プロフィール
東京生まれ、コラムニスト。雑誌編集者を経てフリーに。 ミュンヘン在住。著書に、『大真面目に休む国ドイツ』『休むために働くドイツ人、働くために休む日本人』『日本はどう報じられているか』(共著)など。現在、戦争記念碑 に関する本を執筆中。昨年亡くなった父は、大の「海軍マニア」だった。 大正生まれの父は、太平洋戦争の終戦間際、学徒 動員で海軍に入隊。職業軍人ではないが、帝国大学生向けの「短期に限って現役(通称「短現)」という期間限定のプログラムで勤務し、海軍主計、士官幹部候補生となった。そのときの軍隊での経験は、相当強烈だったそうだ。私にとって戦争の時代は、父の青春と重なる。
海軍にまつわる話は、子どもの頃から父にあれこれ聞かされた。遅刻したら往復びんたをくらったとか、船の甲板から滑って海へ落ち、もがいているうちに泳げるようになったとか(そのせいで私も幼少時に海やプールに落とされ、逆に水が怖くて泳げなくなった)。私が子どもの頃は毎朝、家中に父の起床号令「そーよーこーし」(そう聞こえた)が鳴り響いた。これが軍隊の起床命令である「総員起こし」であると知ったのは、随分後のことである。「総員」といっても、我が家には子どもが2人しかいなかったのに……。
父が元気な頃は、弱音を吐くたびに「貴様の精神を叩き直してやる!」と、よく叱咤激励された。いかにも不条理なこの「精神論」は、海軍で受けた「洗礼」による。精神力だけで戦争に勝てるはずはないが、日本があれだけ厳しい戦争に耐えられたのも、若者への徹底的な軍隊教育があったからに違いない。勉強が大好きだった父と違って学校があまり好きではなかった私が、今日はお腹が痛いから学校を休みたい」と弱音を吐けば、「学校を休むとは何事だ! 這ってでも行け!」と怒鳴られ、仕方なく学校へ行き、保健室で休んでいたこともある。
父の海軍の先輩には、作家の阿川弘之氏がおられる。娘である作家の阿川佐和子氏も、ちょっと文句を言っただけで、「誰のおかげでメシを食っていると思っているんだ!」と怒鳴られたとか。この世代の日本男児を父に持てば、娘と言えどもお構いなし。幸か不幸か、こういう父親の下では不登校や引きこもりになどなっていられない。彼らの中には、戦死した同胞たちの分も生きなければ申し訳ないという気持ちが強かったのだ。
イラスト: ©Maki Shimizu
戦争にまつわる悲惨な話も、たくさん聞かされた。ある同級生は特別任務を命ぜられ、日本からマダガスカルまでの片道分のみの燃料を積んだ1人乗りの潜水艦で諜報活動に行かされた(一体、調査内容を本土にどのように報告していたのだろうか)、硫黄島行きを命じられた同級生が顔面蒼白となっていたこと(硫黄島では戦死率が極めて高かった)、東南アジアの山奥でひどい目に遭った陸軍の同級生のことなど。「ああ、また戦争の話か」と、大抵の場合は聞き流していた。私の同級生の親が体験したのは学童疎開がせいぜいで、戦争に行ったという人はいなかったこともあり、「うちの親は年を取っていてどこか変だ」と内心ずっと思っていたのだ。しかし今になって、もっと真剣に聞いてあげれば良かったかなと、少し後悔している。
父は、「後ろ向きになってはいかん。前進あるのみ!」と、繰り返し言っていた。戦争を体験した世代には、芯の強い人が多かったようだ。それでも、父をはじめとする戦中世代は、「日本がなぜ米国のような大国と戦争状態に突入したのか」という命題に、生涯付きまとわれた。父が自ら希望し、かつての敵国であった米国への駐在が決まったとき、我が家は飛行機の中継地のハワイで真珠湾メモリアルに、赴任先の首都ワシントンに着いたときは真夏の炎天下、真っ先に戦没者が眠るアーリントン墓地の硫黄島記念碑を見に行った。まだ1ドルが360円だった頃の話である。父とはよく戦争映画も一緒に観た。私がいまだに話題の戦争映画を見逃さないのは、父の刷り込み教育による。
一方、父は旧制高校時代にドイツ語を第1外国語として学び、大のドイツびいきでもあった。父は会社に勤めてからもずっとドイツ語会話のレッスンを続け、ドイツと名の付くものにはすべて関心を示した。銀座のドイツ料理レストランへ行くたびに、黒パンを買って帰るのが好きだった。引退してからは、ボランティアで日独協会のニュースレター編集委員を務め、これを生きがいとしていた。そんな父の影響からか、私が大学卒業後に「ドイツに留学したい」と言うと、父は「ミサイルが飛んでくるぞ」と言った。無理もない。時代は冷戦の真っただ中で、私が住んだドイツの大学町では春の軍事演習で寮近辺を戦車が走っていた。その轟きに、欧州には、日本にない緊張感があるものだと感じた。それでも、平和な時代に生まれた者としては、戦争に対するリアルな認識に欠けていたように思う。すっかりドイツかぶれになって帰って来た私が夕食時に、食卓にろうそくを灯すと、父に「(灯火管制の頃の)戦時中を思い出すからやめてくれ」と言われた。一事が万事、とにかく父にあっては、何から何までが戦争と結び付いているようだった。
現在、再びドイツに住むようになって実感するのは、この国の戦後もまだ終わっていないということだ。ドイツの著名な言論人が、「テレビでナチス・ドイツの犯罪が放送されるたびに目を背けたくなる」とコメントしていたが、外国人の私でさえ“またか”と思うほど、日本人が想像する以上に戦争やナチスに関する報道が多い。しかし、ドイツが戦後、長い時間を掛けて欧州社会に溶け込もうと努力し、いかにナチスによる被害を受けた国々との和解に尽力してきたかについて、日本には十分に伝わっていない。その証拠に近年、日本では「ナチスの罪は日本と同等ではない」という論理が横行し、時代はなんだか逆行しているようにさえ感じられる。
今年は戦後70年。日本もドイツも、戦争を体験した世代がすっかり減った。戦争の悲惨さを語ってくれる人間が身近にいなくなるにつれ、生々しい戦争の記憶も遠ざかっていく。最近はすっかり平成生まれの人が増え、そのうち「昭和生まれ」というだけで年寄り扱いされることになりそうだ。はたして、昭和の時代から学ぶべきものは何なのか。願わくば、「平成」という名にふさわしい時代となるよう、新しい世代の活躍に期待したい。