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連邦憲法裁判官の選任中止とメルツ政権の亀裂

7月11日に連邦議会で起きた出来事は、ドイツの政界そして法曹関係者に強い衝撃を与えた。この日連邦議会では、連邦憲法裁判所の3人の裁判官が選ばれる予定だった。ドイツで最も権威がある連邦憲法裁判所の裁判官の選任には、議員数の3分の2を超える賛成票が必要だ。

7月15日、トーク番組「Markus Lanz」に出演したブロシウス=ゲルスドルフ教授7月15日、トーク番組「Markus Lanz」に出演したブロシウス=ゲルスドルフ教授

CDU・CSUが土壇場で反対

ところがメルツ政権を構成する連立与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党(SPD)は、裁判官の選任を票決直前にキャンセルした。通常ならば連邦憲法裁判所の裁判官の選任は、ほぼ形式的、事務的な手続きである。票決が直前に中止されるのは、前代未聞の事態だ。

キャンセルの理由は、SPDが推薦していたポツダム大学のフラウケ・ブロシウス=ゲルスドルフ教授について、CDU・CSUの議員団の中で、反対者が急増したためである。両党は6月末には同教授を含む3人の法学者を候補にすることに合意していたが、7月に入ってからCDU・CSU内で同氏への異論が高まった。

フルードリヒ・メルツ首相と、CDU・CSU議員団のイェンツ・シュパーン院内総務は、ブロシウス=ゲルスドルフ教授の選任に賛成していた。しかし彼らは、議員団の中でこの人物に対する反対意見が急激に強まったことを、把握していなかった。このためシュパーン院内総務は、SPDに対して裁判官の選任プロセスの中止を申し入れた。

SPDは激怒した。同党の議員団の幹事長を務めるディルク・ヴィーゼ議員は、「今日はドイツの民主主義にとって、悪い日だ。右派勢力が、ブロシウス=ゲルスドルフ教授に対する誹謗中傷キャンペーンを行ったことが原因だ」と述べた。彼は「SPDはこれまで、難しい票決の際に責任ある行動をとってきた。われわれは将来CDU・CSUからも同じように責任のある行動を要求する」と訴えた。SPDのラース・クリングバイル党首も、「難しい票決を行う際には、党首や院内総務が責任をもって議員たちを指導するべきだった。シュパーン院内総務は、議員たちを統率できていない」と述べ、CDU・CSU議員団を厳しく批判した。

右派勢力がSPD指名の候補をネット上で攻撃

ヴィーゼ議員が述べた誹謗中傷キャンペーンとは、主に右派勢力がインターネット上で、「ブロシウス=ゲルスドルフ教授は極左だ」という噂を広めたことを指す。特に激しく議論されたテーマが、妊娠中絶だ。ドイツでは妊娠中絶は、刑法第218条により違法(rechtswidrig)とされている。ただし刑法は、「医師との協議の下に、妊娠から12週間以内に行なわれる妊娠中絶は、違法であるが罰則を適用しない(straflos)」という例外規定を設けている。ブロシウス=ゲルスドルフ教授は、「妊娠から12週間以内の期間については、罰則を適用しないだけではなく、違法でもないとするべきだ」と主張していた。

だがインターネット上では、「ブロシウス=ゲルスドルフ教授は、妊娠から12週間が過ぎてからの妊娠中絶についても罰則を廃止するべきだと主張している」という誤った指摘が流布された。ブロシウス=ゲルスドルフ教授は、7月15日にARDのインタビューに答えて、「私が『妊娠から12週間を過ぎて行われる妊娠中絶も合法化し、罰則を廃止するべきだと主張した』という説は嘘だ。私が極左に属するという主張も誤りだ」と反論し、「私を追い落とすためのキャンペーンにさらされた」と説明した。さらに、「私が最も恐れていることは、この議論によって連邦憲法裁判所の権威や、議会制民主主義が傷つけられることだ。そのような危険が高まったら、私は候補を辞退する」と述べた。

ブロシウス=ゲルスドルフ教授は、「私の立場は中道だ」と主張する。ただし、極右政党については厳しい態度を持っている。同氏は、2024年のテレビ番組で「AfD(ドイツのための選択肢)の州議会選挙での躍進ぶりを見ると、この党がその危険性のゆえに支持率を減らすことはあり得ないと考えるべきだ。連邦憲法擁護庁がAfDについて十分な資料を集めることができた場合には、AfD禁止申請が連邦憲法裁判所に提出されるべきだと思う。民主主義国は、民主主義の敵と闘うべきだ」と述べている。

ちなみにブロシウス=ゲルスドルフ教授については、当初「法学者である夫の論文の内容と同じ表現が多数使われている」という盗用疑惑が取り沙汰されたが、同氏の論文は、夫の論文よりも早く書かれていたことが分かり、この疑惑は否定された。ある意味でブロシウス=ゲルスドルフ教授は偽情報の「被害者」だ。

メルツ首相の統率力に疑問符

本稿を書いている7月23日の時点では、SPDのクリングバイル党首は「われわれは引き続きブロシウス=ゲルスドルフ教授を推薦する。裁判官選任の票決をもう一度行うべきだ」と主張している。一つだけ確実に言えることは、メルツ首相とシュパーン院内総務が、CDU・CSUの議員たちをしっかりと統率できていないということだ。今年秋以降、両党は、社会保障制度の改革や兵役義務など、難しい政治課題について法案を策定し、議会を通過させなくてはならない。

ドイツの論壇では、「裁判官選任もスムーズに行えない大連立政権が、生活保護の削減について内部の合意を得られるのか?」という疑問の声が出ている。メルツ首相が、連立政権内の亀裂を埋めることができるかどうかが注目される。

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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