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課題山積みのドイツで新政権発足 メルツ首相が目指すドイツの未来像

5月6日、連邦議会選挙から約2カ月を経て、フリードリヒ・メルツ氏率いる新政権が発足した。ドイツは2年連続のマイナス成長を記録し、トランプ関税でさらなる逆風が吹く一方で、ウクライナ支援でも欧州をリードすべき立場にあるなど、ほかにも課題が山積みだ。そんな危機的な状況のドイツで、新政権はどのようなビジョンを掲げているのだろうか。メルツ政権の立ち位置について、本誌「独断時評」でおなじみの熊谷徹さんに教えていただいた。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

監修:熊谷 徹さん Toru Kumagai
1959年東京生まれ。元NHKワシントン特派員。1990年からフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン在住。ドイツ、欧州の政治経済、安全保障問題など、幅広い分野で執筆している。著書は29冊。本誌では「独断時評」を連載中。
www.facebook.com/toru.kumagai.92

保守本流の政治家 フリードリヒ・メルツはどんな人物か?

メルツ首相

第10代ドイツ連邦首相
フリードリヒ・メルツ
Friedrich Merz

1955年、ノルトライン=ヴェストファーレン州ザウアーラント東部の都市ブリーロンに生まれる。ボン大学で法律を学び、1989~1994年に欧州議会議員を務めた後、連邦議会議員へ転身。2009年に一度政界を離れるも、2021年に再び議席を得て政界復帰。2022年からキリスト教民主同盟(CDU)党首を務めている。私生活では、裁判官の妻シャルロッテ・メルツ氏との間に3人の子どもがいる。

2018年、バイエルン州とヘッセン州の州議会選挙でキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)が大幅に得票率を減らしたことを受け、アンゲラ・メルケル元首相がCDU党首から退くことになった。その次期党首選に立候補していた12人のうちの1人が、フリードリヒ・メルツ氏だ。メルツ氏は、2002年にメルケル氏と意見が対立して院内総務から駆逐され、2009年には議員も辞めており、いわばメルケル氏の不倶戴天ふぐたいてんの敵ともいえる存在。2018年の党首選には敗れたものの、2022年に念願の党首の座を射止めた。

メルツ氏は経済界と太いパイプを持ち、社会保障サービス縮小や規制緩和を主張するネオリベラル的な姿勢で知られている保守本流の政治家。今年2月の連邦議会選挙前には企業への法人税の減税を打ち出し、経済界からも期待を集めた。しかし、所信表明演説では安全保障や軍事問題、外交に重点を置き、得意なはずの経済問題、社会保障改革、難民問題については踏み込まなかった。社会民主党(SPD)と連立を組まざるを得なかったために、メルツ氏が理想とする政策をなかなか打ち出せなかったのである。

5月6日の首相指名投票では、1回目で落選するという、戦後ドイツでは前代未聞の事態が発生。CDU・CSUまたはSPDの議員の少なくとも18人がメルツ氏への投票を拒んだことを意味する。秘密投票なので造反者は不明だが、論壇ではSPD左派が造反したと推測されている。早くもSPDとの不協和音が表面化した。その背景には、絶対に極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)と協力しないという内部規則があるにもかかわらず、メルツ氏が今年1月に難民規制決議においてそれを破ってAfDの賛成票を容認したことがある。また、選挙期間中には「債務ブレーキを修正しない」と言っていたにもかかわらず、3月に方針を転換。発言を翻したことが党内外で批判されている(詳しくは今号「独断時評」を参照)。

このようにメルツ氏は、就任早々指導力を問われており、これからの4年間は険しい道のりとなりそうだ。次の項目では、そんなメルツ氏、そして新政権が掲げる政策と課題について解説する。

参考:フリードリヒ・メルツ氏公式ホームページ、本誌1086号「独断時評:メルケル首相の後継者は誰か? 注目のCDU 党首選挙」、本誌1235号「独断時評:難民規制決議でメルツ氏がAfDの支援を容認

ポイントごとにしっかり解説メルツ新政権の政策と課題

メルツ政権がこれまでに打ち出した政策は、それぞれが「改革」ともいえる大胆なものばかりだ。ドイツが成長力を回復させるには何が必要なのか、政策によってドイツはどのように変わるのか。主要な閣僚をピックアップしながら、メルツ政権の政策と課題を探っていく。

参考:本誌1239号「独断時評:メルツ氏が公約撤回 債務ブレーキを大修正」、本誌1235号「独断時評:難民規制決議でメルツ氏がAfDの支援を容認

ポイント 1
「債務ブレーキ」の修正で財政政策の大幅転換

メルツ氏の施策で評価されている点の一つは、政権発足前の今年3月に「債務ブレーキ」を修正したことである。これは、連邦政府に国内総生産(GDP)の0.35%を超える財政赤字を禁じる憲法上の規定だが、今回の修正によって一定の支出については例外的に制限が解除された。具体的には、軍備拡張のため、防衛支出のうちGDPの1%(約440億ユーロ、7兆400億円、1ユーロ=160円換算)までは通常予算でまかない、1%を超える部分を無制限に国債でカバーすることができるようになった。さらに、インフラ特別予算として5000億ユーロ(約80兆円)を計上し、こちらも債務ブレーキの対象外とされた。メルツ氏をはじめCDUはこの修正に反対していたが、SPDと緑の党が要求。最終的にメルツ氏は公約を破って、修正に踏み切った。ドイツの経済成長率の低さは、資本ストックへの投資が不足していることが原因であると考える経済学者もいる。そうしたなか、債務ブレーキの修正によって資本を確保したことは、財政政策の根本的な転換につながり、メルツ氏の一つの英断であったと評価する声もある。一方では、公約を破ったことで「国民を欺いた」という批判の声も少なくない。

旧連邦議会3月18日、旧連邦議会で債務ブレーキ修正の採決前に演説するメルツ氏(中央)

ポイント 2
GDP成長率を2%に回復させ……られるか?

ドイツでは深刻な景気後退により、自動車産業をはじめとした企業の収益性が悪化している。こうした状況を打開すべく、メルツ氏は法人税を5年かけて、現在のおよそ30%から25%まで下げることを公約に掲げている。同時に、今年も0%と予測されているGDP成長率を2%まで回復させ、ドイツ企業の価格競争力を改善することも約束。さらに、企業の社会保険料負担も収益率を引き下げているとして、長期失業者の支援条件を厳格化するなどの社会保障改革も検討している。しかしこれらの政策全てについて、SPDの同意を得ることは困難と予想されており、メルツ氏の経済改革が成果を生むかどうかは未知数だ。

ポイント 3
政策の実行にはSPD左派のコントロールが重要

メルツ氏が首相指名投票の1回目の投票で選ばれなかった理由は、とりわけSPD左派との意見の食い違いが大きいとみられている。またラース・クリングバイルSPD共同党首が、SPD左派を掌握しきれていない表れともいえる。同氏はSPD右派に属しているが、左派を代表するサスキア・エスケン共同党首は今回の組閣においてポストを与えられなかった。この人事に対して、SPD左派の議員の不満が強まっている。今後もさまざまな政策について、SPD左派をいかにして同意させるかは、クリングバイル氏のみならず、メルツ政権にとって重要な課題となりそうだ。

財務大臣・副首相
ラース・クリングバイル
Lars Klingbeil
SPD

1978年、ニーダーザクセン州ゾルタウ生まれ、ミュンスター育ち。学生時代にゲアハルト・シュレーダー元首相の選挙事務所で働いていた経験がある。地方議員を経て、2009年から連邦議会議員。2021年からSPDの共同党首を務めている。2029年の連邦議会選挙では首相候補になることが期待されている、次世代のSPDの担う人物の一人。 ラース・クリングバイル

ポイント 4
欧州で一番強い軍隊を目指す

ドイツを含む欧州連合(EU)加盟国にとって、2022年にウクライナに侵攻したロシアに対する抑止力を強化することが喫緊の課題だ。2024年のドイツの防衛支出はGDPの2.1%であり、北大西洋条約機構(NATO)の目標である2%を達成した。しかし、トランプ米政権はそれを5%に引き上げることを要求しており、NATOのルッテ事務総長もあらためて最低3%は必要だと主張。その意味でもドイツが債務ブレーキを修正したために、防衛予算をGDPの3%に引き上げることが可能になった点は大きな転換点だといえる。そうしたなか、メルツ氏は所信表明演説で、ドイツ連邦軍を「欧州で通常戦力では最も強い軍隊にする」と明言している。

ポイント 5
兵役義務のための準備開始

昨年、自主性に基づく兵役を2025年5月から導入することが閣議決定されたことは記憶に新しい。18歳以上の男女全員に政府が質問票を送り、健康状態や、兵役に就く用意があるかどうかを問い、健康診断などの結果から適性ありと判断された者は予備役として登録される。なお、男性は回答義務があり、応じない場合は罰金が科せられる。現在、ドイツ連邦軍は18万人いるが、少なくとも2万人の増員が必要とされている。ただし、防衛予算を大幅に引き上げたとしても、平和主義的な傾向が強いドイツの若者に対する入隊の説得は、難航が予想される。

国防大臣
ボリス・ピストリウス
Boris Pistorius
SPD

1960年、ノルトライン=ヴェストファーレン州オスナブリュック生まれ。弁護士として働いた後、オスナブリュック市長、ニーダーザクセン州議会議員を務め、ショルツ政権時に国防大臣となる。メルツ政権の閣僚の中で唯一、前政権から同ポストを引き継いでいる。同氏は兵役復活の必要性を訴えており、2011年にドイツで兵役が停止されたことは間違いだったとも述べている。 ラース・クリングバイル

ポイント 6
フランスとの関係性を再び重視

シュレーダー元首相とメルケル元首相は、EUの中ではフランスとの関係が最も重要だとして、フランスの歴代大統領と密接な関係を築いてきた。ところが、ショルツ前首相はあまりフランスとの関係を重要視しなかった。これはEUの中でも批判されてきた点の一つだ。一方のメルツ氏は、首相就任直後にフランスのマクロン大統領に会いに行くなど、関係強化をアピール。フランスの核抑止力をドイツを含むほかのEUの国々に広げるという案に対して、ショルツ首相は反対の立場だったのに対し、メルツ首相は前向きな姿勢を示している。さらに仏・英・ポーランドの首脳と共にウクライナの首都キーウまでゼレンスキー大統領を訪問するなど、欧州の結束を強めることについて努力していく姿勢も見られる。

マクロン大統領との会談首相に就任した翌日の5月7日、マクロン大統領との会談のために訪仏したメルツ氏

外務大臣
ヨハン・ヴァーデプール
Dr. Johann Wadephul
CDU

1963年、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州フーズム生まれ。法学博士号を取得した後、2000年に同州の州議会議員となった。2009年から連邦議会議員、2018年からCDU/CSU会派副院内総務を務める。対ロシア強硬派として知られる同氏が外務大臣に選出されたことは、ウクライナ支援を積極的に実施していくというメルツ政権の態度の表れともいえる。 ヨハン・ヴァーデプール

ポイント 7
寛容な難民政策から厳しい国境警備へ

ドイツ国内では昨年5月から難民による無差別殺傷事件が計6回起きており、多くの市民が治安の悪化を感じている。反移民を掲げるAfDの支持率を押し上げている理由の一つにもなっており、メルケル政権の時代は非常に寛容だった難民政策を根本的に変える必要性が指摘されている。内務大臣に就任したアレクサンダー・ドブリント氏(CSU)は、ドイツへの亡命を希望する外国人も国境で追い返すと主張。しかし、ドイツの基本法では亡命申請権が認められているほか、EU法(ダブリン協定)にも違反するとして、実行はかなり難しいとみられている。また、ドイツ国内の不法滞在移民を逮捕し、飛行機に乗せて強制退去させるには手間も費用もかかり、警察官や連邦難民移民局の係員の数を増やす必要もあるなど、課題は多い。メルツ政権の難民政策が具体的な成果を生まない場合、AfDがさらに勢力を増す可能性が懸念されている(詳しくは今号の「独断時評」)。

国境の検問所5月15日、バイエルン州のマルクス・ゼーダー州首相(左)と国境の検問所を視察するドブリント内務大臣(右)

ポイント 8
今後10年かけてインフラを整備

ドイツ連邦エネルギー水道事業連合会(BDEW)とドイツ産業連盟(BDI)は、2024年に「インフラ構築などに約1兆ユーロ規模の投資を行わなければ、ドイツは経済競争力を回復できない」とする報告書を発表していた。そのためメルツ政権は、5000億ユーロのインフラ特別予算を計上することを決定した。この予算は、2025~2034年までの10年間にわたって、送電網、水素製造設備などのエネルギー関連インフラ、鉄道、道路の新設・修理、病院や介護設備、教育機関などの整備やデジタル化の推進などに活用される。また特別予算のうち、1000億ユーロは気候保護や経済の脱炭素化に充てられる予定だ。

デジタル化・国家近代化大臣
カーステン・ヴィルトベルガー
Dr. Karsten Wildberger
CDU

1969年、ヘッセン州ギーセン生まれ。Saturnなどの家電量販店グループを経営するCeconomyのCEO。今年5月にデジタル化・国家近代化省が創設され、初代大臣に選出された。民間企業の社長を起用することで、ドイツのデジタル化が加速されることが期待されている。一方で同氏は行政経験がないため、具体的にどう政策を進めるかが今後の注目点。 カーステン・ヴィルトベルガー

ポイント 9
再エネ拡大の費用効率性を改善へ

メルツ氏は環境政策において、前政権のエコロジー重視から、エネルギーの安定供給やできるだけコストがかからない形での再エネ拡大を重視するとみられる。そのため、CDU/CSUとSPDの連立協定にも、発電設備や送電線の建設を許可するプロセスを簡素化するなど、ビューロクラシー(官僚主義)を減らす方針が盛り込まれた。また、前政権が暖房の脱炭素化のために施行させた「建物エネルギー法」についても、廃止または大幅に変更される。一方で、ドイツの環境団体はメルツ政権が二酸化炭素の削減や気候保護をおろそかにするのではないかという懸念を持っているため、今後メルツ政権を厳しく監視していくとみられる。

経済エネルギー大臣
カテリーナ・ライヒェ
Katherina Reiche
CDU

1973年、ブランデンブルク州ルッケンヴァルデ生まれ。経済気候保護省は2025年5月に経済エネルギー省に改称され、ライヒェ氏が初の大臣を務める。配電事業会社の社長を務めるなど、電力業界出身者が経済大臣となるのは初めて。エネルギー業界の改革の牽引役として、期待がかかっている。 カテリーナ・ライヒェ
 
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