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ビオ製品はエコロジーでエコノミー?

「BIO」という文字を見て、皆さんは何を想像するだろうか? バイオテクノロジーやITセキュリティーのバイオメトリクス(生体)認証などを想像する人が多いかもしれない。bioはギリシャ語のbiosに由来し、「生命」という意味である。ドイツでは「ビオ」と発音し、もっぱら自然食品や有機栽培製品のことを指す。今回は、エコ好きで知られるドイツ人とビオとの関わりについて見ていこう。

ドイツのビオ認証マーク

ドイツのビオ認証マーク

ドイツに住む日本人にはお馴染みのこのマークは、2001年9月、緑の党のキューナスト農業相によって導入された。

ドイツにはそれ以前にも非政府のビオ認証機関が数多く存在したが、様々なマークが存在するのは消費者にとって分かりづらいため、すべての有機栽培食品や製品が一目でそれと分かるように標準化された。2000年に、連邦研究機関によって国内初の狂牛病が確認されたことから、食の安全に対する危機意識が高まった時期でもある。このマークは現在、ドイツ国内4410社の6万9276品目に付与されている(2014年9月末時点)。

ビオ認証の基準としては、食品や製品が有機農法の規則に従って生産・管理されていること、また、少なくとも95%が有機農法によって、残りの5%は有機農法で対応できない場合のみ既存の農法で作られること、遺伝子組み換え技術を使用しないことなどが挙げられる。ドイツのビオ食品や製品のシンボルであるこのビオ認証は、欧州連合(EU)のビオ認証制定の際にも参考にされた。

EUのビオ認証マーク

EUのビオ認証マーク

「ビオ」と同様に、「オーガニック認証」や「エコ」といった言葉はEUの法律で定義され、その基準をクリアしていなければ使用できない用語となっている。 このEUのビオ認証マークは2010年に発表された。先んじてビオ認証制度が進んでいたドイツでは、国内のビオ認証マークが一般的であったため、あえて表示しないか、ドイツのビオ認証マークとともに表示するのが一般的だったが、2012年7月1日からEUのビオ認証マークの表示が義務付けられた。

このマークは、EU圏内の最低限のビオ基準を保証している。表示の際には、産出国名を記載すること、原材料が産出国と異なる場合はEU圏内で産出されたものかどうかを明記することも義務付けられている。また、遺伝子組み換え食品や飼料は0.9%未満の含有を認め、トレーサビリティー(追跡可能性)を初めて承認した。

2014年3月、欧州委員会は消費者の環境や品質に対する関心や、基準をさらに強化すべきという要望を受け、有機食品に新たな規制を設ける案を公表した。

ビオ食品の消費

ドイツのビオ市場は欧州最大規模で、2013年は約75億ユーロ。2012年は約70億ユーロだったので、前年比7%増の計算になる。主な購買層は若者である。連邦農業省の調査では、30歳未満の23%が頻繁にビオ食品を購入すると回答している。50~59歳では19%。彼らが主にビオ食品を購入する理由は、生産地域の汚染を最小限に食い止め、人間が家畜や自然環境に対して与える痛みやストレスを最小限に抑えること。つまり、公正な環境で生産されたものであるかどうかを重視しているのだ。

価格に敏感なエコロジスト

ドイツのビオ市場はEU全体の30%を占め、突出しているにもかかわらず、国内のビオ農地の規模はEU平均よりわずかに多い程度で、需要から比べると明らかに不足している。ここ10年のビオ・ブームで、ビオ専門店だけでなく、ディスカウントスーパーにもビオ食品が数多く置かれるようになった。ビオ食品はほかの食品との価格競争に晒されているのだ。

また、EUが拡大するにつれ、人件費の安い東欧で大量のビオ農産物が生産されるようになった。2004~10年の間に、ポーランドで531%もビオ農業地が増えたのに対し、ドイツではその割合はわずか39%であった。エコのためには地産地消することが一番だが、環境保全主義者で欧州一財布のひもが固い消費者たちを満足させるのは至難の業なのである。

るビオのスーパーマーケット「basic」
チェーン展開しているビオのスーパーマーケット「basic」


ビオのスペシャリスト
Avantiの渡邊社長にインタビュー

ドイツのビオ認証マーク

株式会社アバンティ
渡邊智恵子代表取締役社長
1985年、(株)タスコジャパン取締役副社長時に(株)アバンティを設立。1990年、英国人エコロジストの依頼でオーガニックコットンの原綿の輸入を手掛けたことをきっかけに、その素晴らしさを世に広めることを決意し、同年タスコジャパンを退社して独立。業界では、オーガニックコットンを原綿から最終製品に至るまで、トータルに手掛ける稀有な存在。

ビオ製品に関わられたきっかけは?

米国にあるオーガニックコットンの生地を輸入販売したことから、ビオ製品に関わりました。米国の生地は日本人の好みには合わなかったので、原綿を輸入し、糸、生地、最終製品を一気通貫でやるようになりました。コットンを染めることが一番環境にダメージを与えます。そのため、染めずに綿の色や綿本来の持つふくよかさや温かさを活かすことを考えました。日本全国には伝統的な技術やマインドがあり、その織物の技術を使って生地を作ることによって、染めないという弱点を強みに変えました。それは他国ではできないことです。

ビオ製品に関するドイツと日本の違いは?

ドイツにはビオの種類が多く、国全体に「オーガニックにしていこう」という気運があります。ドイツの綿製品の2~3割はビオですが、日本では1%弱です。国民がビオの重要性を認識している国では底辺が広く、生産ロットが上がれば価格は下がるので、ドイツではクオリティーの割に廉価なものが手に入ります。その点では日本は勝てません。日本人の素晴らしい考え方、「もったいない」という精神をもう少し引き上げていけば、日本にも洗練されたマーケットが生まれると考えています。そのためには、政府の後押しやサポートが必要です。

欧州の人々のビオ製品に対する姿勢をどう思われますか?

欧州では、ドイツ、英国、フランス、北欧でビオ市場が発達していて、各国の認証機関がしっかりしています。欧州では、国家や国民のビオに対するサポート(マインド)が確立していると思います。

用語解説

農業連盟
Anbauverband

非政府機関から発行されるビオ認証マークは今でも広範囲で使用されており、EUのビオ認証よりはるかに厳しい基準を課している機関がほとんどである。Demeterは1924年に設立され、認定された食品は、現在でも世界最高水準の有機食品とみなされている。Bioland(1971年設立)は世界最大のビオ認証機関で、5万6000の生産者が登録している。ほかに、Naturland(1981年設立)などがある。

<参考文献とURL>
www.bio-siegel.de
www.ec.europa.eu Organic Farming
www.dge.de 10 Jahre Bio-Siegel – ein Rückblick
www.bmel.de Deutscher Biomarkt setzt Wachstumskurs weiter fort (11.02.2014)
www.faz.net Mehr junge Leute kaufen Bio-Lebensmittel(19.08.2013)
www.brandeins.de Einmal öko und zurück (12.2013)

藤田さおり(ふじた・さおり) 法政大学経営学部経営学科卒業。スイス、ドイツ在住。日本で独大手自動車メーカーのマーケティング部に従事。その後、スイスにてマーケティングや通訳をベースとしたコンサルティング会社を設立する。ビジネス経験から、日本や海外駐在のビジネスマンにも分かりやすい記事を目指している。
Facebook: funi.swiss

最終更新 Dienstag, 04 Juni 2019 16:17
 

ドイツ“統一”の日

10月3日に24回目のドイツ統一記念日(Tag der Deutschen Einheit)を迎えたドイツ。テレビのニュースなどで、ベルリンで行われた式典の様子を観たという人もいるだろう。この“統一”という言葉には、旧西ドイツでドイツ連邦共和国が、旧東ドイツでドイツ民主共和国が成立して以降の様々な事情が込められている。今回は、ドイツの分裂から統一、その後のあらゆる問題について紐解いてみたい。

ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国の誕生

第2次世界大戦後のドイツは、米、英、仏、ソ(旧ソビエト連邦共和国、以下ソ連)による暫定統治地域となった。ソ連占領地域における土地改革や、その後の西側(米、英、仏)と東側(ソ連)における通貨改革を通して、両者の溝は決定的になっていく。

第2次世界大戦におけるドイツの降伏からちょうど4年目の1949年5月8日、西側のボン議会評議会はドイツ基本法を可決し、9月にはドイツ連邦共和国が誕生した。一方、東側はドイツ連邦共和国の建国がドイツの分断を決定的にしたと非難し、同年10月にドイツ民主共和国を建国した。

“統一”という目標

東西両国の建国直後にも統一の話し合いが試みられたが、互いに妥協せず、実現には至らなかった。“統一”が両国にとっていかに重要であったかについては、両国の憲法にも表れており、西ドイツでは、東西ドイツ統一を想定した、あくまで暫定的な法であるとして、憲法ではなく基本法と称された。その基本法の前文では、ドイツの統一が最高目標に掲げられている。また、東ドイツの憲法においても、ドイツは分割されない民主的共和国であるとされた。

現在のドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)は、西ドイツにおいて制定された基本法を基に、いくつかの条文を改正した後、そのまま統一ドイツの実質の憲法として効力を有しているため、“基本法”のままなのだ。

統一のコスト

東欧の社会主義諸国の中で最も発展し、「優等生」と呼ばれていた東ドイツの吸収について、統一前、西ドイツはかなり楽観的な未来像を描いていた。1990~94年の間、東側の復興のために連邦と州が拠出した「ドイツ統一基金(Fonds Deutsche Einheit)」は総額822億ユーロに上った。しかし、基金が終了した後も東側の復興は十分成されたとは言えず、95年からは連帯税が再導入された。これは91年に1年間の期限付きで導入されたもので、当初は所得税や法人税の7.5%だったが、98年からは5.5%となった。しかし、近頃の東西格差の減少を受けて、2019年に連帯税は廃止されることが決まっている。

現在、旧東側地域の失業率は10.3%。旧西側の失業率と比べると2倍近い開きがあるものの、90年半ばに旧東側地域の就労者の3分の1が失業していたことを考えると、かなり低い数値である。

州間財政調整制度への影響

東西ドイツの分断とその後のドイツ統一は、財政力の強い州が弱い州に対して支援金を拠出することを定めた州間財政調整制度へも影響を与えている。経済力が強い西側の3州(バイエルン州、ヘッセン州、バーデン=ヴュルテンベルク州)が拠出州となっているのに対し、旧東側の州はすべて受給州である。最多の拠出額を負担しているバイエルン州が2013年に拠出した暫定金額は43億ユーロで、総額85億ユーロのおよそ半分を占める。

一方、最も多く支援を得ているベルリン市(州と同格)の受給額は33億ユーロに上る。バイエルン州は1989~2013年の間に計460億ユーロを拠出した。現行の州間財政調整制度も連帯税と同じく、19年まで実施される予定だが、近年、拠出州の負担がますます増大しつつあるため、昨年、バイエルン州とヘッセン州がこの制度は違憲であるとして連邦憲法裁判所に提訴した。憲法裁の判決は早ければ今年中に出されるという。

2013年, 州間財政調整制度比較

現在に残る旧東ドイツ

国内の30歳以下の若者の3分の2は、ベルリンの壁の建設日を答えられないという記事を読んで驚いた。しかし、彼らにとって東西ドイツの分裂は、実際に経験したものではなく、学校で習った歴史であることを考えれば、仕方ないのかもしれない。

今はもう存在しない、東ドイツの生活を垣間見ることができる場所がある。ベルリンにあるDDR博物館だ。ベルリン大聖堂からシュプレー川を挟んだ向かいの土手に面した博物館の入り口から先は、まるで1980年代にタイムスリップしたかのような気分になる。館内には東ドイツを代表する乗用車「トラバント」をはじめ、東ドイツ製品の展示やシュタージの諜報活動を再現するブースなどがある。

中でも必見なのは、住居の内部を再現したコーナーだ。水道の蛇口はプラスチックでできており、キッチンの引き出しを開けてみると、子どもが使うおもちゃのようなスプーンやフォークが入っていることに驚く。社会主義時代の東ドイツは深刻な金属不足に悩まされていたため、「トラバント」も車体は金属ではなく特殊プラスチックでできていた。

実際にリビングのソファに座って、テレビから流れる録画映像(DDRのニュース)を観ていると、当時の東ドイツの人々の生活に思いを馳せることができる。

リビングを再現
当時のリビングを再現したDDR博物館内の展示

DDR Museum
Karl-Liebknecht-Str. 1
10178 Berlin
www.ddr-museum.de

用語解説

ハルシュタイン原則
Hallstein-Doktrin

旧西ドイツが1955~69年に掲げた外交政策で、当時の西ドイツの政治家の名前に因む。旧東ドイツと国交を持つ国(ソ連以外)とは国交を断絶した。その意図は、旧東ドイツを外交的に孤立させることであった。ヴィリー・ブラント首相の「東方外交」により、67年にはルーマニアと、68年にはユーゴスラビアと国交が結ばれ、ハルシュタイン原則は破棄された。

<参考>
www.bpb.de "Deutsche Teilung - Deutsche Einheit"
www.haushaltssteuerung.de "Fonds Deutsche Einheit"
www.Bundesministerium.de / Bundesministerium der Finanzen (BMF)
www.tagesspiegel.de "Berlin vergisst sich selbst - und das ist schlecht so" (13.08.2014)
■『現代ドイツ史入門』ヴェルナー・マーザー(20.03.1995, 講談社現代新書)
■『図説ドイツの歴史』石田勇治(30.10.2007, 河出書房新社)

藤田さおり(ふじた・さおり) 法政大学経営学部経営学科卒業。スイス、ドイツ在住。日本で独大手自動車メーカーのマーケティング部に従事。その後、スイスにてマーケティングや通訳をベースとしたコンサルティング会社を設立する。ビジネス経験から、日本や海外駐在のビジネスマンにも分かりやすい記事を目指している。Facebook: funi.swiss
最終更新 Mittwoch, 03 Oktober 2018 12:23
 

ドイツの国境の変遷

前回の本コラム(2014年8月15日発行、984号)では、第2次世界大戦後、国境が変更され、1000万人を超えるドイツ人が先祖代々住んでいた土地から追放されたことについて紹介した。その中で、東プロイセンという飛び地(地理的には分離しているが国の一部)があったことを指摘した。この地名とプロイセンという国家には、どのような関係があったのだろうか。今回は、その歴史を紐解いてみる。

プロイセンの由来

「プロイセン」とは、もともと同地域に住んでいた非キリスト教先住民の名称で、彼らとドイツ人の東方移民、スラブ人の入植者たちが徐々に混ざり合い、自らをプロイセン人と名乗っていた。

彼らは1226年から、ドイツ騎士修道会の強制的な宣教によってキリスト教化させられた。1525年、そのドイツ騎士団国のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク総長が、宗教改革を利用してプロイセン公国を創設。彼はホーエンツォレルン家の一員だったことから、同家のブランデンブルク辺境伯と関係があった。

このような状況下で、ホーエンツォレルン家の歴代君主が同君連合(地理的に分断されている自分たちの支配権を繋ぎ合わせること)を考えたのは想像に難くない。

プロイセン王国の誕生

カトリックとプロテスタントの宗教戦争であった三十年戦争と、その後のヴェストファーレン条約は、神聖ローマ帝国と皇帝の権力を失墜させた。ドイツの大諸侯たちは王の称号を名乗りたがっていた(神聖ローマ帝国体制での名目は選帝侯であった)が、帝国領内ではまだためらいを感じたため、彼らは外国の王冠を獲得しようと考えた。

1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王フリードリヒ1世となった。ブランデンブルクをはじめとする西方の住民は、自分たちが突然、遠く離れた東方の地名を持つことになろうとは思っていなかったに違いない。このようにして、「プロイセン」という東方の地名は1つの国家名となったのである。

飛び地から陸続きへ

ポーランドでは、ヤゲウォ朝が断絶した1572年から選挙王制が敷かれていたが、周辺の有力国の介入を受け、ポーランド王国政府は実質上の統治能力を失っていた。1772~95年に掛けて、ロシア、プロイセン、オーストリアによって3度にわたるポーランド分割が行われ、プロイセンは西プロイセンを獲得した。これにより、東プロイセンは西方の領土と繋がった。一方、ポーランドはその領土をすべて奪われ、滅亡した。

第1次世界大戦後の割譲

第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約において、西プロイセンおよびポメラニアがポーランドへ割譲された結果、東プロイセンは再び飛び地となった(ダンツィヒ周辺のみは自由都市ダンツィヒとなり、国際連盟の管轄下となる)。この周辺地域はポーランド回廊と呼ばれ、ポーランドのバルト海への出入り口となっている。スラブ系住民の割合が多いが、文化的にはドイツの影響を強く受けている地域である。なお、左右に分割され、再び飛び地となった東プロイセンの領土回復が目的で、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻したとされている。

第2次世界大戦後の国境の確定

1945年のポツダム会談で決定された内容は、東ポンメルン、東ブランデンブルク、シュレージェンの3地方を暫定統治地域とし、東プロイセンはソビエト連邦とポーランドで分割するというものだった。暫定的な国境線は、河川の名前から「オデール・ナイセ線」と呼ばれる。この国境線は、ソ連の衛星国であるドイツ民主共和国(東ドイツ)とポーランドには受け入れられたが、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)はこれを認めなかった。

この状況が変化したのは、当時の西ドイツ連邦首相ヴィリー・ブラントが共産主義諸国との関係改善を図った「東方外交」以降である。1970年には西ドイツとポーランドの国交が結ばれ、オデール・ナイセ線が事実上の国境であることが確認された。


ドイツの国境が変わる→隣国の国境が変わる

ドイツの国境と同様に、近隣諸国もその歴史の影響を受けている。ドイツがポーランド西部に侵攻し、第2次世界大戦が始まったのは今からちょうど75年前の9月。当時は東ポンメルン、東ブランデンブルク、シュレージェン、東プロイセンはドイツ領だったが、ポーランドは現在の国土とほぼ変わらない大きさで、もっと東に位置していた。

ポーランド侵攻の際、ソ連軍はドイツ軍と共にポーランド東部を占拠していたが、第2次世界大戦後、正式に占拠地を自国に併合した。代わりにポーランドに与えられた戦前のドイツ領は、現在のポーランドの国土の3分の1を占める。つまり、国がそっくり3分の1、西に移動したことになる。その際、ソ連に占拠された東部のポーランド人100万人以上が現在のポーランド領に移住したり、一部の地域はそのままソ連領に組み込まれたりした。ここでも大規模な住民の移動があったのだ。

戦後に分割された旧ドイツ領


シュレージェン

ほかの地域に対し、シュレージェンの場合は若干様相が異なる。この地をめぐっては、歴代のポーランド王国とボヘミア王国が帰属を争っていたが、16世紀にハプスブルク家がボヘミアの王位を継承すると、シュレージェンはオーストリアの領土となった。1740年にハプスブルク家の統治者カール6世が男子の後継者を残さず世を去ると、その娘マリア・テレジアの王位継承に対しプロイセンのフリードリヒ2世は異議を申し立て、王位継承を認める代わりにシュレージェンの領土を要求。しかし、マリア・テレジアがこれを却下したため、フリードリヒ2世は宣戦布告もせず当地に攻め入り、オーストリアの3度にわたる国土回復戦争によっても奪回は叶わず、シュレージェンはプロイセンの領土となった。

用語解説

大ドイツ主義、小ドイツ主義
Großdeutsche Lösung, Kleindeutsche Lösung

1848年にフランクフルト国民議会で討議されたドイツ統一の方針。オーストリアを含めた大ドイツ主義、含めない小ドイツ主義である。19世紀は民族主義台頭の時代で、大ドイツ主義は圧倒的に支持されたが、ハンガリーをはじめとする多民族国家のオーストリアという概念が揺らぐということで、プロイセン主導の下、ドイツは小ドイツ主義によって統一された。

<参考文献とURL>
■ 「プロイセンの歴史―伝説からの解放」セバスチャン・ハフナー(15.09.2000, 東洋書林)
■ 「ユダヤ人とドイツ」 大澤武男(20.12.1991, 講談社現代新書)
■ 「現代ドイツ史入門」ヴェルナー・マーザー(20.03.1995, 講談社現代新書)
www.wikipedia.org "大ドイツ主義", "小ドイツ主義", "Teilungen Polens"
■ 「Die Deutschen: Vom Mittelalter bis zum 20. Jahrhundert」 Guido Knopp, Stefan Brauburger, Peter Arens (12.10.2009, Goldmann)
■ 「現代史ベルリン」永井清彦(20.01.1984, 朝日選書)

藤田さおり(ふじた・さおり) 法政大学経営学部経営学科卒業。スイス、ドイツ在住。日本で独大手自動車メーカーのマーケティング部に従事。その後、スイスにてマーケティングや通訳をベースとしたコンサルティング会社を設立する。ビジネス経験から、日本や海外駐在のビジネスマンにも分かりやすい記事を目指している。Facebook: funi.swiss

最終更新 Donnerstag, 14 Januar 2016 12:53
 

戦後に起きたドイツの民族大移動

2014年は、ナチスがドイツの全政権を掌握してから70年目の年に当たる。第2次大戦終戦後、満州や樺太からの引き上げ途中、あるいは、ようやく祖国にたどり着いたものの亡くなっていった日本人が大勢いるが、ドイツでも、終戦時に日本と同じようなことが起きていたことをご存じだろうか。今回は、ドイツと日本の戦後引き揚げについてみてみよう。

日本の戦後の引き揚げ

第2次世界大戦での敗戦により、外国に移住していた多くの日本人が帰国した。移住先となっていた場所は、台湾や朝鮮半島などの外地、外国ではあるが大勢の入植者がいた満州、内地であったがソビエト連邦(以下、ソ連)の侵攻によって支配権を奪われた南樺太などである。

「引揚者」とは、外地などから帰国した非戦闘員を指す言葉である。帰国した戦闘員は、「復員兵」と呼ばれる。

敗戦時、国外にいた日本人は、軍人、民間人合わせて660万人と言われており、敗戦の翌年までに500万人が引き揚げた。ソ連軍占領下の満州からの引き揚げは困難を極め、中国残留日本人孤児問題やシベリア抑留、強制労働の問題へとつながった。

ドイツ人の戦後の追放

ドイツ人の戦後の旧ドイツ領からの追放は、米英ソ三国の首脳が戦後ドイツの処理問題を話し合った結果によるものだった。1943年のテヘラン会談にて大枠が話し合われ、1945年のポツダム会談で決定された。その内容は、ソ連とポーランドの国境線を西へ移動し、その代わりにポーランドに対し、東はメーメル川から西はオデール、ナイセの2つの川の間にあるドイツ領、東ポンメルン(ポメラニア)、東ブランデンブルク、シュレージェン(シレジア)の3地方を暫定統治地域とし、東プロイセンはソ連とポーランドで分割することが決まった。それと同時に、これらの地方にいたドイツ人の追放が決まった。また、旧ドイツ領以外でも、チェコスロバキアのスデーテン地方やハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアにもドイツ人が住んでいたが、彼らの追放も同時に決定された。

当時、旧ドイツ領に住んでいたドイツ人は996万人、領外のドイツ人は769万人。一部は残留を許されたが、1383万人の民間人が終戦により故郷を去らなければならなくなった。そのうち、ドイツ領土に無事たどり着いたのは1073万人。実に200万人もの民間人が、移動中に命を落としたことになる。

ベルリンから現在のポーランドとの国境までは64kmしかない。ベルリンには、東方から1日に2万5000~3万人もの難民が殺到した。戦時中から安住の地を求め、ドイツ国内を移動していた人々を含めると、敗戦直後のドイツでは5人に2人が移動をしていたことになる。

厳しい持ち込み制限

この追放はソ連側からの一方的な通告であったため、携帯品に関しては持ち込みが厳しく制限された。“24時間以内に退去、携行品は30kg以内に限る”といった内容が一般的だったが、中には“3時間以内に退去、携行品は20kg以内”といった厳しいものもあった。残された財産は、ソ連とポーランド政府に接収された。

ドイツ人の「引き揚げ」?

戦後のドイツ地域への移動が「引き揚げ」ではなく「追放」と呼ばれるのは、接収された地域が植民地ではなく、元来ドイツ人が何世紀にもわたって住んでいた土地だからである。東プロイセンの都市ケーニヒスブルクは、1701年にフリードリヒ1世がプロイセン王に即位し、プロイセン王国を建国した由緒ある土地である。東ポンメルンは19世紀初頭にスウェーデンからプロイセンに割譲され、東ブランデンブルクはプロイセンの10州のうちの1つだった。

このように、日独どちらの国でも第2次世界大戦後、何百万という人々が戦争以外の理由で命を落とした。そしてその多くは非戦闘員だった。戦争の後始末の難しさを思い知らされる。

戦後に分割された旧ドイツ領


ドイツでのナチスの評価

2005年、英王室のヘンリー王子がナチス・ドイツの制服を模したスタイルで仮装パーティーに参加したところをスクープされ、大問題になった。日本でもかなり盛んに報道されていたので覚えている方も多いだろう。そのニュースを観た印象として、「仮装パーティーなんだから、そこまで目くじらを立てなくても・・・・・・」と思われた方もいるのではないだろうか。

欧州諸国はナチス・ドイツの問題にとても敏感だ。特に当該国ドイツでは、その傾向は顕著である。ナチスの紋章であるハーケンクロイツを掲げることは禁止され、ヒトラーの著作である『我が闘争(Mein Kampf)』は発禁処分となっていて、著作権が消滅する2016年以降もその措置は継続される予定である。

ナチス・ドイツ時代に、失業対策のための公共事業の1つとしてアウトバーン建設が遂行され、一定の効果をもたらしたが、プラスの評価がなされることはない。

このように、ナチスの評価が完全にマイナスに振れている理由の1つとして、ホロコーストの残虐性があるだろう。ホロコーストで殺されたユダヤ人の正確な人数は分かっていないが、およそ570万人とも言われている。当時のユダヤ人の総人口が約730万人とされていたので、まさに民族大せん滅政策であった。

第2次世界大戦中に亡くなった日本人の数は、軍人、民間人を含めて250万~300万人と言われている。もちろん単純な比較はできないが、ユダヤ人のその悲しみの深さは理解できるのではないだろうか。

戦後、ドイツは一貫して謝罪の姿勢を貫いてきた。その結果、隣国からの信頼を得られ、欧州連合(EU)を牽引する国にまでなった。現在のドイツ国内における反ユダヤ主義デモの拡大は、今までの努力を無に帰してしまうのではないかという懸念が残る。

抗議デモ
ベルリンで行われたイスラエルに対する抗議デモ

 

用語解説

自由都市
Freie Stadt

周辺地域の国家の構成に関係なく自ら統治を行い、政治的秩序を構築している自立性の高い都市のこと。中世ドイツで形成された都市の一形態。ドイツ人に馴染み深い自由都市ダンツィヒ(現在のグダニスク)は東プロイセンに隣接し、12世紀頃から、ここにはドイツ人商人が住んでいた。自由都市ダンツィヒは、ポーランド王国の庇護下の時代とナポレオン戦争後、両世界大戦の間、3度にわたって存在した。

<参考文献とURL>
■ 「現代史ベルリン」永井清彦(20.01.1984, 朝日選書)
■ 「ユダヤ人とドイツ」 大澤武男(20.12.1991, 講談社現代新書)
■ 「現代ドイツ史入門」ヴェルナー・マーザー(20.03.1995, 講談社現代新書)
www.wikipedia.org "引揚者", "Freistadt"

藤田さおり(ふじた・さおり) 法政大学経営学部経営学科卒業。スイス、ドイツ在住。日本で独大手自動車メーカーのマーケティング部に従事。その後、スイスにてマーケティングや通訳をベースとしたコンサルティング会社を設立する。ビジネス経験から、日本や海外駐在のビジネスマンにも分かりやすい記事を目指している。Facebook: funi.swiss

最終更新 Donnerstag, 14 Januar 2016 12:53
 

アウトバーンで国境越え

本格的なバケーション・シーズンが始まった。ドイツ人の平均的な夏休み期間は10.7日。時期は学校が夏休みとなる7~8月に集中する。ほかの欧州諸国も同様で、この時期のアウトバーンではあらゆる国のナンバープレートの乗用車やキャンピングカーを見掛ける。陸続きのヨーロッパならではの光景だ。今回は、ドイツのアウトバーンの現状や、スイス国境を超える際の留意点についてみてみよう。

アウトバーンは「全線無料」かつ「速度無制限」?

本誌929号(2012年7月27日発行)の記事でも触れたように、「全線無料」「速度無制限」で世界的に有名なドイツのアウトバーンだが、その実態は少々異なる。12トン以上の大型トラックは有料で、インターチェンジや市街地近郊などでは速度制限が設けられているので、全線の約半分は速度制限区間なのである。

自由民主党(FDP)と連立を組んでいた前政権では、乗用車へのアウトバーン通行料の導入を行わないと明言していたメルケル首相(キリスト教民主同盟=CDU)だが、現政権では連立政権内から様々な有料化案が提案されている。社会民主党(SPD)との連立協定では、2016年までに外国ナンバーの乗用車に対して通行税を導入する案が提出された。また、今年初めにはドブリント交通相から、1週間、1カ月などの短期ヴィニエット(Vignette、通行券)方式でのアウトバーン有料化が提案された。

アウトバーンで隣国スイスへ

この夏休みは、乗用車のドライバーはまだ「全線無料」を享受できそうだ。欧州連合(EU)発足後、ドイツと隣国の国境検問所はほとんどなくなってしまった。南ドイツから陸続きの国境越えを体験するのに、最も身近な国の1つはスイスだろう。

スイス国内の高速道路を通行するには、ヴィニエットと呼ばれる年間通行券が必要となる。ヴィニエットは国境検問所、もしくは国境近くのサービスエリアやガソリンスタンドで購入し、フロントガラス中央付近に貼れば良い。ほぼ正方形のステッカーで、西暦の下2桁が印刷されている。1回購入すれば、1年間に何度でもスイス国内の高速道路を利用できる。

検問所

特に平日には、検問所近くに長蛇の列が連なる。ほとんどは通関待ちのトラックなので、乗用車用レーンを通れば列に並ぶ必要はない。検問所内の道はカーブしていて、速度を落とし、国境警備員の前をゆっくりと通過する。すべての車両が国境警備員に停止を求められるわけではなく、私の経験では、ドイツナンバーの車が止められる確率は20%前後といったところだ。

停止を求められた場合、国境警備員から税関で申告すべき物はないか質問され、荷物の中身を確認される。ワインなどのアルコール類のほか、肉類も念入りにチェックされる。スイスは肉類に高い関税を掛けて、自国の畜産業を保護しているためである。 

そして、パスポートと運転免許証をチェックされることが多い。2011年にスイスはシェンゲン協定に加盟したため、パスポート検査は不要になった。しかし、スイスへ持ち込まれる品物の原産地と最終目的地を調べるために、パスポートをチェックするのだ。また、スイスでは日本の運転免許証で90日間の運転が可能だが、国境警備員が判読できないために国際運転免許証が必要となる。

2012年ADAC会員費の使用内訳
撮影後、車をしっかり止められました。国境警備員はよく見ています。
写真を撮ること自体は止められませんでした。

速度制限

スイスの高速道路には、120km/hの速度制限がある。速度制限の取り締まりは厳しく、時速を3km/h程度オーバーしただけでもオービス(自動速度違反取締装置)が作動する場合がある。スイスは物価が高い国ゆえ罰金もそれなりで、例えば、高速道路での6~10km/hオーバーで60フラン(約50ユーロ)、11~15km/hオーバーで120フラン(約100ユーロ)、16~20km/hで180フラン(約145ユーロ)といった具合である。

反対に安いのはガソリンで、これは税制の違いによるものだ。ドイツに入国する手前のガソリンスタンドは、常に混雑している。

今年の夏休みは、陸続きのヨーロッパで、ぜひ車での国境越えを味わっていただきたい。


人気観光スポット調査

夏の観光シーズンを前に、外国人観光客が選ぶドイツの観光名所トップ10を見てみよう。昨年、外国人1万5000人を対象に行われた調査結果は以下の通りである。

ドイツの観光名所トップ10

皆さんご存じの名所がランクインしている。2位のオイローパ・パーク(Europa Park)はあまり馴染みがないかもしれないが、ホテルも併設された巨大遊園地である。黒い森やボーデン湖は、交通の便を考えると、ぜひ車で行きたい観光スポットだ。

昨年、ドイツ人が好きな旅行先として挙げられたのは、以下の通り。

ドイツ人が好きな旅行先

近年1位を独占してきたマヨルカ島が、このランキングでは2位となった。マヨルカ島は冗談で、“ドイツの新しい州”とも言われる程ドイツ人がよく訪れ、観光エリアではドイツ語も通じる。またランキングには、ドイツ国内の3都市が入っている。

用語解説

交通違反の反則金
Bussgeld

スイスの交通違反の罰金の高さは本文で触れたが、市街地の速度制限地域での罰金は特に厳しい。例えば、時速1~5kmオーバーで40フラン(ドイツは時速30kmゾーンで15ユーロ)、時速6~10kmオーバーで120フラン(同15ユーロ)、時速10~15kmオーバーで250フラン(同25ユーロ)。市街地での運転には、特に気を付けていただきたい。

<参考文献とURL>
www.welt.de "Verkehrsminister Dobrindt will Pkw-Maut staffeln" (05.01.14)
www.bild.de "Die zehn Lieblings-Reiseziele der Deutschen" (07.07.2014)
www.myswiss.jp "車運転のアドバイス"
■ ニュースダイジェスト956号 "ドイツの観光名所トップ10" (21.06.2013)
www.morgenpost.de "Pkw-Maut wird zum Januar 2016 - scharf gestellt" (10.04.2014)
www.bussgeldkatalog.ws, www. bussgeldkataloge.de

藤田さおり(ふじた・さおり) 法政大学経営学部経営学科卒業。スイス、ドイツ在住。日本で独大手自動車メーカーのマーケティング部に従事。その後、スイスにてマーケティングや通訳をベースとしたコンサルティング会社を設立する。ビジネス経験から、日本や海外駐在のビジネスマンにも分かりやすい記事を目指している。Facebook: funi.swiss

最終更新 Donnerstag, 14 Januar 2016 12:54
 

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