ジャパンダイジェスト

選挙と養育手当

FDP党首と労働相

来年秋の連邦議会選挙へ向けて、長い戦いが始まった。最近の各政党の行動が、そのことを強く感じさせる。連立与党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)、自由民主党(FDP)は11月上旬、市民にささやかな「プレゼント」を贈ることを決めた。

ユーロ危機もどこ吹く風で、ドイツの財政状態は絶好調。このため、連邦政府は2014年には財政赤字ゼロ、つまり無借金経営を達成する予定だ。メルケル政権は財政が大幅に改善されたことによる「果実」を、市民にも還元しようと考えているのだ。

政府が打ち出した主な施策は、次の通り。

• Betreuungsgeld(家庭養育手当)の支給
• Lebensleistungsrente(生涯労働年金)の支給
• Praxisgebühr(初診料)の廃止
• 交通インフラの整備など

CDU・CSU、FDPの3党はこれらの施策について、微妙に異なる意見を持っている。しかし結局は来年の選挙を射程に入れ、有権者に何らかのサービスを行うことを最優先にした。メルケル政権は「今回の施策で、市民の負担は数十億ユーロ減る」と宣伝しているが、細かく検討すると「本当だろうか?」と首をひねらざるを得ない。

連立与党の間で最も激しい議論が行われたのが、在宅育児手当。これは特にCSUが重視した政策で、2歳の子どもを託児所に預けず家庭で養育する両親に、2013年8月から毎月100ユーロ(1万円・1ユーロ=100円換算)が支給される。支給対象は2014年には3歳の子どもにも拡大され、金額も引き上げられる。現金支給を選ばず、自分の老後の備えや子どもの将来の教育費として貯金をする親には、毎月15ユーロが加算される。つまり、託児所に頼らずに自分で子どもを養育する両親に、国が資金を出すというのだ。

ドイツは、英仏と比べて託児所が整備されておらず、その数が不足している。これは、ドイツの出生率が低い原因の1つと考えられている。このためCDUのウルズラ・フォン・デア・ライエン労働相は、母親が安心して働けるように、託児所の増設を進めている。

在宅育児手当の支給は、託児所の増設と矛盾する政策だ。保守的なCSUは、「子どもの教育に最も重要なのは家庭」と考えている。したがってCSUは、「親たちの選択の幅を広げるために、在宅育児手当を提案した」と説明する。しかしこの制度は、「女性が職場で働かないで家にいれば、政府がお金を与える」とも解釈することができる。このため社会民主党(SPD)などはこの手当を「Herdprämie(女性が台所にいることを奨励する報奨金)」と呼んで猛烈に反発している。子どもを持ちながら大臣職を務めるフォン・デア・ライエン氏も、同手当には複雑な心境だろう。

生涯労働年金の内容も、不透明だ。所得が低い場合、40年間働いて公的年金保険料を支払ったにもかかわらず、支給年金の額が低くなることがある。メルケル政権は、そうした場合に「生涯労働年金」によって支給額を追加することを検討している。現在、年金の最低支給額は毎月688ユーロ(6万8800円)。実はフォン・デア・ライエン労働相は、今年夏に「年金支給額を、少なくとも850ユーロに引き上げるために、補助年金を導入すべきだ」と提案したが、連立与党内で批判の集中砲火を浴びて、引き下がらざるを得なかった。一旦は葬られた補助年金が、生涯労働年金という形で姿を現したのだ。ただし、今回連立政権が考えている制度は、688ユーロの最低支給額に10~15ユーロを上乗せする程度になると予想されている。

今後、ドイツで物価上昇率が高まることを考えると、年金を10~15ユーロ増額するだけでは、焼け石に水なのではないか。

現在、公的健康保険に加入している市民は、医師の診療を受けるごとに、1四半期当たり10ユーロの初診料を支払わなくてはならない。これは2003年に当時のシュレーダー政権が、公的健康保険制度改革の一環として導入したもの。医療費支出と健康保険料の伸びに歯止めをかけ、市民の受診回数を減らすことを目的としていた。

しかし当時14.3%だった健康保険料率が、現在は15.5%に上昇しているほか、市民の診療回数も大幅には減っていない(現在、ドイツ人が毎年医者に行く回数は平均18回/年である)。医師や病院も、「初診料は事務手続きを増やすだけで、医療費支出の削減にはつながっていない」と強く批判していた。この制度の廃止を最も強く求めていたのは、FDP。レスラー副首相の主張が通った形だが、市民にとっては初診料廃止が大幅な負担減になるとは思えない。

これらの施策は連立与党が選挙へ向けて、「我々はこれだけ市民のためのサービスを向上させます」と訴えるための「見せ金」のように思われる。今後SPDと緑の党は、これらの施策の実効性を厳しく追及するに違いない。

16 November 2012 Nr. 942

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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