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生誕100年 ヨーゼフ・ボイスの終わりなき革命 - 戦後の芸術史を変えた「社会を彫刻するアーティスト」

今年で生誕100年戦後の芸術史を変えた「社会を彫刻するアーティスト」ヨーゼフ・ボイスの終わりなき革命

「全ての人は芸術家である」。この力強い言葉とともに、人々の創造性によって社会を変えようとしたヨーゼフ・ボイス(1921-1986)。今日のアートに最も影響を与えた芸術家の一人であるだけでなく、政治や経済、環境などについてもメッセージを発信し、センセーションを巻き起こした。そんなボイスが目指した、「芸術」や「社会」とは? 生誕100年を記念し、ボイスの人生や作品、そしてドイツや日本における彼の足跡をたどる。(Text:編集部)

参考:Reinhard Ermen『Joseph Beuys』、Marc Gundel『Beuys für Alle!』、ART Das Kunstmagazin「100 Jahre Joseph Beuys:Der Befreier, ein ganzes Heft über Deutschlands visionärsten Künstler」、水戸芸術館現代美術センター編『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』

ヨーゼフ・ボイス Joseph Beuys(1921-1986)

旧西ドイツ出身の現代美術アーティストで、フェルトの帽子とフィッシャーマンベストがトレードマーク。アンディー・ウォーホル(1928-1987)と並んで、当時のアート界のスーパースターとして注目される。アトリエで作品制作にいそしむ従来のアーティスト像とは異なり、社会問題をクリエイティブに解決していくことが新しいアートの役割だと熱く説き、社会問題にも積極的に関与した。

生誕100周年を記念して、ドイツ各地で展覧会・関連イベントが開催中。生誕100周年を記念して、ドイツ各地で展覧会・関連イベントが開催中。
詳しくは https://beuys2021.de にて

ヨーゼフ・ボイスーその人生と作品

クレーヴェで過ごした少年時代

ヨーゼフ・ボイスは1921年5月12日、デュッセルドルフの北西にある街、クレーフェルトで生まれた。その年の秋に、一家はライン川下流域の産業都市クレーヴェに引っ越し、そこで少年時代を過ごす。ボイスは自然科学に興味を持ち、医学の道を志す一方で、ピアノとチェロを弾き、絵の才能も発揮していたという。

1933年5月19日、ボイスが通っていた州立ギムナジウムの中庭で、ナチスによる焚書が行われた。この時ボイスは、積み重ねられた本の中から、スウェーデンの博物館学者カール・フォン・リンネの著書『自然の体系』(1735)を取り出して隠したという。その後、青少年のヒトラーユーゲントへの参加が義務付けられると、15歳だったボイスも加入し、ニュルンベルクでのナチス党党大会にも参加した。後にボイスは「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラーユーゲントに行った」と語っている。また当時、ナチスによって「退廃芸術家」の烙印を押されていたドイツ表現主義の彫刻家ヴィルヘルム・レームブルック(1881-1919)の作品集を見て衝撃を受け、ボイスは彫刻家になることを決心した。

21歳ころのボイス。この世代以上のドイツ人とって、ナチスへの加担は避けられない問題だ21歳ころのボイス。この世代以上のドイツ人とって、ナチスへの加担は避けられない問題だ

第二次世界大戦とタタール神話

1941年の春、ボイスはドイツ国防軍に志願し、無線通信士としての訓練を受ける。その後、ボイスはクリミア半島最大の要塞都市セヴァストポリの空中戦に参加。彼は両親に宛てた手紙で「戦争後は芸術家になりたい」と書き、駐留先でも多くのスケッチや絵を描いて過ごしていた。

1944年3月16日、ボイスが乗っていた急降下爆撃機がソ連の追撃に遭い、クリミア半島で不時着。パイロットは亡くなり、ボイスは頭蓋骨や肋骨、脚、鼻などを骨折するという重症を負った。ボイスは墜落した際に、同地の遊牧民であるタタール人に助けられたという逸話を語っている。タタール人たちはボイスの体温が下がらないようにフェルトで8日間温め、傷には動物性脂肪を塗ったというのだ。しかし、タタール人集落は当時のクリミアには存在せず、墜落した翌日からボイスが移動軍病院に入院していたという記録も。そのためこのタタール神話は、彼の作り話といわれる。

ボイスは傷が回復すると8月には西部戦線に移され、パラシュート部隊に配属された。大戦中には5度負傷し、ナチスからは金の戦傷章を授与されたという。そしてドイツが降伏した1945年5月8日、ボイスはニーダーザクセン州のクックスハーフェンで英国軍の捕虜に。その後8月に解放され、心身共に深い傷を負ったボイスはクレーヴェへと戻ったのだった。

ボイス作品を紐解くキーワード

フェルトと脂肪 Filz und Fett

フェルトや脂肪を使ってタタール人に助けられたというボイスの体験は、その真偽こそ定かではないものの、彼の芸術家としてのアイデンティティーを形成する上で重要な役割を果たしている。ボイスは自身の彫刻作品に、いわゆる伝統的な彫刻で使われる石や金属などの無機物ではなく、フェルトや脂肪、蜜ろうなど、熱を保持し、熱によって形が変化する有機的な素材を好んで用いた。ボイスにとって「熱」は変化や生命を意味し、熱エネルギーによって不定形のものを秩序ある形に変える、という独自の彫刻理論を形成。この考え方はやがて芸術の領域を飛び出し、どのように社会の形を変えるかに焦点を移していく。

フェルトで作られたスーツ「Filzanzug」(1970)フェルトで作られたスーツ「Filzanzug」(1970)

およそ20トンにもおよぶ動物性脂肪を使ったインスタレーション「Unschlitt / Tallow」(1977)およそ20トンにもおよぶ動物性脂肪を使ったインスタレーション「Unschlitt / Tallow」(1977)

芸術家としての人生をスタート

戦争から帰ったボイスは、傷を癒しながら地元の芸術家グループに加わって活動。そして23歳の時にデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学した。はじめは古典的な彫刻のクラスで学んでいたが、3学期の終わりに前衛芸術家のエーヴァルト・マタレー(1887-1965)のクラスへと移る。マタレーもまた、戦時中に退廃芸術家として弾圧された人物であり、ボイスは彼から多大な影響を受けた。

1953年に32歳でマスタークラスを卒業したボイスは、戦争時のトラウマによって苦しめられ、一時は深刻なうつ状態に陥った。一方でこの頃、自然科学などの文献を読み漁り、ジェームズ・ジョイスやノヴァーリスの文学、ルドルフ・シュタイナーの教育学などを集中的に研究。私生活では1958年に動物学者の娘で美術教師をしていたエーファと出会い、翌年に結婚した。

そして1961年、危機の時代を脱したボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーの記念碑彫刻の教授に就任。週末や休暇中も含めてほぼ毎日大学へ行き、常にオープンな姿勢で学生たちと議論を交わした。「教師であるということは、私にとって最大の芸術作品です」という題名でボイスが文章を書いているように、ボイスにとって大学で教えることは、自身の芸術実践の一部だったのだ。またこの頃、ボイスは米国で活躍したアーティスト、ナム・ジュン・パイクらと知り合う。パイクらが参加する前衛芸術運動の「フルクサス」に加わり、ボイスは次々とパフォーマンスを発表していった。

ボイス作品を紐解くキーワード

アクション Aktion

フルクサスは、1960年代に欧米各地で行われた芸術運動。日常空間を異化するような「イベント」や「ハプニング」と呼ばれる一度限りのアートパフォーマンスを展開した。ボイスは1963年に「フルクサス・フェスティバル」に参加し、初めて自らが「アクション」と呼ぶパフォーマンスを行った。こうしたアクションの際にボイスはフェルト帽とフィッシャーマンベストを着用し、それが後にトレードマークとなる。アクションの内容は、動物とのコミュニケーションや、宗教や文化をテーマとするもの、自然保護活動、討論などさまざまだが、次第にボイスにとっての芸術作品と社会活動の境界が線引きされるものではなくなっていく。

フルクサスの「ハプニング」終了後のボイス。乱入した学生に殴られたフルクサスの「ハプニング」終了後のボイス。乱入した学生に殴られた

学生たちと展覧会を訪れるボイス学生たちと展覧会を訪れるボイス

国際的な活躍と芸術アカデミーとの衝突

国際的な存在感を高めていったボイスは、カッセルで5年に1度開催される国際芸術祭「ドクメンタ」に1964年に初めて招聘される。また1965年には、デュッセルドルフにあるアルフレッド・シュメラギャラリーで個展を開催し、頭に金箔やはちみつを塗ったボイスが、ウサギの死体に絵を触らせるアクション「死んだウサギに絵を説明する方法」を行った。1974年に行った米国のルネ・ブロックギャラリーでのアクション「コヨーテ/私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」では、ボイスが米国の空港から救急車でギャラリーへと直行し、1週間コヨーテと暮らした後に再度ドイツへ出発。米国人とは一切接触せず、先住民の象徴的存在であるコヨーテとの行動を強調し、現代の米国社会の抑圧を批判した。

「コヨーテ/私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)「コヨーテ/私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)

センセーショナルな作品によって時の人となる一方で、ボイスは芸術アカデミーとの衝突も抱えていた。ボイスはまず、1967年に入学試験の廃止を提案。1971年には、大学定員のために入学できなかった142人を自分のクラスに受け入れると主張し、入学者数の制限は基本的権利に反するとして、17人の入学希望者と共にアカデミーの事務局を占拠した。その後も論争は続き、1972年に予告なしに教授職を解雇される。ボイスは学生たちを味方につけてを訴訟を起こし、1978年に勝訴した。教授には戻れなかったが、かつての教室を使うことが許され、ボイスはそこを自らが主宰する教育機関「自由国際大学」(FIU)のオフィスとしたのだった。

教授職の解雇に対し、学生と共に抗議するボイス教授職の解雇に対し、学生と共に抗議するボイス

政治活動と「社会彫刻」

ボイスは自身の芸術活動を通して、あらゆる人間は自らの創造性によって幸福に寄与し、未来に向けて社会を彫刻しうると考えた。この理論をもとに、「社会彫刻」という独自の芸術概念を発展させていく。1972年のドクメンタ5では、「直接民主主義組織のための100日間情報センター」を開設。訪れる人々と黒板に図解を書きながら話し合い、反原発や人権に関わるワーキンググループと議論を行った。その後、教育者として対話集会を世界各地で行ったり、1982年のドクメンタ7における「7000本の樫の木」プロジェクトでは、カッセルの街に5年がかりで7000本の木と石柱を植えたりと、芸術と社会との関わりを深めさせていった。

カールスルーエで開催された緑の党の創設党大会に参加するボイスカールスルーエで開催された緑の党の創設党大会に参加するボイス

また、1976年の連邦議会選挙で「独立したドイツ人の運動連合」の候補として出馬。この組織は後に緑の党(1979年に設立)に合流し、1979年にボイスは緑の党の欧州議会議員候補として立候補した。政治や経済の改革に乗り出そうとしたが、結果は落選だった。ボイスは緑の党のためにテレビ討論やイベント、選挙活動を盛んに行ったが、1983年に再び連邦議会に立候補しようとした際に、緑の党はボイスを候補者リストの上位に置くことを拒否。ボイスは立候補を取りやめた。

1985年、ボイスは肺疾患と診断され、夏にはナポリで静養した。そして1986年1月12日にデュイスブルク市からヴィルヘルム・レームブルック賞を受賞した直後の23日、ボイスは心不全で亡くなった。彼の遺灰は北海に撒かれたのだった。

尊敬するレームブルックの名が冠された賞を受賞尊敬するレームブルックの名が冠された賞を受賞

ボイス作品を紐解くキーワード

社会彫刻 Sozial Plastik

ボイスは「全ての人は芸術家である」という信念のもと、「自ら考え、決断し、行動せよ」と人々に社会参加を呼び掛けた。ここでいう「芸術」とは、絵画や彫刻、音楽などだけでなく、教育や環境保護、政治活動などのあらゆる創造的な行為も含む。そうして生まれる社会が、みんなで作った大きな芸術作品(=社会彫刻)だというのだ。ボイスの思想は当時あまりに独特で過激だったが、今日ではさまざまな芸術家が、社会に関与するアートを実践。またアート界に限らず、環境デモや人種差別への訴えなど、社会問題にアクションし、共に考えようという声が強まっている。ボイスが起こそうとした革命は、今も続いているのかもしれない。

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ヨーゼフ・ボイスは挑発する

ヨーゼフ・ボイスは挑発する

「今は民主主義がない、だから俺は挑発する!」ーフェルト帽を被った一人の芸術家は、テレビの討論番組でいら立ちを隠さずに叫ぶ。膨大な映像資料と、関係者へのインタビューを通して、ボイスが目指した芸術と、彼が抱える「傷」に迫るドキュメンタリー。エネルギーに溢れたボイスの肉声やパフォーマンス映像は必見だ。

公開年:2017年
監督・脚本:アンドレス・ファイエル
配給・宣伝:アップリンク
上映時間:107分
言語:ドイツ語

芸術の街でボイスゆかりの地をめぐる!ボイスとアート散歩 in デュッセルドルフ

ノルトライン=ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフは、経済の中心地としてだけでなく、数多くの美術館やギャラリーがあり、有名アーティストを輩出してきた芸術の街としても知られる。ボイスもまた人生の大半をこの街で過ごし、その痕跡は今も街に残されている。そんなデュッセルドルフでボイスゆかりの場所をめぐる、ちょっぴりマニアックなアート散歩に出かけよう。

※新型コロナウイルス感染症の影響により、展覧会等の開催に変動がある可能性があります。最新情報は各館のウェブサイトにてご確認ください。

参考:Dieter Schönhoff『Mit Beyus durch Düsseldorf』、Frankfurter Allgemeine「Galerie Hans Mayer Good-bye, nicht Adieu」、Westdeutsche Zeitung「Haus von Beuys steht zum Verkauf」

1998年、ライン川岸の遊歩道にヨーゼフ・ボイスの名が付けられた❼ 1998年、ライン川岸の遊歩道にヨーゼフ・ボイスの名が付けられた

デュッセルドルフにも植えられた
❶ 「7000本の樫の木」プロジェクトの樫の木
Haroldstr.4, 40213

ボイスがカッセルで実施した社会彫刻プロジェクト「7000本の樫の木」。このプロジェクトでは、1本の樫の木と1本の石柱がセットとしてカッセルの街中に植えられ、成長する樫の木は「生」、形を変えない石は「死」を象徴。ボイスはこの二つの要素によって世界が構成されていると暗示した。実は、その木がここデュッセルドルフにも1本だけある。この木は1983年に当時の西ドイツ銀行頭取が、州の経産大臣であったレイムート・ヨキムセンの50歳の誕生日に送ったものだという。ボイスは1972年に当時の州文科省大臣によって芸術アカデミーの教授職を解雇されて訴訟で争っていたが、後にヨキムセンが文科省大臣に就いていた1978年に、この訴訟は和解に至った。

「7000本の樫の木」プロジェクトの樫の木

建物の外からも楽しめるアート
❷ クンストハレ Kunsthalle
Grabbepl. 4, 40213

クンストハレ Kunsthalle

1967年に建てられた、コンクリートの立方体のような建築が印象的なクンストハレ。独自のコレクションを持たず、ボイスをはじめとする地元のアーティストの作品発表はもちろん、国際的なアートイベントが実施されてきた場所だ。アート散歩で注目すべきは、建物の周囲にある作品の数々。入口から向かって右側の外壁から突き出しているストーブのパイプのようなものは、ボイスが1981年に展示した「煙突パイプ」という作品(写真右下)。また玄関口の右側には、建物の上から下へと水滴が垂れ たような赤い線がある。これは、ボイスと親交があったジェームズ・リー・ビアスによる「涙」という作品で、ボイスが亡くなった1986年に彼へのオマージュとして制作された(写真左下)。

クンストハレ Kunsthalle

生誕100周年の記念展が開催中!
❸ K20 Kunst Sammlung Nordrhein-Westfahren
Grabbepl. 5, 40213

クンストハレの北側正面に位置するのは、主に20世紀の芸術を扱う州立美術館のK20。同館では、ボイス生誕100周年のハイライトともいえる展覧会「Jeder ensch ist ein Künstler - Kosmopolitische Übungen mit Joseph Beuys」が開催中だ。ボイスの有名な言葉「全ての人は芸術家である」をテーマに、社会を根本から刷新しようとしたボイスと共に、現代のアーティストたちも作品を展示する。K20で20世紀美術を堪能した後は、21世紀の芸術をメインとする美術館K21も訪れてみよう。

展覧会情報

Jeder Mensch ist ein Künstler.
Kosmopolitische Übungen mit Joseph Beuys
会期:開催中~8月15日(日)
www.kunstsammlung.de

K20 Kunst Sammlung Nordrhein-Westfahren

ボイスが学び、教鞭を執った
❹ デュッセルドルフ芸術アカデミー
Eiskellerstr. 1, 40213

1762年設立の名門芸術アカデミー。ボイスのほかにも、ベッヒャー夫妻、ゲルハルト・リヒター、アンゼルム・キーファーなど、20世紀以降の美術における主要人物たちが学んだり教鞭を執ったりした。毎年2月に開催される学内展「Rundgang」は、デュッセルドルフの冬の風物詩ともいわれ、アート関係者だけでなく大勢の市民が訪れる。同アカデミーの付属ギャラリー(右記参照)では、ボイスの生誕100周年を祝った展覧会を開催中。ボイスが師事したエーヴァルト・マタレーと、教え子であるヨルグ・インメンドルフの作品と共に、初期のドローイングや彫刻、木版画などが展示されている。

展覧会情報

Mataré+Beuys+Immendorf
Begegnung der Werke von Lehrer und Schüler
住所:Burgpl. 1, 40213
会期:開催中~6月20日(日)
www.kunstakademie-duesseldorf.de

デュッセルドルフ芸術アカデミー

デュッセルドルフ芸術アカデミー

ボイスと学生たちの行きつけカフェ
❺ オーメ・ユップ Ohme Jupp
Ratinger Str. 19, 40213

アカデミーからすぐ近くのラーティンガー通りには、アート散歩にもってこいのレストランやカフェが点在している。オーメ・ユップは、ボイスが1967年まで学生と一緒に午前と午後に1時間ずつコーヒー休憩に訪れていた場所。しかしある日、ボイスが店内でもフェルト帽を被ったままでいることに客の一人が怒った。店主がそのことをボイスに伝えると、ボイスたちは同店を去り、1年ほど来なくなったという(その後、また訪れるようになった)。オーメ・ユップでの一件の後、ボイスたちは新しいコーヒー休憩所として、ここからすぐ近くに位置するレストラン「Zur Uel」に通った。

オーメ・ユップ Ohme Jupp

アート界の時代の寵児2人を出会わせた
❻ ハンス・マイヤーギャラリー
Mutter-Ey-Str. 3, 40213(旧アルフレッド・シュメラギャラリー)

創業50年以上のハンス・マイヤーギャラリーは、戦後の欧州と米国のアートが行き交った美術史上も重要な場所であり、個展のため来独中だったアンディー・ウォーホルとボイスを引き合わせたことでも有名。これをきっかけに、2人の交流はその後も続いた。1971年からグラッベ広場にあったハンス・マイヤーギャラリーは、2020年9月に移転。引っ越し先は、これまたボイスと関わりが深いデュッセルドルフの伝説的な画廊、アルフレッド・シュメラギャラリーの跡地だ。ボイス生誕100年に際し、同ギャラリーでは、ウォーホルとボイスが出会った当時の展覧会に関するビデオや写真、プレス資料などが展示される。

展覧会情報

12.05.1921 – 12.05.2021
会期:5月12日(水)~16日(日)
www.galeriehansmayer.de

ハンス・マイヤーギャラリー

KASSEL ボイスとアート散歩 in カッセル
ドクメンタが作ったボイスのキャリア

ボイスの名を一躍世に知らしめたのは、ヘッセン州カッセルで5年に1度開催されている国際芸術祭「ドクメンタ」と言っても過言ではない。ドクメンタは世界最大規模の現代美術展であり、最新の現代アートの動向を知る上で「ヴェネツィア・ビエンナーレ」と並んで重要とされている。もとは第二次世界大戦の被害を大きく受けたカッセルの復興、そしてナチスによって排斥された前衛芸術の名誉回復を目的に始められた。

こうした背景もあり、ドクメンタで展示される作品は、社会に挑戦するような鋭いテーマ性のものが多い。賛否両論あるにせよ非常に話題性が高く、アート界への影響力も大きいのだ。ボイスは1964年以来、7回(うち2回は没後)にわたって参加。ドクメンタ5での「直接民主主義組織のための100日間情報センター」、ドクメンタ6での「作業場のミツバチポンプ」、ドクメンタ7での「7000本の樫の木」などは、ボイスの代名詞ともいえる大規模なプロジェクトだ。ボイスは5年がかりの「7000本の樫の木」プロジェクトの途中で死去し、彼の息子のヴェンツェル・ボイスがドクメンタ8の期間中である1987年6月12日に7000本目の木を植えた。

ボイスとアート散歩 in カッセル

TOKIO ボイスとアート散歩 in 東京
ボイスが過ごした日本での8日間

ボイスは1984年に8日間だけ日本に滞在した。西武美術館での展覧会をはじめ、短い期間で展覧会やパフォーマンス、レクチャー、学生との対話集会などを展開。当時日本でも熱狂的な人気を誇っていたボイスは、ニッカウヰスキーのテレビコマーシャルにも出演し、その出演料は「7000本の樫の木」プロジェクトの資金に充てられた。

東京藝術大学の体育館で開かれた対話集会では、ボイスは同大学の学生を中心とした観客1000人あまりと3時間にわたって議論。この対話集会の実行委員会には、アーティストの宮島達夫やキュレーターの長谷川裕子など、今日の日本の現代アート界を率いるそうそうたるメンバーが集っていた。一方で、ここでの議論は必ずしもボイスと学生の間で噛み合っていなかったという。学生たちは、ボイスの芸術概念である「社会彫刻」をよく理解しているとはいえず、あるいは「有名アーティストを言い負かしてやろう」という気負いに満ちた質問も少なくなかったのだ。ボイスはそのことに落胆といら立ちを隠すことなく、「学生たちは古い芸術にとらわれている」と挑発。黒板にダイアグラムなどを描きながら、粘り強く「社会彫刻」の核心に触れさせようとした。

ボイスとアート散歩 in 東京

最終更新 Dienstag, 11 Mai 2021 18:21
 

電動キックボード(Eスクーター)とは?環境に良い?ドイツで検証!

都市の交通を変える?話題の近未来型モビリティー EスクーターのABC

2019年7月にドイツで解禁され、日本でもついにサービスが開始した電動キックボード。ドイツでは「Eスクーター」と呼ばれる、エコでモダンな街づくりのために開発された、新しいタイプの乗り物だ。街ゆくEスクーターの軽快な走りに「乗ってみたい!」と憧れつつ、あちこちで事故が発生し、ちょっと乗るのが怖い……という人もいるだろう。今回は、そんなEスクーターの実態を紹介しながら、乗り方や交通ルールを解説する。(Text:編集部)

Eスクーター

そもそも「Eスクーター」って?

電動アシスト機能付きキックスクーターのこと。従来の「キックボード」のように地面を蹴って進むのではなく、電動で自走するため、体力を使わずに坂道も登ることができる。300ユーロ代から販売もされているが、乗り捨て可能なシェアリングサービスの利用が主流。

  • メリット ・体力を使わない
    ・バス停や駅までの短距離移動がラク
    ・渋滞に巻き込まれない
  • デメリット ・ほかの移動手段に比べて割高
    ・長距離移動には不向き
    ・都市交通にまだなじんでいない

米国生まれのパーソナルモビリティー

ドイツ国内でEスクーターが登場したのは、2019年7月のこと。当時、その目新しさで人々の注目を集めると同時に、新聞やテレビではEスクーターによる事故のニュースも目立つようになった。それにもかかわらず、購入するには何カ月も先まで待たなければならないほどの人気ぶりで、Eスクーターのシェアリング企業は次々と国内の都市に事業を展開している。

そもそもEスクーターは、「パーソナルモビリティー」の1つとして米国で誕生。パーソナルモビリティーとは、街中での近距離移動を想定した1~2人乗りの小型電動コンセプトカーなどを指す未来型の乗り物だ。昨今、自動車メーカーが徐々にガソリン車やディーゼル車を廃止。プラグイン・ハイブリッドや電気自動車が主流になろうとしている一方で、二酸化炭素(CO2)排出量が少ないといわれるEスクーターは、都市部での新しい移動手段として現在欧米を中心に急速にシェアが拡大している。

2017年の登場以降、瞬く間に人気を博し、パリやイスラエルの首都・テルアビブにも米国発のE スクーターシェアリングの企業Limeが参入。やがてドイツもそれに目をつけ、交通・デジタルインフラ相のアンドレアス・ショイアー氏(CSU)は、Eスクーターが「非常に大きな将来の可能性」を秘めているとして、国内でEスクーターを解禁することを決定。同氏は「私たちの都市は、近代的で環境に優しく、クリーンな移動手段を求めていた」と話し、「(Eスクーターは)車に代わって、駅やバス停から自宅、職場までのラストマイルにとって理想的だ」と述べた。

駅やバス停から自宅などの目的地までのことで、比喩的に「マイル(約1.6キロ)」という言葉が用いられている

「環境に良い」はウソだった?

ドイツでは、2019年6月15日にEスクーターの一般道路使用に関する規制が発行され、7月15日から公道を走ることが法律で認められた。Limeやベルリン発のTierをはじめ、シェアリングタイプのEスクーターが突然街中を走り始めたことは、記憶に新しいだろう。しかし、実際に蓋を開けてみると、多くのドイツ人が予想していたようにEスクーターによる事故が発生し、その安全性について疑問の声が上がった。交通ルールを知らずに利用する人が多く、飲酒運転や交通違反も後を絶たない。また、歩道に駐車されたEスクーターが車椅子利用者や視覚障がいのある人々の通行の妨げになっていることも指摘されている。それどころか、本当は環境に良くない、という専門家まで登場した。

都市ごとのE スクーター総数(2019年7月15日)3企業とも人口が密集する都市を中心に展開。
人口の少ない地域に参入するかどうかは、今後の課題となりそう

IOP Publishingで公開された米国の研究報告によると、1キロメートルあたり自動車が257グラムのCO2を排出しているのに比べ、Eスクーターは126グラムと少ない。しかし、電動自転車の25グラムやディーゼルバスの51グラムと比較すると、より多くのCO2を排出していることが分かる。そこには、Eスクーターの製造過程、充電のための回収作業などで発生するCO2排出量も含まれるからだ。

Eスクーターの今後の課題

こういった批判にさらされながらも、Eスクーターシェアリングを展開する企業は着々と前進しているという印象だ。本当のエコフレンドリーを実現するために、企業の共通課題として、再生可能エネルギーのシェアを100%にすること、現在数カ月と言われるE スクーターの寿命をできるだけ延ばすこと、集配距離を短縮し効率化を図ることなどが挙げられる。また、Tierの共同設立者であるユリアン・ブレージン氏は、ビジネスサイトGründerszeneのインタビューで、Eスクーターは車やバイクに比べてはるかに事故が少ないことを指摘。事故件数を減らすために、Tierではアプリを通じて安全トレーニングを実施しているという。さらにデンマークでは、広い自転車道のおかげでE スクーターによる事故件数が少ないため、ドイツにおける都市のインフラ整備も必要があると語った。

全体的に辛口の意見が多いドイツだが、Eスクーターの導入が成功か失敗か、判断を下すのは時期尚早と言えそうだ。むしろ、より良い都市生活の実現のために、市民を巻き込みながら試行錯誤している段階と言えるかもしれない。そのなかで一人ひとりができることは、ルールを守り安全運転を心がけること。まずは、この近未来的な乗り物に試しに乗ってみるところから始めてみるのはいかがだろうか。

参考:Tagesspiegel「Entscheidung zu Elektromobilität / Regierung macht Weg frei für E-Scooter」(2019年4月3日)、Forbes JAPAN「eスクーターは便利でも賛否両論 欧州の都会から見る危険性と事例」(2019年7月14日)、Süddeutsche Zeitung「Viele Unfälle und wenig Umweltnutzen」」(2019年8月10日)、Gründerszene「Tier-Mobility-Gründer „Leider ist die E-Scooter-Debatte oft recht einseitig“」(2019年8月10日)

編集部スタッフが実際に体験!
初心者のためのEスクーターガイド

ドイツの主要都市でシェアリング事業を展開するTierのEスクーターに、編集部スタッフが初挑戦。安全にEスクーターに乗るためのポイントや、実際の乗り心地をレポートする。じっくりシミュレーションして、Eスクーターを楽しんで!

TIER

Tier

Tier

2018年10月にベルリンでスタートアップしたEスクーターの会社。オリジナルのEスクーターを開発し、ドイツの17都市をはじめ、欧州各地や中東でシェアリングサービスを展開している。www.tier.app

ドイツ国内:ベルリン、ビーレフェルト、ボーフム、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルク、ハノーファー、ハイデルベルク、インゴルシュタット、ルートヴィヒスハーフェン、マインツ、マンハイム、ミュンヘン、ミュンスター、ヴィースバーデン(2019年8月現在)

Tier利用料の目安
1ユーロ(ロック解除料)+0.15~0.19ユーロ/分(都市によって異なる)
※1回の利用料の目安は3~4ユーロ(10分程度)

5つのSTEPで乗ってみよう!

1アプリをダウンロードする

アプリをダウンロード

まずは、スマートフォンでTierのアプリをダウンロードし、ユーザー登録をする。

名前やクレジットカード情報を入力するだけなので、5分ほどで登録が完了する。一度登録すれば、利用料は自動引き落としなので、スマホさえあればいつでも利用可能。

2Eスクーターを探す

Eスクーターを探す

アプリで近くにあるEスクーターを探す。Eスクーターを見つけたら、QRコードをスキャンするか、アプリ内のEスクーターIDをタップしてロック解除。

乗る前にここをチェック!
□ ブレーキは利くか?
□ ライトはつくか?
□ タイヤはパンクしていないか?

3片足を乗せて、さあ出発!

片足を乗せて

片足をボードに乗せて、両手でハンドルをしっかり握る。地面についている方の足で、3~4回地面を蹴って出発!スピードに乗ってきたら、両足をボードの上に乗せる。

操作に慣れるため、まずは公園の中など広い場所で練習するのがおすすめ。ボードの幅が狭いので、特にガタガタした道はバランスを取るのが難しいことも。

4スピードアップする

スピードアップする

右手側のスピードレバーを使ってスピードアップ。自転車と同じように両サイドについたブレーキでスピードダウン(古いタイプの車種はボードに足ブレーキがついているので注意)。

スピードレバーを一気に押しすぎると急進してしまうため、少しずつ加速すると◎。スピードに乗ってどんなに気持ちよくても、周囲の交通状況に注意して。

5目的地に到着!駐車して完了

駐車して完了

目的地に到着したら、Eスクーターを駐車。駐車可能なエリアは、アプリの指示に従う。通行の妨げにならないように、駐車場所には配慮すること。「Fahrt beenden(乗車終了)」をタップして完了。

待ち合わせなどで急いでいるときに、なかなかバスやトラムが来なかったり、乗り損ねてしまった場合に利用すると、時間を短縮できて便利そう!

楽しく安全に乗るためのQ&A

Q: どこを走ってもいいの?
A: 原則的に自転車道だけ

自転車専用道のない場合だけ車道走行が認められている。歩道は走行禁止で罰金あり。また、対向車線を走らないように注意して。

Q: 速度制限はある?
A: 時速20キロまで

都市ごとに定められている最高速度(ドイツでは一般的に時速20キロ)を超えないように注意する。また、下り坂ではスピードを十分に落として走行すること。

Q: 子どもは乗っていいの?
A: 14歳以上から使用可能

ドイツでは14歳以上がEスクーターを使用可能。なお、TierのEスクーターを借りられるのは、18歳以上から。運転免許証は不要。

Q: ヘルメットはいらない?
A: 着用するのがベター

ヘルメット着用の義務はないが、各地で事故が発生していることから、着用が推奨されている。実際に、事故で怪我をする人はヘルメットを被っていないことが多いそう。

Q: お酒を飲んでも運転できる?
A: 飲酒運転は禁止

車やバイクの場合と同じように飲酒運転は禁止。特に夜間は視界が悪くなるため、飲酒していなくても注意して運転することが必要だ。

最終更新 Montag, 26 April 2021 10:23
 

ドイツで始めるバードウォッチング - 会いたい野鳥を探しに出かけよう!

会いたい野鳥を探しに出かけよう!ドイツで始めるバードウォッチング

コロナ禍でにわかにブームとなっているのが、バードウォッチングだ。窓辺や庭に遊びに来た野鳥を眺めたり、森の中で見たことのない種類を発見したり、ロックダウン中でも気軽に楽しめることから、野鳥観察を始める人が増えたのだとか。ここドイツでは19世紀から野鳥を保護してきた歴史があり、さまざまな種類の野鳥を身近で観察することができる。今回は、そんなドイツでバードウォッチングに出かけたくなる魅力とヒントをお届けする。(Text:編集部)

ドイツで始めるバードウォッチング

鳥類保護120年の歴史 野鳥を大切にしてきたドイツ

参考:NABU公式ホームページ、浅田進史「書評:帝政期ドイツにおける『自然保護』の近代」

鳥類保護は自然保護の原点

ドイツは「自然保護の国」というイメージが強いが、その歴史は18世紀にまで遡る。ドイツでは18世紀以降の林業の合理化によって、森の木々は収益性の高い種類だけとなり、人々が慣れ親しんだ景観が大きく変化。合理主義に対抗するロマン主義的な傾向を強めることになった。19〜20世紀のドイツで自然保護運動が盛んになったのには、こうした背景がある。

1837年、自然保護団体としてドイツ初の動物保護協会がシュトゥットガルトに生まれた。その後、各地で同じような協会が設立され、鳥類保護の必要性も訴えられるようになる。そして1899年に、全国的な組織として「鳥類保護同盟」(BfV)が創設された。会員は貴族や知識層が中心で、その数は発足から1年で3500人まで増加している。

BfV創立者のリナ・ヘーンレは、実業家の妻であり6人の子の母だった。「容赦ない自然搾取をこれ以上見ていられない」ことが、協会設立のきっかけだったという。当時、害虫を駆除する益鳥を守ることが鳥類保護の主な動機だったが、狩猟による渡り鳥の大量殺害や羽飾りのついた帽子を被るような行為に対して闘うことも重要であると、BfVの規約で明確にされた。さらに、野鳥に巣を作る機会や冬の餌を与えることで、ドイツ固有の益鳥の保護に貢献することが同協会の目的となっていた。

BfVは巣箱の設置や冬の餌の調達、自然保護地域の土地を購入するなど、着実に鳥類保護の活動を進めていった。また鳥類の個体数が減るという最悪のシナリオを提示し、自分たちの美しい故郷の自然を守ろうと呼びかけ、人々が自然や野鳥の保護に関心を寄せるきっかけを積極的に作った。そうして会員数は拡大し、1914年には4万人以上の団体へと成長する。

環境保護団体へと成長

ナチス政権下では、BfVは「帝国鳥類保護連盟」として政府の管轄に置かれた。第二次世界大戦中は物資が不足しながらも、巣箱の設置や冬の餌やりが続けられたという。戦後はBfVとして再スタートを切り、1965年に「ドイツ鳥類保護連盟」(DBV)に改名。1970年代には、工業化や農薬などによって汚染された環境、つまり野鳥の生息地を保護することもDBVの大きなテーマとなっていく。

1971年、DBVは絶滅に瀕していたハヤブサを「バード・オブ・ザ・イヤー」(今年の鳥)に決定した。このキャンペーンは、絶滅危惧種や身近な野鳥を選出するもので、現在に至るまで毎年続けられている。またそうした種の保存に関する活動で印象的な出来事の一つに、1974年のツバメの救出作戦がある。例年よりも早く冬が到来したため、弱って南へ飛び損ねた100万羽のツバメを飛行機や電車で輸送するという大掛かりなものだった。

1981年には規約の改正に伴い、全ての生き物や植物を保護の対象とすることを明確にした。間口を広げたことにより、その年の会員数は10万人に達する。さらに、1986年のチェルノブイリ原発事故後には反原子力の立場を取るようになるなど、政治的な活動も活発になっていった。そして1990年に東西ドイツが再統一され、鳥類にとどまらず全ての生き物、環境を保護する包括的な組織「ドイツ自然保護連盟」(NABU)が誕生したのだった。

NABUが育ててきた野鳥への愛

現在NABUを支えるのは、82万人を超える会員とサポーターで、全国約2000の地域ごとや専門家のグループが活動している。会報「Naturschutz heute」は年4回、合計40万部が発行され、最も発行部数の多い環境雑誌としても知られる。会員は会費を支払い、国内に5000カ所以上ある保護地域の保全活動に協力したり、環境教育の一環としてイベントなどに参加したりすることが可能だ。

全国各地にあるNABUの自然保護センターには観測塔が設置されている全国各地にあるNABUの自然保護センターには観測塔が設置されている

前述の「今年の鳥」は、鳥類保護を前身とするNABUの代表的なキャンペーンの一つ。2021年は45万人以上が投票し、ヨーロッパコマドリが選ばれた。候補の野鳥たちにはそれぞれ選挙ポスターがあり、ヨーロッパコマドリのスローガンは「もっと庭に多様性を!」。ちなみに、ヨーロッパコマドリは1992年にも今年の鳥に選ばれている。

ヨーロッパコマドリの選挙ポスターヨーロッパコマドリの選挙ポスター

こうして一つひとつ積み重ねてきたNABUの活動は、ドイツの人々により自然を身近に感じさせ、それらを守ろうという意識を広めてきた。この国に住む野鳥たちは、そうした人々の愛があってこそ、私たちにとって身近な存在であり続ているのだろう。そんなドイツの野鳥たちに出会うためのヒントをご紹介する。

NABU公式ホームページ:www.nabu.de

バードウォッチング初心者のためのヒント

むくむくと野鳥への興味が湧いてきたところで、いよいよバードウォッチングへ出発! その前に何を用意すれば? どんなことに注意したら? 初心者でも気軽に楽しめるよう、自他共に認める(!?)バードウォッチャーである守屋健さんとキーツマン智香さんのおふたりに、野鳥観察のヒントを伝授していただいた。

お話を聞いた人

守屋健さん

ベルリン在住のライター。小学5年生のとき、近所で野生のキジを見たのをきっかけに日本野鳥の会に入り、日本各地の野鳥を観察してきた。ドイツで出会ってみたい野鳥はフクロウ(夜行性のため鳴き声しか聞いたことがない)。本誌では「私の街のレポーター」に隔月で寄稿中。

キーツマン智香さん

ブランデンブルク州在住の元翻訳者。旅行先のパナマでハチドリを間近で見たことから、野鳥観察に夢中になる。ドイツで出会ってみたい野鳥はニシコウライウグイス(DDRのガソリンスタンドのマスコットキャラクターだった)。ホームページでドイツの野鳥観察に関する情報を発信中。https://chikatravel.com

野鳥観察に出かける準備

野鳥観察に出かける準備

服装

長袖長ズボンが基本。アウトドアでは遭難対策で派手な色のジャケットなどを着用することをすすめられるが、バードウォッチングでは野鳥に警戒されないように風景に溶け込むカーキ色などが◎。同じ理由で、ナイロンなど動くとカサカサと音がするような生地の服ではなく、ウールやコットンなどを着るのがベター。

双眼鏡

野鳥観察では、双眼鏡の倍率は7~10倍くらいが適している。また、レンズの大きさは30ミリ前後を目安に用意しよう。双眼鏡の倍率が高すぎると、かえって鳥を探しにくくなってしまうので注意。防水機能が付いたものであれば、雨が降った時でも安心だ。使うときのコツは、野鳥を目視した状態で、その姿勢のまま双眼鏡を目元に持っていくこと。

トレッキングシューズがベストだが、履きなれた靴であればOK。湿地帯などを歩く場合は、防水性の高い靴にしよう。

アプリ

NABUが監修したアプリ「Vogelwelt」(鳥の世界)は、無料でダウンロード可。よく見る307種類の野鳥が収められており、初心者にもおすすめ(ドイツ語のみ)。有料版では1000種類に数が増え、鳴き声や卵の大きさを確認することもできる。手元に図鑑がない時も気軽に利用できて便利。また世界中のユーザーと野鳥観察の記録をシェアできる「eBird」というアプリ(英語)もある。

フィールドノート

あとで野鳥の種類などを図鑑で調べるために、特徴などを素早くメモするノート。例えば、見た目、鳴き声(擬音語)、巣の有無、枝への止まり方などを書き留めておく。スマートフォンでメモすることも可能だが、ささっと絵を描くこともできるので、ノート愛用者も多い。さまざまなデザインのものがあり、日付や季節ごとに見られる野鳥のイラストなどが付いている場合も。

フィールドノートキーツマンさんのフィールドノート(写真:ご本人提供)

図鑑

自然科学をはじめとした図鑑を数多く出版しているKosmos社。同社の『Welcher Vogel ist das?』(あれはどの鳥?)のシリーズはNABUのお墨付き図鑑で、愛用する人も多い。ドイツに生息する野鳥の特徴や生息地が、美しいイラストと共に収められている。

野鳥に出会うためのコツ

いそうな場所を狙ってみる

川や湖に行ったら水の上や水辺の木の上に注目したり、タカやワシなどの猛禽類であれば視界が開けた場所を見たりするなど、いそうな場所を探してみよう。事前に図鑑などで、見たい野鳥がどんな場所に生息しているのかを調べておくのも一案だ。むやみやたらに上ばかり向いていると、首が疲れてしまうのでご注意!

音を聞いてみる

歩く時は、大きな音を立てないようにして耳を澄ませよう。鳴き声はもちろん、落ち葉の上を「カサッカサッ」と歩く音が聞こえてくるかもしれない。例えば、キツツキはドラミング(木をつつく音)をする前、木を調べるように1~2回「コンコンコン」と音を出している。その音が聞こえる方に、そっと視線を移してみて。

定点観測をしてみる

お決まりの散歩コースがあれば、定点観測がおすすめ。何度も歩いているうちに、湖には〇〇がいる、原っぱには△△がいる……など、だんだんと野鳥の縄張りが分かるようになってくる。今の季節であれば、巣を作っている→ひなが生まれる→ひなが巣立ちをする、など定点観察しているからこその面白さがある。

巣箱や餌台を設置してみる

庭がある場合は巣箱や餌台を設置してみよう。なかなか間近で見ることはできない野鳥が顔を見せてくれる。専用カメラ(安価なもので100ユーロ前後)を取り付ければ、アプリを通じてリアルタイムでの観察が可能。定期的に動画や静止画を撮影してくれるので、時間の空いた時に様子を確認するなど、毎日の楽しみも増えるはず。

バードウォッチャーおすすめ野鳥図鑑

引き続き守屋さんとキーツマンさんに、ドイツでよく見られる種類やイチオシの野鳥を教えていただいた。会いたいと思う野鳥を見つけたら、図鑑片手に探しに出かけてみよう。見慣れていた散歩の風景が、きっといつもと違って見えるはず。鳴き声を聞きたい方は、NABU-Vogelporträts をチェックしてみて。

参考:NABU-Vogelporträts

庭によく来る野鳥トップ ※NABUの統計より

1位イエスズメ Haussperling
スズメ目スズメ科/体長14~16cm

いわゆるスズメ(Feldsperling)とは違い、頬に黒い斑点がない。雌雄の違いがはっきりしており、オスは頭が灰色で、メスは目の横に黄土色の線が入っているのが特徴。日本には生息していないが、欧州では都市部でもよく見られる。害鳥と見なされていた19世紀、20羽ごとに「スズメ税」が課されていたこともあるとか。

イエスズメ Haussperling

2位クロウタドリ Amsel
スズメ目ツグミ科/体長23〜29cm

黄色いくちばしと真っ黒の羽毛で見た目は地味だが、冬の終わりごろから6月にかけてよくさえずり、多彩な鳴き声を発するのが魅力。特に求愛時のオスの歌声はメロディックである。地中にいる虫を食べるため、地面を動き回っていることが多い。オートミールやレーズンなども好むため、餌台がある人はぜひ置いてみよう。

クロウタドリ Amsel守屋さんのイチオシ野鳥

3位シジュウカラ Kohlmeise
スズメ目シジュウカラ科/体長13.5~15cm

1年中、庭や公園、森林など、緑が多い場所で見られる。カラフルな羽毛が魅力のシジュウカラは、欧州ではお腹が黄色いのが特徴で、日本ではこれが白とやや見た目が違う。夏場は虫を食べるが、冬場は種子などを食す。巣箱や餌台を設置すると、喜んでやってくる。春に苔や羊毛で巣を作るため、近くに素材を置いてあげても。

シジュウカラ Kohlmeise

初心者でも見つけやすい野鳥

カササギ Elster
スズメ目カラス科/40~51cm

カラスよりも少し小さいが、白と黒の羽毛と長い尾羽が特徴で、木の上や原っぱですぐに見つけることができる。光反射によって黒い羽毛がメタルブルーに見えることがある。日本のカササギも見た目が同じ。地中に食べ物を隠したり、しばしばほかの野鳥から食べ物を奪ったりするため、ずる賢いことでも知られている。

カササギ Elster

マガモ Stockente
カモ目カモ科/体長50~60cm

「バードウォッチング!」と気合を入れなくても出会える水鳥。オスは緑色の頭と黄色のくちばし、メスは茶系の羽毛とオレンジ色のくちばしが特徴。通常はペアで行動するが、春はメスがひなを連れている姿が見られる。餌やりをする場合、パンには塩や防腐剤が入っているため、専用の餌や穀物をあげるようにしよう。

マガモ Stockente

ツバメ Rauchschwalbe
スズメ目ツバメ科/17〜 19cm

夏鳥といえばツバメ。ドイツでは4〜10月に見ることができ、冬はアフリカへ渡る。人間の生活空間に巣を作ることを好むため、見かける機会も多い。毎秒20メートルで颯爽と飛び、飛行中に餌となる虫などを捕らえる。「ツバメが低く飛ぶ」のは雨が降る予兆といわれ、低気圧のために地上に近い虫を追いかけるからだとか。

ツバメ Rauchschwalbe

欧州だから見られる野鳥

ゴシキヒワ Stieglitz
スズメ目アトリ科/体長12〜13.5cm

日本には生息していない野鳥で、赤と黄色と黒のカラフルな羽毛が特徴。ゴシキヒワは苦悩を和らげるためにキリストの皮膚からトゲを引き抜き、聖なる血を頭に塗ったという言い伝えがある。虫はほとんど食べず種子などを好むため、畑や休閑地、果樹園などでよく見られる。繁殖期以外は基本的に群れで行動する。

ゴシキヒワ Stieglitz

クマゲラ Schwarzspecht
キツツキ目キツツキ科/体長40〜46cm

赤い帽子を被ったような見た目で、オスよりメスの方が赤い部分が小さい。そしてなんと言っても、のみのように鋭いくちばしで木を高速でつつくドラミングが最大の特徴だ。日本では北海道と東北地方の一部の地域でしか見られないが、ドイツでは全国的に生息している。樹齢80年以上の古い木がある森林でよく見られる。

クマゲラ Schwarzspechtキーツマンさんのイチオシ野鳥

コウノトリ Weißstorch
コウノトリ目コウノトリ科/体長95~110cm

渡り鳥で、冬はアフリカに滞在するが、近年西側に生息するコウノトリはイベリア半島で越冬する。湿った牧草地を好み、大空を旋回する姿がよく見られる。煙突や教会の塔に巣を作ることもあり、この時期は子育て中のコウノトリが見られるチャンスも多い。絶滅危惧種でドイツ国内には6240ペアのみが生息している(2019年)。

コウノトリ Weißstorch

最終更新 Dienstag, 27 April 2021 11:41
 

コロナ時代の教育5つの課題 - ドイツの学校教育はコロナをどう乗り切るのか?

子どもたちの未来を考えるドイツの学校教育は
コロナをどう乗り切るのか?

子どもたちの未来を考える ドイツの学校教育はコロナをどう乗り切るのか?

最初のロックダウンから1年。学校の閉鎖によってデジタル教育が急速に推し進められるなど、子どもを取り巻く世界も大きく変化している。それに伴い、ホームスクールによる親子のストレスや、学校を再開する上での感染対策など、さまざまな課題が浮き彫りになった。そんな教育現場の実情について、ドイツで学校に通う子どもの親たちの声を聞きつつ、ドイツ政府や教育現場の取り組みを紹介する。コロナ時代を生きる子どもたちの未来について考えよう。(Text:編集部)

参考:Deutschlandfunk「Chronologie eines Schuljahrs in der Coronakrise」、「Die Herausforderungen von Distanzunterricht」、tagesschau「Fast jedes dritte Kind psychisch auffällig」、DAK Gesundheit「Corona: Schulschließungen belasten Mütter besonders」、Süddeutesche Zeitung「Eltern stehen immer stärker unter Druck」、Der Tagesspiegel「40 Prozent der Eltern fällt die Doppelbelastung schwer」、zdf「Wie Corona den Unterricht verändert」、DW「Corona-Pandemie: Herausforderung digitales Lernen」

コロナに振り回された学校教育の1年

ドイツで最初の新型コロナウイルス感染者が確認されたのは、2020年1月27日。それから2カ月も経たない3月13日には、全ての連邦州で学校の閉鎖が決定した。その後、イースター明けの4月後半から夏にかけて学校が再開され、学校でのマスク着用やアルコール消毒、換気、友だちや先生とのソーシャルディスタンスが、子どもたちの学校生活の新たなルールに加わる。

しかし、冬には第二波の猛威を押さえ込むことが困難となり、12月16日に再びロックダウンが強化。学校も閉鎖されることになり、子どもたちは友だちや先生と会えず、長いドイツの冬を自宅学習で乗り切ることを求められた。そして今年2月からは、感染者数に応じて各州で学校が再開されつつあるが、第三波の到来によって、今後の学校生活の行く末が案じられている。

コロナに振り回された学校教育の1年感染予防のため、小学校ではイラストや信号を使って注意喚起

今、教育現場で何が起きているのか?コロナ時代の教育5つの課題

ご協力いただいた父母の方々

Aさん:ハノーファー在住。お子さんは8年生
Bさん:ロストック在住。お子さんは小学4年生と幼稚園児
Cさん:ベルリン在住。お子さんは8年生と小学5年生
Dさん:デュッセルドルフ在住。お子さんは12年生(最終学年)
Eさん:ブランシュヴァイク在住。お子さんは小学3年生と1年生、幼稚園児

1デジタル教育インフラ整備と教員育成が急務

インフラ整備と教員育成が急務

ロックダウンに伴って開始されたドイツの遠隔教育は、早くからデジタル教育に着手していたデンマークやフィンランド、スイスなどの近隣欧州諸国と比べて大きく遅れを取ったといわれる。もちろんドイツでも、コロナ以前からデジタル教育を推進しようという動きはあった。2019年5月に発効された「学校教育デジタル協定」(DigitalPakt Schule)では、連邦政府と州が連携してデジタル教育環境を整備するとともに、その教育を担う教員の育成や授業カリキュラムの改善を推し進めるため、2025年までに総額55億ユーロを投じることで合意していたのだ。

最初のロックダウンで学校閉鎖が決まると、ドイツではこの協定をベースに、各学校がコロナ禍での教育に対応できるよう補助金を拠出。また、追加のコロナ緊急支援として500万ユーロが投じられ、低所得世帯の子どもたちへのデジタル端末の配布や、学校がオンラインコンテンツを作成するための資金として活用された。

しかし、子どもたちへのデジタル端末の配布スピードや予算不足は、しばしば批判のやり玉に挙げられた。また、仮に子どもたちに端末が貸与されても、自宅のインターネット回線が悪ければ授業をスムーズに受けることはできない。さらにオンライン学習アプリを教師や生徒がすぐに使いこなせないなどの問題も起こり、コロナ禍で始まったドイツの本格的なデジタル教育は、まさに前途多難な船出となったのだった。

最初のころは特に先生たちがITに対応できていない印象でした。スマートフォンで撮影した授業プリントが送られてきたり、保護者に丸投げの授業予定表が届くことも。(Bさん)

小学3年生の授業では、朝9~10時まで、分からないところを先生にチャットで質問できる時間が設けられていましたが、チャット上で子どもたちのおしゃべりが始まってしまい、うまく機能していませんでした。(Eさん)

まずは、誰もが安定したネット環境で学習できるように、環境を整備してもらいたいです。ただし、ネット環境が充実しても学習以外の誘惑も多いので、自己管理能力の育成も大切。(Dさん)

2学習の遅れ低学年と最終学年に大きな負担

ロックダウン中の学習状況は、学校の種類や子どもの年齢によっても異なるが、特に打撃を受けたのが、小学校低学年と、中等教育の卒業を控える最終学年だといわれる。小学校低学年の子どもたちは、自分一人での学習がまだ難しく、そもそも遠隔授業になじみにくい。また、大学入学資格試験や職業資格試験などを控える最終学年は、自主的な学習こそ可能だが、分からないところを気軽に先生や友だちに聞くことができず、精神的な負担やプレッシャーも大きい。これらの学年と比べて、中等教育に通う子どもたちは、遠隔授業の影響をそれほど受けていないというのが一般的な見解だ。もともとモチベーションが高い子どもや、親が積極的に学習支援をする家庭などでは、自宅の方が効率よく勉強できるという声もある。

それとは対照的に、低所得者世帯の子どもたちは、勉強に集中できる環境や設備が整っていなかったり、親からのサポートが受けにくいことも。さらに移民を背景に持つ子どもたちの場合は、授業についていく以前に、学校閉鎖中にドイツ語の能力が下がってしまうという問題も抱えており、自宅学習の長期化によって教育格差が拡大してしまうのではないかと懸念されている。現在、教師協会が自主的な留年を認めるように政府に要望を提出するなど、今後もフレキシブルな対応が必要となるだろう。

オンラインでカバーできないのは時間数。学校にいる時より学習時間が明らかに少ないです。もちろん先生方は大変だと思いますし、多ければいいってものではないでしょうが、いろんな経験ができる時期にもったいないと思いました。(Cさん)

娘はオンライン授業のコツを掴んでからは、必要ない勉強はしなくて済むのが良いと言っていました。例えば復習課題など、自分ができないもののみ選んで取り組んだとのこと。空いた時間は、ほかの学習に充てたそうです。(Dさん)

自宅学習した分を子どもたちが本当に理解しているかどうか、現時点では見えにくいです。学校が再開したら、確認してほしいと思います。(Aさん)

低学年と最終学年に大きな負担

3メンタル3人に1人の子どもが「心理的な問題」

3人に1人の子どもが「心理的な問題」

コロナ禍による不安定な学習状況に加え、外で自由に遊べないことや友だちと会えないことは、子どもたちにとって大きなストレスだ。ハンブルク・エッペンドルフ大学医療センター(UKE)の調査では、ドイツでコロナ禍が始まって1年が過ぎた現在、およそ3人に1人の子どもが心理的な問題を抱えていることが明らかになった。

この調査の責任者であるラーヴェンス・ジーバラー氏によると、不安を抱える子どもたちの中には抑うつ症状や、胃痛や頭痛などが出ているケースも報告されているという。メンタルヘルスが悪化する最大の理由は、不健康な食生活と運動量の減少にあるといい、調査対象の子どもたちのうち40%が、スポーツやレジャー不足を訴えた。また社会的に恵まれない家庭の子どもたちは、特にメンタルヘルスの問題の影響を受けやすい。家族には、子どもたちと生活のルールを共有したり、多くの時間を一緒に過ごすなど、コロナ禍のストレスにうまく対処するための工夫が求められている。

息子は今の状況に全然ストレスを感じないと言っていますが、「オンラインがずっと続くのは嫌、学校に行きたい」とも。友だちとオンラインゲームをすることが増え、いいのか悪いのか……。(Aさん)

ストレス解消のために、子どもの課題さえ終わったら、ひたすら散歩へと出かけました。私たちが住んでいるところは森と海に囲まれており、環境にとても助けられたと思います。(Bさん)

娘は学校や習い事の行き帰りに費やす時間がなくなったので、空いた時間を自分の趣味に使い、むしろ生活は充実しているようでした。(Dさん)

4親の負担特に幼年期の子どもがいる母親の負担増

特に幼年期の子どもがいる母親の負担増

フォーサル研究所の調査によると、ドイツの親の40%は、コロナ禍によるホームオフィスとホームスクールの二重負担を大変だと感じているという。詳細を見ると、高校生の保護者のうち30%、5~9年生の保護者の52%、小学生の保護者の72%が、学校閉鎖によって負担が増えたと回答。子どもの年齢が低ければ低いほど、親の負担が増えているようだ。

また、健康保険会社DAKの調査では、子どもの自宅学習が続くことによって10人に3人の親が睡眠障害や胃痛、腰痛、頭痛などを感じており、しばしば父親よりも母親の方がコロナ禍の影響を大きく受けていることが明らかになった。これは必ずしも全ての家庭に当てはまるわけではないが、ドイツの多くの家庭では女性が出産後に家庭内のケアワークを引き受け、男性がフルタイムで働くというパターンが多いことが関係しているという。さらに一人親世帯についても、経済的な不安に加えて、学校の閉鎖により子どもの面倒を見られる人がいないなど、適切な支援が必要とされている。

子どもが本当に勉強しているのか時々チェックしなければならず、親にとって手間がかかります。オンライン授業を忘れたこともあったので、私も時間割を確認しています。(Aさん)

そもそも日本の学校で日本の方法で学んだ私が、ドイツの学校で学ぶ娘に教えられることはあまりなく……計算方法などでは逆に混乱を招くことも。娘の学習に加えて、下の子が幼稚園児のため夫と交代で面倒を見たり、仕事をしたりと辛い時もありました。(Bさん)

負担は明らかに増えました(苦笑)。昼食の用意が必要ですし、子どもが家にいる分、部屋も汚れます。良かったこととしては、まれに子どもたちが料理を作ってくれるようになったことです。(Cさん)

子どもの自宅学習期間中、どのような負担や問題を抱えていますか?

  母親 父親
コロナ感染の心配 90% 85%
ストレス 49% 45%
(家族間の)けんか 28% 23%
気分の落ち込み 25% 16%
精神的・身体的な疲労 52% 39%
よく眠れない 38% 31%
身体の痛み 31% 23%

出典:DAK Gesundheit

5学校再開の見通し今後もフレキシブルな授業形態が求められる

今後もフレキシブルな授業形態が求められる

今年2月、2度目のロックダウン以降初めて、10州で小学校と最終学年の対面授業が再開されることになった。子どもたちがどのような形で学校に戻るかは、各州によって対応が異なる。例えばベルリンの小学校では、2月22日からクラスの半数が交代制で通学し、教師と生徒はコロナ検査を週に2回受けているという。また、ザクセン州では2月15日から人数制限付きで小学校を再開しているが、登校するか自宅学習にするかは、保護者が決められる。しかし、校内で感染者が出た場合は再び自宅学習へ切り替えるため、遠隔授業の工夫や改善はもちろん、子どもたちやその家族のケアも引き続き必要だ。

ドイツに限らず世界の教育界において、コロナ以前の遠隔授業はあくまでも学校での対面授業を補完するものとして位置づけられてきた。しかしコロナ禍によって、その前提は大きく覆されている。試行錯誤が続いたドイツの教育は、今後どのような道を進んでいくのか。次ページでは、そんなドイツの教育現場における先進的な取り組みを紹介する。

子どもたちは学校再開を喜んでいます。ただ、クラスの半分だけが登校するシステムは、兄弟が違う時間に当たると、送り迎えの必要な年齢の子の保護者は大変だと聞きました。(Cさん)

遅れた分を取り戻すために授業数を増やすことには、自由時間が減るので反対です。学校には、学習の質を意識してもらいたいです。(Eさん)

娘はアビトゥア直前なので、まずは授業を受けられることが重要かと思います。今後の教育形態としては、対面と遠隔授業をうまく組み合わせていけたら良いですね。学校の枠を超えて、自分に合った教え方の先生の授業を選べたら良いと思います。(Dさん)

コロナで注目された3つの事例から探るこれからの学校教育のヒント

ロックダウンで学校が閉鎖され、多くの人々が翻弄されたなか、比較的ホームスクールへの移行がスムーズだった学校や、教育を取り巻く問題を解決しようとする動きがドイツ各地であった。メディアでも注目された先鋭的な三つの事例から、今後の学校教育のヒントを探る。

一人ひとりに寄り添う工夫が満載
Hardtschule Durmersheim ハルトシューレ デュルマースハイム
https://hardtschule-durmersheim.de

バーデン=ヴュルテンベルク州のデュルマースハイムにあるハルトシューレは、ドイツ学校賞2020の6校に選ばれた新しいタイプの学校だ。この賞は毎年革新的な取り組みをする学校に贈られており、同校はコロナ禍でハイブリット教育へスムーズに移行した好例として注目を浴びている。

1〜10年生までが通う同校は、三つの異なるレベルの生徒が一緒に学んでおり、一般的な学校とは異なる点がいくつかある。例えば、正面を向いて行う一斉授業を禁じているため、「学習アトリエ」と呼ばれる教室はオフィスのような造りに。また教師は「学習ガイド」と呼ばれ、一人ひとりの学習をサポートする。その個別学習を支えているのが、2014年に導入されたデジタル学習プラットフォームだ。進捗状況などを管理しながら、それぞれに合った課題を提示する仕組みとなっている。

すでに個別学習を実践してたハルトシューレは、パンデミック後のホームスクールへの移行は比較的スムーズだったという。ハイブリット授業を実践し、始業時と終業時にクラス全体でビデオミーティングを行い、自宅にいる生徒はいつでもメッセージを送って、教師のサポートを受けることができる。この体制によって、自宅隔離中の生徒も参加できるようになった。また、ハルトシューレではコーチングを重視しており、生徒が選んだコーチ(教師)にキャリア形成や悩み事について定期的に相談できる体制が整っていた。ロックダウン後もビデオミーティングを通じて継続し、コロナ禍でそれぞれが抱える不安やストレスを軽減してきたという。このシステムも
また、学校賞で大きく評価された点といえるだろう。

参考:Das Deutsche Schulportal、bildungsklick.de「Das Lernmanagement-System LEARNscape geht am 1. Juli 2014 an den Start」

ビデオミーティングに参加する生徒たちビデオミーティングに参加する生徒たち

各自専用の棚が設置されているオフィスのような教室各自専用の棚が設置されているオフィスのような教室

宿題から始めるデジタル授業
Flipped Classroom 逆さま教室
www.flippedmathe.de

ここに3枚のピザがある。僕はそのうち4分の3枚を食べる。残りのピザは何枚になるだろうか?……ユーチューブ上で図を用いながら説明するのは、バイエルン州ノイウルムにある実科学校(Realschule)の数学教師、セバスティアン・シュミットさんだ。2013年から同州の5〜10年生のカリキュラムに合わせて、各トピックごとに数分にまとめられた数学の説明動画を作ってきた。「Flipped Classroom」(逆さま教室)と名付けられた動画の本数は、およそ500本ある。

授業を難しいと感じる生徒のために数本の動画を作成したことが始まりだった。何度も繰り返し見ることのできる動画は生徒たちの学習の助けとなり、その手応えを感じたシュミットさんは逆さま教室のアイデアを思いついた。逆さま教室では、生徒たちはまず自宅で動画を見ながら予習をし、学校でフォローアップする。従来 の授業形式とは順番が逆なのだ。学校では、通常なら宿題として出される難しい練習問題を一緒に解いたり、生徒同士で教え合ったりできるようになった。同氏はこ のデジタル学習を他校の教師と連携して行い、ドイツ教師賞2019を受賞している。

シュミットさんが受け持つ8年生のクラスでは、動画やインターネットで課題をこなす学習方法に精通していたため、コロナ禍で改めてオンライン授業について説明することが少なかったそう。分からない部分はシュミットさんにチャットで聞いたり、クラスメートと連絡を取り合ったりして一緒に考える。ホームスクールだからといって独りで勉強する必要はなく、「一緒に課題を成し遂げる」という姿勢はコロナ禍でも変わっていない。

参考:RND「Die Schule der Zukunft: Wie lernen Deutschlands Kinder in 20 Jahren?」、SZ.de「Schulen und Corona: "Immer nur klagen bringt uns nicht weiter"」、ZEIT ONLINE「"Besonders Mädchen profitieren von Videos im Matheunterricht"」

私生活では3人のパパでもあるシュミットさん私生活では3人のシュミットさんは動画でシュヴァーベン地方のアクセントで話す

シュミットさんは動画でシュヴァーベン地方のアクセントで話すシュミットさんは動画でシュヴァーベン地方のアクセントで話す

学生が無償でオンライン家庭教師に
Corona School e.V. コロナスクール
www.corona-school.de

パンデミック宣言直後に数人の学生によって立ち上げられたコロナスクールは、コロナ禍で学習困難な生徒に学生が無償で勉強を教えるためのプラットフォームだ。ロックダウンによって時間ができた学生たちが、それぞれの専門を活かした社会貢献をしたいという思いから始まった。設立から1年が経ち、現在は2万人以上の生徒と1万3000人以上の学生が登録されている。

学生はどの科目を教えられるかをオンラインで登録し、ビデオ面接を通じて信頼できる人物かどうかを判断される。その後、生徒と学生をマッチングし、チャットを通じてお互いのことや課題について話し合い、オンライン授業が開始されるという流れだ。当初はアビトゥアを控える生徒たちを手助けすることを目的としていたが、最終的に全ての科目においてできるだけ多くの子どもたちをサポートすることになったという。

コロナスクールではいくつかのプロジェクトが提供されている。「1対1学習サポート」では、とりわけ社会的・経済的背景により学習が困難な生徒たちが対象となる。また「1対1プロジェクトコーチング」では、科学分野の研究プロジェクトのジュニア大会に参加したい生徒をサポートする。さらに、知的好奇心をくすぐるさまざまなデジタルワークショップを開催したり、学生のためにデジタル教育のインターンシップを提供したりするなど、コロナ禍だからこそできる取り組みにも熱心だ。ちなみに、登録した学生の9割は、コロナ危機後も子どもたちの学習をサポートしたいと考えているそう。ドイツ語話者であれば、世界中どこからでも参加できるため、興味のある方はぜひホームページにアクセスしてみて。

参考:FAZ.NET「LERNEN TROTZ VIRUS: Schule statt Corona-frei」

コアメンバーはボンやベルリンの学生たちコアメンバーはボンやベルリンの学生たち

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最終更新 Dienstag, 13 April 2021 19:46
 

ドイツの国民的絵本作家ヤーノシュの人生&個性豊かなキャラクター

生誕90周年記念 ドイツの国民的絵本作家の軌跡をたどる
ヤーノシュとその仲間たちの物語

ヤーノシュ

子どものころに好きだった絵本を覚えているだろうか? この質問に「ヤーノシュ」と答えるドイツ人は少なくないだろう。 今日ドイツで最も成功している絵本作家の一人といわれるヤーノシュは、2021年3月11日に90歳の誕生日を迎えた。 この特集では、そんなドイツ国民に愛され続けている彼の波乱万丈の人生を振り返るとともに、魅力的なキャラクターや作品をご紹介。 ユーモア溢れるヤーノシュの言葉や作品は、人生を楽しむために大切なことを教えてくれる。(Text: 編集部)

ヤーノシュ

PROFIL

Janosch本名はホルスト・エッカート。1931年3月11日、ドイツ領ヒンデンブルク(現在はポーランドのザブジェ)に生まれる。1960年に初めての絵本を出版してから今日まで、イラストレーター、絵本作家、小説家として精力的に活動。これまでに大人向け・子ども向けを含めて320作品以上を発表し、40以上の言語に翻訳されている。妻のイネスと共にカナリア諸島のテネリフェ島に在住。

ヤーノシュの人生

LEBEN

1931年
ドイツ領ヒンデンブルクに生誕
1946年
両親と共に西ドイツへ移住
1949年
クレーフェルトのテキスタイル学校でデザインを学ぶ
1953年
ミュンヘン美術アカデミーに入学するも、2学期で退学
1960年
初めての絵本『うまのヴァレクのはなし』を出版
1979年
『パナマってすてきだな』でドイツ青年文学賞を受賞
1980年
スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島へ移住
1986年
アニメシリーズ「ヤーノシュの夢の時間」放送開始
1992年
文学作品でアンドレアス・グリフィウス賞を受賞
1993年
ドイツ連邦共和国功労勲章を受賞
1999年
トロイスドルフ児童文学博物館に原画を永久貸与
2010年
引退を発表
2013年
ツァイトマガジンで「ヴォンドラック」の連載を開始
2021年
生誕90周年を迎える

生誕90周年を記念して、作品集の出版や展覧会などのイベントが盛りだくさん。生誕90周年を記念して、作品集の出版や展覧会などのイベントが盛りだくさん。詳しくは https://janosch-medien.de にて

波乱万丈の90年史 苦悩の果てに小さな楽園を見つけて
「ヤーノシュ」という生き方

水彩画の柔らかく温かいタッチに、ユーモアと愛に溢れたセリフ……それらはヤーノシュ作品の特徴ともいえるが、彼が生み出す物語は、決して表層的な優しさや調和にとどまらない。子ども向けの作品であっても、愛情や友情、夢や幸福についてだけでなく、時には暴力や貧困、孤独などについても真摯に語られるのだ。そこには、ヤーノシュがたどってきた人生経験が色濃く反映されている。

参考:Janosch Gesellschaft e. V.、Deutsche Welle「Vielleicht ist alles auch Unsinn, was ich sage" - Kinderbuchautor Janosch zum 85」、Deutschlandfunk「Janosch zum 75. Geburtstag」、KURIER「Mit Tiger und Bär von der Kindheitshölle ins Paradies」、Spiegel「Schreiben Sie: mit Janosch nur Sauereien geredet」「Lieblingsuhrzeit? Nachts, bis vier」、Goethe Institut「Aus swe Hölle in die Hängematte」、WELT「Warum Janosch die Tigerente für "Mist" hält」、「Janosch – "Wenn ich will, kann ich fliegen"」

1. 戦争と貧困、暴力に苦しんだ子ども時代

1931年3月11日朝5時25分、ヤーノシュは祖母のうるさい目覚まし時計の音に起こされるようにして生まれたという(本人談)。当時のドイツ領に生まれた彼は「ホルスト」というドイツ系の名前を付けられ、3〜4歳ごろまで祖父母と生活した。その後は両親と暮らすようになるが、父はアルコール依存症で暴力的、神を恐れるカトリック教徒の母は冷たく、二人ともホルストを度々殴ったという。家には電気も水道も通っておらず、戦争の影響で全ての物資が不足していた。さらに学校でのいじめや、ヒトラーユーゲントへの参加を強いられるなど、彼はさまざまインタビューや本の中で、子ども時代を「地獄」と形容している。

ホルストは13歳から鍛治職人としての職業訓練を受け、その後は錠前屋で働いた。第二次世界大戦後の1946年には、両親と共に西ドイツのバート・ツヴィッシェンアーンへと引っ越すが、そこでも苦労の日々は続く。18歳ごろからは昼は紡績工場で働き、夜は警備員の仕事をして家計を支えた。しかし19歳の時に、クレーフェルトのテキスタイル学校に通い始めたことが、その後の人生の転機となる。

1歳ごろのヤーノシュ1歳ごろのヤーノシュ

私には子ども時代がなかったので、永遠にそれを埋め合わせなければなりません

(ヴェルト紙のインタビューより)

2. 「才能なし」と言われて美術アカデミーを退学

ホルストが通ったテキスタイル学校(現在のニーダーライン専門大学)では、ゲルハルト・カドウ(1909-1981)が教鞭を執っていた。カドウは美術・デザイン学校のバウハウス出身で、「線と色彩の魔術師」とも称されるパウル・クレー(1879-1940)のもとで学んだ人物。ホルストはカドウの授業で、パターンの描画やデザインを学ぶとともに、パウル・クレーの作品にも接することとなった。ホルストは、当時こそクレーの作品を理解できなかったものの、その後の作風に非常に大きな影響を受けたと語っている。

それからホルストは画家になるため、1953年にミュンヘン芸術アカデミーに入学する。しかし担当教授から「画家としての才能がない」と言われ、2学期が終わる頃にはアカデミーを去ることになった。フリーランスの画家として活動するもなかなか芽が出ないでいたある日、知り合いから「ツァイト紙に作品を送ってはどうか」と助言される。それをきっかけに1957年に初めてツァイト紙にドローイングとテキストが掲載され、その後も南ドイツ新聞や、風刺雑誌Pardonなどに寄稿した。

24歳ごろのヤーノシュ24歳ごろのヤーノシュ

毎日絵を描くということは、(私にとって)問題解決の練習をするということです

(Janosch Gesellschaft e. V.より)

3. 絵本作家「ヤーノシュ」の誕生とその成功

ホルストはイラストの仕事を探している過程で、出版社のゲオルグ・レンツ(1928-2009)と出会う。レンツはホルストの描く作品のコメディーやジョークを気に入り、1960年に初めての絵本『うまのヴァレクのはなし』(原題:Die Geschichte Valek dem Pferd)を「ヤーノシュ」という名義で出版することに。この「ヤーノシュ」という名前が生まれた由来は諸説あり、ホルストがレンツのオフィスに行った際に、レンツの秘書が別の訪問者と間違えてホルストのことを「ヤーノシュ」と思い込み、それを面白がってそのまま作家名にしたという話が有名だ(本人は後にこの逸話を否定したことも)。

ヤーノシュの初めての絵本は、あまり売れ行きが良くなかった。その後レンツの出版社は倒産してしまったが、ヤーノシュの作品はほかの出版社から出されて徐々に認知度を高めていく。そして1978年に発表された『パナマってすてきだな』(原題:Oh, Wie schön ist Panama)でドイツ青年文学賞を受賞して一躍有名になり、その後も次々と作品が評価されるように。さらに、クマとトラのコンビなどが登場するアニメシリーズ「ヤーノシュの夢の時間」は、80年代終わりごろにドイツで爆発的な人気を誇った。

『パナマってすてきだな』(1978)以降、ヤ―ノシュ作品の代名詞的存在であるクマとトラ『パナマってすてきだな』(1978)以降、ヤ―ノシュ作品の代名詞的存在であるクマとトラ

私は誤っていわゆるアーティストになってしまった。だって、それを仕事だとは思っていなかったのだから

(ヴェルト紙のインタビューより)

4. 世界で一番好きな場所はハンモック

Janosch作家として成功を収めたヤーノシュは1980年にドイツを離れ、長年のパートナーであるイネスと共にスペイン領カナリア諸島にあるテネリフェ島の小さな家に引っ越す。フリーランスの作家として活動を続けるなか、大人向けの自伝的小説である『Polski Bluse』(1991)や『Gastmahl auf Gomera』(1999)なども執筆。作品を通して自分の幼少期と向き合い、友情や家族関係、人生の意味を探求した。また、彼の故郷ザブジェに孤児院を設立するほか、環境保護やアフリカの医療支援、動物福祉のための活動に収益の一部を寄付するなど、社会支援も積極的に行った。

1999年、ヤーノシュはトロイスドルフ児童文学博物館に絵本の原画を永久貸与することを決める。そして2010年には「旅行をしたり、とにかくハンモックに横になっていたい」と、もう本を書かないことを宣言。しかし、2013年には再びツァイトマガジンに登場し、2019年11月ごろまで毎週コラムを執筆した。そして今年90歳という節目を迎えたが、もともとインタビュー嫌いで有名なヤーノシュは、表舞台に姿を表すことはもうほとんどない。しかしきっと今も、ハンモックで横になって大好きな赤ワインを飲みながら、誰にも邪魔されずに自由を謳歌していることだろう。

私の好きな季節は、人生の後の永遠の時です。常に太陽があり、周りに神はいない

(ヤーノシュの伝記『Wer fast nichts braucht, hat alles』より)

かわいいだけじゃない!
個性派ぞろいのヤーノシュの仲間たち

ヤーノシュの作品に登場するキャラクターたちは、自由や冒険を愛するだけでなく、馬鹿なことをしたり、嘘をついたり、自分の利益を追求することもある。しかし最終的には、いつでも友情や愛情が勝つ。その理由をヤーノシュはかつて、「それは私自身の家族に欠けていたもので、いつも私が求めているものだから」と語っている。ここでは、そんなヤーノシュの魅力的なキャラクターたちを紹介する。

クマとトラ
Bär und Tiger

クマとトラ Bär und Tiger

ヤーノシュ作品の代表的なキャラクターといえば、小さなクマとトラのコンビ。1976年に初めて描かれ、二人がパナマを目指して旅をする絵本『パナマってすてきだな』(詳しくはP12) で人気者になった。小川の近くにある小さくて居心地のいい家に住んでいる二人は、いつでも自由で好奇心いっぱい。大冒険や小さな発見のその先に、ちょっぴり哲学的な考えをもたらしてくれる。

代表的な登場作品 『Oh, Wie schön ist Panama』(1978)、『Ich mach dich gesund, sagte der Bär』(1985、邦訳タイトルは『ぼくがげんきにしてあげる』)

ギュンター・カステンフロッシュとティガーエンテ
Günter Kastenfrosch und die Tigerente

ギュンター・カステンフロッシュとティガーエンテ Günter Kastenfrosch und die Tigerente

緑のカエルのギュンター・カステンフロッシュは、生意気でせっかちで、ものすごくおしゃべり。うっとうしがられることもあるが、人懐っこくてどこか憎めない存在だ。彼の恋人は、木で作られたトラ柄アヒルのティガーエンテ。ギュンターがいくら愛をささやいても無言なため、ギュンターは彼女の気持ちを都合よく解釈したり、愛に確信を得られず不安になったりしている。

代表的な登場作品 『Komm, wir finden einen Schatz』(1979)、『Günter Kastenfrosch in Wort und Bild』(1991)

パパライオンと彼の幸せな子どもたち
Papa Löwe und seine glücklichen Kinder

パパライオンと彼の幸せな子どもたち Papa Löwe und seine glücklichen Kinder

ライオン一家のママは、毎朝早くに家を出てオフィスに向かう。そしてパパの仕事は、家にいて子どもたちを幸せにすること。ある子は宇宙にロケットを飛ばしたいと言い、ある子は船の船長になりたくて、またある子は静かなる革命を楽しみたい……パパは子どもたちそれぞれの冒険に少しずつ手を貸し、ママが帰宅する頃にはクタクタに。子どもたちは大満足なのであった。

代表的な登場作品 『Papa Löwe und seine glücklichen Kinder』(1998)

エミール・グリューンベアー
Emil Grünbär

エミール・グリューンベアー Emil Grünbär

緑のクマのエミールが暮らしているのは、街から6キロほど離れ、森まで10センチのところにある古い家。同居人であるガチョウのドリー・アインシュタインと、イヌのリュディー・フォン・リーバーバウムと、「幸せな生活」という名の芸術を実践していた。しかしある日、家の水道水から悪臭が立ち込めてきたことをきっかけに、エミールたちは環境問題の解決のため立ち上がる。

代表的な登場作品 『Emil Grünbär und Seine Bande』(1991)、『Emil Grünbär auf dem Bio-Bauernhof』(2004)

ヴォンドラック
Wondrak

ヴォンドラック Wondrak

ヤーノシュの分身的存在であるヴォンドラックは、 2013~2019年までツァイトマガジンに毎週登場。黄色と黒の縞模様の服に、口ひげとドイツ的なお腹が特徴で、時事ネタや社会問題に比類なきユーモアでコメントする。例えば「夜、テレビを観る時間を最高のものにするには ?:テレビの前に一緒に座ってくれる人が必要。ぴったりの人なら、もはやテレビも必要ありません」。

代表的な登場作品 『Herr Wondrak rettet die Welt, juchhe!』(2016)、『Herr Wondrak, wie kommt man durchs Leben?』(2021)

最終更新 Dienstag, 23 März 2021 18:48
 

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