特集


ピナ・バウシュ - 踊りと演劇の垣根を超えた表現者

踊りと演劇の垣根を超えた表現者 ピナ・バウシュ PINA BAUSCH

コンテンポラリーダンサー、振付師として世界を舞台に活躍し、ダンスの国際的な発展に貢献したピナ・バウシュ。踊りと演劇を融合させた「タンツテアター」というモデルを成熟させた彼女は、2009年に68歳という若さでこの世を去った。没後10年の節目を迎えた2019年、ドイツが生んだ稀代のアーティストの功績にスポットを当てる。(Text:編集部)

参考資料:
ウェブサイト Tanztheater Wuppertal Pina Bausch、公益財団法人 稲盛財団、京都賞
書籍『ピナ・バウシュ−タンツテアターとともに』、『ドイツ文化を担った女性たち−その活躍の軌跡』、『月刊百科(1996年)』
映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』、『ピナ・バウシュ 夢の教室』

ピナ・バウシュ

1940年ドイツ西部の街、ゾーリンゲンで生まれたフィリッピーネ・バウシュ(Philippine Bausch)。「ピナ」の愛称で親しまれていた彼女は、幼い頃からよく両親が営むカフェレストランで人々が行き交う姿や談笑する表情を観察していたという。その経験によって培われた観察力は、のちに彼女が踊り手として唯一出演する作品「カフェ・ミュラー」の創作に大きな影響を与えている。

独米の巨匠に師事し、
刺激を受けた10代

6歳から正式にバレエを習い始めたピナ・バウシュは、14歳になるとエッセンの現フォルクヴァング芸術大学(Folkwang Universität der Künste)で、振付師のクルト・ヨース* に師事。18歳になり学校を首席で卒業すると、ドイツ学術交流会(DAAD)からのサポートを受けて、ニューヨークにある名門ジュリアード音楽院(The Juilliard School)に特別学生として渡米した。

そこでは、「心理表現の振付師」と呼ばれる英国出身のアントニー・チューダーや、モダンダンスの開拓者の1人である米国出身のマーサ・グレアムら、一流のダンサーのもとで技術と知識を吸収していく。その傍ら、講師のチューダーとともに舞台を踏む機会も与えられた。

* 1901-79。ダンサー、振付師として世界的に知られる。代表作には反戦をテーマにした「緑のテーブル」がある。

ダンサー・振付師として
頭角を現し始める

米国での生活に慣れてきた1962年、恩師であるヨースからの要請を受けてエッセンに戻る。そこで彼女はヨースの作品を踊りながら振付を手伝うようになるが、新たな試みの必要性を感じ独自の手法で振付を手掛けるようになる。1968年に初作品となる「フラグメント(Fragment)」や「時の風の中で (Im Wind der Zeit)」を創作。翌1969年には、ケルンで開催された国際振付ワークショップで「時の風の中で」が1位に輝く。

振付師として頭角を現していたピナ・バウシュの才能にいち早く目をつけたのが、ヴッパータール劇場の監督、アルノ・ヴュステンホーファーだった。そして彼女はヴュステンホーファーの推薦で、1973年33歳でヴッパータール劇場の芸術監督兼振付師に就任する。その翌年には、ヴッパータール・タンツテアター(ヴッパータール舞踏団)に改名し、新たなスタートを切るのだった。

ドイツを拠点に世界へ
コンテンポラリーダンスを発信

1920年にダンサーのルドルフ・フォン・ラバンが最初に解釈した「タンツテアター」が目指すところは、バレエの慣習からの解放と表現の完全なる自由だった。その意図を汲みながら踊りと演劇の融合を試みたピナ・バウシュの作品は、古典バレエの舞台に慣れ親しんでいた観客たちからの賛否両論が巻き起こったという。それでも独自の解釈でタンツテアターという言葉を具現化した。

こうして1975年に振付を担当した「春の祭典」は、繊細な感情としなやかな身体性を表現した画期的な作品で、本作で表現したスタイルはピナ・バウシュ作品における軸となっている。

ダンサーとの
対話から生まれる創作性

「カフェ・ミュラー」と「コンタクトホーフ」が生み出された1978年になると、ピナ・バウシュはワーキングメソッドを変化させる。作品を制作するにあたり、ダンサーたちにその構想について問いかけをして、話し合う手法を試みたのだ。国籍や文化、表現方法など、異なる背景を持つダンサーたちの言葉や考え方からテーマの根源的なものを抽出して構成していく方法だ。

さらに、あらゆる国や都市の人々と共同制作することにも積極的だった。ローマのアルジェンティーナ劇場との共作「ヴィクトール(Viktor)」(1986年)を皮切りに、ブラジル、埼玉、香港、イスタンブールなど、まったく異なる音楽や慣習に接してその異文化体験を基に共同制作を始めた。その一部には以下のような作品がある。

  • 炎のマズルカ(Masurca Fogo)1998年
    リスボン国際博覧会、リスボンのゲーテ・インスティトゥートとの共同制作
  • アグア(Água)2001年
    サンパウロのゲーテ・インスティトゥート、エミリオ・カリルとの共同制作
  • ネフェス(呼吸/Nefés)2003年
    イスタンブール国際演劇祭、イスタンブール文化・芸術財団との共同制作
  • 天地(TEN CHI)2004年
    埼玉県芸術文化振興財団、日本文化財団との共同制作
  • バンブー・ブルース(Bamboo Blues)2007年
    インドのゲーテ・インスティトゥートとの共同制作
  • 石の上のコケのように("...como el musguito en la piedra, ay si, si, si..." (Wie das Moos auf dem Stein))2009年
    チリのサンティアゴ市立劇場の国際演劇祭、チリのゲーテ・インスティトゥートとの共同制作

1998年には、ヴッパータール・タンツテアターの25周年を記念した回顧上演を果たすとともに、世界31カ国から400人以上のダンサーを迎えて舞踏芸術祭を開催するなど、インターナショナルな交流を図った。

また、1978年の作品「コンタクトホーフ」では、ダンス経験のない踊り手たち(詳細はP13作品紹介を参照)による公演を完成させ、コンテンポラリーダンスの表現の多様性、可能性を世界に知らしめた。

ピナ・バウシュの世界観は
次世代へと引き継がれる

表現手法の柔軟さと創作性を体現してきたピナ・バウシュは、2009年6月30日、68歳の若さで死去した。彼女がダンスと演劇の垣根を超えて、常にスタイルを刷新し続けたヴッパータール・タンツテアターには、現在約15カ国のダンサーが所属している。ピナ・バウシュがこの世を去った後にも、同舞踏団は彼女の遺志を引き継ぎながら精力的に公演を行なっている。

ピナ・バウシュが手掛けた主な作品

春の祭典 春の祭典
Das Frühlingsopfer

音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
上演時間:35分
初演:1975年12月3日 オペラハウス・ヴッパータール

ピナ・バウシュ作品で最も多く上演されているプログラムで、彼女の名を世界に知らしめた代表作。1913年に作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーがロシア・バレエ団のために作った音楽をピナ・バウシュの振付で演出。犠牲をテーマに生贄にされる女性の観点から物語が描かれている。

コンタクトホーフ コンタクトホーフ
Kontakthof

音楽:アントーン・カラス、 チャールズ・チャップリン、フアン・リョッサス、ジャン・シベリウス
上演時間:2時間50分
初演:1978年12月9日 オペラハウス・ヴッパータール

「カフェ・ミュラー」と同時期に制作された作品。カラフルなドレスを身にまとった女性とスーツ姿の男性が、迫力あるダンスで見る者を魅了する。ピナ・バウシュはこの作品でダンス経験がない65歳以上の踊り手と、14歳から17歳のダンサーが出演する舞台を監督・上演している。

カフェ・ミュラー カフェ・ミュラー
Café Müller

音楽:ヘンリー・パーセル
上演時間:40分
初演:1978年5月20日 オペラハウス・ヴッパータール

ピナ・バウシュがダンサーとして舞台に立つ唯一の作品。映画『トーク・トゥ・ハー』の冒頭では、ピナ・バウシュ本人が踊っている。 劇中に流れるヘンリー・パーセルの「アリア」が印象的な本作の演出には、彼女が幼い頃に両親が営んでいたカフェレストランから受けた影響が感じられる。

TEN CHI 天地
TEN CHI

音楽:森山良子、Underkarl、Tudôsok、Plastikmanほか
上演時間:2時間50分
初演:2004年5月8日 ヴッパータール劇場

ピナ・バウシュが日本の埼玉県芸術文化財団、日本文化財団と共同制作した作品。日本文化を象徴する「サムライ」、「スシ」、「ゲイシャ」など、さまざまな日本語が舞台上で飛び交う。桜に見立てた紙吹雪が舞い散るステージは幻想的で、ピナ・バウシュが感じた日本の姿が伺える。

フルムーン Vollmond フルムーン
Vollmond

音楽:アモン・トビン、ルネ・オーブリー、キャット・パワー、三宅純ほか
上演時間:2時間20分
初演:2006年5月11日 ヴッパータール劇場

アップテンポな楽曲に合わせて躍動感あふれるダンスを披露する本作。踊りもさることながら、長年ピナ・バウシュと親交を深めてきたアートディレクターのペーター・パプストによる圧巻の舞台美術も見どころだ。2020年6月26〜28日にはヴッパータールで上演を予定している。

そのほかの作品

七つの大罪 Die sieben Todsünden (1976年)
カーネーション Nelken (1982年)
ヴィクトール Viktor (1986年)
パレルモ、パレルモ Palermo Palermo (1989年)
過去と現在と未来の子どもたちのために
Für die Kinder von gestern, heute und morgen (2002年) など

下記のヴッパータール・タンツテアターの公式サイトから作品の動画が見られます。 http://www.pina-bausch.de/de/medien/videos/

TANZTHEATER WUPPERTAL PINA BAUSCH ピナ・バウシュが芸術監督・振付師を務めた 「ヴッパータール・タンツテアター」

ヴッパータール・タンツテアターヴッパータール・タンツテアターの公演が行われる「オペラハウス・ヴッパータール」の外観

デュッセルドルフからほど近いドイツ西部の工業都市、ヴッパータールを拠点に活動する「ヴッパータール・タンツテアター」。1973年にピナ・バウシュが芸術監督兼振付師に就任したのち、実験的ダンスの手法を取り入れながら、さまざまな作品を上演してきた。2011年に公開されたドキュメンタリー映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』には、同劇場のメインダンサーたちが出演した。ピナ・バウシュ没後10年となる29019年は、欧州をはじめ北米やアジアでも公演を行う予定となっている。

ヴッパータール・タンツテアター公演情報
ピナ・バウシュが手掛けた作品の公演予定
(会場:オペラハウス・ヴッパータール)

  • 2019年10月3〜6日 
    「石の上のコケのように」 "...como el musguito en la piedra, ay si, si, si..." (Wie das Moos auf dem Stein)
  • 2019年11月16、17、19、20、22〜24日
    「緑の大地」Wiesenland
  • 2020年1月24〜26日、28、29、31日
    「青ひげ:『青ひげ公の城』を聴きながら」 Blaubart. Beim Anhören einer Tonbandaufnahme von Béla Bartóks Oper „Herzog Blaubarts Burg“
  • 2020年3月7、8、10、13〜15日
    「七つの大罪」Die sieben Todsünden

※スケジュールやチケット購入については、公式サイトよりご確認ください。
www.pina-bausch.de

ピナ・バウシュ財団主催のプログラム

ピナ・バウシュの芸術的遺産を保存し、未来へと受け継ぐために2009年、ヴッパータールに設立されたピナ・バウシュ財団。2019年に10周年を迎えた同財団では、2019年から2020年にかけて彼女の作品を再発見するためのイベント、プログラムの開催を予定している。下記に一部のプログラムを紹介していこう。

  • 2019年10月26日
    「パレルモ、パレルモ」映像上映会
  • 2019年12月5、8、10、12、15日
    ゼンパー・オーパー(ドレスデン) バレエ・プログラム「タウリス島のイフィゲーニエ」
  • 2020年1月1日
    ピナ・バウシュ親睦会「MEET THE FELLOWS! 2020」

※イベントやプログラムの詳細は、公式サイトよりご確認ください。
www.pinabausch.org/en/home

3つの小さなエピソード ピナ・バウシュと生き、その未来を担う人々

現代ダンスの分野のみならず多くの人々に影響を与え、今もなお世界にその名をとどろかせているピナ・バウシュ。ここでは、彼女の同志、友人、そして担い手の3人を紹介しよう。

ルッツ・フェルスター ダンサー
ルッツ・フェルスター Lutz Förster

1956年ゾーリンゲン生まれ。75年からヴッパータール・タンツテアターで踊り始め、78年にメンバーとなった。2013~2016年に同舞踏団の芸術監督を務め、フォルクヴァング芸術大学で教授としても活躍した。

日曜にピナに呼び出されて……

学生時代にピナに見初められ、34年間ともに働いたルッツ・フェルスターさん。「ピナと私は誠実と大きな信頼、そして愛とも呼べるもので結ばれた仲」だったと語っている。彼が稽古場のすぐ後ろに住んでいた頃、日曜にもかかわらず「ちょっと来てくれない?」と、ピナから電話があったという。稽古場に行くと、「この動きなんだけれど、この椅子の上でできるかしら?」と彼女に質問され、実際にその動きを試しながら議論したそう。ピナがいかに仕事に夢中だったかが、よく分かるエピソードだ。

参考:Der Tagesspiegel「Interview mit Lutz Förster „Pina hat 24 Stunden gearbeitet“」

ヴィム・ヴェンダース 映画監督
ヴィム・ヴェンダース Wim Wenders

1945年デュッセルドルフ生まれ。戦後の新しいドイツ映画の先駆者として、1970年代から国際的にその名が知られるようになる。代表作に映画『パリ、テキサス』、『ベルリン・天使の詩』など。

20年かけて完成させた2人の作品

1980年代に初めてピナの作品を鑑賞したヴィム・ヴェンダ―スさんは、人生を変えるほどの衝撃を受け、一晩中泣いたという。その後ピナと会い、一緒に映画を作ることを約束する。友人関係は続いたが、彼女の作品の臨場感や感動をどう伝えたらいいか答えが見つからぬまま20年が経過。そうしてやっと出た答えが3D撮影だった。すぐにピナと製作に取り掛かったが、彼女は撮影前に他界。一度は製作をあきらめたヴェンダ―スさんだったが、彼女のために映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を完成させた。

参考:Collider「Director Wim Wenders PINA Interview」

サシャ・ヴァルツ Sasha Waltz 振付師
サシャ・ヴァルツ Sasha Waltz

1963年カールスルーエ生まれ。「ポスト・ピナ・バウシュ」と呼ばれ、コンテンポラリーダンスの世界で最も影響力がある振付師の1人。「サシャ・ヴァルツ&ゲスツ」を主宰し、オペラ演出なども手掛けている。

日本のオペラも手掛けた次世代のピナ

細川俊夫さんのオペラ「松風」の演出と振付は、サシャ・ヴァルツさんが担当。日本の伝統芸能や美意識について学び、能や書道からヒントを得て動きを考えたという。また声だけでなく肉体でも表現することは自身のオペラ演出の特徴でもある。ベルリン在住のアーティストの塩田千春さんの作品も融合させた舞台は、2011年にベルギーで初演され反響を呼んだ。また2013年に「春の祭典」をサシャ・ヴァルツ版で発表。賛否両論がありながらも、2019年はベルリン国立バレエの芸術監督に就任し、さらなる活躍が期待される。

参考:新国立劇場「オペラ『松風』演出・振付 サシャ・ヴァルツ インタビュー」

初心者からコアなファンまで楽しめる
コンテンポラリーダンスの祭典

現在進行形のコンテンポラリーダンスを見たい、知りたい、体験したい!そんな方に、8月に開催されるダンスの祭典をご紹介しよう。さまざまなダンサーや振付師が集まるイベントで、お気に入りのパフォーマーを見つけてみては?

ドイツ最大の国際ダンスフェス
タンツ・イン・アウグスト
Tanz im August

WO CO日本人振付師の関かおりさんが主宰する関かおりPUNCTUMUNの作品「WO CO」

期間:2019年8月9日(金)~31日(土)
会場:HAU ほか(ベルリン)
ウェブサイト:www.tanzimaugust.de

毎年8月にベルリンで開催される、コンテンポラリーダンスの国際フェスティバル。主催は、ベルリンのダンスや劇場、パフォーマンスシーンを発信するHAU(Hebbel am Ufer)だ。新人から国際的に知られるダンサーまで世界中から参加があるほか、ワールドプレミアやドイツ初演など、貴重な機会が目白押しのイベント。

ダンスも見られる国際芸術祭
ルールトリエンナーレ
Ruhrtriennale

ルールトリエンナーレメイン会場の1つであるボーフムのJahrhunderthalleはガス発電所跡

期間:2019年8月21日(水)~9月29日(日)
会場: Jahrhunderthalle(ボーフム)ほか多数
ウェブサイト:www.ruhrtriennale.de

工業地帯・ルール地方で毎年開催される国際芸術祭。製鉄所跡のラントシャフトパークなどの産業遺産を会場に、コンテンポラリーダンスはもちろん、音楽、演劇、インスタレーションなど、さまざまな分野の芸術が楽しめる。ディレクターは3年ごとに変わり、2018~2020年はドラマトゥルギーのステファニー・カープが担当。

最終更新 Dienstag, 15 Juni 2021 08:45
 

ドイツ各地のご当地酒

旅行先でぜひ試したい! ドイツ各地のご当地酒

ドイツにはその地域に根付いた食べ物はもちろんのこと、ご当地ならではのお酒もたくさんある。ビールやワイン、ちょっと変わったスタイルのお酒まで、ドイツで暮らしているからこそ味わいたいご当地酒をご紹介していこう!(Text:編集部) 

シチュエーション別で使えるドイツの乾杯!

  • カジュアルに乾杯
    Prost!
    プロースト!
  • 上品に乾杯
    Zum Wohl!
    ツム・ヴォール!
  • お祝いの乾杯
    Auf 'Xxxx'!
    アウフ・(名前/代名詞)!

ドイツ地図 ドイツ北部 ドイツ西部 ドイツ南部 ドイツ南部

北部

1

リキュール
イエガーマイスター
Jägermeister

イエガーマイスター

世界的に有名なリキュールは、ニーダーザクセン州のヴォルフェンビュッテルで生まれた。サフランやシナモンの皮など、56種類もの原料が配合されているハーブ系の独特な味わいが特徴。ドイツでは薬酒としてストレートで飲むのがスタンダード。

2

ビール
ボック
Bock

ボック

ニーダーザクセン州アインベックが発祥、バイエルン地方で発展したビール。芳醇なホップの香りが楽しめて、コクのある味わい。アルコール度数はほかのビールに比べて高い6.0~6.5%。さらに濃厚なドッペルボック(Doppel Bock)は、断食中の栄養源として液体パンと呼ばれていた。

3

ビール
ゴーゼ Gose

ハルツ地方のゴスラーが発祥。原料に塩を加え、乳酸発酵させるユニークな製法のビール。また、コリアンダーがミックスされているため、独特の酸味が楽しめるのもポイント。ゴーゼから派生したライプツィガーゴーゼ(Leipziger Gose)は、東部の都市ライプツィヒの特別なビールとして地域に根付いている。

4

スピリッツ
コルンブラント Kornbrand

ドイツで15世紀頃から造られている伝統的な穀物の蒸留酒。原料には、ライ麦、小麦、大麦、オート麦、そばなどが使用されている。フレーバーや着色料など添加物は一切加えないスタイルで、クセのない味わい。北西部の町、ノルデンにオフィスを構えるドールンカート社による商品がよく知られている。

5

カクテル
ファリサイ Pharisäer

北ドイツとオーストリアを中心に普及している。甘めのコーヒーにラム酒をミックスして、仕上げに生クリームを浮かべたお酒。19世紀の北ドイツで禁欲的な生活を強いられていた人々が、見た目ではお酒だと分からない方法でアルコールを楽しむための手段として飲み始めたのが起源だと言われている。

西部

6

ビール
アルトビア Altbier

アルトビア

デュッセルドルフで発展したビール。19世紀中期に考案されたレシピを元に製造されている。同地にはアルトビアをメインに取り扱うクナイプ(居酒屋)もたくさん存在している。各メーカーによって味わいが異なるので、はしご酒を楽しむのも◎。

7

ビール
ケルシュ Kölsch

ケルシュ

ケルンで発展したビール。淡色麦芽を使用しているため、アルトビアよりも色味も味わいもすっきりとしている。アルトビア、ケルシュともに小さいグラスに注がれていて、飲み干すとウェイターが新しいビールを自動的に持って来てくれる。

8

カクテル
リューデスハイマーカフェ
Rüdesheimer Kaffee

リューデスハイマーカフェ

リューデスハイムで親しまれているコーヒーとブランデーをミックスしたお酒で、1957年に発明された。ブランデーは同地が発祥のアスバッハ(Asbach)が使用されている。特別なカップに角砂糖とアスバッハを加えて火をつけながら攪かくはん拌していく。その後コーヒーを加えて、生クリームを添えれば完成!

9

ワイン
アプフェルヴァイン
Apfelwein

アプフェルヴァイン

フランクフルトの名産。リンゴを圧搾してその果汁を酵母とともに発酵させることで酸味のある味わいに仕上げる。ヘッセン州などでは市販品を購入することも可能。ひし形のシェイプが入った特別なグラス、ゲリップテス(Geripptes)が使用されており、注ぐピッチャーはベンべル(Bembel)と呼ばれている。

10

ビール
ドルトムンダー
Dortmunder

ドルトムンダー

ドルトムントで生まれたピルスナースタイルの辛口のビール。通常のピルスナーに比べて透き通った淡色で、苦味は少し弱いがボディーがしっかりとしていて味も濃い。第二次世界大戦後から1970年頃までドイツから輸出していた最もポピュラーなタイプだった。

11

ジン
シュタインヘーガー
Steinhäger

シュタインハーゲンで造られていることから名付けられた。オランダ発祥のジンをドイツ独自にアレンジしたもの。大麦を原料とし、杜松の実やスパイス類を加えて香りづけをしている。ビールを飲む前にこのジンをショットグラスで1杯飲むのがドイツ流。

12

リキュール
キュメリング
Kuemmerling

キュメリング

ハーブのリキュールを製造するメーカー、キュメリング社によって発明・販売されているハーブのリキュール。1963年からマインツ近郊のボーデンハイムで製造されている。ほんのりとした苦味があるテイスト。

東部

13

リキュール
ライプツィガーアラーシュ
Leipziger Allasch

ラトビアが発祥のお酒。1830年にライプツィヒの見本市で発表されたことで、同地で人気となる。度数が40%近く、通常のリキュールよりも高アルコールで、糖分が高いのが特徴。ヴィルヘルムホルン社の「Echter Leipziger Allasch」がよく知られている。

14

ビール
ベルリーナーヴァイセ
Berliner Weiße

ベルリーナーヴァイセ

ベルリンで醸造されたビールのみが、その名を冠することが許されるご当地ビール。1600年半ばに生まれたとされている。イーストと乳酸菌による発酵工程や、ストローで飲むスタイルが特徴。赤いラズベリー、緑のクルマバソウ(Waldmeister)のシロップで香りづけする。19世紀にはベルリンで最も人気のあるアルコールとして親しまれていた。

南部

15

カクテル
ラドラー
Radler

ラドラー

ビールをレモネードで割ったお酒。自転車乗りを意味するラドラーは、サイクリング愛好家たちから親しまれていたことからその名がついた。南部ではルス、ルッセと呼ばれることも。また、北ドイツではアルスターヴァッサー(Alsterwasser)の名で知られている。

16

ビール
コーラヴァイツェン
Colaweizen

ドイツ南部で親しまれているビールのスタイル。コーラとヴァイツェンを半々に割っていただく、シンプルなレシピ。コーラの甘さがビールのほろ苦さを中和して飲み口がまろやかになるため、ビール初心者にもおすすめ。

17

ビール
ラオホビア
Rauchbier

オーバーフランケン地方のバンベルクが発祥のビールで、芳醇な風味が特徴。実際にブナの木で燻した麦芽を使用している。ブラックコーヒーのようなコクとスモークベーコンのような香ばしさがクセになる味わい。特にシュレンケラ醸造所から発売されている商品が有名だ。

18

ビール
メルツェンビア
Märzenbier

メルツェンビア

その年の春に仕込んだメルツェンビアを熟成させたものをオクトーバーフェストで飲むため、別名オクトーバーフェストビアと呼ばれている。南部で親しまれているビールで、大きめのグラス、マース(Maß:写真右)に注ぐのが一般的。

19

ビール
ヴァイツェン
Weizen

ヴァイツェン

バイエルン地方で発展したビール。麦芽を50%以上使用した、苦味のないすっきりとした風味で、クリーミーな口当たり。瓶の中で発酵させるため、底にはオリが沈んでいることもある。

20

スピリッツ
キルシュヴァッサー
Kirschwasser

キルシュヴァッサー

さくらんぼを種ごと使って発酵させた蒸留酒の一種。シュヴァルツバルト地方の名産、黒い森のさくらんぼ酒ケーキ(Schwarzwälder Kirschtorte)にも香りづけで使用されている。※写真はEMIL SCHEIBEL SCHWARZWALD-BRENNEREIの「PREMIUM Kirschwasser 0.7l」

21

ビール
シュヴァルツビア
Schwarzbier

バイエルン地方が発祥。デュンケルよりもローストする温度が高いため、より香ばしい味わいで、甘みの少ない黒ビール。

22

ビール
ミュンヘナー
Münchner

ミュンヘンが発祥。濃色麦芽と焙煎の度合いを強めるカラメル麦芽を使用する、コクのある黒ビール。ミュンヘナーデュンケル(Münchner Dunkel)と呼ばれることも。

23

リキュール
ティフィン(紅茶リキュール)
Tiffin

ミュンヘンのアントン・ライメーシュミット社が製造。紅茶のリキュールは各国で造られているが、最も有名なのが同社によるもの。厳選された茶葉を使用した高品質のリキュールなので、ソーダやミルクで割ったり、お菓子の風味づけにも活用できる。

24

ビール
ヘレス
Helles

ヘレス

バイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州で発展したビール。麦芽の風味が爽快感のある味わい。1328年に創業した醸造所、アウグスティーナ・ブロイ (Augustiner Bräu)や海外でも名の知られているレーヴェンブロイ (Löwenbräu:写真右)は、人気の高いメーカーだ。

25

ビール
デュンケル
Dunkel

ドイツ南部が発祥の褐色のビール。デュンケル(暗い)はシュヴァルツ(黒)よりもシャープですっきりしている。また、苦味とまろやかな味わいのバランスが良いため、黒ビールが苦手な人でも挑戦しやすい。

 
最終更新 Dienstag, 15 Juni 2021 08:43
 

年々暑くなるドイツの夏を乗り切る11の知恵

涼しく健康に過ごす11の知恵 年々暑くなるドイツの夏、どう乗り切る?

2018年夏、欧州各地で記録的な猛暑となり、ここドイツも深刻な干ばつが起こったり、観測史上30度以上になった日数が最も多い年となった。冷房設備の整っていないドイツで、悲鳴を上げた人も少なくないはず。かと思えば、急に冷え込んで体調を崩すことも……。そんなドイツの夏を、一体どう過ごしたらいいのか? 涼しく健康に夏を乗り切りたいという思いから、その知恵を集めた。また、5月の欧州議会選挙で緑の党が躍進し、環境への意識がますます高まっているドイツ。そんな情勢を踏まえ、気候変動の問題についてもぜひ一緒に考えてみよう。
(Text:編集部)

お話を聞いた人

馬場恒春先生
連載「Sprechestunde」でお馴染みの内科医師。デュッセルドルフのノイゲバウア馬場内科クリニックの分院にて診療。夏の休暇はできれば涼しい北欧へ行きたいが、ご家族の希望で地中海エリアになることが多いそう。今回は、ご自身が経験されたことのある夏の不調も踏まえながらお話をしてくださった。

日本とは違うドイツの夏にご注意!

ドイツは湿度が低いため、発汗などで体の水分が蒸発しやすく、気づかないうちに脱水症や熱中症になることが多い。また、日や時間帯によって気温差があるため、日本の夏と同じように考えるのは危険。

  • ドイツの夏の特徴

    湿度が低い
    寒暖差が大きい
  • 日本の夏の特徴

    湿度が高い
    寒暖差が小さい(地域による)

熱中症・脱水症の症状

熱中症と脱水症にはさまざまな症状がみられる。左記のような不調を感じたら、日陰や涼しいところへ移動すること。発熱は危険信号なので、病院で診察してもらうのがベスト。また子どもは自分で不調に気づけない場合が多いため、大人が気をつけて見てあげるようにしよう。

主な症状 熱中症 脱水症
頭痛
顔面紅潮、顔が熱い
疲労感
めまい
皮膚や粘膜の乾燥
尿の色が濃い
体温上昇(37.5度以上)

こんな人は特に気をつけて!

  • 4歳未満の乳幼児
  • 65歳以上の高齢者
  • 肥満、慢性疾患のある人
  • 抗うつ薬、睡眠薬を服用中の人
  • アルコールおよび薬物中毒の人

自宅や職場ですぐにできる夏をクールに過ごす11の知恵

引き続き馬場先生に教えていただいた熱中症や脱水症の予防に加え、ドイツメディアで見つけた現地ならではの涼の取り方を紹介。さらに、この時期によくみられる不調もチェックして、楽しく健康的に夏を過ごそう。

参考:BUNTE.DE「Schlafen bei Hitze – die 6 besten Tipps für erholsame Sommernächte」、wetter.de「Hitze in Deutschland: 38 Tipps zum Abkühlen im Büro, im Auto und in der Wohnung」

1毎日1.5~2ℓを目安に水分補給する

汗や尿で排出する水分を補うため、最低でも1日1.5~2ℓの水を飲むようにしよう。ポイントはがぶ飲みをせず、定期的に少しずつ摂取すること。また、発汗によってナトリウムが体の外に排出されるため、少量のナトリウムを含む硬水がベスト。硬水が苦手な場合は、冷やした炭酸水がおすすめ。ただし、医師からの指示でナトリウムを控えている場合は注意して。

2水以外なら麦茶やほうじ茶を

スポーツドリンクなどでも砂糖が入った清涼飲料水は、飲みすぎると糖尿病のリスクを上げることが報告されている。カフェインを含むコーヒーや紅茶、利尿作用のあるアルコールは1日の水分補給量とは別に考え、多量に飲むことは避けよう。水以外の場合は、麦茶やほうじ茶がおすすめ。

3濡れタオルで体を冷やす

暑すぎて眠れないときや日中に暑さを感じたときは、濡らしたタオルを顔や頭頂部に当てると、簡単に体を冷やすことができる。濡れタオルは冷たい必要はなく、生温かくても問題なし。背中や前胸部に当てても◎。

4風通しの良い服を着る

速乾性や通気性のある素材(例えば麻やインド綿など)や、ゆったりとした形の服を着るのがベスト。ただし、日中が暑くても早朝や夜は寒くなることがあるので、カーディガンや長袖シャツなどもすぐに着られるように用意しておくのをお忘れなく。

5夏でも湯たんぽを活用する

冷水と氷を湯たんぽに入れるか、水を入れて冷蔵庫で2~3時間冷やせば、「冷水湯たんぽ」のできあがり。寝るときに、足や手を冷やしてくれる。ただし、お腹に載せるのは内臓が冷えてしまうためNG。

6ぬるま湯で行水する

バスタブがある場合は、生ぬるいくらいの水風呂につかろう。水が冷たい場合は逆に汗をかいてしまうため、プールくらいの生ぬるさがちょうどいい温度だ。バスタブがない場合は、たらいなどに生ぬるい水をはり、足を浸すだけでもOK。

7室温に気を配る

場所や建物によって差はあるが、特に最上階の場合はカーテンや障子などで直射日光を遮る工夫をしよう。最上階では室内で熱中症となるリスクもあるため、冷房を導入したり、職場の場合は早く来て早く帰るなどの対策も必要だ。

8電化製品のスイッチを切る

電化製品は熱を発しているため、使用していないときはスイッチを切ろう。また、寝る前にベッドの上でテレビを観たり、PCを使わないようにすることも、しっかりと睡眠を取る環境を整える上で大切。

9エアコンをDIYする

夜も暑くて寝苦しい場合は、寝室の窓を開けて(特に地上階などは防犯対策を忘れずに)、その前に濡らしたシーツなどの布をかけよう。窓から入ってくる空気を冷やしてくれる。自宅に扇風機がない場合におすすめの方法の1つ。

10十分な睡眠を取って休養する

夏のさまざまな不調に対する予防で、一番大切なのは睡眠。十分な睡眠を取ることで、体の対応力や適応力を上げることができる。また体をきちんと休ませるために、ストレスや過労、過度なスポーツは避けて。

11夏野菜や南国の果物を食べる

夏野菜や南国の果物にはビタミンやミネラルが豊富に含まれているだけでなく、水分補給にも最適。おやつにも積極的に取り入れてみよう。ただし、食べすぎには注意!

ほかにも気をつけたい夏の不調

ウアラウプ病(長期休暇病)

長期休暇後に体調を崩すというのは、ドイツではよく聞く話。最も多いのが、食べ慣れない食事、普段よりも多い食事量、連日の飲酒などが原因となって胃腸障害を起こすこと。特に日本人の場合はいつもは和食中心という人も多いため、例えば、乳糖を分解する酵素「ラクターゼ」のサプリメントを食前に服用することも予防策の1つだ。ほかにも、休肝日を設ける、休暇中のスケジュールを詰め込みすぎない、旅行先で仕事をしない、休暇先でも短時間の昼寝をする……などの予防方法がある。

夏風邪

寒暖の変化、疲労、睡眠不足(免疫低下)などが原因となって発症するのが、喉の痛みを伴う夏風邪。熱中症や脱水症と同じく、体を冷やすことが必要なため、濡れタオルを当てたり行水をして対処しよう(上記参照)。

ダニ脳炎

日本ではあまり知られていないダニ脳炎。原因となるダニは、南ドイツや中欧・東欧地域の森林地帯に生息し、毎年300~400人のドイツ人がダニ脳炎にかかっているという報告も。予防注射があり、間を空けて3回打つと約3年間有効。キャンプや山歩きを予定している場合は、1回だけでも注射を打ってから出かけると安心だ。また、ダニ取り用のピンセット(Zeckzange)を持参するようにしよう。

活性化ビタミンD不足

年々、活性化ビタミンD不足の日本人(特に女性)が増えてきている。活性化ビタミンDが不足したままだと、高齢になってから骨粗しょう症の原因にも。活性化ビタミンDは皮膚を太陽に当てることでつくられるため、日照時間の長い夏場は、外に出て手足を太陽にさらすよう心掛けよう。

日焼け、皮膚炎、日光アレルギー

肌のメラニンの量が関係するなどの個人差があるが、皮膚が真っ赤になるまで日焼け(皮膚炎)をするのはご法度。また、服用中の薬によっては日光過敏症(日光アレルギー)を発症しやすい状態になっていることもあるので、注意が必要だ。

未来のために立ち上がるドイツの若者たち私たちに気候変動は止められるか?

5月に行われた欧州議会選挙で、緑の党がドイツ国内で得票率を大きく伸ばしたことは記憶に新しい。同党の躍進を支えたのは、ドイツの若者たちだった。そして、その背景には歯止めのかからない温暖化に対する、若い世代の危機感があった。連日の猛暑日に深刻な干ばつなどの身近な気候変動問題を入り口に、今ドイツでどんな動きがあるのかを振り返ってみよう。

参考:scinexx das wissensmagazin「Hmer 2018 brach Rekorde」、Umwelt Bundesamt「Gesundheitsrisiken durch Hitze」、tagesschau.de「Die Jugend hat die Stimmung gedreht」、Online Focus「Gefährliche Kipp-Punkte: Das passiert, wenn wir das 1,5-Grad-Ziel nicht einhalten」、Der Tagesspiegel 「Konsequenter Klimaschutz könnte Zahl der Hitzetoten begrenzen」、 ナショナルジオグラフィック「夏の異常気象、2100年までに1.5倍に? 最新研究」

Fridays for Future5月24日にベルリンで行われたFridays for Futureに参加する子どもたち

記録的な猛暑となった2018年

昨年の夏、ドイツをはじめ欧州は記録的な暑さとなった。欧州全体で2万人以上が亡くなった2003年の熱波に次いで、観測史上2番目に暑い夏とされているが、ドイツ連邦環境庁(Umwelt Bundesamt)の報告によると、国内で最高気温が30度以上になった日数は2003年のそれを上回っているという(下図参照)。

最高気温が30度以上になった日数

また、カールスルーエ工科大学の災害管理・危機軽減技術センターの調査によると、2018年4~7月にかけて、標準的な気温よりも2.8度高い数値を記録している。同年、関連死を含めベルリンだけでも450人が亡くなり、そのほとんどが高齢者で脱水症が主な原因の1つだった。統計上、湿度が20%と低い場合、気温が30度以上になると死亡率はぐんと上がると言われる。さらに昨年は降水量が極端に少なく、ドイツの89%の地域で深刻な干ばつが起きた。干ばつにより農作物の収穫量が減少。林業や養殖業が打撃を受けたほか、ライン川などの主要河川の水位が大幅に下がったことで輸送業にまで被害が及び、経済的な損失は大きかった。

止まらぬ気温上昇による負の連鎖

2015年12月にパリで開催された「気候変動に関する国際連合枠組条約第21回締約国会議(COP21)」で、パリ協定が採択された。この協定では、世界の平均気温の上昇を産業革命前の2℃未満に抑え、温室効果ガスの排出を実質ゼロにすることを目標としている。しかし、実際に現実的な行動計画を立てているのは、批准した197カ国のうち16カ国にとどまっているのが現状で、各国の削減目標が達成されたとしても、2℃未満の気温上昇の実現は困難だという。それどころか、2017年6月に米国が離脱を表明したことで他国の動向にも影響し、気温上昇は2.7~3.7℃になるとまで言われている。

このまま気温上昇が続き、私たちを待ち受けているものは何か。その1つの例が、北極圏の永久凍土の融解だ。凍土融解が起こると、凍土から温室効果ガスであるメタンと二酸化炭素が放出され、温暖化をさらに助長。ポツダム気候影響研究所の研究によれば、最悪の場合、地球の気温は4~5℃、海面は10~60mも上昇するという予測もある。また、北極圏の温暖化によりスピードが落ちたジェット気流が蛇行し、その蛇行が停滞。高気圧地帯と低気圧地帯が固定されたことでもたらされたのが、まさに昨年夏に欧州を襲った猛暑だった。

恐ろしいことに、2060年以降の夏は2003年や2018年のような猛暑が欧州で常態化するだろう、という意見もある。しかし、こういった欧州の異常気象は一例で、生物多様性の危機や食糧難など、温暖化による負の連鎖は世界中のあらゆる場所で起こっているのだ。

北極圏の融解北極圏の融解で、ホッキョクグマの生息地も脅かされている

若者たちの危機感が政治を動かす

昨年、気候変動の問題について世界に警鐘を鳴らした人物がいた。スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんだ。16歳の彼女は、気候変動の阻止を求めて毎週金曜に授業をストライキし、スウェーデン国会前でたった1人で抗議を始めた。「Fridays for Future(未来のための金曜日)」と呼ばれるこのアクションはスウェーデンの若者たちの共感を呼び、やがて世界中を巻き込む一大ムーブメントとなった。なかでもドイツでは特に大きな反響があり、5月の欧州議会選挙直前の金曜日には、全国で30万人以上がデモに参加したという。

ドイツのFridays for Futureのウェブサイトで公開されている提言では、パリ協定の努力目標である気温上昇1.5℃未満を達成するため、2035年までにゼロ・エミッション(生産や消費で発生する破棄物をゼロにすること)、2030年までに脱石炭、2035年までに100%自然エネルギー利用を要求。それらを実現させるために2019年末までに化石燃料資源の補助金の終了など、さらに具体的な要求が続いている。

これほどまで若者たちが必死になって抗議するのは、なぜだろうか。それは、未来を生きるのは彼ら自身であり、気候保護は彼らにとって最優先事項だからだ。そして、ドイツのFridays for Futureは、5月の欧州議会選挙である旋風を巻き起こした。なんと、30歳未満の有権者の約3割が緑の党に投票したほか、ベルリンをはじめとする大都市では緑の党が最も多くの票を獲得、ミュンヘンやハンブルクでは30%以上の票を得たのである。その結果、同党の全国の得票率は前回の約2倍となり、欧州議会選挙後に行われた「もし1週間後が連邦選挙だったら?」を問う世論調査では二大政党を抜き、初めて首位になった。すべてがFridays for Futureの成果とは言えないが、多くの人々に影響を与え、ドイツ政治の流れを変えたムーブメントとなったことは間違いない。

今後注目されるのは、多くの人の支持を得た緑の党がとりわけ若者たちの声にどのように応えていくかだ。気候変動を止めるには国内の他政党はもちろんのこと、他国とも手を取り合っていかなければならず、一筋縄にはいかない。まずは、これらの問題について関心を持ち続けることが一人ひとりにできること。もうこれ以上後回しにできないところまで、私たちは進み続けてきてしまったのだから。

 
最終更新 Dienstag, 09 Juli 2019 16:25
 

ドイツの空き家を活用した地域再生術

ドイツには実例がたくさん! 空き家を活用した地域再生術

ドイツでは、空き家を地域の活動拠点として再利用する動きが盛んです。その活用方法はアートスペースであったり、住民の交流の場であったりとさまざま。特に早くから空き家の活用に着目し、対策を続けてきたドイツ東部の都市、ライプツィヒの例をメインに、ドイツではどのように空き家が生まれ変わっているのかを紹介していきます。「人が暮らさない場所」を「人が集う場所」に変える、地域の活性化・エリア再生について考えてみましょう。(Text:編集部)

お話を聞いた人

ミンクス典子さん
福岡県出身。「働く環境」を良くする設計を専門とする建築家。 2011年に空き家再生社会文化拠点ライプツィヒ「日本の家」 を立ち上げ、2018年まで共同代表を務める。2015年より元 消防署を活用した複合施設オストヴァッへの共同代表。本誌 「私の街のレポーター」にて、ライプツィヒ地域を担当する。
日本の家:www.djh-leipzig.de
オストヴァッヘ・ライプツィヒ:http://ostwache.org

人が集まる場所をつくる4つのヒント

1その街で暮らす人々の危機感が
新たな対策を生み出す

1930年代のピーク時には、約70万もの人々がライプツィヒで暮らしていました。しかし、その後産業の衰退とともに人口は減少。ベルリンの壁が崩壊すると、その数は50万人にまで落ち込みます。人口の減少に伴い問題になったのが空き家です。地域によっては40%以上が空き物件となり、状態が悪いものは取り壊しが行われていました。そんななか、歴史的価値の高い建物を守ろうと市民活動がスタートし、2004年に「ハウスハルテン」が誕生。2015年以降は難民の流入などにより、ライプツィヒの人口は約60万人※にまで回復しています。それに伴い、現在では空き家率が減少している地域も増えてきました。 ※Sta dt Leipzigによる2018年の人口統計より

リンデナウ地区

ライプツィヒの市民団体ハウスハルテンについて

2004年、ライプツィヒのリンデナウ地区に設立された市民団体。使用されていない空き家の保全・維持を目的に活動している。居住を前提としない団体や個人に対して安価(家賃は無料。ただし家のサイズに応じて同団体に仲介料を支払うシステム)で、空き家を提供。使い手を失った建物を再利用することで、天候や人的な損傷から建造物を守ることが可能になっている。ライプツィヒの例を参考にハレ(ザール)、ケムニッツ、ゲルリッツ、エアフルト、ドレスデンなどでも同様の取り組みが行われている。

2最大の保全方法は
使用すること

建物に人が住まないことで起こり得るデメリットは、数多くあります。例えば、長年空き家になっている部屋ではガスや水を使用しないため、ガス管や水道管などの状態が悪化していることが想定されます。また、空き家には管理する人がいないため、犯罪拠点として使われたり、不法侵入したまま住み着いたりと悪用されるケースも考えられるでしょう。そうなると、周辺地域の治安が悪化する要因の1つになりかねません。このような理由から何かしらの形で空き家を使用することが、建物を保全する上で最大のメリットになります。

3「持続可能なアイデア」で
「開けたコミュニティー」を

ドイツ、特にライプツィヒにおける空き家の活用方法は、地域の活性化に貢献することに重点を置いています。その上でポイントになるのが、「持続可能なアイデア」で「開かれたコミュニティー」をつくること。続けることは簡単なことではありません。実際に情熱を持ってスタートしても1〜2年しか続かなかった実例もあります。家賃が無料であっても維持費はかかりますので、長年にわたって持続していけるコンセプトを練ることが大切。また、国や世代などターゲットを絞り込みすぎると交流に広がりがなくなってしまうので、その点でも考慮が必要です。

4改修にお金をかけない
それがドイツ流

日本でもカフェなどとして空き家が生まれ変わる例があります。その空き家活用の前提には商業的な目的がありますが、ドイツではより多くの人が利用できる・集まれる場所であることを大切にしています。そのため、地域活性化の観点から考えると、自分たちが暮らす地域をどのように盛り上げていくか考えることが今後の課題になるでしょう。ドイツでは商業目的ではない実例が多いので、必ずしもすてきなインテリアでしつらえる必要はありません。友人や知人に手伝ってもらう、不要な家具を譲ってもらうなど、お金をかけずに改修していきます。

ドイツの空き家を活用した実例

ライプツィヒをはじめ、ドイツには空き家を活用した多くの実例が存在。ここでは、ミンクス典子さんのコメントとともに紹介していきます。

1日本の家
Das Japanische Haus e.V.
http://djh-leipzig.de

日本の家日本の家 Das Japanische Haus e.V.
日本の家日本の家 Das Japanische Haus e.V.
 
 
 

2011年に建築家のミンクス典子さんをはじめ、学生やアーティストが中心となって設立した団体。特に衰退していた一角の空き家をフルリノベーションして活用。ライプツィヒに根付いた活動を軸に、グローバルな地域交流イベントを実施しています。調理・食事をしながら地域交流を図るイベント「ごはんのかい」を定期的に開催中。

コメント

地域活性化と国際交流の2つの軸で活動しています。「食」を切り口に投げ銭システムで定期開催している「ごはんのかい」には、今までに40カ国以上の人々が参加。ごはんを食べたくてやってくる人や友人に誘われて参加する人など、目的もさまざま。でき上がった料理を一緒に食べるだけでなく、調理の過程をともにするので、参加者同士のコミュニケーションが自然に広がっていく環境です。参加する人が多くなってくると次第に、次は展示をしたいアーティストや演奏をしたいというミュージシャンも集まってくるようになりました。都市空間では住居と商業施設がメインですが、その間にお金がなくても自由に使える空間があっても良いと思っています。 

「日本の家」の取り組みは、都市計画、空き家対策、国際交流、移民問題などドイツが抱える問題に関連しているため、行政をはじめライプツィヒ東部における地域活性のパイオニア的存在として評価していただいています。また、立ち上げ時から助成金の仕組みについても関心がありました。助成金はその時代の問題にリンクしているため、今どのようなことが課題になっているのかを知ることができます。私は欧州に暮らして15年以上になりますが、移民としてドイツ社会にどのように関わっていくかを考え実践する場でもありました。

2オストヴァッヘ・ライプツィヒ
Ostwache Leipzig
http://ostwache.org

Ostwache Leipzigオストヴァッヘ・ライプツィヒ Ostwache Leipzig
Ostwache Leipzigオストヴァッヘ・ライプツィヒ Ostwache Leipzig
 
 
 

ライプツィヒ東部にある消防署の移転に伴い、空きスペースとなった場所を地域活動の拠点として再生・利用するプロジェクト。「日本の家」のミンクス典子さんが代表の1人として参加しています。学生から弁護士など、さまざまな年齢の人々が運営に携わり、毎週イベントを開催。現在は規模を拡大中で、約7000平米もの敷地には、スタートアップ企業のオフィスや、音楽の演奏やアートの展示が可能なイベントスペース、自転車や木工の工房、幼稚園などがテナントとして入居を予定しています。

コメント

バーベキューやイースターのイベント、映画鑑賞会やゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会など、毎週バラエティー豊かなイベントを開催しています。現在は利用可能な範囲を広げるための手続きをしている段階。例えば、1カ月に1回無料のワークショップを開催する、無料で鑑賞できるコンサートを開くなど、どのような形で地域貢献を実現していくかというコンセプトをチェックした上で、入居者を審査しています。

「日本の家」の活動を通じ、次のステップとして、雇用を生み出す仕組みを構築していく必要があると考えています。特にオストヴァッヘは規模が大きく、建築家や弁護士、税理士やグラフィックデザイナーなど多彩なジャンルに精通した人たちが在籍しているので、活動の幅の可能性が広がりますね。

3子ども食堂
Leipziger Kinder-Erlebnis-Restaurant
www.leipziger-kinderrestaurant.de

Leipziger Kinder-Erlebnis-Restaurant子ども食堂 Leipziger Kinder-Erlebnis-Restaurant
Leipziger Kinder-Erlebnis-Restaurant子ども食堂 Leipziger Kinder-Erlebnis-Restaurant
 
 
 

「子どものための食育」をテーマにしたイベントを開催している団体。代表者のカリン・ファーネルさんが2012年にライプツィヒ東部の空き家(「日本の家」の向かい側)を活用してスタートしました。ここでは、子どもたちが食事を作って食べる楽しさを学ぶ機会を設けています。また、団体が所有する建物上階の住居では、長期失業中や問題のある家庭を優先的に受け入れています。イベントスペースは誕生日会を開催するためのスペースとしてレンタルも可能です。

コメント

教育学科に通う学生たちの実技試験の場でもあるので、研修生たちが通年常駐しています。そのため、人件費を抑えることが可能。さらに失業中の親が働けるようにと、ジョブセンターを通じて子ども食堂のパートタイムの仕事を与えるなど、雇用も生んでいます。さまざまなサイクルがうまく回るよう考えられた実例です。

4旧紡績工場シュピネライ
Leipziger Baumwollspinnerei
www.spinnerei.de

 Leipziger Baumwollspinnerei旧紡績工場シュピネライ Leipziger Baumwollspinnerei
 Leipziger Baumwollspinnerei旧紡績工場シュピネライ Leipziger Baumwollspinnerei
 
 
 

ライプツィヒ西部の紡績工場跡地の内部をリノベーションして、工房やギャラリーとして活用している一例。もともとは1992年に紡績工場としての役目を終えた後に、若いアーティストたちが制作の場として利用したのが始まり。いつの間にか100以上ものアトリエが並ぶ小さな芸術村になっていたそう。2001年に運営会社に買い取られ、現在では10以上のギャラリーやアーティストの工房が置かれています。

コメント

古い紡績工場をリノベーションして活用しているこのアートスペースは、欧州各地からも注目を集める現代アートの発信基地です。現在では、よく名の知られているギャラリーなども輩出していますよ。「ライプツィヒ・スクール」と呼ばれるアートシーンもここから生まれているほど。観光地としても有名な場所です。

5AEG工場跡プロジェクト
Auf AEG
www.aufaeg.de

AEG工場跡プロジェクトAEG工場跡プロジェクト
AEG工場跡プロジェクトAEG工場跡プロジェクト
 
 
 

4で紹介したシュピネライの運営会社が手がける、ニュルンベルクAEGの工場跡地を利用した多目的スペース。2007年にスタート。幅広い用途で活用していくことを目的に、オフィスや小売店、ショールーム、レストラン、ギャラリースペースなど、さまざまなテナントが入っています。地元のアーティストの作品を展示する展覧会なども毎年開催されています。

コメント

ニュルンベルクとライプツィヒは、人口の数や政治的な状況が似ています。この2都市のように50万人規模の地域では、ムーブメントが起こりやすいんです。ニュルンベルク、ライプツィヒともに州都ではないので、政治的なしがらみが少ないことも市民が積極的に活動を起こせる要因の1つになります。

6プリンセスガーデン
Prinzessinnengarten
https://prinzessinnengarten.net

プリンセスガーデン
Prinzessinnengartenプリンセスガーデン Prinzessinnengarten
プリンセスガーデン
Prinzessinnengartenプリンセスガーデン Prinzessinnengarten
 
 
 

2009年に空き地の不法占拠から始まったアーバンガーデニング。スタッフやその友人らがこの場所のゴミを片付けて、有機野菜の栽培をスタートしました。ユートピアとして都市の真ん中に緑地が広がる「プリンセスガーデン」では、持続可能な生活を送るためのヒントを実体験するため、ここで栽培された野菜を使用した食事を楽しむことも可能です。一緒に収穫したりリラックスしながらコミュニケーションを図ったりと、新しいスタイルの都市生活を実践しています。

コメント

このプリンセスガーデンは、ドイツのアーバンガーデンの先駆けとして有名です。ベルリンにはほかにもテンペルホーフ空港跡地のアルメンデ(共有地)など、バラエティー豊かなアーバンガーデンがありますよ。

最終更新 Freitag, 06 Mai 2022 10:17
 

アンネ・フランク生誕90年 - アンネの日記に隠された未来へのメッセージ

アンネ・フランク生誕90年
アンネの日記に隠された未来へのメッセージ

アンネ・フランク

世界中で読み継がれる『アンネの日記』の著者で知られるアンネ・フランク。もしも彼女が第二次世界大戦を生き延びていたら、 2019年6月に90歳の誕生日を迎えていたかもしれない。しかし、アンネはナチス・ドイツによるホロコーストの犠牲となり、享年15歳という若さでこの世を去った。日記には彼女の身に起きた悲劇だけではなく、生きる歓びと差別に抵抗する強い意志がつづられている。この生誕90年を機にアンネという少女を知り、彼女が日記に込めた平和への思いを読み解いてみよう。(Text:編集部)

参考:Anne Frank House公式ホームページ、『アンネの日記』(文春文庫)、『Alles über Anne』(Carlsen Verlag)

歴史とともに振り返る
アンネが生きた15年

1ドイツ系ユダヤ人としてフランクフルトに生まれる

12世紀以降にユダヤ人が居住するようになったフランクフルトは、欧州最大の財閥であるロスチャイルド家の発祥の地であり、ユダヤ人にとって欧州で最も重要な都市として知られている。そんな街に、アンネ・フランクは生まれた。1929年6月12日、裕福なドイツ系ユダヤ人家庭の二女として誕生したアンネには、3歳年上のマルゴット(愛称マルゴー)がいる。

左)父:オットー・フランク(1889-1980)*1936年撮影
中央)母:エーディト・フランク(1900-1945)*1935年撮影
右)姉:マルゴット・フランク (1926-1945)*1941年撮影

2迫害を逃れてアムステルダムへ移住する

アンネ誕生当時のドイツは失業率が高く、人々は貧しい生活を余儀なくされていた。その裏でアドルフ・ヒトラー率いるナチスはドイツが抱える問題の責任をユダヤ人になすりつけることで、その勢力を拡大していった。やがて1933年1月にナチスが政権を握ると、他都市同様にフランクフルトでもユダヤ人の迫害が始まる。それを受けて、アンネの父オットーと母エーディトは、一家でオランダ・アムステルダムへ亡命することを決意したのだった。

1934年にアムステルダムに移り住んだアンネ。好奇心旺盛だった彼女はモンテッソーリスクール※に通い、すぐにオランダ語を覚えて友だちをつくり、現地の生活に馴染んだという。一方、オットーはジャムに使用するペクチンと香辛料の取引会社を設立し、家族を養うために必死に働いて収入を得た。

※カリキュラムはなく、個々の感性や自発性を尊重し、段階に合った環境を整えて人間形成を促す「モンテッソーリ教育」を行う学校

アムステルダムに来た頃のアンネアムステルダムに来た頃のアンネ *1934年撮影

3戦争勃発後、ユダヤ人学校に行き始める

1939年9月にナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。翌年5月にはオランダにも侵攻し、わずか5日間で陥落。やがてユダヤ人は公園や映画館などへの出入りが禁止されたり、子どもたちはユダヤ人学校に行かなければならなくなるなど、ドイツ軍はユダヤ人の生活を困難にする法律や条例を徐々に導入していった。なお、オットーは家族を守るため米国やキューバにビザを申請していたが、いずれも失敗に終わっている。

1942年6月、13歳の誕生日を迎えたアンネが父から贈られたのは、赤と白のチェック柄のサイン帳。これがまさに『アンネの日記』としてのちに出版される日記帳だ。しかし、日記を書き始めてまもない同年7月、マルゴーに労働キャンプへの召集令状が届く。これを機に、フランク一家は潜伏生活に入った。

42年にわたる隠れ家生活を日記につづる

隠れ家はオットーの会社の後ろにある別館で、アンネたち以外にファン・ペルス一家3人(日記ではファン・ダーン一家)と歯医者のフリッツ・プフェファー(日記ではアルベルト・デュッセル)が身を潜めていた。生活物資は、協力者だった会社の社員たちが危険をおかして調達した。約2年間にわたる8人の共同生活については、アンネの日記に詳細に記録されている。

しかし、1944年8月4日、隠れ家の住人全員と協力者2人がゲシュタポとオランダ人警察に逮捕される。密告説が有力だが、最近ではたまたま見つかったという説もあり、現在まで真相は分かっていない。アンネが最後に日記を書いたのは、逮捕3日前の8月1日だった。

アンネたちが潜伏した離れ家へ続く隠し扉アンネたちが潜伏した離れ家へ続く隠し扉

アンネの部屋アンネの部屋の壁には、映画スターの写真などが貼られたまま

アンネ・フランクの家 
Anne Frank House

アンネの部屋

戦争を生き延びたオットーが、アムステルダムの隠れ家を改装して1960年に設立した博物館。2018年にリニューアルオープンし、新たにオーディオガイドが導入されるなど、さらにアンネの人生やホロコーストについて学べる施設となった。要オンライン予約。
Westermarkt 20, 1016 DK Amsterdam
www.annefrank.org

5アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送される

隠れ家の住人たちは、オランダ国内にあったヴェステルボルク通過収容所を経由し、3日かけてポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へと列車で移送された。約1000人が家畜用車両に詰め込まれ、移送期間中は水も食料もほとんど与えられず、小さな桶がトイレ代わりという環境だった。

到着後、労働可能か選別され、アンネは母と姉とともに女性収容施設に送られた。同乗していた約350人がガス室で殺害され、男性収容施設に送られたオットーとはこれが最期の別れとなった。日記には母との関係が悪かったことが明かされているが、強制収容所ではエーディトは食料を娘たちに分け与え、常に一緒にいたという。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館
Auschwitz-Birkenau State Museum

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館

ガス室で大量殺りくが行われた、ナチス・ドイツ軍による最大の強制収容所で、現在は博物館となっている。1944年1月にソ連軍が施設に残っていた約7500人を解放し、そのうちの1人がオットーだった。時期により開館時間が異なる。ツアーガイドあり。
ul. Wieźniów Oświęcimia 20, 32-603 Oświęcim Poland
http://auschwitz.org

6ベルゲン=ベルゼン強制収容所で最期を迎える

1944年11月、アンネはマルゴーとともに再び移送され、ドイツのベルゲン=ベルゼン強制収容所に連行される。一方、エーディトはアウシュビッツに残り、翌年1月に飢えで亡くなった。ベルゲン=ベルゼンの衛生状態は劣悪で、収容者に食料はほとんど与えられず、疫病が蔓延していた。

やがてアンネとマルゴーは発疹チフスにかかり、1945年2月に先にマルゴーが、そしてその数日後にアンネが息を引き取った。正確な日にちや埋葬された場所は分かっておらず、ベルゲン=ベルゼンの敷地内のどこかにほかの犠牲者とともに眠っている。英国軍がベルゲン=ベルゼン強制収容所を解放した、わずか2カ月前のことだった。アンネのようにホロコーストの犠牲となった子どもの数は150万人と言われ、彼女の体験はその1つに過ぎない。

アンネとマルゴーの墓石2015年にベルゲン=ベルゼンに建てられたアンネとマルゴーの墓石

アンネの年表
1929年6月 アンネ、フランクフルトで生まれる
1933年1月 ナチス政権誕生
1934年2月 アンネ、アムステルダムへ移住する
1939年9月 第二次世界大戦勃発
1942年6月 アンネ、日記を書き始める
1942年7月 隠れ家生活が始まる
1944年8月 隠れ家の住人全員が逮捕される
1945年2月 アンネ、ベルゲン=ベルゼンで亡くなる
1945年5月 欧州における第二次世界大戦が終わる
1947年6月 父オットーがアンネの日記を出版する

日記からひも解く
素顔のアンネ

日記を読んでいると、アンネは想像力豊かで意志が強く、思春期らしい悩みを抱えたティーンエイジャーだったことが、手に取るように分かる。そして、アンネは自分の将来に希望を持ち、差別のない世界を夢見ていたこともつづられている。ここでは、日記から見えてくるアンネの素顔に迫る。

アンネの日記

執筆者:アンネ・フランク
執筆期間:1942年6月12日~1944年8月1日
初版出版:1947年6月(オランダ語)

あなたになら、
これまでだれにも打ち明けられなかったことを、
なにもかもお話しできそうです。
どうかわたしのために、
大きな心の支えと慰めになってくださいね。

1942年6月12日 アンネ・フランク『アンネの日記』(文藝春秋)より引用

アンネが心を許したたった1人の相手

「キティー」という架空の人物に宛てた手紙形式の日記。ドイツ占領下のオランダにおいて隠れ家に身を潜めた生活がどのようなものだったのかが、記録されている。戦争の裏で、思春期のアンネが家族や住人と衝突したり、ときには将来の夢を語り、恋をして何も手につかなくなり……。そして、反ユダヤ主義や戦争について自分の言葉で批判し、自分が1人の少女であること認めてほしいと語った彼女の強いメッセージは、世代を超えて多くの人々の心に届いている。

アンネの日記

『アンネの日記 増補新訂版』
著:アンネ・フランク
訳:深町眞理子
発行元:文藝春秋
2003年4月刊行

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日記にまつわるエピソード

アンネは日記を出版するつもりだった

1944年春、あるラジオ放送を聞いたアンネは、戦後に自分の日記をもとに『後ろの家(隠れ家)』というタイトルで戦争体験記を出版することを決意する。その放送では、ロンドンのオランダ亡命政権の文部大臣が、戦争が終わったらドイツ占領下におけるオランダ国民の苦しみを記した手記などを集めて公開したいと述べたのだった。そこで、アンネはこれまでの日記を加筆修正して清書を始め、出版を意識して登場人物には仮名を用いた。

隠れ家の協力者に守り抜かれた日記

アンネたちの逮捕後、隠れ家の物品が持ち出される前に、逮捕を逃れた協力者のミープ・ヒースとベップ・フォスキュイルが日記を隠すことに成功。ミープは日記に目を通さず、戦後にオットーに引き渡した。そしてオットーは、亡き娘のために出版を決意。当時は性にまつわるテーマをありのままに記述することが一般的ではなかったこと、また母親やほかの住人に対するアンネの表現が率直すぎたことから、文を削り表現を変えるなどの編集が施された。

隠されたページに「性的なジョーク」?

1942年9月28日に書かれた2ページは、内容を見られないようにするためか茶色の紙が貼られ、長らく未公開のままだった。しかし、デジタル画像解析技術の進歩によって解読に成功し、昨年初めて公開された。その中身は性的なジョークや性教育に関するもので、例えば「ドイツ軍の少女たちはなんでオランダにいるんでしょうか? それは兵士のマットレスになるため」などといった内容。アンネが一般的な思春期の女の子だったことがよく分かる。

参考:Yahoo! ニュース「『アンネの日記』隠していて読めなかったページをデジタル画像解析で解読:微笑ましい性的ジョークが公開」(2018年5月17日)
https://news.yahoo.co.jp/byline/satohitoshi/20180517-00085326/

作家になることを夢見たアンネ

書くことに夢中で、またそれが隠れ家生活の慰めとなっていたアンネは、ジャーナリストとなり、やがて作家になるという夢があることを、1944年5月11日の日記でも明言している。そんな彼女による小説とエッセイが1冊の本にまとめられている。瑞々しい感性と想像力から紡がれた言葉は、日記をより一層理解する手助けにもなるだろう。日本語版『アンネの童話』(右)は、絵本『ぐりとぐら』の作者・中川李枝子さんが訳を、国内外で人気の酒井駒子さんが絵を担当している。

アンネの童話

『アンネの童話』
著:アンネ・フランク
訳:中川李枝子
絵:酒井駒子
発行元:文藝春秋
2017年12月刊行

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『アンネの日記』とそれから

15年という短い生涯だったにもかかわらず、死後もなお、その文才と人柄で多くの人々を魅了し、平和のためにできることは何かを問いかけているアンネ。最後に『アンネの日記』を読んで作家を志したという2人の作家のエッセイと、アンネをより深く知るための2冊を紹介するとともに、彼女の思いを伝え続けるアンネ・フランクの家の取り組みについて考察する。

アンネをめぐる旅に出かける

仏で映画化された『薬指の標本』の原作者である小川洋子さん。彼女が作家を目指すきっかけとなったのが『アンネの日記』。本作は、その日記を書いたアンネ・フランクの人生を追う紀行文だ。日記を初めて読んだ10代の頃は同世代の友人のような親しみをアンネに感じ、自身が歳を重ねるごとにアンネの母親に心情を重ねてみたり。隠れ家の協力者だったミープ・ヒース氏と対面した場面では、「この時代に生まれていたら果たして彼女のように誰かを助ける覚悟ができていたか」と自身に問う。激動の時代を生きた人々の心情、そして自分の想いを丁寧に紡いだ1作。

アンネ・フランクの記憶

『アンネ・フランクの記憶』
著:小川洋子
発行元:角川文庫
1998年11月刊行

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アンネとの不思議な縁を感じて

幼い頃、偶然手にした『アンネの日記』に影響を受けた筆者。それから時が経ち2009年の父親の誕生日にまたしても偶然、戦時中に父が書いた日記を発見する。著者・小林さんの父とアンネ・フランクは同じ年に生まれたという縁もあり、アンネが辿った人生を巡る旅に出ることを決意。アンネが亡くなったベルゲン=ベルゼンからスタートし、生家があるフランクフルトで旅を終える。道中で出会った人々との会話や思い出、自身の心情が綴られた本作では、小林さんと彼女の父、そしてアンネ、生きた時代や場所が異なる3者の想いが交錯する。

親愛なるキティーたちへ

『親愛なるキティーたちへ』
著:小林エリカ
発行元:リトル・モア
2011年6月刊行

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原作と一緒に読みたいコミック版アンネ

アニメーション映画「戦場でワルツを」の映画監督アリ・フォルマンさんとコミック作家のデイヴィッド・ポロンスキーさんの2人のイスラエル人による、グラフィック小説版『アンネの日記』。フォルマンさんの両親はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の生存者で、このテーマには特別な思い入れがある。400ページの原作を160ページのコミックにまとめ、ホロコーストの記憶が薄れつつある現代、特に若い世代に歴史を伝える方法として注目を浴びている1冊。残念ながら日本語版は出版されていないが、ドイツ語のほかに英語などに翻訳されている。

コミック版アンネ

『Das Tagebuch der Anne Frank』
著:Ari Folman、David Polonsky
発行元:S.FISCHER
2017年12月刊行

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もっとアンネを知りたい人のために

アンネ・フランクの家が編集を担当し、『親愛なるキティーたちへ』の著者、小林エリカさんが日本語訳を手がけた本書。子どもから大人まで幅広い層が親しめるよう、写真をたくさん織り交ぜながら展開。アンネが生きた時代の背景や隠れ家での生活、なぜユダヤ人は迫害されなくてはならなかったのかなど、さまざまな側面から分かりやすくまとめられた1冊だ。今もなお多くの人に読まれ、語り継がれる日記の内容を軸に1人の少女の誕生から死、その後の世界を辿る。ドイツ語版のタイトルは『Alles über Anne』。ぜひ、併せてチェックしてみて。

アンネのこと、すべて

『アンネのこと、すべて』
編:アンネ・フランク・ハウス
訳:小林エリカ
監修:石岡史子
発行元:ポプラ社
2018年11月刊行

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アンネの思いを次世代に
どう伝えていくか?

ドイツには「Erinnerungskultur(記憶文化)」という言葉がある。これは、ナチズムの犯罪を次世代の意識にとどめようとするもので、その中核を担うのが当時を生きていた人々の証言だ。例えば、ベルリンにある「虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑」は、ホロコーストの犠牲となった600万人のユダヤ人を追悼するためにつくられた、記憶文化だ。アンネが潜伏した隠れ家(アンネ・フランクの家)もまた、ドイツではないものの、記憶文化の1つとして認識されている。

アンネ・フランクの家では、第二次世界大戦とホロコーストで何が起こったのか、それがどのように起こりうるのか、また現代を生きる私たちにとって何を意味するのかを、来館者に示すことを使命とする。同館を訪れる人の大半は、25歳未満の若者。昨年リニューアルオープンした理由は、戦争体験者と接触の少ない若い世代により多くの情報を提供したいとの考えから、と同館のロナルド・レオポルド館長は語っている。オーディオガイドの導入や教育エリアを新設するなど、若い世代がより学びやすい場所となったが、メインの展示である隠れ家自体には手を加えず、空っぽの状態のままだ。レオポルド館長は「その空虚さがアンネ・フランクの家の最も重要な特徴だと思う」とも述べている。訪問を通じて何かを学び感じとった人々が、自分の身の回りの差別や反ユダヤ主義と闘うことが、運営者たちの何よりの願いなのである。

ホロコーストから生還した人々の数は年々減少している。今後彼らがいなくなった世界で、どのように歴史を次世代に語り継いでいけばいいのか。『アンネの日記』やアンネ・フランクの家を通じ、アンネの思いを未来へつないでいくことは、その1つの方法なのだろう。

参考:ドイツの実情「国家と政治 生きた記憶文化」、AP NEWS「Anne Frank House renovated to tell story to new generation」(2018年11月22日)

最終更新 Freitag, 11 Juni 2021 14:00
 

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