同名なので、家族からは「Schani」(シャニ)の愛称で呼ばれていた。ヨハンは6歳で作曲を始め、オーケストラとのリハーサルや指揮の振り方など、音楽家としての多くの重要な側面を父から学ぶ。しかし父は、音楽家の苦労を知っていたため、ヨハンやほかの息子たちが音楽家になることには厳しく反対した。

1837~41年まで、ヨハンはウィーンのギムナジウムに通い、成績も優秀だったという。しかし家庭環境が複雑で、父には実は愛人がおり、彼女との間に子どもまでもうけていたのだ。ヨハンの母は、夫の不貞への復ふくしゅう讐のためか、ヨハンの才能を早くから認めていたためか、夫の怒りを買いかねないことを承知で、ヨハンにこっそりと音楽のレッスンを受けさせていた。しかしヨハンはギムナジウムを卒業後、父に勧められるがまま、工科大学で公務員になるための道を歩むことになる。

シュトラウス家の人々 1
ウィンナ・ワルツの 礎を築いた革新者ヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)
ヨハン・シュトラウス1世

「ワルツの父」と呼ばれるヨハン・シュトラウス1世は、過酷な少年時代を送った。7歳で母を亡くし、その5年後には借金に苦しむ父がドナウ川で溺死体となって発見される。孤児になった彼は、後見人の勧めにより製本職人の職業訓練を受けたが、この職業に就くことはなかった。彼がいつどこで音楽を習ったのかについてはあまり知られていないが、21歳の時に最初のオーケストラを結成。1825年に宿屋の娘アンナと結婚し、同年にヨハン・シュトラウス2世が生まれた。1833年以降、自身のオーケストラを率いて、欧州各国を演奏旅行で周遊。1835年にはウィーンの宮廷舞踏会音楽監督に任命された。1848年、今日まで知られる代表作「ラデツキー行進曲」を創作した。1849年9月、猩紅熱にかかり45歳で亡くなった。

02 19歳で音楽家の道へ

1843年、父親が若い女性と同棲するために家を去ると、ヨハンは家族のためにお金を稼がなければならないと感じた。その年に父のライバルであり、ウィンナ・ワルツの様式を確立したヨーゼフ・ランナー(1801-1843)が死去。ヨハンはランナーの後を継ぐことを目標に、大学の勉強を自主的に中断し、作曲家としてのキャリアを計画的に準備し始めた。母に支えられながら、半年の間に必要な技術を身に付け、1844年10月15日、ヒーツィング地区のカフェ・ドンマイヤーで、オーケストラを率いて初めて聴衆の前に姿を現した。父は息子の公演を阻止するため、公式の嘆願書を提出したが無駄だった。このデビューは大成功を収めた。

こうしてウィーン音楽界のトップの座を巡り、父と息子の激しい闘いが始まった。父が宮廷や高貴な聴衆にアピールしたのに対し、ヨハンは若者を狙って聴衆を獲得。ただ全体としては父親が優勢だった。その後、二人は和解したが、1849年に父が急死。ヨハンは父のオーケストラを引き継いだ。父の肩書きだった「宮廷舞踏会音楽監督」も引き継ぎたいという思いがあったが、その願いは拒否されてしまう。実はヨハンには、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命の思想に共感していたことを公言していた過去があり、当然ながら宮廷はヨハンに対して不信感を持っていたのだ。それからは、ヨハンも宮廷のための曲を献上するなど努力を惜しまず、1851年からウィーンのホーフブルク宮殿で頻繁に演奏することになった。そして1854年バイエルン王女エリザベートとのフランツ・ヨーゼフ1世の結婚式の際に、宮廷舞踏会を指揮するまでに至った。

シュトラウス家の人々 2
シュトラウス帝国の凄腕マネージャーマリア・アンナ・シュトレイム (1801-1870)
マリア・アンナ・シュトレイム

宿屋の娘だったアンナは1825年にヨハン・シュトラウス1世と結婚し、その3カ月後にヨハン・シュトラウス2世が誕生した。しかし夫の不倫が発覚し、アンナは夫から経済的に自立することを望むようになる。ヨハンの音楽家デビューが成功し、さらに2年掛かりで夫婦の離婚が成立すると、アンナは息子たちのキャリアを巧みに管理した。離婚した夫の死後は、子どもたちを売り込むために、当時非常に有名だったヨハン・シュトラウス1世の正統な子孫であるという立場を強調。アンナの厳格な家長的リーダーシップのおかげでシュトラウス家は成長し、繁栄したといっても過言ではない。1870年に亡くなるまで、ヨハンの人生の中心的存在で在り続けた。

03 ウィーンのワルツを世界へ

1856年の夏、ヨハンはロシアに招かれた。パヴロフスクのヴォクソール・パビリオン館でコンサートや舞踏会を指揮。ヨハンの人気は絶大で、その後1865年までの10年間、毎年夏パヴロフスクに招かれるようになった。父の影からようやく抜け出したのである。さらにコンサートツアーを行い、欧州と北米を巡った。ヨハンのコンサートは常に観客で埋め尽くされ、ウィーンの音楽を世界中に広めるのに役立ったのだ。ヨハンがウィーン不在の間は、弟のヨーゼフとエドゥアルトが、父から引き継いだシュトラウス管弦楽団を守っていたことも後のシュトラウス家の財産となった。

ウィーン宮廷舞踏会でのヨハン・シュトラウス2世ウィーン宮廷舞踏会でのヨハン・シュトラウス2世(中央)と、シュトラウス管弦楽団の面々

1862年、ヨハンは7歳年上の歌手ヘンリエッテ・シャルぺツキーと結婚。同年に初めて、ヨハンは念願であった「宮廷舞踏会音楽監督」の称号を与えられた。その後も順調にキャリアを積んできたが、1870年に最愛の母が亡くなる。さらに音楽活動を支えてくれていた弟ヨーゼフが急死すると、ヨハンは作曲意欲を失ってしまった。

シュトラウス家の人々 3
弟(次男) 技術者から音楽家の道へヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)
ヨーゼフ・シュトラウス

もともとは製図技師として働いていたが、兄のように密かに音楽を習っていたヨーゼフ。1853年に兄のヨハンが過労で倒れたため、シュトラウス管弦楽団の指揮者の仕事を引き継ぐことになった。それから1カ月も経たないうちに、初めて作曲したワルツを披露し、ウィーン市民はヨーゼフの音楽の才能に感激。兄と母からの願いに応じて、音楽の道へと進んだ。ヨーゼフの才能は、兄ヨハンの影に隠れて過小評価されることも多かったが、「天体の音楽」(Sphärenklänge) や「 わが人生は愛と喜び」(Mein Lebenslauf ist Lieb' und Lust )などの有名なワルツを数多く作曲している。1870年、彼はワルシャワでのコンサート中に突然ステージで倒れ、数日後に42歳で帰らぬ人となった。


弟(三男) シュトラウス家の作品を残すことに尽力エドゥアルト・シュトラウス(1835-1916)
エドゥアルト・シュトラウス

外交官を目指していたエドゥアルトだったが、ヨーゼフと同様に兄のヨハンに説得され、音楽の道へ進むことに。1855年にハープ奏者として、1861年にはシュトラウス管弦楽団の指揮者としてデビューした。二人の兄と比較されてばかりのエドゥアルトだったが、それでも彼は音楽を続けた。1870年にヨーゼフが亡くなると、エドゥアルトは30年以上にわたってシュトラウス管弦楽団を取り仕切った。1872年に「宮廷舞踏会音楽監督」の称号を授与され、1878年からはシュトラウス管弦楽団を率いてドイツや米国、カナダと海外を訪れ大成功を収めた。1901年、エドゥアルトは楽団を解散し、引退。 1907年、彼はシュトラウス管弦楽団の膨大な音楽資料を焼却。この狂気の行為の理由は、いまだに解明されていない。

04 第2のキャリアを開始

しばらく意気消沈していたヨハンだったが、妻ヘンリエッテの勧めもあり、オペレッタ作曲家としての第2のキャリアを考えるように。そして1871年に宮廷舞踏会音楽監督の地位を末弟エドゥアルトに譲り、作品作りに集中した。この試みは予想以上に困難なものとなったが、同年「インディゴと40人の盗賊」(Indigo und die 40 Räuber)が完成。ヨハンは新天地を切り開いたのだ。ヨハンのデビューから30周年に当たる1874年に発表した「こうもり」(Die Fledermaus)は、オペレッタの最高傑作の一つといわれている。こうしてオペレッタの分野でも頭角を現した。ほかにもよく知られているものとして、「ヴェネツィアの一夜」(Eine Nacht in Venedig)や、ヨハンの60歳の誕生日の前夜に初演された「ジプシー男爵」(Der Zigeunerbaron)などがある。また唯一手掛けたオペラ「騎士パズマン」(Ritter Pasman)は、今日ではオペラとして上演されることはほとんどないが、その楽曲はさまざまなコンサートで演奏されている。

シュトラウス家の人々 4
1番目の妻 ヘンリエッテ・シャルぺツキー(1818-1878)
ヘンリエッテ・シャルぺツキー

オペラ歌手「イエッティ・トレフツ」として成功を収めていたヘンリエッテは、ヨハンより7歳年上の姉さん女房。1862年にヨハンと結婚するまでの約20年間、彼女は実業家のモーリッツ・フォン・トデスコと暮らしており、7人の子どもがいた。そのためヨハンが彼女と結婚したことは、ウィーン社交界にとってそれなりのスキャンダルだったという。華やかなキャリアを持つヘンリエッテだったが、写譜を行っていたほか、秘書として夫を支えた。ヨハンがヘンリエッテと過ごした数年間は生涯で最も創造的な時期であり、「美しき青きドナウ」もこの時期に生まれた。ヨハンにとって欠かせないパートナーであったが、1878年、脳卒中が原因と思われる突然の死を遂げた。


2番目の妻 アンゲリカ・ディットリヒ(1850-1919)

2番目の花嫁は、「リリ」として知られる、ヨハンより25歳年下の女優アンゲリカ・ディットリヒ。結婚の数週間前に前妻を亡くしていたヨハンは、前妻ヘンリエッテのようにアンゲリカに自分を支えてほしいと願っていたが、二人の結婚は最初からかみ合っていなかったようだ。ヨハンは、アンゲリカの希望でウィーンのイゲルガッセにある優雅な宮殿でぜいたくな生活することを許したが、妻が演劇のキャリアを追求するという野心は支援しなかった。アンゲリカは次第にいらだち、彼女の父が経営していた「アン・デア・ウィーン劇場」の後継者である30歳のフランツ・シュタイナーの恋人となった。 1882年12月9日、ウィーン地方裁判所でヨハンとアンゲリカは離婚に至った。


3番目の妻 アデーレ・ドイッチュ(1856-1930)
アデーレ・ドイッチュ

ヨハンの30歳下だったアデーレは、1番目の妻と同様、献身的かつビジネス・センスに溢れており、ヨハンの名声を高めるのに貢献した。だが当時、結婚時に誓った「死が二人を分かつまで」という言葉は、カトリック教国オーストリアでは絶対的な効力を持つ法律と考えられていた。前妻との民法上の離婚は成立しても、前妻が生きている限り再婚はできないのだ。唯一の選択肢は、宗教と国籍を変更することだった。ヨハンとアデーレは1885年にオーストリアの市民権を放棄し、プロテスタントに改宗してザクセン=コーブルク・ゴータ公国の市民となる。翌年に晴れて夫婦となった二人だったが、1899年にヨハンが死去。アデーレは、ヨハン・シュトラウス2世の遺産管理人となった。

05 愛と葛藤が彩るヨハンの晩年

1878年に妻のヘンリエッテが急死したが、ヨハンは数週間後に25歳年下の女優アンゲリカ・ディットリヒと結婚した。しかし夫婦間の価値観が異なり、わずか4年で結婚生活に終止符を打つ。その後ヨハンは、30歳年下で未亡人のアデーレ・ドイッチュと急速に関係を深め、結婚した。

晩年、ヨハンは徐々に公の場から遠ざかっていく。心臓や循環器系の疾患、慢性肺炎など、健康上の問題を抱えるようになったのだ。 これらの病気により、定期的に指揮をしたりコンサートを開いたりすることが難しくなった。しかし、健康上の制約があったにもかかわらず、彼は高齢になってもオペレッタや舞曲の作曲を続けていた。そして1899年6月3日、ヨハンは肺炎のため73歳でこの世を去った。彼の死は、ウィーンの音楽史における一時代の終わりを意味した。ウィーンの中央墓地に埋葬されたヨハンの眠る場所は、その天才的な音楽家を偲ぶ記念碑として今日でも多くの人が訪れる。

ウィーン中央墓地にあるヨハン・シュトラウス2世のお墓ウィーン中央墓地にあるヨハン・シュトラウス2世のお墓。ウィーン市民たちは偉大な音楽家の死を悲しみ、葬儀はウィーン全市をあげて行われた

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホールで行われている、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート。今日でも、主にヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が演奏される

ヨハン・シュトラウス2世の代表曲

「美しき青きドナウ」の誕生秘話

ヨハン・シュトラウス2世の3大ワルツとされる「美しき青きドナウ」(1867年)、「ウィーンの森の物語」(1868年)、「皇帝円舞曲」(1889年)。「美しき青きドナウ」は、その中でも特に人気の高い楽曲だが、もともとはカーニバルで歌う合唱曲で風刺を意図したものだった。作曲されたのは、1866年の普墺戦争でプロイセン軍がオーストリアを打ち破ったケーニヒグレッツの戦いの直後。ウィーンは軍事的にも道徳的にも地に堕ち、ドナウ川は濁っていた。ヨハンは同ワルツを合唱のために作曲し、 詩人ヨーゼフ・ヴァイルはパロディ的に「カーニバルがやってきた! そうだ、時間に逆らおう。悔やんで何になる、嘆いて何になる、だから楽しく陽気になれ!」と書いたのだ。1867年に初演され、すぐに世界で最も有名で最も人気のあるメロディーの一つとなった。20年後、作曲・作詞家フランツ・フォン・ゲルネルスは歌詞を書き換えた。「ドナウはとても青く、とても美しい。谷と草原を穏やかに流れ、私たちのウィーンがあなたを迎える」。今日、この歌は非公式のオーストリア国歌とみなされている。

オペレッタの最高傑作「こうもり」

「こうもり」(1874年)は、ウィーンを舞台にした喜劇的オペレッタで、ウィーン・オペレッタの最高傑作といわれる。役人を侮辱した罪で投獄されることになった主人公のアイゼンシュタイン。その前夜、友人のファルケに誘われて舞踏会へ行くと、妻ロザリンデや友人の策略に引っかかることに……。華やかな音楽と笑いに満ちたドタバタ劇だ。この作品が作られた時期は、コレラの流行やウィーン証券取引所の株価大暴落など、街はよどんだ雰囲気に包まれていた。作品にはそうした時世も反映されており、作品中の「もはや変えることのできないものを忘れる者は幸せである」(Glücklich ist, wer vergisst, was nicht zu ändern ist)という台詞は、今日ではことわざのように使われている。

1961年にオーストリアで映画化された「こうもり」のワンシーン1961年にオーストリアで映画化された「こうもり」のワンシーン

生誕200周年を祝おう! ヨハン・シュトラウス2世の特別イベント

オーストリア
Johann Strauss 2025

Johann Strauss 2025

ヨハン・シュトラウス2世の生誕200年を記念して、ウィーン市は市内の69の会場で約250日間、65作品を上演する。クラシックのコンサートはもちろん、オペレッタや演劇、展覧会まで多彩なプログラムで構成されている。詳細は公式サイトで確認しよう。

2025年12月31日まで
www.johannstrauss2025.at

オーストリア
Johann Strauss - Die Ausstellung

Johann Strauss - Die Ausstellung

ウィーンの演劇博物館では、ヨハン・シュトラウス2世の生誕200周年を記念する展覧会を開催。この展覧会では、オペレッタ「こうもり」のオリジナル楽譜を含むヨハンのさまざまな遺品が公開される。

2025年6月23日まで
Theatre Museum
Lobkowitzplatz 2 1010 Wien
www.theatermuseum.at

ドイツ
200 Jahre Johann Strauß - Die große Jubiläums-Gala

200 Jahre Johann Strauß - Die große Jubiläums-Gala

ガラシンフォニー・オーケストラ・プラハによる公演。国際的に有名なソリストたち、2人のソプラノ、1 人のテノール、そしてヨハン・シュトラウス・バレエと共に、シュトラウス一家のメロディーの高揚感がよみがえる。

2025年10月12日まで
ターレ、エルスニッツ、イルメナウ、ポツダム、ライヒェンバッハ、ハレ、ノイブランデンブルクの8都市で開催
www.strauss-gala.de


参考文献:Wiener Institut für Strauss-Forschung、Die Welt der Habsburger「Die Strauß-Dynastie – ein Familienunternehmen」、Bayerischer Rundfunk「Vom Wiener Walzerkönig zum Oberfranken」、stadt-WIEN.at「Walzer Tanzkurse in Wien」、Wiener Hofburg-Orchester「Johann Strauss」、profi「„Nervendämon“ & Walzermafia: Die Strauss-Dynastie als Seifenoper」、Deutschlandfunk「Donauwalzer – Österreichs heimliche Nationalhymne」、Salzburger Nachrichten「Der Donauwalzer als erster Schlager der Musikgeschichte」

最終更新 Dienstag, 11 Februar 2025 17:20
 

おすすめコンベンション6選付き ドイツのアニメ・漫画ブームを
ひも解く

近年ドイツでも日本のアニメ・漫画が以前よりもずっと身近になってきた。特にコロナ・パンデミックによるステイホームを機にアニメを見る人が増えたと同時に、ドイツ国内でも漫画の売上は右肩上がりで、ますます人気が高まっている。本特集では、そんなドイツのアニメ・漫画ブームの歴史をひも解くとともに、ドイツ国内でアニメ・漫画の世界をもっと楽しむことができる選りすぐりのコンベンションをご紹介!
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:松澤淳「ドイツにおけるアニメの受容-1970年代のテレビシリーズから考える-」(明治大学教養論集刊行会)、細川裕史「ドイツにおける日本マンガの受容について」、 J-BIG「漫画の人気は上昇中、ドイツでも大きな可能性を秘めている」、Carlsen「Meilensteine der Carlsen Manga!-Geschichte」、Laura Byell; Karishma Schumacher「Die deutsche Cosplayszene」、日本経済新聞「コスプレじゃ物足りない 日本アニメ演劇、ドイツで進化」、tagesschau「Erfolg der Manga: Japanische Comics erobern den Buchmarkt」、buchreport「Manga: Der anhaltende Boom」、iammangaka.com

Prolog

欧州で最も日本のアニメ・漫画を愛してやまない国……それは残念ながらドイツではなく、フランスである。もともと「バンド・デシネ」と呼ばれるコミック文化があった同国は、早くから日本の漫画を受け入れ、今や日本に次ぐ世界第2位の漫画市場だ。欧州最大の日本文化イベント「ジャパンエキスポ」の開催地でもあり、欧州のアニメ・漫画文化をリードしてきた。隣国ドイツはそんなフランスの影響も多かれ少なかれ受けていると思われるが、独自の歴史をたどって今日のアニメ・漫画ブームを迎えることになる。

Folge 1
1970年代に日本アニメが進出
初の放映作品は3話で打ち切りに!?

西ドイツで初めて日本のアニメが放送されたのは1971年のこと。記念すべき最初の放映作品はARD(ドイツ公共放送協会)が放送した、カーレースアニメの金字塔「マッハGoGoGo」(Speed Racer)だった。すでに放送していた米国では大変な人気で、ドイツでもヒット間違いなし……のはずだったが、そうはいかなかった。同作に含まれていた暴力表現(車が炎に包まれて人が死ぬなど)に対して視聴者から厳しい批判の声があったのだ。シュピーゲル誌やヴェルト紙などのメディアからもこてんぱんに批判され、「マッハGoGoGo」は3話で打ち切りとなってしまう。ARDはそれ以降、日本の独自のシナリオによるアニメの放送を躊躇したのだろう、1990年代まで例外を除いて日本アニメはほとんど放映されなかった。

そのころZDF(ドイツ第2テレビ)では、限られた予算で新しいスタイルの子ども番組について模索していた。経費節約のため複数の国による共同制作の案が持ち上がり、各国の言語や文化の障壁を比較的簡単に越えられるものとして、アニメを制作することが決まる。そうして注目されたのが、すでにアニメ制作で定評のあった日本だった。

しかしARDの「マッハGoGoGo」の一件もあったため、日本に制作を全面的に依頼することは避けられていた。最終的にZDFとオーストリアのテレビ局、そして日本のアニメスタジオの3カ国共同制作が決まり、ドイツが中心となって考えたコンセプトとストーリーを日本でアニメーション化するという形に落ち着いた。そうして1974年に誕生したのが、アニメシリーズ「小さなバイキングビッケ」(Wickie und die starken Männer)だ。1976年には「みつばちマーヤの冒険」(Die Biene Maja)を放送。欧州の児童文学を原作としながら、日本の優れた技術によってアニメ化したことで大当たりし、両作とも特に批判を受けることなく最後まで放映された。その後も同じ手法でさまざまなアニメが日本で制作されることになる。

みつばちマーヤの冒険「みつばちマーヤの冒険」は日本では1975~76年、ドイツでは1976~77年に放映された

そして1977年、ZDFはアニメ「アルプスの少女ハイジ」(Heidi)のライセンスを購入し、放送をスタートさせた。ビッケ、マーヤと共に、ハイジは今もなおドイツで人気を誇り、何度も再放送され、リメイクもされている。これらのアニメを見て育ったドイツ人のなかには、ビッケもマーヤもハイジも、全て自国のアニメだと思っている人も少なくない。実際に、これらの作品のクレジットからは日本に関するものが取り除かれていた。その背景には、「マッハGoGoGo」の一件による日本アニメへのマイナスイメージがあり、「意図的に日本のものだと分からなくさせた」という当時のドイツ側の思惑があったとも考えられる。1980年代にはコストの都合で日本制作であることが分かるクレジットが記載されるようになったが、ドイツで純粋な日本のアニメが知られるようになったのはもう少し先である。

アルプスの少女ハイジ「アルプスの少女ハイジ」は、スタジオジブリ作品でおなじみの高畑勲監督、宮崎駿監督が制作に携わったことでも知られる不朽の名作

Folge 2
右綴じは「必ず失敗する」
一足遅くやってきた漫画ブーム

日本のアニメが比較的早い段階でドイツ市場に参入した一方、日本の漫画はまだまだ時間が必要だった。最初にドイツ語に翻訳されたといわれている漫画は、1982年にロヴォールト社から出版された『はだしのゲン』(Barfuß durch Hiroshima)。しかし、ドイツでは思うように受け入れられず、1巻のみの発売で終わっている(現在はカールセン社から全巻発売)。そもそもドイツでは、漫画(コミック)は子ども向けのものであるという偏見があった。本来、日本の漫画の多くは子どもから大人まで読めることが魅力の一つだが、ドイツでは子ども向けのものというレッテルが売れにくさの障壁となっていたのかもしれない。

転機は1991年。ドイツにおける大手漫画出版社の一つとして知られるカールセン社から、同社初のドイツ語訳漫画として『AKIRA』が刊行された。同作のアニメ映画上映もあったことから話題となったが、出版された『AKIRA』は欧州のコミックスタイルに合わせて全編カラー、日本語オリジナルの絵を反転させた左綴じだった。モノクロでは漫画は売れないとされていた時代に、日本特有の右綴じはもってのほかで「必ず失敗する」と言われていたという。

この右綴じの壁を打ち破った作品が『ドラゴンボール』(Dragon Ball)だった。そのきっかけは至って単純で、ライセンス購入の条件として、右綴じとすることが決められていたのである。カールセン社と並ぶ大手漫画出版社のエグモント社はこれを拒否。しかしカールセン社はこの条件を受け入れ、1997年にドイツで初めて右綴じスタイルの漫画として『ドラゴンボール』を出版した。まさかこの条件を受け入れる出版社はないだろうと考えていた日本のエージェントも、この決断には驚いたという。また、印刷の方向が間違っているとして、同社に漫画を送り返してくるドイツの書店もあったとか。ところが、ドイツの読者たちは思っていたよりずっと柔軟だった。「右綴じは必ず失敗する」というジンクスは見事に破られ、『ドラゴンボール』は大成功を収めたのである。現在では、ドイツで出版されている漫画は、原則的に日本と同様に右綴じとなっている。

Dragon Ball 1Dragon Ball 1
Akira Toriyama
発行元:Carlsen Verlag
発行日:1997年9月22日
定価:7.00€(税込)

その後、カールセン社は次々と日本の漫画を翻訳して出版。『ドラゴンボール』の出版を断念したエグモント社も、1997年に『美少女戦士セーラームーン』(Sailor Moon)を発売してヒットし、ドイツに漫画ブームが到来した。さらに2001年には、カールセン社から日本の少年漫画誌をモデルとした月刊「BANZAI!」が刊行される。『NARUTO』や『HUNTER×HUNTER』など日本でもおなじみの作品がドイツの漫画ファンに届けられた。残念ながら2005年で休刊となったが、2003年にスタートした少女漫画誌「DAISUKI」は、2012年まで続いた。

「BANZAI!」250ページ以上のボリュームで刊行されていた月刊「BANZAI!」。日本の漫画誌のように付録のある号も

Folge 3
本格的なアニメブームの到来
コスプレ文化が花開く

1970年代以降もZDFは日本制作のアニメを放映していたが、「世界名作劇場」の作品が中心で依然子ども向けであった。しかし1993年に民間放送RTL2が開局すると、さまざまな日本のアニメが放映されるようになる。同局はドイツの無料放送で最も多くの日本アニメを放映したテレビ局として知られる。なかでも、1997年に放送がスタートした「美少女戦士セーラームーン」が大ヒット。1999年には「ドラゴンボール」や「ポケットモンスター」(Pokémon)の放送がスタートした。その後も「ONE PIECE」や「NARUTO」など、次々と人気作品がドイツ全土で放送され、多くの子どもたちがこれらのアニメを見て育った。

一方、セーラームーンのヒットにより、ドイツでもコスプレ文化が花開くことになる。1998年には、「Neo Moon Project」と呼ばれるセーラームーンに特化したイベントが開催され、セーラームーンのコスチュームに身を包んだファンたちが集まった。翌年には、ドイツ初のアニメ・漫画コンベンションである「AnimagiC」がコブレンツで開かれる。同コンベンションは、1994年に同人誌としてスタートしたアニメ専門誌「AnimaniA」が主催。AnimaniAは現在も月刊誌として発行が続けられており、多くのアニメファンに読まれている。AnimagiCではコスプレイヤーが集まっただけでなく、関連書籍やフィギュア、ビデオ、CDなどの販売が行われた。当時のファンたちにとって夢のような空間だったに違いない。

セーラームーンのコスプレセーラームーンのコスプレは今でも男女問わず人気が高い。写真は2022年にエアランゲンで開かれたComic-Salonのコスプレイヤーたち

その後も、2002年に始まった「Connichi」、国内最大で知られる「DoKomi」などをはじめとする、大小さまざまな規模のアニメ・漫画コンベンションやコスプレ大会などが行われるようになった。ちなみにドイツのコスプレ文化の一つの特徴として、コスプレイヤーによる二次創作劇「ショーアクト」(Showact)がある。コスプレイヤーたちが自らオリジナルの脚本や衣装を用意して披露する演劇やミュージカルで、ドイツのアニメ・漫画コンベンションに欠かせないものだ。今日では、日本アニメ専門のショーアクト集団がドイツ国内に100以上あるという。

Folge 4
コロナ禍で再びブーム!
コミックの3冊に2冊は漫画の時代

アニメ専門のクランチロールをはじめ、ネットフリックスなどの動画配信サイトが普及したことで、ここ10年でアニメはさらに身近になった。RTL2の黄金期であった1990~2000年代、ドイツでは年に数本のアニメシリーズしか見られなかったのが、現在は数多くのアニメ作品をいつでも合法的に視聴することができる。さらに、コロナ・パンデミックのロックダウンでステイホームを余儀なくされたことが、世界中でアニメ需要を押し上げたのは言うまでもないだろう。最近では、日本の新作アニメがドイツ語を含む多言語で同時配信されることも増えてきている。

コロナ・パンデミックは、漫画の売上にも大きな影響を与えた。2023年時点で、ドイツで販売されるコミックの3冊に2冊は日本スタイルの漫画だという。 buchreportによると、ドイツ市場における2021年の漫画の売上は前年比75%という記録的数字を打ち出している。ドイツ国内のメディア分析を行っているMedia Controlによれば、2017年には年間945冊の漫画が出版されたのに対し、2022年にはそれが1390冊に増加。実際に、カールセン社の漫画の売り上げもコロナ禍からの3年間で2倍以上になっているといい、ほかの出版社も同様の傾向がみられる。なお、カールセン社の読者層は13~40歳が中心で、『ドラゴンボール』や『美少女戦士セーラームーン』で育った世代が含まれているほか、この数年でそれらの「古典漫画」を初めて知った若い読者も増えているという。

同時に、アニメ・漫画コンベンションの数や規模も年々拡大している。デュッセルドルフで開催される「DoKomi」は、2023年に開催期間をそれまでの2日間から3日間に拡大し、2024年には過去最高記録となる計18万人が来場した。

今ドイツで人気の漫画

2024年の売り上げ上位25位までに入っていた作品
カッコ内は日本語タイトル

  • Jujutsu Kaisen(呪術廻戦)
  • Naruto(NARUTO - ナルト-)
  • Solo Leveling (俺だけレベルアップな件)
  • Dragon Ball (ドラゴンボール)
  • One Piece (ONE PIECE)
  • Chainsaw Man (チェンソーマン)
  • Spy x Family (SPY×FAMILY)
  • Die Tagebücher der Apothekerin (薬屋のひとりごと)
  • Demon Slayer (鬼滅の刃)
  • Berserk (ベルセルク)

出典:ドイツ図書流通連盟(2024年1月1日~12月10日)
※売り上げ順(複数巻ランクインしていた作品も含む)
※「俺だけレベルアップな件」は韓国の漫画作品

Folge 5
より多くの人に届けるために
ドイツのアニメ・漫画の未来は?

さらに漫画文化を広げようと、ドイツ語圏では「MANGA DAY」と呼ばれるプロジェクトが行われている。これは大手のカールセン社やエグモント社をはじめとした漫画を刊行する出版社が垣根を越えて企画したもので、ドイツ、オーストリア、リヒテンシュタイン、スイスの書店や図書館で、試し読み用の無料コミックを配布するという試みだ。第3回を迎えた2024年は9月21日に開催され、およそ1300のスポットで30種類のサンプル漫画を配布。まだ漫画を知らない人が漫画に触れる機会になっているといい、漫画からアニメにハマる人も間違いなくいるはずだ。

MANGA DAY2023年に開催されたMANGA DAYのポスター

2023年に実施されたMANGA DAYでは、出版社altraverseから初お披露目となったドイツ語漫画『Children of Grimm』が配布リストに加えられていた。二人の若手作家による日本スタイルの漫画で、同作品は当時未完成だったが、人々の反応を見る目的も兼ねてMANGA DAYで配布。同社のヨアヒム・カプス氏は、長年にわたってドイツにおける漫画ブームを支えてきた人物で、同作品の立役者でもある。きっと好感触を得られたのだろう。2024年12月には、『Children of Grimm』の第1巻が出版されている。

日本のアニメ・漫画に影響を受け、ドイツで漫画家を目指す人も少なくない。漫画ブームが到来して間もない2001年には、すでにカールセン社からドイツ語話者による漫画が出版されている。ドイツ初の女性漫画家として知られるクリスティーナ・プラカ氏も、2002年に同社の月刊「DAISUKI」で連載デビュー。現在は、漫画家を目指す人々へのコース「i am mangaka!」を開講している。同コースはオンラインで受講可能で、ドイツ全土に多くの受講者がいる。ほかにも多くのワークショップやコンペティションなどが、出版社やコンベンション主催で存在する。今もドイツ各地の漫画家の卵たちが、デビューの日を夢見ながら日々机に向かっている。

MANGA DAYChildren of Grimm, Band 01 Aljoscha Jelinek / Blackii
発行元:altraverse
発行日:2024年12月16日
定価:10.00€(税込)

Epilog

ここ数年のアニメ・漫画ブームを受けて、カールセン社の漫画部門で編集長を務めるカイ=シュテファン・シュヴァルツ氏は、将来的にドイツ生まれの漫画作品がもっと増える見込みがあると考えているという。ドイツの漫画が日本語に翻訳される日もそう遠くないかもしれない。ドイツではすでにブームの段階を越えて、アニメ・漫画がメインストリームとして認識されつつあるともいえる。一方でドイツの2024年の漫画総売上は約1億ユーロと予想されているが、フランスの3億8100万ユーロ(2022年)にはほど遠い。まだまだ伸びしろのあるドイツで、さらにアニメ・漫画の文化が広まっていくことに期待したい。


2025年に行ってみたい
ドイツのアニメ・漫画
コンベンション6選

昨今のアニメ・漫画ブームにより、コンベンションもますます人気に。数あるコンベンションの中から、ドイツのアニメ・漫画ファンが「一度は行ってみたい!」と思うものをピックアップ。実際に足を運んで、ブームを体感しよう!

ブックメッセの中で開催! Manga-Comic-Convention
漫画・コミックコンベンション

Manga-Comic-Convention

「Manga-Comic-Convention」(MCC)は、フランクフルトと並んで有名なライプツィヒ・ブックメッセ内で2014年から開催。4日間で28万人近くが訪れる同メッセでMCCをお目当てに来場する人はおよそ40%(約10万人)、MCC来場者の5人に2人はコスプレで訪れる。レベルの高いコスプレ大会のほか、国内外のゲストとの交流、新人アーティスト横丁などのほか、2025年はインディーズ系の漫画ブースが特別に設置される。公式キャラクターのMacoco(写真)は、オリジナルグッズ化もされているので、お土産にいかが?

日程 2025年3月27日(木)~30日(日)
会場 Leipziger Messe(ライプツィヒ)
www.manga-comic-con.de

ドイツ最大のアニメと日本エキスポ DoKomi
ドコミ

DoKomi

ドイツ最大のアニメ・漫画コンベンション「DoKomi」は、2009年にアニメ好きの若者たちが始めたエキスポ。第1回目は1800人規模だったが、現在はその100倍の18万人の来場者を誇る。「Doitsu Komikku Maketto」の略称で、日本の「コミケ」へのオマージュになっている。ドイツ初のメイドカフェやコスプレ舞踏会を企画するなど、常に新しいものに挑戦することがドコミのモットーだ。総面積20万平方メートルの会場は、1日では回り切れないくらい多くの出展者とイベントでにぎわう。チケットは毎年完売するほど人気なので、早めの予約がベター!

日程 2025年6月6日(金)~8日(日)
会場 Messe Düsseldorf(デュッセルドルフ)
www.dokomi.de

ライン=マイン地域のファンたちに! Wie.MAI.KAI
ヴィー・マイ・カイ

Wie.MAI.KAI ヴィー・マイ・カイ

2007年にライン=マイン地域のアニメ・漫画ファンたちによって始まった「Wie.MAI.KAI」(WieはWiesbaden、MAIはMainz、KAIは日本語の会)。2009年からは同名の非営利団体として活動しており、コンベンションのほかにコスプレイベントなども開催する。会場はフランクフルトとマインツの中間に位置するフレールスハイム。来場者は2日間でおよそ3000人と比較的小規模だが、ワークショップ、カラオケボックス、メイドカフェ、ショーアクト、コスプレ舞踏会、日本伝統文化や日本食の紹介など、盛りだくさんの内容になっている。

日程 2025年6月21日(土)~22日(日)
会場 Stadthalle Flörsheim(フレールスハイム)
www.wiemaikai.de

テーマパークを会場にコスプレ撮影 Anime Messe Babelsberg
アニメメッセ・バーベルスベルク

Anime Messe Babelsberg

「Anime Messe」は2016年にベルリンで始まったコンベンションで、2022年からはブランデンブルク州バーベルスベルクで開催されている。その特徴はなんといっても、テーマパーク「Filmpark Babelsberg」が会場になっていること。撮影にぴったりな中世や西部劇の街並みなどのセットが並び、コスプレイヤーたちにとっては夢のような場所だ。2024年は3日間で2万2000人が来場。土曜夜には花火大会が行われ、日本の夏も体験できる。12月5~7日にはカッセルで「Anime Festival Kassel」も開催されるので、こちらもチェック。

日程 2025年7月4日(金)~6日(日)
会場 Metropolis-Halle / Filmpark Babelsberg(バーベルスベルク)
www.animemesse.de

ドイツ最古のアニメ・漫画コンベンション AnimagiC
アニマジック

AnimagiC

1999年に始まった「AnimagiC」は、アニメ雑誌「AnimaniA」が主催するドイツ最古のアニメ・漫画コンベンション。25年にわたってドイツのアニメ・漫画ファンのための交流の場として愛され続け、2024年は3日間で3万5000人が来場した。長年ドイツのアニメ界を引っ張ってきたアニマジックの特徴の一つといえば、ドイツ国内外からの豪華ゲスト。2024年は漫画家の伊藤潤二さんやアニメ「名探偵コナン」でおなじみの声優・山口勝平さんをはじめ、人気アニメの監督など多数登壇。2025年のゲストも続々発表される予定なので、お楽しみに!

日程 2025年8月1日(金)~3日(日)
会場 Rosengarten(マンハイム)
https://animagic.de

ファンによるファンのための祭典 Connichi
コンニチ

Connichi コンニチ

2002年に初開催された「Connichi」は、ドイツ最大のアニメファン団体「Animexx e.V.」のボランティアによって運営されるアニメ・漫画コンベンション。「ファンからファンへ」をモットーにしており、2014年にはドイツで日本文化を伝えることに貢献したとして外務大臣表彰を受賞している。豪華ゲストの登壇やショーアクトはもちろん、日本のお祭りの屋台をイメージした「Matsuri」エリアも人気だ。2023年からはヴィースバーデンに会場を変更。2024年には3日間で3万8000人が来場し、ますます盛り上がりを見せている。

日程 2025年9月5日(金)~7日(日)
会場 RheinMain CongressCenter(ヴィースバーデン)
www.connichi.de

最終更新 Dienstag, 28 Januar 2025 12:18
 

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来

映画誕生から130年。リュミエール兄弟が世界に初めて映像を映し出してから、映画は人々の夢や現実を映す強力なメディアとなってきた。特に欧州映画は、芸術性と社会的メッセージを両立させ、世界の映画史に多大な影響を与えている。この記事では、130年にわたる映画史を英独仏作品の視点から振り返りつつ、現代におけるその意義と、未来に向けた進化の可能性を探る。
(文・取材: 英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

1895-1920s
映画産業の創成期から黄金の20年代まで

映画の歴史的な始まりは、1891年に米国のトーマス・エジソンによって発明された映写機「キネトスコープ」とされている。これは箱型ののぞき窓から一人で映像を観ることができる機械だった。その後、1895年にフランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」は、スクリーンへと動画を投影する形のもの。一度に多くの人が鑑賞できるようになり、世界初の商業的な映画上映を行ったことから、現代につながる映画の起源とされている。

「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟トーマス・エジソンと並ぶ映画発明者であり、
「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟

初めての上映が行われたのはパリのグラン・カフェで、リュミエール兄弟による「ラ・シオタ駅への列車の到着」「工場の出口」など、ワンショットで撮影された50秒ほどのショート・フィルムが公開された。映画を観た観客たちが画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から逃げ出したという逸話も残っている。

映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、その翌年には各国でも上映されるようになった。作品にも徐々に筋書きや演出などが加えられるようになり、1902年に公開された「月世界旅行」は、世界で初めてのストーリーラインを持ち、複数のシーンで構成された映画だった。さらにカメラの動きや編集技術が発展することで、より複雑で面白い映画が作られるように。1920年にドイツで公開された「カリガリ博士」がシュルレアリスムにも大きな影響を与えたほか、監督・俳優として名をはせたチャールズ・チャップリンが誕生したのもこの年代である。

月世界旅行 監督・主演: ジョルジュ・メリエス月世界旅行 Le Voyage dans la Lune
1902年/16分/サイレント
監督・主演: ジョルジュ・メリエス
世界初のSF映画。天文学者たちがカプセル型の宇宙船で月に向かう

大きな画期となったのが、1927年に米国で世界初のトーキー映画として製作された「ジャズ・シンガー」だ。トーキー映画の登場によって、登場人物の声やセリフ、音楽が折り合わさり、物語の伝え方も大きく変化していく。1929年にはディズニー制作のアニメーション「蒸気船ウィリー」、シュルレアリスムの傑作と称される「アンダルシアの犬」が公開。欧米を中心とした映画文化が一気に花開いていった。

参考: MoMA「History and development of film」、フランスニュースダイジェスト1019号「映画誕120周年 リュミエール家の軌跡をたどる」

英国 1920s-
英国とハリウッドの切れない関係

巨大な米国映画産業の流入

1910年ごろまでにロンドンを中心に30を超える映画スタジオが設立されており、国内外で英国映画の市場は拡大を続けていた。ところが、より収入が見込める長編映画産業が米国で発展したことで、1920年代の英国でも米国の作品が多数上映されるようになる。国内の映画産業の未来を危惧した英政府は、市場を守るための数々の策を打った。そのうちの一つが質の高い映画製作を推奨した1938年の映画法で、米国はそれをうまく利用して英国に自国の映画スタジオを多数設立することに成功。1930年代にスタジオを作ったワーナー・ブラザーズなど、米大手スタジオが英国で活性化するきっかけの一つになった。

1950年、政府は映画のチケット価格の一定割合に自主的に課税するイーディ税を導入。米国の映画でも英国で製作すれば製作資金を政府から受け取ることができたため、ハリウッドのスタジオは英国での映画作りをさらに進めるようになり、ユニバーサル、パラマウントなど米大手の製作会社も英国に参入した。両国の公用語が英語であるため、黎明期から英国の映画産業は米国とどうしても切れない関係になっている。

英国と米国の才能の行き来

米国の映画が英国で製作されたように、より大きな市場を求めて英国人の監督が米国に拠点を移したり、英米の共同作品が両映画市場でヒットしたりと、英国は米国の映画産業にも多大な影響を与えてきた。

特に知られているのは、英米で50本以上の長編映画を監督したアルフレッド・ヒッチコック。製図工、広告デザイナー、ライターとしてキャリアをスタートさせたのち、ロンドンでの映画業界で働き始めたヒッチコックは、暗い題材や最後のどんでん返しなどを巧みに取り入れ、国内外でたちまち売れっ子の監督になった。1939年には家族と共に米ハリウッドへ移住。数々のヒット作の中には、同名小説を原作とした「サイコ」があり、映画内で使われた音楽は今でもホラーの演出として頻繁に使用されている。

サイコ Psychoサイコ Psycho
1960年/109分/英語
監督: アルフレッド・ヒッチコック
主演: ジャネット・リー
「サイコ」のカチンコを持つアルフレッド・ヒッチコック

デヴィッド・リーンがメガホンを取り、第30回アカデミー賞で作品賞を含む7部門を受賞した、タイのクウェー橋を舞台にした戦争映画「戦場にかける橋」は英米合作映画として知られている作品の一つ。俳優で映画監督でもある早川雪洲も出演し、日本軍の捕虜になった英軍兵と日本人大佐との交流を描き、人間の尊厳と戦争の凄惨せいさんさを描いている。

サイコ Psycho戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai
1957年/161分/英語、日本語、タイ語
監督: デヴィッド・リーン
主演: ウィリアム・ホールデン

サイコ Psycho「戦場にかける橋」で
クウェー川鉄橋の前に立つニコルソン大佐(アレック・ギネス)と
斉藤大佐(早川雪洲)。
クライマックスの橋の爆破シーンは特に有名

同じく英米共同出資で作られた作品で有名なのは、ロンドン生まれのキャロル・リードが監督したミステリー映画「第三の男」。米国人の作家が友人の依頼を引き受けるためにオーストリアのウィーンを訪れたが、友人が亡くなったことを知り、その死に関与していた3番目の男の正体を探る。リード監督は、デヴィッド・リーンと共に英映画産業を活性化させた。

サイコ Psycho第三の男 The Third Man
1949年/105分/英語、ドイツ語
監督: キャロル・リード
主演: ジョゼフ・コットン

参考: https://publications.parliament.uk

ドイツ 1930s-40s
ナチス・ドイツとプロパガンダ映画

映画界にも政治が積極的に介入

「黄金の20年代」と呼ばれたワイマール共和国の時代が終わり、ナチスが政権を握った1933年のドイツ。宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、映画にも政治が介入していくことを宣言する。翌年に映画法が施行されると、検閲が強化され、作品にはそれぞれ「政治的に価値がある」「国民を啓蒙する価値がある」など格付けが行われた。映画会社は国家が管理するUfa-Film GmbH(UFI)に統合。ユダヤ人は解雇され、映画界から完全に排除された。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

ナチス政権下では1000本以上の長編が製作されたが、政権が直接関与していたり、ナチスの価値観を具体的に体現していたりするような真のプロパガンダ映画は、そのうち10分の1程度。それらは今日でも危険とみなされ、公開が禁じられている。それ以外は現在でも鑑賞することができるが、ナチスのイデオロギーに基づいて理想化された完璧な社会のイメージや、敵の過激な描写などが含まれている。例えばアーリア人が優れた人種であることを意図するセリフがあったり、兵士がエキストラとして動員されていたりするため、芸術的に評価されていたとしても、ナチ時代に製作された作品であることを意識して観る必要がある。

ナチ政権下で映画を作った人々

レニ・リーフェンシュタールは、1933~35年にナチ党大会の記録映画を3本製作した人物で、1936年に開催されたベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」を撮影した。「民族の祭典」と「美の祭典」の2部構成で、スローモーションなどの新しい技術や美しい構図、特殊なアングルを導入。スポーツを芸術と捉え、その後数十年間のスポーツ報道に影響を与えたといわれる。しかし、本作のアスリートは理想像や人種的な優越性を誇示するものとして解釈され、さらには平和の祭典を利用してアドルフ・ヒトラーとナチス・ドイツを肯定的に描いたことで、史上最も有名なプロパガンダ映画の一つとなった。リーフェンシュタールは2003年に亡くなるまで、作品は非政治的であり、自分はナチ党員ではなかったことを主張したが、本作にナチスが介入していたことに変わりはない。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

また、1937年には初の日独共同製作映画「新しき土」が作られている。共同製作の構想は日独双方の政府に受け入れられ、ゲッペルスは製作費の半分を支出。ドイツ留学を終えた輝雄がドイツ人の恋人ゲルダと許いいなづけ嫁の光子との間で揺れ、伝統と現代的な価値観による葛藤を描く。ゲルダは完璧なアーリア人として描かれ、満州の描写は日本向けのプロパガンダとして捉えられる。共同監督と脚本を務めたアーノルド・ファンクはかつて山岳映画のパイオニアとして名をはせた人物。その後新作を撮影したものの、ナチスの意図を反映して完成させた作品に納得しなかったという。戦後は森林官として働き、1974年にひっそりと亡くなった。

新しき土 Die Tochter des Samurai新しき土 Die Tochter des Samurai
1937年/125分/ドイツ語、日本語
監督: アーノルド・ファンク、伊丹万作
主演: 原節子、小杉勇

「新しき土」「新しき土」には当時10代だった原節子が出演。
本作はドイツ版と日本版で若干内容が異なる

参考: filmportal.de、Die WELT「Zwei Völker ohne Raum」

フランス 1950s-60s
戦後の映画界を革新したヌーベル・ヴァーグ

映画改革運動を開始した若手批評家たち

フランスで1950年代末に興隆したヌーベル・ヴァーグ(新しい波の意)は、戦後のフランスという特殊な社会文化的背景の中に根を下ろした。当時のフランス映画は文芸作品の脚色を重視し、凝ったセリフや硬すぎる言い回しが飛び交う「良質な伝統」作品だった。ヌーベル・ヴァーグはそれをきっぱりと否定し、映画監督は小説家や画家のようにカメラで作家として自己表現できるものだと「作家主義」を主張した。これを率いた若手監督の代表はフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット。撮影の経験はほとんどなく、リソースも少ないこれらの監督は、もともとは「カイエ・デュ・シネマ」という雑誌に批評家として寄稿していたため「カイエ派」と呼ばれている。

カイエ派の映画製作者たちは、現実とスクリーンに映し出されるものとのギャップにうんざりしていた。従来の映画のように「物語が過不足なく描かれているのか」という演出は重視せず、目の前に映る景色を記録に残すことに重きを置き、現実が映り込んでいく映画を撮るようになる。俳優たちは無名で、多くは若く平凡なキャラクターを演じる。台詞は単純で、しばしば偶然性と即興性を重視した。

例えば、ゴダール作の「勝手にしやがれ」では主役のベルモンドはパリの若者言葉を使い、ヒロインのセバーグは米国訛りのフランス語を訂正せずにそのまま生かす。技術の進歩により、軽量カメラと高感度フィルムが登場した時期でもあったため、大掛かりな装置は必要とせず、街頭で撮影することが可能だった。その上、パリの街中で車椅子にカメラマンを乗せて引っ張って撮影するなど、低予算かつ大胆な手法で見事な映像を作り上げた。「美しきセルジュ」を撮ったシャブロルは、自然光を捉えるのに長けたカメラマンを雇い、スタジオの照明では出せないような物事の微妙な輪郭や質感、老朽化と美しさの両方を浮かび上がらせる光を映し出した。こうして現実をかつてないほど身近に、そして物語を自然に表現できるようになったのだ。その後も「良質な伝統」に反抗しながら、各監督は独自のスタイルを開発していく。

ゴダール軽量カメラを持ち撮影するゴダール。ゴダールは伝統的な映画の形式を完全に打ち破る革新的なスタイルでその名を知らしめた

オリンピア Olympia勝手にしやがれ À bout de souffle
1960年/90分/フランス語
監督: ジャン=リュック・ゴダール
主演: ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ

国境を越えて世界へ波及

ヌーヴェル・ヴァーグは1960年代末には求心力を失っていくが、フランス映画とその製作者たちが伝えるメッセージは国境を越えて広がっていった。 東欧では、ポーランド人のアンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、チェコ人のヴェラ・ヒティロヴァ、ラテンアメリカではブラジルの映画運動「シネマ・ノーヴォ」、そして日本の「日本ヌーヴェル・ヴァーグ」など各国に影響を与え、自国の映画の規範を破ることをためらわない新しい監督たちが出現していった。

オリンピア Olympia美しきセルジュ Le Beau Serge
1958年/98分/フランス語
監督: クロード・シャブロル
主演: ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォン

参考: 中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)、National Audiovisual Institute(INA)「François Truffaut parle de la Nouvelle Vague」、La BnF「La Nouvelle Vague au cinéma」

ドイツ 1950s-80s
東ドイツ唯一の映画製作会社DEFA

ナチスと決別した国営映画会社

第二次世界大戦後、西側連合国はナチスとメディアの深い結びつきからドイツでの新作映画製作に反対していた。一方で、ソ連は映画製作のため独ソ合資会社の設立を許可し、終戦の翌年にDEFA(Deutsche Film-AG)が誕生する。東西ドイツ分断後の1953年に国有企業になると、東ドイツでの映画製作は全てDEFAで行わなければならなくなった。DEFAではドイツが再統一されるまでに、長編映画700本、短編映画450本、アニメーション950本、ドキュメンタリー2000本、ニュース映画など2500本が製作された。

DEFAは設立1年目に3本の映画を製作し、そのうち1本はドイツの戦争犯罪を描いたものだった。その後も反ファシズムは、DEFA作品にとって重要なテーマの一つで在り続ける。そのなかで最も知られている作品が、映画「嘘つきヤコブ」だ。第二次世界大戦中、ポーランドのユダヤ人ゲットーに暮らすヤコブは、ゲシュタポに出頭した際にラジオでソ連軍が進軍していることを知る。その後ゲットーに戻ったヤコブはみんなにニュースを伝え、自分はラジオを持っていると嘘をつき、その後も人々に希望を与えるために嘘をつき続ける。本作は、DEFAの長編作品として唯一アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、1999年にハリウッドでリメイクもされている。

噓つきヤコブ Jakob der Lügner噓つきヤコブ Jakob der Lügner
1974年/100分/ドイツ語
監督: フランク・バイヤー
主演: ヴラスティミル・ブロツキー

噓つきヤコブ Jakob der Lügnerヤコブを演じたヴラスティミル・ブロツキー(左)はチェコの俳優。
1975年のベルリン国際映画祭では、その演技が評価されて銀熊賞を受賞した

社会主義体制で生まれた希望の作品

国庫からの資金で製作されたDEFAの映画は、誰にでも理解できること、曖昧にしないこと、文化政策の影響を受けてはならないとされていた。一方で国の厳しい体制のもと、社会主義体制に都合の悪い作品が上映禁止となることも。それは、東ドイツを指導した社会主義統一党(SED)が映画を芸術ではなく、政治的な手段として見ていたことを意味する。

映画「パウルとパウラの伝説」も、公開が危ぶまれた作品の一つだった。純愛ではなく、それぞれ家庭のある二人の恋愛を描いているからだ。公務員で既婚者のパウルとシングルマザーのパウラが関係を持つことは、個人の感情を優先するというエゴイズムであり、集団に重きを置く社会主義体制への隠れた批判であると捉えられた。SEDの政治家たちは公開を阻止しようとしたが、当時書記長だったエーリッヒ・ホーネッカーは、国際的な東ドイツの新しいイメージにふさわしいとして、特に若者に見せることを希望。公開は許可され、300万人を動員する大ヒット作品となった。

パウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paularパウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paular
1973年/106分/ドイツ語
監督: ハイナー・カーロウ
主演: アンゲリカ・ドムレーゼ、ヴィンフリート・グラットツェーダー

DEFAの多くの作品には、東ドイツの人々の日常の姿とともに、夢や葛藤、希望がありのままに映し出されており、今日でも評価されている。DEFAはドイツ再統一によって終わりを迎えたが、作品はDEFA財団によって文化遺産として保存され、現在もYouTubeなどで観ることができる。

参考: DEFA-Stiftung、SWR「Film „Die Legende von Paul und Paula“: Wie ein harmloser DDR-Liebesfilm die SED nervös machte」、Goethe-Institut「ベルリンの壁崩壊30年 東ドイツの映画と歴史」

英国 1960s-
労働者階級を描くキッチンシンク・リアリズム

英国人のリアルな日常

英国の労働者階級と映画の関係は、社会的、文化的な観点から重要なテーマ。1960年代に起きた「キッチンシンク・リアリズム」は、労働者階級の日常生活をリアルに描いた映画や演劇のムーブメントだった。そこでは貧困、失業、社会的抑圧、家族関係といったテーマが労働者階級の視点で率直に描かれている。この流れはサッチャー政権下の1970~80年代に社会的リアリズムとして発展し現在に至る。1960年代には白人労働者家庭の物語だったキッチンシンク・リアリズムは、やがて次第に人種問題や移民問題、そして同性愛などに切り込み、さまざまな社会的弱者を主人公にした作品を包括していく。

1985年の作品「マイ・ビューティフル・ランドレッド」は、パキスタンからの移民を親に持つロンドン生まれの青年オマールと、幼なじみで今は移民を狙う右翼団体に属するジョニーの恋愛を、ときにコミカルに追ったドラマ。母国の伝統と英国社会での生活の間で揺れる移民2世の立場をはじめ、労働者階級から中産階級への上昇を目指す移民と、失業して将来に希望を見いだせない労働者階級の白人の格差、そして英国に根付く人種差別と同性愛への嫌悪などが複雑に絡み合う。ベテラン俳優ダニエル・デイ=ルイスの出世作としても知られる。

マイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundretteマイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundrette
1985年/97分/英語
監督: スティーヴン・フリアーズ
主演: ダニエル・デイ=ルイス

その約10年後に作られたマイク・リー監督の「秘密と嘘」は家族の複雑な人間関係を通じて、アイデンティティー、家族の絆、自己受容を探る物語。1990年代の英国社会における人種的、社会的な緊張感を浮き彫りにしているものの、過度に政治的な視点ではなく、個人的な関係性を通して描いているところが特徴だ。眼科医として働く黒人女性のホーテンスは、生みの親が白人であることを知る。未婚の母、私生児、父親の異なる姉妹、不妊といった事情をのみ込みつつ暮らす、ありふれた労働者階級の家庭の姿はとてもリアルで、本作は第49回カンヌ映画祭のパルム・ドール賞を受賞した。本作で脚本は一切使用せず、セリフは現場で役者とともに即興的に作り上げられた。

秘密と嘘 Secrets and Lies秘密と嘘 Secrets and Lies
1996年/142分/英語
監督: マイク・リー
主演: ブレンダ・ブレッシン、ティモシー・スポール、マリアンヌ・ジャン=バプティスト

不平等な世の中を可視化する

1960年代後半から活躍を続ける社会派、ケン・ローチ監督の作品「わたしは、ダニエル・ブレイク」は現代英国の福祉制度がもたらす問題を鋭く批判したドラマ。心臓病で働けないにもかかわらず、福祉制度の複雑な手続きにより生活保護を受けられず、支援を求めて苦しむ中年男性のダニエル、そしてシングルマザーのケイティを主人公に、社会に見捨てられた状況でも人間としての尊厳を保とうと奮闘する人間の姿を描く。低賃金労働、住居問題、失業が人々にどのような影響を与えるか、実直な人間が生きられない社会とは何なのか、現代の資本主義社会におけるシステムの問題を直球で批判する。第69回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した。

わたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brakeわたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brake
2016年/100分/英語
監督: ケン・ローチ
主演: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ

フランス 1960s-現在
フランス映画を発展させた「国際共同製作」

映画振興を統括する機関「CNC」

第二次世界大戦の後、フランスは危機的状況にあった映画業界を立て直す目的で1946年に国立映画センター(現・国立映画映像アニメーションセンター、CNC)を設立した。同国の映画産業の運営と振興を統括する機関として現在も活動を行っている。現在、CNCが中心となって積極的に支援している事業の一つが国際共同製作である。2023年の国際共同製作作品数は120作品で、CNCが助成した全映画の40.3%を占める。これらの映画は38のパートナー国と製作された。

CNC1946年10月25日に設立されたCNCは公的行政機関であり、
映画をはじめ、オーディオビジュアル、マルチ・メディア、ビデオ・ゲームも統括する組織

フランスが国際共同製作に乗り出したのは1960年代から。積極的に他国政府と2カ国で共同製作する協定を結び始めた。現在では世界で一番多い61カ国と締結。同様の制度は世界中にあるが、英国12カ国、ドイツ21カ国と比べて圧倒的に締結数が多いことが分かる。この協定では複数国から資金調達ができるほか、双方の国で国産映画とみなされるため、助成金はもちろん、研修制度、調査・統計、映像教育政策など、さまざまな分野で協力できるという利点がある。

欧州評議会でも欧州連合(EU)内の国際共同製作に積極的に取り組んでいる。1991年には欧州映画製作条約を結び、加盟国を含む3カ国以上によって製作するガイドラインが整った。事実、フランスが最も共同製作を行っているのは欧州諸国である。また共同製作は、ハリウッドや国内製作が支配的である欧州大陸内での映画の流通を改善する方法としても注目されている。

国籍問わず才能がある監督を支援

今日のグローバリゼーションによって薄れてしまう地域特有の文化を守る目的として、フランスでは1984年に開発途上国に向けた制度「ル・フォン・シュッド」を創立している(2012年に世界中の映画製作者を支援する「シネマ・ドゥ・モンド」に変更)。この目的はフランスの技術を提供するとともに、徐々に頭角を現している監督を支援すること。これまでにアルゼンチンのルクレシア・マルテル監督による「沼地という名の町」、アフガニスタン・フランスの二重国籍を有するアティーク・ラヒーミー監督の「灰と土」、グルジアのギオルギ・オヴァシュヴィリ監督による「The Other Bank」、パレスチナのエリア・スレイマン監督の「D.I.」など、今や世界的に知られている監督を輩出している。

沼地という名の町 La Ciénaga沼地という名の町 La Ciénaga
2001年/103分/スペイン語
監督: ルクレシア・マルテル
主演: マルティン・アジェミアン、ディエゴ・バエナス

The Other BankThe Other Bank
2009年/90分/グルジア語
監督: ギオルギ・オヴァシュヴィリ
主演: テド・ベカウリ、タマー・メスキー

D.I. Divine InterventionD.I. Divine Intervention
2002年/92分/アラビア語
監督: エリア・スレイマン
主演: エリア・スレイマン、マナル・ハーデル

フランスはこれらの活動を通して世界における自国の文化的存在感を示しながら、才能のある監督と早くから結びつき、産業面でも文化面でも映画業界の活性化につなげている。このように多種多様な国と積極的に共同製作を行う基盤があるため、フランス映画の製作過程には各国の文化的要素が自然に組み込まれていき、自国映画の発展に貢献している。

参考: Centre national du cinéma et de l'image animée、Council of Europe、Romain Lecler「Une diversité sur mesure」、Presses Universitaires de France

最終更新 Dienstag, 28 Januar 2025 11:21
 

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来 英独インタビュー

誕生から130年という歴史の中で、映画は社会の変化とともに進化した。映画や映画館は今後どこへ向かうのか。ここでは、映画産業を内側から支える英独のお2人に話を伺った。

英国
映画館は作品を通じて
観客と新しい視点を分かち合う場所

ロンドンのインディペンデント系映画館「ガーデン・シネマ」。キュレーターであるジョージ・クロスウェイトさんが語る、映画館が今の社会で果たす役割とは。

ジョージ・クロスウェイト George Crosthwait
ジョージ・クロスウェイト

キングス・カレッジ・ロンドンのフィルム・スタディーズ修士課程で教鞭を取る。2017年にはロンドンで「Japanese Avant-garde and Experimental Film Festival」を企画。20年から「ガーデン・シネマ」キュレーター。

オーナーの思いから誕生した映画館

外観も内部もアール・デコ調のガーデン・シネマは、世界中のクラシックな名作や新作映画を上映するインディペンデント系映画館として、2022年3月にオープンしました。この映画館は、オーナーであるマイケル・チェンバース氏のこだわりから生まれたといってもいいでしょう。現在83歳の同氏は、かつてこのビルの上階で法律事務所を経営し、地下に映画館を建設しました。少年時代に通っていたアール・デコ調の映画館を再現したいという思いがあったのだそうです。また、このビルにはメディア関連の企業やロンドン・フィルム・スクールの一部も移転してきており、発展途上ではあるものの、映画業界のハブとしての役割を果たしつつあるのは喜ばしいことです。

The Garden Cinemaガーデン・シネマ

パンデミックで再認識した映画館の在り方

ガーデン・シネマも新型コロナによるパンデミックの影響を大きく受けました。開業予定だった20年3月は、英国の最初のロックダウンの直前であり、実際にオープンできたのは2年後です。その間に自宅でのエンターテインメントが主流となり、ストリーミング視聴が定着しました。そのため多くの映画館が閉鎖され、今もこの業界は非常に困難な状況にあります。また一方で、映画館という場所が提供する「体験」を一層大切にする観客が増えてきました。映画館での共同体験や特別な空間が、単なる鑑賞を超えた価値を持つようになったといえます。

The Garden Cinema地下に二つのスクリーンと、バー・エリアがある

ガーデン・シネマでは新作だけでなく、クラシック映画やキュレーションされた特集を積極的に上映しています。自宅で何万本もの映画をストリーミング視聴できる、選択肢があまりに多い現代において、「慎重に選ばれ、提示される」感覚が、人々にとって魅力的なものとなっていると感じます。プログラムの内容を信頼し、ここに来ることで何を観れば良いかという指針を得ることができるからです。この映画館全体が設計から上映作品、提供するイベントまで、全てが人々をつなげることを目的としています。映画を観た後、ロビーで知らない人とその映画について話し始めることもあるでしょう。それは単なる鑑賞体験にとどまらず、コミュニティーを築き、既存のロンドンの映画文化に新たな場所を提供する試みなのです。

The Garden Cinema2025年には地上階に三つ目のスクリーンがオープン予定

インディペンデント系映画館の未来

あるシーズンでは非常にニッチな作品を取り上げる一方で、昨年のアル・パチーノ特集のように、観客に親しみやすいものも提供するなど、年間を通じてバランスの取れたプログラムを目指しています。社会動向については、それが意識的であれ無意識的であれ、必然的にプログラムに影響を与えると感じていますが、政治的なトレンドを追い過ぎることは避けたいと思っています。そうすると、企画自体がその時代に限定されたものになり、時間が経つと古臭く感じられる可能性があるからです。結局のところ、最高の映画は時代を超えて鑑賞する価値があり、社会の大きな変化を乗り越えて存続します。それが映画の素晴らしさだと思います。そして、時には昔の映画が再び現代の文脈で関連性を持つこともあります。インディペンデント系映画館の未来は挑戦に満ちています。ガーデン・シネマやほかの独自のプログラムを上映する映画館は、過去の名作を中心としたプログラムで成功を収めているので、インディペンデント系映画館の未来は「過去」にあるともいえるかもしれません。同じ新作映画が上映される大手チェーンとは異なる、独自のビジネス・モデルを持った映画館が増加するのは、業界にとっても非常に健全な流れだと思います。

The Garden Cinema

The Garden Cinema
39-41 Parker Street, Covent Garden
London WC2B 5PQ
Tel: +44 20 3369 5000
Holborn駅
www.thegardencinema.co.uk

ドイツ
過去を紡いで映画の未来が生まれる

1984年にドイツ初の映画博物館としてオープンしたドイツ映画協会&映画博物館(DFF)。あらゆる映画遺産を収集・保存し、未来へとつなぐDFFの使命について、同館ディレクターのクリスティーネ・コプフさんに聞いた。

クリスティーネ・コプフ Christine Kopf
クリスティーネ・コプフ

ドイツ映画協会&映画博物館(DFF)のディレクター。映画学、文学、メディア学、民俗学を学ぶ。映画祭をはじめ、映画にまつわる展覧会や上映プログラムのキュレーションなどを20年以上にわたり手掛けている

気付いたときには多くが失われている

私たちドイツ映画協会&映画博物館(DFF)は、ドイツ連邦映画文化館やドイツ・キネマテーク財団と共に、ドイツの映画遺産を保存し、維持し、アクセスできるようにするための中央映画図書館のような役割を担ってきました。昨今では、アナログ作品のデジタル化にも取り組んでいます。

DFFDFFの常設展示では、時代を追うごとに変化する映画の技術を追体験することができる

当館には、数え切れないほどの映画史上の重要な展示物、カメラや映写機などの機材、衣装や小道具、あるいは制作文書、脚本、写真、スケッチなどが保存されています。しかし何よりもまず、映画そのものを保存することが重要です。なぜならその多くは、最初に映画遺産の保存が考えられたときには、すでに取り返しのつかないほど失われていました。こうした活動は、映画というメディアや映画産業の発展に直接的な役割を果たしてきたとはいえません。しかし、DFFのような映画遺産機関は、映画史や映画製作に関する情報、数字、データなどの提供を通じて、映画産業と密接に絡み合っています。

映画史を体感する常設展、映画史を問う特別展

DFFの常設展示では、映画史への感覚的なアプローチを提供しています。第1部「Filmisches Sehen」(映画のヴィジョン)では、18~19世紀の多種多様な映像メディアと映画の発明がテーマ。映画的知覚がどのように機能し、どのような伝統に基づいているのかについて、古い幻灯機から映写機などを実際に動かしながら学べます。第2部「Filmisches Erzählen」(映画のストーリーテリング)では、映像、音響、演技など、映画がどのようにその効果を展開していくかを理解することができます。

DFF

特別展では、映画に関する美学的・歴史的問題を取り上げてきました。2025年2月23日(日)まで開催の「NEUE STIMMEN. DEUTSCHES KINO SEIT 2000」(新しい声 - 2000年以降のドイツ映画)展では、多様性とアイデンティティーの問題を特徴とする近年のドイツ映画に光を当てています。博物館の地下には映画館があり、日替わりでドイツをはじめとするさまざまな国の映画を上映しています。博物館から映画館、保存・研究活動からアウトリーチまで、こうした活動を一つ屋根の下で行っているのは、今のところドイツでは当館だけであると自負しています。

映画の存在感はますます増していく

映画の歴史はまだ浅く、130年の間に映画は信じられないほど変化し、発展してきました。そのため映画の未来を予想するのは容易ではありません。確かなことは、私たちの日常生活の中で、映画というメディアの存在感が拡大し続けていくだろうということです。映画館やストリーミング・サービスだけでなく、広告スペース、スマートフォン、ソーシャル・メディアなど、私たちはあらゆる場所で映画と出会っています。映画鑑賞がパーソナル化する一方で、他者と共に体験する場所としての映画館がこれからも残り続けるだろうということも、映画を愛する専門家の一人として確信しています。

DFF

映画は文化的資産であり、ほかの芸術と同様に、思考プロセスや議論のきっかけを作ってきました。また鑑賞者の美的感覚を喜ばせ、社会的交流の重要な基礎を築き、人々の視点や世界を広げるという点において、重要な役割を担っています。そうした映画遺産を保存し、いつでも誰もが参照できる状態にしておくことは、歴史を検証するのと同じくらい重要なことです。私たちが歴史に関わるとき、私たちよりも前にそこにいた人々から学びます。そうしてまた新しい映画の歴史が生まれるのです。

DFF

DFF – Deutsches Filminstitut & Filmmuseum e.V.
Schaumainkai 41,
60596 Frankfurt am Main
Tel: 069 961 220 – 220
Schweizer Platz駅
www.dff.film
最終更新 Dienstag, 28 Januar 2025 11:22
 

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