欧州司法裁判所儀典長
1948年ヴェルル生まれ。少年期を6年間東京で過ごす。ミュンスター大学とローザンヌ大学で法学を学んだ後、78年国家試験に合格。ベルリン市、ブランデンブルク州、連邦大統領府の儀典長を歴任し、2010年4月より現職。
Photo: Thilo Rückeis
2001年から今年3月まで、ほぼ10年間に及ぶドイツの連邦大統領府儀典長としての重責を終えられた、今のお気持ちはいかがでしょうか?
連邦大統領のもとで働くことを許されたのは幸運でした。今は感謝の気持ちと同時に誇らしくもあります。わくわくするような素敵な時間にたくさん恵まれましたが、一方では、困難な、悲しい状況に置かれたこともありました。例えば、2004年末のスマトラ島沖地震の時です。ケーラー大統領がドイツの犠牲者のための国家追悼行事を開催するよう指示したところ、多くの犠牲者の家族が参加し、その場は悲しみに包まれました。また、2006年にラウ元大統領が亡くなった時も、とても悲しい気持ちでしたね。
日本人の読者に、連邦大統領府の儀典長の任務について少しご説明いただけますか?
公式行事の準備を行ったり、大統領のスケジュールを調整することです。そうしたオーガナイズを一手に引き受けています。そして特に大事なのが、政治的な事柄を考慮することです。大統領というのは、政治的なポジションにいるわけですから、大統領のやることなすことすべてがドイツという国家に帰せられます。また、食事や歓迎セレモニーなどは、大統領が個人として行うのではなく、ドイツの国家元首として執り行います。ですから、連邦議会や連邦参議院、政府、連邦憲法裁判所などとの関係にも配慮しなくてはなりません。これを踏まえて、「大統領が」何をなすべきなのか、と考えます。大統領が国家の代表たるにふさわしい、尊厳と気品のある行事となるよう、入念に準備をしなくてはなりません。
レーアさんは、ヨハネス・ラウ氏、ホルスト・ケーラー氏という2人の連邦大統領の間近で働いてこられたわけですが、この2人の個性についてはどのようにお感じになっていましたか?
ラウ氏は根っからの政治家でした。政党での長いキャリアがあり、そのことが彼を強く方向付けていました。一方、ケーラー氏は官僚として素晴らしいキャリアを持っている人物ですが、もともと政治家だったわけではありません。それゆえ、人生の大分後になって国家元首として政治的役割を担うようになったケーラー氏は、手法も考え方も、ラウ氏とは非常に対照的でした。
公式晩餐会の準備や進行にあたる上で、外国からの多くの国賓を見てこられたと思いますが、興味深いエピソードや出来事があれば教えていただけないでしょうか?
公式晩餐会は、常に外務省と一緒に準備を進めていましたが、私の専門分野で、また特別に関心を持っていたのが、晩餐会にふさわしい音楽を選び出すことです。お客さんとホスト側、外国の来賓とドイツ連邦大統領との間の橋渡しをしようと、私は常に務めていました。例えば、アイルランドのマッカリース大統領がベルリンを訪問した際、私はベルリン芸術大学とコンタクトを取り、ホルン科のある教授と話をしました。彼は自分のクラスの生徒たちとホルンのアンサンブルをすることを提案し、メンデルスゾーンの作品とアイルランドの民族音楽を晩餐会で演奏することになりました。アイルランドには地域によって多種多様の民族音楽があるのですが、その時は大統領の出身地の、いかにもアイルランドという感じの歌を選んで演奏してもらったんです。マッカリース大統領は涙を流して聴き入っていました。その後、彼女は連邦大統領に、この「音楽による心のこもった挨拶」に対して謝意を伝えていました。
ポルトガルの大統領が公式訪問した際は、リアス室内合唱団がブラームスなどのドイツ音楽、その後ポルトガルの音楽を歌ったのですが、大統領夫妻はとても興奮して、合唱がダ・カーポでもう一度メロディーを繰り返した時、一緒に歌い出したのです。ポルトガルの大統領が公の場で歌うことなど初めてだったそうで、晩餐会はとても良い雰囲気に包まれました。
大統領のもとを訪れるのは、もちろん外国からのお客さんだけに限りません。また、ベルビュー宮殿以外の場所で催しが執り行われることもありました。例えば2004年には、ラウ大統領が、高松宮殿下記念世界文化賞の晩餐会をペルガモン博物館の祭壇で開催しました。2005年にイギリスのエリザベス女王がドイツを公式訪問した際には、ドイツ歴史博物館のツォイクハウスで晩餐会を催しました。どちらも思い出深いですね。
一般の人には、なかなか想像しにくい華やかな世界ですね。
晩餐会というのは確かに華やかな場ですが、儀典長の仕事で大事なことは、常に背後にいるということです。私が何かをして喜ばれたとしても、対外上は大統領のしたこと。私はあくまで背後から、その都度適切なアイデアを練って大統領をサポートするだけですから。
お父様のお仕事の関係で、6歳から12歳までを日本で過ごされていますが、この経験はレーアさんに影響を及ぼしましたか? また、レーアさんにとって日本とは?
私は日本でとても幸せな少年時代を送ることができました。その時からドイツと日本が互いに尊敬し合っていることを子どもながらに感じていました。日本学を専攻した私の父は、留学経験もあって日本語が堪能でした。私も当時は周りの子どもたちと日本語で直接コンタクトを取って、よく一緒に遊んだものです。日独の間にある様々な違いを越えて、私は水を得た魚のようにのびのびとしていました。今でも日本とは多くの接点があり、また定期的に訪れていますが、感心したり驚いたりすることは少なからずあります。例えば、静寂に満ちたお寺がある一方で、騒音にあふれたパチンコ屋がある。それはあまり美しいものではありませんが、そんな両極端なものが、すぐ隣合わせにあることも珍しくない。このコントラストにはわくわくします。
この4月からはルクセンブルクの欧州司法裁判所に活動の場が移りましたが、どういう任務にあたられるのでしょう?
欧州連合の最高裁判所にあたる欧州司法裁判所で、儀典長として大きな会議や式典などを取り仕切ることが任務となります。また、EU27カ国、日本や韓国、米国といった国々の最高裁との交流も私の仕事と関わっています。欧州司法裁判所は多国間主義の組織なので、EUのすべての加盟国のメンバーから構成される65人の裁判官と法務官がいます。今までは1人のシェフ(上司)だったのが、今度からは65人。また、裁判所での作業原語はフランス語になるので、これも私にとっては大きな挑戦です。
新天地でのご活躍を心より願っています。どうもありがとうございました。
インタビュー・構成:中村 真人