日本で「本当は怖いグリム童話」がブームになるなど、ここ数年で再び脚光を浴びているグリム童話が昨年末、初版の出版から200周年を迎えた。グリム兄弟は、その編集者として日本では有名だが、ドイツでは言語学者としてドイツ語の統一に尽力したことで知られている。グリム兄弟は、なぜ童話の編纂に取り組んだのであろうか。その時代背景を追ってみよう。
グリム兄弟の誕生
ヤーコプとヴィルヘルムは、1785年、翌86年に誕生。6人兄弟のうちの長兄と次兄(早くに亡くなった子を除き)であった。父親は法律家で、シュタイナウの司法官を務めた人物。彼らが生まれたのは、フランス革命のわずか数年前である。兄弟が思春期に差し掛かった頃、隣国は革命、そして共和制と激しく揺れ動いており、ドイツにもその影響が及んでいたことは想像に難くない。
大学進学と教授との出会い
兄弟が11歳になる頃、1796年に父親が亡くなり、母方の姪を頼ってカッセルに移り住んだが、経済的には困窮していなかった。兄弟は亡き父の遺志に従い、マールブルク大学の法律学科に進んだ。そこで、歴史法学者のフリードリヒ・カール・フォン・ザヴィニー教授と出会う。彼が、当時のローマ法を中心とした法体系とは別に、ゲルマン諸民族の習慣法の価値を教え、グリム兄弟の後の人生を決定付けた。ヤーコプはドイツ語の歴史や文学を研究する道へと進み、兄弟はその後10年にわたり、童話を収集した。
ヴィルヘルムの結婚
1808年に母が亡くなり、1824年には、今まで兄弟の身の回りの世話をしてくれていた妹が司法官と結婚。これを機に、2人は結婚を意識し始めたのであろう。1825年にヴィルヘルムは結婚するが、ヤーコプが弟から離れなかったため、ヴィルヘルムの妻は生涯2人の面倒をみた。2人の間に生まれた子、ハーマン・グリムは歴史家であり、執筆家であったため、後にグリム兄弟の功績を広めることとなった。
1812年12月20日に
「子供たちと家庭の童話(Kinder- und Hausmärchen)」の初版が発行された。
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ベルリンへの招へい
1841年にプロイセン王ヴィルヘルム4世により、ベルリンの科学アカデミーに招へいされ、ベルリン大学で教授職に就く。その後、1842年には当時のドイツ最高の勲章を授与された。ベルリン時代の20年間は兄弟にとって、安定した時代であった。そしてその地で、1859年にヴィルヘルムが73年の、1863年にはヤーコプが78年の生涯を終えた。
グリム兄弟の死後
1890年に、グリム兄弟はマールブルク大学より名誉博士号を授与された。彼らのドイツ語辞典の偉業はその後も引き継がれ、完成したのは1961年のことである。そのドイツ語辞典は、最大の語彙数を誇る
グリム兄弟生誕の地、ハーナウにあるグリム兄弟の像
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グリム童話が編さんされた時代背景
グリム兄弟が活躍した時代は、ナポレオンの台頭と没落、その後のウィーン体制の中で、ドイツがいまだ小国の乱立状態にありながら、統一を目指す機運が高まっていった時代であった。統一ドイツ実現のため、ゲルマン民族の共通言語や古典が必要と考えられたのである。
また当時は、産業革命への過渡期でもあった、ロマンを内包する古い伝説や神話に立ち返りたいというセンチメンタリズムが広まり、そのような話を書く作家がたくさん現れた。グリム兄弟は、近代化の過程で失われていく伝説や神話を保存すべく、童話の編さんに取り組んだのである。
グリム童話の成り立ち
グリム兄弟は、各地を回ったのではなく、彼らの元に女性を集めて口頭伝承された童話を語らせた。彼女達はきちんとした教育を受けた良家の子女であった。童話の引用元の詳細については、出版から100年程経ってから明らかとなり、中でもマリー・ハッセンフルークというフランス革命前にフランスから移住した女性の話が中心に書かれていることが分かった。彼女は、スイスのジュラ地方から移住した曾祖母から聞いた話を伝えたとされている(スイスのジュラ地方もフランス語圏)。そのため、グリム童話には、フランスの童話コレクション「コント・ドゥ・フェ(Les Contes de Fées)」とよく似たもの多くが含まれる。しかし、グリム兄弟は純粋なドイツの童話を集めることを意図していたため、そのことについて言及しなかった。
ハーメルン Hameln
「ハーメルンの笛吹き男」で有名になった街。物語の内容については、グリム童話を参照していただきたい。童話にちなんで、ネズミをかたどったグッズが数多く売られている。また、旧市街の通りにはネズミの足跡のペイントが施され、それに沿って歩けば旧市街の要所がすべて回れるようになっている。
「ハーメルンの笛吹き男」は1284年に実際にあった事件をモチーフに書かれているという。子どもが失踪した理由については現在も明らかにされておらず、諸説ある。
- 1.伝染病にかかり、子どもたちが一斉に亡くなった。笛吹き男は死神の象徴であった。
- 2.夏祭りの日に子どもたちが誤って崖から転落したか、川に流された。
- 3.植民地への集団移住。笛吹き男は東方への植民運動のリーダーであった。
なお、笛吹き男が子どもを連れ去ったと言われる通りが今でも残っている。ブンゲローゼンシュトラーセ(Bungelosenstraße)である。ここでは現在も楽器を叩いて鳴らしたり、踊ってはいけないとされている。("Hier darf kein Tanz geschehen noch Saitenspiel gerührt werden.") ネズミ捕り男の家を正面に見てすぐ右の通りである。細い通りなので、見逃さないように注意が必要だ。
ネズミ捕り男の家とBungelosenstraße
その他のグリム兄弟たち
2人には、ほかに3人の弟がおり、フェルディナント・フィリップは世間に名を知られていないが、童話の収集に協力した。ルートビッヒ・エミールは「画家の弟」と呼ばれ、1825年に当時ヨーロッパで一番古い芸術家集団、ウィリングスホイザー・マーラーコロニー(Willingshäuser Malerkolonie)を結成。1832年に結婚し、カッセルの美術学校の教授を務めた。グリム童話の出版の際には挿絵を手掛けている。1863年に亡くなるまでカッセルに留まった。
ゲッティンゲン七教授事件
Göttinger Sieben
<参考文献とURL>
■ Zeit Online "Märchen über Märchen" (21.12.2012)
■ Spiegel Online "Die Angst vorm bösen Wolf" (17.12.2012)
■ grimm2013.nordhessen.de
■ ferien-in-hameln.de
■ wikipedia.org "Rattenfänger von Hameln" "Göttinger Sieben"
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