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ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

青木周蔵 - 知っておきたい日独の歴史のお話 - ドイツに学び 日本を強い国に 不平等条約を押し付けられた時代の挑戦者

外務大臣当時の青木周蔵青木周蔵という人物をご存じだろうか?激動の明治時代を生き、外務大臣にまで上り詰め、不平等条約から始まった日本の国際社会における地位向上のため、先頭に立って舵取りをした政治家だ。留学時代と外交官時代に、合わせて25年をドイツで過ごしたドイツ通で、日本にドイツ文化を伝える役目も果たした。

今回、彼の子孫であるニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵に、家族だからこそ知り得るエピソードも交えて、青木周蔵の人生を語っていただいた。そこから、自分の前に道はなく、外交の前例も慣例も日本には存在しなかった時代に、国際人として毅然と振る舞った青木周蔵の大きな背中が見えてきた。(取材協力:ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵 / 文:高橋 萌)

プロフィール

ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵 
Niklas Salm-Reifferscheidt

青木周蔵の子孫で、オーストリアにあるシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)を管理するザルム家の当主。墺日協会(Österreichisch-Japanische Gesellschaft)の理事も務める。

日本開国と日独交流史の始まり

青木周蔵の歩みをたどる前に、まずは日本開国の歴史を簡単に振り返ってみよう。ペリー提督が米国から「黒船」に乗ってやって来たのが1853年。その5年後に、米国、英国、ロシア、オランダと修好通商条約(1858年)、いわゆる「不平等条約」が締結され、200年以上続いた日本の鎖国政策は終焉を迎えた。プロイセン(ドイツ)が、日本と日普修好通商条約を締結したのは1861年1月24日。この日から今日まで、日本とドイツの交流は続いている。

青木小学校の100周年記念行事
那須塩原市に青木周蔵が建てた青木小学校の100周年記念行事に参加する
ニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(右)

青木周蔵、ドイツ留学へ

青木周蔵
青木周蔵 ベルリン留学当時

日本とプロイセンの条約締結から7年後、青木周蔵は何度目かの嘆願の末に長州藩の許可を得て、ベルリンを目指して出発した。時は明治元年、明治維新のまっただ中。大きな野心と祖国への想いを胸に出国した青木だが、そもそも、なぜドイツ行きを熱望したのだろうか。

生まれは1844年。医師の家系であった三浦家の長男として團七(だんしち)と名付けられた彼は、明倫館に入門。そこの教諭であった蘭学者・青木周弼の弟・青木研蔵に才覚を見出され、養子となる。この2人から1字ずつもらい、「周蔵」と改名。医師となる道が定まったような縁組みだった。  

蘭学を通して医学を学んだ青木は、オランダがドイツの医学を参考にしていることを知り、さらに「1866年の普墺戦争でもプロイセンはオーストリアに勝利したのだから、プロイセンの科学は優れているはずだ」と、ドイツ留学を強く望むようになった。

ドイツで何を学ぶべきか

1868年夏に日本を出た青木周蔵が欧州の大地に立ったのは12月半ば。青木を乗せた船は、まずフランス・マルセイユに到着した。ここで、彼は人生を変える1つ目の体験をする。

当時のフランスは、ナポレオン3世の時代。青木はその日、豪華絢爛なそろいの制服で行進するフランス軍を目撃し、興奮した。「我が国にも、洗練された制服を着た軍隊の整備が必要不可欠だ」

春になって、ようやくハノーファーに到着した青木は、2つ目の体験に遭遇する。

ベルリン行きの電車の出発まで、まだ1時間あるからと散歩に出た彼は、深い霧に包まれた。眼前に広がる野原には、壁のようなものが見える。いや、壁だと思っていたものが、掛け声とともに動き出すではないか。いったい何事が起きたのかと近付いてみると、それは一糸乱れずに訓練する兵士の隊列だったのだ。「服は地味だが、ドイツの軍隊は強い」。1870年に開戦する普仏戦争直前の出来事であった。

この経験を経て青木は、日本が強国と肩を並べるためにドイツから学ぶべきことがあると、医学部から政治・経済学部に専攻を変える。無断で変えたものだから、後にこのことは問題となった(山縣有朋が来独した際に解決)。

ちなみに、ドイツに初めて留学した人物は会津藩から派遣された小松済治で、1868年10月21日にハイデルベルク大学医学部に学生登録したと記録されている。続いて1870年に赤星研造(福岡藩出身)。その同年、青木はベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学医学部に入学した。

日本にもビールが必要だ

青木が日本に報告した通り、普仏戦争ではプロイセンが勝利し、日本のプロイセンへの注目度は急上昇。1872年には北ドイツ留学生総代に任命され、青木は100人を超える日本人留学生を預かる身となった。ベルリンに派遣された留学生は、医学部や法学部志望者ばかりという状況だったが、林業、地理学、繊維加工、政治学、文学など、ほかの学問を学ぶよう学生に提言した青木。方々から不平不満もあったが、中にはその重要性を理解し、青木の言葉に従った者もいた。

その1人が、黒田清隆。北海道の開拓長官である彼に、青木周蔵は1通の熱のこもった書簡を出している。「ビールは酒よりアルコール度数が低く、栄養価の高い飲み物です。労働者の飲み物として、日本人もいずれビールを飲むようになるでしょう」と記し、北海道の気候が大麦の栽培やビール製造に適し、地域経済の助けになること、ビールは健康にも良いことを伝えた。

もう1人が、中川清兵衛。青木は彼にビール醸造技術習得を勧め、ベルリンビール醸造会社で学べるように援助した。2年2カ月の修業を終え、日本へ帰国した中川は、青木の書簡を受けた黒田に抜てきされ開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)の初代醸造技師に。日本のビール造りの第一人者となった。

ドイツ人女性エリザベートとのロマンス

1873年には、岩倉使節団のドイツ視察の通訳を務め、外務省に入省。翌年には駐独公使として正式にドイツへ赴任する立場となった彼は、1人の美しいドイツ人女性と出会う。エリザベート・フォン・ラーデという貴族の娘だ。  

実らないはずの恋だった。青木は既婚者だったのだから。青木家との養子縁組の条件の1つが、養父・研蔵の娘テルとの結婚で、養子になると同時に結婚が決まったのだ。現在よりも家との繋がりが強固だった時代である。

しかし、そんな自身の境遇はどこ吹く風と、青木はエリザベートとの愛を貫こうとする。ここで、政治家としての彼の有能さを垣間見る気がするのだが、すったもんだの末、なんと青木家との養子縁組はそのままに、テルとの離婚を承諾させたのだ。

ところが1879年、妊娠中のエリザベートを連れて日本へ帰国した青木は、そこで信じがたい光景を目撃することになる。大勢の出迎えの中に、前妻テルの姿があったのだ。しかも、テルは離婚の話を聞いたこともないと言う。青木家としては、日本ではテルと、ドイツではエリザベートと暮らせば良い、これで丸く収まると考えたのだ。それでは納得しない青木がテルに新しい夫を見付け、結納金も青木が負担する形でようやく離婚が成立し、晴れてエリザベートと夫婦となり、その結婚は死が2人を分かつまで続いた。

(左)周蔵の娘、若き日の青木ハナ (右)青木周蔵、娘ハナと孫のヒサ
(左)周蔵の娘、若き日の青木ハナ (右)青木周蔵、娘ハナと孫のヒサ

エリザベート・フォン・ラーデ、アレキサンドル・フォン・ハッツフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵
(左)ベルリンで青木周蔵と婚約した当時のエリザベート・フォン・ラーデ
(右)アレキサンドル・フォン・ハッツフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵

不平等条約の改正に尽力

1880年、再び駐独公使としてベルリンへ向かった青木は、大日本帝国憲法の草案や、その他の法案作りに奔走する。当時、日本の法整備が急ピッチで行われた背景には、不平等条約改正という目的があった。

青木は憲法作りにも積極的に取り組み、もっとも古い私擬憲法として知られる『大日本政規』を、1872年に作っている。1882年には伊藤博文の欧州憲法調査に同行し、大日本帝国憲法の父と呼ばれるベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト教授とウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタイン教授を伊藤に紹介。1889年、ついに大日本帝国憲法が布告されたことで、青木の働きは結実した。

憲法の布告により、日本を対等に扱うべき相手として認めるよう、欧米諸国に強く働き掛けることができる体制が整った。その年の12月24日、第1次山縣内閣の外務大臣に就任し、条約改正に向けた方針を「青木覚書」として内閣に提出した。大津事件で引責辞任した後も、ドイツ公使を務めながら、イギリス公使を兼任して条約改正に関わり、1894年、ついに日英通商航海条約の改正に成功した。

ドイツ文化を色濃く残す青木邸で

その後、再び外務大臣を務め、米国大使としてワシントンの社交界で一目を置かれる存在となった青木だが、1908年に日本に帰国してからは徐々に政界との距離を置く。日露戦争で勝利(1905年)した日本は、欧米から「脅威」とみなされ、日独関係も難しい時期に差し掛かっていた。

一方で、政界から引退した青木が力を入れていたのが、那須塩原市にある青木邸を拠点にしての農業開拓。この青木邸は、ドイツで建築を学んだ松ヶ崎萬長の設計で1888年に建てられたもので、日本に残る松ヶ崎の唯一の作品。現在は、国の重要文化財に指定されている。

1913年末に風邪をこじらせた青木は、翌年2月16日、69年の生涯を閉じた。日本がドイツに対し最後通牒を行い、ドイツの植民地、青島とミクロネシアをめぐる日独戦争が勃発したのは、その約半年後の8月。愛する2国が砲弾を打ち合う事実を知らずに済んだのは、青木周蔵にとって幸運なことだったかもしれない。

旧青木家那須別邸前でニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(左)と、妹のソフィーさん(中央)
旧青木家那須別邸前で
ニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(左)と、
妹のソフィーさん(中央)

旧青木家那須別邸 写真提供:栃木県観光物産協会
旧青木家那須別邸前のヒマワリ(那須塩原市)
写真提供:栃木県観光物産協会

ドイツ人のような日本人

それにしても、青木周蔵という人物は、強靭な精神力を持っていた人に違いない。子孫であるニクラス・サルム氏にも、「青木周蔵は、日本人としては直接的にものを言い過ぎるところがあり、ドイツ人のような日本人だった」と伝わっている。長州藩に無断で留学先の学部を変更したり、養子でありながら本家の娘に離縁を申し出たり、あの時代に国際結婚に踏み切ったり。まさに、異例のオンパレード。

そんな彼の心情についてサルム氏は続ける。「彼は、日本の将来の発展を確信しながら、そのために日本が変わらなければならないことを承知していました。だからこそ、彼は変化を恐れない人でした」。主張すべきは主張し、変化を受け入れることによって、自分の人生も、日本の未来をも切り開いた青木周蔵。目まぐるしく変化する時代の波にもまれても、決して自身の本懐を見失わなかった彼の強さに学びたい。

青木家の家系図

青木家の家系図

青木周蔵の年表

1844年3月3日
(天保15年1月15日)
長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)に生まれる
1866年 蘭学者・青木周弼の弟・青木研蔵の養子となって士族となる
1868年(明治元年) 長州藩の許可を得て、ドイツへ渡る
1870年(明治2年) ベルリンで留学生活をスタート
1872年(明治5年) 北ドイツ留学生総代を務める。私擬憲法『大日本政規』作成
1873年(明治6年) 外務省に入省
1874年(明治7年) 駐独代理公使、駐独公使となってドイツに赴任
1875年(明治8年) オーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任
1878年(明治11年) オランダ公使を兼任
1879年(明治12年) 日本に帰国。条約改正取調御用係に任命
1880年(明治13年) 駐独公使としてベルリンに再赴任
1885年(明治18年) オランダ、ノルウェー公使を兼任
1886年(明治19年) 日本に帰国し、条約改正議会副委員長に。第1次伊藤内閣の井上馨外務大臣の下で外務次官を務める
1889年(明治22年) 2月11日 大日本帝国憲法の布告。12月24日、第1次山縣内閣の外務大臣に就任
1891年(明治24年) 第1次松方内閣で外務大臣を留任するも、大津事件が発生し、引責辞任
1892年(明治25年) 駐独公使としてドイツに赴任。駐英公使を兼任
1894年(明治27年) 日英通商航海条約改正に成功
1898年(明治31年) 第2次山縣内閣で外務大臣に再就任
1900年(明治33年) 枢密顧問官を経て叙勲され、子爵となる
1906年(明治39年) 駐米大使に任命
1914年(大正3年)
2月16日
栃木県那須郡那須町にて没する。享年69歳
最終更新 Mittwoch, 22 April 2015 12:28
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

翻訳者ウルズラ・グレーフェ、
「村上春樹」を語る

村上春樹 ドイツ語翻訳
青木奈緖Ursula Gräfe
1956年、フランクフルト生まれ。作家、翻訳家。フランクフルト大学で日本学、英語学、米文学を学ぶ。川上博美、小川洋子、東野圭吾らの作品を翻訳し、特に村上春樹の訳者として知られる。出版された村上作品は15冊以上。

翻訳として正しいとか正しくないとか、そういうことではないと思います。それよりはむしろ日本語のとらえ方の問題になってくると思うんです。

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スコット・フィッツジェラルドやトルーマン・カポーティといった現代アメリカ文学の翻訳者としても知られる村上春樹。そんな彼が、自ら手掛けたサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳について、かつてこう述べていました。私も村上春樹のドイツ語訳を手掛けただけに、「日本語のとらえ方の問題」が「ドイツ語のとらえ方の問題」に置き換わるだけで、彼の言っていることは、とてもよく分かります。翻訳に当たっては、元の日本語と同じように、分かりやすいドイツ語になるよう心掛けています。それにふさわしい表現をドイツ語で探し当てるのは、とても大変なことですが、これが著者と読者に対する私の責任だと思います。それだけに、これまでアモス・オズやフィリップ・ロス、ジョナサン・フランゼンといった面々に授与されてきたドイツの全国紙「ディ・ヴェルト」の文学賞受賞に際して、彼が審査員から「現代の日本でもっとも重要な作家」と称えられたのは、大きな喜びでした。

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日本ではよく「村上現象」が取り上げられますが、国境を超えてこれほどのベストセラー作家になったのは、村上春樹が異文化を繋ぐ術に誰よりも長けているからではないか、とみています。日本の戦後世代を代表し、アメリカ文学を紹介してきた村上春樹のルーツは西洋と東洋の両方にあり、そのため登場人物が世界中で受け入れられるのです。とりわけ韓国や台湾では、最もよく読まれている作家です。

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アジアでは、登場人物たちがあらゆる束縛から逃れて、孤独でありながらどこにでもいるようなごく普通の人であるところに読者が惹かれ、新鮮に映るのでしょう。西洋では、いろいろな世界が緩やかに繋がり、架空のものや、いつも敗北すれすれ、それどころか、最初から負けが決定してしまっているような人生であっても、型にはまっていないことが、新鮮に映るのです。

彼のこうした手法は、「魔術的リアリスム」とドイツで呼ばれることがあります。もともとこれは、ラテンアメリカ文学の流れを指した言い方なのですが、村上春樹が現実の世界を魔術的に読み解いていく手法が、日本文学独自のものである、という点はあまり知られていません。日本にはほかにも、芥川龍之介のような偉大な作家がいますからね。

村上春樹の作品には、どれも独特のムードがあります。話の流れだけでなく、作品に秘められた彼ならではの雰囲気をもドイツ語で再現するのが、翻訳者としての私の使命です。ドイツにお住まいの皆様にならお分かりいただけるかと思いますが、ただ一語一句をそのまま訳すのではありません。日本語とドイツ語のように大きく異なる言語であれば、なおさらです。ですから、まずはふさわしい言葉遣いを探し当てることを念頭に置いています。もちろん、どれがふさわしいかというのは人それぞれで、決まったルールはありません。そこを感覚的につかみ取り、母語であるドイツ語に置き換えることが翻訳者としての仕事だと考えています。

村上春樹の物語のコンセプトは、彼自身の言葉を借りれば、世界と人間の存在の多層性といったような複雑なテーマであっても、分かりやすく表現し、読み手を本の世界に引き込むような書き方をすることです。ヴェルト文学賞の審査員の言葉を借りれば、「小説を通じてじっくりと考えを深めていく唯一無二の方法を確立させ、軽妙さと真面目な部分が同居したそのスタイルは、世界中の読者の心をつかんだ」のです。

最後に、村上さんと日本の読者の皆様方に、改めて受賞をお喜び申し上げます。

(訳:宇野将史

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 14:51
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

BMWデザイン部門
エクステリア・クリエイティブディレクター

永島譲二氏 インタビュー

永島譲二永島譲二
Joji Nagashima

1955年、東京生まれ。米国ウェイン州立大学工業デザイン修士課程修了。1980~86年オペル(ドイツ)、86〜88年ルノー(フランス)にてデザイン開発に携わり、88年からBMW AG(所在地ミュンヘン)デザイン部門へ。現在、同社のエクステリア・クリエイティブディレクターを務める。

世界屈指の高級車ブランドBMW デザイン部に在籍し、Z3ロードスター、5シリーズE39型(ともに1996年)、3シリーズE90型(2005年)、3シリーズGT(2013年)などのデザインを手掛けてこられた永島譲二さん。35年にわたり今日まで、カーデザイン界の第一線で活躍されていらっしゃいます。そんな永島さんの魅力に迫るべく、お仕事の話を中心にインタビューにお答えいただきました。 (インタビュー・構成 / 山口理恵)

「魅力ある自動車を造るルールは何もない。
そこがデザインのもっとも難しく、もっとも面白いところ」

5シリーズE39型 (写真提供 / BMW)
5シリーズE39型(写真提供 / BMW)

カーデザイナーを志したきっかけは?

子どもの頃から自動車が好きで、自動車の絵ばかり描いていました。中学校のときに初めて自動車デザインの専門的なコンペに応募し、その頃から、将来は自動車デザイナーになろうと思うようになりました。

永島さんが現在されているお仕事について、詳しく教えてください。

自動車のデザインは一般的に、ラフなアイデアスケッチから始まり、それが次第に詳しく具体的なスケッチとなってアイデアがある程度まとめられます。次にコンピューターによる3Dデジタルのモデルが作られ、このコンピューターモデルを検討して修正を加えたところで、実際の自動車と同じ大きさのクレイモデルを製作します。これにさらに修正が加わり、最終段階まで進みます。通常、以上のプロセスはコンペによって行われ、段階ごとに審査があり、選ばれたプロポーザル(提案)のみが先に進める形となります。仮に、始めは10のプロポーザルがあったとしても、最終的には1つの案に絞られます。私の現在の仕事は、こうした各段階のすべてにおいて全プロポーザルを監督し、デザイナーたちを指導する役目です。

「デザインする」ということにおいて、一貫して貫かれてきたことはありますか?

自分のポリシーとしては、魅力のある自動車を造るということ。当たり前に聞こえるでしょうが、自動車というのは美しければそれで必ず魅力的になるかといえば、そんな単純なものではありません。また、ファッション的に新しければ必ず魅力的になるかというとそれも違うし、機能的に優れていれば間違いなく魅力ある車になるかというと、それも違います。

例えば、ロンドンタクシーは、どう見ても美しい形でも新しい形でも機能的な形でもないですが、世界中の人があの車はいつまでもあのまま変わらずにいてほしいと願っている。それは、あの車のどこかに大きな魅力があるからでしょう。しかし一方、それとはまったく違う意味で、スポーツカーやレーシングカーにも魅力を感じさせるものがある。つまり、これを満たせば魅力あるものを造れるというルールは実は何もないので、そこがデザインのもっとも難しく、もっとも面白いところなのだと私は考えています。

現在、エコカー販売市場が急拡大しています。デザインする側にとってのメリット、デメリットというのはあるのでしょうか?

エコカーと一口に言ってもいろいろありますが、電気自動車に限って言うならば、デザイン上の代表的デメリットは大量のバッテリーを限られた寸法内に収めなくてはならないことです。メリットはデザインにとってはあまりないと言ってよく、ガソリンエンジンのようには冷却気が必要とされないので、フロントの造形に多少の自由度が与えられることぐらいでしょうか。

Z3ロードスター(写真提供 / BMW)
Z3ロードスター(写真提供 / BMW)

少しプライベートなことについても教えてください。永島さんが愛用されている「お気に入りのデザイン」のものなどはありますか?

何もありません。自分で使うものは、デザインなど気にしていません。

ドイツ国内でお気に入りの場所は?

かつて住んでいたヴィースバーデンです。ヴィースバーデンは戦災を受けなかった保養地で、古く美しい町並みが今でも見られます。かつてのドイツがいかに高い文化を持ち、軍政時代にいかにそのすべてが失われたかがよく分かります。

最後になりますが、もし、自動車に限らず、工業製品をデザインする機会があるとしたら、何かデザインしてみたいものはありますか?

何でもしてみたいです。(デザインするものが)何であれ、納得できる品が市場に出てほしいですから。

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 14:59
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

青木奈緖 特別エッセイ
過ぎてきた時

青木奈緖Nao Aoki
1963年、東京都生まれ。作家、エッセイスト、翻訳家。学習院大大学院修士課程修了。ウィーン留学後、翻訳や通訳をしながらドイツ・フライブルクに長期間滞在。98年に帰国し、『ハリネズミの道』(講談社)でエッセイストとしてデビュー。曽祖父は幸田露伴、祖母は幸田文、母は随筆家の青木玉さん。

ドイツから帰国してからの年数をずっと覚えていたのに、いつのまにか頭の中で計算して確認するようになった。それだけ歳月が流れたということなのだろう。多少の寂しさと、それを上回る懐かしさ、そして揺るぎない親しさを持って振り返ってみようと思う。

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大学でドイツ文学を学び始めた頃の私は、典型的な日本の学生らしく文法は多少理解していたが、会話はまったくできなかった。語学力のなさというより、口を開く勇気を持たなかったということかもしれない。

それから間もなく、知り合いがドイツ人留学生を紹介してくれた。私と同じくらいの歳の女性で、彼女はドイツ語を教えるアルバイトを探しているという。引っ込み思案の矯正のような感覚で私は時おり彼女に会って、たどたどしいドイツ語のおしゃべりをした。

それが縁で、彼女がドイツへ帰国してからも間遠な文通を続けた。メールではなく、文通という響きがなんともクラシカルだが、30年以上前はそれが普通だから仕方ない。

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大学卒業後の私は居残りのようなかたちで大学院へ進み、奨学金を得てドイツとオーストリアへ留学した。この頃の空路はまだ南回りの欧州便が残っており、アンカレッジ経由が人気だった時代。街角の電話ボックスから硬貨を握り締めてかける国際電話は、いくら早口で話しても、気が急いて無事を伝えるのが精一杯だった。

ドイツへ渡ったばかりの私を、友人は遠くの街から気に掛けてくれ、クリスマス休暇には実家へと呼んでくれた。それまで模造品のクリスマスツリーとアイスクリームのケーキしか知らなかった私に、ろうそくを灯した本物のツリーはきらきらとまばゆく、ほの暗い教会で開かれるコンサートやクリスマス市から漂うグリューワインのかぐわしさにドイツのクリスマスを実感した。

ところが、友人の実家に泊めてもらった私は日本にいたときの感覚そのままで、コーヒーか紅茶かという選択にも「どちらでも」と答えて友人の家族を困らせた。彼女は何度私に「それは自分で決めて」と言っただろう。これまでの自分がどれほど他人任せに生きてきたかを思い知る出来事だった。

それからようやく、質問されたときには何らかの答えをしようと心掛けたが、意見は日頃から努めて持つようにしなければ自然にわいて出てくるものではなかった。何も言わないことはゼロではなくて、むしろマイナスの評価が下されるということを身にしみて学んだ。

やがてドイツの暮らしにもすっかり慣れ、私はフライブルクで学生を続けながら翻訳のアルバイトを始めた。一方、友人は日本でかねてから興味を持っていた歌舞伎の研究をしながら家庭を持っていた。互いに話すときはドイツ語でも日本語でも、そのとき思いついた言葉を使って障りなく、次に会うのはドイツか、日本か、それともどこか別の国でも構わないけれど、という気楽さだった。

そんな日々で、はっきり記憶に残っているのは1995年の阪神淡路大震災である。私が日本の出身というだけで周囲の人たちは心配して声を掛けてくれたが、ドイツにいては実際には何が起きているのかよく分からず、一日中、ニュースをつけっ放しにしていた。そのテレビからふいに友の声が聞こえた。後から聞けば、当時、日本滞在中のドイツ人で手分けをして、ドイツからの急な取材に応えていたのだそうだが、画面には高速道路が倒壊し、煙を上げる神戸の街の静止画が映し出されていた。限られた情報がもどかしく、私は日本を遠く思った。どんなに交通や通信が発達しても、それなりの距離と時差が存在することを改めて感じずにはいられなかった。

それから3年余り経って、私は日本での出版を機に帰国した。ドイツでの暮らしは足掛け12年になり、自分の努力で身に付けたドイツ語で生計を立ててゆこうと思えば、それなりに可能かもしれなかった。問題はむしろ、気持ちの上で遠くなる一方の日本との距離で、このあたりで何か行動を起こさなければ、私は日本にはもはや精神的に属さず、ドイツ人にもなりきれない根なし草になりそうな感覚があった。

友人は日本で子育てに奮闘しながら歌舞伎の研究を続けていた。帰国した私は時おり会っておしゃべりをしたり、彼女が催す食事会に参加したり。お互いに忙しいけれど、穏やかな日々がずっと続くように思われていた中で、私は思い掛けなく結婚し、そうこうするうちに彼女は長い日本生活を切り上げて家族全員でドイツに戻ることになった。

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今、私は日本でもの書きをし、彼女はドイツで大学に勤め、それぞれ充実した日々を送っている。2つの国に別れてはいるが、どちらかと言えば互いに不在になっているドイツと日本の暮らしを補い合っているような感覚だろうか。そしてどちらの国で再会しても、「ただいま」「おかえり」と挨拶ひとつ交わすだけで、それが1年ぶりであろうと、もっと長い間のご無沙汰であろうと、まるで昨日からの続きのようにお互いに受け入れて違和感はない。

振り返れば35年が経とうとしている。おそらく私たちはこのまま歳を重ねて、いつの日かしみじみとドイツと日本の長い友情を語るのだろう。

ドイツ

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 13:16
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

岡崎慎司 - 負けを認め、続く挑戦!!ドイツで再び花開いたストライカー

VfBシュトゥットガルトから
1. FSVマインツ05に移籍し、
輝かしい活躍でブンデスリーガに
改めてその名を轟かせている岡崎選手と
4年ぶりに再会した。
弾ける笑顔の裏にある苦悩と、ゴールへの渇望。
今、乗りに乗っているストライカーから、胸に抱く想いを聞いた。
(編集部:高橋 萌)

岡崎慎司インタビュー

2013/14シーズン最終節のハンブルク戦で15得点目を決め、喜びを爆発させる岡崎選手

血液型:O型
身長:174cm
体重:76kg
現所属: 1.FSV Mainz 05
ポジション:FW / MF
背番号:23
利き足:右足
www.mainz05.de

Shinji Okazaki

1986年、兵庫県宝塚市生まれ。小学2年生の頃からサッカーを始め、サッカーの強豪として知られる滝川第二高校に入学。3年連続で全国大会出場を果たす。2005年、高校卒業と同時に清水エスパルスに入団。2008年からは日本代表に選ばれ、2015年3月末までに91試合に出場し、通算43得点を決めている。2011年AFCアジアカップで優勝。その直後、同年1月に渡独し、VfBシュトゥットガルトに移籍。2013年から1.FSVマインツ05に所属。

人口20万人、小さくも歴史ある古都マインツに本拠地を置いて110年。カーニバルに情熱を燃やすこの町の人に愛され続けてきたサッカークラブは、創立100年の年に初めてブンデスリーガ1部に昇格した遅咲きの老舗クラブだ。ホームスタジアムは、2011年に完成した約3万4000人を収容するコファス・アレーナ。四方を農地に囲まれた平地に突如現れる、スタジアムの鮮やかな赤が遠目からもよく分かる。

今回、取材のために訪れたのは、ブルッフヴェークシュタディオン。コファス・アレーナができる前はこちらがホームスタジアムだったが、老朽化を理由に使われなくなった。その裏に練習場はある。ビッグクラブと言われるチームに比べると、環境が整っているとは言い難いかもしれない。

平日の午前中、熱心なサポーターに見守られながら行われた練習では、監督やコーチから細かい指示が飛び交う。「監督が代わってから、よく声が出るようになったよ」とは、マインツ・サポーターの言葉。2月17日にカスパー・ヒュルマンド氏が解任され、マルティン・シュミット氏が監督に就任。その体制下での初勝利、しかもこれがフランクフルトとのダービー戦だったというおまけ付きで、明るい雰囲気に包まれていた。この大きな変化を岡崎選手はどう受け止めたのだろうか。

シュミット監督については、そうですね。面白い監督だと思います。トーマス(トゥヘル監督)がいた頃は、キャンプ中の息抜きみたいなときに皆の前に出て歌ったり、そういう盛り上げ役のようなことをしていた姿も見ているし。そもそもトーマスが連れて来た人なので、似ている部分もいっぱいありますよ。厳しいところは厳しく言うし、ミスに対する指摘も鋭い。そういう意味では、前が静かな監督(ヒュルマンド氏)だったので、まただいぶ違うタイプ。チームの雰囲気も変わったと思います。

逃げじゃなく、負けを認めて、次の場所でリベンジ

シュトゥットガルトからマインツに移籍したのが2013年のこと。岡崎選手の獲得を熱望したのが、次期ドイツ代表監督との呼び声も高い知将トーマス・トゥヘル監督(当時)だった。岡崎選手が実際に移籍を決意するまでには、やはり葛藤があったと言う。

シュトゥットガルトでは、移籍するだいぶ前から出場機会が減っていたんです。でも、監督(当時:ブルーノ・ラッバディア)からは期待されていると思っていたし、自分もこのチームの状況(降格争い)ではほかのチームに移りたくないなという思いがあって……。あと、試合に出られないから移籍するっていうのは、自分の中では嫌だったんです。逃げているみたいで。ただ、求められていることが本当にいっぱいあって、その中で自分が本当に求められている部分が分からなくなった。やっぱり自分は、ここにいてもきついなと、最終的に判断したのは最後の2、3試合でした。代理人に移籍の相談をすると、ちょうどマインツが獲ってくれるということだったので、決めました。

前回のインタビューでも、「自分がしっかり守備に返ってあげて、そこから攻撃に移る」必要があると話していた。得点しなくても、監督にバランスを取ったプレーを評価されるとも。しかし、その監督の評価の軸がぶれたと感じた。

自分はどちらかというと、監督に求められていることをするタイプの選手だと思っていて、監督さえ自分を理解してくれていたら、移籍せずにとことんチームのためにやれるっていう思いはあったんです。  

ただ、自分が今、一番欲しいものは何だ? と自問したとき、やっぱり点が欲しい! そのために、環境を変えたいという思いが強くなりました。逃げじゃなくて、負けを認めて次に進む。次の場所で絶対にリベンジしてやるっていう思いで、移籍しました。

ブンデスリーガ日本人最多得点記録を更新!

岡崎選手の持ち味として、その献身的なプレーと運動量が挙げられる。シュトゥットガルト時代は、そこに多くを求められていた。しかし、マインツが求めたのは岡崎選手のゴールへの嗅覚。「彼は本物のFWだと思う」、そう評価し、トゥヘル監督は岡崎選手をワントップに起用した。移籍直後の2013/14シーズンは、振り返ってみれば1シーズンで15得点と、ブンデスリーガ日本人最多得点記録を更新していた。

マインツに来てからはもう得点だけを求め、そこにこだわろうという思いが、結果に繋がりました。「お前に求めるのはゴールだけだ」と、トゥヘル監督が言い続けてくれたことも大きいです。ただ、シュトゥットガルト時代の癖というか、いろんなことが見えてしまって、思い切ってゴールまで行けなかったり、チャンスが来たときに外してしまったり。移籍直後、10試合で1得点だけという時期は、そういう悩みをまだ引きずっていました。すでに練習のときから、何となく点が取れない雰囲気があって、自分の中でそういう感覚があるときは、やっぱり点が決まらない。

FWなら、とことんゴールを目指さなければいけない。そんな風に意識を切り替えてから、自分自身は変われたように思います。もっと自分らしくプレーしようと。また、海外に出てきて初めてワントップに立たされたことで、清水エスパルス時代のFWの感覚を取り戻しつつあることも感じていました。その後は、ゴールを決めることで、自信を取り戻していきました。

(ブンデスリーガ日本人最多得点記録の更新については)やっぱり、何も残せずに日本に帰るのは嫌ですし、年齢的にも残された時間は少ない。何より一番大きいのは、記録という確かなものを得て、海外でやっていけるという自信を持てたということですね。簡単なゴールばかりではなく、自分の中で感覚を研ぎ澄ましてこそ、決めることができたゴールも味わってきました。日本でも1シーズン14得点が自分の最高記録だったので、その記録をドイツで更新できたというのも、分からないものですね(笑)。

ゴールが選手にとって自信の源であることを知る岡崎選手が、粋なプレーでサッカーファンを魅了したのが3月31日の国際親善試合JALチャレンジカップ。この試合で、ウズベキスタン代表と対戦した日本代表のFWとして岡崎選手も出場し、5-0で快勝した試合の2点目をダイビングヘッドで決めた。そして3点目、柴崎岳選手が放った超ロングシュートをゴール前にいた岡崎選手はあえて触らずに守った。「自分もそうだけど、ゴールを決めるか、決めないかがバロメーターになる。次のモチベーションになればと思った」と。

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満足しない、コンプレックスを抱えて前へ

2014年のワールドカップ・ブラジル大会(W杯)、そして今年のアジアカップ、目標にしていた舞台では期待した結果が得られなかった。

W杯もアジア杯も、ものすごく意気込んで行ったのに結果を残せず、本当に消化不良というか、どれだけこちらが意気込んだからといって、結果がついて来るわけじゃない。それなら、真剣にというのとは逆に、もっと気楽に臨んだ方が良いのかもしれません。もちろん、気合いを入れ、気持ちを出すというのは自分の持ち味でもあるので、それはそのままで。だけど、得られた結果に対してイライラしない方が良いんです。負けを受け入れ、すぐに消化して、次に向かっていくことが大切だから。

今期も第28節終了時点で10得点を決め、2季連続で2桁得点を記録。ブンデスリーガに移籍してからは通算記録を35ゴールに伸ばし、奥寺康彦氏が打ち立てたブンデスリーガ日本人最多得点記録を29シーズンぶりに更新。歴代単独トップに立った。日本代表としては通算43ゴールで歴代3位。歴史に名を残す選手となったことはもはや疑いようがないが、まだまだ満足していない。

サッカーは勝ったり負けたりするスポーツなので、常に満足しないというか、たぶん(現役)最後まで満足しないんだろうと思います。今のままではいけないという、そういう危機感に駆られているし、自分の才能、身体能力に対しては、今でもたくさんのコンプレックスを抱えています。ただ、自分にできることはと言えば、1日1日をきちんと充実したものにできているかどうか、それだけなんだろうとも思います。

読者の皆さんへのメッセージ

海外でサッカーをやるということは、それ自体が自分の中ではチャレンジで、それがすでに4年間続いている。良いときも悪いときもあるけど、常に充実していて、海外のサッカーをすごく楽しんでいます。これからも、もっと結果を出せるように頑張っていこうと思っているので、ぜひマインツに足を運んで、応援しに来てください! よろしくお願いします!!

「シンジがチームに残ってくれて本当に良かった」。今季開幕前、プレミアリーグへの移籍が噂され、サポーターも気をもんだ。「彼はやってくれる選手だよ。いつも一番最後まで練習しているのはシンジなんだ」。マインツは、岡崎選手のことをちゃんと見ている。

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 11:16
 

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