ジャパンダイジェスト

マイセンで生まれた「白い金」美しきドイツの白磁器たち

18世紀、欧州各国の王侯貴族たちが自らの名誉を誇示するために東洋の磁器を買い求めるなか、ザクセン州マイセンでは白磁器の魅力に取りつかれた王の命令により、才能ある職人たちが欧州初の白磁器の製造に取り組んでいた……。そうして始まった白磁器をめぐる物語は、今なおドイツ各地の名窯で紡ぎ続けられている。そんな磁器の歴史をはじめ、伝統と革新を併せ持つ5大名窯のものづくり精神を通して、ドイツが世界に誇る「白い金」の魅力に迫ってみよう。(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:www.porzellan-museum.com、ad-magazin.de「China, made by Meissen」、Deutschlandfunk「Weißes Gold aus der Wiener Porzellanmanufaktur」、holst Porzellan Germany「François Vatel」

1739年に完成された「ブルーオニオン」(青い玉ネギ模様)の絵柄は、マイセンの代名詞的存在 1739年に完成された「ブルーオニオン」(青い玉ネギ模様)の絵柄は、マイセンの代名詞的存在

「白い金」の誕生秘話

王侯貴族を虜にしていた白磁器

時は17世紀、欧州の王侯貴族たちは競い合うように白磁器を買い集めていた。欧州では18世紀初頭になるまで白磁器を造り出すことができなかったため、彼らは中国の景徳鎮や日本の伊万里焼などのたくさんの白磁器を購入し、富と権力の象徴としてそれらを宮殿に飾っていたのである。

そんななか、1701年にベトガーという19歳の錬金術師が、プロイセンからアウグスト強王が治めるザクセンのドレスデンへと逃れてきた。ベトガーに興味を持ったアウグスト強王はザクセンで保護することを決め、彼に金を生み出すように命じたのだった。

一方、白磁器に関して30年近く研究を続け、欧州中の窯元を視察していたザクセン出身の科学者がいた。エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスである。彼は1704年の時点で、原材料の改善さえ進めば白磁器まであと一歩というところまで到達していた。

錬金術師ベトガーが白磁器を発明

ベトガーやチルンハウスたちが幽閉され、白磁器の研究を行っていたマイセンのアルブレヒト城 ベトガーやチルンハウスたちが幽閉され、白磁器の研究を行っていたマイセンのアルブレヒト城

アウグスト強王は、白磁器の研究においてベトガーの錬金術に期待をかけていた。1705年、強王はベトガーとチルンハウスを空き家となっていたマイセンのアルブレヒト城に移し、共同で実験を行わせることに。チルンハウスはベトガーと実験を重ねるうちに彼の才能に気付き始める。そしてベトガーはチルンハウス指導の下、本格的に白磁器の制作に取り組むようになった。

1708年7月、ついに白磁器の試作品が出来上がった。しかしこの試作品は釉薬に問題があることが判明し、まだ完成には至っていなかった。そんななか、チルンハウスが9月になって突然体調を崩し、そのまま帰らぬ人となってしまう。チルンハウスの死後、ベトガーは完全な釉薬を開発し、1709年3月にとうとう白磁器を完成させたのだった。「白い金」と呼ばれたマイセン磁器の誕生である。

アルブレヒト城内の壁画には、アウグスト強王に実験の成果を見せるベトガーらの姿も アルブレヒト城内の壁画には、アウグスト強王に実験の成果を見せるベトガーらの姿も

瞬く間に世界へ広まったマイセン磁器

1710年になると、王立マイセン磁器工場がアルブレヒト城の中に設立され、操業が開始された。ベトガーは十分な報酬を得ていたものの、製法が外に漏れないように、幽閉に近い状態で過ごさねばならなかった。その後、マイセン磁器の生産は順調に続けられ、欧州初の白磁器はたちまち世間に知れ渡った。世界最古として知られるライプツィヒのメッセでは飛ぶように売れたという。ベトガーはそれから間もなくして、拘束を解かれて自由にどこへでも外出できるようになった。しかし、長年にわたる換気の悪い狭い部屋での実験生活は彼の体を蝕んでいたのだろう、1719年3月にベトガーは37歳でこの世を去っている。

翌年、マイセンの発展に欠かせない人物がやって来た。名前はヨハン・グレゴリウス・ヘロルト。彼は焼成可能な多くの磁器用顔料を開発し、マイセン磁器に鮮やかな色彩をもたらすことになる。早くから東洋の飾色を研究していたヘロルトは、色鮮やかな絵の具の開発に貢献したほか、マイセンの絵柄の基礎を築いたのだった。

ヘロルトは当時流行していた中国的趣味を取り入れた絵付けをいち早く完成させ、人気を博した ヘロルトは当時流行していた中国的趣味を取り入れた絵付けをいち早く完成させ、人気を博した

マリア・テレジアが食器として使い始める

マイセン磁器が生産されるようになっても、上流階級の人々は銀もしくは金の皿で食事をしていたため、磁器で食事をする文化はまだなかった。磁器が食器として成功を収めたのは、ウィーンの宮廷といわれている。1718年、マイセンに続いてウィーンにパキエ磁器工房が創設された。独特のデザート文化を持つウィーンの宮廷では、磁器製のテーブル装飾品をいち早く生産。そしてオーストリアの皇帝マリア・テレジアは、デザートだけは磁器の皿で食べたいと言い出し、磁器の皿で食べるようになったのだとか。

またカフェ文化の普及によってコーヒーが市民の飲み物として広まったことから、磁器のコーヒーカップが浸透していく。19世紀はじめになると、欧州のブルジョワ階級の食卓でも次第に使われるようになっていくのだった。

アウグスト強王の妙案!?「マイセンからフンメルを壊さずに持ち帰れ」

アウグスト強王は、ドレスデンから毎日マイセンのアルブレヒト城に使者を送っては、白磁器の研究の進捗状況を報告させていた。しかし城の周囲には、おいしいマイセン・ワインが飲める居酒屋がたくさん。使者は酔っぱらってドレスデンに帰ってくることが多く、アウグスト強王はその報告になかなか満足がいかなかった。そこで強王は、マイセンのパン屋に薄くて壊れやすい「フンメル」(Fummel)というパンを焼かせ、使者には毎回これを持って帰るように命じた。フンメルを壊さずに持ち帰ることができたら、その日は合格というわけだ。

それ以来、使者はマイセンでワインを飲むことができなくなった。現在でも、このフンメルを焼いているお店がある。マイセンにある1844年創業の老舗ケーキ屋、ツィーガー(Konditorei Zieger Meißen)だ。アウグスト強王の時代と同じレシピでフンメルを焼く許可を同市から得ているのはこの一軒だけだが、店の人によれば「小麦粉だけで焼いているのでおいしくはない」という。

アウグスト強王ゆかりのマイセン土産として購入してみるのもいいが、壊さずに持ち帰るのは至難の業らしい アウグスト強王ゆかりのマイセン土産として購入してみるのもいいが、壊さずに持ち帰るのは至難の業らしい

白磁器の「今」が見えてくる!ドイツ5大名窯&おすすめ商品

1710年に欧州初の白磁器がマイセンで産声を上げてから、ドイツでは1746年にヘーヒスト、1747年にフュルステンベルクとニンフェンブルク、1751年にベルリン……と、相次いで磁器工場が誕生した。これらの歴史ある名窯は、伝統的な手仕事の技術やブランド精神を守るだけでなく、今日では気鋭のアーティストやデザイナーと協働するなど、白磁器の可能性を広げ続けている。そんなドイツの5大名窯について、彼らの「今」が垣間見える逸品と共にご紹介しよう。

Meissenマイセン

創業年:1710年
創業場所:マイセン
www.meissen.com

Der Ring Blüte 花の指輪 Der Ring "Blüte" 花の指輪

「白い金」の誕生秘話 でも紹介した欧州初の磁器メーカーであるマイセンは、300年以上の伝統を受け継ぎ、最高品質の製品を造り続けてきた。国内外のさまざまな分野のアーティストとコラボレーションし、ユニークなモチーフのオブジェからモダンなデザインの食器まで、常に新しいものを生み出している。そんなマイセンでは、珍しい磁器のアクセサリーも生産。この指輪の花は、もともとは1739年にアウグスト3世が「王妃に枯れない花を贈りたい」と願ったことから生まれた装飾で、現在でも花瓶などに散りばめるように使われているモチーフの一つだ。一輪だけでもしっかりと存在感があり、手元を美しく飾ってくれる。同じモチーフのピアスやネックレスも。

Königliche Porzellan-Manufaktur Berlin (KPM)ベルリン王立磁器製陶所

創業年:1763年創業
創業場所:ベルリン
www.kpm-berlin.com

To-go Becher コーヒータンブラー To-go Becher コーヒータンブラー

1763年にプロイセン王フリードリヒ2世によってベルリンで設立されたKPM。現在も、食器セットやフィギュアなどの全ての製品がほぼ手作業で造られ、フリーハンドペインティングで装飾されている。ロゴマークは、ブランデンブルク選帝侯の紋章に由来する「王笏」。さらに装飾された全てのKPM製品には、絵付けの種類を表すマークと、絵付け職人のサインが施されており、この世でたった一つの製品であるということを象徴している。数あるKPM商品の中でもおすすめしたいのが、環境に配慮した磁器製のタンブラー。見た目が美しいだけでなく、蓋もしっかり閉まるので、コーヒーなどのテイクアウトにもぴったり。磁器製なので臭いや色移りもなく、手入れが簡単なのもうれしい。

Königliche Porzellan Manufaktur Nymphenburgニンフェンブルク王立磁器製陶所

創業年:1747年
創業場所:ミュンヘン
www.nymphenburg.com

The White Doves 平和のハト The White Doves 平和のハト

バイエルン選帝侯であったヴィッテルスバッハ家のマクシミリアン3世ヨーゼフの命によって、1747年にミュンヘンにあるノイデック城内に磁器工場が設立された。設立当初は、莫大な投資をしたにもかかわらず大きな成功を得られなかったため、次第にヨーゼフは関心を失っていった。1754年にやっと磁器の製造に成功すると、ニンフェンブルクの高品質な磁器は国を越えて知られるようになっていった。ここで製造された全ての商品には、ヴィッテルスバッハ家の紋章をもとにしたロゴが施されている。2020年に発売された「The White Doves」は、白いハトのモチーフを使ったインスタレーションで知られるアーティスト、マイケル・ペンドリーとのコラボ作品。一見シンプルな造りに見えるが、実は胴体と翼、それぞれのパーツを鋳造した後に結合するなど、非常に複雑な工程を踏んでおり、高い技術力が光る逸品だ。

Höchster Porzellan-Manufakturヘーヒスト陶磁器工房

創業年:1746年
創業場所:ヘーヒスト
www.hoechster-porzellan.de

Office-Serie オフィスシリーズ Office-Serie オフィスシリーズ

マインツ選帝侯ヨハン・カール・フォン・オスタインの保護のもと設立された、マイセンに次ぐドイツで2番目に古い磁器工場。手作業で成形・絵付けされた最高品質の磁器を製造する、ヘッセン州唯一の伝統的な窯として知られており、ブランドロゴはマインツの紋章である「マインツの車輪」にちなむ。最高品質の素材をモダンにデザインしたオフィスシリーズでは、レターオープナーがフランクフルトの国際消費財見本市Ambienteでデザインプラス賞を受賞した。そのほかペントレイや名刺スタンド、インク壺など、白と青を基調とするスタイリッシュなアイテムがデスクに落ち着いた雰囲気を与えてくれる。このシリーズは、実店舗で購入可。

Porzellanmanufaktur Fürstenbergフュルステンベルク磁器

創業年:1747年
創業場所:フュルステンベルク
www.fuerstenberg-porzellan.com

Office-Serie オフィスシリーズ Office-Serie オフィスシリーズ

ニンフェンブルクと同年の1747年に、経済や産業、教育の振興に功績があるカール1世(ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公爵)の命によって設立された。フュルステンベルクの商品は、高い職人技術はもちろん、その時代の精神、生活態度、美学を常に反映しているのが特徴だ。創業から270年以上が経つ今でも、その大部分は工房で職人たちの手作業によって造られている。そんな歴史と伝統を兼ね備えるフュルステンベルクだが、近年ではドイツ国内外のデザイナーと協働し、新しいフィールドでの挑戦も。例えば2018年にリリースされた「PLISAGO」は、磁器の優雅さと洗練された雰囲気を現代の生活に取り入れたサイドテーブルだ。ドイツ・デザイン・アワード2019の家具部門で金賞を受賞し、磁器が単なるテーブルウェアでないということを示すとともに、磁器の持つ可能性をぐっと押し広げた。

かつては7大名窯だった?消えてしまった2つの磁器ブランド

Frankenthaler Porzellanフランケンハルター磁器

創業期間: 1755-1799年

国王ルイ15世の時代、フランス国内では王立窯セーヴル以外の磁器生産が禁じられるようになった。それに伴い1755年、ストラスブールのポール・ハノンが率いる窯はカール・テオドール選帝侯の支援を受け、フランケンタールに磁器工場を設立。

白磁器の芸術性としては成功の域に達していたが、販売不振や多額の未払い金に悩まされた。フランクフルトやマインツをはじめとする都市に販売拠点を増やしたものの軌道に乗れず、1780年代末になると生産量も激減。さらにライン川左岸がフランス軍に征服されると、工場の衰退は決定的となり、1799年に生産を終了した。フランケンタールの伝統を受け継ぐニンフェンブルク王立磁器製陶所には、型や優秀な職人たちが移されたという。

フランケンタールにあるエアケンベルト美術館では、今はなきフランケンハルター磁器を見ることができる フランケンタールにあるエアケンベルト美術館では、今はなきフランケンハルター磁器を見ることができる

Ludwigsburger Porzellanルートヴィヒスブルク磁器

創業期間:1758-2016年

1758年、時の大公カール・アウグストが「マイセンよりも素晴らしい磁器を生産する」として、ルートヴィヒスブルク磁器の生産を開始。1759年には、ウィーン窯をはじめとする名門窯元を渡り歩いたベテラン職人、ヨゼフ・ヤーコプ・リングラーを雇い入れたことで最盛期を迎えた。しかし順調だった工場も19世紀前半に行き詰まる。1920年に工場はルートヴィヒスブルク磁器製作所AGとして、実用的な食器の生産にも取り掛かったが、20世紀末には売れ行きが悪化していった。

2004年にドイツの皮革製造社ゴールドプファイルが株主となったが、同社が2008年に倒産。新たな株主を見つけられず、2016年1月に最後の生産が終わったのだった。

 
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